Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

モスクワに来たらツァリツィノへ行こう

2013-05-31 02:26:57 | お出かけ
ツァリツィノ(ツァリーツィノ)という所に行ってきました。元はエカテリーナ2世の命で築城された離宮ですが、完成せずにそのまま放置されていたところ、近年になって公園として整備され、現在は観光名所となった場所です。「観光名所」と書きましたが、有名なガイドブック『地球の歩き方』には掲載されていないので、日本人には馴染みの薄い名前かもしれません。でもモスクワっ子には当然よく知られていて、モスクワ中心部からメトロに乗って南へ20分ほどで行けます。途中には世界遺産のコローメンスコエもありますが、今回はここを素通りして更に先へ。

一言で言えば、すばらしい公園でした。
入口をくぐるとまず見えてくるのは巨大な噴水。



音楽に合わせて水が踊るように吹き上がります。

噴水を過ぎ、しばらく歩くと博物館があります。



この先では子どもたちの楽隊が演奏を披露。



そしてここから先は広大な緑地が広がっているのでした!





この画像ではうまく伝わらないのですが、まるで山岳地帯の牧草地のように長閑な場所でした。山羊や羊が出てきそうな雰囲気と言えばいいでしょうか・・・。緑地は起伏に富み、しかもそれがなだらかで、心地よい。水着姿で日光浴している人もちらほら。

この「牧草地」を過ぎて少し歩き、池にかかる橋を渡ってから振り返ると、美しい景色。



いやあ、すばらしい公園でしたね(何度も言うけど)。モスクワに来たら、ぜひ一度はこのツァリツィノに行くべきです。今日は3時間くらい散策しましたが、まだまだ歩き尽くせないほど広大な公園でした。天気もよかったし(ほぼ一週間ぶりに一日中晴れていた)、行ってよかった。

だるい日

2013-05-30 03:52:04 | Weblog
ああ、今日は一日だるかったなあ。何もできなかったなあ。だからせめてブログくらいは更新しておこう。

自分が何もできないのに、人が何かをしていると落ち込む。しかもそれが自分のやるべきことや好きなことであるのならば、尚更。例えば誰かが論文を書いたとか、あるいはもっと簡単なことでもいい、アニメを見たとかね。

小説を読むのは半ば諦め気味ですが、最近はアニメーションを見ることもそうなりつつあります。最近と言ってもここ何年かのことですが。辛い辛いとはよく言うけれども、アニメを見たり小説を読んだりしていられるうちはまだいい方なのです。本物の倦怠感や虚無感というものに襲われれば、そんなものに見向きしなくなるから。自分の場合はその魔手が肩にかかっている状況かなあ。もはやそれを払いのけられるほどの意欲はないので、すっかり取り込まれてしまうのも時間の問題かも。

それにしてもだるいなあ。明日は朝一番で授業があって、その後そのまま外出する予定。だから、この気だるさは寝て起きたら回復してもらわないと困る。まだ11時だけど、もう寝ます。

隣人、去る。

2013-05-29 03:21:17 | Weblog
隣室の中国人が、6月1日に部屋から出ていくそうです。と言っても帰国する訳ではなく、引っ越すだけ。と言っても同じ寮内だけど。5階から2階への移動。「どうして?」と聞いたら、このブロックには法学部しかいないからだ、と文学部の彼は答えました。「それにお前ももうすぐ日本に帰ってしまうしな」。

2階の新しい部屋に荷物を運ぶのを手伝いましたが、その部屋が余りに大きいのにまずびっくり。そしてトイレが綺麗なのにまたびっくり。彼によれば、2階はもともと来客用のスペースであり、そのため他の階よりも広く綺麗であるとのこと。それにしてもこんな部屋があったとは・・・だって床には絨毯が敷いてあるんだよ。いいなあ。どんな交渉術を使ってこの部屋に住まわせてもらえるようになったんだろうなあ。現在の彼の部屋にしても、隣室であるぼくの部屋よりも格段に綺麗なんですよね。板張りの床は光沢があり、壁紙も剝がれていない。ぼくの部屋の床は、小学校の教室のそれよりも余程汚いのに対し、彼の部屋の床は、小洒落たオフィスのそれを髣髴とさせます。なぜ隣同士でこうまで違うのか甚だ疑問ですが、ともかく羨ましい。

