今日はイメージフォーラム・フェスティバルのプログラムAを見てきました。
水江未来の「TATAMP」が一番よかった。
古川タクの「はなのはなし」は、元ネタが分からないと意味不明なんじゃないかという部分があるのでそこは危惧しているのですが、まあでも分からない人でも楽しめるのかな。けっこう笑える作品なので、これもよかった。
他にもそれなりの作品はありましたが、しかし昨日に引き続き、どうもぼくの趣味に合わない作品が多かったです。いや別に悪い作品と言っているわけでなくて(自分は評価を下せるほどの審美眼をもっていないし)、単純に、個人的な感想として、あんまりおもしろくなかったなあ、と思いました。去年のハーツフェルトの衝撃とどうしても比べてしまうので、今年はその意味で損かもね。他の観客の人たちがどう思っているのかは知りませんが、でも去年のレベルを求めて出かけると、肩すかしを食うというか。
印象に残ったのは「私の痕跡」という、ごく短い作品。人の姿を鉛筆で書いては消し、書いては消し、を繰り返してゆくのが基本の作品なのですが、消しゴムで消したあと、どうしても鉛筆の痕跡が残ってしまう。何度も上記の行為を繰り返せば、白い紙にはうっすらと黒い痕跡が残ることになります。その痕跡を、「私の痕跡」=「人生の痕跡」と言っているのだと思うのですが、なかなかおもしろい。それに着目したこと自体はそんなに新しくはないと思うのですけれども(たぶん)、でも実際に書く行為を撮影しているので、過程が見られて楽しいかな、と。
で、アニメーションとは関係ありませんが、「自分の痕跡」というものについて、やはり考えてしまうわけです。いや、こういうことを考えさせるのがそもそものこの作品の狙いなのかもしれませんが。自分が生きてきた痕跡ってなんなんでしょうね。ぼくがこの先生きていても、たいした痕跡は残らないし、というか残せない気がするのですが、それでも生きる意味はあるんでしょうかね。まあ痕跡と業績とは違います。ぼくが業績を残せないのはその通りだと思うのですが、痕跡すら大して残らないような気がしてしまうんですよね。ぼくの周りには、業績も痕跡も残せそうな人が何人もおりますよ。実際に既に残している人だっておりますよ。そういう人たちに比べて、自分という存在は何の価値があるんでしょうね。もちろん、人それぞれなんでしょうよ。でも。結局、ぼくには「己を知る」ということができていなくて、多くのものを求め過ぎているのかもしれません。才能もないくせに、才能のある人が求めているものを、才能ある人だけが求めていいものを、ぼくも無邪気に求めているのかもしれません。だから苦しいのでしょうね。全く、哀れで惨めな生き物だな。もしも・・・いや、いいや。書くのはやめよう。ネガティブすぎる。
水江未来の「TATAMP」が一番よかった。
古川タクの「はなのはなし」は、元ネタが分からないと意味不明なんじゃないかという部分があるのでそこは危惧しているのですが、まあでも分からない人でも楽しめるのかな。けっこう笑える作品なので、これもよかった。
他にもそれなりの作品はありましたが、しかし昨日に引き続き、どうもぼくの趣味に合わない作品が多かったです。いや別に悪い作品と言っているわけでなくて(自分は評価を下せるほどの審美眼をもっていないし)、単純に、個人的な感想として、あんまりおもしろくなかったなあ、と思いました。去年のハーツフェルトの衝撃とどうしても比べてしまうので、今年はその意味で損かもね。他の観客の人たちがどう思っているのかは知りませんが、でも去年のレベルを求めて出かけると、肩すかしを食うというか。
印象に残ったのは「私の痕跡」という、ごく短い作品。人の姿を鉛筆で書いては消し、書いては消し、を繰り返してゆくのが基本の作品なのですが、消しゴムで消したあと、どうしても鉛筆の痕跡が残ってしまう。何度も上記の行為を繰り返せば、白い紙にはうっすらと黒い痕跡が残ることになります。その痕跡を、「私の痕跡」=「人生の痕跡」と言っているのだと思うのですが、なかなかおもしろい。それに着目したこと自体はそんなに新しくはないと思うのですけれども(たぶん)、でも実際に書く行為を撮影しているので、過程が見られて楽しいかな、と。
で、アニメーションとは関係ありませんが、「自分の痕跡」というものについて、やはり考えてしまうわけです。いや、こういうことを考えさせるのがそもそものこの作品の狙いなのかもしれませんが。自分が生きてきた痕跡ってなんなんでしょうね。ぼくがこの先生きていても、たいした痕跡は残らないし、というか残せない気がするのですが、それでも生きる意味はあるんでしょうかね。まあ痕跡と業績とは違います。ぼくが業績を残せないのはその通りだと思うのですが、痕跡すら大して残らないような気がしてしまうんですよね。ぼくの周りには、業績も痕跡も残せそうな人が何人もおりますよ。実際に既に残している人だっておりますよ。そういう人たちに比べて、自分という存在は何の価値があるんでしょうね。もちろん、人それぞれなんでしょうよ。でも。結局、ぼくには「己を知る」ということができていなくて、多くのものを求め過ぎているのかもしれません。才能もないくせに、才能のある人が求めているものを、才能ある人だけが求めていいものを、ぼくも無邪気に求めているのかもしれません。だから苦しいのでしょうね。全く、哀れで惨めな生き物だな。もしも・・・いや、いいや。書くのはやめよう。ネガティブすぎる。