暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

城原城跡(滑川町)

2019-02-23 14:28:32 | 城館跡探訪
本日は、滑川町にある城原城跡を再訪記録について書きたいと思います。

調査日は2019.01.23です。

わたしが熊谷市外の城館跡で、初めて訪ねたのが城原城跡でした。

時は、1984年でした。



当時はフィルムカメラの時代で、丘城、山城を見るポイントもわからなかったので、

酷い写真でした。

さて、城原城は森林公園南口近くの山田地区にあります。

近くに、山田下集会場というのがあるので、そこに車を止めさせていただきます。



山田下集会場は小さな山の脇にありますが、その山が城原城跡です。

問題は登る場所なのですが、通りがかりの燃料屋さんに尋ねたとこと、表通り沿いに行って尋ねた方がよいとのこと

だったので、山の裏側に回り込んでしまいたい誘惑を抑えつつ表通りを歩きます。

立派な屋敷神の祠をお祀りしているお宅の方が、庭木の枝打ちをしていたので、思い切って城原城について尋ねました。

城原城は、地元でも知られていない謎の城として有名です。

84年の時と同じように、「城ならば森林公園内の山田城跡のことではないか?」とのことでした。

一応手持ちの地図で所番地を示して尋ねますと、「この裏山に相違ないだろうが、城があったなんて聞いたこともない」

とのことです。

「申し訳ないが、山に登らせていただけないか」とお願いすると、快く、OKしてくれました。

「うちの隣のうちが、裏山の半分をもっている大地主だから、隣のうちにも話を聞いてみるとよい」と

アドバイスもいただきました。

わたしは、祠の後ろにある道を通らせていただきました。



84年時は初夏だったせいで、やぶだった印象しかありませんが、改めてきてみると、よく利用されているようで綺麗です。



念のため中腹で遺構を探します。堀のような痕跡もありますが、どうなのかぁ・・・という感じで弱いですね。




登り坂がたて堀にも見えてきますが、断定するには弱いですね。







小さな山なので楽です。

丸太の置いてあるこの場所は、削平された平場に見えます。




ここが84年に撮影した場所ですね。







さて、今回の調査はここから始まります。

山道の先には、平場があります。






山頂は広く削平されており、近隣の家の墓地があります。



これが、主郭でしょう。写真右側の盛り上がりは土塁と推定できます。

この主郭はかなり広いもので、小規模ながら城跡には申し分のないものだと思います。

稜線は南北に延びています。南に歩いていくと、ふもとに降りる坂道があります。



これは下から撮影したものですが、これは、はっきり虎口遺構とみてよいと思います。

この坂道には、途中に腰郭と思われる平場がついています。



このあたりを中心に、見てみましょう。

坂道を登ります。







虎口遺構と思われる場所を通過すると、主郭前に、一段低く削平された平場があります。



ここにも、土盛りのような、虎口とも思われる遺構が確認されます。




ここには、祭神不明のブロック製の祠があります。相当古いものだったのでしょう。

ブロック製なのは、祠の損壊を急ごしらえで対応したからでしょう。



主郭の東側は緩やかな傾斜ですが、この先は崖に近い急傾斜です。




どうも、最初に登ってきた小道によって、南北二つに分断されているように感じられます。



山上は複郭式になっていたのかもしれません。

主郭、南側の区画です。



また、南側には竹林があります。







竹林は広く、足元には大穴が開いていますが、これは遺構とは関係なく、タケノコを掘った後でしょう。


このあと、ふもとに降りて、南区画下にある旧家を訪ね、お話を伺いましたが、城原城のことについては

分りませんでした。

ちなみに、この裏山は入会地として馬が放牧されていたのだそうです。

城跡の平場が馬つなぎ場などに利用されていた例は、皆野町の設楽城跡と同じですね。

城原城の口碑については、もっときめ細かく行う必要があると思いますが、個人の力では

なかなか難しいでしょうね。

谷城跡(滑川町)

