ご隠居さん:自我や世間の枠にとらわれず、社会の潤滑油となりたいものです。 AI時代は 人間らしい自由な発想がカッコいい

年を重ね、経験を積むにつれ、その時々の思いも変わっていく。その足跡を残しておくために

空気と水(2)

2008年05月15日 | Weblog
私たち日本人は、その場の”空気”を読むということをとくに気にする。
場合によっては、最後までそれだけで終ってしまう。
今話題のガソリン税の一般財源化でも、新聞は”空気”という表現を良く使っている。
これに対し、「空気の研究」では、過去からの流れで冷静に判断して、妥当な線を作り上げていく作用を”水”にたとえている。

水=通常性の研究 :

”水を差す”・・目前の障害、それを口にすることで現実に引き戻す作用。
一瞬にして、その“空気”が崩壊する。
しかも、“空気”を盛り上げて「水を差す者」を沈黙させても、「通常性」が遠慮なく「水」を差し続ける。“空気”を創りだしているのも、結局は「水=通常性」であり、この空気と水の相互的呪縛から抜け出せないでいる。
内村鑑三は、この作用を一種の腐食にたとえ、雨―水―消化酵素で説明
西欧文明(キリスト教・外来文化)→腐食・酵素→日本流に取り込む。
マルクス・レーニン主義→日本共産党、仏教→浄土宗、儒教→徳川時代の思想、いずれも同じパターン。
一千年の伝統という水の例:明治新時代の天皇家→菩提寺(京都)に宮中の仏像を移し縁を切り→現人神に変身?

“空気と水の相互作用?”:内部的腐食、日本的・無意識的通常性的作用
戦後の「民主」と「自由」:アメリカ人はこの二つが結びつくものと考えていた。
しかし、一民族を全く自由に放置すればどうなるか、それは伝統的文化規範による秩序を作るに決まっている。つまり、日本的儒教的規範の世界=一君万民の情況倫理の世界である。
一見、「民主主義」的な社会の実態:父は子のために非民主的なことを隠し、子も同じように隠す」(個人の「自由」を排除)
* 会社内で正論をはくと「ここは大人になって・・」「郷に入らば郷に従え」と言うことがある。→そして後で振り返ると、「ツノをタメて牛を殺す」結果になったことも多い!企業の不祥事の裏にも、必ずこんな実状があるのでは? *

「状況への対応」=正当化の基準となり、「作り出された状況」を中心に展開される。
自己の意思の否定であり、行為への責任の否定につながる。(個人の決断を人間一般の反応にすり替え:日本的平等主義)共産党のリンチ、軍部政権の開戦しかり。
・・・日本的状況倫理
⇔その対極にある固定倫理とは?
非人間的であること。=平等に人間を規制できる。
例)モーセの十戒/メートル法:地球基準→1/10mの立方体=1リットル→その水の重さ=1キロ→MKS単位の関連性・・・地球基準という平等性(人間中心の日本的平等性とは全く異なる)
日本的状況倫理は、その中心点に超越した一人間・集団/象徴を固定倫理の基準としたとき、はじめて規範となる。(天皇→一君万民、教師→生徒はオール3、宮本委員長→党員はオール3:集団倫理の世界)

西欧の伝統への“進歩的批判”として発生した状況倫理が、それだけが一つの権威として日本に導入され→一見西欧化→実は徹底した日本化に拍車をかけることに。

こういった明治以来のやり方を変えるのは、「自由なる思考と模索」だけである。
現在、インターネットを中心とするグローバリズムの大波の中で、個人の”自由と模索”が容易に表現できるようになってきた。
それだけに、伝統(水)を大切にしながら、これからの進化(空気)を見える形(自由)でコントロールしていくことが大切になるのだろう。

空気と水と自由の関係:
空気と水なしにわれわれの精神は生きて行けない、「いつでも水がさせる自由」を行使できる「空気」を醸成すること、そしてその「空気」にも水が差せる。(水と空気をコントロールする自由?)

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