Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

つつじとさつき

2012-05-31 22:48:52 | Weblog
全く意欲がなく、なんとなくだるい。疲れている。眠い。

さて、つつじとさつきの区別がいまいち付きません。さつきはつつじよりも小ぶりってことは分かるんですけどね。いまネットで調べたところ、他にも様々な違いがあることが判明しましたが、しかし種類によっては区別が難しいものもあるんじゃないのか、と勘繰ったりしています。

でも、今頃の時期に咲いているのはさつきのようですね。
昔、つつじの花の蜜を吸っていたのですが、あれは本当につつじだよな?
自分が吸っていた甘い蜜が何だったのか、それくらいは知っておきたいものですよね。
と、意味深(のように聞こえる)発言をしてみる。

さっき、思いがけない人からメールがあって驚く。ネット時代は凄いな。今更だけど。

爆音

2012-05-30 21:39:46 | アニメーション
吉祥寺で行われる爆音映画祭、ハーツフェルトの三部作のチケットをようやく入手できました。前売券が発売されて2,3日後に、劇場であるバウスシアターまで直接購入に行きましたが、なんと完売とのこと。え、いつから日本でそんな人気出ちゃったの、と思っていたら、ぴあの店舗にならまだチケットが余っているはずだ、と売り場のお姉さんに教えてもらったので、それで今日、大学へ行った帰りにぴあでチケットを購入してきたのでした。ただ、整理番号は20番台だから、予想していたよりもずっと早い。バウスシアターの分の前売券ってそんなに枚数少なかったのかよ。ちなみに、爆音映画祭ではもう一つ別のチケットも購入。

ハーツフェルトの三部作は7月3日です。日本初上陸にしてこの日限りの上映ですので、アニメーションの好きな方は是非足を運ばれてはいかがでしょうか。そういや慌てて買ってしまったけど、誰か誘ってもよかったかな。

ガマ

2012-05-28 23:00:05 | Weblog
とにかくだるい。疲れた。横になれば楽になるので、救いはあるのですが、相当な精神力がないと勉強できません。そしてぼくにはそれがない。

今日、家の敷地にガマガエルが出ました。こいつがガマ男だかガマ子だか知りませんが、実は毎年この時期になると姿を見せるのです。けれども、昨年は現われませんでした。色々なことがあった年だから、だから、現れなかったのでしょうか?理由は分かりません。とにかく一年ぶりに出てきてくれたことに感謝です。しかも随分と大きくなっていましたよ。

やる気がないというか、何者かに刻々とやる気を吸い取られているような気がします。やる気ゼロというよりはマイナス。疲弊し憔悴しきっています。どうか、ぼくからやる気を奪わないで。

唯一の希望は、寝たいってこと。あと、できれば毎年ガマが出て来てくれることを祈る。

独学の自負

2012-05-28 01:48:46 | Weblog
いま専門にしているロシア文学というものを、体系立てて学んだことはありません。(そういえば、大学受験のときも、世界史は独学でした。それでも、センターの過去問なら常に9割以上は確保できるレベルには達しました。)

そもそも文学というものは、誰かから教わって学ぶものではないかもしれません。ぼくはひたすら小説を読んで、その解説を読んで、文学史を読んで、ロシア文学について勉強しました。ロシア文学史の授業など取ったことはありません。それと同様に、文学理論についてもぼくは独学です。文学理論というのは、例えばソシュールとかドゥルーズとか、そういう言語学や哲学の知見を文学に応用して理論化する方法論だと言えますが、これも独学です。10年近く前に、バルトであるとかデリダであるとか、あるいはポストモダンだとかポスト構造主義だとか、そんなことについて書かれている本をせっせと読んでいました。

でも、今更そんなことを言っている文章を見ると、どうも気持ちが落ち着かない。ぼくは、とうの昔に文学理論からは遠く離れてしまいました。その理由の一つは、結局のところこれは、文学作品を何らかの版型に当てはめる作業に過ぎないのではないか、というそもそもの疑問が解消されなかったことにあるような気がします。もう一つは、やたら難解であること。果たしてチェーホフの散文を読み解くのに、これほど難解な議論が必要なのか?2004年には既に、「カルスタ仕立てのポスコロ風味」などと揶揄されもしていた文学理論を用いた文学研究は、現在では益々文学理論から遠ざかりつつあるようにも見えます。もちろん、それは高度に先鋭化し、文学研究の隅々にまで浸み渡り、ほとんど切り離せないくらいに癒着したため、姿が見えにくくなっただけかもしれません。でもやはり、皆目が覚めたのではないか、とも思うのです。

