Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

小説を読もうと思った

2012-07-14 23:09:13 | 文学
神経の擦り減る日々を過ごしていたのですが(外的な理由で)、ようやく終わったので、小説を読もうと思いました。それで、図書館に行って本を借りてきました。日本の小説が読みたかったので、とりあえず森見登美彦の作品を読み始めました。

おもしろいのですが、疲れる。ワンピースのときは時間も忘れて読みふけっていられたのになあ。なんでかなあ。この小説はとてもおもしろいし、かなりよく出来ていると思うのですが、精神力と体力が続かない。

読書って、なんかつまらんな。つまらないと感じてしまうぼくの心。ぼくはもう、この世界から駆逐されて然るべき存在になり果てているのかもしれない。ちなみにこの世界っていうのは、世の中という意味ではなくて、ぼくの所属している狭い世界のことですが。

結局のところ、ぼくは読書だとか文学だとかいったことに、もう大きな意味を見出してはいないし、それを求めてもいないんだ。もっと別のことに価値があると思っている。それは友人と談笑したり、散歩したり、デートしたり、美味しいご飯を食べたりすることなんだ。

学部の頃はやたらに小説を読み漁っていたけれども、もう疲れたな。筋もテーマも忘れてしまった作品がほとんどで、当時の読書に何か大きな意味があったとも信じられない。それでもぼくはあの頃の惰性で今日も図書館へ行き、森見登美彦その他を借りてくる。惰性で?それともやはり何かを求めているんだろうか。読書行為が、自分にとって大切なものを授けてくれると期待しているんだろうか。

目的の分からない、苦しい読書。それでも小説を読もうと思った。

ノンセンスの論じ方

2012-06-25 01:27:28 | 文学
ノンセンス文学の論じ方。

0、そもそも論じられないと放棄
1、「ノンセンス」という言葉の定義やノンセンス文学史を記述
2、ノンセンス(無意味)からセンス(意味)を読み取る
3、作者の思想や創作の背景と、作品とを関連付ける
4、作品の具体的な細部・モチーフに注目して、作者の思想や同時代の社会・文学等々に結びつける
5、言葉遊びに注目して、言語学的アプローチや他の作品との比較を試みる

他にも色々あるかと思いますが、とりあえずこんな感じで挙げてみた(実際に論じ去る際には、これらの複合になろうかと思う。3と4は近いけど重点の違いかな)。

で、何が言いたいかといえば、どれもおもしろくないというか、これでは不満というか、そういうこと。もっとも、自分にできることだってやはりこうした方法しかないので、つまるところは自分に不満だということなんですが。もっとワクワクさせてくれる批評法はないものか。もちろん、○○理論の枠組みに作品を当てはめるというやり方はナシで。

結局のところ、批評はこうあるべきだとかって声高に叫んでみたところで、実際に自分が書いているものは自分がけなしているものと同じなんだよな。いやそれ以下でさえある。これはノンセンスに限った話ではなく。

こう生きるべきだって思っていても、実際の生き方はそれとはまるで違う。右手を動かすつもりで左の肩を動かしていたりする、そんな滑稽な人生だよ。

ノンセンスを書いている人だって、本当は大真面目なのかもしれないよ。

方法論とかじゃなくてさ、何かに憑かれたように書いたものって、ワクワクさせてくれるんじゃないだろうか。自分の執心の結実です、みたいな論文。本を読む根気もアニメを観る熱意も薄れた今の蒼白い自分では、そういうのは難しいだろうな。

それにしても、夕飯のときから頭が痛い。
ああ、今日は早く寝ようと思っていたのにな。
明日はどうやって生活していこうかな。

「これがチェーホフ? これぞチェーホフ!」

2012-05-17 23:19:36 | 文学
三谷幸喜がチェーホフの『桜の園』を演出するそうですが、いよいよ来月ですね。やはり気になります。どんなチェーホフになるんだろう。

