Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

朝から活動

2011-09-30 23:37:01 | Weblog
今日は朝早くから活動したので、既に目がしょぼしょぼします。でも、やることがたくさんあるので、これから作業しなくては。ぼやぼやしてたら、急に忙しくなってしまった。いや、今までも忙しいはずだったんですけど、ぼやぼやしていたもので・・・!とりあえず書くべきものは書いて、読むべきものは読まないとな。

と、そんなところへ、電脳コイルが公式サイトで無料配信されるという情報が!しかも全話!まじですか。でも時期的に、「ちょうど」って感じじゃないですか。忙しい時期とかぶりまくってます。見ようと思えばいつだって見られるんですが、こういう機会でもないと見ないからなあ。見ようかなあ。

あと、「とある飛行士」も見に行きたいなあ。このくそ忙しいときに!とドーラなら怒鳴るでしょうが、その場面がぼくはけっこう好きだったりする。ラピュタの話です。忙しいときに限って用事が重なるもので、まったく困ったものだ。まあ、これは別に用事じゃないけど・・・

しかしだからこそ、ぼくは朝から活動しているのです。いつものように午後からでは間に合いそうにないので、普段は何もしない午前に何かしてやろうと、こう考えているわけです。さあて、明日も早起きするぞ・・・たぶん。

SEVENTH HEAVEN

2011-09-29 00:48:02 | アニメーション
【Perfume】SEVENTH HEAVEN【手描きMAD】


キタノユースケさんのアニメーション(歌はPerfume)。
これ見たとき、プロが作ったMVだと思ったんですけど、素人なのか・・・。まあ確かに新海誠入ってるし、ツッコミどころがなくはないんだけど・・・すごいなあ。

かくれんぼ

2011-09-28 02:27:44 | Weblog
さっきコメント欄にも書いたことですが、ぼくはぼくを発見してくれる人を待っている。見つけられるのをずっと待っている。日は傾き、ジャングルジムの影は長く伸びている。それでもぼくはじっと待っている。でもぼくは、せめて声を届けることにしました。いや、声を出すことにしました。ぼくの声、そっちに届いてますか?聞こえますか?聞こえたら、どうかぼくを見つけてください。

何人かの人たちは、ぼくを既に見つけてくれて、あるいはぼく自身が見つけました。ぼくにとってその出会いはとても素晴らしいものだったから、新しい誰かを欲しているのかもしれません。あるいは、既に知り合っている人たちに対して、もっと深く、もっと深くと要求しているのかもしれません。ひょっとするとこれは我儘?欲張り?

でもぼくは、もっともっと人と色々なことを分かち合いたいのです。本や音楽やアニメや勉強のことを、人生の楽しさ、辛さ、苦しみ、自由を、過去と現在と未来を、それらのことを何度も何度も語り合いたいと思っているのです。

例えばぼくは、冬にストーヴで暖を取ることについて、ある種の詩情を感じています。より正確に言うと、詩的な光景を頭に思い浮かべます。そういう光景について、話し合いたいのです。その様子がどんなに心温まるもので、どんなに喜ばしいものかということについて。それにまつわる自分の原体験や、あなたの原体験について。

既に出会っている人にも、そうでない人にも、ぼくはここから声を上げています。ぼくだって黙っていない。韜晦したっていいことなんてない。

もういいよって、ぼくは言うことにしたのです。

やみくろサン

2011-09-27 02:16:16 | 音楽
ニコニコ動画とかで、やみくろサンの歌を聞きまくっていた。先日の「完全性コンプレックス」が思いがけず心に残ったので、検索してみたわけです。結局、たぶん全部聞いたと思います。時間かかったなあ。

どれも自分好みの曲と詩で、こんな人がいたのか、と少しうれしくなりました。ボカロは玉石混交で、なかなかいい歌に出会えなかったりしますけど、あることはあるんです、いいやつが。

ちなみに、「歌ってみた」では、ざいざいサンの「完全性コンプレックス」が一番いいかな。かなり高レベルのが3つあって、甲乙つけがたかったのですが、今の自分の気分としては、彼女の歌声がいいかな。

