Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

痕跡

2011-04-30 23:33:15 | アニメーション
今日はイメージフォーラム・フェスティバルのプログラムAを見てきました。
水江未来の「TATAMP」が一番よかった。
古川タクの「はなのはなし」は、元ネタが分からないと意味不明なんじゃないかという部分があるのでそこは危惧しているのですが、まあでも分からない人でも楽しめるのかな。けっこう笑える作品なので、これもよかった。

他にもそれなりの作品はありましたが、しかし昨日に引き続き、どうもぼくの趣味に合わない作品が多かったです。いや別に悪い作品と言っているわけでなくて(自分は評価を下せるほどの審美眼をもっていないし)、単純に、個人的な感想として、あんまりおもしろくなかったなあ、と思いました。去年のハーツフェルトの衝撃とどうしても比べてしまうので、今年はその意味で損かもね。他の観客の人たちがどう思っているのかは知りませんが、でも去年のレベルを求めて出かけると、肩すかしを食うというか。

印象に残ったのは「私の痕跡」という、ごく短い作品。人の姿を鉛筆で書いては消し、書いては消し、を繰り返してゆくのが基本の作品なのですが、消しゴムで消したあと、どうしても鉛筆の痕跡が残ってしまう。何度も上記の行為を繰り返せば、白い紙にはうっすらと黒い痕跡が残ることになります。その痕跡を、「私の痕跡」=「人生の痕跡」と言っているのだと思うのですが、なかなかおもしろい。それに着目したこと自体はそんなに新しくはないと思うのですけれども(たぶん)、でも実際に書く行為を撮影しているので、過程が見られて楽しいかな、と。

で、アニメーションとは関係ありませんが、「自分の痕跡」というものについて、やはり考えてしまうわけです。いや、こういうことを考えさせるのがそもそものこの作品の狙いなのかもしれませんが。自分が生きてきた痕跡ってなんなんでしょうね。ぼくがこの先生きていても、たいした痕跡は残らないし、というか残せない気がするのですが、それでも生きる意味はあるんでしょうかね。まあ痕跡と業績とは違います。ぼくが業績を残せないのはその通りだと思うのですが、痕跡すら大して残らないような気がしてしまうんですよね。ぼくの周りには、業績も痕跡も残せそうな人が何人もおりますよ。実際に既に残している人だっておりますよ。そういう人たちに比べて、自分という存在は何の価値があるんでしょうね。もちろん、人それぞれなんでしょうよ。でも。結局、ぼくには「己を知る」ということができていなくて、多くのものを求め過ぎているのかもしれません。才能もないくせに、才能のある人が求めているものを、才能ある人だけが求めていいものを、ぼくも無邪気に求めているのかもしれません。だから苦しいのでしょうね。全く、哀れで惨めな生き物だな。もしも・・・いや、いいや。書くのはやめよう。ネガティブすぎる。

人形アニメーションほか

2011-04-30 00:15:18 | アニメーション
今日はイメージフォーラムフェスティバルの初日。新宿でプログラムMとNを見てきました。

ですが、個人的にはいまいちだった・・・。プログラムNは既に見ているのが半分あって、それらは良作なんですけど、初見のがちょっと・・・。それにしてもヒュカーデの『愛と剽窃』はもう何度目だろう?オライリーの『エクスターナル・ワールド』に日本語字幕が付いていたのはよかった。と言っても、結局この作品がどのような作品であったのか、ということはまだぼくにはよく分かりません。ソローキンが文学でやっていることを、オライリーはアニメーションでやっている、ということなのでしょうか?これはアニメーションだから虚構の世界ですよって言ってやりたい放題、ときに手法を露出し、遊びもちりばめる。文学が紙の上の白いインクに過ぎないとしたら、アニメーションもスクリーンの上の線と色に過ぎない。アニメーションがアニメーションであるための存在理由とは何か。それには何ができて、何ができないのか。何をしてよくて、何をしてはいけないのか。あるいはそもそもそのような「何」など存在するのか。そういう根源的な問い。傑作かどうかはまだ分からないですけど、問題作であることは確か。そして重要な作品であることも。

