平成19年9月11日にFMICSに書いたモノです。
いま読み返しても、同じ話が続いているな~と感じます。
大学が文部科学省が高大接続、入試改革を叫んでも
なかなか変われない大学の事情がわからない方々が考えることは、実行されても学生にとって重要なことなのか疑問が残ります。
赤を入れました。
大阪から発覚した私立高校の大学合格者水増し問題は、私学が生き残りのために「進学校に変身する」裏技として浮かびあがってきた。その背景には、高校側は「合格実績を上げたい」、大学側は「受験生を集めたい」、保護者は「少しでもいい大学を望む」と自分勝手な理論が集積されたいびつな構造が出来上がっていたということだ。こうした空間で育ってきた生徒たちは、いつの間にか東大を頂点としたブランド大学に入学することが目的だと思い込んでしまった。これを裏付けるようなデータが日本私立大学連盟(東京)の「私立大学学生生活白書」から発表された。結果は、大学生の2人に1人は「大学に進むのは学歴のため」と答えている。
これは当然でしょ。
この件を俯瞰した面白い話が東大名誉教授の養老孟司氏の「旅する脳」に書かれていた。「高校で成績バツグンの生徒がいると、周りの大人たちは、これなら東大医学部に入れるから受験しろという。これが困る。大学での教育の中身と、「東大卒」のブランドを分けて考えてもらいたい。」という。まさに「教育・研究」の中身より、ブランド力を信頼するという現実の問題を指摘する話だった。
本当にまだまだ、いるようです。
今回の一連の問題から、日頃感じていることを高校に勤務しFMICSに参加している両生類のような特殊な立場から述べさせていただく。
大学の入試選抜はそれぞれの学部によって求められる基礎学力や能力は違う、各大学の校風も求める学生像も違うはずだ。合格者水増し問題は、一方的に高校側が抱えるものではなく「いったい大学入試は何のために行われるのだろうか」という、社会から大学に投げかけられた試金石だと捉えていただきたい。大学にもっと個性を発揮し、ほしい学生を選抜できる入試を考えてもらいたいという意味である。
この時に大学が求める学生像は違うといっていましたが
本当に違うのか
今はいえません。
何処も同じような気がしています。
高校生に対して、大学に在籍している空間から「何」が得られるのか。そのために用意されている様々な仕掛けを大学がわかりやすく発信してくれると、生徒たちは明確な目標が立てられる。
この視点がキモです。
一般的に「社会に通用する能力」を育成して欲しいと大学に求めているが、これをもう少しわかりやすく言うと社会に出て「タフに生きる力」を発見させることだと思う。
学生が自分の価値観を持ち、コアを創ってしっかりとコミュニケーションが取れ交渉ができるような能力を身につける。失敗を恐れ穏便に口を閉じて、問題が沈静化するのを待っているのではなく、怯まず、決していこじにならず、問題について「私の考え」を言えるようにする。専門領域でなくても、疑問を感じて調べるクセを身につけておく。そのために大学には、どこで何を調べれば判断材料が手に入るか、というインデックスを作るために様々な体感ができる仕組みを創っていただきたい。そうして、仮説を立てて未知を推測し、洞察する能力を養うことのできる人財を輩出できる大学が理想である。
本気でこれが理想ですよ。
どうしたらいいのでしょう???
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