「順ちゃん」
あなたのお父さんの順作さんのこと
を、わたしはそう呼んでいました。
最初の頃は「小林くん」。それから
しばらくのあいだ、まわりの人たち
を真似て「こばやん」と。
そして、ある夜を境に、順ちゃんは
「わたしの順ちゃん」になって、そ
のあとはずっと、順ちゃんのまま。
だからここにも、順ちゃんって書か
せて下さいね。
出会ったのは、わたしが二十九の時
です。
順ちゃんはわたしよりもふたつ年下。
本人から直接聞いて、知ってるかも
しれないけど、順ちゃんは二十歳
(はたち)の時、大阪の大学を中退
してニューヨークに渡り、五年間、
音楽修行を積み重ねたあと、日本
にもどってきて、順ちゃんの言葉
を借りれば「五年間、引越し屋、
夜は太鼓叩き」をしていました。
そう、あなたのお父さんは若か
りし頃、夢に向かって突き進ん
でいる、情熱的なドラマーだ
ったのです。
わたしは当時、学習塾向けの教材
や模擬試験問題集などを出して
いる小さな会社の事務員で、同じ
いる引越し屋さんのオフィスが
ありました。
出会った場所は、その雑居ビル
の地下の駐車場。
なんだか全然、ロマンチックじゃ
ないでしょう?
固くて冷たいコンクリートに囲ま
れたところ。もしかしたら、あな
たが収監されている場所に、似て
いるのかもしれません。
それを思うと、心が痛みます。
あなたがひとりでつらい思いを
していないか毎日、そのことば
かりを考えてしまいます。
話しを駐車場にもどしましょう。
そこは窓もなく、天井も低く、
昼間でも晴れた日でもうす暗く
て、じめいめしてて、あたりに
漂っているのは、排気ガスとい
うか、ガソリンというか、そん
なものの匂い。なのだけれど、
今、静かに目を閉じて、その場所
を思い浮かべてみると、そこは
信じられないくらい明るい、ま
ばゆい光に包まれているのです。
そうしてわたしのまぶたには、
細かい光の粒子に縁取られた、
順ちゃんの姿が浮かんできます。
かれこれ、二十年あまり前のこ
とです。