プログラムMは、レイノルド・レイノルズという監督の三部作が主軸でしたが、これがぼくには少々受け入れがたくて、なんともはや。やたら裸体が出てきましたが、もうそれが見所ってことでいいや。でもこの作品、賞を受賞しているみたいで、評価が高いようです。分からない・・・。どこかブラザーズ・クエイやシュヴァンクマイエルの悪夢的世界を思わせるのですが、んー・・・

ブラザーズ・クエイの新作『マスク』がMプログラムのトリ。これはよかった。というか、ぼくにとってMにはこれしかなかった。クエイ兄弟の映像の美学はすごいですね。もちろん人形アニメーションなのですが、奇しくも昨日は『ファンタスティックMr.FOX』を見てきたところだったので、人形アニメーションの東西を一遍に視聴した感じ。ここでついでに『ファンタスティック・・・』の感想を昨日に追加して書いておくと、「ところがどっこい生きている」という映画だったように思いました。うっかり書くのを忘れていたのですが、この映画を見て感じたのは、高畑勲の『ぽんぽこ』とどこか通底するものがあるような、ということ。動物が主人公ということ、人間と対立すること、という両項目こそ同じであるとは言え、だいぶ趣きの異なっている両者なのですが、でもどちらの作品も、その基本的精神には「ところがどっこい生きている」という強かさと逞しさがあるように思ったのです。『ぽんぽこ』への説明は不要でしょうが、『ファンタスティック』の場合、この「ところがどっこい」というのは、ラストになって明らかになっていきます。狼への畏敬の念を持つフォックスは、野生の魂を持って生きていたいと願っている。でも現実には文明に染まり、人間用の食物を盗んで生きてゆく。このギャップは、フォックスに対する批判ではもちろんなくて、その強かな生きざまへの賛美だと思うわけです。狼のように生きたい。それは偽らざる夢でしょう。しかし現実はそうはいかない。ある程度妥協しながら生きていかざるを得ない。でも妥協したって、いつも屈折した思いを抱えて生きたくはない。だから、フォックスたちはスーパーで人間のものを盗みながら踊る。こうやって生きているんだぜって踊る。狼のように完全な野生には戻れない。でも、ところがどっこい、おれたちはおれたちなりに楽しくかっこよく生きているんだぜって。フォックスの生き方をかっこ悪いと思う人がどれだけいることか。あんなにかっこいい狐、ぼくは他に知りませんよ。

で、今日のブラザーズ・クエイ『マスク』ですが、とにかく映像美の極致なのですよ。光と影の妙で魅せるのです。ストーリーですか?ポーランドの巨匠スタニスワフ・レムの原作が下敷きなのですが、これはこれでけっこう難しい物語ですね。美女と殺人機械と国王の悲恋譚で、最後に2年と2日雪が降り続く。そういう話です。雰囲気だけ分かればいいと思います。耽美的で物悲しい、廃墟的なアニメーション。ブラザーズ・クエイの作品の中では、この新作が一番好きだなあ、ぼくは。ストーリーがわりと分かりやすいから、というよりは、映像の神秘性に惹かれました。

まるで狼のように

2011-04-28 23:15:24 | アニメーション
と、いうわけで、ウェス・アンダーソンの『ファンタスティックMr.FOX』見てきました。
超絶級におもしろかったです。

評判は公開前から聞いていたので、絶対に見に行く映画の一つに勘定していたのですが、なんとなく面倒で行きそびれていました。が、やっと今日見に行けたわけです。ちなみに、東京では現在シネスイッチ銀座(だったっけ?)という映画館で上映中です。夕方と夜の2回。

昔は盗みをして暮らしていた狐のMr.FOX(以下フォックス)は、妻の妊娠をきっかけに泥棒家業から足を洗い、新聞記者として働くことに。時は流れ、「穴暮らし」から「木暮らし」へと生活の向上を図ったフォックス一家。しかしそこには3人の腹黒い農場主がいたのでした。フォックスは、昔のサバイバル生活を思い出し、彼らの農場から食料を盗み出す計画を立てます・・・

