ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

8 スサノオとイソタケルの日本植林発祥の地

2008-11-26 16:50:27 | Weblog
「日本植林発祥の地碑」近くの案内板(基山)

●カントク 080910 21:15
こっちは今、ヒメとまるちゃんと、盛り上がっているよ。
ところで、ボクちゃん、九州で大事なことを忘れてない? わが故郷の博多から大宰府をさらに南に下ったところ、ちょうど筑紫平野への入口のところには、基山という山があるのを、ご存知かな?
この基山は、スサノオが高天原から追放され、子の五十猛神(イソタケル)と新羅に行き、持ち帰った木の種を最初に植えたという言い伝えがある。頂上の草スキー場のところに植林発祥の地の石碑が建てられており、麓には五十猛神を祀る荒穂神社もある。
日本書紀では、五十猛神は、天降りする時に多くの樹種を韓国に持っていったが、韓国には殖えずに持ち帰り、筑紫から始めて各地に植えた、そして紀伊国に住んだ、と言っている。

●ボク 080910 21:55
カントクの悪いクセです。またまた若者を試して楽しんでいますよね。
日本書紀の一書第4には、スサノオは筑紫に帰ってきたとは出てきません。知っていて、フェイントをかますんですから。
高天原から追放されたスサノオは、新羅のソシモリに行ったものの、この地には住めないと言い、息子のイソタケルと土で作った船で東に渡り、出雲国簸川(氷川=斐伊川)の上流の鳥上の峰へ到ったとされています。出雲直行であり、筑紫には立ち寄っていません。出雲が新羅(もちろん、当時にはまだ新羅の国はありませんが)の東にあることを正確に伝えていることです。新羅から南に下って筑紫を経て出雲に行くのではなく、東に直行する海路があった、ということです。
 ただし、この日本書紀の記載が、事実を伝えているかというと疑わしいし、仮に、筑紫から始めたとしても、基山という証拠は乏しいのではないでしょうか?
 また、もともと、高天原にあった樹種を持って新羅に行ったというのですから、この国が禿げ山であったとは考えられないし、植林というのも理解に苦しみますね?
 ましてや、石碑となると、林野団体が補助金の一部を使って建てたか、それとも観光協会が建てたのか、我田引水の観光対策ミエミエで、恥ずかしいですよ。

●カントク 080910 22:15
 お主、さすが史学を学んだだけのことはある、といいたいところじゃが、果たしてどうかな?そんな紙面の表面づらをなでただけのことを言っておると、ついつい、テレビ東京の「新説!?日本史ミステリー」の口調になってしまうぞ。

 日本書紀の一書第4を、お主、ちゃんと読んでおるか?
 重要なのは、スサノオが海原を自由に行き来する交易王として描かれていることじゃ。スサノオとイソタケルの行動範囲は、新羅と出雲、筑紫や紀伊に広がっていることがわかろう。その交易においては、樹の種や苗木、木材を運んだのであろう。
 高天原の物語を除いて見ると、スサノオ一族は、魏志倭人伝で対馬国の人々が「南北に市てきする(交易する)」と書かれているのと同じように、何度もこれらの地を航海していたことが、この一書からわかる。
 確かに、一書第4では、スサノオは東に渡って出雲に直行、イソタケルは筑紫から樹を植えた、と2つの行動が同時に書いてあるが、別の時期の出来事が1つに書かれているだけではないかな?
 スサノオとイソタケルは行動を共にしていた、そして、筑紫もその範囲に含まれることが分かろう。
 
 スサノオがいたか、いなかったかは、まず、データを全部出し合ってから、最後に決着をつけようではないか?   (日南虎男)


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コメント (3)
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