2019年7月に書いたレジュメ「柿本人麻呂の『「漢字2重表意(ダブルミーニング)用法』」をもとに、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)の執筆で当時の最大の難問であった「委奴国」「奴国」を「いなの国」「なの国」と読むか、「いのの国」「のの国」と読むか、などの論点について再考したものです。
「のの国」と読んだ方が、魏書東夷伝倭人条に書かれた行程、伊都国から百里の奴国の王都の位置はが「野芥(のけ=のき=の城)」の稲田神社あたりになり、さらに百里先の不彌国の位置は須久岡本遺跡(現在、奴国の王都とされている所。弥生・弥永地名あり)になり、方位と距離、地名が一致するのです。
この論点については、すでに「倭語論11 『委奴国』名は誰が書いたか?」でもふれましたが、柿本人麻呂の漢字用法から遡り、紀元1~8世紀の漢字表記についての検討を紹介します。雛元昌弘
1.柿本人麻呂の七夕歌(2014)の表裏の2解釈
①原文 吾等待之 白芽子開奴 今谷毛 尓寳比尓徃奈 越方人邇
(我らが待ちし 秋萩咲きぬ 今だにも 匂いに行かな 越方人(をちかたひと)に
②表解釈 私たちが待っていた秋萩が咲いた。今こそ匂いに行こう、川向こうのあの人に。
④裏解釈 私が待っていた若い女の子の、開いた女の又の、今谷の毛を、匂いにいこう(その宝(寳)の間(比)に行こう)、越えてあの人の近くへ。
この後者の私の解釈には、後世の朱子学派やキリスト教などの禁欲主義の人からは反対意見も多いと思いますが、土器(縄文)人のDNAを持った楽天派・快楽派の皆さんには違和感なく納得いただけるものと思います。
かつて『島根日日新聞』(出雲市)で「奥の奥読み・奥の細道」(2016.3.9~9.21の29回)を連載させていただいたことがありますが、古事記を含めて「表読み・裏読み(表書き・裏書き)」はこの国の文学・歴史表現の伝統と考えています。それは、漢字を表意文字と表音文字として使い分ける、というわが国独特の倭流漢字表記が可能にしたものです。
2.柿本人麻呂の漢字表記例
上記の歌から、柿本人麻呂がどのような漢字表記を行っていたか、整理すると次のようになります。
倭語倭文は単純に漢字漢文を導入するのではなく、上記のような独自の倭流漢字用法を考え、音訓読み、当て字などにより、多様な表現方法を生み出してきました。それは、駄洒落(なぞかけ)大好き、言葉遊び大好きな国民性として、今に生きています。英語が入ってきても「ホテルで火照る」「インテル入ってる」など、その変わらない国民性は万葉集に遡ると考えます。
私がこのような倭語・倭文の特徴に関心を持つようになったのは、古事記で「群品の祖」(人間のおや)とされた始祖神の「高御産巣日(たかみむすひ)神、神御産巣日(かみむすひ)神」を、日本書紀は「高皇産霊(たかみむすひ)尊、神高皇産霊(かみむすび)尊」と記し、「日=霊(ひ)」としていたことに気づき、記紀の「日」をすべて「霊(ひ)」の可能性がないか、検討してからです。
その後、あるきっかけで松尾芭蕉の「奥の細道」を読みましたが、「2重表意漢字表記」だらけであり、江戸時代にもこのような多様な漢字表現は続いていたのです。―詳しくは山陰日日新聞(出雲市)で2016年3~9月に29回に分けて連載した「奥の奥読み・奥の細道」参照
古事記などを読むときには、上記の6つの漢字用法を念頭において分析する必要がある、ということを、改めて強調しておきたいと考えます。
3.委奴国・奴国の「奴」は漢人の蔑称か、倭人の尊称か?