今日は食堂で久々に夕食を共にしましたが、もしかしたらこれが最後かもしれないな。夏の休暇中は中国に帰って友人の映画撮影を手伝う予定だと話す彼は、ロシア生活には不満だらけで「部屋は汚い」「食事はまずい」「退屈」をいつも連発してますけれども、少なくとも君の部屋はおれのよりもマシだよ、といつも思うのでした。

さらば、トーリャ。この寮には君しか話し相手がいなかったから、いなくなるのは寂しいけれども、やがてぼくもこの部屋を出て行くよ。そして日本に帰るんだ。

日本食レストランに行ってきた

2013-05-28 04:09:43 | お出かけ
最寄駅にも日本食レストランがあるのですが、今日行ってきたところの方が、あらゆる面で数段上でした。というか、これが本物の日本食レストランというやつだ。美味しい。せっかくなので色々と注文して食べてみましたが、外れがなかったですね。それどころか、予想の斜め上を行く美味しさ。その代わりに支払額はけっこう高くなってしまったのですが、でもそれくらいの価値はあった。個人的にはサーモン丼を食べられたので満足。

店内もきれいで、広々としていました。もう一度行ってみたいくらいだけど、さすがにもう機会はないかなあ。もちろん機会は作ればいいのかもしれませんが、ただそろそろ帰国準備を始めるという頃に日本食レストランに何度も行くというのはどうかと。むしろロシア料理屋に足を運ぶべきじゃあないのかなと。

そういえばグルジア料理屋にももう一度行っておきたいなあ。どうせなら日本では滅多に食べられないようなものを食べておきたいですね。美味しそうなお店を後で調べておこう。

と、なんか帰国モードですが、帰るのは7月なので、まだ一応一月以上は残っているのです。でも来月になったら自分の中でカウントダウンを始めそうな気が。やれやれ、今週末から6月に突入だ。4月と5月は早かったなあ。6月はもっと早く感じるかもしれない。

本当のことを書く

2013-05-26 05:11:56 | お仕事・勉強など
迷っていたのですが、本当のことを書いて、ありのままの気持ちを晒したいと思います。

今年の初めに投稿した論文が先月ボツになってしまって(と書けば、何の雑誌に投稿したのかは関係者には自明だと思います)、悲しい思いをしたのですが、色々と思うところがありました。

まず考えるのは、自分には才能がないのだろうか、という不安。やはりこれです。ロシア語もできない、論文を書く能力もない。何の取り柄もない。だったら研究者になることはできないのではないか。もともと望んだ道ではないのだし。いや、「望んだ道ではない」と言って自分の逃避を肯定しようとしているだけなのかもしれない。

それから、査読して下さった人から言われたのが、自分のやりたいことをやっていますか、ということ。前にも同じようなことをぼくは言われたことがあります。ぼくはアヴァンギャルド芸術を扱っていて、今は特に詩を研究しています。ですが、もともとぼくはアヴァンギャルド芸術がそんなに好きではないし、詩は日本語でだってあんまり読んだことがない。つまり、自分のやりたいことをやっていないわけです。なぜか。ぼくがアヴァンギャルド詩に首を突っ込んでいるのは、研究対象にしている作家がアヴァンギャルド詩を書いているからです。この作家は後年散文に移行しており、その散文に興味があって研究を開始しましたが、この作家について研究するからには苦手分野にも取り組まないといけないと思ってアヴァンギャルドについて勉強を始めました。しかしやはりこれは自分のやりたいことではないのです。それでも論文として残せれば、ぼくの「血と汗」も報われるのですが、結局それも叶わなかった。この2~3年間は何だったのだろう。徒労感。

話がやや脱線しますが、昔遊んだRPGとぼくは同じことをやっているのです。つまり、平均的なレベルの、平均的な能力のパーティを作ってしまう。例えば剣術が得意なキャラクターがいたとして、彼はその代わり魔力が弱いとします。そうすると、腕力や体力のレベルを徹底的に上げて敵と戦うのが普通ですが、ぼくはそうはしない。魔力のレベルも並行して上げるのです。

