2014年6月の原稿「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構―海洋交易民族史観から見た鉄器稲作革命」(『季刊 日本主義』26号(20140625)に掲載:ネットで購入可能)に加筆・修正したものです。
2009年の『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院:日向勤ペンネーム)とその後のブログ「神話探偵団」「邪馬台国探偵団」「帆人の古代史メモ」「霊(ひ)の国の古事記論」などをまとめたものです。
一部、三国史記新羅本紀や『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)の図などを追加するとともに、写真はパワーポイント「古代国家形成から見た縄文時代」で作成したものに差し替えています。 雛元昌弘
はじめに
全国各地で仕事をするうちにスサノオや大国主の伝承に出会い、この国はスサノオ・大国主一族により建国されたという仮説を立て、古事記を読むようになった。
2009年に『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』を書き、そのあらましは、『季刊 日本主義』18号(2012夏)に「『古事記』が指し示すスサノオ・大国主建国王朝」として紹介させていただいた。
古事記に書かれた神話時代の天皇家は16代であるのに対し、遣唐使は32代が筑紫城にいたと伝え、空白の「欠史16代」がある。一方、古事記にはスサノオ・大国主の16代の王が書かれ、初代から16代の天皇の年齢が二倍に水増しされている。
そこから、私は「別天神4代(5神:出雲大社神殿の正面に配祀)」+「神世7代」+「スサノオ・大国主7代」の王朝があり、「筑紫の日向(ヒナ)」(福岡県旧甘木市の蜷城:ヒナシロ、ヒナギ)には「大国主子孫九代+卑弥呼(オオヒルメ)+オシホミミ+ニニギ」が続き、それに薩摩半島の天皇家の祖先である笠沙2代が接ぎ木され、合計32代という建国フレームを考えた。
そして安本美典元産業能率大教授の天皇の即位年を統計的に分析する手法に従い、最少二乗法で計算し、スサノオが紀元60年頃、オミズヌが102年頃、大国主が122年頃、卑弥呼が225年頃と統計的に推測した。そしてこれらの推測結果は「委奴国王」「師升(すいしょう)」「大国主後継者争いの倭国の大乱」「卑弥呼」の記録年とほぼ重なることを明らかにした。
今回は、さらに、私の関心の高い船・武器・稲作・宗教の四つから、スサノオ・大国主の建国史を明らかにしたい。
1 縄文人は「狩人(山幸彦)」か「漁民(海幸彦)」か?
千歳空港でアイヌのイタオマチプ(板綴り船)を製作・展示していた秋辺得平氏(元北海道アイヌ協会副理事長)に偶然に話を聞くことができたが、彼は「アイヌは漁民である」と断言していた。アイヌが「熊ハンター」でないとしたら、「縄文人マンモス・ナウマン象ハンター論」は怪しくなる。
私は、秋にはサケが群れなす北海道や東北の川を見たことがあり、四万十川では「昔はアユの上を歩いて渡ることができた」と漁師から聞いた。私が仕事をした瀬戸内海の各地では、住民は夕方になるとバケツと釣り竿を持ち、岸壁に出かけて夕食のおかずを釣っていた。この国では、危険を冒して大型動物を狩らずとも、海の幸は豊富であった。各地の貝塚を見れば、縄文人は「海人(あま)」=「海幸彦」であったと認めなければならない。
若狭の鳥浜貝塚(12000~5000年前、縄文時代草創期~前期)では、丸木船や漆製品とともに、南方系のヤシの実やヒョウタン・リョクトウ・シソ・エゴマ・コウゾ属や、北方系のゴボウ・アサ・アブラナ類(カラシナ・カブ・ナタネ・ツケナ)が発見され、栽培農業が行われたことを示している。
特に注目したいのはヒョウタンで、その原生地は西アフリカのニジェール川流域である。ヒョウタンは軽くて運びやすく、水や食料の容器になる。ひょうたんに水を入れ、南の海の道を舟できた縄文人の一族がいたことを示している。
さらに、バイカル湖のカヌーとアイヌのヤラチプ、カナディアンカヌーが同じ構造の樹皮カヌーであり、丸木船の舷側に板を継ぎ足した古代船と、現代の沖縄のサバニとアイヌのイタオマチプが同じ構造であることにも注目したい。北からの縄文人もまた、舟を使って移住してきた可能性がある。北方野菜は真冬に凍結した海の上を歩いて縄文人が持ってきたというより、暖かい季節に舟で運ばれたと考えるべきであろう。
古田武彦氏は魏書東夷伝倭人条の「船旅1年」の裸国や黒歯国はアメリカ大陸の国という説を唱えたが(1977年『倭人も太平洋を渡った―コロンブス以前のアメリカ発見』:編著者C・L・ライリー 他、訳著者 古田武彦)、縄文土器と類似したエクアドルのバルディビア土器(約5500年前)やメラネシアのバヌアツ共和国の土器、米国各地の9000年前の頭蓋骨が日本の縄文人やアイヌ人、ポリネシア人の特徴を持っているとの研究、エクアドルに程近いアンデスのインディオ達のATLウイルス(世界で500万人のうち日本人が約100万人)が遺伝子配列から日本人と共通の祖先から枝分かれしたとの研究、アマゾンの約3500年前のインディアのミイラ体内から発見された寄生虫「ズビニ鉤虫」の卵が5℃以下で2年間暮らすと体内で死滅することからモンゴロイドが氷河期に凍りついたベーリング海峡を歩いて移住していないことなど、次々と縄文人太平洋横断説が裏付けられてきている。
愛媛県の八幡浜では、移民のために打瀬船で明治45(1912)年に5人の漁民が76日かけて太平洋を渡り、翌年には15名が58日かけて渡るなど、渡米は合計5回に及んでいる。岡山の日生の漁民は明治時代から打瀬船で朝鮮半島近海まで出漁し、舟の杉材は宮崎から運んできた。「米と味噌と水さえあれば漁民はどこまででも行く」と日生の郷土史家は話していた。
川合彦充氏は『日本人漂流記』で、江戸時代の日本船の太平洋での遠洋遭難記録は数百件あり、南北アメリカ大陸への漂着は八件と分析している。東日本大震災のがれきは一年でアメリカ東海岸に漂着した。
さらに「縄文人は海洋民族」の直接的な証拠は、黒曜石(神津島)や翡翠(氷見)、天然アスファルト(秋田・新潟)、イモガイ(沖縄)の全国各地への分布からも裏付けられる。
古事記には、イヤナギ(伊邪那岐=揖屋那岐)が黄泉の国の汚垢を濯ぎ流した時に、左目からアマテラス、右目から月読命、鼻からスサノオが生まれ、それぞれ高天原・夜・海原の統治を委任したとしている。スサノオは海原を支配し、月読命は「夜に月や星座の動きを読み、方位から海洋航海を指揮し、太陰暦を定めた王」の可能性が高い。中国の12か月を、季節に合わせて皐月=早月=5月(播磨国風土記)と言い換え、神事(国家行事)に合わせて神無月と命名したのは、外洋航海術と太陰暦を支配したスサノオ・大国主一族の可能性が高い。
昭和30年代になっても私の祖母は旧暦(太陰太陽暦)を使い、旧盆・旧正月などの行事を行い、田植えの時期を判断していた。潮の干満をよむ漁師にもまた、旧暦が根強く残っている。女性の生理が28日周期で、28日計算の「十月十日」、満月と新月の夜に出産が多いことからみても、縄文人や古代人は「星読み人」であった可能性は高い。
縄文人は巨獣ハンター、古代人は農民、という思いこみを捨て、漁民であり海洋交易民であった縄文人像・古代人像からこの国の歴史を見直す必要があると考える。
2 チャンバラ時代はなかった(武器論からみた縄文と青銅器・鉄器時代)
前から疑問に思っていたのは、日本の考古学が「石器→青銅器→鉄器」「漁労・狩猟・採取→農耕・牧畜」「非定住→定住」「部族社会→部族国家(都市国家)→古代国家」「母系制社会→父系制社会」「地母神信仰→祖先霊信仰(部族宗教)→絶対神信仰(世界宗教)」などの世界標準の時代区分モデルを使わずに、「旧石器→縄文→弥生→古墳」と時代区分する「石器―土器―土器―墓」のガラパゴス的モデルを使っていることである。
この「ドキドキハカ区分」ではなく「ドキン区分」にすべき、と私が考えたきっかけは武器論からである。アレクサンダー大王やシーザー、モンゴルの大遠征、信長の天下統一をみても、征服戦争には武器と戦法の大きな変革がある。もし、わが国に「遼寧式(満州式銅剣)銅剣時代」があったというなら、それに相応しい民族移動による征服戦争があったと見なければならないが、そのような痕跡は見られない。
これまで、わが国では、石器時代・縄文時代は弓矢と槍が主な武器で、弥生から古代には槍がなくなって銅剣チャンバラ時代になり、鎌倉時代から戦国時代にかけて、再度、槍が主要な武器になったとされてきた。各地の博物館の展示説明を見てびっくりするのは、弥生から古代にかけて、武器としての槍がほとんど展示されていないことである。
可能性としては、弥生から古代・平安にかけて「銅剣」を持った異民族がこの国を支配して石槍文化を滅ぼした、あるいは、これまで「石剣・銅剣・鉄剣」とされていたものほとんどは「石槍・銅槍・鉄槍」であった、かのどちらかである。