世間からはボカロってどう見られてるのかなあ。いまだに偏見あるのかな。じゃあそれで作曲する人も変な人って思われてるのかな。聞く人も。ボカロ自体が世間の一部からしか許容されてなくて、しかもやみくろサンの曲はニコニコでもそれほど伸びてないみたいで、だからマイナーなんだろうけど、ぼくはぼくが好きだと思った歌は、好きだと言うことにします。たとえ今は誰にも共感されなくても、いつか誰かが共感してくれることを信じてます。いや、信じることにします。というか、信じたいです。

自分の感受性って、これまでぼくは守るに値しないと思ってました。高尚な趣味も、奇抜な嗜好もないぼくの感受性なんか、捨ててもいいと思ってました。でも、ぼくはぼくでなければ、誰かと分かち合えない。ぼくがぼくの感受性を捨ててしまったら、ぼくは昔のぼくとさえ分かち合えない。いつか誰かと分かち合うために、ぼくはぼく自身であらねばならない。だからぼくは、好きなものを好きだと証言しておくことにします。ぼくの感受性が「あなた」と共鳴するように。

短編アニメーション

2011-09-26 00:02:26 | アニメーション
恵比寿ガーデンプレイスに行ってきました。数年ぶり。目的は、東京都写真美術館で上映中の『マイブリッジの糸』を見ること。

上映作品は、「カノン」「心象風景」「ビーズゲーム」「技」「ワイルドライフ」「Fig(無花果)」「こどもの形而上学」「マイブリッジの糸」で、最後の三つが山村浩二の監督作品。それ以外の作品は、NFB(カナダ国立映画制作庁)の名作と呼ばれるもの。ただし「ワイルドライフ」だけは新作で、たぶんまだ評価は定まってないです。

最初の4つについてはまあ別に書くことはないのですが(何度も見ているし)、とりあえず「ビーズゲーム」はやはりすごい。色んな意味で神がかってます。

で、「ワイルドライフ」ですが、この監督の前作の・・・えっと・・・しまったタイトルを失念してしまった・・・ある朝のはじまりだっけ・・・とにかくそういうタイトルの作品なのですが、そこでは対象が接写されるシーンが多くて、それが特徴的だったのですが、今作ではその手法が部分的に踏襲されていました。ただ、似ていたのはそれくらいで、あとはまるっきりタイプが違う。絵柄も違えば雰囲気も違うし、物語性の高さも違う。そう、今回はナラティブが重視された作りで、一本のストーリーラインがありました。

20世紀初頭、イギリスから開拓のためカナダに渡った青年の生活と孤独を描いた作品です。青年はカナダから両親に宛てて嘘の内容の手紙を記しつづけ、自分が幸福で裕福な暮らしをしていることを彼らに伝えます。しかしある冬の日、青年は自らの心中を少しばかり吐露し、そして行方を断ちます。やがて彼は雪原に死体となって発見されます。どうして彼が死んだのかは、誰も知りません。

この作品は、青年の両親への嘘の手紙と、それから青年を取り巻く人々の証言から構成されています。したがって、青年の内面を確実に知る手立ては、最後の手紙の他はほとんど残されていません。ただ彼の置かれた状況から彼の胸中を察するばかりです。

ぼくは、この作品はなんだか胸に沁みました。基本的にユーモアのオブラートに包まれた作品なのですが、それにもかかわらず、何か物悲しい。100年前の人間の孤独は、ひょっとしたらぼくらには無関係なのかもしれない、これは単なるカナダ開拓に失敗した男の情けない末路に過ぎないのかもしれない、でも、何かがぼくの心の琴線に触れました。青年の心情は誰にも明かされません。観客にも明かされません。それは明白だと思う人もいるかもしれませんが、でも、青年の心理描写は作品から排除されています。それなのに浮き彫りになってくる彼の孤独。