と、ストーリーの出だしの部分を書いてみましたが、もうストーリーがどうとかあんまり関係ないですね。とにかく狐のフォックスを始めとする動物たちの動きがおもしろい!ロングショットで撮るシーンなんかは、妙に新鮮な感じがしました。なぜだろう。人間の世界と対比されるとき、彼ら動物たちはとても小さく見え、その姿がちょこまかと大きな物質の合間をすり抜けていく様子は、まるでコンピューター・ゲームを見ているようだった、というのが正直な感想。横スクロールする画面、アクロバティックな動作、といった要素がそう見させていたように思います。もちろん、そういうロングショットのシーンは少ないのですが、とりわけ最初の方に出てきたシーンは、印象的でした。

こまごました事物の作り込みが愉快なほどステキで、前半の赤を基調とした色調は柔らかく、どこか懐かしい思いにさせてくれます(それは夕陽を思い出させるからでしょうか)。動物たちの普段の動きもすばらしいのですが、(ときに乗り物で)疾走する際の動きは特に見事で、あの『ピンチクリフ・グランプリ』のクライマックスに伍する、興奮を煽るような出来。

個々のキャラクターの造形はすばらしく、主人公のフォックスはものすごくカッコイイ。表情もそうですが、オシャレで、お茶目で、強いところなんかも最高にカッコイイ。そして忘れてはいけないキャラクターが、ネズミ。おもしろい・・・。おもしろいと言っては悪い気もしますが、しかし彼につきまとうどうしようもないユーモア。だって狐の長年のライバルなんですよ。ネズミが。あの登場シーンの音楽といい、ぼくはこのネズミ好きだなあ。

この映画の底辺にはユーモアが流れていて、何か事件が起きたり誰かが行動したりすると、いちいちおもしろいんですよね。このユーモア感覚が見事で、これがこの映画を傑作に仕上げているように思いました。

最後にテーマについて。ストーリーと絡んでくるわけですが、フォックスは野生の本能を忘れられないわけです。いつまでもサバイバルしていたいわけです。だから彼は人間たちから食料を奪い取り、合戦するのです。そのときが彼の一番輝くときなのです。端的に、そして唐突に言うと、彼は狼のように生きたいのです。フォックスは狼恐怖症と言っていますが、最後近くのシーンが如実に物語っているように、彼は狼に恐怖というよりは畏怖の念を抱いているのです。畏れ敬っているのです。彼は狼に野生の象徴を見ているのでしょう。

厳密に比喩的な、あるいは象徴的な意味で言うならば、ぼくもまたそのように生きてみたいものです。まるで、狼のように。

首と頭が痛かった

2011-04-28 00:56:25 | Weblog
今日、本当は夕方から映画を見に行く予定だったのですが、
朝起きたときから首と頭が痛くて、おまけに風が猛烈だったので、キャンセルしてしまいました。かわりに明日行こうと思います。でも明日も風が強いとか。やだなあ。

映画に行くのも何するのもめんどくてめんどくてかなわない、と前に書きましたが、見るのを諦めていた映画が想像以上におもしろいらしく、また思いがけずまだ東京でやっているらしいことが分かったので、行くことにしたのです。

今月末からしばらくはアニメーション映画祭りですから、忙しくなりそうです。勉強の方もちょっと忙しいので、しばらく色々と忙しそうです。要するに忙しそうです。

映画の感想は明日書く予定なので、今日はこの辺で(と、自分にプレッシャーをかけておく。こうでもしないと見に行かないからな)。

チェーホフの手帖

2011-04-27 00:20:42 | 文学
あんまりネタがないもので、いま横にある本棚から適当に新潮文庫の『チェーホフの手帖』を抜き出して、適当な頁を開いて読んでみました。その一つ。

「彼女の顔には皮膚が足りなかった。眼をあくには口を閉じなければならぬ。及びその逆。」(68頁)

へー。おもしろいな。こんなのも。

「彼女がいう、「今じゃもう、一つことしか眼につかないわ、あんたの口の大きいこと!大きな口!何てまあ大きな口!」」(135頁)

アンナ・カレーニナが夫の耳の形が突然気になり出した、あの有名なエピソードを想起してしまいますね。こういう些細なところから、崩壊が始まるのかも。

チェーホフは、深遠な箴言も滑稽なイメージも自由に手帖に書き記していたようで、真面目さと不真面目さとが絶妙に結びついた、というかほとんど一体となった彼の文学作品の特徴を、この手帖はよく表わしていると思います。では、チェーホフの人となりはよく表しているのでしょうか?

