980年に羅城門が損傷してから修理がされていない。ということは、平安京の表玄関としての機能はどうだったのか。
平安京にとっての表玄関の機能はすでになくなってしまっていたので、無理にお金をかけて修理する必要がなかったようです。なぜ、表玄関の機能がなくなったか。当時の右京(朱雀大路から西側)は、左京ほど発展しないままだったようです。原因は水はけの悪さ。桓武天皇は、「ここを平安京とする」と決めて、794年に長岡京から移り住んだわけですが、当時の「都市計画図」の左半分(右京)は計画倒れに終わったそうな。実質的に朱雀大路あたりが都の西の端だったようです。
したがって、私たちは日本史の教科書や図録でよく見る、碁盤の目の平安京の図は、実際の町の姿ではなく、あくまで「都市計画図」であったと考えなければなりません。
平安京創生館に置かれている平安京復元模型を見ると、色合いで感覚的に理解できますが、左京に比べ右京、特に南側は水色、緑色が強い。もともと湿地帯だった右京は街づくりが思うようにはかどらず、水面の水色や植物の緑色が多いのです。
仁和寺に、慈尊院に隆曉法印といふ人、かくしつゝ數知らず、死ぬることを悲しみて、その首(こうべ)の見ゆるごとに、額に阿字(あじ)を書きて、縁を結ばしむるわざをなむせられける。人數を知らむとて、四・五兩月が程數へたりければ、京の中(うち)、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百餘りなむありける。
(方丈記 養和の飢饉)
鴨長明の『方丈記』にも、右京が機能していなかったことが伺える箇所があります。養和の飢饉のページ、法印は死体の数を数えるのに、なぜ朱雀大路の東側だけ数えたのでしょう。法印の認識として、つまり当時の人々の認識として、朱雀大路が平安京の西の端だったからです。
また、羅城門を中心に左右におかれた官寺である、東寺と西寺。東寺は現在でも栄えていますが、右京にあったほうの西寺。とうに寺はなくなり、これも「史蹟西寺阯」の碑があるだけです。
羅城門の楼には兜跋(とばつ)毘沙門天像がお祭りされていたそうで、羅城門損傷時に東寺の食堂(じきどう)に運び込まれたと、東寺の案内にあります(羅城門の倒壊が978年になっていて、2年のズレがあります)。その後、江戸時代後期に毘沙門堂を建て安置しましたが、現在その像は東寺の宝物館に保存されているそうです。
夏の思い出の記録でした。
京都平安歴史探訪、楽しいです。
それに勉強になります(^^)
勉強苦手だけど暗記だけでなんとかなる日本史だけは得意だったハズなんですが、忘れてしまったのかどうなのか知らないことばかりです。
あの大きな平安京の碁盤の目も右半分は計画倒れだったのですね。
結局、今の京都駅からの烏丸通りで左右に分ける感覚はそのころから続いているってことでしょうか。
朱雀大路が役目を果たしたのは、私たちが思うよりずっと短かったようです。おっしゃるとおり、烏丸通(平安時代には烏丸小路だった)が南北のメインルートになってしまうんでしょう。だから京都駅は烏丸通に接続するように作られたのでしょうね。御所も、平安時代よりも東に移動していますし。
例によって、記事になるまでに随分時間がかかっています。