Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

ロシア語版『ほしのこえ』あらすじ

2012-12-27 01:57:48 | 漫画
というわけで、裏表紙のあらすじをざっと訳してみる。

「人類は地球外文明との接触を果たし、中学3年生のミカコ・ナガミネは太陽系外の軍事研究ミッションのメンバーに選ばれた。彼女は地球に残った友人ノボル・テラオにメールを書く。彼女が生まれた星から遠ざかるにつれて、メールが届くまでの時間も長くなってゆく。彼を何年も待たせてしまうことになるのだ、二人を隔てている宇宙の虚空を通して彼女の声が彼に聞こえてくるまで・・・」

こんな感じ?「軍事研究ミッション」というのは、なんと訳してよいのか分からなかったので直訳してみました。ひょっとしたら日本語版に該当する単語があるかもしれません。最後の文は、あえて原文に忠実な順序にしましたが(あと人名も)、それはロシア語っぽい雰囲気を味わってもらうためであって、もしちゃんと訳すのなら、日本語としてこなれた文にします。つまり、「二人を隔てている宇宙の虚空を通して彼女の声が彼に聞こえてくるまで、彼は何年も待たなくてはならなくなってしまう・・・」みたいに。

ちなみに、ロシア語版だと「彼女の声」というのが文章の最後になっていて、これは明らかに「ほしのこえ」と呼応しているので、日本語でもなるべくそれに配慮したいのですが、難しいですね・・・。

やっとワンピース

2012-07-13 22:43:08 | 漫画
ずっと読んでいなかったワンピースを久々に読みました。たぶん3年以上読んでいなかった。昔はジャンプを買って読んでいたので、単行本で読むのはちょっと新鮮だったりする。それにしても、やっぱりおもしろいな。

今更こんなことを言っても「後出しじゃんけん」みたいなのですが、ぼくはワンピースがヒットすることを中学のときに既に予言していたのですよ。ワンピースが連載される直前だったと思うのですが、尾田栄一郎さんの読み切りがジャンプに掲載されていて、それを読んだぼくは、大変感心したのですね。すごい人が現われたと。そしてワンピースが始まりました。これがとてつもなくおもしろい。絵ものびのびしている。ぼくはバスの中で同級生にこう言ったのです。「この作者は、第二の鳥山明になるよ」と。ワンピースはドラゴンボール級になると確信していました。

今なら誰だってそんな過去捏造できるぜ、と言われたら言われたで証明する方法は何もないわけですが、まあ別に信じてもらえなくてもいいのです、いずれにせよ本当のことなのだから。

何が言いたかったかというと、ぼくは連載当初(いや連載以前)からワンピースや尾田栄一郎さんには目を付けていて、今になってハマってしまったというのとは違うのですよ、ということ。ただ、最近は読んでなかっただけなのです。

この時代に生まれたからには、ワンピースがどんな物語になってゆくのか、今後も見守りたいですね(これからはできるだけ遅れずに)。

柊あおい「桔梗の咲く頃」

2009-11-19 01:30:24 | 漫画
やらねばならないことは多いのに、今日はなんだか全くやる気がせずだるかったので、何もせず、夕方にやっとこさ重い腰を上げ、そうして柊あおい「桔梗の咲く頃」を読むことにしました・・・

ぼくは小説はあまり繰り返して読まないのに、どうして漫画は何度も読むのでしょうかね。やっぱり手軽だからかな?それはともかく、この漫画は久々に再読。別に傑作というわけじゃあないんですけども、わりと好きな話です。

自宅の家の庭に咲いている桔梗をじっと見つめる女子高生に恋をして・・・というようなお話なわけで、当然最後はハッピーエンドで、でもちょっと擦れ違いもあったりして、とかそんなストーリーをここで紹介しても意味ない気がします。自分なりに気に入った箇所を、ちょこちょこと書きます。

少女は過去に悲しい恋愛経験があって、中学の頃に両想いだった少年が転校してしまったんですね。でもその別れが悲しい思い出だったわけではなく、少年が少女に黙って、引越しのことを何も言わずに、そのまま去っていってしまったことが悲しくて、まだ立ち直れないでいました。このエピソード自体はベタといえばベタだし、どうってことないようにも思えるわけですが、ぼくは昔同じような経験があったので(加害者側)、それなりに感情移入しました。結局、このヒロインの少女はその少年と再会して、そのときに聞けなかったこと、話したかったことをお互い確認して、それぞれの道を歩いてゆくことに決めました。ぼくの場合はそのままで、謝罪もできなかったので、彼女たちが羨ましかったりします。

