Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

広大と荘厳のクレムリン

2009-08-31 00:49:06 | お出かけ
もちろんクレムリンにも行きました。
手荷物検査がやたら厳しくて、ここにはバッグを持って入れません。通ろうとすると、受付のおばさんに「ノー、バッグ!」と叱られてしまいます。でも小さいのならOKだと思いますが。他の人たちはそのくらいのは持っていたので。

金属探知機の検査だかなんだか知りませんが、検問所みたいなところを通るとブザーが鳴る仕組みになっていて(無論そういうものを身に付けていれば)、音が鳴ったら中に入れてもらえません。それで、バッグやポケットの中味を出してくぐりぬけなければならないのですが、ぼくはこの検査の仕組みが分からなくって、「パラジーチェ」と繰り返されたのにもかかわらず、キョトンとしてしまい、後ろの人たちにかなり迷惑をかけました。「パラジーチェ」っていうのは「置きなさい」という意味で、ポケットの中のものを側の台に置いて、それから検査を受けなさい、と言っていたんですね。日本ではこういう検査を受けたことがほとんど皆無だと思うので、手順がわからず非常に戸惑ってしまいました。でもね、ロシア人だって、ほとんど全員がブザーを鳴らしていたので、彼らもいまいち仕組みが分からなかったんじゃないかって思いますよ(説明しろよ)。うん、きっとそうだ。

さてと。クレムリンの見所っていうのはだいたい一箇所にかたまっていまして、寺院が集合しているのです。ある建物の中には、古い時代の時計やイコンが展示されています。とりわけ時計は特筆もので、極めて豪奢な飾り付けがなされています。ほとんど時計が見えないくらいで、ゾウが人の座った籠を乗せて歩いている時計、などがありました。あと金の鹿とか、金器・銀器ですね。

また、ある建物の中は吹き抜けになっていて、そこには一面イコンが描かれています。天井の一番高いところ、つまり天辺にはキリストの姿が描かれています。これは聖ワシーリー寺院でもそうでした。これほどの宗教画を見ると、宗教心のないぼくなども一種荘厳な風に打たれますね。数々の殉教の様子を描いたイコンなどもあり、見応えも十分。なにより所狭しと描かれたこれらのイコンは、当時どのように壁面を飾ることになったのか。その思想的・技術的背景にも興味を持ちました。

これらの建物は外壁は白に塗られていることが多く、そして幾つもの塔を有し、先っぽの「たまねぎ」は全て金で塗装されています。宮殿や城そのもので、これを見ただけでもロシアに来た甲斐があるというものです。

クレムリンはかなり広大で、天候も落ち着かなかったために全てを回ることはできませんでしたが、主要な箇所は回れたのように思います。ただ、武器庫は行けませんでした。行列も長かったですし、別段興味があるわけでもないのでまあいいんですけどね。

日本に帰ってきてみて、新聞の投書欄を流し読みしてみると、こんな投書が。民間では優秀な人材でもリストラされるのに、公務員はいくら無能でも首を切られない。これはおかしい、と。やれやれ。優秀な人材が仕事を無くすのは確かにありうべからざることではありますが、けれどもだからといって「無能」な人材から(この「無能」という言葉を平気で使用してしまう神経が既に理解できないのですが)仕事を奪ってよいかと言えば、そんなはずはない。仕事が人よりもできなくっても、それでもそんな人たちだって笑って食べていけるような社会が望ましいではないですか。悪いことをして仕事しないのはけしからんですが、「無能」という理由で首を切られるような社会は御免です。学校だって、勉強のできない子たちでも楽しく過ごせるところがいい学校です。公務員を「無能」と切り捨てるこういう傲慢な意見を目にすると、ロシアのあの厳しいようでいて融通無碍で、おおらかな、だらしない、いい加減だけど人情味のある国が懐かしい。

髪型があああ

2009-08-30 01:31:18 | Weblog
今日、だいぶ伸びていた髪の毛を切りに行ってきました。

いつもの人に切ってもらったのですが、いつもよりも少し短めに、とお願いしました。

ところが。

なんだこれは~~!
お風呂に入って『スターウォーズ』を観て、歯を磨こうとして鏡を見たら、髪型がありえないほどへんちくりんになっているではありませんか!
ぼくはけっこう短くカットしてもらうのですが(頻繁に髪を切るのがめんどい)、今日は頭の側面だけがやたら刈り込まれており、前髪等はそこそこ長いのです。それに完全な角刈りだし・・・。

これでは外に行けないよーー!どうすればいいんだ?帽子をかぶるにしても、いいのを持っていないし、それにもうすぐ親戚の結婚式があるのです。まさか何かをかぶって出席するわけにはいきますまい。もう一度カットし直してもらうか、ジェルでなんとか取り繕うか。でもそれだとあと一ヶ月は辛抱しなくては。

やばい。もうやだなあ、こういうのって。ほんとに気が沈みます。

至福のチェーホフの家博物館

2009-08-29 00:19:28 | お出かけ
ロシア語が話せない・聞き取れないために劣等感を抱くことの多かった今回のロシア旅行で(なまじっかロシア語を勉強しているだけにその思いが強い)、多くの失敗がありましたが、その中にあって一番楽しめたのが、モスクワにあるチェーホフの家博物館です。

メーリホヴォという、チェーホフが一時期暮らしていた郊外にも博物館があるのですが、そこは交通がやや不便で、またたくさんの時間がかかり、ロシアが初めての人にはハードルが高そうだったので(果たして帰ってこれるのか不安でした)、モスクワ市内にあるもう一つの博物館、やはりチェーホフがかつて住んでいた家に足を運んできました。ぼくとしてはどちらでも構わなかったので、期待していました。