好きなこと・得意なことを伸ばすのではなく、弱点を補おうとしてしまう。結果、平均的な能力しか得られない。高校までの勉強だって同じです。ぼくにはあまり「穴」がない。この教科、この分野が際立って不得意ということはなかったのです。模試などでよく不得意分野を明示する円グラフがありますが、あのグラフがぼくは真円に近いのでした。

でも、初め苦手だったものに対してはいつまで経っても苦手意識は抜けないものです。それが不安になる。ぼくはアヴァンギャルド芸術が苦手だ。それに対する理解やその知識に関しては、まるで自信がありません。だから臆病になってしまう。自分の意見を主張することを躊躇ってしまう。先行研究で誤魔化そうとしてしまう。そうして「自分のやりたいことをやっていますか」と問われることになるのです。

いえ、ぼくはやりたいことをやっておりません。でも、この作家を研究するには、やりたくないこともやらなければいけなかったのです。ただし、それは結果には結びつかなかった。やはり自分の選択は間違いだったのだろうか。好きなことだけやるべきなのだろうか。得意分野を徹底的に伸ばすのが研究なのだろうか。

いつの間にか、そのやりたいことってのもよく分からなくなりました。ぼくは道を見失ってしまったようなのです。

チェーホフと世界文学

2013-05-25 04:21:20 | 文学
『チェーホフと世界文学』という三巻本がロシアで出版されていることを知りました。今日、書店に行ったらその第二巻と第三巻が置いてあって、思わず手にとって見てしまった次第。随分巨大な本で、しかも第一巻がなかったので購入しませんでしたが、世界各国におけるチェーホフの受容が扱われているようでした。

日本では、今年に入って『チェーホフの短篇小説はいかに読まれてきたか』という本が刊行されたようですが、分量的にはこの本の比ではないですね。さすがロシア本国だけあって、ものすごい研究書があるもんだ。

欲しいなあ。でも巨大過ぎるんだよなあ。一巻だけないというのも間抜けだよなあ。う~む、迷う。

ちなみに目次を見ると「日本」もあって、そこには柳富子さんと佐藤清郎の論文の翻訳が掲載されていました。

ああ、やっぱり買っておけばよかったかなあ。それにしても第一巻の内容ってどんなのだろうなあ。ロシア本国での受容を扱っているんだろうか・・・。もう一度この書店に行ってみようかなあ(やや遠いんだよなあ)。ああ、迷う。

・・・・・・・・・・・・・・

夕方から雷雨。小止みになるのを待って歩き出しましたが、駅の近くの道路が川になっていた! 渡れないので、ぐるりと迂回することに。しかし、迂回先の道路も川! ちっくしょうめえ、と頭にきましたが、仕方ないのでつま先立ちで川を渡る。でも当然靴も靴下もびしょびしょになってしまった。ズボンの裾もね。モスクワの道路事情の悪さは、晴れていれば笑い飛ばして終わりですが、雨の日は怒り心頭。なんでこんな馬鹿げたことになるのだ。

それにしてもここのところ毎日が雷雨。

これはカレーではない

2013-05-24 02:11:32 | Weblog
しまった、やはり写真を撮っておくべきでした。そしてその画像を掲げて、その下に「これはカレーではない」と一行入れれば完璧だった。

今日、「アジア・カフェ」というカフェで「カレー」という名前の料理を食べてきました。その「カレー」という名前の料理は、ご飯の上に毒々しい真黄色の液体がかかっていて、鶏肉がその液体と一緒に煮込んでありました。そこにはじゃがいもらしきものもごろごろしていて、ぼくの念頭にある「カレー」とは大分異なっているものの、しかし「カレー」であろうと思って一口食べたところ、それが「カレー以外の何物か」であることが分かりました。まず、カレーの味がしない。たぶんカレールーを使用していない。スパイスもない。じゃあ何の味かと言われれば困るのですが、やたら甘ったるく、ココナッツバターを溶かしたような感じ。そして妙に油っぽい。それから、じゃがいもだと思って口に入れた「それ」は、シャキシャキしていて、最初は生煮えかと思って嫌な気持ちになりましたが、まもなく「それ」がフルーツであることが分かってもっと嫌な気持ちになりました。一緒に食べに行った人は「パイナップル」だと言い、ぼくは「リンゴ」であるように思いました。いずれにしろ甘く、フルーティで、そして大量にあったのです。