友達として映画に観に行ったりしてつきあうことと、恋人としてつきあうこととを、分けて考えるのが嫌だって、桔梗(少女の名前)の言うところ。ここがいいなと思いました。まあ確かに恋人とは何か、とか、つきあうってどういうことなのか、とか、よく考えてみるとぼくにはよく分からないのですが、友人と恋人との境界線ってなんだろうな、それははっきりと分けられているのだろうか、とは前から疑問に感じていて、こういう問いはちょっとナイーヴすぎるとは自覚していたとはいえ、この漫画でこういうシーンを見つけて、ああやっぱりそうなんだな、と思いました。(ちなみに「ああそうなんだな」とか「ああそういうことか」とかいう台詞は最近のぼくのお気に入りです。)それでもやっぱりこの二人は恋人としてつきあっていこう、ということになるわけですが、どうせならこの問いをもっと深く突き詰めてもよかった気もします。

二つの話が平行して進んでいくところ。特に138-139頁。少女の側の日常と少年の側の日常とが並行して描かれていくわけですが、そのコントラストが高まるのがこの場面。少女の方では話が急展開して、過去と決着を付けるために昔好きだった少年に会いに行こう、ってことになるのですが、その次のページでは、主人公の少年の独白が、こうつづきます。「あれからも 僕はなにかを期待して 朝は あの電車に乗り 夜は 電話の鳴るのを 待っていた」。新海誠チックでいいですよね、こういうところ。まあしかし、彼の独白はリリシズムに染まりきらないところがもどかしくもあるのですが。

あとマフラーを一緒に巻くところ。これには説明はいりますまい。

こういう少年少女の淡い恋とかそういうのがぼくは好きなので、全体的に言って、わりあい好きな物語、ということになります。ところで題名にも少女の名前にもなっている「桔梗」ですが、これについて。何年も前に、花占いみたいな本を好んで読んでいたことがありまして、生年月日を調べると、その日に対応している花が見つかる、という本なのですが、ぼくの誕生日4月23日の花は、まさに桔梗でした。だから個人的に思い入れのある花でもあります。ちなみに、たしかシェイクスピアが同じ誕生日です。

幸せな時間

2009-09-17 01:20:47 | 漫画
柊あおい『耳をすませば 幸せな時間』を再読。
いよいよ本領発揮というか、ぼくの専門は『耳をすませば』なので、色々とこれについては語ることができるわけですが、今日は続編の漫画「耳をすませば 幸せな時間」を読んで感じたことを二、三。

『耳をすませば』の頃とは画質がけっこう変わっていますね。それと、この漫画の設定では彼女は中学一年生でしたが、「幸せな時間」では映画に合わせて中学三年生になっています。したがって、顔付きはだいぶ違います。聖司はそれほどではないですが。

内容は、『耳をすませば』というよりはむしろ『猫の恩返し』に近いです。自分の時間というものを認め、それを大切にしましょう、という話です。「幸せな時間」を読んだことのない人のために粗筋を書いておきます。

中学三年生になった雫は、夏休みに友人の夕子から、ぼやぼやしていると聖司がどこか遠くに行ってしまうわよ、と忠告されます。その日、通りで鳥の羽根を拾った雫は、その足で地球屋に向かい、主人の西老人から不思議な話を聞かされます。ある晩鳥が地球屋を訪ねてきて、自分の羽を自分に売り渡したこと。その羽はいま壁に飾られており、満月の光を三度浴びると人はその羽を付けて空を飛ぶことができるようになるということ。鳥の羽は、死を運ぶということ。10月に入り、羽のことでなぜだか不安を感じた雫は黒猫のルナの声に導かれ、猫の図書館を訪ねます。そこで調べれば羽について何か分かるかもしれない。館内で自分の時間を奪われそうになった雫はしかしバロンに救われ、三度目の満月の光が射し込む地球屋に直行します。しかし一足早く、聖司はあの羽を身に付け、鳥に変化していました。