これまで「銅剣」とされてきたものは「中国の遼寧式(満州式)銅剣」を真似して作られたと説明されてきたが、写真を見ても判るとおり、1~2㎝の短い茎(なかご)に木製の柄を付けて武器にすることなどできない。こんな「へなちょこ剣」では、素振りすらできない。
「遼寧式銅剣」とされてきた穂先の途中には剣には不要なくびれがあることからみても、これは槍の穂先であり、写真のように、木あるいは竹の柄にくくりつけて使用したものである。刀を槍にする例は、短刀を槍にして戦った南北朝時代の「菊池槍」があり、現代も使われているマタギ刀がある。
わが国で見つかった「銅製武器」を「遼寧式銅剣」と見誤ったのは、わが国にはすぐれた技術・文化などあるはずがない、全て中国の模倣と思い込んだ「拝外主義」の「チャンバラ映画大好き」の考古学者・歴史学者の錯覚という以外にない。
あくまでこの「銅製武器」を「遼寧式銅剣」と言い張るなら、考古学者達は、実験考古学の手法により「銅剣」と「銅槍」を作成し、実戦的に模擬戦闘を行って証明すべきである。さらに、使い慣れた「遼寧式銅剣」を使って中四国地方を征服した王国があったことを、他の考古物や記録から証明して見せなければならない。
証拠がないというなら、日本人は「銅柄銅剣」を真似しないで、使い物にならない「柄なし銅剣」を真似たという「猿まね日本人説」を他の事例から論証して見せなければならない。そのような説には、私は「改良名人日本人説」で反撃したい。私たちの祖先は、重くて製造しにくい、円筒状の差し込み口に柄を入れる銅矛ではなく、木や竹の柄に穂先を差し込む軽くて使いやすい銅槍を製造したに違いないからである。
旧石器ねつ造事件どころではない。「柄なし銅剣説」は直ちに捨てなければならない。そうすれば、全く新しい歴史観が開けてくる。
第1は、縄文時代から金属器時代への移行を時代区分とする歴史観の確立である。弥生時代は不要である。
第2は、縄文時代からわが国では武器革命が起きておらず、遼東半島からきた「弥生人征服王朝」などなかったということである。「柄なし銅剣」とともに、「弥生人による縄文人征服説」は幻となる。
第3は、拝外主義の模倣歴史観、「猿まね日本人説」を根本から改めることである。独自の銅槍を創造しただけでなく、日本語読み漢字文(柿本人麿の簡略体)や万葉仮名を生み出したように、「独自の技術・文化を創造する日本人観」への転換である。
第4は、わが国における、「金属器稲作時代」の時代区分を認めることである。これは次節で述べたい。
第5は、長槍が野外集団戦に適した武器であることを認め、「チャンバラ歴史観」を改めることである。剣や刀は屋内戦に適した携行性に優れた防御あるいは暗殺用の武器であり、記紀の多くのチャンバラ物語は「だまし討ちの暗殺物語」であると認めなければならない。「チャンバラ征服王朝史観」がなければ、日露・太平洋戦争でのチャンバラ白兵戦主義=近接戦主義による多大な犠牲は防げたはずである。
天皇家の皇位継承のシンボルである「三種の神器」の一つが、スサノオがヤマタノオロチ王を暗殺して奪った銅剣であるという、暗殺剣による政権奪取という負の歴史を直視すべきである。
第6は、「八千矛神」の別名を持つ大国主こそ、銅槍・鉄槍時代の建国のリーダーであり、大穴牟遅神・大穴持命(おおあなもち)の別名は、文字どおり鉱山所有者の名前の可能性があることである。荒神谷遺跡から銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が、加茂岩倉遺跡から銅鐸39個が出土したことは、大国主が銅槍・銅鐸圏(大国主と大物主の国)を統合したことを示している。
第7は、弓矢と槍が殺人武器である前に、狩猟道具であったことを認めることである。縄文時代から栽培農業には、鳥獣害対策に弓矢と槍は欠かせない道具であった。今でも、山村や農村では、猪や鹿、野鳥を防ぎ、狩りをしない限り、栽培農業は困難である。
天皇家の直接の祖先は「毛のあら物、毛の柔物を取る」山幸彦=猟師とされ、播磨国風土記によれば、品太天皇(応神天皇)は播磨各地で狩りを行っている。兵士のルーツは狩人であり、古事記は山幸彦の孫の若御毛沼命(後に神武天皇と称される)の一族が武装兵(傭兵)として、豊・筑紫・安芸・吉備・大和の各地で王に仕え、その10代目が大和の磯城王(大物主の子孫)の権力を奪ったという歴史を正確に伝えていると私は考えている。
以上、武器論から見る限り、縄文時代の次は金属器時代であり、その金属器時代を切り開いたのはスサノオ・大国主一族である。
3 水田稲作革命はスサノオ・大国主一族が鉄先鋤で広めた
「稲作とともに弥生式土器が始まった」という言い方は、稲作開始が5~7千年前頃の岡山県のいくつかの縄文遺跡で発見されていることから、もはや成立しない。稲作とは無関係にずっと遅れて弥生式土器(覆い焼きという技術革新)は生まれている。
私は縄文時代の終焉は、石器稲作(縄文式稲作)から鉄器稲作(開墾・水利耕作)への稲作技術革命に置くべきと考えている。
播磨国風土記の讃容郡には「(大神の)妹玉津日女命、生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた。大国主命は、『お前はなぜ五月の夜に植えたのか』と言って、他の所に去った」という記載があり、賀毛郡雲潤(うるみ)里には「大水神・・・『吾は宍の血を以て佃(田を作る)る。故、河の水を欲しない』と辞して言った。その時、丹津日子、『この神、河を掘ることにあきて、そう言ったのであろう』と述べた」と書かれている。
これらの記述によれば、鹿や猪の血で籾を発芽させ、成長させるという、地神(地母神)宗教の黄泉帰り思想の縄文式稲作に対して、大国主一族は、暦を作って苗づくりの時期を定め、田植え時期を遅らせてウンカの害を防ぎ、鉄先鋤で原野を開拓し、大がかりな灌漑土木工事を行って水田面積を拡大した鉄器稲作革命の推進者であった。
大国主は出雲国風土記では「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と呼ばれ、その180人の御子の一人は阿遅鉏高日子根(アジスキタカヒコネ)で「鉏(すき)」の名前を付けています。彼らは鉄先鋤(スコップ)を全国に広め、水路や新田開発を指導したからこそ、日本書紀の一書(第六)は、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝え、その国を「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国(みずほのくに)」と呼んだのである。
大国主の妻の宗形大神奥津島比売命が迦毛大御神(アジスキタカヒコネ)を生んだとされる託賀郡に隣接する丹波は、もともと「丹のうみ」と呼ばれていたが、大国主が京都への水路を切り開いて開拓したと伝えられている。
新羅(当時は辰韓又は弁辰。後の加羅)で鉄を求めたスサノオ・大国主一族は、米と鉄を交易し、鉄器農具を普及して水利水田耕作の拡大を各地で促し、飛躍的に生産量が増えた米を輸出し、さらに鉄器の輸入を増やすという循環的な拡大再生産構造を支配し、古代統一国家を建設したと私は考えている。
寒冷期に入った当時、朝鮮半島では食料事情が悪化し、三国史記新羅本紀によれば紀元59年に4代の新羅王には倭人の脱解(タレ)がなり、倭国と国交を結んだのは、倭国の米を必要としていたことによることが明らかである。その時の倭国王がスサノオであることは、イヤナギから「海を支配せよ」と命じられ、日本書紀の一書(第四)には新羅に渡ったと書かれ、対馬などにその伝承が残るとともに、古代王の即位年の推計によりスサノオの即位年が紀元60年であることからみて、スサノオ以外には考えられない。
なお新羅との国交の2年前の紀元57年に後漢光武帝に使いを送り、「漢委奴国王」の金印を与えれた委奴国王もまたスサノオとみて間違いないと考える。
この米鉄交易は、対海国(対馬)と一大国(壱岐)の人々が「乗船南北市糴(してき:交易)」したと魏書東夷伝倭人条に書かれていることからも裏付けられる。「糴(てき)」は、「入+米+翟」で、「翟(てき)」は雉(「羽+隹」)で、「隹(すい)」は鳥を表している。
「糴(てき)」は「鳥をシンボルとする異民族(てき)から米が入る」という漢字であり、魏書東夷伝辰韓(弁辰)条の「国、鉄を出す、韓・シ歳・倭皆従いてこれを取る。諸市買、皆鉄を用いる」という記述を受けて書かれたものである。3世紀になると「従いてこれを採る」という国同士の管理貿易と、「市買う」の市場取引の2ルート(前者は出雲・美和連合の70余国、後者は筑紫30国)で鉄の交易が行われていたことを示している。
辰韓(弁辰)条などの「市買」や、倭人条の「市」「交易」という表現を使わず、わざわざ「市糴」の漢字を当てたのは、実際に米交易が行われていた証拠である。