そういえば、このブログってぼくの人となりをよく表わしていますかねえ。けっこう率直に思ったままを書き連ねているので、人柄は出ているのではないかと思いますが、でもあくまでネット空間、つまりは情報空間の中で形成されている「ぼく」に過ぎないのであって、実体とは必ずしも一致するわけではないですからねえ。もっとも、その「実体」にしたところで、ぼくの思考や感情は曖昧模糊としているので、その実体を前提に情報空間の「ぼく」を仮構することはできないはずですね。まあどうでもいい話ですかね。

自分を韜晦しているブログであったら、そのブログ主は韜晦する自我の持ち主であり、ざっくばらんに書いているブログ主であれば、ざっくばらんな自我の持ち主、というふうには規定できるように思えますけれども、ただし閲覧者にとっては韜晦しているのかそうでないのかは判別できないので、結局よく分からないですね。まあこれもどうでもいい話ですね。

『チェーホフの手帖』を棚に戻す。そろそろ寝る時間じゃないのかね?

3年経っていた

2011-04-24 01:09:52 | Weblog
明らかに、ご新規さまが多い。ブログにアクセスする人の数自体も増えているのですが、閲覧数が爆発的に増えている。ということは、つまり一人の人が複数のページを見ている、ということですよね・・・と、ぼくはこれまで勝手に解釈していたのですが、はっきり言ってよく分からないのでした。

それはそうと、3年経っていました。このブログを開設してから。いつの間にか。長かったような短かったような。う~ん、色々あったなあ。3年前はロシア語の文献を20ページ以上読んだことなかったけど、今ぼくは一週間で100ページくらい読みましたよ。これは成長ではないですかね、実際のところ。ロシア語の実力はそれほど変わっていないと思われるのですが、精神的な部分は変わったかも。つまり、外国語の文献でも必要だったら読んでやるぞ、という意気込みというか取り組む姿勢というか、そこが(まあ他の学生にとっては当然のことなんでしょうけどね)。

もっとも、今でもへたれっぷりは相変わらずで、つい最近も、こんな大学辞めてやる!とブログに書いたばかりなのですが、一方でロシア語の勉強というか読書を始めたので、自分でも自分のことがよく分かりません。ともかくすぐに落ち込んだり弱音を吐いたりするところは成長していません。

ぼくは「成長」という概念が実を言うとあまり好きではないです。成長しなくったっていいじゃないか、と思うわけです。ただ、変化するだけです。環境に応じて、年齢に応じて、経験に応じて、ただ変化する。成長というのは、その変化の喜ばしい部分だけを言っているのですね。でもぼくには、何が喜ばしい変化なのかよく分からないのです。かりに語学がすごくできるようになったら、それは喜ばしい変化=成長として普通は実感されるものなのでしょうが、ぼくはそう判断するのに躊躇します。そのような変化によって失われてしまったものにどうしても目が行ってしまうのですよね。つまり、語学ができない、という苦悩やコンプレックスなどです。そういった感覚は忘れたくないなと思うわけです。そういった感覚を忘れてまで成長したくはないな、と思うわけです。無論、こんな感覚なんて欲しくないのですけれども、でも、痛みを忘れたくないなあ、と思っているのです。要するに、強くなってしまうことを恐れているのです。弱いままでいたい、とどこかで感じているのです。

いやしかし、こんなことを恐れる前に、語学の勉強しろよって話ですけれど・・・。

総括。3年前に比べて、ぼくは勉強に取り組む姿勢が少し変わりました。あとは・・・一人でロシアと九州に行きました。それと・・・それくらいかな。ああそうだ、このブログを通じてちょっと人との繋がりが増えました。

