(2) 四日市あすなろう鉄道
三重県って大動脈の近鉄名古屋線もあれば、一方で短い私鉄もたくさんあって楽しいところですね。これから挑戦するのはナローゲージの鉄道です。
私も学生時代にこの線路に一度乗ったことがあります、当時は近鉄内部線でした。でも40年以上前のこと。ほとんど記憶にありません。特に鉄道や車両のことは覚えていません、変な話ですが、終点の内部駅の隣に病院があった。その名前が山中胃腸科病院だったということだけは忘れていないのです。穏やかに晴れた秋の日だった。別に当日にお腹が痛かったとか、その医者にかかったわけでもない。鉄道目当てで乗りに行った、鉄道関係の写真もきっと撮ったはずなのに覚えているのは病院のことだけ。
さて、これも再開発のあおりか、四日市あすなろう鉄道の「あすなろう四日市駅」はなかなかマニアックな場所にあります。近鉄四日市駅を下りた客は中央通りを渡って目的の駅に向かうことになります。中央通りを西側から歩いてきた私には、改札口の場所がとてもわかりづらい。コンビニの向こうを回っていかないとたどり着けません。券売機で「1dayフリーきっぷ」を買う。550円也。なかなかうまい料金設定です。大人運賃では、片道切符は200円か270円の二種類しかない。内部まで、あるいは西日野まで(つまり終点まで)乗れば一回270円です。往復運賃に10円足せば、フリーきっぷが買える。遊びに来たとか電車に乗りに来たという人は間違いなく10円足すことでしょう。持ち帰れますし。
駅の上は近鉄名古屋線の高架になっています。車両が入ってきました。クリーム色と明るい緑。車体幅が狭いので運転手さんは真ん中に座って運転です。車体幅があるのに真ん中に陣取って運転するのは江ノ電。そんなことも思いだしました。
三両編成の真ん中に乗る。一人掛けの座席が進行方向を向いて、間は通路。座席の肩部分に取っ手。これがハート型。ハート型は混雑時の客のためだけでなく、日傘や鞄をかけるのにちょうどいいみたいです。お客さんを見ていてそう思いました。空調設備は後付けだと思いますが、背の低い車両の屋根に取り付けるのは難しいようで、車内の隅に陣取っています。三岐鉄道北勢線でも同じでした。力強く涼しい風が吹いてくれて、こんな暑い日は快適です。
一つ目の駅、赤堀を過ぎたところで、雰囲気のある橋を見つけました。覚えていたら帰りに下車してみよう。二つ目の駅が日永。この鉄道はここで二線に分かれます。右に分かれる八王子線と直進の内部線。
じゃ、ここで降りてみよう。面白い駅です。ホームが三つ巴状態。そして必ずこの駅で上下線は交換する。内部線と八王子線はそれぞれ30分間隔で走ります。ということは内部駅では15分に一度、上下線の列車が交換する。そんなことも下調べのない私、行ってみて初めてわかる。日永駅は「日本で唯一の」ナローゲージの分岐駅だそうです。学生時分にも、きっとそんなことを仲間からレクチャーされたんだろうけれど、まったく記憶にありません。さっきの湯の山線では各駅に交換施設がありましたが、こちらの四日市あすなろう鉄道には、ほとんど交換施設はありません。
内部行きに乗って日永で下車したということは、つぎにやってくる列車は西日野行き。ホームを移動して待ちます。先に内部からやってきた列車が入って、次に西日野行きが到着。加速したのかしなかったのかわからないくらいゆっくりと進んで、終着駅に到着しました。こちらは線路一本だけの終着駅。半端な終着駅だなと思っていたら、駅前のロータリーのところに案内があって、理由がわかりました。あと二駅先まで八王子線はあったとのこと。その終着駅の名が、元伊勢八王子駅。だから八王子線なんですね。昭和49年7月の大雨により、路線を西日野まで短くしたとのことでした。
ここから笹川通を1kmほど東に歩けば内部線の駅に出るはず。ちょっと小走りに歩いたら、南日永駅。さっき降りた列車の15分後に四日市を出た内部行きに間に合いました。
