「孤独には美的な誘惑がある」(三木 清)
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孤独にあるとき、ひとは最も、自らのこころを
自らのこころによって満たす悦びに隣り合わせる。
誰にも邪魔のされぬ、沈める部屋のなかに蹲って
自らの体温によって顔を拭うとき、
ひとはもっとも自らを愛することができる。
孤独は距離によって出現する。
焔に手をかざすようにして測られる他者との距離は
ことばとして現れ、邂逅の頻度として現れ、
真向かう顔つきに現れ、沈黙のなかに現れ、
あるいは、親しげな視線を逸らした瞬刻に現れる。
街を歩き、誰ひとりとして見知らぬという雑踏を
分け入り続け、
その深く鬱蒼としたひとびとの森の隙間を縫って
歩き続けて、
結局、出発地点と同じ場所に疲れて戻り、眠る。
はたしてこのとき、景色は本当に移ろったのか。
彼はほんとうに距離の中を歩いたのか。
もしかして、その場でずっと、地団駄踏んでいただけでは
なかったのか。
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孤独のなかに「ある」と述べることほど強靭な精神はない。
孤独は、そのひとがそのひととして在ることのできる
最も強固な地盤であるからだ。
誰も、彼の流す涙を笑うことはない。
彼の言葉を聴くものもいない。
彼の音は、音楽になりきれずに、いつまでも演奏のままで
ふ、と消えていく。
行方を最後まで見届けることのできる、いいかえれば、
物事の始まりと終わりを自己所有の概念の中に回収してしまえる
飽食的にして餓鬼的なその在り方に、
自己愛のなまぐさい美学の真骨頂が示される。
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孤独は往々にして郷愁と結ばれる。
孤独とは、自らの心音に聴き入ることだ、と試しに
言い切ってしまうなら、
その心音のなかに、かつて自らが刻んだ拍動の残響を
聴き取ろうとすることもあるだろう。
心音の残響が記憶であるとするならば、
不協和音を持続的に未来へと延長することは周到に避けて
協和音としての解決を捏ね上げもするだろう。
郷愁は、協和音としてこころに保持される。
これを基調音とするがゆえに、孤独はたとえその表現が
不協和の形を取ったとしても、
協和への引力、解決への磁力によって円滑な処理を施される。
孤独からの脱出、他者への渇望、
もたらされる一見して不協和と思われるもののもたらすさきに、
孤独どうしがこすれてかぶれることもなく、
刻まれてかさぶたをつくることもない。
孤独とはおそろしく滑らかで、
孤独のなかにあるひとびとの言葉は驚くほど流暢だ。
孤独はそれゆえに、他のだれの心にも堰き止められない。
だれのこころにも、真に響くことはない。
ひとびとの滑らかな孤独どうしがすれ違っても、
なにものもひっかからず、互いにぬるりと滑って
何の痕跡も残さない。
孤独とは分け合えるものでも、持ち合えるものでもなく、
互いにただ見知らぬままに流れ去ってしまうものだ。
ひとびとが独自に刻む心音を指し示す秒針の動きは
あまりにもありふれていて、馴染んでいて、
もはやだれも、気にとめもしない。
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孤独がもとめるのはほかならぬ自分自身である。
自分自身をもとめて彷徨う餓鬼の群れこそが孤独である。
では、音をひろう指先を、未出現の音が待っていたのだと
信じることは出来るだろうか。
口をついて出たため息やことばを、ことばやため息が
待っていたのだと、はたして言い切れるのだろうか。
われわれはことばを救うために生きているのだろうか。
ことばとは、受け継がれてきたいのちのひとつである。
そのひとつを大切に抱え、現して見せることの崇高さを
否定するものではないにせよ、
われわれはことばのために生きてはいないし、
まして、誰かのために生きてもいない。
われわれは、孤独の中にみずからの心音を聴くことによって、
自分が自分のために生きているという真実を知り、
他者というもの、人間同士の関係性というものの
物語性というものについて、とても鋭敏になることが出来る。
物語性のいかがわしさ、胡散臭さに薄々気付いていながら、
生における緩衝機構としての物語性に頼ろうとする
みずからの姿のその恥ずかしさに赤面したとき、
われわれは孤独を通してしか、これを化粧してごまかすすべを
生み出せはしないのである。
信仰のない日本人全般に、敬虔な宗教愛など望むべくもない。
西洋哲学においては、孤独は敬虔で最も崇高な愛の形態で
あるというが、
僕が思うに、一般的な日本人の感覚としては、
孤独とは、対他的化粧のための素地なのではないだろうか。
それは差し詰め、こころにファンデーションを塗布する過程と
呼ぶべきもののような。
それは、最も純朴な美的誘惑ではありはしないか。
秘密をいとおしく抱きしめるような。