2019-02-22 17:03:12 | 城館跡探訪
こんにちは。

最近、サーバーとGooblogの相性が良くないらしく、

度々アクセス不能になってしまいます。

更新もその状況に合わせてということになりますので、遅くなったりすることもありますがお許しください。

さて、今回は、滑川町にある谷城跡に行きました。

調査日は2019.01.22です。

谷城跡は森林公園の山崎城のある丘陵の低地を挟んで向かい側にあります。

森林公園内には、山崎城に隣接するように山田城があり、また、谷城の直近には

城原城があります。

この挟み込む丘陵と小河川によってつくられた低地が軍事戦略上重要な地位を担っていたということでしょう。


谷城跡の遺構は低地に突き出た円形の丘陵に主郭が、背後の廃寺跡のある鞍部を挟んで尾根続きの

部分に館跡と2か所に分かれています。


主郭のある丘の遠景です。



この丘の東側に未舗装の小道があります。



この先に廃寺跡があり、その名残の谷津堂というものがあるそうです。

と言っても、周囲に住民の方がいるわけでもなく、この先に何があるのかは予想もできません。

まもなく、廃寺跡らしい平場が現れます。





おそらく、明治の廃仏毀釈で廃寺になったのでしょう。

とりあえず丘に登ろうと思います。

小道を登るとなんとすぐに墓地に入ってしまいました。





谷津堂とはこの祠のことですが、さすがにこの墓地を突っ切って丘に登るのはためらわれました。

仕方なく、墓地のはずれの急斜面を強引に上りました。

実は、あとで気が付いたのですが、廃寺跡のずっと手前に城跡に登ることのできる踏み跡状の小道が

あったのです。

さて、斜面を直登すると、あっという間に主郭に到達です。

わかりやすい円形の平場です。





さて、ここからの方針は東側斜面にある2本の堀切を探すことです。

堀切は平行に2本あります。

現場は、やぶというほどひどい状況ではありません。

すぐに1本目の堀切が現れました。



堀の底に降りて写真を撮影しました。



問題は2本目の堀切です。

それほど長大なものではないので、うっかりすると見落としてしまいますし、堀切と見間違えそうな

へこみがあります。

二の郭というべきなのでしょうか、堀切の間には平場があります。





へこみを堀切と誤認しかけましたが、2本目の堀切が見つかりました。



2本目の堀切の底に降りて撮影します。









2本目の堀切の北側には盛り土があります。



帰路を探していると踏み跡がありました。

やはり墓地を突っ切りたくありませんので、その踏み跡に従って歩くと、小道に出ました。



ここから登ればよかったのですね。

次に、3本目のL字型の堀切に向いますが、東側からは丘の上に登りにくそうなので、西側に回ることにしました。

東側の谷筋は日陰で陰鬱な雰囲気なのですが、西側は開けて日当たりも良好です。

ただ、民家が並んでおり、どこから登ってよいかわかりません。

とりあえず一番奥のお宅に声をかけて、登らせていただくことにしましたが、やや困惑した様子。

一つには、城跡を見に来る人もほとんどなく、ご自身もあまり関心がないこと、外側からは分かりにくいのですが、

実は、丘の上はすでにゴルフ場になっており、そこから登るのだから別にいいよということでした。


そこで、谷津の奥から小道を登り、ゴルフ場沿いを歩いて林に入りました。

よく使われているらしい道があります。

すぐに墓地が現れました。

この付近に堀切があるはずなのですが・・・・。

小道を進むと、左側、墓地から少し離れた場所に堀切のようなものを発見しました。







深さは1メートル未満でしょう。浅い堀です。幅も狭いです。土塁はついていません。





この堀状の構築物は、もしかしたら排水用の溝なのかもしれませんが・・・・。

ここは3本目の堀切ではないだろうと判断して、とりあえず、小道に戻ります。

少し直進すると、今度は右側にはっきり堀切とわかる構築物が現れました。











堀切は竹林に覆われ、土塁があるのがわかります。








この、堀はかつてはもっと大規模で、方形の構え堀状であったそうですが、

現在は損壊されてしまったのか、埋もれてしまったのか、L字状の遺構を残すのみとなっているようです。

道の左側にあった堀切状の構築物が3本目の堀切と関連をもったものであるならば、

構え堀の遺構があったというのも、頷けると思うのですが・・・。

首切り谷・地獄谷:松山城戦場遺跡(吉見町)

2019-02-20 01:10:23 | 心霊スポット
大変ご無沙汰いたしております。

いつまで続けられるかわかりませんがよろしくお願いいたします。

再開第1回ですが、吉見町にある首切り谷・地獄谷について紹介いたします。

調査日は2019.02.14です。

現場は黒岩横穴墓群のある八丁湖湖岸の最奥部の二つの谷が、首切り谷と地獄谷と呼ばれています。



上の地図は黒岩横穴墓群の調査報告書から引いたものです。

図中、Dが首切り谷、Eが地獄谷です。

首切り谷、地獄谷の名前の由来ですが、文献的には『新編武蔵風土記稿』にも、

『吉見町史』にも記載が見つかりませんでした。

地元の方からの聞き取りによれば、名前の由来には諸説あるようですが、

首切り谷は松山城をめぐる攻防戦のなかで、捕えられた兵卒を処刑した場所であると

伝えられているようです。

一方の、地獄谷ですが、ここはその陰鬱で荒廃した風景が地獄のようであることに

由来しているということです。


当日はかなり寒かったです。





以前は、ヘラブナが放流され人気釣り場として釣り人がたくさんいたのですが、

現在は釣り自体が禁止されております。

八丁湖北岸を歩いていくと、以前紹介した原伏見神社の鳥居が現れます。



今回の訪問で驚いたのは、廃社になっているとばかり思っていた原伏見神社に新しい姫縄が飾られていたことです。

原伏見神社の鳥居前を過ぎると、谷津田沿いを歩く小道が現れます。

この道はすぐに二手に分かれます。

一つ目の山に向かう道が、首切り谷の入り口です。








しばらく道なりに進んでいくと、平場が現れます。







このルートはハイキング道になっており、結構、ハイカーとすれ違います。

地図では、この平場辺りで道が終わっているので、この平場周辺が首切り谷ということなのでしょう。

この平場の脇には、黒岩横穴墓群の一つ首切り谷1号墓が開口しています。







場所的に見ても、この横穴の前の平場が処刑に使われたと思われます。





さて、次に地獄谷に向います。

地獄谷は八丁湖の最奥部になります。



こんな低湿地がずっと続きます。



地獄谷に入りました。











地獄谷は、かつては水田があったと思われる低湿地なのですが、

現在は、荒廃がひどく、排水路も土砂の崩落でふさがれてしまってかなり水が溜まっていました。





今回は、寒い中で、地元の方にお話が聞けたのは収穫でしたが、さらに、多くの方から、

地元の伝承を集めるべきであると思いました。

最近では、心霊スポット認定を受けてしまっているようですが、夏場はマムシが多そうなので

注意が必要だと思います。