わりあいスムーズに目的地に辿り着きましたが、外観は案外普通。ちょっと小さめかな、などと思いつつ門をくぐり、館内へ。
受付のおばさんに、「学生か?」と尋ねられ、「そうです」と答えると、「学生証を見せなさい」と言う。日本の学校に通っており、生憎ここには持ってきていない、という意味のことを言うと、彼女は側にいたもう一人の係員(中年女性)と口論を始めてしまいました。早口だったので内容は全く聞き取れませんでしたが、どうやら学生料金で入館させるかどうかを争っているらしい。ロシア人にぶつぶつ文句を言われるのは既に慣れっこになっていたぼくでしたが、チェーホフの家博物館でもこれかあ、と少しげんなり。やがて口論は決着がつき、中年女性が去っていくと、受付のおばさんは一転して笑顔になって、一般料金を払ってくれと言いました。証明書がないので日本では当然ですが、そういえばこんなことで争っていたというのは、親切の裏返しなのかなと思い直して、料金を支払いました。おばさんは、あの人(中年女性)はどーのこーのと言いながら、次来るときは学生証を忘れないでね、と言い添えて、にこやかに通してくれました。

館内にはチェーホフの写真が飾られていて、まあ普通の文学博物館と一緒だな、とちょっと気落ちしていると、先ほどの女性(?)がやって来て、なにやら話し掛けてくる。英語がいいか、ロシア語がいいか、と聞いてくるので、とりあえず英語にしてみると、ファイルに入ったぺらぺらの紙を二枚渡されました。チェーホフについての説明書きなのです。彼の人生が英語で簡単に紹介されています。ロシア語にしなくてよかった!といっても英語ですから完全に分かるわけでもなく、意味不明の箇所は飛ばし飛ばし読んでいきましたが、チェーホフについてはわりかし知っているので、「こういうことが書かれているんだろう」と自分で内容を補いながら読み進めました。そのあいだは座っていられて、なかなか快適。

次の間にゆくとそこはチェーホフの書斎で、ちっとばかし感動。各部屋に係員が常駐していて、部屋を変える度に別の説明書を渡されます。そこにはその部屋の展示物に関係する事柄が書かれていて、今の場合は兄弟についてのことなどが記されています。
チェーホフの書き物机には緑色のテーブルクロスが敷かれていて、灯りが置かれています。部屋の内部は暗いので、この明かりで執筆していたのでしょう。隅には本棚が設置されており、チェーホフの蔵書が収められています。たしかぎゅうぎゅう詰めではなく、余裕がだいぶあったように記憶しています。その奥には寝室があり、小さなベッドが置かれていました。100以上前、ここでチェーホフが寝起きしていたのかと思うと、言葉では表現し難い思いが込み上げてきました。ああ、ぼくは今、チェーホフが存在した場所に立っているのだ。あのチェーホフが。

二階にはサハリン島関係の資料等が展示されていました。チェーホフは謎の理由からサハリン島へ旅立ち、そこで流刑人の日常をつぶさに観察しました。それは『サハリン島』という学術論文となって、現在も読むことができます。日本では、村上春樹の『1Q84』で言及されているということで、最近ちょっと話題になりましたね。そんなに楽しい読み物ではないと思いますが、チェーホフの空論ではない道徳的な一面は確かに現れていると言えるでしょう。手渡された資料には、チェーホフの健康はサハリン島旅行によって悪化したわけではない、と書いてありましたが、実際のところは分かりません。ところで彼はサハリン島からの帰りに、日本へも立ち寄る予定だったと言います。ところが当時日本ではコレラが流行っており、寄港を断念したとか。チェーホフと日本との関係については、中本信幸『チェーホフのなかの日本』という研究書が上梓されています。

館内を見終わって、もう一度入口/出口に戻ると、そこでチェーホフ関係の書籍が販売されています。小っちゃな豆本みないなのも並べられており、今から思うと一冊くらい買っておけばよかったかなと後悔しないでもないですが、別の本を数冊買っておくことにしました。『医師チェーホフって誰?』『チェーホフのモスクワ』『チェーホフとその時代』という三冊です。いずれもチェーホフ文学に迫る研究書ではなく、時代背景や社会状況、あるいはチェーホフの人となりを記述した本のようです(最後の本はチェーホフの小説から当時を窺い知ろうという本なのかな)。どうしてこれらを選んだのか、忘れてしまいましたが、チェーホフ文学に関する専門書はなかったようですね。まあこれらの本を読んだわけではないので、いい加減なことは言ってはいけないかもしれませんが。

1時間半くらいの見学でしたが、モスクワで一番楽しい時を過ごすことができました。この日の後半は、書店で買い物をし、重い荷物を持って歩いたせいか凄まじい腰痛に苦しめられて散々でしたが、そこではハルムスの作品集とハルムス論の掲載された雑誌を購入。まあ充実はしていたと思います。

次、もしも機会があったら、今度こそメーリホヴォですね…

迷宮のトレチャコフ美術館

2009-08-28 00:31:28 | お出かけ
ロシアからもう帰ってきてしまいました。別段何事もありませんでした。ほっ。

初の海外、しかもロシア、モスクワでしたが、正直言って、不快なことが多かったです。これまでの国内旅行のほうが楽しめました。気に食わないことを挙げれば切りがないですが、ぼくが不快に思ったかそれともむしろ楽しいとか思ったかは別にして、ここは直した方がいいと感じたことを列挙します。