全集を買ったはずが・・・

2011-04-22 13:20:31 | 文学
このところ、ブログへのアクセス数が増えています。何かありましたっけ?というか、同じことをつい先日も書いたような書かなかったような・・・どっちだっけ?いや書いてないか・・・

さて、ロシアのネット書店でとある作家の全集を購入して、それがきのう家に届いたのですが、開けてびっくり、全集じゃない!「作品集」だったんですねえ。HPには確かに全集と明記してあったはずなのですが、まさか作品集が送られてくるとは・・・。しかもかなり高額だったので、きのうはがっくりきました。

返品しようにもロシアだし、まあこれはこれでいいか、と思って、今度こそは全集を買いたいと思います。で、この作品集なんですが、最終巻に作家の尋問記録なるものが収録されていて、これってけっこう貴重なんじゃないの?あと監獄での最期の様子なども載っているみたいです。この作品集は大学の図書館にも収蔵されていたように思いますが、いずれにしろたぶんこんな機会がなければ中味を見ることはなかったと思うので、そういう点では間違ったものが届いて悪いことばかりじゃないですね。・・・なんて前向き思考!

ところで、問題の全集なんですが、ぼくの見る限り、これは必ずしも優れた全集ではないんですよね。後の巻になって、それまでに収録すべきだった遺漏していた作品を載せたりしているし、手紙は全部載っているわけではないし、他にもかなり重大な取りこぼしがあるし、掲載されている作品が、決定版たりえるような原稿に基づくものではなかったり(両方採録してくれ)、分類の仕方も、大まかに年代順になっているのはいいのですが、しかし児童向け作品だけ別巻にしているのは議論の余地のあるところだし・・・。だいたい目次が見にくいし。

そのせいかどうか分からないのですが、研究者の中には、参考文献にこの全集を挙げない人がかなり大勢います。とりわけある特定の作品などは、別のテキストを参照すべきだ、というような認識が共有されているようにさえ思います。まあ単に昔出た作品集を愛用しているだけ、というのもあるのかもしれませんけど・・・。ううむ、この辺の事情は、詳しい人に聞いてみたいところです。

とはいうものの、全集であることに変わりないし、実際ほぼ全ての著作を網羅しているはずですから、やはり持っておきたい本であります。

カムフラージュ

2011-04-21 15:38:49 | 文学
きのう書店に寄ったら、大場惑の『ほしのこえ』があって、ぼくはこれを持っていないんですが、やはり読んでおくべきだろうと思いましたから、買うことにしたのですが、しかしちょっと恥ずかしいなと感じて、そこで岩波文庫のコーナーをざっと見渡したところ、オクタビオ・パスの『弓と竪琴』がありまして、これは持っていても損はないだろうと思いましたから・・・というのは半ばこじつけで、『ほしのこえ』のいわばカムフラージュとして買うことにしました。ところがこの『弓と竪琴』、1000円以上するんですよね。高過ぎないか。

そういえば集英社文庫のラテンアメリカ文学シリーズが復刊されたと聞いたのですが、全シリーズが復刊されるのですかね。それとも今回の『族長の秋』だけですかね。これまで刊行された本全部復刊してほしいですね。中でも『ラテンアメリカ五人集』を待望。持っていないので。それにしても集英社って何気においしい文庫を出してましたよね。スラヴ圏で言えば、クンデラ、アクショーノフ、オレーシャなど。

それはそうと、『ほしのこえ』は早いところ読みたいものです。

イメージフォーラムフェスティバル

2011-04-20 22:39:43 | アニメーション
4月29日から5月8日まで開催されます。

http://www.imageforum.co.jp/festival/

で、毎年新宿のパークタワーで映画が上映されているから毎年出かけているのですが、今年は、大事なプログラムが新宿でやらない!渋谷で、しかもレイトショーになっている!ポーランド・アニメーションがあると聞いていたのに、レイトショーかよ、せっかくゴールデンウィークなんだから、昼間でいいじゃないかと思ったのですが、そうではないのですか。ぼくは日中に見られた方がありがたいので、しかも渋谷だし、かなりがっくりきてます。他のアニメーション・プログラムも、新宿とはいえ夜の上映になっているのがあるし。残念。・・・でも休日も働いている方々にとっては朗報なのかなあ。それだったら救いがありますが。

オライリーの新作は既にネットで見ていますが、英語字幕だったので、日本語字幕がついていると大変ありがたいです。

ロシア語の勉強

2011-04-19 23:57:31 | お仕事・勉強など
・мы получим словесный ряд, человечески БЕССМЫСЛЕННЫЙ.

