花と山を友として

何よりも山の花が好き、山の景色が好き、山で出逢う動物が好き、そして山に登る人が好き。
写真と紀行文で綴る山親父日記

快晴の尾瀬を歩く・鳩待通り編4

2012年10月22日 | 登山

中原山の山頂から、オオシラビソなどの、まばらな樹林帯を
下って、少し登り返すと、そこは広大な山頂湿原が広がる
アヤメ平の入口である。

アヤメ平の入口から見上げる湿原


アヤメ平周辺図
この地図を見ると、1900メートルの等高線から数えると
アヤメ平という地名表示の下に1970メートルの等高線で
囲まれた一角がある。
そこがこの湿原の一番の高所で、アヤメ平の道標のあるベンチ
のところには、1969メートルの表示が有る。

一口メモ ------------------------------------------------
尾瀬ヶ原を囲む山の中で、最も歴史の古いのは至仏山で、中生代と
呼ばれる2億4000万年前から2億3000万年前に隆起して
できたと言われている。

その後で500万年前から200万年前にかけて、火山活動が
始まり。真っ先に爆発したのが景鶴山だと言われている。

それに次いで爆発したのがアヤメ平や皿伏山と言われている
アヤメ平は、粘りけの少ない溶岩が流れ出してできた盾状火山と
言われていて、皿伏山と共に平坦な山容を見せている。

坂口 豊教授の書かれた「尾瀬ヶ原の自然史」に寄れば、この
火山の安山岩の溶岩は厚さ200メートルで、鳩待峠の西から
富士見峠の東までの間と、火山の南を流れる赤沢の谷を隔てた
大行山に分布していると書かれている。

そして最後に爆発したのが燧ヶ岳で、およそ35万年前と推定
されている。
燧ヶ岳は、その後も爆発を繰り返したので、山頂部は5つの
峰を作り出し、複雑な形をしている。

アヤメ平の広大な湿原を歩くとき、ここがかつて火山で有った
という事が信じられない風景である。
だが初期の頃は、登山者が自由に歩き回れたので、湿原は
踏み荒らされ、まるで泥田の様な状態になったという。

昭和40年代から始まった植生回復事業は、40年近い歳月を
経て、やっと現在のような状態になったと言われている
しかし天上の楽園と言われた昔日の姿に戻った訳ではない
自然保護という言葉は、言うは易く行うは難しの見本である

----------------------------------------------------------


湿原の高所を越えると、木道の彼方に燧ヶ岳の姿が青空の中に
浮かび上がる。
先ほど追い越していったグループが、ベンチに向かって歩いている


池塘の彼方に燧ヶ岳が見える場所にさしかかれば、その左側に
平ヶ岳や景鶴山も見えている

中央左後ろが平ヶ岳、中央右前が景鶴山

参考にこの付近の展望図を掲載します。


さらに左には、至仏山が池塘の向こうに見えている。
所々に見えている立て札は、植生回復事業の証である。


アヤメ平の道標、標高に注目、最高所ではない
道標まえのベンチは、先客とザックでふさがっていた。
少し休むつもりだったが仕方がない、GPSの記録と写真を
撮って先に急ぐ。

アヤメ平の道標から富士見田代を目指して下ってゆくと
急峻な崖のそばの木道になる、


特にこのような右に張り出した角では、戸倉方面の
展望が良い好展望地である


下を覗くと紅葉の始まった谷の斜面が見える


振り返れば、紅葉しているアヤメ平の斜面が美しい


奥に武尊の山と右手前にアヤメ平の斜面の紅葉


戸倉方面の写真


戸倉方面の展望図


日光方面の山並み

日光方面の展望図


富士見田代の道標
ようやく富士見田代の分岐に着いた、時間は11時26分だった
尾瀬ヶ原の竜宮に抜けるには、1時間40分ほどの
辛い下り坂を下りなければならない。


傍らに富士見小屋に行きたくなるような誘惑文が立っていた


分岐のすぐそばに富士見田代の美しい池塘とベンチがある


池塘と燧ヶ岳のコラボ写真ほねらってみる
あまりにも雲がなさ過ぎる青空だった



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。