まず、地下鉄(列車)の暗さ、けたたましさ、汚さ。
地下鉄駅構内の分かりにくさ
エスカレーターの異常なスピード。
エスカレーターの階段と手摺のスピードがなぜが異なること。
モスクワッ子の尋常ではない歩行スピード。
販売員がなぜかまくし立てながら喋ること。
販売員の無愛想さ、不機嫌な表情、居丈高な感じ。
手荷物検査(あるいは手荷物を預ける機会)の多さ
ぼったくろうとすること
超車社会
(→具体的には、車の猛烈なスピード
駐車場がないため至る場所に駐車(歩道が完全に車で塞がれている)
頻繁すぎる車線変更
排気ガスの量)
ホテルでシャワーが出ない
室内の備品が壊れても何も対応がない
晴れと雨と曇りを繰り返す極めて不順な天候

などなど…

モスクワでよかったのは、食事の美味しいところです。たしかにうまい。ただ量が多い…

さてそんなこんなで必ずしも楽しめたわけではないロシア旅行でしたが、今日のテーマはトレチャコフ美術館。ここはモスクワで一番有名な美術館で、観光名所でもあります。だから多くの人が訪れるのですが、手荷物を預けろだのジャンパーを脱げだのとうるさいうるさい。なんで上着を着ていてはいけないのかも不明。だって他の客(ロシア人)は皆羽織っていたし、バッグも持ってたぜ。ちなみに、モスクワはとても寒くて、曇っていれば14度くらいしかなかったと思います。ジャンパーは必需品です。

ようやく美術館に入れたのですが、中が寒い。絵画の保存のためかもしれませんが、こんなに寒いのならジャンパーを預けさせるなよ、と文句の一つも言いたくなる。美術品を鑑賞して回るのですが、なんて広いんだ~。日本にこれほどの規模の美術館ってあるのでしょうか。まるで迷宮です。数時間歩き回った挙句、腰痛がひどくなってぼくはもう疲労困憊。あちこちに設置されている長いすに腰掛けて、少しでも痛みを和らげるよう努力します。腰の痛みのせいで段々と不機嫌になってゆくぼく(この腰痛にはロシアにいる間ずっと悩まされることになる)。しかし、とりあえずトレチャコフ美術館(本館)は完全制覇。最後の展示を見終えたとき、ほっと息をつきました。やっと終わりか、と。

美術館を後にして、昼食を取ってからポクロフスキー寺院という有名な寺院へ歩いて向かいました。ひょっとすると近日中に写真をアップするかもしれません(しないかも)。ここは、その余りの美しさのために、設計した建築家がもう二度とこのような建物を建てられないようにと、イワン雷帝が彼らの目を引っこ抜いてしまったという逸話でも知られています。ものすごく派手で奇抜な色彩のその寺院は、あたかもディズニーランドにあるお城のようです。てっぺんはソフトクリームのような渦巻状ですが。しかし内部にはイコンが描かれ、荘厳な雰囲気が漂っています。

それにしても、ロシアは何もかもでかいですね。道は広いし家は大きい。ちんけなものっていうのがないんです。日本人とは精神性もだいぶ違うのかもしれませんね。

ひかりごけ

2009-08-21 00:09:02 | 文学
『屋根裏のポムネンカ』のとあるレビューで、この作品はアニメーションの約束事・遊びについて考え抜かれていて、それだからこそ人形たちには生命感が溢れている、という「論考」がありました。なるほど。技術から内容にまで迫る記述で、納得です。ぼくのきのうのレビューでは、人形の世界が息づいているのは人間の世界をきちんと描いているからだ、としましたが、両者の一致点は、とにかく人形たちの生活が魅力的だ、ということですね。

それはさておき武田泰淳『ひかりごけ』(新潮文庫)。
収録作品は、
「流人島にて」
「異形の者」
「海肌の匂い」
「ひかりごけ」

情景描写がなかなかに濃密で、すらすらと読み下せる類の文章ではありませんが、会話文も多いので全体としては均整がとれています。「海肌の匂い」だけは主たるプロットがありませんが、他のものは物語としても読ませる力を有しています。

それで、内容ですが、異常心理のようなものを扱っている場合が多いようですね。しかも、日本的な異常心理と言えるかもしれません。「流人島にて」は、かつて流人(島に流されてきた不良少年)だった主人公が、当時自分を使役していた男の元に戻り、彼に対して復讐を試みる話です。流人は差別の対象であり、かなり鬱屈した思いを抱いて生きていたようですが、そういった心理描写が日本的な気がするのです。人種差別とは違う、何か粘着質的で被差別者には諦念さえ感じられる差別。風土に根付いている差別。それがトラウマになっている主人公の心の内は恐らく屈折していて、だからこそ丁寧な言葉で男に残虐な行為を要求できるのです。

「異形の者」は寺に修行に行った語り手の話。ここでは神についての考察がたぶんキーポイントとなるのでしょうが、それは本当に最後の部分で現れます。物語は穴山という人物の奇行を観察する語り手の記述に沿って進みます。あの世の極楽を信じない若き日の語り手は、仏門に入っている間女について煩悶したりして、そういうことを巡って話が展開しているので、ちょっと若書きの謗りを免れない気がしますが、まあつまらないことはない。で、神についての考察というのは、仏像とは単なる「その物」なのだ、ということです。人間でも神でもない「その物」。ただ見ているだけの「その物」。解説を読むとここが引用されているので重要な箇所なのでしょうが、こういうこををぼくはまだ10代の頃に考えていたので、新鮮味がない…

「海肌の匂い」は、漁村の共同体に幸運なことに加入できた女と、できずに狂人となってしまった女という二つの軸を対照させた短編。やや作り物めいていて、大しておもしろい話でもないけれど、狂人を出す辺りがこの作者らしい。

名作と言われる「ひかりごけ」は大きく二部に分けられて、一つが作者の取材記録。もう一つがそれを基にした戯曲。題材は当然どちらも一緒で、食人。スキャンダラスな内容ですが、人間の罪とは何かということに肉薄しており、また単純に食人を絶対悪として裁いてはいないところが興味深いところ。まあ小説にするならそれくらいの考察は当然ですが、この作品を文学たらしめているのはやはり「ひかりごけ」という存在でしょう。人を食べた人間はひかりごけのように発光するという逸話を絡め、象徴性の高い物語に仕立てています。そのカラクリを使用したラストは、思想的なことも含めて名シーンだと思います。

どこかじめじめした暗い作品ですが、この人の後期の小説も読んでみたくなりました。


ところで、明後日からロシアに行ってきます。来週中には帰ってきます。ブログの更新は…ロシアからできるかな?