「これほどまずいカレーは食べたことがない」とは言いません。というのも、ぼくは「それ」をカレーとは認めないから。「カレー」という名前の、「カレー」とは別の食べ物なのです。いや人間の食べ物なのかさえ疑わしいレベル。

ぼくが危惧するのは、ロシア人が「カレー」と聞いて思い浮かべるのが「これ」なのかもしれない、ということ。ロシアでカレーを食べる機会はほとんどないので、彼らはそれがどんなものなのかあまり知らないと思うのです。名前だけは聞いたことがあるけれど、どんなものなのだろうと「アジア・カフェ」でこの「カレー」を注文してしまったら・・・!ああ、悔しくて悔しくて堪らないよ。これは「カレー」じゃあないんだ。全然別物なんだよ!

ロシア人は辛いものが苦手という話を聞くので、カレーはロシアには根付かないと考えている人も多いでしょうが、でもぼくはもっとカレーを輸出するべきだと思ってます。そしてこんな紛い物を早急に排除してもらいたい。いくらなんでもこれは不味すぎるよ(味が)。

ひもじい

2013-05-23 03:37:49 | Weblog
何とも不景気なタイトルになってしまいましたが、モスクワで暮らしていると、度々ひもじさを感じることがあります。例えば今とかね。

美味しいものが食べたい。毎日が寮の食堂だと、ほとほとうんざりしてきます。メニューが乏し過ぎておんなじものしか食べられないですから。もちろんたまには外食することもありますが、モスクワでの外食は高くつくので、値段を気にしてしまって食べたいものが食べられないのです。

そんなわけで、度々ひもじくなってしまうのです。思えばこのくらいの時間帯(22時前後)であることが多いですかねえ。ちょうどお腹の空いてくる頃。でももう今日は何も食べられない時間帯。おやつでもあればいいのですが、生憎切らしてしまっていて、チョコレートの一かけらすらありません。

あひー、ひもじい。

明日はせめてお菓子くらいは買い足しておかないと。というかパンを買っておかねば。

くっそう、寮だったら0時まで営業している売店くらい1階に置いてくれればいいのに・・・。この寮の売店は不定期営業で(閉まるのも早い)、しかも品揃えが悪すぎる、日本ではちょっと考えられないくらいに。常に何かが不足していて、仮に全部揃っていたとしても、あるのはアイスクリームと水、ジュース、板チョコ、ポテトチップスくらい。でもこれらが全部揃っていることは滅多になくて、ある日は水がなかったり、ある日はポテトチップスがなかったりする。両方ないときもある。そして週3日くらいは閉店している。

だからこの寮の売店は当てにできないので、結局外に買い物に行かなくてはいけない。売店ではパンすら売っていないのだから。

いやほんと信じられないよ。こんな不便なところ。日本が豊かになり過ぎてしまったんだろうなあ。そしてその生活に慣れ過ぎてしまったんだ。日本のような国から、先進国以外の国に留学するというのは、生活面でやはり非常な苦労がありますね。

パトリアルシエ湖

2013-05-21 03:28:43 | お出かけ
今日はロシア人の友達とソユーズムリトフィルムを見学する予定でした。で、実際に足を運んでみたところ、もう見学できないと言われてしまいました。もともとこのアニメーションスタジオはソ連時代に多くの良質なアニメーションを制作していましたが、現在は既に現役ではありません。でも博物館として機能しているという話をどこかで聞いたので、訪れてみたのですが・・・惜しいことに、今年の1月までは本当に博物館だったらしいのですが、もうそうではなくなってしまったらしいのです。残念。

そこで、パトリアルシエ湖というところに行くことになりました。湖というか、街中の公園です。ここはブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』の舞台になった場所で、有名な公園なのです。そういう場所があるという話は聞いたことがありましたが、行くのは初めて。

案外小さな公園でしたが、ここから『巨匠とマルガリータ』の壮大な物語が始まったのか、と思えばちょっとした感慨も湧いてくるもの。・・・だといいのですが、大した感慨も湧いてこなかったのはどうしてだろう。それよりクルイロフのでっかい銅像があったのが印象的。