・we will get a verbal order, which appears to man as NONSENSICAL.

いきなりでアレですが、最初の文がロシア語、次の文がそれを英訳したものです(正確に言えば文ではなく節ですが)。この英語を日本語訳するとこうなるでしょう。

・人間にとって「無意味」と思えるような言葉の秩序を我々は得るだろう。

ロシア語をぼくなりに直訳するとこうなります。

・人間的には「無意味」な言葉の系列を我々は得るだろう。

要するに「秩序」か「系列」かという違いです。この点はそれなりに留意しなくてはいけないと思いますが、今日、思いがけない邦訳に出会いました。それが↓

・われわれは人間に関係しかつ無意味な言葉の系列を手にするだろう。

これは最初の4つに比べてかなり大きな違いですよね。「言葉の系列ないし秩序」=「人間に関係する系列ないし秩序」となっているわけですから。英訳者やぼくは、ロシア語の「человечески」(人間的)という単語を「無意味」にかかる表現と見ていたわけですが、そうではなく、「系列(秩序)」にかかっているとみなしているわけです。

どちらが正しいか、というのはぼくにとってはかなり切実な問題で、非常に気になるところなのですが、ただそのことはひとまず措いといて、日本人が外国文学を研究するっていうことは、まずそもそもの原文の解釈から始めなくてはいけないので、大きなビハインドのように思えてきました。例えばこの場合、ロシア人だったら、なんの迷いもなくさらっと理解してしまえるのではないでしょうか。もっと難しい文章の場合も然りです。もちろん日本文学だって、本文をきちんと読むことから始めるのは当然ですが、それとはちょっとレベルが違う。外国語は文法的な段階でつまずくことがありうるのですから。

う~む、損をしている気がするなあ。ただ、外国語で本を読むこと自体はいいことだと思いますよ。人間は言語を用いて世界を把握しているわけですから、外国語を勉強するというのは、世界を把握する道具を新しくするということなので。だから、外国語で本を読むと、世界が別様に立ち現われてくる、というのは大いにありうることです。また苦労して読む、というのもポイントですね。すんなりと頭に入ってこないことが重要。なんだか異化の説明をしているような感じですが・・・誰か異化と外国語学習をくっつけてたかな。

でもねえ。研究っていうのはねえ。原文を解釈した上に自説をのっけないといけないわけですから。二度手間でもあるし、何より怖いですよね。最初の解釈が間違ってたら、どうしようもないわけだから。

で、ぼくは、「人間にとって」という解釈でもう既に論文を書いてしまっているんですよね。そしてそれは発行されてしまっているんですよね。大丈夫なんでしょうか。もしかするとこんなところに書くことではなかったかもしれませんけど、ああ、しかし、まあでも、もしありゃあ間違いだよ、と言われたら、いやしかし、う~む。

思想

2011-04-18 23:43:14 | Weblog
今日は早く寝よう。

自分にはこれといった思想、信条、信仰がありません。今まではそれでいいんじゃないかなとぼんやり思っていましたが、今日とつぜん、それだと厄介なことにもなりうるな、と思い始めました。

たとえば、ある本を読んで、「何物にも意味はない」という言葉に感化されたとします。ところが次の月に別の本を読んで、「何物にも意味はある」という言葉に感化されるとします。一体ぼくはどちらの側に立てばよいのでしょうか。それぞれ、それなりに興味深い考え方だし、実際のところ同じくらい興味を抱いたとします。う~む。何物にも意味はあるのか、それともないのか、という宙ぶらりんなところでぼくは漂い続ける。

