ぼくは村上春樹の小説はこれまでほとんど読んでこなかったので、来年はたくさん読んでやろうと思っています。彼がノーベル賞を取るまでにはほとんどの小説を読み終えておきたいですね。…これは一種のジョークですが、しかしだいぶ以前から春樹はノーベル文学賞の候補に名前が挙がっていることは有名で、大学の先生の中には、春樹が受賞したときに備えて、新聞社から解説記事を依頼されたときのことを想定して既に文章を書き上げている人もいるそうです。聞いた話によると、ですけどね。
さて、『1973年のピンボール』は春樹の初期作品で、『風の歌を聴け』の続編的位置付け。詳細なストーリーにはここで立ち入りませんが、どちらも二十歳くらいの男性の生活を綴ったものです。それにしても、春樹には文学的なセンスが溢れるほどあります。センス、という抽象的な言い方しかできないのはぼくの語彙の少なさが原因ですが、しかし本当にセンスとしか言い得ないような言葉の選び方、比喩、文章全体の小気味よさが春樹の小説にはあります。島田雅彦は春樹が嫌いらしく、彼の小説を酷評していますが、島田雅彦の『徒然王子』などを読む限りでは、どう見ても春樹の方に軍配を上げたくなります。この小説では作者がユーモアを出そうと苦心しているさまが痛々しいほど感じられ、読むのが辛くなるほどです。
ま、それはいいとして、春樹の小説は無駄が省かれていて、的確な文がきちんと順序よく揃っているという印象。ピンポイントでいま必要な言葉を当ててくる、という感じ。時にリリカルで時に乾いた口調の文章は非常に読みやすく、頭にすんなりと入ってきます。想像を絶する比喩、シュールレアリスティックな言葉の衝突が小説の至上のあり方として称揚されるときもありますが、やはり春樹のような滑らかで人間の感情に訴えかけてくるオーソドックスな文章の方が、長い小説を読むのだったらぼくは好きです。
ところで、映像作家の新海誠が村上春樹に入れ揚げていることはよく知られていますが、『1973年のピンボール』には、新海作品に出てくる台詞がほとんどそのままの形で綴られていました。というよりは、『雲のむこう、約束の場所』には『1973年のピンボール』と同じ言葉が使われている、と言うべきでしょうね。講談社文庫の60ページにそれはあります。「家に帰って服を脱ぐたびに、体中の骨が皮膚を突き破って飛び出してくるような気がしたものだ」。「雲のむこう」では、東京で下宿しているヒロキが自分のアパートに帰ってきたときにこれによく似た独白が流れますね。他にも新海誠の映画で印象的なフレーズを『1973年のピンボール』の中に発見することもあり、これは軽い驚きでした。このようにして、ある作品の中にある何かの感情やリリシズムといったものが別の作品に注ぎ込まれ、そしてそれらは新たな享受者に受け継がれてゆくのだな、と思いました。
さて、『1973年のピンボール』は春樹の初期作品で、『風の歌を聴け』の続編的位置付け。詳細なストーリーにはここで立ち入りませんが、どちらも二十歳くらいの男性の生活を綴ったものです。それにしても、春樹には文学的なセンスが溢れるほどあります。センス、という抽象的な言い方しかできないのはぼくの語彙の少なさが原因ですが、しかし本当にセンスとしか言い得ないような言葉の選び方、比喩、文章全体の小気味よさが春樹の小説にはあります。島田雅彦は春樹が嫌いらしく、彼の小説を酷評していますが、島田雅彦の『徒然王子』などを読む限りでは、どう見ても春樹の方に軍配を上げたくなります。この小説では作者がユーモアを出そうと苦心しているさまが痛々しいほど感じられ、読むのが辛くなるほどです。
ま、それはいいとして、春樹の小説は無駄が省かれていて、的確な文がきちんと順序よく揃っているという印象。ピンポイントでいま必要な言葉を当ててくる、という感じ。時にリリカルで時に乾いた口調の文章は非常に読みやすく、頭にすんなりと入ってきます。想像を絶する比喩、シュールレアリスティックな言葉の衝突が小説の至上のあり方として称揚されるときもありますが、やはり春樹のような滑らかで人間の感情に訴えかけてくるオーソドックスな文章の方が、長い小説を読むのだったらぼくは好きです。
ところで、映像作家の新海誠が村上春樹に入れ揚げていることはよく知られていますが、『1973年のピンボール』には、新海作品に出てくる台詞がほとんどそのままの形で綴られていました。というよりは、『雲のむこう、約束の場所』には『1973年のピンボール』と同じ言葉が使われている、と言うべきでしょうね。講談社文庫の60ページにそれはあります。「家に帰って服を脱ぐたびに、体中の骨が皮膚を突き破って飛び出してくるような気がしたものだ」。「雲のむこう」では、東京で下宿しているヒロキが自分のアパートに帰ってきたときにこれによく似た独白が流れますね。他にも新海誠の映画で印象的なフレーズを『1973年のピンボール』の中に発見することもあり、これは軽い驚きでした。このようにして、ある作品の中にある何かの感情やリリシズムといったものが別の作品に注ぎ込まれ、そしてそれらは新たな享受者に受け継がれてゆくのだな、と思いました。