寮のエレベーターに乗っているとき、ハルヒのバッジを胸に付けている女性がいたので、「ハルヒ好きなの?ぼく日本人なんだよ」と言ってみたら、「あなたも観た?」と聞かれたので、「もちろんさ、すごいおもしろよね」と返しておいた。自分の階に着いてしまったので、ここで会話は終了。「じゃあね」と言って別れたけれど、もっと話したかったなあ。

・・・・・・・・・・・・・

最近、夕方~夜に雷雨が多い。今も稲光と雨。夏が来ているということなんでしょうか。

RIGHT PLACES ~その時、ぼくの居るべき場所~

2013-05-19 02:51:09 | アニメーション
RIGHT PLACES ~その時、ぼくの居るべき場所~


こういうのがあったとは、寡聞にして知りませんでした。
ポーランド人の若者が監督。

新海誠監督の影響っていうのは、ぼくが思っていたよりも余程広範に及んでいるのかもしれないなあ。ロシアにも新海さんの作品が大好きって人はいっぱいいるし。

何かが間違っている

2013-05-17 03:14:12 | 本一般
今日も書店巡り。

3軒の予定で巡りましたが、その内の1軒がどうしても見つかりませんでした。住所は完全に合っているのですが、書店の影すらありません。人に尋ねてみました。「書店はどこにあるのですか」「ここにはないよ」終了。

それから近くの警備員にも聞きました。
「書店はどこにあるのですか」
「何の店だって?」
「書店です」
「ここにはないよ」
「前ここにあったと聞いたのですが。『エイドス』という名前です」
「ここにはかつて書店があったためしがないよ」
「そうですか、ありがとうございました」
終了。

おかしいなあ。住所が間違っているのか。今はもうなくなってしまったのか。警備員が勘違いしているのか。

ネットで検索してみても、該当する書店のHPは見つかりませんでした。幻のエイドス。

鳴神

2013-05-16 02:49:20 | Weblog
鳴る神というのは雷のことですが、今日は学校帰りに物凄い雷雨に遭いました。でも20分くらいで収まったので、運が悪かったですね。日本にいたときも、夏はときどき夕立に遭ったものです。傘がなくてびしょ濡れで帰宅したこともありましたっけ。でも今日は、きのう買ったばかりの折り畳み傘で何とか凌ぐことができました。猛烈な横風で傘がひん曲がってしまいそうでしたが、風が強過ぎたために雨が一方向からしか来ず、あんまり濡れないで済みました。ただほとんどの人は傘を持っていなかったようで、寮に帰ってきたばかりの人たちは、皆びしょびしょでしたけど。

きのうは30℃まで気温が上昇したそうです。今年初ですね。しかし来週からはこの高温はひとまず収まり、20℃程度の日が続く予報が出ています。当たるかどうかは分かりませんが、25℃くらいで一定してくれれば一番ありがたいですね。

そろそろ帰国準備のことで本格的に頭を悩ませ始めています。何事も他人事として考えられれば気楽なんですけどねえ。やはり自分が可愛いのか、というか人一倍臆病なせいか、深刻になりがち。大体にして自分のような気質の人間は留学に適していないと思っているので、気苦労が絶えません。

鳴る神

2013-05-14 17:51:16 | アニメーション
言の葉の庭


万葉集第11巻問答より

なるかみの すこしとよみて さしくもり あめもふらぬか きみをとどめむ

鳴る神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ

雷が少し轟き、曇ってきて、雨でも降らないかしら。あなたを引きとめられるのに。

  これに対して――

なるかみの すこしとよみて ふらずとも わはとどまらむ いもしとどめば

鳴る神の 少し響みて 降らずとも 我は留まらむ 妹し留めば

雷が少し轟き、雨が降らなくても、私は留まりますよ。あなたが引きとめて下されば。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

50分にも満たないアニメーションだというのに、冒頭約5分に見られるこの「間」の使い方はどうだ。それにしても背景が・・・これはウルトラリアリズムか。アニメーションや絵画において「実写みたい」という評価は必ずしも褒め言葉ではありません。新海監督の背景は、実写以上です。現実を凌駕する美。あたかもアダムが初めて世界を目にしたときのような、言語を絶する美観。