文学理論は、往々にしてロシア・フォルマリズムにその淵源を求められますが、後者が文学を科学することを旨としていたとするならば、文学理論もやはりその遺志を継いでいるとみなせます。しかし、文学を科学するというとはどういうことなのでしょうか。それは可能なのでしょうか。どういうふうにすればそれは可能になるのでしょうか。文学作品を特定の理論モデルに当てはめたり、特定の概念を文学作品に応用したり、そういうことをすれば文学を科学できると思っていたのでしょうか。だいたい、文学を科学する必要があるのかどうか。

いや、上に書いたことは全部言い訳かもしれません。白状すると、ぼくにとって文学理論の本は難しすぎた。たぶんぼくは頭があまりよろしくないのでしょう、ほとんどの本はちんぷんかんぷんでした。だから、文学理論を用いて研究している人を見ると、軽い嫉妬を覚えるのです。

ロシア文学は自分で勉強を始めて、今も自分でやっています。文学理論もやはり自分で勉強を始めましたが、しかし自らの意志で投げ出しました。一通りのことは学んだ末の結論。独学者だから、誰かに教わりながら勉強している人には負けたくないという反骨心がぼくにもあります。でも文学理論は、もういいかな。少なくとも借り物の理論はね。もちろん理論を構築したお歴々が悪いわけではないし、そしてそれを文学に応用するのが間違っているわけでもないのです。ただ何でも過剰なのはよくないですね。それを盲目的に信奉するのも。

ヴィノクール

2012-05-25 23:08:45 | Weblog
ヴィノクールの本を借りてきました。参照したい箇所があったからなのですが、しばらく探しても見つからない。くっそう。苦労して借りてきたというのに・・・というのは、図書館でなかなかこの本が見つからなかったからで、だってロシア語の本なのに背表紙も表紙もドイツ語って反則だろう(請求記号は背表紙に貼ってないし)。本自体もなかなか見つからなかった上に、該当箇所もなかなか見つからない。むむむ。読んでしまうほか手はないのか。どうせ20頁くらいなんだけどさ。

明日は上智でロシア文化関係のセミナーがあるみたいで、プレゼンが全部ロシア語っぽいので、行こうかどうかちょっと迷ってます。色々と懸念材料がありまして・・・。まあ、よく分からなかったらヴィノクールでも読んでようかな。

と、ここでヴィノクールのことを紹介しようと思って借りてきた本の序文を改めて見てみたら、ドイツ語でした。英語じゃないのかよ!ヴィノクールが誰だか気になる方は、wikiとかで調べてみてください。ただ、ヴィノクールって二人いますよね、有名な人が。

これだけだと余りにも下らない記事すぎるので、何か他に書くことはないかと10分くらい考え込みましたが、何も思い当たらないので、これで終わりにします。

気分転換

2012-05-22 23:13:36 | Weblog
気分転換として新しく読み始めた本が、実に高度な内容であることが分かり、挫折しそう・・・。ロシア語自体もそこそこ難しいのですが、とにかく内容が・・・。自分の専門知識の不足を嘆きたい。一見簡単そうに見えるんだけどなあ。急にぐぐっと突っ込んだ内容になったかと思うと、あとは深みへまっしぐら。前提となるはずの知識を提供してくれないので、困ります。気晴らしになんてなりゃしない。

