ご隠居さん:自我や世間の枠にとらわれず、社会の潤滑油となりたいものです。 AI時代は 人間らしい自由な発想がカッコいい

年を重ね、経験を積むにつれ、その時々の思いも変わっていく。その足跡を残しておくために

忘れられた日本人

2008年01月05日 | 私生活 雑感
宮本常一生誕100年記念の企画展:「私の日本地図~よみがえる昭和の風景」(府中市美術館)が開催されている。
20年ほど前に読んだ代表作「忘れられた日本人」で強烈な印象に残っていたので、さっそく妻と娘を誘って観て来た。高度成長の影で、社会から取り残され、いずれ消え行くであろう地域とそこに住む人々に目を向け、生涯を「あるく/みる/きく」に徹した生き方は心を打つ。
今回の企画展では、700枚近くの写真(コピー)と宮本さんの紹介VTR50分。

観に行く前に、宮本常一に関する本を3冊くらい目を通した。
“旅する巨人”とも言われ、民俗採集の旅を続け、生涯で歩いた距離約16万km/およそ4000日/写真10万枚に及ぶと言われる。宮本は、民俗学草創期に、一介の研究者(後には民俗学者、武蔵野美術大教授1961~)として高度成長の後の旅行ブームの下地となった調査・研究にも大きく貢献している。自分がちょうど社会に出た1960年代、休日の度に近鉄・京阪線沿線や東北・北海道への未知の旅に心を躍らせた時期に、日本観光文化研究所(1966~所長)を中心に地道な活動を続けていたことにも深く感銘を受けた。
徹底した現場主義、人々の生活に根ざした言葉・習慣と民具に込められた意味を掘り起こす科学的なアプローチは、何でも即席に済ましてしまう現代の風潮に対しても強い警鐘を鳴らすものだ。
よく見る/記憶する→その中から記録ができる。(写真も同様)見ること/観察することの大切さ。宮本の写真には情報が詰まっている。
それを気ぜわしい私たち素人は読み取れるか?観光でもそうだが、見る前に写真でパチリ、ろくに観察をしていないことに気づく。物見遊山の伝統か?
宮本さんが、
戦前・戦後の混乱と物資の乏しい時代を通して一貫した研究を続けてこられた背景として、生涯の師:柳田國男(1875-1962日本民族学の創始者)と渋沢敬三(1896-1963:渋沢栄一(日本近代資本主義の父)の嫡孫で自身も民俗と動物をライフワークとした)という大きな存在がいたことは実に頼もしく思った。
柳田さんについては余りにも有名だが、渋沢敬三さんは今回初めて知った。
日本銀行総裁で終戦、戦後処理内閣で大蔵大臣、半年ほどの在任中に、預金封鎖/新円切替/財産税導入などインフレ処理に当たった。すぐ公職追放1951により民族調査に打ち込む。モノから人間の文化を解明する「民具」の研究を重視
宮本とは30年も同居、調査活動への支援、学会のプロデュース的立場に徹した。「学者になるな」が口癖で、柳田が見落としてきた“落ち葉”拾いの取組みを指導した。
言わば、毛並みの良い”反骨精神”に満ちた熱血漢だったようだ。
ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige由来:新約聖書ルカ12-48)を実践、宮本はじめ川喜多二郎(KJ法で有名)、今西錦司(猿の研究)などフィールド科学分野の人材へも援助を惜しまなかったという。
拝金主義にまみれた今のご時世、
この3人のような人たちこそ「忘れられた日本人」になろうとしている、ふとそう思った。
宮本常一は、日本観光文化研究所:近畿日本ツーリストが宮本を所長に迎え、一部門として誕生1966~ 月刊誌「あるく みる きく」で新しい旅と観光あり方を追求。
宮本は、「話者」という言葉に憤慨していたという。(聞くほうが上位のような響きがあるから)
また、自らの体験に基づく移動的日本人観は独特だ。農民さえ日本列島を移動していった?村の改廃、その後に別の人たちが住み着くことの繰り返しだったという。人間は旅をしながら、その土地土地の知見を増やし豊かな生活の源となる。南方からの倭人の到来や稲作の伝播もこういった目立たない人々の活躍の結果(?)という考えを持っていたという。。「忘れられた日本人」でもばくろう(土佐源氏の女遍歴の話が強烈)/世間師がいきいきと活躍する。

類は友を呼ぶ・・・同じような志を持った人たちの出会いとつながりに感動と希望を覚える。


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1 コメント

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忘れられた日本人 (僕酔伝)
2008-01-07 09:20:15
過去のデーターでは年は飛躍の年になるとか。しかしの混沌を引き継いだ今年は我々に一層の混迷を強いる事になろう。
我々にとってこの様なときこそ、自分の“いきざま”をじっくり見直すチャンスだろう。それは悲観ではなく、明日の希望を描く事だろう。
今年も『kin舌』を楽しみにしています。/僕酔
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