今日の夕刊の三谷幸喜のエッセイで、『桜の園』は喜劇である、という三谷氏の見解が述べられていましたが、一般的にはこれは議論のあるところです。『桜の園』というタイトルの傍には「喜劇」と銘打たれているにもかかわらず、「いやこれは喜劇ではない」とか、「喜劇の意味が違うのだ」とか色々言われていて、純粋なコメディーとは必ずしも見られていません。ところが、三谷氏はこれを「喜劇」だと言う。しかも「爆笑喜劇」だと。興味ありますね。ぼくも基本的にはこの戯曲は喜劇だと思っているのですが、しかし、それは「人間の滑稽な生き様」という意味での「喜劇」であって、観客をして腹を抱えて笑わせる類の「喜劇」とみなすには、躊躇してしまいます。三谷氏はぼくのような意見には首を傾げているみたいですね。そして、『桜の園』の戯曲には笑いの要素が山のようにあると主張するのです。喜劇作家の自分にはそれがよく分かる、と。さすがにすごいな。

もっとも、ぼく自身、躊躇するとは言いながらも、チェーホフの後期の戯曲には爆笑の要素がかなりあるのではないかと疑っています。それというのも、何年も前に観劇したチェーホフ『ワーニャ伯父さん』(佐藤信演出・柄本明主演)が、ぼくの中で強烈な印象を保持し続けているからです。『ワーニャ伯父さん』は「喜劇」とは書かれていないのですが、この劇、笑えたんですよね。人間が猛烈に怒る様が、なぜか笑えた。だからぼくは、チェーホフは他の戯曲でも「滑稽な人間喜劇」を描いているのではないか、と思ったのです。それと共に、作品には笑いの要素がまぶされているのではないかと疑い始めたのです。まだロシア文学を専攻する前の話です。2004年にチェーホフ戯曲の公演が相次いだとき、ぼくも足繁く劇場に通いましたが、当時も色々なチェーホフ像が提示されていて、その中には彼の喜劇作家としての面を強調したものもあったように記憶しています。でも、それは「爆笑」じゃなかった。

だからぼくは、三谷幸喜がチェーホフで爆笑を取るのを見てみたいのです。
・・・とはいえ、まだ劇場に足を運ぶかどうか決めていません。チケット9000円っていうのも高いよな。う~ん、迷う。迷う理由なんてないはずなのに迷う。チケット代なんて言い訳に過ぎないのにな。

翻訳

2012-04-16 23:12:15 | 文学
島亘『ロシア文学翻訳者列伝』という本が出版されていました。作者がどのような方なのかは存じ上げないのですが、目次を見る限り、かなり広範にわたって調査されている模様。ちょっと読んでみたいのですが、近所や大学の図書館には今のところないみたいです。残念。もっとも、いまは読む時間をあまり取れないかもしれませんが。

翻訳に関するあれこれを調べるのはけっこう楽しいので、ぼくもいつか日露の翻訳事情について勉強したいなあ。チェーホフを中心に据えてやってみたいものです。

あ、今日は短いな。

朱雀家の滅亡

2012-04-03 22:52:19 | 文学
三島由紀夫『朱雀家の滅亡』を読む。またしても戯曲。

貴族(華族)の凋落、というテーマで古典的なのは、やはりチェーホフ『桜の園』ですが、それを下敷きにしている太宰治『斜陽』も数の中に組み入れてもよいでしょう。そういった系譜に連なる戯曲であるとみなせます。もっとも、三島由紀夫が言うには、これはエウリピデス『ヘラクレス』を翻案したものであるようですが、しかし三島自身による梗概を読む限りでは、彼の考える巨大で抽象的なテーマ性において近似しているのみで、印象はまるで違います。つまり、子殺し・母殺しといったテーマ性のみを借用して、まるで違う物語を構築してしまったように思えます。まあ、エウリピデスの作品を読んでいないので実は何とも言えないのですが、梗概を読む限りでは、全然別の作品のように感じられてしまう。恐らくそれは、『朱雀家の滅亡』が純日本的な設定を持っているからでしょう。戦中の華族が天皇に捧げる忠義と、死地に赴く若者の捨て身の覚悟。

