毎日、ほとんどのTV局では、ワイドショー(これは和製英語のようだが)を提供しているが、そこで発信される情報は、局の独自性と言えるものはごく稀で、申し合わせたように同じである。無論、レポーターは、それぞれの局が派遣しているから別人であるが、独自取材といえるようなものは少ない。
ニュースの報道には、コメンテーターなるものが発するコメント(意見や批評)がつきものである。そのコメンテーターには、なぜか芸人、元スポーツ選手、歌手、作家など、俎上にあげられているニュースや話題に対する専門的知識や経験もなく、井戸端会議並みの発言に終始することがほとんどで、個人による節操のない情報発信と似たり寄ったりである。公共の電波を使ってなされる情報発信が、個人による情報発信よりも影響が大きく、責任も重大であることはいうまでもない。であるなら、視聴者に的確な情報と解説、批評・コメントを提供する仕組みを構築すべきであろう。新聞の場合も似たり寄ったりである。こんなに、質も量も多種多様な情報の溢れる時代にあっても、「テレビで言っていた」とか「新聞に書いてあった」という人間も多いのである。テレビや新聞、さらには雑誌に、このような視聴者、読者に対する責任を引き受ける覚悟と態勢はできているのだろうか。
不確かな情報を発信して無関係の人間の人権を侵害するという行為がしばしば起こり、誰でも容易に、時には匿名で、どんな情報でも発信でき、瞬時に拡散するということは、一見便利なようであるが、よほど慎重でなければ、思わぬ災厄を生み出すことになる。 発信者が、自分の提供する情報価値を過大に評価するのも滑稽である。パソコンや携帯電話・スマートホンなどで提供されるネットニュースの中には、少なからず「有料ニュース」なるものがあって、見出しだけでなく、相当な分量の導入記事を提示し、肝心な部分は、「これから先は有料です」と、出し惜しみする。発信元が、購読している新聞(これも近年、広告ばかりで、記事の内容も、文章も劣化しているが)と同一である場合は、愉快ではない。このようなさもしい情報の出し方をするくらいなら、はじめから出さぬがよいと思ってしまう。
ワイドショーには、各社の新聞記事を紹介するものがある。自らの取材によらぬものを情報として切り取って発信することは、報道人の倫理を破壊する行為ではなかろうか。安易な態度である。学術論文における「盗作」「剽窃」に近い。
情報は、ニュースや記事の形で、その辺に転がっているのではない。それは、報道人によって創られるものであり、個性的なものである。発信者の個性に彩られたものであると同時に、発信者が、その存在、影響について、全責任を負うべき存在である。メディアの安易な姿勢と節操のないSNSは無関係ではないという気がしてならない。