日本書紀には、スサノオは子の五十猛神(イタケル神:倭武=ヤマトタケルの名前は彼から取ったと考えられる)と新羅に下り、ソシモリに居たが、「この国にはいたくない」と言って土(鎚)で船を作って帰り、五十猛神は多くの樹種を持って行ったが、韓地に植えずに持ち帰り、筑紫から各地に植えて青山にしたと書かれている。この記述は、製鉄燃料のために木々を伐採して韓地の山が荒れ、洪水によってたびたび米不足に陥っていた可能性とともに、スサノオは製鉄技術を手に入れ、韓地に留まる必要がなくなった可能性も考えられる。
百余国の部族国家(初期都市国家=城=き)を統一したのは大国主であり、それは米・鉄貿易による米作技術革命による立国であった。それは、日本書紀の一書(第六)で、大国主と少彦名が力を合わせて天下を経営し、鳥獣・昆虫害を払い、百姓から今も恩頼りにされているとした記述からも裏付けられる。大国主が米俵に乗った像は、後世の創作ではない。「八千矛神」の別名は、彼らが青銅と鉄の槍と鏃で、鳥獣を一斉に駆除する一族でもあったことを伝えている。
古事記によれば大国主は「島の埼埼 磯の埼」に多くの「若草の妻」を持つと歌われ、「出雲、因幡、越、宗像、播磨、丹波」など百余国に妻を持ち、180人(日本書紀は181人)の御子をもうけたとされている。これは武力征服による略奪婚ではなく、縄文から続く母系制社会の妻問夫招婚であることは、播磨国風土記の妹玉津日女命の記述からも裏付けられる。
武力征服戦争ではなく、鉄器と暦普及による米作革命(水利耕作と害虫対策、鳥獣駆除)と妻問夫招婚によってスサノオ・大国主命一族が古代統一国家を形成できたのは、縄文から続く母系制社会のもとですでに各地に部族国家(都市国家=環壕に囲まれた城)が成立し、イモや豆、雑穀や陸稲の栽培農業が行われていたからに他ならない。
大国主は、毎年、神在月に出雲に御子達とその王子・王女を集め、「火継ぎ(霊継ぎ)」の祖先霊信仰(御霊=御魂信仰)を行うとともに「縁結び」で同族の結束を深め、古代統一国家を形成した。漢に学び月を読んで共通の暦を定めないかぎり、そのような統一行動ができないことは言うまでもない。
この古代国家統一は、対馬・壱岐の「海人(天:あま)族」=交易部族が、「土地山険、多深林」の対馬の弓槍の名手である「狩人」と協力して鉄・米交易によって行ったものである。後の記紀神話の「山幸彦」が「海幸彦」を屈服させる物語は、このスサノオ・大国主王朝の後に薩摩半島の笠沙では「海人(あま:海幸彦、隼人)と「山人(やまと:山幸彦)の対立があった、と私は考えている。
縄文人=被征服者、弥生人=征服者=稲作・弥生土器普及者という「征服史観」はフィクションであり、弥生式土器で時代を区分する「弥生時代」はもはや不要である。
縄文から弥生への「渡来人征服史観」から、縄文人を主体とした「鉄米交易立国史観・鉄器稲作史観・妻問史観」への転換が求められる。「遅れた日本:進んだ中国・アメリカ」という図式から一貫して抜けきれない拝外主義の「外発的発展論」=「グローバライゼーション」から、自立交易主義の「内発的発展論」への歴史観の変革が行われなければならない。
4 黄泉帰りの「地神(地母神)信仰」「海神信仰」から「天神信仰」への宗教改革
昭和21年生まれの私は、田舎に行くと、まず仏壇のご先祖に挨拶させられ、朝には仏壇と神棚のご先祖に炊き立ての御飯を供え、お盆・正月には墓詣に行って提灯の火に御先祖の霊を移して仏壇まで持って帰り、賀茂神社ではご先祖を祀っていると拝まされた。仏教も神道も縄文時代からの祖先霊信仰のまんまであった。これでは、唯一絶対神を信仰する世界宗教はこの国では根付きようがなかったといえよう。
縄文人は、植物が枯れて大地に戻り再生するのと同じように、人も大地(黄泉の国)に帰り、再生すると考える「地母神」「地神」信仰であり、死者の霊(ひ)が宿るとされた土偶や鏡は、破壊されて大地に帰され、黄泉帰ることが期待された。「初期胎児形」をした勾玉もまた霊(ひ)が宿ると考えられ、再生のためにそのまま埋められた。死んだ幼児が壺に入れられ、竪穴式住居の入口に埋められたのは、子供の霊(ひ)が大地の壺(子宮と考えられていた)に戻され、その上をまたぐ母親の胎内に再生すると信じられていたことを示している。
この国が「霊(ひ)の国」であったことは、『季刊 日本主義』18号で紹介したように、記紀で「霊(ひ)を産む」夫婦神、「二霊群品の祖」として「高御産巣日=高皇産霊(タカミムスヒ)」「神産巣日神=神皇産霊尊(カミムスヒ)」として登場することや、「霊人(人)」「霊女(姫)」「霊子(彦)」「卑弥呼(霊御子=霊巫女)」「大霊留女」「霊継ぎ(棺・柩)」「霊知り(聖)」「霊人()」の名称、スサノオ・アマテルの「ウケヒ(受け霊)」による後継者争い、性器を「ひー」「ひーな」「吉舌・雛尖・雛先(ひなさき)」と呼び、妊娠を出雲では「霊(ひ)が留まらしゃった」、流産を茨城では「ひがえり」と呼び、「神奈備山=神名火山=神那霊(かんなび)山」や「神籬(ひもろぎ)=霊(ひ)漏ろ木」から天に昇り、再び降臨すると、古代から現代まで引き継がれていることから裏付けられる。
さらに、甕棺や木棺、石棺の遺体を丹(水銀朱、ベンガラ)で赤く染めたのは、子宮の血の中で遺体が再生すると考えていたからである。そして、播磨国風土記逸文によれば、爾保都(にほつ)比売=丹生都比売は大国主の子供とされており、神戸市北区の丹生山の丹生(にぶ)神社を始め、丹生産に携わる一族によって全国の約180社に祀られている。魏志東夷伝倭人条にも登場する水銀朱の生産を支配したのは大国主一族であった。
前述の、鹿や猪の血で稲の発芽や生長を促すという稲作の方法は、子宮の血の中で霊(ひ)が再生するという同じ黄泉帰り思想を示している。
イヤナミ・イヤナギ(伊邪那岐神・伊邪那美神)神話では、イヤナギは「黄泉国」のイヤナミを追ってゆき、黄泉醜女と黄泉軍に追われて黄泉比良坂(出雲国の伊賦夜坂:東出雲町揖屋町の伊布夜社=揖夜神社)から地上に逃げたとされているのは、黄泉帰り宗教を示している。
イヤナギがカグツチを殺した時、その血から八神、死体から8神が生まれ、スサノオが大気津比売神を殺した時に死体から5穀(稲・粟・小豆・麦・大豆)と蚕が生まれ、イヤナギが川で禊ぎを行い、左目を洗ってアマテラスが、右目から月読命、鼻からスサノオが生まれたというのもまた、黄泉国の汚垢から神が生まれるという黄泉帰り思想であった。
ところが、スサノオ7代目の大国主は、国譲り(大国主の180人の御子の後継者争い)において、「住所(すみか)」「天の御巣」「天の御舎」「天日隅宮(筆者説:天霊住宮)」を建て、「神事を治める」「幽(かくれたる)事治める」ことを条件としており、古代には48mの高さの出雲大社が建設され、年に1度、十月十日の神在月(他の国では神無月)に八百万神が集まり、180人の御子やその一族の縁結びを行ったとされており、この頃に王の墓が小高い小山の上に築かれ、霊継(ひつぎ)の神事によって王位継承が行われるようになっており、中国から魂魄の分離思想がつたわり、死体(魄)は墓に葬られ、死者の魂(霊:ひ)は神那霊山(神奈火山、甘南備山)から天に昇るとする「天神宗教」が生まれている。
吉野ヶ里遺跡の鳥居や屋根の上に鳥の置物が置かれているのは、死者の霊(ひ)を天上に運ぶのは鳥と考えられていたことを示している。大国主を国譲りさせた天日名鳥命(天夷鳥命=武日照命:大国主命の筑紫でもうけた天穂日神の子)や、大国主命の子の鳥耳神、大雀命(後の仁徳天皇)などの名前は、霊(ひ)を運ぶ鳥信仰を示している。
675年、天武天皇が農耕期間の4月から9月の間、牛、馬、犬、サル、鶏を食べることを禁止したのもまた、犬、サル、鶏は、霊(ひ)を運ぶ神聖な動物と考えていたことを示している。狼を「オオカミ=大神」と言い、石上神宮で鶏を、日吉大社で猿を神の使いとしていることが、それを裏付けている。さらに桃太郎伝説は、鬼(他部族の祖先霊)と戦うために、犬、サル、鶏に祖先霊を運ばせて戦ったことを伝えている。
魏書東夷伝は、馬韓国(後の百済)や弁辰国(弁韓、後の任那・加羅)では「大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神に事(つか)える」という鬼神信仰が行われ、倭国では鬼道が行われていたとしている。わが国だけ「鬼道」としたのは、この国が、孔子が「道が行われなければ、筏に乗って海に浮かぼう」「九夷に住みたい」と願った「道」の国であったからに他ならない(王勇著『中国史の中の日本像』)。
この「魏」は「委+鬼」であり、「鬼」は頭蓋骨や仮面をかぶった人とされている。「委」は「禾(のぎ:稲)+女」で女性が稲を掲げた様子を表しており、「魏」は女性が鬼(祖先霊)に稲を捧げることを表した漢字である。
「卑弥呼(霊巫女)」が祖先霊(大国主)を祀り、もと百余国であった倭国の1/3の北九州の30国を再統一して使いをよこした(臣下になった)ということは、三国で覇権を争っていた魏の曹操の一族にとっては、これとない吉兆であったに違いない。
その魏皇帝が卑弥呼に百本の鉄刀ではなく百枚の鏡や絹織物、口紅用の鉛丹を与えたのは、30国が男王国ではなく女王国であったことを示している。
