花と山を友として

何よりも山の花が好き、山の景色が好き、山で出逢う動物が好き、そして山に登る人が好き。
写真と紀行文で綴る山親父日記

雪のつくば牡丹園

2012年01月25日 | 写真













つくば牡丹園のホームページはこちら

以前も書きましたが、このつくば牡丹園は、若栗城址の隣に
作られたもので、西側の丘の上一帯が城跡だという。
それ故に、牡丹園の中に、若栗城址の由来と、それを差配していた
栗林義長の縁起を記載した大きな看板が立っている。


若栗城址の由来を記した看板、この看板の後ろの丘の上が城跡


栗林義長の由来を記した看板
日本の民話にはよくある話ですが、助けた女狐との間に生まれた
子供の子孫が、栗林義長だと言う訳です。

牡丹園の方に聞いたら、若栗城の資料はほとんど無かったため
近隣の町史、村史などの資料を調べまくり、5年の歳月をかけて
調べ上げたものを、歴史に詳しい先生に頼んでまとめて貰った
のが、この看板だ゛との事です。

「実在した武将が、狐の子孫というのは面白いですね」と言ったら
「女狐と言われているのは、巫女さんです」との事でした。

竜ヶ崎市の女化(おなばけ)とも関係があるそうなので、ひょっとしたら
女化稲荷の巫女さんとの関係で、狐になったのかもしれません。
(これは私の勝手な妄想です)

岡見氏の重鎮として諸葛亮孔明とも呼ばれた栗林義長、彼の病没の後
佐竹氏と多賀谷氏の連合軍に岡見氏が敗れ全滅したという。

その佐竹氏もまた、関ヶ原の後、秋田に移封されたのであるから
もののふの栄枯盛衰は夢のごとしと言うべきか。

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当時、茨城南部の小豪族は、小田原の北条氏の北進政策と県北の
佐竹氏の南進政策の狭間で、生き残りを図らなければならなかった。
下妻に拠点を持つ多賀谷氏は佐竹氏につき、牛久に拠点の有った
岡見氏は小田原の北条氏についた。
岡見氏は、牛久城、東林寺城、足高城、谷田部城などを持っていた
故に若栗城は出城としての性格だったと思われる。

谷田部城は天正年間に多賀谷氏に攻略され、牛久城と東林寺城の間
茎崎の岬に、多賀谷氏の八崎城を築かれたりしていた岡見氏は
栗林義長が亡くなった時、命運がつきた言えるだろう。