…もうお気付きだと思いますが、これは夢。けれども雫は聖司にこう言います。「もし聖司がどこか遠くに行くって言っても たとえそうなったとしても… 聖司と私が同じ想いなら ……きっと 道はどこかでつながっていると思ってる」
誰もが「それぞれの時間」を持っています。皆、次の世界へと羽ばたいてゆきます。でも、いいじゃないか。本当に鳥になってしまうわけじゃないんだからさ。
というお話。

こうして読み返してみると、いま「みんなのうた」で流れている「YELL」という歌を思い出しますね。「さよならは悲しい言葉じゃない」という歌詞が印象的なこの歌と、テーマが共通しています。人はそれぞれの道を歩んでゆくから、どこかで必ず誰かと別れなければならないけれど、さよならを言わなくてはいけないけれど、それは悲しいことじゃないんだ、次の世界へのエールなんだよ、という歌です。

「幸せな時間」は当然映画とリンクしていますから、聖司が外国へ旅立ってしまう可能性を仄めかしているわけですね。でも、思いが通じていれば、道は必ず再び交わる。そういうメッセージですね。映画への原作者からの返答であるとも考えられるでしょう。「幸せな時間」の中では、もちろんより卑近な問題としてこのテーマは捉えられていて、すなわち受験がそうですが、中学を卒業したら皆ばらばらになってしまう、ということがこのテーマの発生するきっかけだったわけです。ところが、ぼくとしては、やっぱりこのテーマは映画の結末に接続させたいという気がします。そしてそこから更に、より普遍的な意味で(「YELL」で歌われているような意味で)捉えるべきだと思います。

自分のことに引き付けて考えてみるに、人生のある段階で誰かと別れなければならないというのは辛いことです。ぼくは今まさにそのような状況に置かれています。就職するのか、大学に残るのか。また、友人がおのれの道を歩いてゆくのを許せない自分がいます。というのも、別れが愈々深刻に決定的になるし、自分だけが取り残されてゆく気がするからです(「ぼくだけが、わたしだけが、世界に一人きり取り残されている、そんな気がする」)。自分の道を見つけるのは容易いことではありませんが、しかし人が道を見つけたときは、笑顔で送り出してやるべきではないか、とそんなことを「幸せな時間」を読んで思いました。難しいですが。でも、そんな優しい気持ちにさせてくれる物語ですよ。ちょっと拙いですけどね。

イバラード物語

2009-07-19 01:50:42 | 漫画
きのうのショックからまだ立ち直れず、今日はとりあえず漫画を一冊読む程度のことしかできませんでした。でもそれだけでもできたというのは、最悪の状態ではないってことです。

さて、井上直久の漫画『イバラード物語』読みました。
どこかますむらひろしを思わせる素朴な、しかしトーンを貼らないで描く細密なタッチは流行りの漫画にはない我流のもので、繊細さを醸し出しながら幻想性をページ一杯に瀰漫させています。

井上直久は本来画家であり、彼のイバラードと呼ばれる幻想世界を描いた絵画は非常に詩情に富んでいて独特ですが、この漫画はまさにそのイバラード世界を舞台にした作品であり、彼の絵画が好きな人ならばきっと気に入ってしまうでしょう。彼の絵画はふつう風景の一部を切り取ったものであり、静止した世界なのですが、漫画の世界は躍動的で、様々な冒険が繰り広げられます……と言ってもよくあるような活劇ではなくて、イバラード独自の設定が生かされた冒険なのです。思念を増幅させるシンセスタ、あるときはライトセーバーであるときは銃であるときはライターでもある、それで空さえ飛行できるリグタ、線路のない高速鉄道ジーマ、それを見ると魔法の力が失われるというめげゾウ…などなど、数多くのイバラード固有の道具や現象が鏤められていて、というよりはそれが土台になって話が展開します。ここは魔法使いが普通に生活している世界であり、モグラは言葉を話すし、自分の抱いているイメージ(思念)が実際に目に見える形をとったりします。ラピス・ラズリに火をつけて煙を出せば、あらゆるものの細部が急激に見え出して、ついに自己の存在が不安定になってしまう…

記憶(ロム)を宿したロム石が化石になって積もっている森、ラピュタの生誕、高速ホタルなど、幻想的で想像力に満ち溢れた形象は枚挙に暇がありません。そういうものたちが凝縮された漫画が、この『イバラード物語』です。こういうのが好きな人には堪らないでしょうね。

ちなみに、井上直久の絵画(イバラード)は彼のHPで容易に見られます。
 ↓
http://iblard.com/hanga/

11人いる!

