調べてみると、ここには2008年5月17日に行っている。
2011年の紀伊半島大水害の前で、山の木々が伐採されたばかりで、石畳の古道が剥き出しに見えていました。
これが、今日の「髪梳地蔵」
下が2008年撮影のもの
周りの木々が大きくなっているのがわかります。
今のお地蔵さんの後ろには桜があります。(クマノザクラかな?)
2008年のお地蔵さん。顔が新しく付け替えられているように見えます。
現在のお地蔵さん
現在の一の水峠
下は、2008年のもの峠が明るかったようです。
瀬戸側からみると、こんな感じで苔がいっぱい。
一輪のすみれ。
今も瀬戸の集落が見えますが、段々の田んぼは、ほとんど耕作放棄地になっているようですね。
先日の赤倉街道のウォーキングで、ここの話が出たので久しぶりに行きたいと思い立ち、13年ぶりに伺いました。
2008年の記録は、
現在のお地蔵さん
現在の一の水峠
下は、2008年のもの峠が明るかったようです。
瀬戸側からみると、こんな感じで苔がいっぱい。
一輪のすみれ。
今も瀬戸の集落が見えますが、段々の田んぼは、ほとんど耕作放棄地になっているようですね。
先日の赤倉街道のウォーキングで、ここの話が出たので久しぶりに行きたいと思い立ち、13年ぶりに伺いました。
2008年の記録は、
当時、調べて細かく書いていました。
熊野市井戸町から神川町へ抜ける県道34号を走って行くと、途中にある製材所の手前に県営林道一の水線があります。この林道は舗装されていて熊野市育生町赤倉へと行くことが出来る道になっています。林道を走ると峠には「一の水トンネル(全長487m、巾4m、高さ4.5m)」が掘られています。(1990年9月)
しかし、このトンネルが掘られる前の、1815年(文化12年)に、旅人の安全を願って道路を石畳に改修しています。ここは熊野古道の一つです。
一之水峠の「道路供養塔」は熊野市指定文化財 民俗文化財 有形民族文化材に指定されており、道路供養塔の説明看板には「この供養塔は、文化12年(1815)赤倉村榎本利兵衛門らが本宮街道沿の尾川村田本辰右衛門 粉所村南孫一郎 同村吉田与左衛門 平谷村大井沢右衛門が力を合せ、赤倉側の橋の谷から峠までの道路を石畳に改修し、旅人の安全を願って立てたものです。道端には道標 地蔵が多く立っていますが、このように古くて特殊な石造品はこの地方では大変珍しく、庶民文化を知る貴重な作例であります。指定 平成4年2月28日 熊野市教育委員会」と書かれています。
また一の水峠にある「髪梳地蔵」には悲恋物語が残っています。
昔、瀬戸の青年と池川の娘が、丁度中間地点となる一の水峠で度々会っていました。ある日、青年が村の山刈りで遅くなり、峠で待っていた娘は木に登って青年を待っていたそうです。木の上で娘が髪を梳くために櫛を口へくわえたところに、鉄砲撃ちが通りかかり、ふと木の上を見上げたとき髪を梳く娘を化け物(妖怪)と思い撃ってしまいました。哀れに思った瀬戸と池川の村人は、そこに地蔵を建てたといわれています。
今でも瀬戸の村(熊野市井戸町瀬戸)を見守るように、お地蔵様は立っています。その後ろには紅葉の古木が1本立っており、秋には赤く染まるようです。