屋根裏のポムネンカ

2009-08-19 23:41:51 | アニメーション
チェコのイジー・バルタ監督の新作長編アニメーション映画『屋根裏のポムネンカ』を観てきました。思いのほかおもしろかったです!
ちなみに、渋谷のユーロスペースで公開されているのですが、立地条件が悪いですよね。ホテル街ですからね、あのへんは。女性を映画に誘ったら勘違いされそうだ…

さて、イジー・バルタは人形アニメを制作していますが、その作品はしばしばグロテスクで、個人的な趣味から言えばそんなに好きではなかったのですが、本作は十分に楽しめました。と言っても、子供向けという触れ込みにもかかわらず、かなりグロい場面がいくつも。夥しい数の虫が人形たちを襲ったり、人面虫がいたり、先端が目玉だけのコードの生き物がいたり、といった具合。

しかし、そういうシーンとは対照的に、美しいシーンも随所にありました。圧巻はシーツの洪水でしょう。シーツを海に見立てたのはたしかロシアの詩人ブロツキーではなかったかと思いますが(違うかも)、何枚ものシーツが折り重なって文字通り流れてゆく様は、本当に奔流を見ているようで、驚かされました。見立て自体が詩的であるうえに、その比喩が実体化している様子も映像的な説得力があって、すばらしい。他にも、がらくたで造られた飛行機の飛ぶシーン、クッションがふわふわと雲のように浮かび、そこから綿毛の雪を降らせるシーンなどなどが印象に残ります。ステキだぜ、バルタ。

この映画には、可愛らしい人形というのは実は二体しか登場しません。皆のアイドル・ポムネンカとクマのムハです。とりわけ青い目のポムネンカは実にかわいい。しかし、それ以外のキャラはちょっとグロテスクです。先に挙げた例の他にも、仲間のキャラからして既に気味が悪いんですよね。それがしかしイジー・バルタなのですが。

物語は極めて単純で、悪の帝国に攫われたポムネンカを屋根裏の皆で救出しよう、というだけ。ポムネンカたちは一軒の家の屋根裏にある箱の中に住んでいて、そこからある者は駅長として仕事を果たすために列車に乗り、ある者はドン・キホーテよろしくドラゴン退治に出かけます。このような一連の描写(特に機関車の動くところ)はとても懐かしい気持ちにさせてくれて、CGではこうはいきません。あのがらくたの寄せ集めのような、手作り感たっぷりの質感がたまらないんですよね。子どもの想像力、とよく言いますが、本当にそんな雰囲気です。

使用される人形は同一タイプのものばかりではなく多種に富み、また2Dアニメも併用されています。更に実写まで混入され、バラエティ豊かな画面に仕上がっています。実写と言えば、この映画では人形の世界だけが描かれるのではなく、人間界の様子もまた描写されます。そしてその二つの世界を繋ぐのが黒猫。この黒猫は暗躍し、意外と重要な役を担っています。人間の世界を描くことで、人形の世界が単純に人間のそれを模したのではない、独自な世界観を有しているのだということが逆説的に伝わってきます。つまり、人間がいないところで人形たちもまた息づいているのです。

ぼくは人形アニメが特別好きではないし、またイジー・バルタ作品もそうですが、この映画は気に入りました。いいですよ。

絵画を読む

2009-08-18 23:52:52 | 本一般
若桑みどり『絵画を読む』を読了。
以前からこういう類の本を読んで絵画の勉強をしたかったのですが、なかなか時間が取れず、今日ようやく読むことが叶いました。

とてもおもしろかったです。ぼくは本当に絵画のことには無知で、基本的な知識すら欠けているのですが、とても簡単なことから説明してくれて、ありがたい。ルネサンス前後の時期を扱っていますが、絵画の決まりごとや寓意を解説してくれるので、それまで漫然と見ていた絵画が別の輝きを放っているように見えます。

果物は快楽のはかなさの象徴だとか、植えられている花と壺の中の花の違いだとか、そういうたぶん絵画に詳しい人にとっては常識であろう事柄もぼくにとっては新鮮で、本書は驚きに満ちていました。ただ、こういったA=B式の知識よりも、ぼくの目を最も開かせてくれたのは、「絵画を見る」という態度です。読む、というよりは、見る、ということについて教えられた気がします。これまでの自分が、どれほど対象をぼんやりと見ていて、細部にまで注意を払っていなかったかがよく分かりました。口絵をきちんと見ていたつもりだったのに、著者の指摘で、「そんなの描かれてたっけ?」と口絵を見返すことが度々でした。

たくさん鑑賞することも大事でしょうが、じっくり見る、ということもまた同じくらい大事なのだと知りました。

本書は中級者向け、と書かれていますが、ぼくのようなアホみたいな読者にもよく分かったので、絵画のことは全然知らないけど興味はある、という読者にはお勧めです。

次は19世紀の絵画を読み解く本を読みたいな。

背中が痛くて

2009-08-18 01:02:25 | Weblog
ぼくは昔っからお腹が弱くて、しょっちゅう腹痛を訴えているのですが、でもまあ少年時代に具合の悪かったところといえばそのくらいでした。