鏡は化粧道具として、さらには持ち主の霊(ひ)を宿す神器として、「鬼道」の霊(ひ)の国の支配秩序を強化するために付与したものであり、全部が同じ鏡ということは絶対にありえない。卑弥呼には鉄鏡、30国の女王と官・副官に対しては銅鏡と4ランクに分けた鏡を付与したに違いない。100枚全てを同じ三角縁神獣鏡とする説は「平等幻想説」という以外にない。
皇帝を表す龍を彫った鉄鏡は玉(印や壁)と以上の曹操一族のシンボルであったが、その「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が日田市(甘木=天城のすぐ隣り)から発見されている。この鉄鏡は、邪馬壱国の位置を決める決定打である。
アマテラス(大霊留女)神話に鉄鏡製作がでてくることは、この卑弥呼の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を真似て、その死後に鉄鏡が作られたという史実があったと見て間違いない。この記紀神話の鉄鏡は、卑弥呼の鉄鏡伝承を元にアマテラス神話が作られたことを示している。
漢皇帝の金印とガラス璧、「漢委奴国王」と魏皇帝の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を結ぶ皇帝ライン上に邪馬壹国はあり、それは記紀が示す高天原の所在地「筑紫の日向(ひな)の橘の小門の阿波岐原」の「甘木の蜷城(ひなしろ)」に邪馬壹国があったことを示している。
卑弥呼はスサノオから16代目、大国主から10代目の邪馬壹国の王であり、鬼道、即ちスサノオ・大国主信仰により、大国主の百余国のうちの「倭国の大乱」で分裂した北部九州の30国を再統一したものである。これは周王朝の後継者として漢の再統一を図ろうとした曹操一族の姿とピッタリと重なる。
一方、天皇家に伝わる「三種の神器」の鏡は銅鏡であり、天皇家が明治まで伊勢神宮に詣でず、皇居にアマテラスを祀っていないことは、天皇家はアマテラスの霊(ひ)を受け継いだ子孫ではないことを証明している。記紀神話のアマテラス(天照大御神)は、大国主の御子の「天照国照彦天火明(あまてるくにてるひこあめのほあかり)」の名前から「天照」を、「阿遲鉏高日子根(あじすきたかひこね)」の別名の「迦毛大御神」から「大御神」をとり、「卑弥呼=大日留女命=大霊留女」の尊称名とし、実在した4人の女王を合体して創作された神である。
縄文からスサノオ・大国主時代へと続く祖先霊信仰は、仏教に引き継がれて、盆や正月などには迎え火・送り火の行事となり、灯籠流しや精霊流し、流し雛、おけら参り、大文字焼きなどの宗教行事として、今も各地で継承されている。
山車(だし)や屋台や御輿に家々の神棚や仏壇の祖先霊を乗せて神社に運び、祭神の霊とともに山上や海岸の御旅所に運び、祖先霊を天に送り、パワーアップした神を再び迎え、山車(だし)や御輿に移して再び社に迎え、さらに各集落の各家の神棚・仏壇に移す儀式もまた、霊(ひ)の再生儀式である。
この山車(だし)のルーツは、スサノオの御子の射楯神=五十猛(倭武)神と大国主を祀る姫路の総社に伝わる20年の一度の「三ツ山大祭」、60年に一度の「一ツ山大祭」の置き山にあり、この祭りは播磨国一宮の伊和神社から伝わり、さらにその前身は出雲大社の「青葉山(古事記のホムチワケが言葉を話せるようになった物語に登場)」であると私は考えている。
この祭では、全国の神々を巨大な「山」(竹で作り、布を巻いたもの)に迎え、総社に移して祀り、再び「山」から送り返す。栃木県那須烏山市の八雲神社の「山あげ祭」や仙北市角館町の「大置山」、高岡市二上射水神社などの「築山」も同じものである。篠山市の波々伯部(ほうかべ)神社で3年ごとに行われる「お山行事」の「キウリヤマ」は、姫路・総社の動かぬ「山」を台車の上に組んで曳くもので、山車や曳山、山鉾の原型であり、担ぎ山(御輿、山笠、屋台)はさらにその発展型である。
なお、私の両祖父母の家では、田の字型の間取りで、神棚は入ったところのおもて(居間)にあり、仏壇はその奥の座敷(客間)にあった。出雲大社神殿もまた同じ田の字型で、座敷にあたる正面に祖先神の「別天津神5柱:(天之御中主、高御産巣日、神産巣日、宇摩志阿斯訶備比古遅、天之常立)」を祀っている。この古事記に最初に登場する「別天津神5柱」が出雲大社に祀られていることは、この国の建国神話がスサノオ・大国主一族の伝承であることを示している。
この神(祖先霊)と同居する宗教思想は、出雲大社を原型とし、仏壇と神棚を家の中に置き、現代まで多くの家で引き継がれている。この祖先霊信仰は、縄文時代の大地からの黄泉帰り思想から、大国主の時代に魂魄分離の昇天降地思想に変わるものの、一方では、大国主一族は丹生産を支配して丹を使う葬送儀式を継続しており、両宗教思想を折衷している。
5 まとめ
以上、船(交易)、武器(軍事)、稲作(生産)、宗教(政:まつりごと)の4つから、縄文社会から断絶なしにスサノオ・大国主による古代国家建設に繋がることを明らかにしてきた。「弥生時代」や「弥生人征服史観」は考古学者・歴史学者が作り上げた幻想である。
これまで、4大古代文明が大河のほとりで大規模灌漑農業により成立したと考えられてきたが、もう1つの古代文明モデルとして、私たちは四大文明の周辺で発生し、西洋文明(民主主義)のルーツとなったギリシア文明を評価しなければならない。
わが国は、海洋交易小国のギリシアと同じように、海洋交易部族の対馬・壱岐の海人(天)族のスサノオ・大国主が、「米鉄交易」により「鉄器稲作革命」を指導して建国した「自立交易国家」であった。その建国神話は天皇家によって作り替えられ、戦後は架空の創作とされてきたが、ギリシア神話と同様に、史実を伝えているものとして、復権されなければならない。
「反韓・反中国」の排外主義が煽られている今こそ、アジア各地から様々な民族を受け入れて自立した発展を遂げた縄文社会と、そこから生まれた「海洋交易国」の古代国家建国史が見直されなければならない。最大貿易国のアメリカと戦い(それも天皇家の暗殺史を見習った奇襲作戦で)、いままた、再び、最大貿易国の中国との対立が煽られているが、これはこの国の歴史への裏切りである。
「拝外主義」の「模倣史観」と「排外主義」の「チャンバラ征服史観」、この2つがこの国の縄文から古代国家建設の歴史解釈をゆがめてきた。
中国文明の周辺にありながら、わが国独自の文化・技術・生産体制・宗教思想を発展させてきたギリシア文明型の海洋交易民の「自立交易史観」の確立が求められる。
2009年の『スサノオ・大国主の日国(ひなこく)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院:日向勤ペンネーム)とその後のブログ「神話探偵団」「邪馬台国探偵団」「帆人の古代史メモ」「霊(ひ)の国の古事記論」などをまとめたものです。
一部、三国史記新羅本紀や『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)の図などを追加するとともに、写真はパワーポイント「古代国家形成から見た縄文時代」で作成したものに差し替えています。 雛元昌弘
はじめに
全国各地で仕事をするうちにスサノオや大国主の伝承に出会い、この国はスサノオ・大国主一族により建国されたという仮説を立て、古事記を読むようになった。
2009年に『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』を書き、そのあらましは、『季刊 日本主義』18号(2012夏)に「『古事記』が指し示すスサノオ・大国主建国王朝」として紹介させていただいた。
古事記に書かれた神話時代の天皇家は16代であるのに対し、遣唐使は32代が筑紫城にいたと伝え、空白の「欠史16代」がある。一方、古事記にはスサノオ・大国主の16代の王が書かれ、初代から16代の天皇の年齢が二倍に水増しされている。
そこから、私は「別天神4代(5神:出雲大社神殿の正面に配祀)」+「神世7代」+「スサノオ・大国主7代」の王朝があり、「筑紫の日向(ヒナ)」(福岡県旧甘木市の蜷城:ヒナシロ、ヒナギ)には「大国主子孫九代+卑弥呼(オオヒルメ)+オシホミミ+ニニギ」が続き、それに薩摩半島の天皇家の祖先である笠沙2代が接ぎ木され、合計32代という建国フレームを考えた。
そして安本美典元産業能率大教授の天皇の即位年を統計的に分析する手法に従い、最少二乗法で計算し、スサノオが紀元60年頃、オミズヌが102年頃、大国主が122年頃、卑弥呼が225年頃と統計的に推測した。そしてこれらの推測結果は「委奴国王」「師升(すいしょう)」「大国主後継者争いの倭国の大乱」「卑弥呼」の記録年とほぼ重なることを明らかにした。
今回は、さらに、私の関心の高い船・武器・稲作・宗教の四つから、スサノオ・大国主の建国史を明らかにしたい。
1 縄文人は「狩人(山幸彦)」か「漁民(海幸彦)」か?