これまで、「漢委奴国王」「奴国」は「漢の倭の奴(な)の国王」「奴(な)国」と読まれてきました。さらに、「奴」字は「卑弥呼」と同じように、中国側が付けた卑字であるというのが通説でした。「奴」は「女+右手」で、奴卑・奴隷を表し、「匈奴」などに使われているからです。
このような判断の前提として、漢字・漢文の導入は天皇家による大和朝廷であり、委奴国や倭国の頃には倭人は文字を知らなかった、という根強い思い込みがあったからです。
ところが、魏書東夷伝倭人条には卑弥呼は魏皇帝に「上表」したと書かれており、そもそも1世紀に後漢に使いを出した「委奴国王」が国書を持参しなかったことなどありえません。漢が国王と認めた委奴国王に金印を与えたということは、倭人が国書をやりとりできる、ということを前提にしていたことを裏付けています。冊封国と認めたということは、それにふさわしい漢文化の国として認められたということであり、国書のやりとりのために金印が与えられたのです。
その漢字の伝来は、紀元前3世紀の徐福の頃からの可能性が高いと考えます。
「委奴国」「奴国」の「奴」は漢音・呉音では「ド」であることも、中国側が付けた国名ではないことが明らかです。というのは、スサノオ2代目の「八嶋士奴美」、3代目「布波能母遲久奴須奴」、5代目「淤美豆奴」や、大国主が妻問い(夜這い)した「奴奈川姫」(奴奈川は現在の糸魚川)、大国主・鳥耳の筑紫王朝4代目の「早甕之多氣佐波夜遲奴美」の名前に「奴」字は使われており、卑字とみなされていなかったことは明らかです。スサノオ・大国主時代の1~2世紀には「奴」は「ぬ」と読んでおり、「匈奴(きょうど)」のような「奴(ど)」読みではないのです。
一方、3世紀の魏書東夷伝倭人条では、「奴」字は対馬国・壱岐国・奴国・不彌国の副官名の「卑奴母離」名にも使われていますが、「比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守」と書かれることがあることからみて、この時代には「奴」は「な」と読まれていたことが明らかです。従って3世紀の「奴国」もまた「なの国」の倭音読みであり、邪馬壹国側が主体的に付けた国名であることが明らかです。
しかしながら、8世紀の記紀・万葉集では「奴」は「ぬ」と呼ばれており、魏書東夷伝倭人条の3世紀頃だけが「な」読みであったことになります。
では「奴」を倭人はどのような意味で使っていたのでしょうか?
大国主が越の奴奈川姫からヒスイを手に入れ、出雲の玉造で加工した玉の王であり、各地で「大国魂」=「大国玉」名で祀られていることから見て、和語では「奴(ぬ)」は玉、ヒスイを表し、スサノオ・大国主一族の王名に使われたと見られます。
辞書などない時代ですから、倭人は「奴」字を「女+又(股)」=女性性器と考え、霊(ひ)=魂がやどる女性の性器に当てていた可能性が高いと考えます。出雲では今も妊娠すると「霊(ひ)が留まらしゃった」と言い、沖縄の宮古地方では女性器を「ひー」、熊本の天草地方では「ひな」と呼び、栃木・茨城ではクリトリスを「ひなさき」と呼んでいたことからみても、「奴(ぬ)」は「霊(ひ)=魂」が宿る場所であり、魂が宿る石もまた「奴(ぬ)」と呼ばれたと考えます。
白い「ひすい」は緑の羽の鳥の「翡翠」とは異なり、語源は不明とされていることからみて、和語の「ひすい」が漢に渡って「翡翠」の漢字とされた可能性が高く、倭語の「霊(ひ)吸い」を表した可能性が高く、「奴(ぬ)」=「霊(ひ)吸い」は女性の子宮と同じ神聖なものとして、て王名や国名に付けられたと考えます。
柿本人麻呂の漢字用法からいえば、5番目の「漢字分解漢字表記」にあたるものであり、和語・和音の「ぬ」に「奴」の漢字を当てた可能性が高いと考えます。
4.母系制時代の中国でも「奴」は尊称であった
「倭語論11 『委奴国』名は誰が書いたか?」で述べたように、「姓名」の「姓」が「女+生」であり、孔子の「男尊女卑」の「尊」字は「酋(酒樽)+寸」、「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸」で「女が支える先祖の頭蓋骨に、男が酒樽を捧げる」という鬼神信仰(祖先霊信仰)の男女の役割分担を示しているように、元々、孔子が理想と考えていた周王朝は母系制社会であり、「女+又」は霊(ひ)を育む女性性器を表し、尊称であったと考えます。
孔子が理想と考えていた周王朝は「女+臣」の姫氏の国であり、その一族の魏国は「禾+女+鬼」であり、女性が稲を祖先霊に奉げる鬼神信仰(鬼道)の国であったのです。それは「倭国大乱」の時の皇帝が「霊帝」であったことからも明らかです。
「奴」が「女+又(右手)」とされ、奴隷を表すようになったのは、春秋・戦国時代に母系制社会から父系制社会になり、女奴隷が生まれてからと考えれられます。
倭人が漢字を覚えた頃には、「女+又」は尊称で、そのままスサノオ・大国主一族に受け継がれた可能性が高いと考えられます。
4.「奴」は「ぬ」か「な」か?