せめてブログで気晴らし、気分転換してみました。というわけで、テンプレをチェンジ。

どうでもいい話ですが、スカイツリー開業について、こういうので騒ぐ奴の気が知れないとか何とか言ってそっぽ向く人いますけど、まあ気持ちは分かりますけど、というかぼく自身も実は別に関心ないんですけど、だからと言ってそういう気持ちを人に押し付けるのはよくないですよね。スカイツリーやその商業施設に関わっている人たちが実際にいるわけで、そういう人たちのことをちょっとでも知っていたりすると、そっぽ向いたりはできないですよ。いや、こんな言い方じゃ全然伝わってないな。ぼくはアニメが好きなんで、某アニメーターの方がスカイツリー関連の仕事をしているのをこの前知ったんですけど(マスコットキャラクターのデザイン)、そういう話を聞くと、そしてそういう人が「いよいよ開業だ」と喜んでいたりするのを見ると、「スカイツリーなんてぺっぺだ」と唾棄するのは、とても想像力の欠如した行為なんじゃないのかなと思ったりするわけです。おまけに自分の関心の狭さを露呈してしまっているような気も。「スカイツリー」は、多くの人たちの努力やら夢やらの結晶という側面があるわけですよ。そういうものに思いを馳せるとき、「あんなものに騒ぐなんて、マスコミに踊らされてるんだよ」という言葉が仮にある部分では当たっているとしても、やはりそんな言葉を吹き飛ばしてしまう何かがあることに気付きます。

もし身近な人がそれに関わっていたら、それを貶めることはなかなかできません。要は、「身近な人」がどれだけ他分野に、どれだけ大勢いるかどうか。まるで疎遠な人のことを想像するのは難しいから、ぼくはせめて身近な人のことを想像します。スカイツリーそれ自体はぼくには異質だけども、でもそれに情熱を捧げている人がいる、それが身近な人ならば、スカイツリーを悪く言ったりはできないんだよな。もっとも、そのアニメーターさんは、ぼくが一方的に名前を存じ上げているだけですけどね。

せっかくだから金環日食

2012-05-21 14:07:31 | Weblog
午前中に用事があったので、せっかくだから金環日食を見てみました。専用のサングラスをいそいそと掛けてみると、なるほど、太陽が欠けている!実は見るまではあんまり関心がなかったのですが(最近は色んなことに興味が湧かない)、いざ日食の様子を目にしてみると、けっこうわくわくしてくるものですね。

東京は曇りがちの空模様でしたが、太陽がリング状になる肝心のシーンはばっちり見えました。それにしても専用のサングラスは太陽以外は何も見えないという代物なので、実際にその真っ黒いサングラスを通して光の輪を見つめていても、自分が本当に太陽を見ているのかどうかが怪しくなりました。だからときどき肉眼でちらっと空の様子を確かめて、それからまたグラスを掛ける、という手順に。あれほどテレビでは肉眼で太陽を見るなと言っていましたが、しかし何度も言うようですが自分が本当に太陽を見ているのかどうかが分からなくて・・・。だいたい、小さい頃にぼくなどは随分肉眼で太陽を凝視していたものです。ひょっとして目が悪くなったのはそれが原因?

それはともかくとして、鏡に映ったものだけを見て「それ」を確認しなければならないようなもどかしさを今回は感じました。反射物を見るのではなく、実物を見たい。同様に、遮光グラスではなく肉眼で見たい。このサングラスがもし太陽以外のものも見ることができたのなら(それでは遮光の意味がないかもしれないけど)、こんなもどかしさは感じなかったはずなのになあ。

それにしても、人間の目は太陽に耐えられないのか。それでも太陽を見たいと思う。まるで希望みたいだな。と、気障なことを言って終わる。せっかく金環日食だから。

ロシア関係の雑談

2012-05-19 22:44:31 | Weblog
このあいだロシア語の本を買いに神保町に行ったんですけど、収穫がなかったです。もっとも、探していた本は2500円以上するのですが、ロシアで買えば180ルーブル、つまり550円くらいなので、ロシアで買った方がお得だから、この日は買えなくて幸いしたかも。どうせロシアで買うからいいのだ。どうせまだ読まないからいいのだ。

実は勉強がちょっと行き詰っていて、まあ前からですけど、自分のロシア語力で今のまま研究を続けていく自信がないんですよねえ。って、本当にいつもの悩みをいつものように吐露しているだけみたいですが、でもそういうことではなくて、研究対象が、非常に高度なロシア語力を要求する分野なので、困っているというわけなのです。いやもちろん、高度なロシア語力を要求しないロシア文学研究なんてありえないだろと言われたら黙るしかないんですけどね。しかし程度ってのがあるから。

しかし自分の能力には目を瞑って、明日から新しい本を読み始めたいと思います。昨日まで読んでいたやつは、遅々として進まないので、進まなさ過ぎるので、いったん脇にどけて置いて(文字通り)、別の本を読むことにしました。いい気晴らしになればいい。