千歳空港でアイヌのイタオマチプ(板綴り船)を製作・展示していた秋辺得平氏(元北海道アイヌ協会副理事長)に偶然に話を聞くことができたが、彼は「アイヌは漁民である」と断言していた。アイヌが「熊ハンター」でないとしたら、「縄文人マンモス・ナウマン象ハンター論」は怪しくなる。
私は、秋にはサケが群れなす北海道や東北の川を見たことがあり、四万十川では「昔はアユの上を歩いて渡ることができた」と漁師から聞いた。私が仕事をした瀬戸内海の各地では、住民は夕方になるとバケツと釣り竿を持ち、岸壁に出かけて夕食のおかずを釣っていた。この国では、危険を冒して大型動物を狩らずとも、海の幸は豊富であった。各地の貝塚を見れば、縄文人は「海人(あま)」=「海幸彦」であったと認めなければならない。
若狭の鳥浜貝塚(12000~5000年前、縄文時代草創期~前期)では、丸木船や漆製品とともに、南方系のヤシの実やヒョウタン・リョクトウ・シソ・エゴマ・コウゾ属や、北方系のゴボウ・アサ・アブラナ類(カラシナ・カブ・ナタネ・ツケナ)が発見され、栽培農業が行われたことを示している。
特に注目したいのはヒョウタンで、その原生地は西アフリカのニジェール川流域である。ヒョウタンは軽くて運びやすく、水や食料の容器になる。ひょうたんに水を入れ、南の海の道を舟できた縄文人の一族がいたことを示している。
さらに、バイカル湖のカヌーとアイヌのヤラチプ、カナディアンカヌーが同じ構造の樹皮カヌーであり、丸木船の舷側に板を継ぎ足した古代船と、現代の沖縄のサバニとアイヌのイタオマチプが同じ構造であることにも注目したい。北からの縄文人もまた、舟を使って移住してきた可能性がある。北方野菜は真冬に凍結した海の上を歩いて縄文人が持ってきたというより、暖かい季節に舟で運ばれたと考えるべきであろう。
古田武彦氏は魏書東夷伝倭人条の「船旅1年」の裸国や黒歯国はアメリカ大陸の国という説を唱えたが(1977年『倭人も太平洋を渡った―コロンブス以前のアメリカ発見』:編著者C・L・ライリー 他、訳著者 古田武彦)、縄文土器と類似したエクアドルのバルディビア土器(約5500年前)やメラネシアのバヌアツ共和国の土器、米国各地の9000年前の頭蓋骨が日本の縄文人やアイヌ人、ポリネシア人の特徴を持っているとの研究、エクアドルに程近いアンデスのインディオ達のATLウイルス(世界で500万人のうち日本人が約100万人)が遺伝子配列から日本人と共通の祖先から枝分かれしたとの研究、アマゾンの約3500年前のインディアのミイラ体内から発見された寄生虫「ズビニ鉤虫」の卵が5℃以下で2年間暮らすと体内で死滅することからモンゴロイドが氷河期に凍りついたベーリング海峡を歩いて移住していないことなど、次々と縄文人太平洋横断説が裏付けられてきている。
愛媛県の八幡浜では、移民のために打瀬船で明治45(1912)年に5人の漁民が76日かけて太平洋を渡り、翌年には15名が58日かけて渡るなど、渡米は合計5回に及んでいる。岡山の日生の漁民は明治時代から打瀬船で朝鮮半島近海まで出漁し、舟の杉材は宮崎から運んできた。「米と味噌と水さえあれば漁民はどこまででも行く」と日生の郷土史家は話していた。
川合彦充氏は『日本人漂流記』で、江戸時代の日本船の太平洋での遠洋遭難記録は数百件あり、南北アメリカ大陸への漂着は八件と分析している。東日本大震災のがれきは一年でアメリカ東海岸に漂着した。
さらに「縄文人は海洋民族」の直接的な証拠は、黒曜石(神津島)や翡翠(氷見)、天然アスファルト(秋田・新潟)、イモガイ(沖縄)の全国各地への分布からも裏付けられる。
古事記には、イヤナギ(伊邪那岐=揖屋那岐)が黄泉の国の汚垢を濯ぎ流した時に、左目からアマテラス、右目から月読命、鼻からスサノオが生まれ、それぞれ高天原・夜・海原の統治を委任したとしている。スサノオは海原を支配し、月読命は「夜に月や星座の動きを読み、方位から海洋航海を指揮し、太陰暦を定めた王」の可能性が高い。中国の12か月を、季節に合わせて皐月=早月=5月(播磨国風土記)と言い換え、神事(国家行事)に合わせて神無月と命名したのは、外洋航海術と太陰暦を支配したスサノオ・大国主一族の可能性が高い。
昭和30年代になっても私の祖母は旧暦(太陰太陽暦)を使い、旧盆・旧正月などの行事を行い、田植えの時期を判断していた。潮の干満をよむ漁師にもまた、旧暦が根強く残っている。女性の生理が28日周期で、28日計算の「十月十日」、満月と新月の夜に出産が多いことからみても、縄文人や古代人は「星読み人」であった可能性は高い。
縄文人は巨獣ハンター、古代人は農民、という思いこみを捨て、漁民であり海洋交易民であった縄文人像・古代人像からこの国の歴史を見直す必要があると考える。
2 チャンバラ時代はなかった(武器論からみた縄文と青銅器・鉄器時代)
前から疑問に思っていたのは、日本の考古学が「石器→青銅器→鉄器」「漁労・狩猟・採取→農耕・牧畜」「非定住→定住」「部族社会→部族国家(都市国家)→古代国家」「母系制社会→父系制社会」「地母神信仰→祖先霊信仰(部族宗教)→絶対神信仰(世界宗教)」などの世界標準の時代区分モデルを使わずに、「旧石器→縄文→弥生→古墳」と時代区分する「石器―土器―土器―墓」のガラパゴス的モデルを使っていることである。
この「ドキドキハカ区分」ではなく「ドキン区分」にすべき、と私が考えたきっかけは武器論からである。アレクサンダー大王やシーザー、モンゴルの大遠征、信長の天下統一をみても、征服戦争には武器と戦法の大きな変革がある。もし、わが国に「遼寧式(満州式銅剣)銅剣時代」があったというなら、それに相応しい民族移動による征服戦争があったと見なければならないが、そのような痕跡は見られない。
これまで、わが国では、石器時代・縄文時代は弓矢と槍が主な武器で、弥生から古代には槍がなくなって銅剣チャンバラ時代になり、鎌倉時代から戦国時代にかけて、再度、槍が主要な武器になったとされてきた。各地の博物館の展示説明を見てびっくりするのは、弥生から古代にかけて、武器としての槍がほとんど展示されていないことである。
可能性としては、弥生から古代・平安にかけて「銅剣」を持った異民族がこの国を支配して石槍文化を滅ぼした、あるいは、これまで「石剣・銅剣・鉄剣」とされていたものほとんどは「石槍・銅槍・鉄槍」であった、かのどちらかである。
これまで「銅剣」とされてきたものは「中国の遼寧式(満州式)銅剣」を真似して作られたと説明されてきたが、写真を見ても判るとおり、1~2㎝の短い茎(なかご)に木製の柄を付けて武器にすることなどできない。こんな「へなちょこ剣」では、素振りすらできない。
「遼寧式銅剣」とされてきた穂先の途中には剣には不要なくびれがあることからみても、これは槍の穂先であり、写真のように、木あるいは竹の柄にくくりつけて使用したものである。刀を槍にする例は、短刀を槍にして戦った南北朝時代の「菊池槍」があり、現代も使われているマタギ刀がある。
わが国で見つかった「銅製武器」を「遼寧式銅剣」と見誤ったのは、わが国にはすぐれた技術・文化などあるはずがない、全て中国の模倣と思い込んだ「拝外主義」の「チャンバラ映画大好き」の考古学者・歴史学者の錯覚という以外にない。
あくまでこの「銅製武器」を「遼寧式銅剣」と言い張るなら、考古学者達は、実験考古学の手法により「銅剣」と「銅槍」を作成し、実戦的に模擬戦闘を行って証明すべきである。さらに、使い慣れた「遼寧式銅剣」を使って中四国地方を征服した王国があったことを、他の考古物や記録から証明して見せなければならない。