一歩一歩と進む彼の足取りが、克明に画面に刻まれてゆきます。彼はどこへ向かおうとしていたのか。孤独から抜け出そうとしていたのか。彼の人生が彗星に例えられていたように、彼の儚い一生は単なる100年前の出来事ではありません。それは宇宙の理を背景にした人間の生そのものです。しかしながら、彼が足もとばかりを見ながら歩き続けた末に、最後の最後で(倒れる瞬間に)天空を仰ぎ見たことは、何かしら救いをも提示していたように思いました。

概してこの作品は「ギャップ」で構成されていたように思います。自然と人間、嘘と真、天と地。そのギャップからユーモアが生まれ、また人間の孤独が浮かび上がってくる。この方法はかなり意識したものと思われますが、監督(二人いますが)は非常にクレバーなのでしょう。

アジアで初上映とのことですが、100年前の一人の人間の孤独が、時間と空間を超えて多くの人々の心に届けばいいなと思います。

さて、本日目玉の「マイブリッジの糸」ですが、感想がもうだいぶ長くなってしまったな。だからほんの少しだけ。色々と考えてみたい作品ではありましたが、実を言うと、ぼくにはとっかかりがなかった。考えるためのとっかかりが。それこそ時間と空間を超えて何物かが伝達されてゆく話なのだとみなせますが、正直ぼくには分かりづらかった。でも世の中には、初見で色々なことが見えてくる作品と、何度も見返すことでやっと何かが見えてくる作品とがあります。だから、ここでは一言「分からなかった」と書くだけに留めておきます。

ナンセンス絵本

2011-09-22 23:39:26 | 文学
ジョン・ハリスという有名な出版人がかつておりまして、彼はナンセンス絵本を出版したことでも知られています。その流れを引き継いで巨大な仕事を成し遂げたのがエドワード・リアであったりするわけですが、彼の『ナンセンスの絵本』や、またジョン・ハリスの出版したナンセンス絵本を眺めていて思ったのは、「言葉のナンセンス」というのは絵本という形にすると絶大な効果を発揮する、ということ。ここでいう「言葉のナンセンス」というのは、要は語呂合わせの駄洒落のことです。

語呂合わせというのはとても耳に心地よいのですが、しばしば意味がなおざりにされます。例えば、「ノッポのシッポが一歩進んだ」とか、いま適当に思いついた文ですけど、語呂はいいのですが、意味不明なわけです。不明というか、なんじゃそりゃ、という意味なわけです。そうやって面白がるのがいいと思うのですが、ただ言葉にするだけではその面白さが十全には伝わらないかもしれません。そこで、「意味」を絵にするのです。つまり、言葉は「音」に特化し、絵は「意味」に特化するのです。それがナンセンス絵本です。

したがって、ここでの絵=イラストレーションとは、しばしば考えられるように言葉を補うものではありません。そうではなく、「意味」として自立しているのではないでしょうか。もちろん、言葉には「音」と「意味」があるわけですから、イラストは後者を補っているのだ、と考えることもできますが、しかしナンセンス詩の場合は、後者を補佐するのではなく担当していると考えた方がよさそうです。

いまふと思ったのですが、「ノッポッポのシッポが一歩進んだ」とすれば、もっとおもしろいですよね。「ノッポッポ」って何だろう、と。この文全体でもナンセンスですが、「ノッポッポ」という単語だけでもナンセンスです。

こう考えてみると、ナンセンス絵本というのはとても興味深いですね。

やる気のなさについて

2011-09-22 02:32:30 | Weblog
ぼくはやる気のない人間です。覇気がない。気力がない。やる気は欲しいと望んでいます。でも、やる気がないのです。生来の怠慢のせいなのか、それとも体調を壊したせいなのか(数年前に体調を壊してからぼくはずっとやる気がない)、それは分かりません。やる気がないと本も読めないし、映画も見られません。就職活動もできません。だからぼくは非常に肩身の狭い、窮屈な思いをしています。

ぼくも就職活動をしたことがありますが、求められている人材というのは、とにかく「やる気のある人間」なのです。バイトでもそうですね。だからぼくは、ないやる気を振り絞ってエントリーシートを書き、面接に臨みました。それは非常につらい体験でした。