それはさて擱くとして、『朱雀家の滅亡』の二面性というものについて少し思うところがありました。これは、忠節の末路を嘆く芝居なのか、それともそれを推奨する芝居なのか。失われゆく秩序を慨嘆するのか、来るべき新しいまだ誰も見たことのない秩序を称賛するのか。こうした両面性は、貴族の没落を描くときには必ずや付随するものであり、チェーホフや太宰治の作品にも当てはまります。作家本人には、どちらかへの肩入れがあったのかもしれませんが、しかし個人的には、読む者/観る者がどちらにより自分の思いを託すのか、共感するのか、ということの方が大事に思われます。旧秩序の崩落か、新秩序の勃興か。三島由紀夫はどちらにより照明を当てていたのか、ということは既に証明されているのかもしれない。チェーホフは、どちらの肩を持っていたのか、ということも。よしんば今分からなくとも、将来、確かなデータによって一つの推定が裏付けられるかもしれません。でも、我々がどちらに共感するのか、ということは全くもって不確定な事柄であって、言い換えれば完全に自由です。ひとたび正解が提示されれば、そうではない感想は「誤読」として退けられてしまうかもしれませんが、けれどもわれわれの共感や感想には本来正解も間違いもありません。読者がどちらに与するのか、というのは、読者のその時々の状況によって大きく変わります。昨日の感想と明日の感想が違うことは大いにありうるわけです。

没落貴族の悲哀。それに共感するとかしないとか、そういった議論はあるいはもう古いのかもしれません。しかし新旧の交代はいつの世にもあり、ぼくらはいつもそのどちらかに属しています。もちろん、絶えず位置を変えながら。その意味では、『朱雀家』の物語は普遍的であり、ぼくらは常に問われているのかもしれません、「あなたはどちら側の人間ですか」と。

いや、違うな。なんだか違う気がします。でもよく分からないのでこれでおしまい。いずれにしろ、とてもおもしろい戯曲でした。

サド侯爵夫人

2012-04-02 23:45:27 | 文学
三島由紀夫『サド侯爵夫人』を読む。ご存知のように戯曲。

この作品は、かのサド侯爵を巡る6人の女性の対話劇であり、サド本人は舞台に登場しません。というのも、これは三島由紀夫によれば「女性によるサド論」だからであり、貞節を貫いていたサド夫人がなぜサドが牢から解放されるとなると別れてしまったのか、という三島の疑問を解消するために書かれた戯曲だからです。

しかしながら、サド侯爵は間違いなくこの戯曲の中心人物であり、女性たちは彼の周りを取り巻いているに過ぎません。まさにその取り巻き方を描いたのが本作です。いわば、主役不在の劇なのです。・・・こうした見方をしたいのは、世界文学史上には、やはり主役不在の劇が幾つか存在するからです。その最も有名な作品はベケット『ゴドーを待ちながら』であり、またロシアの文豪ブルガーコフも『アレクサンドル・プーシキン』という、プーシキン不在の戯曲を書いています。ブルガーコフの作品は、キリスト不在のキリスト劇になぞらえられることがあるそうですが、思えば「ゴドー」とは「God ゴッド」の謂いであるかもしれず、主役不在の劇は、しばしばキリストあるいは神を射程に捉えています。

とすれば、『サド侯爵夫人』という作品にも、キリストや神へのアレゴリーが忍ばされているのではないか、と勘繰りたくなるのが人情です。この作品自体や、澁澤龍彦による解題を読むと、三島由紀夫のサドは無垢の人として造形されていることが分かります。無垢ゆえの純粋さと残虐さという、両面価値性を体現しているのがサドなのだと。「悪の中から光りを紡ぎ出し、汚濁を集めて神聖さを作り出し」、「あらゆる悪をかき集めてその上によじのぼり、もう少しで永遠に指を届かせようとしている」、「天国への裏階段をつけた」サド。「悪の水晶」を創り出し、いやそればかりか我々の住んでいるこの世界がサドの創造した世界なのだと侯爵夫人ルネは語ります。創造主としてのサド。まさしく、サドは創造主にも比肩する存在として表象されており、悪徳の神なのです。サド侯爵とは自分自身なのではないかと考えていたルネ夫人は、しかしその思い違いに気が付きます。サドは、あまりにも遠くに、高くに行ってしまっている!だからこそ彼女はサドと別れる決意を、すなわち修道院へと籠る決意をするのです。その行為はしかし、見かけ上はサドからの離反を示しているものの、実際のところはサドにより肉薄するための手立てだったようにも思えます。悪の頂きの上、天国の近くにいるサドに接近するためには、神への帰依こそが近道だからです。サドのように悪行の限りを尽くすことのできない凡人にとっては。

