セレンディピティ日記

読んでいる本、見たドラマなどからちょっと脱線して思いついたことを記録します。

読書ノート:伊東潤「武田家滅亡」(角川書店)

2007-03-17 21:48:40 | 歴史
なかなかおもしろく読み応えのある本であった。この本を書店でみかけて買って読もうと思ったのは、ひとつには本の帯に評論家が絶賛していたことだが、他の理由は直前に読んでいた雑誌「歴史群像」4月号の記事に甲州の戦国大名武田家が滅亡するのに深く関係していた謙信死後の越後上杉家の2人の謙信の養子による争いがあって、その辺の事情に興味をもっていたからだ。
武田家が滅亡する直接の要因は、信玄死後の当主の勝頼が越後上杉家の内紛に際して、同盟を結んでいた北条氏政の弟の上杉景虎を援助しないで上杉景勝を事実上援助したため、武田家と北条家との同盟関係が破綻したからだ。
上杉謙信は突然に亡くなったため後継者を誰にするかのはっきりとした遺言を残していない。だが謙信の扱い方をみると景虎を世子のようにあつかい景勝は親族代表のような感じである。そのためか敵対していた北条家出身にもかかわらす景虎の支持者は古くからの上杉(長尾)家の家臣と北条領と境界付近に所領を持つものが多かった。謙信の血縁者の景勝の支持者は最近に上杉家に加わった者が多かった。
本来ならば景虎が圧倒的に有利なのだ。最初は景勝より多くの領主が支持した。隣国には景虎の兄氏政が当主の北条家とその同盟者の武田勝頼がありその兵力は大きい。ではなぜ負けたのかというと、
①景勝の行動がすばやく春日山城の庫を押さえたことで、兵糧、武器、資金を押さえてしまった。このためしばらくは景勝と景虎は春日山城の城郭で対峙していたが補給ができないため景虎は春日山城を出て御館という前関東管領の館に移る。だから「御館の乱」という。
②北条氏の軍が越後領内に入れなかった。北条氏の領国から越後への入り口には景勝の実家の上田長尾家があり頑強に抵抗したのと、季節から長期間滞在すると雪で補給が途絶え全軍飢え死にする可能性があり引き返してしまったからだ。これは「武田家滅亡」の解釈。「歴史群像」では北条氏政は越後が疲弊してから魚父の利を得ようとしたとの解釈。
③武田勝頼が景虎を裏切り景勝と結んだことだ。武田の軍勢は数日で春日山城に着くところまで来ていた。そのまま進軍して景虎に加勢すれば勝負は決まっていただろう。ところが勝頼は同盟者の北条氏政とその弟の景虎を裏切ったのだ。形としてはあからさまな裏切りではなく、突然に景勝と景虎の間を取り持つといって進軍を中止したのだ。その理由は「武田家滅亡」も「歴史群像」で共通しているのは、武田家は軍事費が枯渇していたため、景勝からの資金提供の話にのったのだ。その他に「武田家滅亡」では小説として、勝頼が北条氏出身の正室の桂姫と景虎の仲に疑念と嫉妬を感じたからだとしている。
④景勝のまめな宣伝と調略活動。景勝は無口で笑わない人間として知られているが、この戦いでは各地の豪族にたくさんの手紙を書いて味方になるように説得している。また本当はないと思われる謙信の遺言状で後継者に指名されていると盛んに宣伝していた。
⑤これは僕の感想だが、当たり前のことで、景勝の方が戦は強かった。景虎のほうから何度も攻撃に打って出るがそのたびに大きな犠牲をだして敗退している。
こうして景虎は自刃して、景勝が勝利した。景勝は武田勝頼の妹を妻に迎え越後と甲州の同盟ができた。しかしそのため武田家は越後以外の国境に織田徳川北条の敵を抱えることになった。

さて本来の「武田家滅亡」にもどると、この小説は北条家の桂姫が武田勝頼に輿入れするところから始まる。この小説の特長は武田家が滅亡するまでの経過がよくわかるという歴史書としての面の他に、エンターテインメント小説として登場人物の個性や思惑の変化が史実やフィクションのストーリーの展開と絡まっている点である。登場人物も桂姫や勝頼、勝頼の寵臣の長坂釣閑斎などの歴史上の人物の他に、さまざまに策謀する裏切り者の辻弥兵衛、忠臣の小宮山内膳、伊那の地侍の宮下帯刀などがストーリーを盛り上げる。辻弥兵衛の策謀はフィクションだろう。本当にあったと思えない。でも歴史書に残っていないことでこのような意外なことがあったかもしれない。

この本で知ったことは、真田昌幸という真田幸村の父親についてだ。よく知られているのは信長死後の徳川や北条との沼田城の攻防からだが、この本で武田勝頼の下で上野国の方面の武将として大活躍していたことがわかった。
あと本と史実との関係では、上杉景勝と交渉した武田側の武将は、この本では甲陽軍鑑という昔の本の説で長坂釣閑斎としているが、「歴史群像」4月号の記事では、手紙などの資料から武田信豊としている。
それから辻弥兵衛が連絡を取っている徳川家の重臣は本多正信だが、本多正信は三河一向一揆に参加して後に出奔していてこの時期に徳川家に帰参していたか不明だ。すくなくともこの時点で重臣になっていたとは思えないが。