2009-06-09 23:16:08 | 漫画
「けいおん!」まであと二日。それまでがんばらなきゃ。
どうも今日は調子が悪い。書いたら寝よう。
アヌシーがついに開幕。一遍行ってみたい。

さてと。

言わずと知れた萩尾望都の名作「11人いる!」を読みました。
これはもうS級作品ですね。A級以上ってことです。ドラゴンボールで言えば、超サイヤ人3がS級で、悟飯がセルとの戦いのときに超サイヤ人2に覚醒したときの状態がA級です。A級でもものすごいレベルだということです。文学で言えば、名だたる世界文学の古典で且つおもしろく読めるものはよくてA級、しかしその中の特別なもの、例えばドストエフスキーの後期の長編などがS級です。もちろんこれはぼくの個人的な評価であって、絶対的な基準ではありません。オーケー?

さて「11人いる!」の舞台は宇宙船。宇宙大学の最終試験に残った10人が、宇宙船で53日間暮らすことを強いられます。それをクリアできたら晴れて合格。しかし、宇宙船に乗り込んだメンバーは、なぜか11人いた!

この設定が秀逸ですよね。どうやら宮沢賢治の小説からインスピレーションを受けたようですが、それをよく活かしています。宇宙船という完全な「密室」で、受験生以外の謎の人物が紛れ込んでいることから彼らの間に猜疑心が生まれ、サスペンスも生じます。謎を孕んだまま物語は様々な事件を生起させ、やがて収束へと向かうのですが、それがいわば第一のプロット。もう一つのプロットは恋愛です。と言ってもベタな物語ではなく、男性であること、女性であることについて色々と考えさせられる、しかも実に感動的なドラマです。この二つのプロットが絡み合いながら時間が進行してゆきます。

他にも幾つかの作品が収録されていましたが、いずれも傑作。学会で話題になるだけのつまらない小説を読むより、萩尾望都の漫画を繰り返し読んだ方がよっぽど時間を有意義に使える気がします。
でも漫画も多様ですよね。これほどのレベルの作品から、どっかの週刊雑誌に載っている下らない作品まで、まさに玉石混交。まあ裾野が広いと言えるのかもしれませんが。

そういえば、以前友達とアニメーションを作ろうじゃないか、みたいな話になって、ぼくがコンテを書き始めたところ、頭の中にあるイメージを絵にしようと奮闘し、しかし結局絵の横に言葉でそのイメージを説明するようになってしまったことがありました。ぼくにとっては、絵よりも言葉で世界を解説する方が合っているのかなあ、と残念のような得心のいったような複雑な気持ちがしたものですが、「11人いる!」の作者は完全に絵と言葉で世界を表現する能力に恵まれているようです。すばらしい。

あずまんが大王1

2009-05-02 00:13:36 | 漫画
あずまきよひこ『あずまんが大王1』を初めて読みました。
実は、恥ずかしながら、この漫画については題名と絵柄しか知らなかったので、こういうのだったのか~とちょっと驚きました。つまり、4コマってことを知らなかったのです。そしてゆる~い女子高生の学園生活を描いたものなんですね。らきすた系か。

思ったよりずっとおもしろかったです。数年前にジャンプの講読をやめてからというもの、ぼくは漫画というものからとんと遠ざかっていたのですが(今や年に数回読む程度)、やっぱり漫画っていいですよね。

ところで、こういう漫画を読んでいると、ぼくは少し悲しくなってきます。どうして自分はこういう高校生活を送れなかったんだろう、と。こんなのは幻想だよ、フィクションだよ、って気はしますが、ぼくは高校が大嫌いだったので、楽しそうな日常が羨ましいです。せめて、学校帰りに友達とマックとか寄って、だべっていたかったなあ。中学のときは学校が終わったら即行で友達の家に行って、ゲームとかして遊んでたんですけどねえ…部活のない日は。ああ、あの頃の日々が懐かしく眩しい。

ちなみに、少年少女の楽しげな学園ものって、描いてる作者は実はそういう体験をしてこなかった人だと踏んでいるのですが、どうなんでしょう。自分にはそういう思い出がないから、憧れの学園生活を描くのです。未練がなければわざわざ作品化しないですからね。そこにこだわりがあるから、そういうのを描くんであって。傾向として、そういうことがあるんじゃないかと思っています。

『あずまんが大王』、おもしろかったです。ちゃちゃちゃっと読めるところもまたいいですね。

NHKにようこそ!