ルネは、決して心変わりをしたのではありません。その貞節は徹底的でした。もしもこれを愛と言ってよいのならば、サドへの愛のために、ルネは修道院に入るのです。これが、人界を超越したサドに近づく最良の方法だからです。

この戯曲が一般にどのように解釈されているのかは知りませんが、ぼくは上記のような感想を持ちました。それにしても、第二幕での母娘の対立の緊張感と高揚感と幕切れの仕方は、すばらしかった。

命売ります

2012-04-01 00:37:30 | 文学
今日は風が猛烈でとても外出できるような天候ではありませんでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

図書館で本を眺めていたら、三島由紀夫の著作が目に留まる。急に彼の小説が読みたくなってきたのだが、全く彼らしくない小説を借りてきた。『命売ります』。

非常に俗っぽい筋立てに、俗っぽい(と言ったら言い過ぎだけども)テーマ、俗っぽい登場人物たち。自殺に失敗した若い男が「命売ります」の新聞広告を出すと、本当に命を買いたいという人間が現われて・・・という話。一見おもしろそうな、でもどこかで聞いたようなアイデアでもあるなあと思いつつ、しかし三島由紀夫がこういう題材をどう料理するのかと興味を持って読み進めてゆくと、意外なことに、全くらしくない。それなりにおもしろくはあるんだけども、軽さがイマイチ。重さがないならば、思いきって軽妙さを極めれば、それはそれで傑作にもなりえるのに、そうはならない。和製ハードボイルド、なんて解説で言われているものの、確かに主人公の男が絶倫ではあるが、しかしそういう雰囲気が徹底されているわけでもない。謎の組織が暗躍し、吸血鬼も登場するなど、荒唐無稽な部分もあるけれども、しかしやはり、軽みが足りない気がする。

重厚な長編ではもちろんないし、かといって徹底して軽快な読み物、というわけでもない。あえて通俗的な作品を狙っているとしか思えない出来だった。実際、この作品は『プレイボーイ』に掲載されたらしい。「三島文学」の中でどのように位置づけられているのかは知りませんが、自分のような一般人が読む限りでは、文豪の手すさびとしか思えないのだった。


追記。いまAmazonのレビューを見ていたら、全て絶賛だった。へー。そういえば、この小説の中で、無意味に関する記述があるんだけれども(というか無意味というものがこの小説で大きな意味を持っているんだけれども)、そこは感心した。ということを書き忘れていたので、ついでに。まあ感心したのはそこくらいだったんですけどね。

マイリンク『ゴーレム』

2012-03-30 00:21:28 | 文学
日付は変わりましたが、本日二度目の更新。なので手短に。
先日、マイリンクの『ゴーレム』を読了。すごいおもしろかった!まさに幻想小説。幻想小説の極みです。

実は、無知をいいことに、例の有名なゴーレム伝説をマイリンクが小説化しただけの作品だと思っていたんですが、全然違いました。いやもちろん、ゴーレム伝説をモチーフとして使用してはいるのですが、この小説ではゴーレムが暴走することはないし、「真理」という文字を消されて土くれに戻ることもないのです。そもそも、ゴーレムという確かな実体が存在しないと言ってよいでしょう。それは伝説の中の幽鬼であり、幻のように曖昧模糊としたものです。

暗示や象徴の非常に多い小説で、それがカバラや神秘思想と密接に繋がっているため、その全てを理解することは到底できません。よく分からないところが多いのです。けれども、改行が多いせいかとても読みやすく、また理解できないながらもイメージは明確に抱けるので、何も分からないままテキストから放擲されることはありません。めくるめく幻想を楽しみ、神秘的な雰囲気に浸かることができます。更に、プロットが読者を惹き付ける類のもので、探偵小説的な趣向も凝らされています。それでいて俗悪なものには全くなっていません。

