石の方殿後方からみた加古川・高砂平野
「古事記には、少彦名がなくなり、『われ一人で、どうしてこの国をえて造ることができようか』と落胆する大国主の様子が描かれています。ここには、盟友を失い、落胆する英雄・大国主の姿がリアルに描かれているように思います」
ヒナちゃんのストーリーに、高木は引き込まれてしまいそうであった。
「この地が大国主と少彦名の建国の地だということが、記紀にも出ているの?」
ぼんやりとヒナちゃんの説に同調していた高木と比べて、ヒメの嗅覚は鋭い。
「この地が、大国主の建国の地だと書いたものありません。
しかし、古事記には、大国主が『いずれの神と一緒に、よくこの国を造れるだろうか』と言った時に、海を光らして、大物主が現れたとしています。
私が注目したのは、『大物主が海を光らして現れた』という表現です。私の故郷の出雲から日本海をみても海は輝いていません。琴平から瀬戸内海を見ても、博多から玄界灘をみても同じです。海がキラキラと光るのは、波が静かでさざ波が太陽を反射する瀬戸内海を北岸から見る場所に限られます。
そして瀬戸内海北岸で、大国主の建国伝説が残っているのは、唯一、この場所に限られます」
高木は伊保山山頂から加古川平野を眺め、海であった時代を想像してみたが、まさにヒナちゃんの言うとおりであった。
「大物主が東から船で午前中に現れたとすると、キラキラ光る海の中から現れた、という表現はぴったりね」
ヒメの推理小説に、ブログに投稿された俳句から被害者の足取りを追うというのがあったが、ヒナちゃんの推理もなかなかのものだ。
「前に突き止めたが、大物主はスサノオの子の大歳だから、大国主の国づくりに協力した大物主というのは、大物主5世前後ということになるのかな」
カントクが補足した。
「私の祖母の家は、町史を見ていると、秀吉の時代から、明治・昭和になっても、同じ太郎右衛門の名前が何度も出てくるのよね。代々、名前を受け継ぐ、という例は多いんじゃない」
ヒメの言うとおりで、記紀で大国主がスサノオの子とされたり、6世の孫と書かれているのは、そう考えると理解できる。
「スサノオだけでなく、大物主や大山祇神、伊和大神など、登場する時代が合わない王達は、初代なのか何代目なのか、考えてみる必要があるわよね」
マルちゃんが補足した。
「播磨国風土記によれば、大国主は姫路に子どもの火明命を残したという有名な話があります。
それだけでなく、古事記には大国主が宗像の奥津宮の多紀理毘売を妻とし、アジスキタカヒコネ(迦毛大御神)を産んだとされていますが、播磨国風土記によれば、多紀理毘売は印南の北の賀毛郡(かものこおり)のすぐ北の託賀郡(たかのこおり)、今の西脇市で子どもを産んだとし、そのすぐ西の神前郡(かむさきのこおり)、アジスキタカヒコネは神宮を置いたとされています。この迦毛大御神は葛城の高鴨神社、京都の賀茂大社(上賀茂神社・下賀茂神社)に祭られていますが、元々、この地の神であったことを伝えています」
葛城市生まれの高木にとって、これは思いもかけない話であった。高鴨神社はすぐ南の御所市にあるが、全国の賀茂神社の総本社である。高木も、この播磨が大国主の建国の地であったと思えるようになってきた。
「播磨国風土記の成立は713~715年の間、古事記は712年。ほぼ同時期に作成されている。ここで、宗像と播磨、葛城が繋がるとは考えてもみなかったよ。気付かなかったなあ」
長老から先輩風は完全に消えていた。
「まだちゃんと調べられていないんですけど、播磨国風土記は、国守の巨勢邑治・大石王・石川君子が編纂のトップとされています。この大石王は皇族と思われますが、播磨国風土記に出てくる国司の上生石大夫(かみのおいしのまえつきみ)との関係が気になります」
ヒナちゃんの推理はどこまで進むのか、高木には想像もできなかった。
資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
姉妹編:「邪馬台国探偵団」(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)