『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)の第2版を出すにあたり、一番頭を悩ませたのが「委奴国」を「いなの国(稲の国)」と読むか、「いのの国」と読むかでした。
2009年の『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』の時には、倭国大乱の頃に倭国が「八倭人、九天鄙(あまのひな)」に分裂していたことや、九州の旧名「白日別」「豊日別」「建日向日豊久士比泥別」「建日別」が元の「日国(ひなの国)」から別れた国であること、海の「一大国(いのおおくに)=天一柱(あめのひとつはしら)=壱岐」と山の「邪馬壹(やまのいの)国=邪馬一国」、枕詞の「天離(ざ)かる鄙」「鄙離かる鄙」などから、「委奴国」を「ふぃなの国(いなの国、ひなの国)」としていましたが、あらたに「いのの国」説を考える必要がでてきたのです。
結論は「倭語論11」で書いたように、「海の『うみ、あま』読み、『原』の『はる、はら』読みの『う=あ』『い=あ』母音併用の例から見て、『委奴国』は倭音では『いぬうあの国』と発音し、『いぬの国』とも『いなの国』ともとれる発音であり、『稲(いな)の国』として『委奴国』の国名を国書に印し、光武帝に上表した」と考えます。
そして委奴国王の使いは魏で「奴」字が卑字であることを知り、次の倭王師升の時に「委奴国」の「奴」を取り、「委」に「人」を付けて「倭国(いの国)」と称したと考えれられます。
5.拝外史観・排外史観から自尊史観へ
古事記序文で太安万侶は、参考にした「国記」「旧辞(くじ)」は音訓を併用していて、「すでに訓によりて述べたるは、詞(ことば)心におよばず」と漢字に独特の読み方を充てた訓読みや和語に独特の漢字を充てた訓読みが、漢文に長けた太安万侶には理解できなかったと書いています。
天皇家の大和政権以前に、スサノオ・大国主の時代から独自の音訓和語表記が発達していたことを太安万侶は隠していません。そして蘇我一族によって編纂された「帝皇日継・先代旧辞」を稗田阿礼に「誦(よ)み習わせた」のです。この「旧辞漢字表記」とでもいうべき音訓混じりの漢字表記こそ、スサノオ・大国主の委奴国で使われていた漢字表記であることを示しています。
大和朝廷の前には文字使用が行われておらず、稗田阿礼が暗唱していた口伝の物語をもとに古事記が作成されたなどという神話こそ、破棄されるべきです。漢字を使用する古代国家建設が天皇家であるとの「皇国神話」の虚構から覚め、スサノオ・大国主の建国を神話から歴史へと回復させるべきでしょう
また漢字・漢文大好き・大得意の学者・知識人が、「倭国」を「わこく」、邪馬台国を「やまたいこく」、「邪馬壹国」を「やまいこく」と読むような古代史研究は全面的に見直される必要があると考えます。「大和」を「やまと」と倭流の当て字読みを行うなら、「大和国」は「おおわの国」と倭流で読むべきと考えます。音読み・訓読み・当て字読みチャンポンの古代史分析は見直す必要があると考えます。
私は言語学も漢文も和文も素人ですが、倭流漢字使用の研究から、古事記・日本書紀・風土記・万葉集研究は再検討される必要があると考えます。
邪馬台国論争においては、「魏書東夷伝倭人条は信用できるが、記紀は信用できない」とする拝外主義、「記紀は信用できるが、魏書東夷伝倭人条は信用できない」とする排外主義から離れ、「魏書東夷伝倭人条、記紀ともほとんどは信用できる」とし、漢語漢文と倭語和文(倭流漢字表記)の両方からアプローチした分析が必要と考えます。