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孤独にあるとき、ひとは最も、自らのこころを
自らのこころによって満たす悦びに隣り合わせる。
誰にも邪魔のされぬ、沈める部屋のなかに蹲って
自らの体温によって顔を拭うとき、
ひとはもっとも自らを愛することができる。
孤独は距離によって出現する。
焔に手をかざすようにして測られる他者との距離は
ことばとして現れ、邂逅の頻度として現れ、
真向かう顔つきに現れ、沈黙のなかに現れ、
あるいは、親しげな視線を逸らした瞬刻に現れる。
街を歩き、誰ひとりとして見知らぬという雑踏を
分け入り続け、
その深く鬱蒼としたひとびとの森の隙間を縫って
歩き続けて、
結局、出発地点と同じ場所に疲れて戻り、眠る。
はたしてこのとき、景色は本当に移ろったのか。
彼はほんとうに距離の中を歩いたのか。
もしかして、その場でずっと、地団駄踏んでいただけでは
なかったのか。
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孤独のなかに「ある」と述べることほど強靭な精神はない。
孤独は、そのひとがそのひととして在ることのできる
最も強固な地盤であるからだ。
誰も、彼の流す涙を笑うことはない。
彼の言葉を聴くものもいない。
彼の音は、音楽になりきれずに、いつまでも演奏のままで
ふ、と消えていく。
行方を最後まで見届けることのできる、いいかえれば、
物事の始まりと終わりを自己所有の概念の中に回収してしまえる
飽食的にして餓鬼的なその在り方に、
自己愛のなまぐさい美学の真骨頂が示される。
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孤独は往々にして郷愁と結ばれる。
孤独とは、自らの心音に聴き入ることだ、と試しに
言い切ってしまうなら、
その心音のなかに、かつて自らが刻んだ拍動の残響を
聴き取ろうとすることもあるだろう。
心音の残響が記憶であるとするならば、
不協和音を持続的に未来へと延長することは周到に避けて
協和音としての解決を捏ね上げもするだろう。
郷愁は、協和音としてこころに保持される。
これを基調音とするがゆえに、孤独はたとえその表現が
不協和の形を取ったとしても、
協和への引力、解決への磁力によって円滑な処理を施される。
孤独からの脱出、他者への渇望、
もたらされる一見して不協和と思われるもののもたらすさきに、
孤独どうしがこすれてかぶれることもなく、
刻まれてかさぶたをつくることもない。
孤独とはおそろしく滑らかで、
孤独のなかにあるひとびとの言葉は驚くほど流暢だ。
孤独はそれゆえに、他のだれの心にも堰き止められない。
だれのこころにも、真に響くことはない。
ひとびとの滑らかな孤独どうしがすれ違っても、
なにものもひっかからず、互いにぬるりと滑って
何の痕跡も残さない。
孤独とは分け合えるものでも、持ち合えるものでもなく、
互いにただ見知らぬままに流れ去ってしまうものだ。
ひとびとが独自に刻む心音を指し示す秒針の動きは
あまりにもありふれていて、馴染んでいて、
もはやだれも、気にとめもしない。
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孤独がもとめるのはほかならぬ自分自身である。
自分自身をもとめて彷徨う餓鬼の群れこそが孤独である。
では、音をひろう指先を、未出現の音が待っていたのだと
信じることは出来るだろうか。
口をついて出たため息やことばを、ことばやため息が
待っていたのだと、はたして言い切れるのだろうか。
われわれはことばを救うために生きているのだろうか。
ことばとは、受け継がれてきたいのちのひとつである。
そのひとつを大切に抱え、現して見せることの崇高さを
否定するものではないにせよ、
われわれはことばのために生きてはいないし、
まして、誰かのために生きてもいない。
われわれは、孤独の中にみずからの心音を聴くことによって、
自分が自分のために生きているという真実を知り、
他者というもの、人間同士の関係性というものの
物語性というものについて、とても鋭敏になることが出来る。
物語性のいかがわしさ、胡散臭さに薄々気付いていながら、
生における緩衝機構としての物語性に頼ろうとする
みずからの姿のその恥ずかしさに赤面したとき、
われわれは孤独を通してしか、これを化粧してごまかすすべを
生み出せはしないのである。
信仰のない日本人全般に、敬虔な宗教愛など望むべくもない。
西洋哲学においては、孤独は敬虔で最も崇高な愛の形態で
あるというが、
僕が思うに、一般的な日本人の感覚としては、
孤独とは、対他的化粧のための素地なのではないだろうか。
それは差し詰め、こころにファンデーションを塗布する過程と
呼ぶべきもののような。
それは、最も純朴な美的誘惑ではありはしないか。
秘密をいとおしく抱きしめるような。
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