ところが、大学生以降は段々と体調を壊してゆきました。
まず目です。視力の低下、ということを言っているわけではありません。病気で右の目の中心視力が失われてしまったのです。視野の真ん中がぽっかりと穴が開いて、見えないのですよ。眼鏡やコンタクトで矯正できるものではありません。この病気でぼくは入院して、手術しました。でも治りませんでした…。若い人には稀な病気だそうですが、高齢者には多いらしいです。原因は不明とのことですが、当時ぼくは昼夜逆転の生活のうえに滅茶苦茶な食生活をしていたので、そのせいではないかと密かに疑っています。それから、生活は改善されました。

次に精神です。高校生の頃から鬱々とした生活を送っていて、当時は死ぬことばかり考える日々でしたが(高校生活が一番楽しいなんて言わせない)、かなり調子が悪くなったのは数年前のことです。で、それで病院で処方された薬を飲むようになったのですが、悩まされたのはこれの副作用。ぼくは薬の副作用で体がこれほどまでに悪くなる、ということを予想していなかったので、その「最悪の薬」を2年間服用し続けました。まさに地獄の日々でした。学校には通っていましたが、登校しない日はもう廃人ですよ。寝ることしかできないという(しかも寝ていれば楽というわけでもなく、苦しい)日々。もちろん本を読むこともできません。あまりの精神的苦痛に独り泣きべそをかいた日もありました。いや精神的苦痛というか、肉体的に苦しかったんですけどね。でもそれから薬を幾度も代え、そのたびにそれぞれの副作用に苦しめられてきましたが、最初の副作用ほどひどいものはありませんでした。最近飲み始めた薬はこれまでで一番ましなやつです。

先月の末頃から背骨が痛いのです。それで、形成外科に行ってみたところ、「腰椎分離症」であると診断されました。要するに、本来は繋がっているべきところの骨が、分離しているらしいのです。生来のものか、それとも最近の衝撃の結果かは分からないそうですが、衝撃を受けた記憶がありません。でも生来のものであれば、なぜ急に痛み出したのか。しかも、段々と痛みが酷くなっているようなのです。最初の1週間くらいは朝か夜だけ痛い程度だったのが、今では体を曲げるたびに痛むし、今日などはちょっと体をひねるだけで激痛が走ります。これはいったい…。ぼくのは軽い症状らいしいですが、悪化している気がします。もう一度診てもらった方がいいのかなあ。それにしても、座っているのはよくないそうですが、そんなことを言われても困ります。

というわけで、いまやぼくは病気のデパートです。人間に大切なのはやっぱり健康ですよね。ちなみに、ぼくの病気は、なんといいますか、読書をするなするなと言っている気がしてしまうのです。目が悪い、集中力が出ない、座っているのはよくない、というわけですから。これはもう、そういうことなんでしょうか。

ブルガーコフの戯曲

2009-08-16 23:10:16 | 文学
ブルガーコフは有名なロシア作家ですが、彼の「イヴァーン・ヴァシーリエヴィチ」という戯曲はあまり読まれていないし、ほとんど知られてすらいないのではないかと想像します。しかし、この戯曲はおもしろいです。

確かに『巨匠とマルガリータ』のような壮大さはありませんが、自由なイメージとハチャメチャ加減はブルガーコフらしいと言えます。『犬の心臓』のような珍奇な想像力が大いに発揮されている作品です。

あるアパートの一室で、発明家の男が過去と未来とを自由に往き来できる装置を開発します。彼はアパートの管理人と偶然隣室に泥棒に入った男を巻き込んで、イヴァン雷帝の時代にひとっ飛び。そこから雷帝を現代に連れ帰り、管理人と泥棒をその時代に残してきてしまいます。管理人とイヴァン雷帝が同姓同名で顔もそっくりだったことから引き起こされるドタバタ騒ぎ。ワープ機械の鍵を失くしてしまい時空移動ができなくなってしまった発明家たちの運命やいかに!?

本の解説には諷刺劇だと書かれていましたが、小難しいことは考えず、単純な笑劇として楽しめます。確かに社会主義リアリズムの教条にはまるで合致しない作品ですけれども、抹殺するまでのことはない、軽~い劇であるように思えます。現代でかのイヴァン雷帝がどう振舞うか(この皇帝の残虐さは有名)、またイヴァン雷帝の時代に取り残された、雷帝に瓜二つの管理人と泥棒がこの難事をどう切り抜けるか、というところが劇の見所になっています。まるっきし不器用で臨機応変に対応できない管理人に対し、それを助けて如才なく立ち回る泥棒の軽妙な言動が楽しい。また、現代にいながら古めかしい言葉使いをする皇帝の可笑しさ、役者と間違われる滑稽さは、喜劇の王道でしょうね。そもそもこれは完全な取り違えの喜劇ですから、もう肩の力は抜いて笑ってしまっていいのです。

ブルガーコフをまず読むのなら、『巨匠とマルガリータ』がいいとは思いますが、その次にはこういう気軽な読み物も向いてるかも。

ロシア文学の食卓

2009-08-16 00:00:36 | 文学
金曜日、『『話の話』の話』のレビューを書いた日、閲覧数が1510件でした。えー!?ぼくのブログではありえない数字です。なぜだ。怖い。何かが間違っているんじゃないでしょうか…

さて、沼野恭子『ロシア文学の食卓』(NHKブックス、2009)を読みました。知っている先生の本なのでレビューを書くのが難しいですが、へんに贔屓したりせず、いつも通り思ったことを書きます。