なお、「文化は周辺に残る」ということから考えて、「奴」字のように本来の母系制社会での語源・用法は中国ではなく日本に残っている、という視点が必要と考えます。
「のの国」と読んだ方が、魏書東夷伝倭人条に書かれた行程、伊都国から百里の奴国の王都の位置はが「野芥(のけ=のき=の城)」の稲田神社あたりになり、さらに百里先の不彌国の位置は須久岡本遺跡(現在、奴国の王都とされている所。弥生・弥永地名あり)になり、方位と距離、地名が一致するのです。
この論点については、すでに「倭語論11 『委奴国』名は誰が書いたか?」でもふれましたが、柿本人麻呂の漢字用法から遡り、紀元1~8世紀の漢字表記についての検討を紹介します。雛元昌弘
1.柿本人麻呂の七夕歌(2014)の表裏の2解釈
①原文 吾等待之 白芽子開奴 今谷毛 尓寳比尓徃奈 越方人邇
(我らが待ちし 秋萩咲きぬ 今だにも 匂いに行かな 越方人(をちかたひと)に
②表解釈 私たちが待っていた秋萩が咲いた。今こそ匂いに行こう、川向こうのあの人に。
④裏解釈 私が待っていた若い女の子の、開いた女の又の、今谷の毛を、匂いにいこう(その宝(寳)の間(比)に行こう)、越えてあの人の近くへ。
この後者の私の解釈には、後世の朱子学派やキリスト教などの禁欲主義の人からは反対意見も多いと思いますが、土器(縄文)人のDNAを持った楽天派・快楽派の皆さんには違和感なく納得いただけるものと思います。
かつて『島根日日新聞』(出雲市)で「奥の奥読み・奥の細道」(2016.3.9~9.21の29回)を連載させていただいたことがありますが、古事記を含めて「表読み・裏読み(表書き・裏書き)」はこの国の文学・歴史表現の伝統と考えています。それは、漢字を表意文字と表音文字として使い分ける、というわが国独特の倭流漢字表記が可能にしたものです。
2.柿本人麻呂の漢字表記例
上記の歌から、柿本人麻呂がどのような漢字表記を行っていたか、整理すると次のようになります。
柿本人麻呂の漢字表記例
倭語倭文は単純に漢字漢文を導入するのではなく、上記のような独自の倭流漢字用法を考え、音訓読み、当て字などにより、多様な表現方法を生み出してきました。それは、駄洒落(なぞかけ)大好き、言葉遊び大好きな国民性として、今に生きています。英語が入ってきても「ホテルで火照る」「インテル入ってる」など、その変わらない国民性は万葉集に遡ると考えます。
私がこのような倭語・倭文の特徴に関心を持つようになったのは、古事記で「群品の祖」(人間のおや)とされた始祖神の「高御産巣日(たかみむすひ)神、神御産巣日(かみむすひ)神」を、日本書紀は「高皇産霊(たかみむすひ)尊、神高皇産霊(かみむすび)尊」と記し、「日=霊(ひ)」としていたことに気づき、記紀の「日」をすべて「霊(ひ)」の可能性がないか、検討してからです。
その後、あるきっかけで松尾芭蕉の「奥の細道」を読みましたが、「2重表意漢字表記」だらけであり、江戸時代にもこのような多様な漢字表現は続いていたのです。―詳しくは山陰日日新聞(出雲市)で2016年3~9月に29回に分けて連載した「奥の奥読み・奥の細道」参照
古事記などを読むときには、上記の6つの漢字用法を念頭において分析する必要がある、ということを、改めて強調しておきたいと考えます。
3.委奴国・奴国の「奴」は漢人の蔑称か、倭人の尊称か?