今の生活も、とにかくやる気が求められているように感じます。やる気がなかったら大学に残ってはいけないような気さえしています。つまり、やる気がなければ社会で働いてはいけないし、勉強してもいけないわけです。

でも、それだったらぼくのような人間はどうすればいいのでしょうか。生きていてはいけないのでしょうか。ときどきそのようにぼくは思い詰めてしまいます。やる気がなかったら、人間は死んだ方がいいのでしょうか。なんでやる気がないだけでこんなに窮屈な思いをしなければいけないのでしょうか。

こんな考え方は、まあ普通の人はしないんでしょうね。健全な人、やる気のある人はこんなことでくよくよ悩む人間がいること自体、考えつかないんでしょうね。やる気がないんだったらやらなきゃいいじゃん、ただしそれ相応の暮らししか待っていないがな、と彼らはぼくを断罪するのでしょうね。

やる気がない人もそれなりに満足して生きていける社会にぼくは住みたいなあ。それは資本主義社会ではない!と言われそうですが、でも、そんなことを言う人たちが多数派の社会では生きていたくないなあ。ぼくは知っているんですよ、そうではない社会の存在を。
ああ、ものぐさ太郎の昔話って、なかなか寓意に富む話ですよね。

がくっ

2011-09-20 22:56:36 | Weblog
論文をロシア語に要約していたら、論文の重大な瑕疵に気付いてしまった。がくっとなった。ああもう駄目かも・・・ぼくは力尽きました。さらば、ぼくの苦労よ。

とりあえず明日、修復可能かどうか見直しますが、もうこんな生活嫌だ。

もうこんな時間に

2011-09-19 02:34:52 | Weblog
気が付いたら夜中の2時だった。たしか前に時計を見たときは0時くらいだったのに、いつの間にか2時間も経過していたことに驚く。論文を書いていたのだが、どうやら集中していたようだ。その集中のおかげで、一通り書き終わった(まだ加筆するところはあるけど)。それにしてもぼくは論文ばかり書いている気がする。別に義務というわけではないのだが、書いてしまっている。毎年卒論を書いているようなもので、かなりしんどい。これだけ書いていれば、質の低下は避けられないような気がして怖いのだが、逆にスキルが上がってくれればいいのに、と淡い期待もしている。ネタはないし、ないから探さねばならない。探すにはロシア語をたくさん読まなくてはならない。しんどいのである。

卒論は普通、2万字から4万字程度が相場だけれども、今から考えればちょろいものだ。もっとも、ぼくだって何年か前までは4万字も書けるかどうか不安でいっぱいだったものだ。修士論文で20万字書いて、一皮むけたのかもしれない。まあ、肝心なのは字数ではなくて内容だが。でも、たとえ内容がお粗末でも、とにかく書きまくったことが自信につながったのなら、それはそれでいいのだとも思う。

やれやれ、疲れた。明日はまた図書館に行って本を借りてこなくてはな。明日までは天気が持つらしいから、明日しかない。明日。もう今日だな。

新海誠全作品上映

2011-09-18 00:09:43 | アニメーション
そういうわけなのです。場所は下北沢のトリウッド。タイムテーブルは以下の通り。

10月8日(土)~10月28日(金)
12:30 「星を追う子ども」
14:45 「ほしのこえ」「彼女と彼女の猫」(二本立て)
15:30 「雲のむこう、約束の場所」
17:15 「秒速5センチメートル」
20:00 「星を追う子ども」

「星追い」は、4か月に及ぶロングランがついに終了したかと思われたましたが、復活。
新海作品をスクリーンで見たことがまだない、という人には朗報です。もちろん、「星追い」を見逃した、という人にも。もっとも、トリウッドのスクリーンは小さいですけどね。