この本は、ロシア文学に出てくる食事のシーンを引用して、そこからロシアの食事、食生活、文化、文学を考えてみる、というちょっと変わった本。ワイリとゲニスの『亡命ロシア料理』と同種のものなのでしょうが、読んだことがないので比較できません。でもまあ食事からロシア文化を考察する、というヒントはたぶん彼らの著書から得ているのでしょう。

ロシアは西洋と生粋のロシア文化との折衷的なところがある、だとか、ロシアの知識人は伝統的に物質よりも精神を重んじる、だとかいう議論が食事を切り口に展開されます。その手さばきは新鮮で、独特ではありますが、正直言ってこういう事柄はある程度ロシア文学の知識がある者にとっては常識で、驚きはありません。だから、食事という視点からロシア文化への深い考察を期待される向きには残念でしょう。

ぼくとしては、この本の見所はなんと言っても膨大なロシア料理の具体的な説明にあると思います。ボルシチとかピロシキとか日本人にも馴染みのある料理から、ブリヌィとかクワスとかシチーとか、聞いたことがあってもいまいちどういうものかがよく分からない料理や、プリャーニクとかボトヴィーニャとか聞いたことすらない料理まで、ときには写真入りでその調理方法まで(!)解説してくれます。これはうれしい。今後、ロシア文学を読んでいるときに自分の知らない料理が出てきたら、辞書代わりに『ロシア文学の食卓』を紐解くのもよいかもしれません。その意味で、索引のないのが残念ですが。

ロシア人は大食いだっていうことがよく分かりました。彼らはよく食べるんですねえ。現代の一般人はどうなのでしょう。チェーホフの短編でその大食いを扱っているものが引用されていましたが、とてもおもしろい。さすがチェーホフです。この本は、ロシア文学のよき紹介書ともなっています。また食の視点から文学作品の分析されたりして、興味深いですね。

ぼくのように、本書の中で言及されている小説は大抵読んでしまっているような人間にとって、これはいささか物足りない解説書であることは確かです。料理の具体的な説明はうれしいですが、表面的な知識の提供に留まっている気がします(ただオレーシャの章はなかなかおもしろかった)。しかし、ロシア文学の初学者にとっては、これは格好の入門書です。ぼくにとっては浅い知識に思われる西洋派とスラヴ派の対立図式(をただ示すこと)も彼らにとっては非常に重要なはずですし、それがロシア料理という珍奇な視点から描き出されるのなら、印象にも残ってよい勉強になります。まさに、楽しみながらロシア文学の勉強ができるというありがたい本。大学1,2年生くらいがちょうどよいと思います。無論、これからロシア文学を読みたいと思っている全ての年齢層の方々にも最適です。

もし文学に興味がなくても、ロシア料理には関心があるという人なら楽しめる本でもあります。一般向けの本ですが、大学1年生のロシア文学の授業の参考書に挙げられていたらステキかも。

清太よ・・・

2009-08-15 00:45:34 | アニメーション
実を言えば、今日は『火垂るの墓』(以下「墓」)を観る気分ではありませんでした。別に溌剌として気分ルンルンだから、というわけではなく、ただなんとなく、重苦しい映画を観る気持ちにはなれないのでした。ですけれども、9時になるとチャンネルは4に。

「墓」は非常に悲しい映画だから、もう二度と観たくない、という人がいます。ぼくはそういう人の気持ちは昔全く分からなくて、観りゃいいじゃん、おもしろいんだからさ、などと感じていたものですが、なんというかどんよりとした重苦しさに耐え切れない気分だったのですよ、今日は。ここ何年かは軽い感じのアニメーションを鑑賞する機会が多くて(らきすたとかひだまりとか)、耐性が弱くなっていたのかもしれません。

ですが、観てしまいました。観始めるとぐいぐい惹き付けられました。さすが。ということで、感想ですが、全体的なことを言ってもしょうがないので、14歳の主人公・清太のことについて。中学生のときとかに観た頃はそんなことは感じなかったのですが、彼は実に意地っ張りな少年です。父親が海軍のどうやら相当の階級の人間らしく、家庭も裕福。だからたぶん彼はプライドが高く、人に頭を下げることを知らない。そして年頃の少年らしく、他人に対しては口下手で、むっつりしている。こういうことは映画の中でかなり明確に描写されているのですが、中学生のぼくは気が付きませんでした。清太があれほど強情でなければ、恐らく節子ともども命だけは長らえたでしょう。

でもぼくは彼を非難しようとは思いません。絶対に、そんなことはできません。やはり他人と関わるのが苦手で、愛想を振りまけない「可愛くない」ぼくには、彼の気持ちがよく分かる。やり場のない怒りや悲しみ、プライド、それが彼を苦しめました。その上彼は大変な妹思いで、非常に優しい。その優しさがかえって彼の胸を引き裂いたであろうことは想像に難くありません。あの家で虐げられ皮肉を言われながら生活することは彼にはできなかったし、節子にとってもそれはつらいことだったでしょう。清太があれほど拒否していた、「母の死を節子に話す」という行為を彼に何の相談もなく行ってしまったあの叔母のもとで暮らすことは、できない相談でした。

もちろん、難しい問題です。蛍のように一瞬の輝きの後にはかなく死ぬか、それとも苦しみながらも生き続けるか(たとえ戦争を生き延びたとしても両親亡き彼らの今後は苦しかったことでしょう)。どちらがよいとは簡単に答えられません。しかし清太は前者の道を選んだのであり、そして間違いなく蛍として死んでいった。何が何でも生きるべきだと諭し、命の重要さを説くことはあまりに容易いですが、しかしそれは現代人の傲慢のように思えます。傲慢?豊かな暮らしにあぐらをかき、生死の境を知らないぼくなどに、どうして清太の決断を批判する権利があるでしょうか。彼は確かに現代人の目、とりわけ大人の目から見れば誤った選択をしたかもしれません。ですが、そうせざるを得なかった彼の心情を慮ると、何とも言えないほどいじらしく(節子以上に!)、彼を許してやりたくなります。いや、許すという考え方が既に傲慢で、そうなるべくしてなった彼らの運命にぼくは共苦し、ただ頭を垂れます。

