それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

因果関係ありや

2019-05-17 23:56:39 | 教育

 「著名人も勧める」というのが謳い文句の毛髪育成剤の宣伝がある。著名人として元お笑い芸人が取り上げられている。そう言えば、いろいろな商品の販売に際して、タレントが起用されているのが当たり前のようになっている。

  しかし、タレントや芸人、モデル、歌手(その違いはよく分からないが)等が、売ろうとしている商品を知悉していることは稀だろう。かつて、瀬戸内の島にある有名な寺の門前町の食堂で食事をしたが、その店には、たまたま訪れたらしい若いタレントが店の料理を食べ、ついでに書いてもらった色紙があった。店では、「○○さんも推奨の△△(料理名)」と商売に利用していたが。年端もいかぬタレントに味など分かるわけもないだろうし、また他の客の口に合うかどうかは保証の限りではあるまいと可笑しかったことを思い出した。

 テレビコマーシャルでは、薬、サプリメント、栄養食品などを売り込もうと、映像を使いながら、「効能」を声高に叫んでいるが、画面の片隅に、見えるかどうか極限まで小さい文字で、「これは(画面に出ているモデルの)個人の感想であり、効能を示すものではありません。」とあるのが普通である。誇大広告という批判を避けるための姑息な手段である。CMの大部分を占めるイメージと効能ではない旨の説明とは明らかに矛盾する。意味不明の構造である。商品の効能と関係のない個人の感想(主観的な言いぐさ)をなぜ同居させているのか、商品の効能と出演している人物の映像や言葉は、何ら関係ないのであるが、このような、いわば詐欺的手法は一般的になっており、もはや視聴者は、疑問にも思わなくなっている。時に商品が有害であったり、欠陥品であったりするから、本当は怖い情報なのである。全部が言葉による情報なら熟慮する余地もあろうが、イメージというのはそれを許さない。言葉を介在させ、言葉に変換して、情報の意味や問題を捉え直さなくてはならないようだ。


人気番組『笑点』を考える

2019-05-14 12:08:23 | 教育

 長寿お笑い番組『笑点』は、日曜日夕方の楽しみの一つであり、多くの視聴者に愛されている。私も昔からのファンで、平日の夕方の再放送版まで楽しんでいる。が、しかし、いくつか気になることもある。

 子どもも楽しんでいるらしいこの番組には、教育上好ましくないことがいくつもある。

  まず、差別、除外をネタにした言動が多い。

 毎回、必ず持ち出されるのは、座布団運びの山田君へのからかいである。「要らない」「やめさせる」が多くの笑いを取っている。やめないこと、やめたくないことが了解事項になっているから、客は思いきり笑えるということもあろうが、一生懸命仕事をしている人間から仕事をとりあげるなどということをネタにしてはいけない。からかいの先鋒は、たい平氏である。

 多才な木久扇さんは、木久扇ラーメンを販売していることも周知のことであるが、そのラーメンが「まずい」「毒」であるというのが、笑いをとる常套手段になっている。これは、そもそも営業妨害ではないのか。本人も、まんざらではないところが問題であるが、他のメンバーの言動はさらに問題である。

  次に、個人の身体的特徴、性格上の特徴ないし問題をネタにしていること。

 司会の昇太氏は、常に、「チビ」であることをからかわれる.時には、さらに身長の低い山田君と一緒に笑いものにされる.小柄であることは、本人の責任ではない。小柄の者同士がけなし合うのは惨めであろう。

 木久扇氏を「バカ」というのもよくない。「バカ」を売り物にするのもよくない。

 悪役の円楽氏は、その性格の悪さから、「友だちがいない」「腹が黒い」というのが売りである。彼は、その性格の悪さを売りにしているから、聴衆には、自業自得と見えておかしいのであるが、友だちがいない、腹黒い、ついでに色も黒いということが笑いを取る手段になることがよいことかどうか。

 その円楽氏は、出演要請の折に、「悪役」を演じることを勧められ 故歌丸氏も同意したということで、大先輩師匠を「はげ」だの「骨と皮」だの、「まもなく死ぬ」だの、「葬儀」だのと言いたい放題である。さらには奥さんまで笑いものにするというセンスはどうしたものか。自分の師匠まで「馬」と言って憚らないことは、「図に乗りすぎている」としか言えない。収録後には取り繕っているに違いないが、後の祭りである。

 高齢者を笑いものにする、軽んじるという風潮を助長することにつながりかねない言動は慎むべきであろうし、笑いの質としても上等とは言えない。

 好楽師匠は、仕事が少ないことを売りにし、またからかわれている。これもいいことではない。からかう方も悪いが、自虐的になる方も悪い。司会者と三平氏は、滑舌が悪いという落語家としては致命的とも言える欠点を笑いものにされている。笑って済まされることではない。

