『カールじいさんの空飛ぶ家』を見たのは随分前ですが、感想を書いていなかったので、備忘録的にここに書き付けておきます。
まず、ぼくにはそれほどの傑作だとは思えなかった。巷で言われるように、前半はよい。もっとも、それは例の無言の回想劇がすばらしかったから、という理由からではありません。そうではなく、前半にはリアリティがあったから。床が抜ければ落ちて怪我をするし、入院する。殴られれば血を流し、警察沙汰になる。そのあたりまえの経過がしっかりと描写されていて、ぼくは「おや」と思った。非常に「地に足のついた描写」がされているなと感じました。このリアリティをいかに持続させ、いかにクライマックスへと持ち込むのか、見物でした。
ところが、そのリアリティは一挙に飛散してしまいます。風船による家の飛翔と共に、リアリティもまた映画から飛翔してしまいます。家の華麗で壮麗な飛翔が、リアリティの消滅と完全に一致するわけです。まるで風船が家と一緒にリアリティをも持ち去ってしまったかのように、それは再び映画の中に降りてくることはありません。以後、この作品では摩訶不思議な出来事が展開され、ときに行動は物理法則を無視し、爽快なアドベンチャーの羅列となります。
もちろん、これは制作者側の狙いかもしれません。前半の異様なほど抑制されたアクションを家の飛翔と同時に解放して、それを自由に羽ばたかせる。それが見る者のカタルシスを引き出すに違いない、と。あるいは、そう感じる視聴者は多いのかもしれません。でも、ぼくは違った。残念ながら。
「リアルなこと」と「リアリティがあること」とは異なりますが、ぼくは別にアニメーション映画に前者を求めているわけではありませんし、後者をも必ずしも要求するわけではありません。しかしながら、あれほど大事にされていたリアリティが、一瞬にして飛び去ってしまうのが、作品の構造の問題として、もったいないように感じられたのです。アクションにはある程度のリアリティがあった方が(見る者の身体的な経験とある程度合致するものである方が)、より興奮度の高いものになるというのは確かでしょう。抑制から解放へのカタルシスと、リアリティを伴うが故のカタルシスと、どちらを選択するのかという問題に、制作者は前者と答え、ぼくは後者と答えた。それまでと言えばそれまでですが、腐心して得られたはずのリアリティが、後半の荒唐無稽のためのいわば通過儀礼としてしての役割しか果たしていなかったとすれば(それともジャンプ台としての役割か)、それはやはり残念であって、もったいないという気持ちになります。
前半の人気がとりわけ高い本作ですが、後半をバッサリ切って、風船で飛翔する瞬間までを一個の短編作品として提供した方が、作品の完成度としてはより高まったし、感動も一層のことだったと感じています。前半は後半のための壮大な序曲、助走なのではなく、むしろ後半は語られ損なった後日談であり、余計な付属物であるように思われるのは、無論ぼくの身勝手な感想に過ぎませんが、そこには相応の理由があるということです。
家が地上と手を切った瞬間、描写自体も地に足のつかないものになってしまったのは、実は合理的な理由からなのかもしれません。つまり、風船で家が飛行するというアイデアを形にするには、それが非現実的な、夢幻的な映像として屹立していなければならないからです。非現実を形作るためには、周囲を現実的描写で埋めておかねばらず、前半のリアリティは、やはり周到に準備されたものである必要があったでしょう。恐らく誤算は、その準備が「周到過ぎてしまったこと」。つまり完成度が高過ぎ、ほとんど一個の作品として完成してしまっていたことです。それがぼくのような倒錯的な感慨を引き出し、また論理的にもそれを裏付けることが可能になっているのです。
風船の飛翔によって現実と非現実との境目が切断されたとき、この映画は、両者が分離された状況で共存しているという、いささか不格好な体で浮遊し続けることになったように思います。
まず、ぼくにはそれほどの傑作だとは思えなかった。巷で言われるように、前半はよい。もっとも、それは例の無言の回想劇がすばらしかったから、という理由からではありません。そうではなく、前半にはリアリティがあったから。床が抜ければ落ちて怪我をするし、入院する。殴られれば血を流し、警察沙汰になる。そのあたりまえの経過がしっかりと描写されていて、ぼくは「おや」と思った。非常に「地に足のついた描写」がされているなと感じました。このリアリティをいかに持続させ、いかにクライマックスへと持ち込むのか、見物でした。
ところが、そのリアリティは一挙に飛散してしまいます。風船による家の飛翔と共に、リアリティもまた映画から飛翔してしまいます。家の華麗で壮麗な飛翔が、リアリティの消滅と完全に一致するわけです。まるで風船が家と一緒にリアリティをも持ち去ってしまったかのように、それは再び映画の中に降りてくることはありません。以後、この作品では摩訶不思議な出来事が展開され、ときに行動は物理法則を無視し、爽快なアドベンチャーの羅列となります。
もちろん、これは制作者側の狙いかもしれません。前半の異様なほど抑制されたアクションを家の飛翔と同時に解放して、それを自由に羽ばたかせる。それが見る者のカタルシスを引き出すに違いない、と。あるいは、そう感じる視聴者は多いのかもしれません。でも、ぼくは違った。残念ながら。
「リアルなこと」と「リアリティがあること」とは異なりますが、ぼくは別にアニメーション映画に前者を求めているわけではありませんし、後者をも必ずしも要求するわけではありません。しかしながら、あれほど大事にされていたリアリティが、一瞬にして飛び去ってしまうのが、作品の構造の問題として、もったいないように感じられたのです。アクションにはある程度のリアリティがあった方が(見る者の身体的な経験とある程度合致するものである方が)、より興奮度の高いものになるというのは確かでしょう。抑制から解放へのカタルシスと、リアリティを伴うが故のカタルシスと、どちらを選択するのかという問題に、制作者は前者と答え、ぼくは後者と答えた。それまでと言えばそれまでですが、腐心して得られたはずのリアリティが、後半の荒唐無稽のためのいわば通過儀礼としてしての役割しか果たしていなかったとすれば(それともジャンプ台としての役割か)、それはやはり残念であって、もったいないという気持ちになります。
前半の人気がとりわけ高い本作ですが、後半をバッサリ切って、風船で飛翔する瞬間までを一個の短編作品として提供した方が、作品の完成度としてはより高まったし、感動も一層のことだったと感じています。前半は後半のための壮大な序曲、助走なのではなく、むしろ後半は語られ損なった後日談であり、余計な付属物であるように思われるのは、無論ぼくの身勝手な感想に過ぎませんが、そこには相応の理由があるということです。
家が地上と手を切った瞬間、描写自体も地に足のつかないものになってしまったのは、実は合理的な理由からなのかもしれません。つまり、風船で家が飛行するというアイデアを形にするには、それが非現実的な、夢幻的な映像として屹立していなければならないからです。非現実を形作るためには、周囲を現実的描写で埋めておかねばらず、前半のリアリティは、やはり周到に準備されたものである必要があったでしょう。恐らく誤算は、その準備が「周到過ぎてしまったこと」。つまり完成度が高過ぎ、ほとんど一個の作品として完成してしまっていたことです。それがぼくのような倒錯的な感慨を引き出し、また論理的にもそれを裏付けることが可能になっているのです。
風船の飛翔によって現実と非現実との境目が切断されたとき、この映画は、両者が分離された状況で共存しているという、いささか不格好な体で浮遊し続けることになったように思います。