なんとしても生きたいのなら、清太たちはまたあの家に戻ればよかった。そうしなかった、できなかった彼のプライドと節子を思う優しさ。実はその点がこの映画の非凡なところではないかと思います。ただ必死に生きようとして、その願いが叶わなかった、という作品ならざらにあるでしょうが、そこに思春期の少年の感情を忍び込ませて、まさに生きた人間の人生を描いている気がします。戦時中だって、少年には色々な思いがあったはずなのです。その思いが少年を死に追いやったとしても、それは彼が悪いのではなくて、ただ時代の悪さ、運命の悲劇に他なりません。

高潔な少年・清太よ、君の見下ろす都会の夜景は美しいかい?

話の話の話

2009-08-14 00:17:54 | アニメーション
夏休みはアニメーション映画がたくさん公開されます。イジー・バルタの新作長編にも行きたいのですが(まだやってますよね?)、お金がなかったり面倒くさかったりでなかなか行けません。来週中には是非…まだやってますよね?

というわけで、今日はアニメーションの話。クレア・キッソン『『話の話』の話』(未知谷、2008)を読みました。『話の話』というのは無論ノルシュテインの傑作アニメーションのこと。本書はその『話の話』成立の裏側に迫った意欲作です。

『話の話』はノルシュテイン自身の過去が重要なモチーフとなっていて、そこで、ノルシュテインの生い立ちからキッソンは筆を起こしてゆきます。ユダヤ人であるノルシュテインが受けた差別、終戦直後のソ連の状況、就職の挫折、ソユーズムリトフィルムでの憂鬱な日々、人生と仕事両方のパートナーとなるフランチェスカ・ヤールブソワとの出会い、当時のアニメーション界の状況、などなど。そして本書の中盤に差し掛かって、ようやくキッソンは『話の話』の解説に移ります。

作品のモチーフとなっているのは、ノルシュテインが幼年時代を過ごしたマーリナ・ローシャでの生活です。そこで聞いた音楽や生活の断片が、『話の話』の中で新たな生を得ています。またキッソンが重視するのは「冬のシーン」。ナポレオン帽を被ったのんだくれとその妻、そして子どもの現代の生活が描かれているその箇所は、多くの人々にとって謎とされていますが、キッソンによれば実はそのシーンこそが「ノルシュテインにとってはアニメーションの中心というだけでなく、作品の他の部分をひとまとめにする触媒でもあった」。そこには強い自伝的要素があり、他の部分とも無関係ではないそうです。

クレア・キッソンはノルシュテインと親交があり、彼から直接多くのことを聞き、それを本書に活かしたようです。加えてたくさんの資料を渉猟し、関係人物にインタビューを敢行し、事実の掘り下げを懸命に行っています。製作現場での模様や制作手法、またノルシュテインの当時の日々や彼の考えていたことなど、公的な事柄から親しい人間でなければ知りえないような個人的な事柄までをも丹念に調べ上げており、本書は非常に貴重な資料となっています。

ただ、事実関係を知るにはよい本ですが、『話の話』の考察となると、残念ながら深いところにまで降りて行っていない印象を受けます。当時の制作背景・制作事情はなるほどよく調べてあり、分かりやすいのですが、周辺を探っているばかりで、中心には近づけていない気がするのです。本書の重心は、『話の話』を論じた第7章にあると思われますが、全部で200ページを越える本の中で僅か30ページばかりというのは、やはり少し寂しい。他の箇所は、ほとんど全て制作背景についてなのです。

しかしこれは本書の欠点ではなく、ぼくの求めるものと本書とがたまたま一致していなかったということに過ぎません。また実際、本書は多くのものをぼくに提供してくれました。ただ『話の話』に迫る考察が物足りなかった、というだけです。今後、ノルシュテインについて研究したい人間には本書はやはりたくさんの材料を提供することになるでしょう。事実固めとして、実に有用な本だと思います。巻末の参考文献表もうれしい(ロシア語はキリル文字で表記して欲しかったですが)。

マラマッド短編集

2009-08-13 00:27:24 | 文学
ロシア系ユダヤ人マラマッドの短編集(新潮文庫)。
粒揃いで、いずれも一定のレベルは超えているとお見受けしました。
基本的にはリアリズム路線で、ハートウォーミングものがあったり厳しい現実を突きつけられるものがあったり。ただどの作品も小市民を主人公にしており、貴族のように優雅な生活を送っている者はいないし、常軌を逸したような変人も登場しません。外面的には非常に地味な印象で、この短編集に別のカバーをつけるとしたら、路地とか安アパートとか、そういうものが似合いそうな本です。

訳が気になりました。「あとがき」を読んで改めてそう思ったのです。マラマッドのこの短編集の特徴として、ラストの数行における飛躍、というものが挙げられます。これはその「あとがき」でも触れられていることですが、そこに、こんな一節がありました(カッコ内は原文ルビ)。「彼は、ひとりの女(オールド・ガール)を自分の部屋に抱きいれて二人でワルツを踊ろう、と決心する」。これは、「夢に描いた女性」という短編の主人公ミトカの最後の心情を要約したものなのですが、これを読んであれ、と思いました。「オールド・ガール」なんて表記はあったかしらん?それで「夢に描いた女性」の該当箇所を繰ってみると、そこには――

