今日は、花友と福島県伊達市にある霊山に紅葉を見に行きましたが、何と言うこと
登山靴を履くときに、腰をひねって腰痛になってしまいました。
もともと持病だったのですが、こんな時に発症するなんて最悪です。
脂汗を流しながらの紅葉登山となりました。
というわけで、写真を少々にします。駐車場から見上げる霊山の午後
霊山は古い歴史に彩られた岩山である。
南北朝時代に、北畠顕家が伊達氏の霊山城にこもり、後醍醐天皇の命により、足利軍を攻撃するため
建武4年(西暦1337年)8月11日に出陣するまで、半年間もいた場所である。
翌年、戦いに敗れて和泉の国で戦死したとき、顕家は21歳の若さであった。
もともと北畠は村上源氏の流れで、貴族であったが、顕家の父の親房は大納言であった。
後醍醐天皇は、わずか16歳の顕家を陸奥守として多賀城に派遣し、父親の親房を補佐役とした。
一時期は、陸奥守として京に上り、足利軍に大勝利した時期もあったが、陸奥の豪族の反乱が続き
多賀城から霊山に移ったのであった。
時は移り変わり、霊山の城跡はわずかに礎石を残すのみで、昔日の面影もない。
梢を揺らす風の音のみが山々にこだまし、もののふの涙のごとく枯れ葉がちるのであった。
弁天岩からの眺望・午前中は曇り空だったが、午後になると晴れて輝きを増した紅葉
西物見岩から眺める紫明峰、天気が良ければ背後に磐梯山が見える。さらにその左には
以東岳や大朝日岳がみえるときもある。
駐車場から見上げる奇岩の多い霊山の紅葉
車道から見上げる霊山
伊達市霊山についてはこちらをご覧下さい
伊達市の観光ポータルサイト だてめがね
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独眼竜正宗と呼ばれた伊達政宗のルーツは、ここ伊達市にある。
もとは常陸の国の中村一族が、源頼朝の奥州征伐に従い、戦いの功により頼朝から伊達郡を賜った。
後に氏を中村から伊達と称するようになったのが始まりである。
登山靴を履くときに、腰をひねって腰痛になってしまいました。
もともと持病だったのですが、こんな時に発症するなんて最悪です。
脂汗を流しながらの紅葉登山となりました。
というわけで、写真を少々にします。駐車場から見上げる霊山の午後
霊山は古い歴史に彩られた岩山である。
南北朝時代に、北畠顕家が伊達氏の霊山城にこもり、後醍醐天皇の命により、足利軍を攻撃するため
建武4年(西暦1337年)8月11日に出陣するまで、半年間もいた場所である。
翌年、戦いに敗れて和泉の国で戦死したとき、顕家は21歳の若さであった。
もともと北畠は村上源氏の流れで、貴族であったが、顕家の父の親房は大納言であった。
後醍醐天皇は、わずか16歳の顕家を陸奥守として多賀城に派遣し、父親の親房を補佐役とした。
一時期は、陸奥守として京に上り、足利軍に大勝利した時期もあったが、陸奥の豪族の反乱が続き
多賀城から霊山に移ったのであった。
時は移り変わり、霊山の城跡はわずかに礎石を残すのみで、昔日の面影もない。
梢を揺らす風の音のみが山々にこだまし、もののふの涙のごとく枯れ葉がちるのであった。
弁天岩からの眺望・午前中は曇り空だったが、午後になると晴れて輝きを増した紅葉
西物見岩から眺める紫明峰、天気が良ければ背後に磐梯山が見える。さらにその左には
以東岳や大朝日岳がみえるときもある。
駐車場から見上げる奇岩の多い霊山の紅葉
車道から見上げる霊山
伊達市霊山についてはこちらをご覧下さい
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独眼竜正宗と呼ばれた伊達政宗のルーツは、ここ伊達市にある。
もとは常陸の国の中村一族が、源頼朝の奥州征伐に従い、戦いの功により頼朝から伊達郡を賜った。
後に氏を中村から伊達と称するようになったのが始まりである。