昼間はだるくてやる気がしなかったです。今頃になってちょっと元気が湧いてきました。

「これがチェーホフ? これぞチェーホフ!」

2012-05-17 23:19:36 | 文学
三谷幸喜がチェーホフの『桜の園』を演出するそうですが、いよいよ来月ですね。やはり気になります。どんなチェーホフになるんだろう。

今日の夕刊の三谷幸喜のエッセイで、『桜の園』は喜劇である、という三谷氏の見解が述べられていましたが、一般的にはこれは議論のあるところです。『桜の園』というタイトルの傍には「喜劇」と銘打たれているにもかかわらず、「いやこれは喜劇ではない」とか、「喜劇の意味が違うのだ」とか色々言われていて、純粋なコメディーとは必ずしも見られていません。ところが、三谷氏はこれを「喜劇」だと言う。しかも「爆笑喜劇」だと。興味ありますね。ぼくも基本的にはこの戯曲は喜劇だと思っているのですが、しかし、それは「人間の滑稽な生き様」という意味での「喜劇」であって、観客をして腹を抱えて笑わせる類の「喜劇」とみなすには、躊躇してしまいます。三谷氏はぼくのような意見には首を傾げているみたいですね。そして、『桜の園』の戯曲には笑いの要素が山のようにあると主張するのです。喜劇作家の自分にはそれがよく分かる、と。さすがにすごいな。

もっとも、ぼく自身、躊躇するとは言いながらも、チェーホフの後期の戯曲には爆笑の要素がかなりあるのではないかと疑っています。それというのも、何年も前に観劇したチェーホフ『ワーニャ伯父さん』(佐藤信演出・柄本明主演)が、ぼくの中で強烈な印象を保持し続けているからです。『ワーニャ伯父さん』は「喜劇」とは書かれていないのですが、この劇、笑えたんですよね。人間が猛烈に怒る様が、なぜか笑えた。だからぼくは、チェーホフは他の戯曲でも「滑稽な人間喜劇」を描いているのではないか、と思ったのです。それと共に、作品には笑いの要素がまぶされているのではないかと疑い始めたのです。まだロシア文学を専攻する前の話です。2004年にチェーホフ戯曲の公演が相次いだとき、ぼくも足繁く劇場に通いましたが、当時も色々なチェーホフ像が提示されていて、その中には彼の喜劇作家としての面を強調したものもあったように記憶しています。でも、それは「爆笑」じゃなかった。

だからぼくは、三谷幸喜がチェーホフで爆笑を取るのを見てみたいのです。
・・・とはいえ、まだ劇場に足を運ぶかどうか決めていません。チケット9000円っていうのも高いよな。う~ん、迷う。迷う理由なんてないはずなのに迷う。チケット代なんて言い訳に過ぎないのにな。

猫と小夜子の夢

2012-05-14 23:16:54 | Weblog
うっかり早とちりしてしまう人が出る前に真相を明かしてしまいますが、これは夢の話です。
宮崎駿の新作が『猫と小夜子の夢』というタイトルだという夢を見たのです。
宮崎駿が描く「夢」はどんなものになるんだろうなあと思ったものです(夢の中で)。
なんとなくシュールな作品を想像してしまったのはたぶん、『茶目子の一日』という昔の短編アニメーションを念頭に置いてしまっているからでしょう。
しかし新作タイトルが発表されただけなので(夢の中で)、これが実際にどういう内容なのかは分かりません。ああ気になる。

読み人知らずの悲しみに

2012-05-13 00:30:10 | Weblog
同じ所をぐるぐると回っている人、留まっている人、そういう人の存在は大事だとぼくは思っていた。今も思っている。「相変わらずだね」と言われ続ける人。そういう人の存在は、周りの人を安心させてくれる。この世界の中で、変わらないものがあるということが、自分の支えになる。

でも、その人の人生はどうなんだろう。
ぼくらは名を成したいと思っている。何者かになりたいと欲している。それは出世欲かもしれないし、利己心かもしれない、いやただの本能であるかもしれない。でもぼくらは何者かになることはできない。ぼくらに名前はないし、ぼくらの悲しみにも名前はない。