ぼくは「彼女と彼女の猫」以外は映画館で見ていますけれども、どうしようかなー行こうかなー。迷う。この頃には寒くなっているでしょうか、どうでもいいけど。

今日は早起きしたのでもう眠いし疲れた・・・

髪を切る

2011-09-16 23:05:17 | Weblog
というわけで、髪を切りました。

ここで終わってもいいなと思いながら、まだちょっとだけ(文章を)続けます。
髪を切られるたびに感じることなのですが、なんか違うんだよなあ。今回は側面を切り過ぎているのではないだろうか・・・。それに比して、前頭部が長すぎる気が・・・。いや実は、前髪はちょっと長いですかねえ、と聞かれたのですが、そんなでもないかなあと(そのときは)思って、大丈夫ですよ、と朗らかに答えてしまったのでした。やっぱりもっと短くしておくべきだった。いや、そもそも、側面が短すぎるんだよ。

早くのびろ~。

まあでも、切り立てって大抵気に入らないものですよね。

価値が見出せない

2011-09-14 23:03:18 | Weblog
暗い記事になるのかな、と思ったら、急に書く気力が失せてきました・・・

いま自分がやっていることに、ぼくは価値が見いだせない。よく、「自分のやるべくことをただやればいい」という言い方がなされますけれども、その「自分のやるべきこと」が何なのか、ぼくは未だに分かりません。確かに、数年前に比べたら、ぼくには「やるべきこと」ができました。何をしたらいいのか本当に全く分からない状態からは、抜け出したとつい最近まで思っていました。でも今日、部屋でぼんやりしていたら、結局何も変わっていないのではないか、どこからも抜け出してなどいないのではないか、と思えてきました。

いまぼくのやるべきことは、論文を書いたり、語学を勉強したりすることです。それは承知しているつもりです。でも、それが本当にぼくのやるべきことなんだろうか。自分のやりたいことばかりをやっていられる人間は幸せです。そんな人はほとんどいないに決まっている。でも、ぼくは自分のやりたいことすら分かっていません。やるべきことも、やりたいことも、分からない。

淡々と自分の仕事をこなせばいい。それはそうです。けれどもぼくにはどうしてもそれができない。そんな簡単なことができない。いつもぼくは漫然と寝転びながら、「何もする気が起きない」と心の中で呟きます。いま外を散歩したら、その方がどれだけ有意義だろう、いま友達と会って話をしたら、その方がどれだけ価値があるだろう、いつもぼくはそんなことを考えて、目の前の勉強に集中することができません。これはつまり、自分の為すことに価値を見出せていないからではないのか、とぼくは思い至りました。

研究していればそれなりに苦労はあるし、逆に楽しいこともあります。でもぼくは、そのどちらにも既に価値を見出してはいない。これは単にいまやるべきことに過ぎない。社会に適合するためにやるべきことに過ぎない。生きていくためにやるべきことに過ぎない。ぼくにとって本当に価値のあるものって何なんだろうなあ。

つまるところこれは、「やりたいこと」を探し求めるよくある悩みに過ぎないのでしょうか。小学生の頃からぼくは、「やらねばならないこと」はそつなくこなし、「やりたいこと」もそれなりにやってきたように思います。その中で自分の本当にやりたいことを思案し続けながら、いつの間にかぼくはここに立っている。逃げ道のない行き止まりに立ち尽くしている。結局ぼくには「本当にやりたいこと」なんて見つけられなかった。そんなものはその時々で変わるわけだから、そもそも存在しないのかもしれません。あるいは存在し過ぎているのかもしれません。

いや、自分のしていることに価値を見出す瞬間もあります。でもそれは稀。常にぼくはやる気が出ず、だらだらと日々を送っている。白紙の手帳を捲るように、何ら感懐を抱くことなく、ぼくは一日一日を生きている。明日を生きる楽しみも、意欲も、気概も心に芽生えることなく。もっと違う生き方があるのではないだろうか。ああしかし、それを言ったらきりがない。