確かに陰鬱な小説であるかもしれませんが、しかしこの霧の国へ迷い込む価値は大いにあると言っておきます。

ソヴェート文学

2012-03-24 14:48:18 | 文学
外出した折に古書店に寄ったら、雑誌『ソヴェート文学』が幾冊も並んでいた。そのうちの一冊、ゴーゴリ特集号を買う。この号には、江川卓の画期的翻訳であるゴーゴリ「外套」が掲載されているのです。「落語訳のこころみ」と副題を付けられ、「演訳」と称されたその翻訳は、もうかなり前に既読で、コピーさえ持っているのですが、やはり原本を所有していたいよね、ということで購入したのです。ちなみに、本号には他にも横田瑞穂訳「鼻」や、キム・レーホによる論文「ゴーゴリの「笑い」と日本文学の伝統」も収録。いずれも既読ですが(後者はコピーあり)、やはり原本を所有していたいよね、ということで購入。

江川卓の「演訳」は、まことに画期的なもので、ゴーゴリの翻訳史は「江川卓以前」と「江川卓以後」に分かれるのではないかとさえ個人的には思っています。とりわけ「外套」に関しては、西本翠蔭、伊吹山次郎の翻訳から始まって平井肇訳がポピュラー化しますが、それらの翻訳と比べて、吉川宏人や舟木裕ら「江川卓以後」の訳文は、明らかに語りを意識したものになっています。もっとも、西本翠蔭訳は、前半は幾分か洒脱に訳してあり、透明に近い説明文というよりは語り口調が見られる。これには幾つかの理由が考えられますが、既に尾崎紅葉がモリエールを落語的に翻訳しており、落語家の円朝はモーパッサンの翻訳を目論んでいたと言われ、また二葉亭四迷の「狂人日記」も語り口調には特徴があることなどから、明治期の落語と文芸との関わり合いという観点から再考してみる価値があるでしょう。しかしながら、翠蔭は一貫且つ徹底して落語訳をしているわけではなく、ゴーゴリの語りの側面に着目して翻訳したのは、やはり江川卓が最初なのではないかと思います。もちろん、エイヘンバウムの有名な論考が江川卓をして落語訳せしめたのですけれども。

あまり詳しいことは書きませんが、江川卓によって日本のゴーゴリ解釈は刷新されたと言っても言い過ぎにはならないと思います。後藤明生の業績も巨大ですが、やはりこの翻訳は大きい。もちろん、語りにのみ特化されたゴーゴリ像というイメージもまた、哀話にのみ重きがおかれたそれと同様、ある意味で歪んでいると言えるかもしれません。それを次第に補正しながら、よりよい翻訳が生まれてくることを期待します(浦雅春訳がその緒となればいい)。ところで、江川卓訳は一般の人たちにはどれくらい読まれたのかな。ロシア文学の研究者やその愛好家にだけだったら、寂しい。

昔のレポート

2012-03-15 00:20:22 | 文学
今日はあまりネタがないので、自分が書いた昔のレポートでも適当にコピペしてやろうかなと思って、いま読んでみましたが、それが余りにもよく書けているため、コピペをやめました。何かに使えるかもしれないからな。・・・と、自画自賛するのも変ですが、だって余りに秀抜だったものですからね!

ぼくはどうも、現在の自分を卑下するのに対して、昔の自分は持ち上げる傾向があるのですが、殊論文に関しては、そういう習慣や傾向は介在しておらず、他人の論文を読むような気持ちで読んでいるので、これは全くもって客観的な評価です、ぼくの昔のレポートはすばらしい!なんてよく書けているんだ!もちろん瑕疵もありますが、しかしそれは一種の無いものねだり。

ここにこうして告白しているのは、実はそれが日本文学のレポートだからなのです。ロシア文学じゃない・・・。う~む、ぼくは元来文献を駆使して、テキストを何度も読み込んでから論文を書くタイプなので、外国語文学って苦手なんだよなあ。確かに、ロシア語だって何度も読み返したり文献を大量に読んだりするのが理想ですけれど、でも外国語は文法的なレベルで読解できない箇所があるのが現状だし、日本語のテキストほど十全に読みこなすことができていないんですよね。

あと、レポートは文学における武蔵野、というテーマだったのですが、そもそもこのテーマがぼくには魅力的なんですよね。自然と文学という。やっぱりねえ、文学研究だって好きなことをやるべきですよ。

それから、それがいわゆる現代思想とも響き合っていた点も特徴的だった。このレポートにおいてはフーコーの権力論を参照しましたが、別のレポートではブルームとかドゥルーズとかを参照していて、今の論文にはない徴ですね。