新海監督は光の表現に特徴がありますけれども、今作では「雨」を描くということで、太陽光を表現する機会は少なくなりそうですが、しかし雨や曇りの中にさえ光はあるのだ、ということは冒頭5分を見ただけで納得させられます。

傘を失くして本を買う

2013-05-14 02:45:41 | 本一般
最近、暑いです。先週までは寒いくらいの日もあったのに、ここ数日で一気に気温が上昇しました。先週と比べて20℃近く上がってますよ。もっとも、このくらいの気温で一定してくれればそれはそれでありがたいですね。28℃くらいで。

一部の天気予報では雨の予報も出ていたので、傘をリュックの脇ポケットに突っ込んだまま学校に行ったら、いつの間にか無くなっていました。どこで落としたのか見当もつかないけれど、もともと危ういとは感じていたのです。ちょっとポケットが浅いんだよなあ。ちなみに今日はカンカン照りでした。で、今週は「水・木・金」と雨の予報が出ているので(晴れと予報しているところもある)、傘が必要になるかもしれないのですが、そういえば傘ってどこで売ってるんだ?日本では至るところで傘を目にしますけれども、モスクワでは・・・。街頭かな?でも雨が降らなければ街頭で販売しなさそうだなあ。スーパーとかでは見た覚えがないんですが、単に目に入らなかっただけかなあ。う~む。明日中に買っておきたいんですが、どこで入手すればよいのやら。

とまあ、災難な日だったわけですが、一方で僥倖もありました。欲しかった本を購入できたのです。午後はメトロに乗ってモスクワ中心地へ、書店を開拓してきたのですが、その最初のお店で、喉から手が出るほど欲しかった作品集を購入。初め、その作家の別の本を手に取ったら、お店の人が「こっちは作品集よ」と言って見せてくれたのです。驚きました。現在ネット書店でも入手不可能なので、半ば諦めていたのですが・・・。「稀少な本よ」と言う割には700ルーブルでそんなには高くなかったのもよかったですね。まあ、結局このお店では1700ルーブル使いましたが。

3軒目のお店も品揃えが充実(2軒目は省略)。ここでは2900ルーブル使いました。つまり、合計で4600ルーブル(ちなみに10冊)。日本円にして15000円くらいでしょうか。普段はこんなにお金を持ち歩かないのですが、今日はたまたまお金をおろした日だったので、たくさん持っていたのが幸いしました。一冊で1800ルーブルくらいする高価な本があったので、ここまで金額が跳ね上がりました。

自分が貴重な本を持っていても、いわゆる「宝の持ち腐れ」というやつかもしれませんが、でも図書館や書店で本を眺めたり購入したりするのは好きなんですよねえ。死ぬときはどこかの大学図書館に寄贈しよう(あるいはナウカか日ソに)。

ぼくらの鎮魂歌

2013-05-12 04:26:30 | アニメーション
日本時間5月11日深夜3時15分より、新海誠監督『雲のむこう、約束の場所』が地上波初放送されます。ぼくは生憎モスクワにいるため視聴することができませんが、いい機会なのでこの作品について思うことを書いておきたいと思います。とはいえ、もう何度もブログで記事にしているので、繰り返しになってしまう部分も多いと思いますが、でも今回は、ぼくにとってのこの作品の核心について触れてみたいと考えています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いつも何かを失う予感があると、彼女はそう言った。――映画はヒロキのこのモノローグで始まり、現在のヒロキが過去を回想するという形式で物語は動き出します。まもなく舞台は青森の中学校に移り、そこでサユリが宮澤賢治の「永訣の朝」を朗読している風景が映し出されます。「永訣の朝」は、賢治が病床にある妹のトシとの永訣、すなわち死別を語った詩です。賢治が最愛の人を喪失してしまうことを嘆いた詩と言ってもいいでしょう。『雲のむこう・・・』の冒頭には、こうして「喪失感」というものが複数刻まれているのです。モノローグの内容、回想という形式、そして永訣の朝。

