10月の中旬にさしかかる頃とはいえ、今日は日差しが強い。海に近いからか風が気持ちよく吹くのですが、帽子を持ってくるのを忘れました。ひょっとすると小雨に降られるかもという天気予報だったのですが、予想は外れました。
和歌山市立博物館の横を通って、南海電鉄の踏切を渡って紀ノ川の堤に上がる。300mほど上流にその橋は見えたのでした。あったあった。人も自転車もバイクも橋を渡っています。
まずは河川敷に下りてみる。石積みの橋脚が昔の鉄道橋っぽい。1914(大正3)年に、当時の加太軽便鉄道によって架けられたという河西橋(かせいばし)。この橋の建設によって、和歌山市駅から加太まで列車で行けるようになったわけです。民間資本による鉄道整備をと考えて作られた軽便鉄道法に乗っかって建設されたわけですが、ここに鉄道が必要だったのはなぜ?淡島神社の参拝客を乗せるためだったのでしょうか。この当時は神社仏閣の参拝のために鉄道を敷くというのはよくあったようです。通勤に使うほど人々の行動範囲は大きくありませんし、まして通学ったって、そんなに誰も彼もが学校へ行く時代ではありません。
隣に新しい橋がすでにできています。新しい橋に堤上の道路との接点を明け渡すために、河西橋の端っこは仮設の橋となって、やや遠慮をしています。へぇ、これが110年を迎える橋かぁ。見上げると、確かに線路一本程度の広さしかないように見えます。この上をかつては列車が走っていたんですね。鉄道橋として39年使われ、その役割を南海電鉄紀ノ川橋梁に譲った後、歩道・二輪車専用橋として現在に至るのです。
橋脚を北に向かってたどっていくと、こちらから9本目の橋脚がやや様子が違う。もともとの橋脚が足元をさらわれるように傾いていて、コンクリートで補っているように見えます。数えていくと石積みの橋脚は11本(11脚と数えるべきか?)。その向こうは後から造ったらしい近代的なコンクリートの橋脚が7本。さらにその向こうに昔ながらの橋脚が2本で向こう岸にタッチしています。
古い橋脚を下から見ると、橋桁との間に高さが1mくらいのコンクリートを挟みこむように入っています。かさ上げをしたという記述をどこかで読みましたよ。1917(大正6)年に紀ノ川の洪水があって、氾濫を防ぐために堤の高さを上げたということがウィキペディアに書かれていました。ということは、かさ上げ部分のコンクリートも100歳越えか?
堤に上がって眺めてみる。端っこの仮設橋を作ったために、断面が露出した橋桁が見えます。中に鉄管が2本通っているのがわかります。かつては水も運んだというわけですね。橋はまっすぐではなく、こちら南側でやや東に曲がっています。その先は…と後ろを振り返ると、そのカーブと合致するように道路があって、南海電車の和歌山市駅構内に入っていくように見えます。なるほど、この道路が線路跡というわけですね。しかし、この道路のままだと駅から堤に上がる勾配がきつすぎる。かつては盛土で、勾配をゆるくしてあったのではないかと想像しました。
橋を歩いてみます。警報が発令されたらこの橋は通行止めになるらしい。橋の上はコンクリート張り。年季が入っている様子です。欄干というべきか手摺というのが正しいか、うっかり川に落ちないようにしてあるのですが、その細さ。うっかりもたれ掛かったら、欄干ごと落ちてしまいそうなスリルがあります。橋桁の継ぎ目の上は、欄干にも隙間ができる。その隙間をトラロープで塞いである!歩行者もありますが、バイクの往来が一番多くて、次は自転車という印象です。クルマは走れません。右手、上流側には新しい橋が橋桁まで出来上がっています。来年供用の予定だそうです。ということは、110年選手は引退間近ということですね。隣の新人さんは幅も広く大洪水にもびくともしないような力強さを感じます。橋脚を眺めてみたら、橋脚がまっすぐ上流を向いていないのに気づきました。上流方向より少し右向きに造ってあります。洪水時はこの方向に力がかかるように水が押し寄せてくるのでしょうか。私より少し先を歩いている兄ぃ、ディパックを背負って、でっかいカメラを持って、あちらこちらを撮影しています。私と同じ目的なのかな?左方向には、もとの住友金属和歌山製鉄所らしき工場が見えます。
望遠にして欄干を撮ると、歪みがよく見える。それも、南側の古い橋脚の上に乗っかっている部分の歪みが大きいように感じます。南側から6本目の橋脚の上に、橋の幅が広がっている部分があります。もっと大きな橋なら、一休みポイントになるのでしょうが、何のためにこの一か所を広くしてあるのでしょう。あちこちに水準器が貼り付けてあります。それくらい常時傾きを観察していなければならない橋。これって恐くないですか?
その恐い橋の下では、ボートの釣り人が一人。橋脚の間をあっちへ行ったりこっちへ行ったりして、魚釣りをしています。何が釣れるのでしょうね。橋の上からは釣りは禁止だと、書かれていました。
橋の北側、上陸地点では南側と同じ理由で仮設橋になってぐいっと曲がっております。ここまでで橋体験は終わりですが、気づくと、橋のかさ上げは北側のほうが上げ幅が少ないように見えます。洪水対策の堤のかさ上げは南側のほうが高かったそうですから、当然ですね。こちらの橋桁の断面を見て、あれっ?鉄管は3本あります。南側では2本しか確認できませんでしたが。今、新しい橋ができている、この橋の上流側にはかつて水道橋がかかっていたそうです。もともとは河西橋のあった水道管は、となりの水道橋に写された。そして水道橋は撤去され、新しい橋(名前は知りません)に来年変わろうとしています。その新しい橋は橋脚が全部でたったの6本。110年選手は30本ほどあったと見えて、110年の間の技術進歩を見るようです。
線路は橋を渡った後、現在の車道を通って東松山駅に着いたようです。帰って地図を確認したら、ほぼこのルートではないかと素人でも想像できました。
無事に憧れの河西橋を渡り終えました。ここから土手沿いに紀ノ川を1kmほど下り、紀ノ川大橋を歩いて和歌山市側に戻ろう。なんと、10月半ばが近いというのに彼岸花が奇麗に咲いています。今年は彼岸花も時計が狂いましたね。たぶんそれくらい暑かった。ビルの間に和歌山城も見えます。風の強い紀ノ川大橋の中ほどから河西橋を眺めてみます。
が、徒歩・二輪専用の河西橋はよく見えません。背後にある北島橋のトラスの水色、その後ろにある南海電鉄の紀ノ川橋梁の赤と混じって、歴史ある河西橋があることがよく見えません。残念なことですね。
見えないことがもうひとつ。結局、河西橋時代の軌間はいくつだったのだろう。軽便鉄道として開業したわけだから762mmではなかったのか。そして現在の南海加太線はJRと同じ1067mm。となるともどこかで改軌しなければなりません。それはいつ?ネット上の記事を念入りに開いてみても、軌間についての記述にたどり着けないのです。どなたか教えてください。
紀ノ川大橋の歩道橋を下りるとき、南海電鉄和歌山港線の電車が通り過ぎました。
(おしまい)
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