折しも、過去50年遭遇したことのない豪雨の被害があり、当地(広島県)の被害は甚大である。当市(東広島市)は、ここに至る道路が流失、陥没、埋没する等で、あたかも陸の孤島風らしい。当団地は高台にあり、河川からも離れているので被害はないようだが、ぎっくり腰で横になっている私には分からない。テレビで、被害の悲惨さを目撃するだけである。経験したことのない危機に対しては、身構えること、回避することは難しい。60年近く前の大洪水の被災者であり、水位が二階で1メートルを超え、二階から船で脱出したことや、水が退いた後の惨状、友人、知人の死亡などを思い起こし、「なすすべのない危機だった」とため息をつくばかりである。
テレビで、タイの洞窟に入り込み脱出できなくなった13人の少年たちと20代のコーチのニュースを伝えている。なんと入り口から5キロメートルも奥に入り込んで身動きできなくなったというのである。
何故に、こんな行動をしたのか。コーチまで付いていて、危険は予知できなかったのか。これは、いわば、回避できる危機であったと言うほかない。救出作業に当たっていたベテラン・ダイバーが死亡したことまで考え合わせると、この不用意な行動に関する責任は軽くない。現状では、責任の所在を問題にする余裕はなかろうが、再発防止のためにも、事態が終結したあとには、きちんとした総括が必要である。
このところ、山での事故、遭難が多い。先日は、父と子二人で山に登り、遭難、死亡するという事故が起こった。山の事故は、まず自然を畏れる気持ちを持ち、対策を怠らないという姿勢があれば、予防できることが多いであろう。身の回りには「山の会」の会員も多く、大抵は、不用意、無理、安易な行動をしている。風雨の中を敢然と出発し、風邪で長い間苦しんだ人間がわが家にもいる。ずいぶん前から、好天を期待して立てた計画は、いつでも撤回、中止するという柔軟さが必要であろうし、集団で緩みがちな気持ちを引き締めて、万全の装備で出かけるということになれば、事故も大いに減少するはずであるが、こんな当然のことができない。一人で行動して重大な事故に遭遇することも、当然避けるべきである。二人で行動していても、一人が負傷したら大変なことになると想像して心配になることが多い。
車の事故も多い。特に老人の事故は、高齢になれば、免許を返上して運転をやめることにすれば激減するであろう。自損事故なら、悲惨ではあっても自業自得ともいえるが、加害者になる可能性があるから怖い。公共交通機関がないので、免許は必要という意見を耳にして、なるほどとも思うが、多くの人間が自家用車に頼る結果、電車もバスも経営不振が進行するという面もある。団地内を走る、ほとんど客のいない循環バスを見ながら先行き不安になる。かくいう私は次の免許更新を機に、返上を考えているので、そのときにバスが運行を続けているように願っている。
学校の運動会での「組み体操」の危険が指摘され、取りやめが続いた、当然である。危険なことが分かっていることを児童に強制するのは、すでに「犯罪」である。組み体操擁護論もあるようであるが、その論理は破綻している。命がけの行為が教育の現場で強制されてよいわけはない。小学校の教員(非常勤講師)が、水泳の指導時に、泳げない女児の頭を無理矢理水中に押さえつけ、聴覚障害を引き起こしたということで訴えられたが、教員に非があることは歴然としている。こういう教員が、人を育てる現場に存在していてはいけない。
身の回りには、ちょっと注意すれば回避できる危機が少なくない。たぶん大丈夫などという根拠のない自信を捨てて、最悪の場合を想定、予想しながら行動することで身の安全を守りたい。想定を超える事態という言い訳もあるので、想定の範囲も可能な限り広範、長期的になされるべきであろう。それでも事故に遭遇する場合は、「宿命」として諦めるしかないが、そういうことはあまり多くはない