2009-03-02 00:26:25 | 漫画
『NHKにようこそ!』については随分前に書いたことがあるのですが、先日ようやく全巻読み終えました。

最後はちょっと尻すぼみだったかなあという印象です。最初は突っ走っていって、6巻くらいまでは犯罪すれすれの行為も交えつつ(というか犯罪?)、かなり自虐的な誇張された描写とギャグで楽しませてくれましたが、最後はどうも陳腐なところに落ち着いてしまったなという感じです。

絵が上手くて、それで登場人物に親しみがもてたのだと思います。止まった絵も見応えがありますけども、動きのある絵も躍動感があって、アニメーターとしても成功しそうな能力があるように感じました。

ニートと美少女との組み合わせはおたく迎合的な作風ですが、何か突き抜けるような清々しさがあって、全部笑い飛ばして嫌なことは忘れてしまいたくなりますね。

後半はちょっと残念でしたけど、個人的には好きな作品でした。

今日は短いレビューです。

ドラゴンボール 実写と漫画

2009-02-28 00:03:08 | 漫画
ドラゴンボールの実写版がもうすぐ公開されます。
CMで少しだけ観ましたが、あれだけでは判断つきません。でもたぶん、設定を借りただけの作品になっていると思います。

ぼくは、それはそれで構わないと思っています。でも、大事な部分だけは変更しないで欲しいとも願っています。ハリウッドが作ると、惚れた腫れたの映画になってしまいそうで怖いです。戦う理由として、地球を守りたいからとか、ある女性を守りたいからとか、そういうものが大きくなってくるのは仕方のない面もあります。娯楽映画ですからね。しかし、ドラゴンボールを映画にするのなら、そのような陳腐な理由だけにはして欲しくないのです。

ドラゴンボールで次第に明らかになってくるテーマというか、一つの強烈な感情があります。それは、「誰よりも強くありたい」という悟空やベジータの気持ちです。とにかく相手に負けないこと。守りたいものがあるから戦うというのはその通りです。しかしそれは建前に過ぎません。本当は、その敵と戦って勝ちたいのです。とにかく負けたくないのです。だから戦うのです。これはひょっとしたら危険な思想かもしれないのですが、でもこんなに純粋な気持ちは、他に滅多にあるものではありません。偉そうな理由をつけて戦う凡百のヒーローよりも、ドラゴンボールのキャラクターたちの方が、よほど輝いて見えます。

悟空は相手の命を絶つことに執着しません。むしろ情けをかけます。けれどもそのことを巡りベジータと対立します。ドラゴンボールにおいて、この殺生のテーマは段々と浮かび上がってきます。あるいは、「悪」を巡るテーマと言ってもよいかもしれません。どういうことかというと、鳥山明が最後に辿り着いた結論は、絶対悪なら殺しても構わない、ということなのです。それはブウ編で象徴的に描かれています。加えてドラゴンボールの後の作品『カジカ』でもそのテーマは前景化しています。しかし逆に言えば、少しだけでも「善」があるのなら、殺してはならないのです(そして普通の人間には必ず「善」がある)。

だからぼくはハリウッド版が、無闇に無辜の市民が殺されたり、または悟空が誰か愛するようになった女性を守るために戦いを始める展開に流れ込むことを恐れています。そうなってしまったら、それはもうドラゴンボールではありません。確かに漫画でも地球人はあっけなく殺されてしまうので(たとえ生き返るにしても)映画にばかり奇麗事は要求できないのですが、でも映画には漫画で深められた悪についての考察を出発点にして始めて欲しいのです。ちなみに、漫画では最後まで悪だったのはフリーザくらいですよね。セルは微妙なので(というのは彼も単純に悟空よりも強くありたいと願っているだけのように見えるから)。純粋悪のブウは善人に生まれ変わりますし。

単なるアクションもののメロドラマにはなって欲しくないです。

CLAMP『CLOVER』

2008-12-02 01:47:47 | 漫画
一気読みしました。
全四巻ですが、構想は第六巻くらいまであるそうですね。ウィキペディアによると。確かに物語には未完の雰囲気があります。きちんと閉じられてない、というか。

