英語外部検定利用入試なるものの導入の是非でもめているようだ。いわば入試問題作成と実施の「外注」である。かつて、入試問題作成の能力を欠く大学が、予備校に問題作成依頼をすることがあって話題になったが、本質的には大して変わらない。
センター試験も似たり寄ったりで、多種多様な試験がある中で、センター試験がどれほどに重視されているのか判然としない。センター試験を受験しないでも合格する道がないわけではない(私学の場合はさらにセンター試験の存在感は希薄)ということになると、あの厳寒の中で、大学も受験生も怯えながら対応した、ものものしい儀式は何だったのかということになりかねない。
そもそも、大学入学者の選抜は、受験する大学が独自に作成する試験によってなされるべきであろう。大学には、それぞれ個性がある。定員割れで悩んでいる大学にも、見学の理想がり、本来は、どんな学生でも入学してくれればよいというわけではないであろう。独自の入学試験問題が作成できないような大学などあってはならない。例えば、私学の理工系大学や芸術系大学などは、人文、社会系教科の試験問題の作成ができないのではと思われがちであるが、大学には、「教養的教育」ないしは「一般教育」という分野があり、必修科目を用意している。専任の教員がいれば、入学試験作成が不可能などという事態には陥らないはずである。大事な教育を非常勤講師にたよっていることに問題があり、これは、多くの非常勤講師という不安定な立場の教員を生み出していることと関係がある。専任教員を増やし、大学の責任を明確にすべきである。ついでに言えば、昨今めだっている「任期制教員」という非人間的な採用方式も止めるべきである。
話を、「各大学は、入学志望者の選抜試験くらいは自前で用意すべきであるというのが本筋」という単純なことに戻そう。そもそも、何のために「共通一次」「センター試験」などという異物が生まれたのか。全国統一の大学入学志望者の資格認定を行うというのなら、まだ話は分かる。また、学生の選抜を、センター試験利用の多い、低レベルの国公立の大学になど任せてはおけないという文科省の認識があるのなら、センターで作成する入試問題のみで選抜を行い、大学は全面的に手を引くということを認めればよい。かつて長期にわたる問題作成の労力を経験した者としては、立派な問題が専門の機関によって生み出されるのなら、全面的にお任せしたい。しかし、センター試験が特別に高品質というわけでもなく、大量処理のために選択肢方式が多く、近年志向されている「長文」解答形式も、大学独自の記述式に遠く及ばないことを考えるなら、適当な時期に廃止するのがよい。大学の自覚、結果としての「精選にもつながるであろう。不測の事態に備えるためには予備問題も大量に用意しておかねばならないことまで考えると、経費の削減、資源の節約にもなる。