Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

消される

2014-01-05 02:46:34 | 音楽
最近、amazarashiの歌が動画サイトで消されまくってるなあ。当然と言えば当然なのかもしれないけど、複雑な気持ち。いや複雑というのは嘘で、なんでだよーって気持ち。いやでもそれだけではない気持ちも混じってるから、やっぱり複雑。動画サイトにあがっている歌でもいいから聴いてみて下さい、みたいなことをけっこう前に秋田さんは言っていて、それはまあ公式にアップされたものを指しているんだろうとは思ったけど、それでも非公式(違法)のものもたくさんあるのは知っているはずで、それを承知の上での言葉のはずだから、なるほどと思っていたんだけど、ここへ来て非公式のやつは消されまくり始めたなあ。

もちろん、ちゃんと曲を購入して聴くのが本当なんだけど、でもこういう動画サイトで初めてちゃんとamazarashiの曲を聴いて惹かれた人間としては、もったいないと思ってしまうわけで。昔に比べれば公式の歌も増えたけど、とは言えそれ以外の歌でもいいものはたくさんあって、入門編として残しておきたいもの、映像が優れていたものまで消されると、なんでだよーってことになる。

難しいよなあ。違法動画をそのままにしておくわけにもいかないし、その一方でそれが宣伝にもなっていることは確かで、またファンの中にだって視聴する人が一定数いるはずで。うまい仕組みがあればいいんだけど。

ぼんやりと思ったことをぼんやりと書いてみた。もう寝ます。

イラストレーターになってほしい

2013-11-19 23:57:17 | 音楽
さっきまでSOL に出演してた amazarashi の生放送、よかったね。特にイラストレーターを目指してるっていうサキとの対話はよかった。素でもらい泣きした。サキ、どうか頑張れよ。そしてイラストレーターになってくれよ。

色々と考えさせられましたね。

なんか短いけど今日はこの辺で。

ぼくは匿名じゃない

2013-11-13 23:31:45 | 音楽
amazarashi『匿名希望』限定視聴開始。
これはかっこいいね。個人的には『あんたへ』よりもずっといい。


amazarashiが今よりもずっと知名度が低かった頃、googleで「amazarashi」と検索すると、ぼくのブログがトップあるいはかなり上位に表示されていた。そのことを友人に話したら、彼はこう言った。「じゃあ絶対ブログ見てるよ」。

あれから月日が流れ、amazarashiは次第に有名になっていった。単純検索してもぼくのブログは現れない。でもぼくは、心のどこかで信じている。秋田ひろむはこのブログを読んでいる。

たとえそれが愚かな願望に過ぎなくても構わない。誰もが「そんな馬鹿な」と言って嘲笑っても構わない。ぼくはこれから秋田さんに宣戦布告する。

「あんた」の歌う通り、「あんた」はぼくの代弁者じゃない。そしてぼくは匿名でもない。秋田さん、ぼくはあんたに追い付かないといけない。泥濘を這いずり回る生活もこれでお仕舞いだ。とりあえずあんたの背中を追いかける。

ぼくはこの苦しみも悔し涙も忘れない。この苦しみと悔し涙から生まれたものを抱え続ける。逃げることを断罪しない。闘うことを推奨しない。闘う辛さを表現しない。諦めてしまう弱さ、努力できない虚しさ、何もできない無力、全部背負い込んで、それでも立って歩いてみせる。あんたが投げ出そうとしてる弱さも無気力も背負い込んでやるよ。

ぼくはジュブナイルなんて歌わない。死んだ魚の目をしてた頃のあんたを歌うよ。ぼく自身を歌うよ。

秋田さん、ぼくはあなたの歌を曲解してますか。一人で競争心を燃やしてるなって笑いますか。いや、あんたはそんなことしない。それは、分かってる。

これは真剣勝負だよ、秋田さん。大袈裟でもなんでもなく、生きるか死ぬかだ。もう「追いつめられたステージ際」なんだから。近くぼくは行動する。人生の半分以上にわたって溜め込んできた鬱憤を、恨みつらみを、一気に昇華させる。

もう用意はできているんだ。

ラブソングなんて聴きたかねえや

2013-07-20 00:05:48 | 音楽
『僕が死のうと思ったのは』について、中島美嘉さんは「是非最後まで聴いて欲しい」と語ったそうです。「じゃないと絶対伝わらない」からと。公式HPに行くと、この歌は「究極の愛の歌」として紹介されています。