でも、物語が最初に戻らない、つまりちゃんとした枠組みがない話というのは個人的に好きです。たとえ構想では、最初の話に戻るのであっても、ぼくはこういう終わり方の方がいいと思います。

退役軍人が、ある少女の護送を国家から依頼され、敵の追っ手を逃れながら、目的地である妖精遊園地(フェアリーパーク)に向かいます。実は彼女には絶大な力があり…

こういう話が二巻まで。彼女はある歌手と約束をしていて、その歌手というのはその退役軍人の元恋人。「元」というのは、既に死んでしまったから。この歌手の話が展開されるのが第三巻。最終巻は、護送を手伝った退役軍人の友人の物語。どちらも第一巻の冒頭に至るまでの過去の話。

この歌手の歌が重要な役割を果たしていて、漫画の中でその歌詞の一節がほとんど常にと言っていいほど挿入されます。物語の流れの中に歌詞を置くことで、その様々な文脈に応じて歌詞の意味も移ろいます。こういう技法はとても上手いですね。そして、コマ割りも詩に合わせているかのように、詩的で、空白(余白)を多用します。そして影。

また、非常に細かい描線が特徴的。機械が多く出てきますが、それらの描写がとても緻密。クライマックスシーンでは、ペンで引いただけの線が何本もうなりを上げ、建物を破壊し、人体を貫きます。

印象に残っているシーンは幾つかありますが、特に非凡だなと思ったのは、歌手が「ア・イ・シ・テ・ル」と言う口の動きを、ひとコマに一言ずつ描いてみせるところ。これは、ナボコフの名作『ロリータ』の冒頭を思い出させます(ちなみに『ロリータ』をやらしい小説だと思っている人が少なからずいるようですが、全く違います)。

二巻の最後で、結局この事件はどうなったのか、少女の生存は?と気になることはあるのですが(任務完了の暁に消えるはずのマークが消えていないのは、まだ完了していないから?)、このままで終わってもいいな、とぼくは思います。ちょうど半分の分量で本筋は全部語り終え、残りの半分でそれに至るまでの歴史をなぞっていく、という手法はなかなか切なくてよいです。特に第三巻が好き。

それにしても、純粋に物語を楽しみたいのなら、別に小説を読まなくたって構わないんだな、と思いました。では、小説の存在意義とはなんだ?というと、やっぱりそれは「言葉」を拠り所にするしかないのだと思います。

そういえば、今日、ジャック・フィニイの別の小説を買いました。彼もストーリーテリングが巧みなので、読むのが楽しみです。

ちなみに、この漫画のアニメーションを先ほど見ました。ミュージッククリップのような作品ですね。監督が高坂希太郎なのに吃驚。しかも美術は山本二三で制作はマッドハウス。けっこう豪華ですね。

『きみにしか聞こえない』

2008-10-31 03:51:44 | 漫画
「携帯と時差というギミック(道具)を使い、相手に何かを伝えようとする物語」と言ったら、人は何を思い浮かべるでしょう。アニメに詳しい人なら、たぶん新海誠の『ほしのこえ』と言うでしょう。しかし、これは乙一原作の漫画『きみにしか聞こえない』の要旨です。


ブックオフで立ち読みしたのですが、途中で思わず泣きそうになってしまい、困りました。かなり泣けます、この話。

携帯電話を持っていない、今時珍しい女子高生が主人公です。彼女がしかし、頭の中で携帯電話を空想しているうちに、本当にその空想の携帯電話が鳴り出してしまいます。というところから話はスタート。電話の繋がった相手は高校生の少年で、彼女と彼とは心の中で会話をします。そのうち、この空想の電話の相手とは時差があることを、別の回路で繋がった28歳の女性から教えられて…

この、「電話で話す相手とは場所はもちろん時間までもが別の世界に属している」、という設定が、後になって効いてきます。

それにしても本当に『ほしのこえ』を髣髴とさせる内容で、こういうのが好きな人にはたまらないと思います。

そういえば、アンジェラ・アキの『手紙』という歌にも通じるものがありましたね。これは漫画を最後まで読まないと分からないのですが…

あと、なんか散漫な感想になっていますが、途中で、これって少年が主人公じゃね?とか思えてきますが、最後はやっぱり少女が主人公だなあと納得。

それと、絵が清潔感があってとてもよかったです。少女が可愛くて少年がかっこいいという王道。でもそのイケメンぶりが男女ともにハンパなくて、惚れ惚れ。

とにかくすげーおもしろかったです。

ぼくが漫画を描いたなら

2008-09-04 01:44:17 | 漫画
漫画を描くとしたら、どういうものがいいだろう。
まず、複雑な機械や乗り物、多くの人間が登場する漫画は描けない。というのも、絵がそんなに上手じゃないから。できれば登場人物は少ない方がいい。