証拠がないというなら、日本人は「銅柄銅剣」を真似しないで、使い物にならない「柄なし銅剣」を真似たという「猿まね日本人説」を他の事例から論証して見せなければならない。そのような説には、私は「改良名人日本人説」で反撃したい。私たちの祖先は、重くて製造しにくい、円筒状の差し込み口に柄を入れる銅矛ではなく、木や竹の柄に穂先を差し込む軽くて使いやすい銅槍を製造したに違いないからである。
旧石器ねつ造事件どころではない。「柄なし銅剣説」は直ちに捨てなければならない。そうすれば、全く新しい歴史観が開けてくる。
第1は、縄文時代から金属器時代への移行を時代区分とする歴史観の確立である。弥生時代は不要である。
第2は、縄文時代からわが国では武器革命が起きておらず、遼東半島からきた「弥生人征服王朝」などなかったということである。「柄なし銅剣」とともに、「弥生人による縄文人征服説」は幻となる。
第3は、拝外主義の模倣歴史観、「猿まね日本人説」を根本から改めることである。独自の銅槍を創造しただけでなく、日本語読み漢字文(柿本人麿の簡略体)や万葉仮名を生み出したように、「独自の技術・文化を創造する日本人観」への転換である。
第4は、わが国における、「金属器稲作時代」の時代区分を認めることである。これは次節で述べたい。
第5は、長槍が野外集団戦に適した武器であることを認め、「チャンバラ歴史観」を改めることである。剣や刀は屋内戦に適した携行性に優れた防御あるいは暗殺用の武器であり、記紀の多くのチャンバラ物語は「だまし討ちの暗殺物語」であると認めなければならない。「チャンバラ征服王朝史観」がなければ、日露・太平洋戦争でのチャンバラ白兵戦主義=近接戦主義による多大な犠牲は防げたはずである。
天皇家の皇位継承のシンボルである「三種の神器」の一つが、スサノオがヤマタノオロチ王を暗殺して奪った銅剣であるという、暗殺剣による政権奪取という負の歴史を直視すべきである。
第6は、「八千矛神」の別名を持つ大国主こそ、銅槍・鉄槍時代の建国のリーダーであり、大穴牟遅神・大穴持命(おおあなもち)の別名は、文字どおり鉱山所有者の名前の可能性があることである。荒神谷遺跡から銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が、加茂岩倉遺跡から銅鐸39個が出土したことは、大国主が銅槍・銅鐸圏(大国主と大物主の国)を統合したことを示している。
第7は、弓矢と槍が殺人武器である前に、狩猟道具であったことを認めることである。縄文時代から栽培農業には、鳥獣害対策に弓矢と槍は欠かせない道具であった。今でも、山村や農村では、猪や鹿、野鳥を防ぎ、狩りをしない限り、栽培農業は困難である。
天皇家の直接の祖先は「毛のあら物、毛の柔物を取る」山幸彦=猟師とされ、播磨国風土記によれば、品太天皇(応神天皇)は播磨各地で狩りを行っている。兵士のルーツは狩人であり、古事記は山幸彦の孫の若御毛沼命(後に神武天皇と称される)の一族が武装兵(傭兵)として、豊・筑紫・安芸・吉備・大和の各地で王に仕え、その10代目が大和の磯城王(大物主の子孫)の権力を奪ったという歴史を正確に伝えていると私は考えている。
以上、武器論から見る限り、縄文時代の次は金属器時代であり、その金属器時代を切り開いたのはスサノオ・大国主一族である。
3 水田稲作革命はスサノオ・大国主一族が鉄先鋤で広めた
「稲作とともに弥生式土器が始まった」という言い方は、稲作開始が5~7千年前頃の岡山県のいくつかの縄文遺跡で発見されていることから、もはや成立しない。稲作とは無関係にずっと遅れて弥生式土器(覆い焼きという技術革新)は生まれている。
私は縄文時代の終焉は、石器稲作(縄文式稲作)から鉄器稲作(開墾・水利耕作)への稲作技術革命に置くべきと考えている。
播磨国風土記の讃容郡には「(大神の)妹玉津日女命、生ける鹿を捕って臥せ、その腹を割いて、稲をその血に種いた。よりて、一夜の間に苗が生えたので、取って植えさせた。大国主命は、『お前はなぜ五月の夜に植えたのか』と言って、他の所に去った」という記載があり、賀毛郡雲潤(うるみ)里には「大水神・・・『吾は宍の血を以て佃(田を作る)る。故、河の水を欲しない』と辞して言った。その時、丹津日子、『この神、河を掘ることにあきて、そう言ったのであろう』と述べた」と書かれている。
これらの記述によれば、鹿や猪の血で籾を発芽させ、成長させるという、地神(地母神)宗教の黄泉帰り思想の縄文式稲作に対して、大国主一族は、暦を作って苗づくりの時期を定め、田植え時期を遅らせてウンカの害を防ぎ、鉄先鋤で原野を開拓し、大がかりな灌漑土木工事を行って水田面積を拡大した鉄器稲作革命の推進者であった。
大国主は出雲国風土記では「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」と呼ばれ、その180人の御子の一人は阿遅鉏高日子根(アジスキタカヒコネ)で「鉏(すき)」の名前を付けています。彼らは鉄先鋤(スコップ)を全国に広め、水路や新田開発を指導したからこそ、日本書紀の一書(第六)は、大国主と少彦名が「力をあわせ、心を一つにして、天下を経営す」「動植物の病や虫害・鳥獣の害を払う方法を定め」「百姓(おおみたから)、今にいたるまで、恩頼を蒙(こうむ)る」と伝え、その国を「豊葦原(とよあしはら)の千秋長五百秋(ちあきのながいほあき)の水穂国(みずほのくに)」と呼んだのである。
大国主の妻の宗形大神奥津島比売命が迦毛大御神(アジスキタカヒコネ)を生んだとされる託賀郡に隣接する丹波は、もともと「丹のうみ」と呼ばれていたが、大国主が京都への水路を切り開いて開拓したと伝えられている。
新羅(当時は辰韓又は弁辰。後の加羅)で鉄を求めたスサノオ・大国主一族は、米と鉄を交易し、鉄器農具を普及して水利水田耕作の拡大を各地で促し、飛躍的に生産量が増えた米を輸出し、さらに鉄器の輸入を増やすという循環的な拡大再生産構造を支配し、古代統一国家を建設したと私は考えている。
寒冷期に入った当時、朝鮮半島では食料事情が悪化し、三国史記新羅本紀によれば紀元59年に4代の新羅王には倭人の脱解(タレ)がなり、倭国と国交を結んだのは、倭国の米を必要としていたことによることが明らかである。その時の倭国王がスサノオであることは、イヤナギから「海を支配せよ」と命じられ、日本書紀の一書(第四)には新羅に渡ったと書かれ、対馬などにその伝承が残るとともに、古代王の即位年の推計によりスサノオの即位年が紀元60年であることからみて、スサノオ以外には考えられない。
なお新羅との国交の2年前の紀元57年に後漢光武帝に使いを送り、「漢委奴国王」の金印を与えれた委奴国王もまたスサノオとみて間違いないと考える。
この米鉄交易は、対海国(対馬)と一大国(壱岐)の人々が「乗船南北市糴(してき:交易)」したと魏書東夷伝倭人条に書かれていることからも裏付けられる。「糴(てき)」は、「入+米+翟」で、「翟(てき)」は雉(「羽+隹」)で、「隹(すい)」は鳥を表している。
「糴(てき)」は「鳥をシンボルとする異民族(てき)から米が入る」という漢字であり、魏書東夷伝辰韓(弁辰)条の「国、鉄を出す、韓・シ歳・倭皆従いてこれを取る。諸市買、皆鉄を用いる」という記述を受けて書かれたものである。3世紀になると「従いてこれを採る」という国同士の管理貿易と、「市買う」の市場取引の2ルート(前者は出雲・美和連合の70余国、後者は筑紫30国)で鉄の交易が行われていたことを示している。
辰韓(弁辰)条などの「市買」や、倭人条の「市」「交易」という表現を使わず、わざわざ「市糴」の漢字を当てたのは、実際に米交易が行われていた証拠である。
