爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

礼儀を忘れない

2022-02-17 04:45:36 | 日記
彼はお弟子さんたちと、カラオケをして楽しむのが、大きな生き甲斐である。

プロの歌を聞くよりは、素人同士がちょっと下手に歌い合う方が、よっぽど楽しいらしく、うきうきしてしまうとか。

ただし、その時には一つの決まり事がある。

友だちが歌っているのを聞かないで、べらべら喋っている者からは、千円の罰金を取るのだ。

歌が上手ならともかく、あまり得意でない人が、小さな声で恐る恐る遠慮しているのに、タバコを吹かしながら、お菓子を片手に、大声でべらべらと喋り回り、時々下品に笑いこけてる奴は許さんッと。

どんなに音痴な歌でも、みんなで手を打って身を乗り出して聞いて差し上げ、終わったら大拍手をしてやる…。

これが「仁」のカラオケだ。

「仁・礼」の行いを、改まった場所でだけ形式的にするのは、一体何の徳になるであろう。

「仁・礼」の行為は、いつでもどこでもだ。

「人にして不仁ならば、楽を如何にせん」ーー人は無礼になると、手を繋いで悩みの無い人生を、楽しく送れなくなってしまう。

礼の作法というのは、決してお茶室の中で行っている様な、厳格な作法ばかりではない。

正しい作法も大事だが、礼の要点は人を敬する心である。

礼のキチンとした作法をなぜ習得するかというと、普段の生活の中で常に人を敬う心が、実修出来る様にする為である。

大事なのは日常だ。

普段の生活の中では、あまり仰々しい作法を受けるよりは、笑顔の中で明るい挨拶を受けた方がよい。

敬する心が無いのに、大袈裟な形だけの礼を受けたら、逃げ出したくなる。




見えないものを信じる

2022-02-15 19:45:05 | 日記
いくら自分の生命活動の一切が、宇宙の生成力(天徳)に依るものだという事を、頭の中では分かっていても、その本当の価値をしみじみと知る事は、難しい。

天徳の活動力は、全宇宙に広がっている偉大なる生命力であるから、なかなかその一端さえ感知する事が出来ない。

ただ唯一有り難い事は、そんな偉大な力が私個人の中にも、有るという事なのだ。

天徳とは、まさに遠くに有って近くに有る。

最近になって、人が宇宙の生成力に依って生きている事が、遺伝子の科学的研究に依って、はっきり分かったのである。

今までは常識や現代科学で理解出来ない事は、一切無いと思っていたが、現代科学でも目に見えない、宇宙の偉大なる生成力に、頭を下げざるを得なくなった。

今こそ天に向かって「ありがとう」「お陰さまです」とお礼を申し上げあげるべき時がきた。

「我を約するに、礼を以てなす」ー孔子は宇宙に対して礼を尽くせば、自分と宇宙の慈悲深い生成力とが、必ず結ばれると説く。

村上和雄先生が「スイッチオンの生き方」(致知出版社)で、こう述べられている。

「人間の身体は、水素、酸素、窒素など、色々な元素に依って出来上がっています。

それらの元素は全て、地球上に有るものです。

という事は、私たちの身体は地球上の元素を借りて、成り立っていると言えると思います。(注力)

