国民学校入学昭和16年4月何の編轍もない、平和な日々であったが、昭和16年12月8日太平洋戦争勃発、大日本帝国海軍真珠湾攻撃、この日を境に、働き手の家長が、赤紙一枚で召集令状、子供心にあそこのお父さんも、こっちのお兄さんも、兵隊さんに成って戦地に出て行く、「勝って来るぞと勇ましく」と唄って小旗を振って見送り後に残った女・子供は、明日からの生活の保障は無い、昭和18年頃から、食糧が逼迫し始めた、お米は配給制度に成り、味噌・醤油・塩・薪等も統制品、衣料品も点数制度、生活用品何から何まで、政府の管理下にあり、自由な生活はできない、こんな合言葉を「欲しがりません勝つまでは」この時点で、日本軍は劣勢にたたされていた、昭和18年2月ガダルカナルの戦いで日本軍は敗れ、負け戦の始まり。
日頃の食生活は、雑炊、水団、野草なら何でも採って食べた、たんぱく質には、イナゴ・タニシ・カエル・蛇・ネズミ等手当たり次第に口に入れた、学校と言えば、防空訓練ばかり、運動場、畑と化して農作業に追われ勉強等何処えやら、家には、空襲を避ける為に、防空壕を作り、夜は灯りが漏れるなら憲兵から注意される、灯火管制が厳しかった、昭和20年7月19日岡崎夜の大空襲、他所の火事場見物で不謹慎だが、焼夷弾投下花火大会の様だった、昭和20年代には空襲警報が出ると空から艦載機が機銃掃射・グラマン・超低空で狙われたら、あの世行刈谷でも機銃掃射で命を落とした方が見えます、
昭和19年12月7日13時頃、昭和東南海地震発生、M6.8、1日に4~50回の余震が有り倒壊家屋も多々有り野外に小屋を作って生活、寒さと空腹で遣る瀬無かった、ダブるパンチで20年1月13日に余波で、三河湾地震発生、2月中旬まで続いた、空の上からB29・下から地震・地獄の1丁目、其れでも「生き延びた」。
昭和20年8月6日広島の世界初の原爆投下、三日遅れで、長崎に原爆是で、ポツダム宣言を受理して、終戦、凝んなヒモジイ思いは二度としたくない、75年前の8月15日は晴天で暑い日でした、当時はエアコンも無く、扇風機すらなかった、玉音放送が正午にあると聞いたが、子供には、難しい言葉で解らなかったが、 「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」此処だけは聞き取れた遠い昔の出来事だから不具合の所はご勘弁を御願いします。
令和2年8月18日(火)投稿。