「彼はあの娘のことを思った。(略)彼女のコルセットあたりの温かな部分に手をあて、彼の仕事場のなかで、二人はワルツを踊りまわるであろう。」

やっぱり、どこにも「オールド・ガール」なんて言葉は書かれていません。むしろ「娘」と表記されています。一体、原文ではどうなっているのでしょうか。ここは非常に重要な箇所なのです。というのも、この「オールド・ガール」あるいは「娘」が誰を指しているのか、明瞭ではないからです。「ある批評家」の解釈と訳者自身の解釈とが併記されており(もちろんそれらは異なるもので、彼らにとって「オールド・ガール」は別々の女性を指している)、どちらなのか容易に判断が付きません。しかし「娘」としてしまえば、第三の女性が有力候補に挙がってくるのであり、ぼくはほとんど当然のように彼女を当て嵌めて考えていました。是非とも原文を参照したくなる訳文、というのは褒め言葉でしょうか、それとも?

ラストの飛躍は他の短編でも幾つか見られます。例えば「われを憐れめ」。最後の数行の意味が分からず、あれこれ推測してみましたが、十分に納得できる答えは出せませんでした。ちなみに訳者の加島祥造の解釈では、どうやら主人公は既に死んだ後らしい。ということは、亡霊になって自分の部屋に戻ってきたということか。自殺を図ったことは確かななので、問題は本当に死んだかどうか、なのですが、これはすっきりとした答えが出ません。彼は女性のために自ら望んで自殺をしたので、たとえ死んでしまったとしても、最後に彼女を罵ることはないように思われるんですよね。彼女のための死であったとしても、それは本望ではなかったかと。それとも、死んでしまってようやく馬鹿げたことをしたのに気付いて、彼女を憎らしく思うようになったのでしょうか。全ては藪の中です。

「魔法の樽」も非常に奇妙な小説で、ファンタジックな要素はないように見えながらも、ラストを含めて不思議な描写が幾つかあり、一筋縄ではいきそうにありません。こういう小説というのは、ぼくはあまりお目にかかったことがありません。トドロフの定義によれば、幻想小説とは現実と非現実との間の「ためらい」にこそあるのですが、それともまた違うようなのです。いや、そうではなく、マラマッドの短編こそがトドロフ的な幻想小説の完璧な達成なのでしょうか?

最後に。「湖上の貴婦人」という短編だけは、個人的にはいただけませんでした。まず、他のものに比べ筋に躍動感がありません。一言で言えば退屈ということです。しかし最大の欠点は、結末の弱さでしょう。確かに印象深い幕切れではあるし、ユダヤ人の苦悩が浮き彫りになってはいるのですが、あまりにも観念的に創作されたラストで、非常に作り物めいたイメージを抱かせます。それに、何より容易に予想できてしまうんですね。途中まで読めば、この物語の結末がどういうことになるか大方予想が付いてしまうのですが、それが全く裏切られないのです。そのまま。結末に特色のあるマラマッドとしては、これはどういうことでしょう。また、気になることに、この小説だけエロティシズムが横溢しています。マラマッドのモチーフはそのままに、まるで別人が書いたようにさえ思われるほど。残念な点でした。

しかし、それ以外の作品は概しておもしろく読めました。

ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド

2009-08-12 00:06:22 | 文学
ブライアン・W・オールディスの『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』を読みました。作者はイギリスの著名なSF作家。ですが、本書はSFではありません。分身もの、というか、はっきり言ってしまえばシャム双生児を取り扱ったものです。

トムとバリーは腰から下が繋がっている、いわゆるシャム双生児で、しかもバリーの頭の横には第三の頭が生えていた…という設定。この時点でもう「私はダメ」という人もいるかと思いますが、それほどグロテスクな描写はありません。ただ、後半はちょっとホラーじみてきます。が、ホラーが大の苦手なぼくでも問題なく読み進められたので、たぶん他の人にとっても大丈夫でしょう。

さて、「彼ら」は歌手としてデビューします。いや、させられるのですが、その結果、一気にスターダムを駆け上がります。ところが様々なスキャンダルを呼び寄せて、会社と契約を更新しないまま解散。故郷へと戻ります。

ここまでが中盤までの流れなわけですが、こういう事柄が単純に述べられるというのではなく、「彼ら」に関係する様々な人たちの証言によって、その出来事が語られてゆきます。姉や弁護士や会社の人間、そして愛人などが自分と「彼ら」との関わりを述懐してゆきます。そうした断片的な証言から、読者は全体像を組み立ててゆくのですね。しかしこの手法は実験的という印象を抱かせません。というのも、彼らの証言がほぼ正直で、また大体において時系列順に配置されているからです。ふつう、こういう構成にすると、時系列を故意にばらして断片性を強めたり、証言に明確な嘘を混ぜて読者に真相を想像させたり、といった手の込んだパズルのようになるものですが、本書ではそういう案は採択されず、実にオーソドックスな小説に見えます。それが正しい選択だったかどうかは難しい問題ですが、ラストの衝撃を重視した結果なのでしょう。これは、確かに本書の一番最後にこなければいけなかったと考えるのが正当な判断だろうと思われるので。

個人的には、そんなには楽しめませんでした。聞いたことのある題材で、実験性も薄く、事件の掘り下げも達成されていないように見えます。なんとなく中途半端で、もうひと伸び欲しかったところ。特に「第三の頭」についてもっと突っ込んだ議論があってもいいだろうに、と思いました。そこはかとない恐怖心は呼び起こしますが、それだけなんですよね。

ぎりぎり及第点、というところでしょうかね。