地球に有る元素は、何処から来たのかと言うと、宇宙から来ています。

だから私たちの身体は、元は宇宙から来ているのです」

貴方の生命は、いま宇宙の進化のトップに生きている。



マイペースで生きる

2022-02-14 09:52:01 | 日記
どんな事でも慣れると、少しずつ落ち着くものだ。

貧乏も長い間続いていると、落ち着きそうなものだが、貧乏だけは慣れれば慣れるほど、倦き倦きしてしまうものだ。

その上に貧乏が劣等感を植え付け、心がひねくれてくる。

何とかこんな惨めな貧乏生活から、抜け出したいと、いつでも念じるようになる。

孔子の弟子は三千人と言われる、そのうち優秀な修行者が七十二人いた。

中でも、孔子の正当な弟子として認められていたのは、たった一人の顔回という人であった。

顔回の生活ぶりは「一箪の食、一瓢の飲。陋巷(ろうこう)に在り…」であった。

顔回は一わんの飯と、ひさご一杯の汁をすすり、狭い路地裏で生活していた。

そこに住む多くの人は、その苦労に耐えきれないで、暗い顔を向き合わせて、文句ばかり言い合っていた。

顔回一人は貧しい生活の中に、人間が徳の世界に生きる真の価値を、一途に発覚させていた。

孔子は顔回を、最高の弟子とした。

貧しさ…それは誰もが嫌う処であるが、自分がいかに努力しても、時の流れで誰もが貧しくなる事もある。

経済の流れが鈍化してくると、仕事が少なくなって、暇が出来るという事もあろう。

その暇をうまく使って、趣味に生きる。

座禅でも組んで、修養に努め自己の養生を楽しむ。

孔子は「貧しくして、道を楽しむ」(学而)と言っている。

貧乏になっても、慌てる事はない。

自己完成に励もう。





お先にどうぞ

2022-02-13 13:54:36 | 日記
自分の目標に早く到達しようとが、なかなか思う様に事が進んでいかない。

すると後ろから、先輩や友人や後輩たちが、追いかけてくる。

「うーむ、抜かれてなるものか」と、足を伸ばしスピードを上げても、平気で後ろから着いてくる。

足が疲れた、腰が痛い…と思っても、休む事が出来ない。

抜かれてはいけない、追い越されてはいけないという考えで、心の中がのっぴきならない大きな恐怖で、埋もれてしまう。

不安が日毎に募る。

不安は心の敵だっ…と思って、不安という敵と争っているうちに、どんどん不安のルツボに落ちていく。

こんな不安を消すのは、実は簡単なのだ。

「お先にどうぞ」と、人に道を譲ってやればいい。
自分は後からでいい。

自分はゆっくり落ち着いて、のんびりいこう。

「己れを達せんと欲して人を達す」と孔子はいっている。

速い事がいいといって、速度を競争するから不安が募る。

若い頃に、せっかちで短気な私は、バスに乗るにしても、電車に乗るにしても、まずわれ先に飛び込んでいた。

「われ先」に素早く…。

何処にいてもそう考えて、落ち着きがなく生活をしていた。

年を取るにつれて、まあ座禅でも組んでいたからでもあろうが、「われ先」の心の在りようが、つくづく嫌になった。

嫌になったが、心は治らない。

「どうぞ、お先に」…。

エレベーターに乗る時など、気に掛けてこの言葉を発した。

今も実践している。

おかげで今日では競争心がすっかり無くなった。





カッとしない

2022-02-11 08:43:47 | 日記
一旦は自分の心にフッと思いが浮かぶと、もうその通りにしないと我慢しきれなくなって、なりふり構わず暴走して、折角の幸福な人生を台無しにしてしまう。

これが自由というものの、最も危険な点である。

いや自由じゆうと、自由を過大に認められて、教育されてしまった人の不憫な処である。

他人が自分に、ちょっと不快な事をする。

よく思えば何ら恐ろしい事では無いのに、すぐカーッときて、相手に失礼な言葉を見境なく浴びせてしまう。

その相手が親友であっても、愛すべき妻であっても…。

言論は自由がよいが、常に相手とぶつかって発火しない様に、お互いが軌道を守ってこそ、宇宙の心を持った「徳人」と言える。

人は考える。

では、考えるメカニズムとは何か。

良いか悪いか、プラスかマイナスかを検討して、良い面のプラスの事を選別して執る。

人は良い方のプラスの法を執りながら、成長して行く。

この「考える」行為は、人にしか出来ない貴重なものだが、人は一人の考えだけでは生きて行けない。

時には、他人の強烈な考えに介入されて、相手から支配され、恐怖のうちに制御される事だろう。

人の考えは、人を自由にし成長させるが、一方で人を制圧する過ちを犯す。

「本立ちて道生ず」

宇宙・自然の自律的な生命は、トラブルやパニックを起こさない。