これまで、「漢委奴国王」「奴国」は「漢の倭の奴(な)の国王」「奴(な)国」と読まれてきました。さらに、「奴」字は「卑弥呼」と同じように、中国側が付けた卑字であるというのが通説でした。「奴」は「女+右手」で、奴卑・奴隷を表し、「匈奴」などに使われているからです。
このような判断の前提として、漢字・漢文の導入は天皇家による大和朝廷であり、委奴国や倭国の頃には倭人は文字を知らなかった、という根強い思い込みがあったからです。
ところが、魏書東夷伝倭人条には卑弥呼は魏皇帝に「上表」したと書かれており、そもそも1世紀に後漢に使いを出した「委奴国王」が国書を持参しなかったことなどありえません。漢が国王と認めた委奴国王に金印を与えたということは、倭人が国書をやりとりできる、ということを前提にしていたことを裏付けています。冊封国と認めたということは、それにふさわしい漢文化の国として認められたということであり、国書のやりとりのために金印が与えられたのです。
その漢字の伝来は、紀元前3世紀の徐福の頃からの可能性が高いと考えます。
「委奴国」「奴国」の「奴」は漢音・呉音では「ド」であることも、中国側が付けた国名ではないことが明らかです。というのは、スサノオ2代目の「八嶋士奴美」、3代目「布波能母遲久奴須奴」、5代目「淤美豆奴」や、大国主が妻問い(夜這い)した「奴奈川姫」(奴奈川は現在の糸魚川)、大国主・鳥耳の筑紫王朝4代目の「早甕之多氣佐波夜遲奴美」の名前に「奴」字は使われており、卑字とみなされていなかったことは明らかです。スサノオ・大国主時代の1~2世紀には「奴」は「ぬ」と読んでおり、「匈奴(きょうど)」のような「奴(ど)」読みではないのです。
一方、3世紀の魏書東夷伝倭人条では、「奴」字は対馬国・壱岐国・奴国・不彌国の副官名の「卑奴母離」名にも使われていますが、「比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守」と書かれることがあることからみて、この時代には「奴」は「な」と読まれていたことが明らかです。従って3世紀の「奴国」もまた「なの国」の倭音読みであり、邪馬壹国側が主体的に付けた国名であることが明らかです。
しかしながら、8世紀の記紀・万葉集では「奴」は「ぬ」と呼ばれており、魏書東夷伝倭人条の3世紀頃だけが「な」読みであったことになります。
では「奴」を倭人はどのような意味で使っていたのでしょうか?
大国主が越の奴奈川姫からヒスイを手に入れ、出雲の玉造で加工した玉の王であり、各地で「大国魂」=「大国玉」名で祀られていることから見て、和語では「奴(ぬ)」は玉、ヒスイを表し、スサノオ・大国主一族の王名に使われたと見られます。
辞書などない時代ですから、倭人は「奴」字を「女+又(股)」=女性性器と考え、霊(ひ)=魂がやどる女性の性器に当てていた可能性が高いと考えます。出雲では今も妊娠すると「霊(ひ)が留まらしゃった」と言い、沖縄の宮古地方では女性器を「ひー」、熊本の天草地方では「ひな」と呼び、栃木・茨城ではクリトリスを「ひなさき」と呼んでいたことからみても、「奴(ぬ)」は「霊(ひ)=魂」が宿る場所であり、魂が宿る石もまた「奴(ぬ)」と呼ばれたと考えます。
白い「ひすい」は緑の羽の鳥の「翡翠」とは異なり、語源は不明とされていることからみて、和語の「ひすい」が漢に渡って「翡翠」の漢字とされた可能性が高く、倭語の「霊(ひ)吸い」を表した可能性が高く、「奴(ぬ)」=「霊(ひ)吸い」は女性の子宮と同じ神聖なものとして、て王名や国名に付けられたと考えます。
柿本人麻呂の漢字用法からいえば、5番目の「漢字分解漢字表記」にあたるものであり、和語・和音の「ぬ」に「奴」の漢字を当てた可能性が高いと考えます。
4.母系制時代の中国でも「奴」は尊称であった
「倭語論11 『委奴国』名は誰が書いたか?」で述べたように、「姓名」の「姓」が「女+生」であり、孔子の「男尊女卑」の「尊」字は「酋(酒樽)+寸」、「卑」字は「甶(頭蓋骨)+寸」で「女が支える先祖の頭蓋骨に、男が酒樽を捧げる」という鬼神信仰(祖先霊信仰)の男女の役割分担を示しているように、元々、孔子が理想と考えていた周王朝は母系制社会であり、「女+又」は霊(ひ)を育む女性性器を表し、尊称であったと考えます。
孔子が理想と考えていた周王朝は「女+臣」の姫氏の国であり、その一族の魏国は「禾+女+鬼」であり、女性が稲を祖先霊に奉げる鬼神信仰(鬼道)の国であったのです。それは「倭国大乱」の時の皇帝が「霊帝」であったことからも明らかです。
「奴」が「女+又(右手)」とされ、奴隷を表すようになったのは、春秋・戦国時代に母系制社会から父系制社会になり、女奴隷が生まれてからと考えれられます。
倭人が漢字を覚えた頃には、「女+又」は尊称で、そのままスサノオ・大国主一族に受け継がれた可能性が高いと考えられます。
4.「奴」は「ぬ」か「な」か?