もっと自由に幅広く、好きなテーマと関連させながら、そして自分自身の発想に基づいて論を展開させるのがぼくの論文の最良の部分である気がしますが、現在はそれがそっくり欠けてしまっています。それこそが研究だという人もいるかもしれませんが、ぼくはぼくの好きなようにやりたい。なんとかせねば。

Russian Futurism

2012-02-23 00:47:49 | 文学
Markov, Russian Futurism (1968).
という本を買ってしまった。朝目が覚める前から、勃然としてこの本が買いたくなり、覚醒したときにはもう欲しくて堪らなくなっていた。
この本には、クルチョーヌイフらが所属した「41度」グループについて割合詳しいことが書かれているらしい、という情報をこれまでに得ていたので、確かに前々から気にはなっていたのだけども、なぜ今日、なぜ急に、居ても立ってもいられなくなったのかは分からない。

「41度」グループは、日本ではあまり知られていないけれども、しかし大石雅彦『彼我等位』という本で概要を知ることができる。このグループには、クルチョーヌイフの他にイリヤズド(すなわちイリヤ・ズダネーヴィチ)、テレンチエフらが参加し、詩的実験を行った。クルチョーヌイフはロシア未来派(つまりRussian Futurism)の頭領のような人物であるけれども、イリヤズドは後にパリに渡り、かのトリスタン・ツァラと協同してロシア未来派の詩的果実である「ザーウミ」を伝達した。テレンチエフはレニングラードでそのザーウミを研究し、ゴーゴリ原作の『検察官』を上演した。これはまことに前衛的なもので、一部から非難を浴びたが、「ザーウミ」を拒絶するグループ「オベリウ」によって、擁護されることになる。その「オベリウ」の演劇が上演されたのは、テレンチエフの「検察官」の数ヵ月後、全く同一の舞台においてだった。

というふうに、「41度」グループのメンバーについては少々知っているのですけれども、肝心のこのグループの活動内容や、その創作については無知なので(『彼我等位』で説明されている他は)、もっと知りたかったのです。もっとも、上記の本は1968年の本なので、記述が古い可能性もあるのですが、基本的な事実関係は押さえられるだろうし、また古典的な名著っぽいので、やはり一読の価値はあるだろうなと思いました。ニコーリスカヤという研究者も「41度」グループに関わる論文を幾つか書いているので、そちらも併せて読めれば理想的。

希望的観測を述べてみましたが、これらは外国語なので、そうそう簡単に読めたり理解できたりはしないのである。ちっ。

収穫

2012-02-19 23:35:55 | 文学
購入した本。

1、稲垣足穂『ヰタ マキニカリス』ⅠⅡ・・・計900円
2、イヴ・デュプレシス『シュールレアリスム』・・・300円
3、『ダダ・シュルレアリスムを学ぶ人のために』・・・800円
4、『ユリイカ 特集ロシア・アヴァンギャルド』・・・300円
5、『怪奇小説傑作集』1~4・・・各300円
6、水野忠夫『囚われのロシア文学』・・・100円
7、『ロシア・アヴァンギャルド1910-1930』・・・2500円
8、ボウルト編著『ロシア・アヴァンギャルド芸術』・・・2900円
9、『メイエルホリド 粛清と名誉回復』・・・2000円

以上13冊、およそ1万円はたきました。
5番は、第5巻(ドイツ・ロシア編)だけ長年所有していたのですが、ついに全巻揃えました。バラ売りで且つ全巻揃っていて、更に1冊300円だったので、今しかないなと。

ブローン『メイエルホリドの全体像』も買おうかなと思ったんですけど、ちょっと考えてやめました。水野忠夫『マヤコフスキイ・ノート』も買おうかなと思ったんですけど、たしか改版が出ていたなと閃いて、やめました。トフストゴーノフ(だっけ?)の『三人姉妹』演出ノートも買おうかなという考えが頭をかすめましたけど、結局やめました。『ベケット大全』も買おうかなと思ったんですけど、思い直しました。

そんなわけで、購入を断念した本も幾冊かあるものの、まずまず満足のいく買い物ができたと自負しています。9番の本は、もちろん未読で、その存在すら知らなかったのですが、さきほどamazonで検索してみたらヒットしました。なんだ、それほど希少価値が高かったわけではないのですね・・・。

