高校時代に、国語の授業で「羅生門」を勉強したかどうか、よく思い出せません。「舞姫」を3年生のときに勉強した記憶はあるのですが、「羅生門」はどうも…。
聞くところによると、今の高校生はだいたい「羅生門」を勉強するようです。平城京にも平安京にも羅城門は存在したそうですが、奈良にも京都にも羅城門は残っていません。京都駅の近くに羅城門跡があると知ったのは10年くらい前でしょうか。なお、平安京にあった門の名前は「羅城門」、芥川龍之介の小説の題名は「羅生門」で、読み方も濁点の有無で微妙に異なります。
私はこの夏、仲間を誘ってちょいと行ってきました。東寺の南大門から西へ400mほど。京都駅からでも直線距離で1.5kmほどのところです。
羅城門址とはいえ、その面影はまったくありません。住宅に囲まれた児童公園のような小さな公園に「羅城門址」という碑が建っているだけの「址」です。碑の横には、羅城門の位置と現在の地図を照らし合わせた書かれた案内板がありました。
小説、「羅生門」の舞台となる時代について平安時代末期と思い込んでいました。「地震とか辻風とか火事とか饑饉とかいう災い」が、平安時代末期に立て続けに起こったわけですし、一つの時代が破綻し、そして新しい時代に変わるという意味でも平安時代末期と考えたいところ。けれども、平安時代末期には羅城門は姿がありません。再建された羅城門が980年に暴風雨で損傷したあとは修理されなかったそうです。末期どころか中期には羅城門はあの姿を留めていなかった。藤原道長(966~1028)が法成寺を建てる際、羅城門の礎石を持っていったという話があります。上に建築物がのっかっている限り、礎石は持って行けないでしょう。平安時代末期までにはまだ200年もあるのに、平安京のシンボル的存在である羅城門は実は姿がなかった。
では、あの平安な時代、地方から京の都にやってきた人たちを驚かすアイテムであった、また外国からの要人を歓迎するアイテムであった羅城門がなくて大丈夫だったのでしょうか。また、道幅80数mという朱雀大路はどうだったのでしょうか。
(つづく)
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