テーマは、今の自分の気持ちに寄り添ったものがいい。本当なら漫画『風の谷のナウシカ』のような、自然と人間の関係、人間の業などがテーマの作品が理想だけど、それではどこか借り物みたいになってしまいそう。

だから、将来どうするかとか、中学生の頃に戻りたいとか、そういう極私的なテーマ設定がいいかもしれない。世界観は狭いけれど、自分の気持ちに正直な漫画が描ける。

例えばこんな話。中学生の頃に戻りたいと思っているフリーター(男)が、ある日目が覚めたら本当に中学生になっている。戸惑いながらも、心の底で喜びを感じながら、学校へ向かう。仲間と楽しくじゃれあう主人公。ところが、次第に「大人の思考」が遊びに水を差す。体は中学生でも、心は大人なのだ。それに、将来のことを知っているため、世間の出来事に本気で入れ込むことができない。仲間たちとの会話も弾まない。こんなはずでは、と悩む主人公。

ここからどうするかはまだ浮かんでこないけど、とにかく最後には主人公は現実世界に戻り、過去を回顧するのではなく、未来を生きることを決意する。

でも。これは、どうもありふれた設定のように思えるし、第一、テーマがぼくを裏切っている。この漫画から言えることは、結局のところ、未来を大事に、ということだけど、そんなことは分かりきっている。分かっていても、それでも、過去を振り返ってしまうことに人生の深みがあるのだと思う。この漫画は、それが描けていない。単に「未来を生きよう」では、誰も心を打たれない。ぼく自身それでは納得できない。

いっそのこと、過去に留まり、永遠にそこに住み続けるという話に変えたらどうだろう。その過去は絶対的過去で、未来に通じることはない。のび太が永遠の小学5年生であるように、主人公たちは永遠に中学2年生であり続ける。回帰する世界。それはちょうど、『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』のような世界だ。その永遠の世界を描くことで、ひょっとしたら、未来に通じる世界の方が意味がある、ということに気が付く読者がいるかもしれない。あるいは、永遠の過去の世界の方に安逸を見出す読者がいるかもしれない。判断は読者に委ねよう。

大事なのは、自分で信じてもいない価値を声高に主張しないことだ。人に押し付けないことだ。自分でも迷っているのだから、その迷いをそのまま漫画に投影しよう。それが、いまぼくのできる正直なやり方だと思う。

ところで、漫画を書く暇なんてあるのでしょうか…

「ひぐらし」っておもしろい?

2008-07-22 23:57:16 | 漫画
漫画版『ひぐらしのなく頃に』を途中まで読んでみたんだけど、なんで人気があるのか分からない。要するにホラーでしょ、あれ。ホラーを受け付けないおれのような人間には、向かない話なんじゃないかと思った。残虐なシーン、というのが評判みたいだけど、そういうシーンはごくごく少ない。ただ、人間が憑かれたように豹変するシーンや、暴力を行おうとするシーンなどが怖くて、おれのような臆病な人間は、それだけで読むのをやめたくなる(笑)。

いわゆる萌えキャラが登場する漫画で凄惨な事件を描くことが意外性があって評判を呼んだんだろうことは想像に難くない。あと、単なるホラーじゃないって言う人もいると思う。でも、もともと単なるホラーなんて少ないわけでね。裏に悲しい愛があったりするわけだよね、ふつう。『リング』が以前に評判になったことがあったけど、あれも、たぶんホラー以外の要素があったわけでしょ。まあホラーだから見てないけど。

ただ、同じ事件を、少しずつ設定を変えながら語り直していくという手法そのものはなかなか興味深い。真相が最後になっても分からないというのも、現代的でおもしろいと思う。でも、「どうせ祟りでしょ」とか思って別に真相が気にならなかったおれみたいな人間には、結局のめり込めない話なんだなあ。