変わらない人の人生に、名前のない人の人生に、名前をつけること。それはとても大切なことなんじゃないのか。誰かのためになると言って、変わらないでいることを褒めそやすのは、身勝手に過ぎる。

変わらないでいることを称賛するのは、変わらないでいてほしいと願うことだし、変化を認めないことだ。人は少しずつ変わっていっているのに。名前のないぼくらの悲しみ、喜び、怒り、それを無名のままにしておくことだ。

名もない人の名もない悲しみに目を瞑ってはいけないと思う。名もないぼくらが、名もない君たちに、名前をつける。

名前をつけられるのを待っている読み人知らずたち。人は何者かになるのではない。何者かにされるのだ。

阿房列車

2012-05-10 23:16:27 | お出かけ
何の用事もないのに列車に乗って遠出することを「阿房列車」と言います。
ぼくは昔、この言葉を知らない頃、阿房列車に揺られているのが好きでした。つまり、用事がないくせに思い立って高尾の先、山梨の方へ電車に乗ってゆくのが好きでした。

正確な数字は分かりませんが、もう7年くらい前になるのでしょうか、ぼくはふと思い立って中央線に揺られて終点を目指しました。夏だったと思います。終点の高尾につくと、そこから更に先まで行ってみたくなって、甲府行きの列車に乗り込みました。普通列車なのですが、外観は風情があり、中はボックス席で、まるで遠い地方を走る列車のようです。その電車が出発して、窓の外を眺めてみると、高尾までと風景が一変したことに気が付きました。山・山・山です。緑の山が(賢治の表現を借りるなら)うるうると盛り上がっていました。そして驚いたことに、一駅区間が長い!次の駅まで実に10分かかりました。不安になりました。

居ても経ってもいられなくなって遂に降りた駅が、梁川(やながわ)。帰りの電車が来るまでの間、時間をつぶしていると、ぽつぽつと雨が降ってきて、やがて土砂降りになりました。幸いその頃に電車がやって来て、雨にほとんど濡れずに済みました。雨にけぶる山々と、窓に映る自分の顔とを二重に見つめながら、ぼくは帰路につきましたが、次第に雨はやみ、いつもの駅に降り立ったときには、空は何事もなかったような表情をしていました。

しかし、自宅に帰ってからしばらくすると、再びの豪雨。天気は西から崩れるものですが、山梨で遭った雨雲が、東京に飛来してきたのでしょうか。世界の理と言えばいかにも大袈裟ですが、でもこのときぼくは、何か巨大な地球の力を感じたのでした。

雑談の部類

2012-05-09 22:42:24 | Weblog
今日は仕事が比較的忙しくて、ミスもやらかしたりして、しっちゃかめっちゃかになってしまいました。で、足も棒に。次回はもっと余裕のある中でやりたいものです。ああっ、しかし次は朝から忙しかったっけ・・・ううううう。

これで終わりだとナンなので、ロシアの話。ロシアの水の話。
ロシアの水道水は飲めないので、(少なくとも旅行者は)普通はペットボトルを買うのですが、けっこう値段にばらつきがあるんですよね。で、適当なのを買って飲んでいる内に、どうもそれは一日でちょっと傷んでくるんじゃないかという疑念が湧きだしたのです。というのも、一晩おくと、妙に甘ったるい味に変化しているからです。しかし人から聞いた話では、それよりも価格の安い水はもっと悪いらしく、その人はそれを飲むとお腹を下してしまうらしい。だから、少なくともロシアのペットボトルの飲料水は、最低でも二種類はお腹の丈夫でない人には勧められる代物ではないみたいなのです。・・・ところが、別の人の話では、どうやらボトルに直接口を付けて飲むのがいけないらしくて、そうせずにコップ経由で飲めば、一晩くらいは安全に越せるそうなんですよね。・・・と言っても、普通の旅行ではなかなかコップに注いで飲んだりはしないものです。だから、ロシアに旅行に行かれる際は、ペットボトルの水は一日で飲み干してしまいましょう。

あと、ロシアは小銭があると便利です。というか、ないと困ります。お店で大きなお札を出すと、「お釣りがないんだ!」と怒られることがしばしばあります。なんでこっちが叱られなければならないのか意味が分かりませんが、でも従う他ないのです。

ふくらはぎが痛い。綾波の、ふ・く・ら・は・ぎ~