で、あるとき論文を書いちゃったりします。そのときは何物にも意味はないと考えていたから、それを前提に論を進めます。しかし翌年になったらもう正反対の考え方をしているものだから、前年に書いたその論文が、まるで赤の他人のそれのようにひどくよそよそしく感じられ、途方に暮れてしまうのです。・・・幸いまだそういう経験はないのですが、でも容易に起こりうるのではないかとぼくは恐れているのですよね。

やっぱり、これはこうだ、あれはああだ、という信念を持っていた方がいいのでしょうか。ぼくはいつもいつも、あっちかなこっちかなと「思想街道」を右往左往しているばかりなのです。

そういえば、ロシア語の本、積算で50ページくらい読みました。あと4日で予定の部分は終わるはず。ただ、ちょっと追加で読まないといけないところが10ページほどできたので、今週中に終わるかぎりぎりのところ。それが済んだら、別のに取り掛かりたいところですが、それと並行して、あるいはそれ以前に、日本語の本を読んでおこうと思っています。

お、今日は早く寝れそうだ。

スラヴ文学四方山話

2011-04-17 00:59:59 | 文学
ああ、アイトマートフですか、ぼくも『処刑台』くらいは読みましたよ。個人的にはおもしろかったですね。たしか麻薬問題なんかが扱われてるんでしたよね、あれ。だから、当時の社会背景なんかと照らし合わせるとけっこうスキャンダラスな文学だっていって話題になったらしいですね。でもぼくが読んだときはそういうこと知らなかったし、そんなことは気にならなったですよ。単純におもしろかったですから。ドスト的な神学問答じみたところもありませんでしたっけ。いやしかし、あんまり昔に読んだもんで、あんまり覚えてないですね。

20世紀後半のロシア文学だったら、ヴァムピーロフが好きですね、ぼくは。チェーホフの再来と言われる人は多いですけれど、ヴァムピーロフほど読後感も含めてそれらしい作家はいないですよ。カーヴァーも、ベズモーズギスも、だいぶ違いますもんね。そうそう、ぼくは「○○のチェーホフ」という作家って興味あるんですよ。上に挙げた2人も「アメリカのチェーホフ」とか「チェーホフの再来」とかそんな呼ばれ方しますし、更に別のアメリカのチェーホフであるアンダスン、ブルガリアのチェーホフのエリン・ペリン、そしてチェーホフの再来、ヴァムピーロフ。「去年の夏、チュリームスクで」や「天使と20分」なんかは最高じゃないですか。ぼくは大好きですよ。

ブルガリアのチェーホフですか。20世紀半ばの作品を集めたブルガリア短編集ってのがありまして、『露に濡れた石橋』っていうんですけどね、あと恒文社っていうんでしたっけ、そこにもブルガリアの短編集ありますよね。そういうのは好きで読んでましたね。ストラチエフの「ローマ風呂騒動」とか、すごくおもしろいですよ。あとディーロフとかも。で、エリン・ペリンですけど、日本でも僅かに作品を読むことができます。なかなか味わい深くていいですよ。そういえば、ハンガリー短編集もありますよね。『青髭公の城』ってタイトルのアンソロジーがあるんですけど、これ最高なんですよ。もう好みの作品ばっか。いやあ、これはほんとにお薦めですね。ちなみに、ハンガリー人って名前がおもしろい人多いんですよ。ヨーカイとかね。あとかっこいい名前も。エルケーニュ・イシュトバーンとかね。よくないですか。

東欧文学だったら、他には『ポーランド文学の贈り物』『文学の贈り物』『ポケットのなかの東欧文学』『東欧怪談集』『東欧SF傑作集』などが代表的なアンソロジーとしてあって、日本でも意外と手軽に読めるんですよね。東欧文学全集もありますけどね。もちろん、個々の作家だけの単行本もたくさんあるわけですし。そうだ、群像社の『現代ウクライナ短編集』も忘れちゃいけませんね。まだ読んでないんですが・・・。