これから積極的に関連書籍を集めていこうかな。

20世紀ロシア文学史の教科書

2012-02-18 01:02:11 | 文学
『20世紀ロシア文学』(モスクワ、2011年)というロシア文学史の参考書がロシアで出ています。

目次
序論:ロシアの20世紀
1章:シンボリズム
2章:アクメイズムの歴史と詩学
3章:ロシア未来派の詩
4章:ロシア・イマジニズムの歴史と詩学
5章:構成主義
6章:「セラピオン兄弟」
7章:オベリウ:歴史と詩学
8章:社会主義リアリズム
9章:現代文学のプロセス(1990年代~21世紀初頭)
10章:ロシア亡命文学
11章:ロシア・ポストモダニズム
12章:20世紀末~21世紀初頭における大衆文学の現象

以上のような内容です。
日本にもロシア文学史の教科書は何冊かあります。東大出版のものが定番ですが、10年ほど前には岩波文庫から、また数年前には早稲田大学の執筆陣によるロシア文学史の参考書が出ました。ただ、20世紀に的を絞った、しかも最新の研究成果を反映している文学史の教科書は、日本ではなかなか出版の機会がないようです。ロシアでは20世紀にのみ範囲を絞った文学史の教科書さえ何種類も出ており、やはりその多様性は日本とは比較になりません。まあ本国なので当然と言えば当然なのかもしれませんが、しかしそのうちの1冊くらいは邦訳してもよいのではないだろうか、と思うわけです。それで、訳すとしたらこれがいいのではないだろうか、と考えたのが上の本。

日本にも20世紀ロシア文学を紹介する好著がたくさんあるのは確かですが(例えば沼野充義先生の多くの著作や井桁貞義『現代ロシアの文芸復興』等々)、それらの多くは文学史の教科書として書かれているわけではないので、記述が著者の好みに偏っていたり、体系性に欠けていたりします。もちろんそういった点こそがその本の魅力でもあるわけですが、20世紀ロシア文学を本格的に学ぼうとする若者にとっては、必ずしも「最適の入門書」にはなりません。これまで20世紀ロシア文学を勉強してきた人たちは、したがって外国語で学んできたわけです。それは大変すばらしいことですが、しかしもし日本語で文学史を体系的に学ぶことができたら、という願望がぼくにはあります。翻訳があってもなくても研究者であればどうせ外国語で多くの本を読んで勉強しなければならないとはいえ、その前段階にいる若者たちには、もうちょっと日本語で知識を提供してあげた方がいいのではないだろうか、と考えます。これは、ひいては20世紀ロシア文学を研究したいという若者を育てる土壌になりえます。

上記の本を選んだ理由は、これまでの日本ではあまり知られていないけれども重要な文学一派である「イマジニズム」「セラピオン兄弟」「オベリウ」が入っており、また21世紀にまで目配りしてあるからです。更に分量が適量であること(少なすぎず多すぎず)。当然この本にも欠点というか記述が不足している項目がありますが、しかしシンボリズムからポストモダン、更には21世紀の現在まで一望できる教科書が日本語で読める、というのはとてもありがたいんですよね。

文学史の教科書は、学生のみならず一般の人たちにも手に取ってもらえるでしょうし、それなりに需要はあるような気がするのですが、やはり翻訳は難しいのかなあ。原著は2011年刊なので、訳すなら早ければ早い方がいいと思うのですが。5人くらいで分担してやればすぐですよ(たぶん)。

ロシヤだよ チェホフだよ

2012-02-12 00:37:32 | 文学
『ロシアの憂愁 アントン・チェーホフ』という本が手元にあります。1989年に北海道で開催されたチェーホフ展のパンフレットです。もちろんぼくはこの展示会には行きませんでしたが、幸運なことに、2004年頃に入手することができたのです。

さて、このパンフレットには中本信幸氏のチェーホフに関する小文が載っていて、何気なくそれを見てみたら、宮沢賢治の詩の一節が紹介されています。

葦の穂は赤い
(ロシヤだよ チェホフだよ)
はこやなぎ しっかりゆれろ
(ロシヤだよ ロシヤだよ)

