所用は父方祖父の五十回忌と祖母の二十三回忌でした。
特に、若くして亡くなり全く知らなかった祖父の姿に少し触れられた。
我家系近々の歴史など興味のない事だろうが、自分への記録という意味で残しておく。
祖父が10人兄弟の7番目だったとか、仕事熱心で当時は今より店の景気もよく
金周りが良かったとか、仕事柄とてもオシャレな人だったとか・・・
などなど知らなかった事ばかり。
遺影も7・3分けに3ピースのスーツ姿と当時のモダンな感じがありありと出ている。
昭和30年代初頭には珍しく、大型スクーターを乗り回し
父や叔父も学校へ「3人乗り」で送ってもらっていたとか。
東京研修からの帰路に思い付きで買ったのか、いきなり乗って帰って来たらしい。
父も兄も俺も血は争えぬ。
祖父の最後は肺結核だったらしく、手術は成功したものの術後管理のずさんさで
44という若さで術後急に逝ったらしい。
父と叔父は手術成功後の夜、親戚関係者が家に駆けつけ慌ただしい中、
良く状況が分からないまま寝つかせられ、朝目覚めてから
深夜の父(祖父)の死を知らされたらしい。
当時の父と叔父の心境やいかに。
その後、病弱な祖母は入退院を繰り返し、父、叔父はついに
親戚に預けられ不遇の日々を送る。
そんな生活に嫌気がさして中学卒業早々に家を飛び出し上京した父と、
ひたすら勉学に励み父の稼ぎと奨学金で日本最難関最高学府へと進学した叔父。
2人の絆の強さは祖父の死から始まっていた事と、その他、親戚累々家系の
歴史を知る事が出来た貴重な時間であった。
医療関係の大手会社役員を務める叔父に言わせれば、祖父の最後は
今だったら医療ミスに入るような最後なのだが、当時10歳前後の父や叔父には
知識など無く、そんな状況すらも知るよしも無かったワケで・・・話しながらも
あの50年前を思いおこしていたのか少し口惜しさを滲み出していたのが印象的だ。
遺影の姿も非業の死は想像もしていなかったので写真が無く30代の写真だと知った。
・・・今の俺とたいして変わらない年頃の姿だったとは。
残された側もそれは辛い事だが、残していく側は一体どんな気持ちだったのだろう。
今の俺には想像しか出来ない。
子を持ち初めて分かる事なんだろうと思う。
おじいさん、おばあさん、また来年、帰省の時に会いましょう。
田舎での3日間は虫の音色に彩られたエアコンのいらない夜で、快適そのものだった。
都内の猛暑で寝苦しい夜を過ごしている方々に是非体感させてあげたい。
プライベート携帯にお客様から電話が数件入る。
お客様には悪いが、仕事を忘れたい。
一切を拒否し、無の時間を貫く。
そんなこんなで騒音も渋滞もない「人らしい」暮らしを満喫できた。
田舎だから、と言うよりも、もちろん休みだから完全なストレス知らずなんだろうけど。
そんな帰省中の一コマ。
実家の愛犬の死は数件前の記事に載せたが、
あれから初めての帰省で眠る場所を訪ねた。
と言っても家から車で15分だけど。
花の名前は分からないけど、数か月経ってもまだ墓標として咲いていた。
愛犬が好きだった電車も川も良く見えて、近くには河川敷のグラウンドもあり
休日には子供たちが野球に興じる。
昼は賑やかで、1時間に1本は電車も通りおそらく寂しくはないだろう。
夜は夜で静かでゆっくり眠れるさ。
夜通しかけ睡眠挟んで昼に帰宅。
本日午後はゆっくり読書で休日を満喫しました。
明日からいよいよ繁忙期シーズンの終盤戦へ。
気持ちを切り替え戦闘モードで乗り切りたいと思います。