 社会的問題、プライバシーにかかわる問題として、昇太氏の「独身」がネタにされ、セットで、「孤独死」が軽く笑われる。

  こうして見てくると、司会者以外には問題ないかに思えるが、全体の方向を決定づけるのは司会者であるし、メンバーの発言に注意を与え、修正することも不可能ではない。現司会者は、若く、未熟な点もあるが、司会者の本来の役割を認識して対応すべきである。

 人気番組は、多くの視聴者の支援があるから成立する。上記の問題を抱える番組に人気があるのは、問題を問題とせずに笑っている多くの視聴者が存在していることを意味する。特に、子どもたちに対する影響を危惧する。昨今話題の「いじめ」の原型が満載ではないか。礼節を欠く行為もなにやら気の利いた言動に思える。番組の質を問うことは、視聴者である我々自身の有り様を問うことでもある。


身近な危険

2019-05-11 10:58:37 | 教育

 このところ、歩行者が犠牲となる事故が多発している。歩行者に何らの責任のないものが少なくない。運転者は、高齢者の場合も、そうでない場合もある。

 今や、一家に一台どころか一人一台の車を所有する時代である。車は便利で、生活に必須の存在になっている。「愛車」などと呼ぶと、なにやらかわいらしいペットのような響きさえある。

 しかし、ちょっと考えて欲しい。車の持つ特徴を並べてみよう。

 1 大きい:大人が4人も5人も乗れるほどの大きさを持つ。荷台を持つものも巨大な  存在である。   2 堅い、重い:多くの部分が金属でできている。   3 速い:鳥を除く生物の移動速度をはるかに超える。   4  複雑である:アシスト機能があっても、本来、複雑なメカニズムを持つ機械である。   このほかにもいくつかの特徴を付加することができようが、ここに挙げただけでも、私たち柔な人間が簡単に使いこなせる存在ではないことが分かる。「軍用車両」と大した違いはない。思慮分別の未熟な若年層や運動・判断能力の低下した高齢者が特に不利であるとしても、すべての人間にとってやっかいな機械なのである。

 運転者は、だれも、自分が事故を起こすなどと考えてはいまい。限られた寿命の人間でありながら、自分が死ぬと考えずに、誕生日や記念日を気楽に祝う人間が多いのと同様である。

  機械に対する生身の人間のひ弱さ、迂闊さを自覚しよう。機械そのものの怖さを認識、実感しよう。先日も、高校で実施された交通安全講習会において、事故のプロフェッショナルであるスタントマンが生徒の目前で事故死しているではないか。また、自損事故であっても周囲に大きな影響を与えるのに、他者の命を奪ったり、傷つけたりすることの重大さを考えれば、安易に使用してよい機械ではない。

 考えてみれば、便利な生活を目指して創造された多くの道具や機械には、便利さと危険性が同居している。自転車でさえ危ない存在である。危険性を認識しにくいという点では、いっそう危ないともいえる。空飛ぶ自動車が生まれようとする時代を生き抜くためには、運転者のみならずすべての人間が危険な環境の中を怯えながら生きていくしかないのか。


引き寄せることと寄り添うこと

2019-05-06 00:06:56 | 教育

 わが家の裏庭には、「タラノキ」がある。あの木の芽の天ぷらの代表であるタラノキである。ただ、一昨年にホームセンターで購入したわが家の木には「棘」がない。転居前には、家の近くに野生の大きなタラノキがあって、芽を摘むのに、しばしば棘で指を傷つけたものであるが、そういうものだと思っていた。したがって、棘のない植木に出会って感動したのであるが、先日、芽を摘みながら、なにやらタラノキらしくないという違和感があった。勝手なものであるが、野生のやっかいな棘に慣れていれば、違和感があっても致し方ない。

 わが家には、実のなる木が多く、リンゴの木もある。鉢植えのリンゴの木は、津軽という種類だということであったが、実は、新種の「トキ」であるらしく、アントシアニンによって赤くなるということがない。赤くなるリンゴは、太陽光がまんべんなく当たらないとリンゴ全体が赤くならない。そのためめにリンゴの実を回転させるという操作がひつようになり、リンゴ農家の人は苦労する。そこで、赤くならないリンゴとして新種・トキを創ったようなのである。

 キュウリも、商品にするためには真っ直ぐな実になるように工夫するという。曲がったキュウリは、お客さんに敬遠されるのだそうだ。

 ある時期、「自然」は、対決し、征服する対象であった。日本列島の改造などということが真剣かつ創造的な行為と考えられる時期があった。その結果、公害が発生し、自然災害が多発し、人間は手痛い仕返しをされることになっている。

 人間も「自然」の一部であるからには、基本的には、対立・対決する存在ではなく、「寄り添う」「共生する」存在でありたい。

 りんごの全体がまんべんなく赤くならなくても、タラノキに棘があっても、キュウリが曲がっていても、それが自然の姿であるのなら、また人間に有害でないのなら、ありのままを受け入れたい。人間の都合で、自分の方に引き寄せるのでなく、相手の方に歩み寄り、共生することも考えたい。