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「 1950年代、
日本における原子力開発の黎明期、
東海村に続いて
京都の宇治に
研究用原子炉を設置する計画があった。
1952年、水爆実験実施の翌1953年、
アイゼンハワー米大統領は国連で
「平和のための原子力」と題して演説。
翌54年3月1日に
第五福竜丸のビキニ環礁で
被曝した翌日の2日、
日本の国会に保守政党により突如として
原子力予算が提出される。
先の計画はこうした流れの中にあって
急遽立てられたのである。
この計画が決まって日をおかず
宇治では茶業者を中心に
広範な反対運動が組織され、
やがて国会でも論議される事態となる。
そして宇治への原子炉設置計画は放棄され、
その後の関西各地の候補地でも
住民は計画をことごとく
押し戻していった。 」(内容)
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