しかし何より、とにかくホラーだから好きになれないんだ。ホラー的な演出を変えてくれればもっと楽しく読めたと思うんだけど…

教養としての〈まんが・アニメ〉

2008-07-02 02:10:55 | 漫画
『教養としての〈まんが・アニメ〉』(講談社、2001)を読みました。
まんが編は、大塚英志が書いています。手塚治虫から書き起こして、岡崎京子で締め括っています。

戦後まんが史は、手塚治虫の命題、「アトムの命題」を背負っていたと大塚英志は言います。それは、「記号絵」が「死」や「成熟する身体」を付与されていくことへの葛藤です。後には「性」もが付与されていくことになります。戦前のまんがにおける記号絵には「死」は付与されていませんでしたが、戦争を体験した手塚治虫は、戦前から受け継いだ記号絵に、「死」を与えます。そして「アトム」で「成熟しない身体」に対する葛藤を表現します。その葛藤のバトンは梶原一騎原作の「あしたのジョー」へと渡されます。

さて、萩尾望都たち「二十四年組」と呼ばれるまんが家たちは、まんがにおいて「内面を発見」したと大塚英志は言います。それは、ふきだし以外の独白の技法によって達成されたのでした。そしてこれらの少女まんがにおいて、「性的な身体」が発見されたのです。

この「性的な身体」を更に発展させたのが吾妻ひでおです。彼は今のおたく表現の源流であると名指しされます。そしておたくの限界を既に生きてしまった天才であると。吾妻ひでおは、記号絵にも性的に欲情しうる人たちがいることを証明して見せたのです。いわゆる「萌え」の大本を作り出してしまったと言ってよいでしょう。

岡崎京子は、少女まんがが見失っていた「内面を描く技術」とそれによって描かれた「アトムの命題」の後継者です。記号絵によって「生身の身体」を描くことに、岡崎京子は正面から挑んでゆきます。

大塚英志の記述は大変分かりやすかったです。また、記号絵と生身の身体との葛藤、という軸もぶれることがなく、筋が通っていました。それだけに、細部が削られてしまったのだろうな、とは想像に難くありませんが。しかし、自分のようなまんがの素人が読んでもよく分かる、且つおもしろい本でありました。

NHKにようこそ!

2008-05-01 23:30:36 | 漫画
初めて『NHKにようこそ』(漫画)を読みました。前から存在は知っていたけど、どういう内容だかは全く知らなかったので、本当に、NHK内部の話だと勘違いしてました…なんとうぶなやつなんだ。

表紙(1巻)の少女の絵が可愛かったので、おっと思って、ぱらぱらとページをめくってみたら想像していた内容とまるで違っているようだったので、なんかおもしろそうだぞ、ということで読み始めました。

で、本当に想像とまるで違っていました。NHKとは、「日本(N)ひきこもり(H)協会(K)」の略だった!つまりひきこもり漫画ですね。主人公はひきこもり。しかも4年間。22歳。男。で、隣の部屋に越してきた高校のときの後輩に再会して、エロゲー作りに巻き込まれてしまう。毎日フランス書院を読み漁り、シナリオ作りに没頭するのであった。ひきこもりながら。あげくにロリコンにのめり込み、アキバで萌え体験をする。外に出られるようになったはいいけど、おたくでロリコンという属性を持ってしまうのだった。ところが、そこへ岬という可愛いコがひきこもりという境遇から主人公を脱出させようと天使のようにやって来るのでした。ラブストーリーの予感。

ところで、山崎という主人公の高校の後輩の台詞にノックアウトさせられてしまった。「現実の女なんてクソですよ」。あわれ、2Dに萌えた男の末路かな。とか言いつつこの男も現実の彼女を作ろうともがいているんですが…。

ロリコンにしろヤクにしろ違法ぎりぎりのところを描いているので、大丈夫なのか?と心配になるけど、連載は『少年エース』だから平気なんでしょう。『エース』はエヴァ目当てで高校のとき毎月読んでたけど、コンビニから『エース』が撤去されて、読めなくなってしまったという苦い記憶があります。誰も買わなかったんだろうな、『エース』。ちなみに、この漫画の単行本に描かれている『エース』ネタの四コマが意外におもしろい。

絵がきれいでけっこうハイテンション。女の子が可愛い。おたくっぽさも調度いい。この漫画、おもしろいです。