内部駅に到着。ほとんど雰囲気は思いだせません。駅前って、こんなに広いスペースがあったっけ?駅前の病院は、記憶よりもずっとずっと大きくなっていました。病院の西側の道路は何となく雰囲気があると思って、地図を見ると旧東海道でした。なるほど内部は大動脈沿いにあったわけです。
カメラを頭上に掲げてシヤッターを押すとこの位置。ナローは背も低い
駅のホームの横では、こちらも駅員さんのものと思われる布団を干してありました。この駅でも泊りの駅員さんがいるわけですね。余計な心配ですが、干しすぎると寝るときに熱くて寝られませんよ。
では、四日市に戻りましょう。そうそうひとつ手前の赤堀で下車です。駅を出て、橋はこっちの方角と歩き始めた道路が、旧東海道だと書かれています。この道路が内部駅の横を通って、最後は京都の三条大橋にたどり着くわけです。列車が通過するまで少し時間がありそうなので、踏切を渡ってみたら、近鉄時代の名残のマークが。
目的の橋で電車を撮った後、これが東海道なら道なりに歩けば四日市まで連れて行ってくれるに違いない。なんとなく昔の街道の雰囲気が残っている部分もあるし、幟を立てて、ここが東海道だったと記しているところもありました。しかし歩くには暑い。日差しに照らされながら、どうにか近鉄の高架まで戻って、後は日陰を選んで四日市駅まで戻ったのでした。
(3)四日市市立博物館
近鉄湯の山線と四日市あすなろう鉄道。傾向のまったく違う線に乗りましたが、これが面白いことにもともとは一つの鉄道だった時代があったことを知りました。ウィキペディアからの受け売りですが、内部、八王子から四日市を経て湯の山温泉に至る三重交通三重線という路線がありました。軌間はナロー。その後、湯の山線部分は標準軌化され、また1500Vに昇圧されて近鉄名古屋線との直通運転。あすなろう鉄道部分はナローのまま残ったという話です。湯の山線は貨物輸送ではなく、内部線、八王子線を含めて地域旅客輸送の鉄道だったわけです。
表歩きは暑いし、気づけば腕時計の後がくっきりつくくらいに日焼けしているし、かといってそのまま帰るのももったいない。そこで四日市市立博物館に入ってみました。この町のことを勉強するにはいいかなと思ってのことです。公害という言葉と一緒に成長したような世代です。水俣も神通川も尼崎も四日市も、光化学スモッグもカドミウムも一緒くたになって記憶に張り付いた世代です。四日市といえば…そんなわけで博物館に入ってみましたが、子どもたちの姿が思いのほか多い。学校で勉強してくるよう言われているのでしょうか。また彼らが自由に引き出しを開けて、資料プリントを持ち帰る。私も改めて四日市の公害の勉強をさせてもらうことにしたのですが、それで思いだしたのが、またもや「男はつらいよ フーテンの寅」のこと。湯の山温泉の旅館が主な舞台でした。
芸者染奴(香山美子)の父であり、元テキヤの親分清太郎(花沢徳衛)が住んでいたのが、海辺で背景にコンビナートの高い煙突が写っていたような。あれは、磯津地区をイメージさせるものではなかったかと思うに至りました。かたや長閑な湯の山温泉、そこで働く芸者は公害に悩まされる海辺の出身。四日市の沿岸部と湯の山温泉は、直線距離でせいぜい10数kmほどしか離れていません。
独立行政法人環境再生保全機構のサイトによれば、
1967年 四日市公害裁判提訴
1972年 同裁判原告患者側全面勝訴」判決
この提訴と判決のほぼ中間時期にあたる1970年に「男はつらいよフーテンの寅」は公開されています。
湯の山駅(現在の山温泉駅)まで名古屋や上本町から特急が乗り入れるようになったのは1965年。工業化で豊かになったこの国の人たちが温泉旅行にこぞって出かける。駅名が1970年に変わったことが、それを証明しているのかもしれません。その一方で公害にあえぐ人たちが、すぐ近くに住んでいる。
「男はつらいよ」娯楽映画ではありながら、ちゃんと時代を入れ込んでいるのだなと、この博物館で勉強して思ったことです。
(おしまい)
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