ご隠居さん:自我や世間の枠にとらわれず、社会の潤滑油となりたいものです。 AI時代は 人間らしい自由な発想がカッコいい

年を重ね、経験を積むにつれ、その時々の思いも変わっていく。その足跡を残しておくために

上杉鷹山公

2010年08月29日 | 旅 行事
米沢駅で途中下車、2kmほどの目抜き通りをまっすぐ散策しながら、博物館に着いた。
雪国の商店街の雁木を表したという柱と全面ガラス張りの白い館が、戦国からの歴史の中で信念を貫いた米沢・上杉藩のイメージにふさわしい。この館は伝国の社と呼び、博物館と文化ホールに二分され、すぐそばには、上杉神社と上杉伯爵邸があり、米沢市が誇る文化ゾーンだ。
目当ては、日本の代表的なリーダーとして評価が高い上杉鷹山公(この人には”公”で特別の敬意を表すという)の偉業の一端に触れること。
館内の展示は、国宝「上杉本洛中洛外図屏風」、上杉家の変遷、戦国時代の謙信、景勝と懐刀の直江兼続、そして鷹山と続く、名声高い治世をビジュアルに表現している。
上杉鷹山(35歳で隠居してからの名、それまでは治憲)の言:「なせば成る 成さねばならぬ 何事も成らぬは人の 成さぬなりけり」
「してみせて 言って聞かせて させてみる」
藩の窮乏を、率先垂範自らの行動で示し、領民の奮起を促すという、鷹山の一貫した哲学を表す。
上杉神社の参道にも、この碑が建っていた。
鷹山は、日向高鍋藩の江戸屋敷で生まれ、母方の祖母の縁で米沢藩に養子となる。御齢10歳。
17歳の時、上杉15万石の藩主となり、財政・産業・教育の面で改革を断行する。
昨年のNHK大河ドラマで有名な直江兼続が、藩主上杉景勝とともに会津120万石からこの米沢30万石に転封させられた際も、下級武士を各所に集め、半士半農で生計を立てさせ、開墾を進めた。
これを原方衆と言い、武士をはじめとする家臣・領民たちをリストラすることなく、大減封の危機を切り抜けようとした。それまでの人口6千人の街に、総勢3万人が移住したというから、否応なしの改革だったのだろう。
上杉の雷砲(ライヅツ)と呼ばれた鍛造銃は、ほかの鋳造銃に比べ、その破壊力が格段に優れ、大阪冬の陣でも威力を発揮した。上杉藩では、その後の太平の世でも、鉄砲の製造と砲術を武芸として奨励した。
伝国の辞:鷹山が隠居の時、養子に引き継いだ書
3項目の一つに、「3)国家人民の為に立たる君にて 君の為に立たる国家人民には これ無く候」と主権在民思想を文書で残している。封建時代の君主としては、時代を超えた普遍性を感じさせる。

2007年の全国自治体の首長に対するアンケートでも、理想のリーダーで上杉鷹山が第1位とか。
上杉神社の参道にも、アメリカのJ.F.ケネディ大統領が、日本の尊敬するリーダーとして上杉鷹山を挙げた、という碑があったが、タクシーの運転手さんの話では怪しい逸話とも言う。
ある郷土史研究家によると、実はS.ルーズベルト大統領の間違いで、彼は新渡戸稲造の「武士道」で鷹山のことを知った、とある。
気になって、「武士道」を読み返すが、どこにもそういった記述は見当たらず。
代わりに、内村鑑三の「代表的日本人」を調べると、5人中で理想を実践した日本人として、キリスト教、民主主義の精神に通じるような説得力で、上杉鷹山を紹介している。
これなら、西欧のリーダーにとっても模範となる改革者として、単なるリップサービスではなく、鷹山が高い評価を得ることは理解できる。
さらに、館の展示を思い返すと、この「代表的日本人」の内容に沿って構成されていたような気がする。
行政改革・産業改革・教育と道徳改革のコーナー、映像での妻(側室)との挿話や一汁一菜など、この書にも簡潔かつ詳しく述べられている。

今、政治家をはじめ経営者など社会のリーダーの質がますます大きな問題になっている。
それだけに、鷹山の中に、我が国の独自の道を求めるヒントがあるのかも知れない。
何となく、すっきりした気持ちで、帰りはタクシーでこの文化ゾーンを後にし、米坂線で1時間20分の小国町に向かう。
ここは西置賜地方で人口8000人位、その半分ほどが関係するT社の工場で経済が成り立っていると聞いていたが、今回は外資系(アメリカ)に経営になり、社名も変わっていた。
グローバリゼーションの進行が、全国にとめどもなく広がっていることを実感させられた。
イザベラ・バード(英旅行家:47歳のとき1878/6-9月に東京から北海道を回り「日本奥地旅行」で有名)
が、米沢盆地を“アジアのアルカディア(桃源郷)”と呼び、人々の勤勉・親切さ、花々の咲き乱れる様、小国町を囲むブナ原生林などを称賛している。これは郷土の誇りとして、いろいろな機会に引用されている。
(それだけ、他に取り上げるべき特徴に乏しいとも言えるのだろう)
30年くらい前、東京から庄内平野への夜行列車で、未明に寝ぼけ眼で車窓を見ると、沿線の両側に咲き誇る色とりどりの花々(桃、サクランボetc)・・・まさに桃源郷?夢の続きの様な感じになったことを鮮明に思い出す。たしか、5月初めG.Wの頃、天童から山形にかけてだった。
昨年、ここ小国町の飲み屋で、偶然に高見盛関と出会ったが、TVで見る通りのシャイなお相撲さんで、好感が持てた。あれから、大相撲のときはいつも応援する様になっているから人徳がある。
(先の工場に相撲部があり、部屋のこの町出の弟子の縁で、毎年合宿しているとのこと)


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1 コメント

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万国共通 (直江山城守)
2010-08-29 15:32:12
兼続「この度は米沢への観光ありがとうございました。
さて、洋の東西を問わず、思想宗教を問わず、"理想郷"というのは何処でも同じものを考えるものでございます。
わたくしが執政をしていた頃から鷹山公の頃も、欧米に至るまで、弱き者(老人や障害者など)を真ん中に置き、それを助け助け合いながら暮らして行く、それが理想なのでございます。
またゆっくりお越し下さい。ありがとうございました」\愛/
  (・ω・)
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