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「古事記には、少彦名がなくなり、『われ一人で、どうしてこの国をえて造ることができようか』と落胆する大国主の様子が描かれています。ここには、盟友を失い、落胆する英雄・大国主の姿がリアルに描かれているように思います」
ヒナちゃんのストーリーに、高木は引き込まれてしまいそうであった。
「この地が大国主と少彦名の建国の地だということが、記紀にも出ているの?」
ぼんやりとヒナちゃんの説に同調していた高木と比べて、ヒメの嗅覚は鋭い。
「この地が、大国主の建国の地だと書いたものありません。
しかし、古事記には、大国主が『いずれの神と一緒に、よくこの国を造れるだろうか』と言った時に、海を光らして、大物主が現れたとしています。
私が注目したのは、『大物主が海を光らして現れた』という表現です。私の故郷の出雲から日本海をみても海は輝いていません。琴平から瀬戸内海を見ても、博多から玄界灘をみても同じです。海がキラキラと光るのは、波が静かでさざ波が太陽を反射する瀬戸内海を北岸から見る場所に限られます。
そして瀬戸内海北岸で、大国主の建国伝説が残っているのは、唯一、この場所に限られます」
高木は伊保山山頂から加古川平野を眺め、海であった時代を想像してみたが、まさにヒナちゃんの言うとおりであった。
「大物主が東から船で午前中に現れたとすると、キラキラ光る海の中から現れた、という表現はぴったりね」
ヒメの推理小説に、ブログに投稿された俳句から被害者の足取りを追うというのがあったが、ヒナちゃんの推理もなかなかのものだ。
「前に突き止めたが、大物主はスサノオの子の大歳だから、大国主の国づくりに協力した大物主というのは、大物主5世前後ということになるのかな」
カントクが補足した。
「私の祖母の家は、町史を見ていると、秀吉の時代から、明治・昭和になっても、同じ太郎右衛門の名前が何度も出てくるのよね。代々、名前を受け継ぐ、という例は多いんじゃない」
ヒメの言うとおりで、記紀で大国主がスサノオの子とされたり、6世の孫と書かれているのは、そう考えると理解できる。
「スサノオだけでなく、大物主や大山祇神、伊和大神など、登場する時代が合わない王達は、初代なのか何代目なのか、考えてみる必要があるわよね」
マルちゃんが補足した。
「播磨国風土記によれば、大国主は姫路に子どもの火明命を残したという有名な話があります。
それだけでなく、古事記には大国主が宗像の奥津宮の多紀理毘売を妻とし、アジスキタカヒコネ(迦毛大御神)を産んだとされていますが、播磨国風土記によれば、多紀理毘売は印南の北の賀毛郡(かものこおり)のすぐ北の託賀郡(たかのこおり)、今の西脇市で子どもを産んだとし、そのすぐ西の神前郡(かむさきのこおり)、アジスキタカヒコネは神宮を置いたとされています。この迦毛大御神は葛城の高鴨神社、京都の賀茂大社(上賀茂神社・下賀茂神社)に祭られていますが、元々、この地の神であったことを伝えています」
葛城市生まれの高木にとって、これは思いもかけない話であった。高鴨神社はすぐ南の御所市にあるが、全国の賀茂神社の総本社である。高木も、この播磨が大国主の建国の地であったと思えるようになってきた。
「播磨国風土記の成立は713~715年の間、古事記は712年。ほぼ同時期に作成されている。ここで、宗像と播磨、葛城が繋がるとは考えてもみなかったよ。気付かなかったなあ」
長老から先輩風は完全に消えていた。
「まだちゃんと調べられていないんですけど、播磨国風土記は、国守の巨勢邑治・大石王・石川君子が編纂のトップとされています。この大石王は皇族と思われますが、播磨国風土記に出てくる国司の上生石大夫(かみのおいしのまえつきみ)との関係が気になります」
ヒナちゃんの推理はどこまで進むのか、高木には想像もできなかった。
資料:日向勤著『スサノオ・大国主の日国―霊の国の古代史』(梓書院)
姉妹編:「邪馬台国探偵団」(http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/)
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