正直、ぼくは違和感を持ちました。秋田ひろむがそんな単純な「愛の歌」=ラブソングを書くだろうか。もちろん、「僕が死のうと思ったのは」というフレーズが反復されるこの歌は、単純なラブソングとは呼べないかもしれません。しかし、結局のところ全てが最後の愛の表明に収束されてしまうのならば、それは紛れもないラブソングと言えます。この歌が「究極の愛の歌」と紹介されたのは、3番の歌詞を最重要視して、「僕が死のうと思ったのはまだあなたに出会ってなかったから」というフレーズを愛の表明と捉えたからではないでしょうか。でもぼくには、この歌がただのラブソングだとは思えません。

この歌は1番から3番までありますが、それぞれ明らかにテーマがあります。

1番:自己
2番:他者
3番:あなた

というふうに、それは明示化することが可能です。1番では自己の内部における葛藤を歌い、2番では他者との関わりを歌い、3番では「あなた」に対する態度を歌います。個人的な感想を申し上げるなら、1番が最もamazarashiらしい。詩的というか文学的な歌詞と相俟って、昔のamazarashiを髣髴とさせます。2番も他者との関係に傷つき閉じこもってしまう(しまった)自分を歌っている点で、やはりamazarashiらしい。ただ3番だけが、「あなたのいる世界を肯定する」というやや陳腐な情感を歌っており、確かにこういった要素もamazarashiの根底にあるとはいえ、しかしそれだけでamazarashiをamazarashi足らしめる要素にはなっていないと思います。

また、1番のサビでは「満たされないと泣いているのは きっと満たされたいと願うから」と歌い、2番のサビでは「愛されたいと泣いているのは 人の温もりを知ってしまったから」と歌っている点にも注目したい。この歌は、「僕は死のうと思っていたけれど、「あなた」に出会ったからもう少しだけ生きてみようと思うようになった」というような歌ではないような気がするのです。ましてや、「愛する人ができたから生きていくよ」という前向きなラブソングじゃない。そうではなくて、まずは自己の葛藤とその克服への光を歌い、次いで他者との軋轢とそこからの救いを歌い、最後に「あなた」との出会いを歌っているのであって、自己との闘争、他者との闘争/逃走を経てようやく「あなた」に出会えた過程を歌っている。つまり、「あなた」だけが救いではないのであって、3番だけに重要な意味が込められているのではないのであって、3番で全てがひっくり返るのではないのであって、自己と他者それぞれの関係の中でも「僕」は光へ向けて歩き出そうとしているのです。

したがって、これはやはり単なるラブソングではないと思う。少し大袈裟に言うならば、「いかにして一個の人間が世界を肯定するに至ったか」を歌っているのではないでしょうか。これは秋田ひろむ自身を歌った歌なのかもしれません。

そういう歌を、一概に「愛の歌」と括ってしまうのはいかがなものかと思う。また最後まで聴かないと分からないような歌でもないと思う。よくよく歌詞を読み込めば、1番からだけでこの歌の志向を感じ取れる。

自己、他者、「あなた」を通して世界を肯定してゆく歌。もしこの過程をamazarashiの軌跡になぞらえることが可能ならば、やはりこの歌は秋田ひろむその人が歌うべきでしょう。しかし、誰かとの関係が開かれてゆく、あるいは結ばれてゆくこの歌が、その「誰か」に託され歌われる、というのもまた必然性があります。ただし、これをただの「ラブソング」として歌ってほしくはない。ラブソングなんて聴きたかねえや。

僕が死のうと思ったのは

2013-07-10 00:06:32 | 音楽
<<中島美嘉の新曲「僕が死のうと思ったのは」をamazarashi秋田ひろむが楽曲提供>>

というニュースを先程知ったのですが、amazarashiの歌はやはり秋田ひろむが歌わないとなあ、というのが正直な感想。しかもこの曲は以前ライブで秋田さん本人が歌っていて、そのときぼくはえらく感銘を受けたので、思い入れがありました。

中島美嘉は情感を込めて丁寧に歌ってくれるとは思いますが、でもamazarashiの歌ってのはねえ、amazarashiが歌ってこそなんだよなあ、という意見の人はきっと多いはず。