日本書紀には、スサノオは子の五十猛神(イタケル神:倭武=ヤマトタケルの名前は彼から取ったと考えられる)と新羅に下り、ソシモリに居たが、「この国にはいたくない」と言って土(鎚)で船を作って帰り、五十猛神は多くの樹種を持って行ったが、韓地に植えずに持ち帰り、筑紫から各地に植えて青山にしたと書かれている。この記述は、製鉄燃料のために木々を伐採して韓地の山が荒れ、洪水によってたびたび米不足に陥っていた可能性とともに、スサノオは製鉄技術を手に入れ、韓地に留まる必要がなくなった可能性も考えられる。
百余国の部族国家(初期都市国家=城=き)を統一したのは大国主であり、それは米・鉄貿易による米作技術革命による立国であった。それは、日本書紀の一書(第六)で、大国主と少彦名が力を合わせて天下を経営し、鳥獣・昆虫害を払い、百姓から今も恩頼りにされているとした記述からも裏付けられる。大国主が米俵に乗った像は、後世の創作ではない。「八千矛神」の別名は、彼らが青銅と鉄の槍と鏃で、鳥獣を一斉に駆除する一族でもあったことを伝えている。
古事記によれば大国主は「島の埼埼 磯の埼」に多くの「若草の妻」を持つと歌われ、「出雲、因幡、越、宗像、播磨、丹波」など百余国に妻を持ち、180人(日本書紀は181人)の御子をもうけたとされている。これは武力征服による略奪婚ではなく、縄文から続く母系制社会の妻問夫招婚であることは、播磨国風土記の妹玉津日女命の記述からも裏付けられる。
武力征服戦争ではなく、鉄器と暦普及による米作革命(水利耕作と害虫対策、鳥獣駆除)と妻問夫招婚によってスサノオ・大国主命一族が古代統一国家を形成できたのは、縄文から続く母系制社会のもとですでに各地に部族国家(都市国家=環壕に囲まれた城)が成立し、イモや豆、雑穀や陸稲の栽培農業が行われていたからに他ならない。
大国主は、毎年、神在月に出雲に御子達とその王子・王女を集め、「火継ぎ(霊継ぎ)」の祖先霊信仰(御霊=御魂信仰)を行うとともに「縁結び」で同族の結束を深め、古代統一国家を形成した。漢に学び月を読んで共通の暦を定めないかぎり、そのような統一行動ができないことは言うまでもない。
この古代国家統一は、対馬・壱岐の「海人(天:あま)族」=交易部族が、「土地山険、多深林」の対馬の弓槍の名手である「狩人」と協力して鉄・米交易によって行ったものである。後の記紀神話の「山幸彦」が「海幸彦」を屈服させる物語は、このスサノオ・大国主王朝の後に薩摩半島の笠沙では「海人(あま:海幸彦、隼人)と「山人(やまと:山幸彦)の対立があった、と私は考えている。
縄文人=被征服者、弥生人=征服者=稲作・弥生土器普及者という「征服史観」はフィクションであり、弥生式土器で時代を区分する「弥生時代」はもはや不要である。
縄文から弥生への「渡来人征服史観」から、縄文人を主体とした「鉄米交易立国史観・鉄器稲作史観・妻問史観」への転換が求められる。「遅れた日本:進んだ中国・アメリカ」という図式から一貫して抜けきれない拝外主義の「外発的発展論」=「グローバライゼーション」から、自立交易主義の「内発的発展論」への歴史観の変革が行われなければならない。
4 黄泉帰りの「地神(地母神)信仰」「海神信仰」から「天神信仰」への宗教改革
昭和21年生まれの私は、田舎に行くと、まず仏壇のご先祖に挨拶させられ、朝には仏壇と神棚のご先祖に炊き立ての御飯を供え、お盆・正月には墓詣に行って提灯の火に御先祖の霊を移して仏壇まで持って帰り、賀茂神社ではご先祖を祀っていると拝まされた。仏教も神道も縄文時代からの祖先霊信仰のまんまであった。これでは、唯一絶対神を信仰する世界宗教はこの国では根付きようがなかったといえよう。
縄文人は、植物が枯れて大地に戻り再生するのと同じように、人も大地(黄泉の国)に帰り、再生すると考える「地母神」「地神」信仰であり、死者の霊(ひ)が宿るとされた土偶や鏡は、破壊されて大地に帰され、黄泉帰ることが期待された。「初期胎児形」をした勾玉もまた霊(ひ)が宿ると考えられ、再生のためにそのまま埋められた。死んだ幼児が壺に入れられ、竪穴式住居の入口に埋められたのは、子供の霊(ひ)が大地の壺(子宮と考えられていた)に戻され、その上をまたぐ母親の胎内に再生すると信じられていたことを示している。
この国が「霊(ひ)の国」であったことは、『季刊 日本主義』18号で紹介したように、記紀で「霊(ひ)を産む」夫婦神、「二霊群品の祖」として「高御産巣日=高皇産霊(タカミムスヒ)」「神産巣日神=神皇産霊尊(カミムスヒ)」として登場することや、「霊人(人)」「霊女(姫)」「霊子(彦)」「卑弥呼(霊御子=霊巫女)」「大霊留女」「霊継ぎ(棺・柩)」「霊知り(聖)」「霊人()」の名称、スサノオ・アマテルの「ウケヒ(受け霊)」による後継者争い、性器を「ひー」「ひーな」「吉舌・雛尖・雛先(ひなさき)」と呼び、妊娠を出雲では「霊(ひ)が留まらしゃった」、流産を茨城では「ひがえり」と呼び、「神奈備山=神名火山=神那霊(かんなび)山」や「神籬(ひもろぎ)=霊(ひ)漏ろ木」から天に昇り、再び降臨すると、古代から現代まで引き継がれていることから裏付けられる。
さらに、甕棺や木棺、石棺の遺体を丹(水銀朱、ベンガラ)で赤く染めたのは、子宮の血の中で遺体が再生すると考えていたからである。そして、播磨国風土記逸文によれば、爾保都(にほつ)比売=丹生都比売は大国主の子供とされており、神戸市北区の丹生山の丹生(にぶ)神社を始め、丹生産に携わる一族によって全国の約180社に祀られている。魏志東夷伝倭人条にも登場する水銀朱の生産を支配したのは大国主一族であった。
前述の、鹿や猪の血で稲の発芽や生長を促すという稲作の方法は、子宮の血の中で霊(ひ)が再生するという同じ黄泉帰り思想を示している。
イヤナミ・イヤナギ(伊邪那岐神・伊邪那美神)神話では、イヤナギは「黄泉国」のイヤナミを追ってゆき、黄泉醜女と黄泉軍に追われて黄泉比良坂(出雲国の伊賦夜坂:東出雲町揖屋町の伊布夜社=揖夜神社)から地上に逃げたとされているのは、黄泉帰り宗教を示している。
イヤナギがカグツチを殺した時、その血から八神、死体から8神が生まれ、スサノオが大気津比売神を殺した時に死体から5穀(稲・粟・小豆・麦・大豆)と蚕が生まれ、イヤナギが川で禊ぎを行い、左目を洗ってアマテラスが、右目から月読命、鼻からスサノオが生まれたというのもまた、黄泉国の汚垢から神が生まれるという黄泉帰り思想であった。
ところが、スサノオ7代目の大国主は、国譲り(大国主の180人の御子の後継者争い)において、「住所(すみか)」「天の御巣」「天の御舎」「天日隅宮(筆者説:天霊住宮)」を建て、「神事を治める」「幽(かくれたる)事治める」ことを条件としており、古代には48mの高さの出雲大社が建設され、年に1度、十月十日の神在月(他の国では神無月)に八百万神が集まり、180人の御子やその一族の縁結びを行ったとされており、この頃に王の墓が小高い小山の上に築かれ、霊継(ひつぎ)の神事によって王位継承が行われるようになっており、中国から魂魄の分離思想がつたわり、死体(魄)は墓に葬られ、死者の魂(霊:ひ)は神那霊山(神奈火山、甘南備山)から天に昇るとする「天神宗教」が生まれている。
吉野ヶ里遺跡の鳥居や屋根の上に鳥の置物が置かれているのは、死者の霊(ひ)を天上に運ぶのは鳥と考えられていたことを示している。大国主を国譲りさせた天日名鳥命(天夷鳥命=武日照命:大国主命の筑紫でもうけた天穂日神の子)や、大国主命の子の鳥耳神、大雀命(後の仁徳天皇)などの名前は、霊(ひ)を運ぶ鳥信仰を示している。
675年、天武天皇が農耕期間の4月から9月の間、牛、馬、犬、サル、鶏を食べることを禁止したのもまた、犬、サル、鶏は、霊(ひ)を運ぶ神聖な動物と考えていたことを示している。狼を「オオカミ=大神」と言い、石上神宮で鶏を、日吉大社で猿を神の使いとしていることが、それを裏付けている。さらに桃太郎伝説は、鬼(他部族の祖先霊)と戦うために、犬、サル、鶏に祖先霊を運ばせて戦ったことを伝えている。
