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年を重ね、経験を積むにつれ、その時々の思いも変わっていく。その足跡を残しておくために

飛騨高山の旅

2007年05月19日 | 旅 行事
「大化の改新で国制を大・上・中・下の4等に定めたとき、飛騨は山また山のため”下々の国”と呼ばれた」(文学の散歩道の碑より)

土日をはさんで、静岡、名古屋と仕事だったので、ふと思いついて初めての高山に小観光を愉しんだ。

旅程を調べてみるとイメージよりも遠く、名古屋から特急で2時間余り、さすがに山の中だったが、それだけに旅情をそそるのだろう。
高山駅前のホテルにチェックイン後すぐ、古い町並み保存地区を散策、酒屋、味噌や、民芸や続く3町を見て歩いた。上一・二・三之町は商家の格子戸、整然とした軒並みが三筋あり、思ったより広い範囲でよく保存されている。

各町内には白壁の屋台倉庫があり、春の山王祭、秋の八幡祭の出番を待っている。
シーズンオフの今は、人出もそう多くはなく、台湾・中国の人が目立った。
この中には、不思議と若いアベックも多い。まさか新婚旅行では?
(白人はまず高齢者ばかりだが、、、、)

天正14年(1586)の国主、金森氏が高山城を作り、以後6代、107年続いた。
高山祭り(春と秋の)はこの頃が起源だろうとパンフにある。

元禄8年(1695)からは、幕府直轄地となり、高山城は取り壊され、今では城山公園となっている。直轄は25代続き、12代目には代官から郡代に昇格した。高山が幕府直轄地となった理由は、杉などの森林資源と金銀銅などの鉱山資源が目的だったとされる。
今、郡代役所が残っているのはここだけとのこと。
この拠点が、高山陣屋で、町の中心を流れる宮川の名所”中橋”の前にがっちりした門構えで代表的な見所となっている。赤い鉢巻、ハッピ姿の人力車が、黒い町並みにマッチし、華を添えている。

町の外周を一回りして、北の氏神:桜山八幡宮、清流:江名子川沿いの遊歩道を2時間余り細かく見て回った。
越中街道沿いなど旧い商家の住宅が文化財としてよく保存されている。

次の日の朝は、南の氏神:日枝神社に足を伸ばし、帰り宮川の陣屋前朝市を冷やかす。漬物などが主で余り流行っている風ではない。

昼ごろ、駅からバスで10分の「飛騨の里」の合掌造りを見に行った。
白川郷を初めとして、飛騨の各地から合掌造りの家屋を集め、屋根板作り/機織/一位一刀彫などの実演が行われている。
ボランティアのガイドの方に専属で案内していただき、飛騨の風俗、合掌造りの構造など説明してくれた。屋根様式も、白川郷で有名な切妻風の他に入母屋風、板葺きなどいろいろ揃っている。
生活は1階で、2,3,4階は主に蚕の飼育用で床は格子、囲炉裏の火で藁葺き屋根の腐敗を抑える効果があること、冬はこの大きな家の中で閉じこもり生活であったことなど。(人の住んでいない合掌造りの北面のわら屋根はコケ、草が生えて痛みがひどいのを見て、納得)
大家族は長男だけで、次男、三男は他に通い婚で出たり戻ったりの女系家族的な風俗だったことには驚かされる。

2時間くらい見て回った後、近くの文学遊歩道にも足を伸ばした。
余り手入れのしていない山道沿いに、井上靖、田中澄江など飛騨とゆかりのある作家の碑がいくつか建てられている。
冒頭の「下々の女」の碑も、この中にあった。

飛騨高山、この山深い城下町には長い年月、山と雪に閉ざされた中で、じっくりと発酵してきた文化が強く感じられる。
今から250年前、大原親子代官の過酷な検地や陣屋普請に対して、農民3代に亘り19年間抵抗を続け、遂に幕府を動かして思いを遂げた「大原騒動」を後日TVで知り、この地の粘り強い気風を再認識した。
時代は、田沼意次の悪政から松平定信の寛政の改革へと変わる頃で、時が味方をしてくれたと言う。
連れ合いは、「国内で行きたい所は飛騨高山と石垣島だけ」という。
その言葉を思い出しての小旅行だったが、今度は秋にでも一緒に再訪してみる気になって、帰路についた。

























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