したがって、この映画は何らかの「喪失」を巡る物語だと捉えることができます。では、何を喪失する物語なのか?恐らく、ここには幾つもの答えがあると思います。あるいは初見では、主人公たちが何を喪失したのかを把握できない視聴者もいるかもしれません。ですが、ぼくはこの作品にはっきりと喪失の哀しみを見ます。それは取りも直さずぼく自身の喪失と一致しているからです。これは、ぼくの過去の物語なのであり・・・いや「ぼくら」の物語なのです。過去の、そして現在の。『雲のむこう・・・』で描かれた物語は奔流のようにぼくらの人生に流れ込んできて、混ぜ合わさります。正確に言うならば、奔流となったのは「物語」というよりは「感情」であり、そこで描かれ醸成された感情、感覚、感受性といったものが、ぼくらの人生と激しく呼応するのです。だからこの作品を語る際には、ぼくはぼくの人生について語らなければならない。それほどまでにこの作品はぼくの内面と共鳴し、倍音化している。そんな作品は、(文学等あらゆるジャンルを含めても)ほとんど皆無に近いです。

ぼくは、君に好きだと言いたかった。中学のときは、自分の気持ちが「好き」なのかどうかよく分からなかったけれど、離れ離れになってみて初めて、ぼくは自分が君のことを心から好きでいたということに気が付いた。でももう手遅れだった。ぼくは君に「好きだ」と言いたかったけれども、もうその言葉は絶対に君に届かないのだ。

『雲のむこう・・・』において、サユリは夢の中でずっとヒロキを求めています。どんなに私がヒロキくんのことを求めていたか、好きだったか、それをあなたに伝えたい。彼女は眠りながら、そう欲しています。ところが覚醒の瞬間、彼女はその自分の切実な感情を忘れてしまうのです。そのことは眠りから覚めた最初の台詞が如実に物語っているでしょう。「藤沢くん」と彼女はヒロキのことを呼ぶのです。夢の中ではあんなにも親しみを込めて「ヒロキくん」と呼んでいたのにもかかわらず、現実世界では、再び「藤沢くん」と名字に逆戻りしてしまうのです。この些細な、しかし決定的な転換。「忘れちゃった」。彼女はそう言って涙を零します。これが彼女にとっての喪失です。つまり、「好きです」と伝えたい気持ち、更に言えば、「好き」という気持ちそのものを、彼女は喪失してしまうのです。「いつも何かを失う予感があると、彼女はそう言った」。彼女の胸に秘められていた感情は、覚醒の間際に迸り、初めてはっきりとした形をとりますが、しかし覚醒した瞬間に、それは再び胸の内に仕舞い込まれてしまいます。その感情は文字通り日の目を見ることなく、現実世界から失われてしまうのです。

この作品で描かれる「喪失」を、人間誰しもが経験のある「喪失感」や「何かを忘れてしまったという感覚」一般に敷衍することも可能でしょう。しかし、ぼくはこの「喪失」を「好きという気持ち」に特殊化して考えたいと思うのです。なぜならば、これは「ぼくら」の物語であり、ぼくらの経験と狂おしくリンクしているからです。

ぼく自身の「好き」という気持ちを遂に伝えられなかったという喪失感と、サユリの同様の喪失感とははっきりと結び合わされているのですが、しかし年を経るにつれて、この喪失感が二重化されてきたことにぼくは気が付きました。つまり、「好き」という気持ちそのものの喪失感をもぼくは体験し始めているのです。サユリは、自分の感情が何であったのか、現実世界ではもう思い出すことができません。あんなにも好きだったのに、あんなにもヒロキを求めていたのに、彼女はその事実を夢の中に置いてきてしまったのです。ぼくもまた、自分の切実だった感情を、過去に置いていこうとしています。

今でもぼくは、彼女の夢を見ることがあります。しかし、それはごくごく稀であり、普段生活している時間帯に彼女を思い出すことはほとんどありません。以前は頻繁に彼女のことを考えていたのに、ぼくは次第に彼女のことを忘れつつあるのです。この忘却は、すなわちある種の喪失です。自分の熱情を、ぼくは喪失しつつあるのです。

喪失の哀しみ。この空虚を、新海誠監督の描く美しい風景が、一層際立たせています。それは何となく、世界から一人きり取り残されたような哀しみと似通っているような気がします。

『雲のむこう、約束の場所』は、こんなぼくらの鎮魂歌なのだ。