それにしてもamazarashiはどんどん知名度を増していっている(気がする)。今回の試みが成功すれば、もっと有名になっていくんだろうな。

どういう経緯で楽曲提供することになったのか知りたいですね。

anti nihilizam

2013-04-02 05:54:18 | 音楽
amazarashiのMV『性善説』を何遍も聴いています。ところで、ロケ地はどこでしょうか。「極寒の地」とだけしか紹介されていないので気になっています。映像から得られる情報はかなり少ないですが、文字を探してみると、「policija」「anti nihilizam」という文字が見つかります。「policija」というのは、キリル文字に直すと「полиция」となります。これは「警察」を意味し、映像のシチュエーションと一致します。とすれば、ここで用いられている言葉はスラヴ語のいずれかであり、しかもキリル文字を使用していない。そういう言語はたくさんありますが、自分はクロアチア語である可能性を真っ先に考えました。試しにグーグル翻訳で「policija」と入力すると、「警察」と出ました。更に「anti nihilizam」は「アンチニヒリズム」、「nihilizam」だけならば「ニヒリズム」でした。ちなみに、「アンチニヒリズム」というのは「虚無主義に抗え」と訳し直すことが可能で、このフレーズはamazarashiの代名詞の一つです。

しかしながら、クロアチアは極寒の地でしょうか?そうではないと思うのですが。映像からして、北欧のどこか、あるいはシベリアかと勘繰っていたのですが、クロアチア語が使用されているとなると・・・どこ?それともクロアチアにはこんなに寒い地域があるのかなあ。あるいは、そもそもクロアチア語ではないのか。クロアチア以外で「policija」が「警察」を、「nihilizam」が「ニヒリズム」を意味する寒い国ってどこだ?スラヴ語のいずれかで、キリル文字を使用しておらず、極寒の地がある国・・・。けっこういっぱいありそうな気がするなあ(ポーランドやチェコじゃないよなあ)。いやしかし、この程度の謎が解けないようじゃあ自分もまだまだだな。でもネットを駆使すれば分かるようにも思います。誰かそういうのに詳しい人、正解をお願いします。

もう一度調べ直したら、スロベニア語である可能性も浮上。やはり「policija」「nihilizam」という単語が存在します。でも、ここも極寒というわけではないような・・・。ただクロアチアよりは寒そう。

性善説その他

2013-04-01 21:03:09 | 音楽
gmailが新しくなりましたが、この使いにくさは異常(と思っているのが自分だけでないのを祈る)。メールを書きながら別のことができるとか、複数のメールを同時に書けるとか謳っていますが、そんなふうにメールを書く人がこの世にいるとは知らなかった。メールって一通一通書いていくものじゃないのか。というか、一つの文章を書きながら他のことをするなんてできない(せいぜい音楽を聴くくらいだ)。あんまり使いにくいし、ちょっとイカレテいる感じだったので、今は元のバージョンに戻しています。googleには何とかしてほしい。

amazarashiの新作MV『性善説』公開。モスクワでは公式HPやYouTubeにアップされた映像が見られないので、視聴するのにちょっと苦労しました。MVの監督は寒竹ゆり。AKBのドキュメンタリー映画で一躍有名になった人。これがけっこうよかった。YKBXの『ジュブナイル』よりも、こっちの方がいいな。今回のYKBXは、いかにもプロモーションビデオって感じで、あんまり好みではなかった。『性善説』の方はドラマ仕立てになっており、歌詞の内容ともリンクしている。善と悪は不即不離ということを思い出させてくれる物語だ。汚れた愛情、純粋な愛情、残酷な世界の理。

某ジブリファンサイトでのエイプリルフール企画、今年も楽しませていただきました。今年は笑えるネタが多かった気がします。

成功者の視座

2013-03-17 03:29:10 | 音楽
とてもいい曲だと思う。しかしあえて言うけれども、違和感が拭えない。この違和感の原因は分かっていて、そしてその原因が悪いものではないことも分かっている。人間というものは変わるものだし、創作者もまた変わるものだ。作家も、アニメーターも、歌手も、皆それぞれの道を歩きながらそれぞれの変化をする。それは決して悪い事じゃない。むしろ、同じ所に留まって人にもそうすることを求めることの方がよっぽど悪い。

amazarashiの新曲『ジュブナイル』は、疾走感あふれる応援歌と言っていいと思う。秋田さんは、「少年少女」たちに、「前に進むんだ」と呼びかけている。そこから一歩も動かないのなら君は「侮辱された人間だ」けれども、そこから一歩歩き出せたら君は「負けなかった人間だ」と。