『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)の第2版を出すにあたり、一番頭を悩ませたのが「委奴国」を「いなの国(稲の国)」と読むか、「いのの国」と読むかでした。
2009年の『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』の時には、倭国大乱の頃に倭国が「八倭人、九天鄙(あまのひな)」に分裂していたことや、九州の旧名「白日別」「豊日別」「建日向日豊久士比泥別」「建日別」が元の「日国(ひなの国)」から別れた国であること、海の「一大国(いのおおくに)=天一柱(あめのひとつはしら)=壱岐」と山の「邪馬壹(やまのいの)国=邪馬一国」、枕詞の「天離(ざ)かる鄙」「鄙離かる鄙」などから、「委奴国」を「ふぃなの国(いなの国、ひなの国)」としていましたが、あらたに「いのの国」説を考える必要がでてきたのです。
結論は「倭語論11」で書いたように、「海の『うみ、あま』読み、『原』の『はる、はら』読みの『う=あ』『い=あ』母音併用の例から見て、『委奴国』は倭音では『いぬうあの国』と発音し、『いぬの国』とも『いなの国』ともとれる発音であり、『稲(いな)の国』として『委奴国』の国名を国書に印し、光武帝に上表した」と考えます。
そして委奴国王の使いは魏で「奴」字が卑字であることを知り、次の倭王師升の時に「委奴国」の「奴」を取り、「委」に「人」を付けて「倭国(いの国)」と称したと考えれられます。
5.拝外史観・排外史観から自尊史観へ
古事記序文で太安万侶は、参考にした「国記」「旧辞(くじ)」は音訓を併用していて、「すでに訓によりて述べたるは、詞(ことば)心におよばず」と漢字に独特の読み方を充てた訓読みや和語に独特の漢字を充てた訓読みが、漢文に長けた太安万侶には理解できなかったと書いています。
天皇家の大和政権以前に、スサノオ・大国主の時代から独自の音訓和語表記が発達していたことを太安万侶は隠していません。そして蘇我一族によって編纂された「帝皇日継・先代旧辞」を稗田阿礼に「誦(よ)み習わせた」のです。この「旧辞漢字表記」とでもいうべき音訓混じりの漢字表記こそ、スサノオ・大国主の委奴国で使われていた漢字表記であることを示しています。
大和朝廷の前には文字使用が行われておらず、稗田阿礼が暗唱していた口伝の物語をもとに古事記が作成されたなどという神話こそ、破棄されるべきです。漢字を使用する古代国家建設が天皇家であるとの「皇国神話」の虚構から覚め、スサノオ・大国主の建国を神話から歴史へと回復させるべきでしょう
また漢字・漢文大好き・大得意の学者・知識人が、「倭国」を「わこく」、邪馬台国を「やまたいこく」、「邪馬壹国」を「やまいこく」と読むような古代史研究は全面的に見直される必要があると考えます。「大和」を「やまと」と倭流の当て字読みを行うなら、「大和国」は「おおわの国」と倭流で読むべきと考えます。音読み・訓読み・当て字読みチャンポンの古代史分析は見直す必要があると考えます。
私は言語学も漢文も和文も素人ですが、倭流漢字使用の研究から、古事記・日本書紀・風土記・万葉集研究は再検討される必要があると考えます。
邪馬台国論争においては、「魏書東夷伝倭人条は信用できるが、記紀は信用できない」とする拝外主義、「記紀は信用できるが、魏書東夷伝倭人条は信用できない」とする排外主義から離れ、「魏書東夷伝倭人条、記紀ともほとんどは信用できる」とし、漢語漢文と倭語和文(倭流漢字表記)の両方からアプローチした分析が必要と考えます。
なお、「文化は周辺に残る」ということから考えて、「奴」字のように本来の母系制社会での語源・用法は中国ではなく日本に残っている、という視点が必要と考えます。