ああ、今日はネタがなかった。

めんどいなあ

2011-04-15 01:14:00 | Weblog
ぼくは無気力な人間なので、何をやるのも面倒です。朝起きるのも、歯を磨くのも、新聞を読むのも、お風呂に入るのも、日常生活の大抵のことは面倒です。いつも嫌々ながらやっています。嫌じゃないのは寝ることくらいかな。

そんなぼくだから、いま見たい映画があっても、なかなか見に行くことができません。とにかく億劫なのです。だらーっと寝過ごして、だらーっと行くのを渋っていたら、いつの間にか上映時間が終わっています。そんなわけで、今日もぼくは映画に行けませんでした。いま、見たいのが3つあるんですよねえ。誰か一緒に行ってくれ。一人じゃ面倒で行きそうにないから・・・。

ただし今日は家で勉強しましたよ。読むべき本(ロシア語)を読んでいただけですけどね。無理せず毎日できるペースとして、1日5ページ読むことに決めて取りかかったのですが、いきなりの誤算!その本は注がやたら多くて、本文3ページに対して、注が8ページもあるんですよ。数時間かけてやっと3ページしか進んでいないのを確認したときは焦りました。で、どうするか考えたわけです。ノルマは5ページだったけど、本文は3ページしか読んでいない。けれども全体では11ページ読んだ計算だ。それでは、本文を5ページ読むか、あるいは全部で10ページ読むことを新しいノルマにしようではないか。つまり、11ページ目に差し掛かった時点でもうノルマ達成ということでいいことにしよう。今日は達成だ。やった。しかし、どうも当初のノルマにこだわってしまったぼくは、夜に改めてその本に取り組み、結局本文5ページも達成することができました。やった。

ロシア語の本はさーっと目を通すだけみたいなことが多いのですが(重要そうな部分だけ辞書を引いてメモする)、今日は珍しくかなり丹念に読みました。それで時間がかかってしまったのですが、一日に14,5ページ読めれば自分としては上々です。でも、疲れた・・・。明日からは、今日決めたノルマに則ることにしよう。目標としては、2時間で10ページ読むことですね。もちろん精読で。まあ、今はとても無理ですけど。ゆくゆくは1日50ページくらい読めれば、勉強がかなり楽になるんだけどなあ。そんだけ読めれば一冊の本を1週間で読了できますもんね。

た・だ・し。最初に書いたようにぼくは無気力な人間なのです。今日みたいな日は長続きしそうにないなあ、と恐れているわけです。取りかかるのがめんどい、と言って1日中のんべんだらりと過ごしてしまうことが大いにありそう。明日は午後授業があるので、それまでに自宅でノルマを達成しておきたいものです。ちなみにノルマってロシア語ですよね。

誰かがサズを弾いていた

2011-04-14 00:34:49 | アニメーション
いまNHKの『みんなのうた』で流れている、『誰かがサズを弾いていた』は必見ではないでしょうか。映像制作に関わったのは宇野亜喜良と岡野正広の両氏。宇野氏は超有名なイラストレーター・造形作家で、略歴を見ると、もはや伝説的存在ではないか。また歌い手はサラエヴォ出身の有名な歌手だというヤドランカ。

岡野氏のブログを見ると、子どもたちのトラウマになるように作った、と語られていて、「やはり」と思いましたね。ぼくは、この作品を見てまさにまさにそう思いましたから。かの名作『メトロポリタンミュージアム』も巷ではトラウマ的作品と称されておりますが、それをも凌ぐほどの映像の「濃さ」ですよ。

メランコリックなヤドランカの歌と、哀愁漂う耽美的且つ幻想的映像の合致によって、見る者は異世界に誘(いざな)われること間違いなし。水面を跳ねる魚のアニメーションも、一つの美学に貫かれており、心地よい。

メランコリー、哀愁、耽美、幻想に加えて、憂悶、耽溺、ポエティック、怪異という形容も加えましょう。シルクロードの神秘と幻惑の夜が画面に充満し、いや溢れ、染み出し、ぼくらを包み込む。どこか『月のワルツ』をも髣髴させますが、儚げで切なく、悠揚たる歌の調べにマッチした映像はこれ独自のものであり、随一のものです。あの世界へ飛んでゆきたいものだ。