![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/db/8d7980465961acf1e130640ab6c9413b.jpg)
来年2007年は、加藤清正が1607年熊本城を完成させて丸400年ということで
築城400年のイベントがいろいろと計画されている。
(後記:いよいよ2008.4.20復元なった本丸御殿が一般公開される。
市民からの寄付は、目標の倍以上にもなったとか。)
加藤清正は秀吉の子飼いの郎党、7人衆の一人として活躍、
27歳で隈本25万石の大名となり隈本城に入る。
46歳で隈本城を完成(2007年)と同時に、隈本から熊本に改めた。
50歳で熊本城でなくなるまで,
7年間の朝鮮出兵、築城、治山治水、街づくりなど現場重視で
先頭に立って国づくりを精力的に行った。
甲斐の国(今の山梨県)の武田信玄と同様、加藤清正は
”土木の神様”といわれ、石積み技術、石ばね・鼻ぐり井手など
いろんな堰、川づくりに多くの実績を残している。
庶民的で文武両道の清正は、
肥後モッコス、一人一党というお国柄、”よそもん”に対して
反骨精神旺盛な肥後人の心をつかんだという。
後に加藤家は悲運に見舞われるが、判官びいきの肥後人の気質に
ぴったり合い、その後の細川藩よりも今もって断然人気がある。
加藤神社、”せいしょこ”さん(清正公の音読み)、ボシタ祭り
(滅ぼした=朝鮮征伐からの由来という)、遊び歌(加藤清正ウマノッテ・ホイ)など、熊本市民の日常生活の中に生きている。
熊本のシンボル、熊本城は加藤清正公とともに400年を経てよみがえる。
*後日メモ:
熊本城は、西南戦争で消失したと思っていたが、その直前2月、失火により宇土櫓など約10棟の櫓、門、長塀を残し、2つの天守閣はじめすべて灰になったという。
表向きは失火となっているが、児玉源太郎(熊本鎮台、参謀副長)放火説、城内の不平士族或いは薩軍の間諜か、などいくつかの推測が残されている。
大砲による近代戦では、木造の天守閣・櫓は軍事的には無用の長物だった。
築城400年のイベントがいろいろと計画されている。
(後記:いよいよ2008.4.20復元なった本丸御殿が一般公開される。
市民からの寄付は、目標の倍以上にもなったとか。)
加藤清正は秀吉の子飼いの郎党、7人衆の一人として活躍、
27歳で隈本25万石の大名となり隈本城に入る。
46歳で隈本城を完成(2007年)と同時に、隈本から熊本に改めた。
50歳で熊本城でなくなるまで,
7年間の朝鮮出兵、築城、治山治水、街づくりなど現場重視で
先頭に立って国づくりを精力的に行った。
甲斐の国(今の山梨県)の武田信玄と同様、加藤清正は
”土木の神様”といわれ、石積み技術、石ばね・鼻ぐり井手など
いろんな堰、川づくりに多くの実績を残している。
庶民的で文武両道の清正は、
肥後モッコス、一人一党というお国柄、”よそもん”に対して
反骨精神旺盛な肥後人の心をつかんだという。
後に加藤家は悲運に見舞われるが、判官びいきの肥後人の気質に
ぴったり合い、その後の細川藩よりも今もって断然人気がある。
加藤神社、”せいしょこ”さん(清正公の音読み)、ボシタ祭り
(滅ぼした=朝鮮征伐からの由来という)、遊び歌(加藤清正ウマノッテ・ホイ)など、熊本市民の日常生活の中に生きている。
熊本のシンボル、熊本城は加藤清正公とともに400年を経てよみがえる。
*後日メモ:
熊本城は、西南戦争で消失したと思っていたが、その直前2月、失火により宇土櫓など約10棟の櫓、門、長塀を残し、2つの天守閣はじめすべて灰になったという。
表向きは失火となっているが、児玉源太郎(熊本鎮台、参謀副長)放火説、城内の不平士族或いは薩軍の間諜か、などいくつかの推測が残されている。
大砲による近代戦では、木造の天守閣・櫓は軍事的には無用の長物だった。