情けない。チェーホフの滑稽な登場人物みたいだ。なんだかひどく青臭い記事ですが、真情の吐露として、書いてみました。

「容疑者不明」

2011-09-13 23:00:22 | 文学
ナギーブ・マフフーズ「容疑者不明」。

「幻想的探偵小説」とでも言ったらいいのでしょうか、犯罪行為がある種の寓意として描かれていて、容疑者が文字通り「不明」のまま小説は終わります。

とあるアパートで元教師が殺されたのを皮切りに、次々と同じような手口の殺人事件が連鎖してゆきます。手掛かりはいつもなく、ただ共通しているのは、被害者の首に残されている紐で縛られたような索状痕。腕利きであると評判の担当刑事は犯人の目星がつかないために次第に焦燥の色を濃くしてゆきます。

この小説はただの探偵小説ではなく、というより、探偵小説という道具立てを使ったに過ぎない、寓意小説です。結局犯人は捕まらず、それどころか、住民を安心させるために、警察は情報をシャットアウトします。報道がなければ事件もまた存在しない、というわけです。情報統制の愚かさを揶揄しているようにも読み取れますね。

カダレの『ドルンチナ』をぼくは思い出しました。あれもいわば「幻想的探偵小説」の趣きがありました。事件の真相は闇の中であり、土俗的な信仰に多くを帰してしまう。非常に両義的な結末を持っていた『ドルンチナ』に比べると、「容疑者不明」はやや単純化しすぎているきらいもありますが、しかし最後のどんでん返しは見事であり、全てが雲散してしまう様子は、やはり「異色短篇」の名に相応しい。

というわけで、『異色作家短篇集20』の冒頭を飾る作品でした。作者はエジプトのノーベル賞作家。

山の思い出

2011-09-13 01:39:56 | Weblog
小学6年生の頃、クラスの皆と一緒に山に登りました。
その名前は忘れてしまいましたが、しかし小学生が登るにしてはかなり急峻な山であったように思います。鎖を伝ってゆかねばならない箇所もありました。

小学生の頃のぼくは割と優等生タイプだったのですが、大人しいと言うほどでもなく、運動は得意な方でした。けれども、その山道は本当にきつくて、おまけに鎖を使って岩を上り下りする場所などでは、生来の臆病のせいもあって、一緒に登っていた友人に後れを取ってしまうことが何度もありました。でもその度に彼は、ぼくを待っていてくれました。

彼とは5年生のときに初めて同じクラスになりました。最初はどうだったか忘れましたが、しかしぼくらはじきに仲良くなりました。たぶん『ジャンプ』がきっかけで仲良くなったのではないかと思います。「BOY」というマンガがあって、それに登場する人物と同じ名前だった彼のことを、ぼくはときどき「まこっちゃん」と呼びました。すると彼は、漫画の中の彼がそう言われて照れ且つ怒るように、怒るふりをするのでした(それとも本当に怒っていたのかい?)。

彼は乱暴者で通っていました。同級生から、「あいつとは遊ぶなってお母さんが言ったんだ」という言葉をぼくはじかに聞いたことがあります。物静かなタイプのぼくと、乱暴者で鳴らしていた彼と、たぶん傍から見たら凸凹コンビだったのではないでしょうか。ぼくのような人間がそういう不良っぽい感じの少年に惹かれるのは分かりますが、彼がなぜぼくに心を開いてくれたのか、それはよく分かりません。ドラマじゃあるまいし。

彼は体格がよく力も強くて、スポーツは得意でした。だから急な山道でも人一倍速く進むことができました。その彼はぼくと一緒に山を登り、そしてたびたび遅れるぼくを待っていてくれました。ぼくはそれまであんまり人に後れを取るということがなかったので(今とは大違いですが)、誰かに待ってもらう、というのはそのときが初めての経験でした。多少の気恥かしさはあったように思います。でも、いま覚えているのは、うれしさ。とにかく、ぼくはうれしかった。それはもしかしたら当たり前の行為なのかもしれません。でも、そんな当たり前の優しさが、ぼくの心に沁みました。

思い返せば、よく共に遊び、喋ったものだなあ。それらの記憶は断片しか残っていませんが、どれも懐かしい。そしてその最も温もりのある一片が、この山の思い出です。