ご隠居さん:自我や世間の枠にとらわれず、社会の潤滑油となりたいものです。 AI時代は 人間らしい自由な発想がカッコいい

年を重ね、経験を積むにつれ、その時々の思いも変わっていく。その足跡を残しておくために

熊本のシンボル

2006年12月30日 | Weblog
来年2007年は、加藤清正が1607年熊本城を完成させて丸400年ということで
築城400年のイベントがいろいろと計画されている。
(後記:いよいよ2008.4.20復元なった本丸御殿が一般公開される。
市民からの寄付は、目標の倍以上にもなったとか。)

加藤清正は秀吉の子飼いの郎党、7人衆の一人として活躍、
27歳で隈本25万石の大名となり隈本城に入る。
46歳で隈本城を完成(2007年)と同時に、隈本から熊本に改めた。
50歳で熊本城でなくなるまで,
7年間の朝鮮出兵、築城、治山治水、街づくりなど現場重視で
先頭に立って国づくりを精力的に行った。
甲斐の国(今の山梨県)の武田信玄と同様、加藤清正は
”土木の神様”といわれ、石積み技術、石ばね・鼻ぐり井手など
いろんな堰、川づくりに多くの実績を残している。

庶民的で文武両道の清正は、
肥後モッコス、一人一党というお国柄、”よそもん”に対して
反骨精神旺盛な肥後人の心をつかんだという。

後に加藤家は悲運に見舞われるが、判官びいきの肥後人の気質に
ぴったり合い、その後の細川藩よりも今もって断然人気がある。

加藤神社、”せいしょこ”さん(清正公の音読み)、ボシタ祭り
(滅ぼした=朝鮮征伐からの由来という)、遊び歌(加藤清正ウマノッテ・ホイ)など、熊本市民の日常生活の中に生きている。

熊本のシンボル、熊本城は加藤清正公とともに400年を経てよみがえる。

*後日メモ:
熊本城は、西南戦争で消失したと思っていたが、その直前2月、失火により宇土櫓など約10棟の櫓、門、長塀を残し、2つの天守閣はじめすべて灰になったという。
表向きは失火となっているが、児玉源太郎(熊本鎮台、参謀副長)放火説、城内の不平士族或いは薩軍の間諜か、などいくつかの推測が残されている。
大砲による近代戦では、木造の天守閣・櫓は軍事的には無用の長物だった。







最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
熊本のシンボル (僕酔伝)
2007-01-04 19:45:11
先月26日最後の忘年会で神田に出た。ついでに三越の郷土物産コーナーでなつかしの『朝鮮飴』を見つけ、買ってきた。熊本⇒球磨焼酎⇒朝鮮飴⇒高森(オマケ  延岡 )ダヨネ  
返信する

コメントを投稿