こんな詩があることは知りませんでした。日本におけるチェーホフ受容史を昔それなりに調べたことがあったのに、うっかりしてましたね。中本氏は、他にも中村草田男や伊藤整、尾崎翠らによるチェーホフへの言及を紹介しています。日本文学におけるチェーホフというテーマでは、このパンフレットにも文章を寄せている柳富子氏が権威だと思うのですが、芥川とチェーホフとの関係を分析した彼女の論文を拝読したことがあります。また、中本氏の著書に『チェーホフのなかの日本』というものがあり、兎にも角にも「チェーホフと日本」というテーマは日本人の興味をそそるようです。それだけチェーホフが日本で長く愛されてきたのでしょう。

チェーホフがサハリン島から帰還する際、日本にも立ち寄る予定であったことは、比較的よく知られている事実です。日本では当時コレラが流行っていたことから、結局この計画は頓挫し、遂にチェーホフが日本の地を踏むことはありませんでしたが、しかしサハリン島でチェーホフは日本人の外交官と親しくしていた(一緒にピクニックにも出かけた)そうです。

それにしても、宮沢賢治はチェーホフのことをどのように考えて上記の詩を書いたのでしょうね。1989年のパンフレットの題名には「ロシアの憂愁」という言葉が冠せられていますが、やはり憂愁の、絶望の、黄昏の詩人としてイメージしていたのでしょうか。日本におけるチェーホフ観は、時代が移り変わるにつれて様々に変化していっていますが、賢治はどう思っていたんだろうな。この詩が書かれたのは1921年。1925年には築地小劇場で小山内薫演出の『桜の園』が上演されていますが、それはモスクワ芸術座を踏襲した、悲劇的なものだったようです。チェーホフの死後、シェストフの有名なチェーホフ論(チェーホフを「絶望の詩人」とみなす)を始めとして様々なチェーホフ・イメージが日本に輸入されましたが、その多くがシェストフ流の虚無的な作家像を定立したものでした。賢治がそのような潮流の中にあって尚、独自のチェーホフ像を思い描いていたと考えるのは少し難しいかもしれません。

ただおもしろいのは、やはり「ロシヤだよ チェホフだよ」という一節。賢治はチェーホフのことを身近に感じていたのかなあ。

煙草の害について

2012-02-10 00:00:42 | 文学
三谷幸喜が朝日新聞のエッセイで書いていたのだけど、30年ほど前に紀伊国屋ホールでチェーホフに関する座談会があったらしい。そこで誰かさんと誰かさんと誰かさんによるなんらかの座談会が行われたとのこと。三谷氏の印象には全く残らなかったみたいだけど、いったい誰による座談会だったのか、ロシア文学畑にいる人間にしてみれば気になるところ。何人か候補はいるけれども、決め手がない。30年前の座談会か、ネットで調べたら見つかるかな。もしも気が向いたらいちおう検索してみるだけしてみようかな。気が向いたらね。

座談会のほかに、チェーホフの『煙草の害について』が上演されたそうだ。これは三谷氏も述べているように、脱線に次ぐ脱線が非常におもしろい作品で、本筋とはまるで関係ないことに話が終始する。講演のため壇上に立った男性が、「煙草の害について」という題目で話をするはずが、いつの間にか家庭内の愚痴をこぼし始める、という筋立て。その愚痴は段々エスカレートしてゆき、どこか人生の悲哀すら感じさせるところはやはりチェーホフらしい。

ところで、このような脱線の手法は既にヨーロッパを始めとして過去の作品にも見られたもので、スターンの小説がその代表例に挙げられると思うのですが、チェーホフの場合はかなり意識的にこの手法を用いているところが、20世紀の実験小説にも連なる精神性を垣間見させる。もっとも、チェーホフ本人にしてみれば、実験精神というよりは、喜劇の可能性を探求した結果なのかもしれないけれど。要するに期待のはぐらかしという古典的な手法を過激にラディカルに用いたのがこの作品。

ぼくは大学に入ったばかりの頃、いつも鞄にこの作品のコピーを入れて持ち歩いていました。暗記してやろうかなと考えたこともあるくらい、この作品が好きです。

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どろどろの感情を吐露する場として、別のブログを作ろうかなと、ときどき夢想したりする。今のところ実現していないし、実現しない方がいいんだろうけれど、それでも夢想する。残酷な想像はいつも甘美だ。自分の死を空想するトム・ソーヤ少年を思い出す。