優しい人の温もりが、どこか
僅かに残った躰で、冷え冷えと
した家に戻っていく帰り道。
わたしはよく、一度しか会った
ことのない女の人の言葉を思い
出していた。
まだ十代だったころ、男らしい
人に連れていってもらった
バーの、若いホステスさんの
口から出た言葉。
彼女はシングルマザーだった。
名前を、シオリさんといった。
「四条から山科に戻るとき、
タクシーで蹴上(けあげ)の坂
を登りますやろ。あの坂を登る
ろきには、うちは母親になる
んです。
そして翌日の夕方、店に出るた
めにあの坂を下りてきますやろ。
そのときにうちは、女になるん
です」
「母親と女は別々の人間なの?」
と、わたしは彼女に尋ねた。男
らしい人はわたしのそばで笑って
いた。
「無粋な質問すんなや」と言い
ながら。シオリさんに向かって
「堪忍してやってな。こいつ
まだ、ねんねですねん」と言いながら。
シオリさんは真面目な顔で答えた。
「別々です」
それからわたしの瞳をじっと覗き
込んで、言った。
「あんたにもそのうちきっと、わか
る日が来ます。ひとりの人間が同時
に、警察と泥棒になることはできま
へん。
けど、ひとりの人間のなかに、両方
が棲み着いてしまうことがある。
そんなときはどっかできっちり区切り
をつけて、ここからは警察、ここから
は泥棒、そうやって生きていくしか
ありませんやろ
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菅田将暉 『さよならエレジー』
https://www.youtube.com/watch?v=XSkpuDseenY&list=RDSX_ViT4Ra7k&index=5