苦しむ少年少女たちの背中を押す。大いに結構。でもぼくの違和感もここにある。これまで秋田さんは、「そこから一歩も動かないのなら君は「侮辱された人間だ」」と歌ったことがあっただろうか。いや、彼はいつもこう歌ってきたのではなかったか、「歩き出すのも 諦めるのも 好きにさせろよ 奇跡 奇跡」。彼は常に「行こうか戻ろうか悩んで」いて、「逃避行」が生きる道になる逆説を歌ってきた。確かに、一歩も動かないままでは「侮辱された人間」として終わってしまうかもしれないけれども、しかしそれさえ「奇跡」ではないのか。秋田さん自身は、過去を全て燃やして前を見据える決意を歌うこともあったけれど、しかし「前進しなければならない」と「少年少女」を鼓舞することはなかったのではないか。

「少年少女」に向けた歌という体裁を取らざるを得ないのは、これが成功者の視座から語られた歌詞だから、という気がしてしまう。つまり上からの目線で語られているから、対象は少年少女にならざるをえない。自らの悩みを叫ぶように表白するこれまでの歌と違い、成功者の立場で、君たちも頑張るんだと応援している。彼は「一歩 歩き出」したのだ。

もちろん、これは寿ぐべきことだと思う。でも、ぼくは置いていかれてしまった。『終わりで始まり』で既に気付いていたこの事実、あるいは亀裂は、いよいよ大きくなっていくのだろうな。

amazarashi、進めよ。行けるところまで行ってくれよ。後ろなんて振り返らないで、無我夢中で走って行けよ。その姿に、ぼくはまた違う感動を覚えるかもしれないから。

終わりで始まり Acoustic Ver.

2012-11-22 04:49:45 | 音楽
amazarashi『終わりで始まり』


いつもの帰り道 ふと見上げたいつもの夜空
なぜだかあの頃とは違って見えたんだ
そうだな 僕も少しはもまともになれたかな 
いや そうでもないか 今も変わらず上手く笑えない毎日です
あの頃の仲間も 無茶はしなくなった そりゃそうだ あいつも立派な父親だもんな
部屋の中で死にそうな顔をしていた僕も 今じゃこんな歌も歌えるようになった

友達のお陰で立ってるんだ
家族のお陰で歩けるんだ
あなたのお陰で生きてるんだ 
ありがとうなんて言いたかねえや

でもさ

いつか僕らが離れ離れになる そのときだって笑っていたい
塞ぎ込んだ過去も正しかったと言い張るために笑っていたい
それだけでいつかの叶わなかった夢も ただの過ぎた景色になるんだ
結局空っぽのままのこの手 僕らは大きく振り合って
答えさえ見つけられなかった目に涙を溜めてさよならして

悲しむな これがスタートラインだよ
僕らの終わりで始まり

この世界はそれほど 綺麗なもんじゃないけどさ
そんなに急いで出ていくことはないじゃないか
僕らの期待を 世界はよく裏切るけれど
期待していなかった喜びに ときどき出会えるんだ

裏切られたことに胸を張るんだ
信じようとした証拠なんだ
疑った分だけ損したんだ
傷ついたなんて言いたかねえや

だから

この先何があったって僕は振り向かずに走っていきたい
躓いた昨日も助走だったと言い張るため走っていきたい
それだけで僕らの笑えない思い出も ただの笑い話になるんだ
あのときついに崩れ落ちた膝で暗闇の中駆け抜けて
あのとき砂を握った掌で確かなもの掴みたくて

分かるだろ これがスタートラインだよ
僕らの終わりで始まり

日々が過ぎて 年が過ぎて 大切な人達が過ぎて
急がなくちゃ 急がなくちゃ なんだか焦って躓いて
もう駄目だ 動けねえよ 蹲ってても時は過ぎて
考えて 考えて やっと僕は僕を肯定して

立ち上がって 走り出して そのとき見上げたいつもの空
あの頃とは違って見えたんだ あの日の未来を生きてるんだ
全てを無駄にしたくないよ 間違いなんてなかったよ
今の僕を支えてるのは あの日挫けてしまった僕だ

「ありがとう」とか「愛しています」とか分からないけど歌っていたい
信じてくれたあなたは正しかったと言い張るために歌っていたい
それだけだ 僕の背中を押すのは あなたが喜んでくれる顔
あのとき伸ばし続けたこの腕で大きくギター掻き鳴らして
あのとき何も言えなかった口で下手くそな歌を叫んで