魏書東夷伝は、馬韓国(後の百済)や弁辰国(弁韓、後の任那・加羅)では「大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神に事(つか)える」という鬼神信仰が行われ、倭国では鬼道が行われていたとしている。わが国だけ「鬼道」としたのは、この国が、孔子が「道が行われなければ、筏に乗って海に浮かぼう」「九夷に住みたい」と願った「道」の国であったからに他ならない(王勇著『中国史の中の日本像』)。
この「魏」は「委+鬼」であり、「鬼」は頭蓋骨や仮面をかぶった人とされている。「委」は「禾(のぎ:稲)+女」で女性が稲を掲げた様子を表しており、「魏」は女性が鬼(祖先霊)に稲を捧げることを表した漢字である。
「卑弥呼(霊巫女)」が祖先霊(大国主)を祀り、もと百余国であった倭国の1/3の北九州の30国を再統一して使いをよこした(臣下になった)ということは、三国で覇権を争っていた魏の曹操の一族にとっては、これとない吉兆であったに違いない。
その魏皇帝が卑弥呼に百本の鉄刀ではなく百枚の鏡や絹織物、口紅用の鉛丹を与えたのは、30国が男王国ではなく女王国であったことを示している。
鏡は化粧道具として、さらには持ち主の霊(ひ)を宿す神器として、「鬼道」の霊(ひ)の国の支配秩序を強化するために付与したものであり、全部が同じ鏡ということは絶対にありえない。卑弥呼には鉄鏡、30国の女王と官・副官に対しては銅鏡と4ランクに分けた鏡を付与したに違いない。100枚全てを同じ三角縁神獣鏡とする説は「平等幻想説」という以外にない。
皇帝を表す龍を彫った鉄鏡は玉(印や壁)と以上の曹操一族のシンボルであったが、その「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が日田市(甘木=天城のすぐ隣り)から発見されている。この鉄鏡は、邪馬壱国の位置を決める決定打である。
アマテラス(大霊留女)神話に鉄鏡製作がでてくることは、この卑弥呼の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を真似て、その死後に鉄鏡が作られたという史実があったと見て間違いない。この記紀神話の鉄鏡は、卑弥呼の鉄鏡伝承を元にアマテラス神話が作られたことを示している。
漢皇帝の金印とガラス璧、「漢委奴国王」と魏皇帝の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を結ぶ皇帝ライン上に邪馬壹国はあり、それは記紀が示す高天原の所在地「筑紫の日向(ひな)の橘の小門の阿波岐原」の「甘木の蜷城(ひなしろ)」に邪馬壹国があったことを示している。
卑弥呼はスサノオから16代目、大国主から10代目の邪馬壹国の王であり、鬼道、即ちスサノオ・大国主信仰により、大国主の百余国のうちの「倭国の大乱」で分裂した北部九州の30国を再統一したものである。これは周王朝の後継者として漢の再統一を図ろうとした曹操一族の姿とピッタリと重なる。
一方、天皇家に伝わる「三種の神器」の鏡は銅鏡であり、天皇家が明治まで伊勢神宮に詣でず、皇居にアマテラスを祀っていないことは、天皇家はアマテラスの霊(ひ)を受け継いだ子孫ではないことを証明している。記紀神話のアマテラス(天照大御神)は、大国主の御子の「天照国照彦天火明(あまてるくにてるひこあめのほあかり)」の名前から「天照」を、「阿遲鉏高日子根(あじすきたかひこね)」の別名の「迦毛大御神」から「大御神」をとり、「卑弥呼=大日留女命=大霊留女」の尊称名とし、実在した4人の女王を合体して創作された神である。
縄文からスサノオ・大国主時代へと続く祖先霊信仰は、仏教に引き継がれて、盆や正月などには迎え火・送り火の行事となり、灯籠流しや精霊流し、流し雛、おけら参り、大文字焼きなどの宗教行事として、今も各地で継承されている。
山車(だし)や屋台や御輿に家々の神棚や仏壇の祖先霊を乗せて神社に運び、祭神の霊とともに山上や海岸の御旅所に運び、祖先霊を天に送り、パワーアップした神を再び迎え、山車(だし)や御輿に移して再び社に迎え、さらに各集落の各家の神棚・仏壇に移す儀式もまた、霊(ひ)の再生儀式である。
この山車(だし)のルーツは、スサノオの御子の射楯神=五十猛(倭武)神と大国主を祀る姫路の総社に伝わる20年の一度の「三ツ山大祭」、60年に一度の「一ツ山大祭」の置き山にあり、この祭りは播磨国一宮の伊和神社から伝わり、さらにその前身は出雲大社の「青葉山(古事記のホムチワケが言葉を話せるようになった物語に登場)」であると私は考えている。
この祭では、全国の神々を巨大な「山」(竹で作り、布を巻いたもの)に迎え、総社に移して祀り、再び「山」から送り返す。栃木県那須烏山市の八雲神社の「山あげ祭」や仙北市角館町の「大置山」、高岡市二上射水神社などの「築山」も同じものである。篠山市の波々伯部(ほうかべ)神社で3年ごとに行われる「お山行事」の「キウリヤマ」は、姫路・総社の動かぬ「山」を台車の上に組んで曳くもので、山車や曳山、山鉾の原型であり、担ぎ山(御輿、山笠、屋台)はさらにその発展型である。
なお、私の両祖父母の家では、田の字型の間取りで、神棚は入ったところのおもて(居間)にあり、仏壇はその奥の座敷(客間)にあった。出雲大社神殿もまた同じ田の字型で、座敷にあたる正面に祖先神の「別天津神5柱:(天之御中主、高御産巣日、神産巣日、宇摩志阿斯訶備比古遅、天之常立)」を祀っている。この古事記に最初に登場する「別天津神5柱」が出雲大社に祀られていることは、この国の建国神話がスサノオ・大国主一族の伝承であることを示している。
この神(祖先霊)と同居する宗教思想は、出雲大社を原型とし、仏壇と神棚を家の中に置き、現代まで多くの家で引き継がれている。この祖先霊信仰は、縄文時代の大地からの黄泉帰り思想から、大国主の時代に魂魄分離の昇天降地思想に変わるものの、一方では、大国主一族は丹生産を支配して丹を使う葬送儀式を継続しており、両宗教思想を折衷している。
5 まとめ
以上、船(交易)、武器(軍事)、稲作(生産)、宗教(政:まつりごと)の4つから、縄文社会から断絶なしにスサノオ・大国主による古代国家建設に繋がることを明らかにしてきた。「弥生時代」や「弥生人征服史観」は考古学者・歴史学者が作り上げた幻想である。
これまで、4大古代文明が大河のほとりで大規模灌漑農業により成立したと考えられてきたが、もう1つの古代文明モデルとして、私たちは四大文明の周辺で発生し、西洋文明(民主主義)のルーツとなったギリシア文明を評価しなければならない。
わが国は、海洋交易小国のギリシアと同じように、海洋交易部族の対馬・壱岐の海人(天)族のスサノオ・大国主が、「米鉄交易」により「鉄器稲作革命」を指導して建国した「自立交易国家」であった。その建国神話は天皇家によって作り替えられ、戦後は架空の創作とされてきたが、ギリシア神話と同様に、史実を伝えているものとして、復権されなければならない。
「反韓・反中国」の排外主義が煽られている今こそ、アジア各地から様々な民族を受け入れて自立した発展を遂げた縄文社会と、そこから生まれた「海洋交易国」の古代国家建国史が見直されなければならない。最大貿易国のアメリカと戦い(それも天皇家の暗殺史を見習った奇襲作戦で)、いままた、再び、最大貿易国の中国との対立が煽られているが、これはこの国の歴史への裏切りである。
「拝外主義」の「模倣史観」と「排外主義」の「チャンバラ征服史観」、この2つがこの国の縄文から古代国家建設の歴史解釈をゆがめてきた。
中国文明の周辺にありながら、わが国独自の文化・技術・生産体制・宗教思想を発展させてきたギリシア文明型の海洋交易民の「自立交易史観」の確立が求められる。