3日目は大雨にはならなかったのですが、風が少々強い。お陰で涼しい。今、長崎のキーワードは何かと考えたら、多分、軍艦島と龍馬でしょうか。3番目を加えるなら福山雅治かな。世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は一番新しい話題のはずですが、長崎市の中心部あたりではあまり前面に出てきません。
あの頃は、異国情緒とさだまさしでした。国鉄の「ディスカバージャパン」の名残か、長崎は異国情緒。グレープというフォークデュオが長崎から全国区になり、アルバムの中には「紫陽花の詩」や「女郎花」という、長崎を舞台にした楽曲もありました。グレープ解散後にさだまさしはソロデビュー。その1stアルバム『帰去来』に、「絵はがき坂」というこれもご当地ソングがあります。私が最初に長崎にやってきたのは『帰去来』発表の3年後という計算になります。それこそ「若いお嬢さんたち」が、長崎の観光名所にたくさんいたように記憶します。
大波止の交差点にある、文明堂総本店の立派な建物
出島阿蘭陀商館跡
朝から東山手を目指して歩きます。文明堂総本店横を通って出島。気分は「女郎花」(グレープ)。竜舌蘭という植物も夾竹桃という花もこの歌で知りました。
中華街北門から歩きますが、早朝ゆえどの店も開店前で人通りもありません。中華料理屋が何軒も続きますが、40年前にその方にごちそうになった店は思い出せません。代わりにこんな記憶が。この通りで、井上陽水の「なぜか上海」が流れてきて、このマッチングに感激したことを突然思い出しました。
自信はないけど、40年前はもっと小さな公園だったと思う
中華街を抜けたところが湊公園。中国風のきれいに整備された公園です。たぶん40年前に、その方にここで待っているように言われたと思います。あの頃はこんなに整備された公園ではなく、児童公園のような様子だったはずと、少しずつ思い出されてきました。オランダ通りを歩いて、ながさき出島道路をくぐり、やがて左に折れるとオランダ坂。雨に濡れて趣ある石畳と記したいところですが、工事中だったりして気分は半減。活水女学院へ通う生徒さん、学生さんも坂を上っています。
天気のせいか、季節的なものなのか、あまり若い観光客を見ないような気がします。ただ、外国人観光客とよくすれ違うのはほかの観光地同様です。
活水女学院の門の横の守衛室には青いレインウエアを着た守衛さんがいて、たまたま目が合ったので頭を下げたら、守衛さんも軽く頭を下げてくれました。
傘を差したまま、隣にある長崎市旧居留地私学歴史資料館に行きました。9時の開館にはまだ少し時間があるのですが、玄関扉は開いているし、横にはまだ濡れたままの傘が一本置かれていたので来館者がいるものと思って、まだ薄暗い館内を歩いてみます。この建物、昔は東山手十二番館という名前でした。鎖国の時代に海外に玄関を開いていた長崎のこと、ミッションスクールも創られるのが早かったはず。そういう経緯で私学歴史資料館になったのだろうと納得しました。やがて、管理人さんが館内を開錠して降りてきて、「早かですね。」と声をかけられました。先ほどの傘は管理人のものだったのです。開館時間前に上がり込んだ客は嫌味を言われても仕方ありません。しばらく話をして、近くにある古写真資料館に行ってみるといいと教えてもらいました。
教えにしたがってオランダ坂を歩き長崎市古写真資料館に入ります。明治中期に建てられた東山手洋風住宅群(7棟)のうち3棟を写真資料館に使っています。市指定有形文化財を保存しながら活用していこうという取り組みのようです。明治期ごろの写真が多く展示してあり、そのころの風景を想像できます。写真は天然色。当時はカラー写真はなかったはずですから、撮影後に着色をしたもの(彩色写真)なのでしょう。写真技術の広まりによって浮世絵師たちが仕事をなくし、写真の色付けをしたというような話もどこかで聞いたことがあります。
大浦展望公園から見た東山手洋風住宅群。上部に3棟、その下に4棟の屋根だけが見える
(つづく)
若い頃に口ずさんだ歌は、よく覚えていますね。なんとも不思議ですが。