いつだって ここがスタートラインだよ
僕らの終わりで始まり

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

たぶん、ライブ『千年幸福論』の後にかかっていた曲ですね。通称「スタートライン」。あのときとは明らかに音源が違うし、今回はアコギの弾き語りなので、だいぶ雰囲気が異なります。それにしても、まさに「弾き語り」といった感じで、率直。ちなみに歌詞はたぶんほぼ完全に合っていると思います。もっとも、表記法はかなり違うでしょうけれども。

凡女ルノ

2012-11-04 01:04:31 | 音楽
【全部凡】「だんご大家族」アカペラアレンジで歌ってみた


ぼくも既にHP0です。
こんな歌い手さんがいたのか・・・。これは「だんご大家族」ですが、基本的にはボカロの曲を歌っているみたいです。すげえ。で、選曲が『CLANNAD』といい、やみくろさんの「完全性コンプレックス」といい、完全にぼく好み。いやあ、ネットには いるんだなあ。

ひらがな時代

2012-07-10 22:14:58 | 音楽
amazarashiはかつて(メジャーデビュー前に)「あまざらし」名義で活動していて、その頃の歌がいまYouTubeで聴けます。あえてリンクはしませんが、「闇の中 〜ゆきてかへらぬ〜」という歌です。

ここから、這い上がってきたのだな。この泣き叫ぶような歌声から。日々に置き去りにされる感覚、苦痛、責苦から。

ぼくはいま自分がどこにいるのか分からないけれども、あまざらしと昔どうやら同じ所を歩いたみたいだ。現在ぼくらの抗う手段は違うけれども、それは少なくとも(幸い)ナイフではないぜ。

負け組の歌だなんて言わせねえ

2012-07-08 23:26:18 | 音楽
amazarashiのライブに行ってきました。お台場。会場まで徒歩3分と書いてあったのに、なぜか15分くらいかかってしまう。

今回は立ち見。しかし立ち見といっても、amazarashiのライブは他の多くのライブとは異なり、お客さんは微動だにしません。ちょっとノリ気味で頭を少し動かしている人もいますが、基本的には直立不動。歌が終われば静かにパチパチと拍手します。「ヒュー」という囃子をする人たちもいますが、まあ大体にして落ち着いています。で、思うのですが、amazarashiのライブは立ち見は原則やめてもいいのではないかと。前回の渋谷公会堂みたいに座席があった方がいい。・・・と言うのは、ぼくはちょっと腰が悪いからで、長時間立ったままでいるのはしんどいからでもあるんですよね・・・。そして実際に次回のライブは再び渋谷公会堂でやることに決まりました。

ライブのスタイルはいつもと基本的に同じ。前に半透明のスクリーンを張って、そこに映像を映し出し、その後ろでバンドが演奏。ボーカル含めて姿は完全には見えません。でも思ったよりは明瞭かもしれません。

今回は、「無題」と「少年少女」を歌ってくれてうれしかったです。「無題」って、まさに今、歌われるべき歌だよなあ。ボーカルの秋田ひろむ氏はライブだとときどき歌詞を忘れてしまうことがあるようですが(歌詞長いからな)、今日のライブでは明らかなミスというのはなかったようです。ちょっと危ないところもありましたが、乗り切ってましたね。

それにしても「カルマ」は鉄板ですね。後半の迫力は凄い(この歌はCDよりも断然ライブがいい)。ただ、今回のベストは最後の新曲でしょうか。「ぼくが死のうと思ったのは・・・」というフレーズが反復されるこの歌、とてもよかった。「ぼくが死ぬことばかり考えてしまうのは、生きることに真面目すぎるから」ってところで、ゾワッとしましたよ。

歌の終わりに「ありがとう」と言うことが二回ありましたが、それを聞いて、へえちょっと変わったなと思いました。MCも前回に比べればややくだけた感じ。「amazarashiの歌は負け組の歌だって親父に言われた、という手紙をもらった。敵が見つかったよ。わいはそういうものに抗い続ける。amazarashiが負け組の歌だなんて言わせねえから。」そんな意味のことを秋田氏は言っていました。

あ、今思ったのですが、「負け組の歌」というのは、「負け組が歌う歌」という意味も当然あるのでしょうけれども、「負け組が聴く歌」という意味もあるんですね。だから彼は、「負け組の歌だなんて言わせねえから」って言ったのかな。


帰り道。近道しようとして道を間違え、結局15分以上かかってしまう。でも、とにもかくにもライブを見れたのだ。