歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

《「ミロのヴィーナス」考 その10 ケネス・クラーク氏のヴィーナス論3》

2019-12-15 19:02:40 | 西洋美術史
《「ミロのヴィーナス」考 その10 ケネス・クラーク氏のヴィーナス論3》
 


ケネス・クラーク氏の『ザ・ヌード』 (ちくま学芸文庫)の購入はこちらから

執筆項目は次のようになる。



・【もう一つの流れとしてのゴシック的裸体像(腹部の曲線に特徴的)】
・<ギリシャ的な女性観とゴシック的な女性観の対比>
・<「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」に見えるエヴァ>
・<ドイツの画家によるゴシック的ヴィーナス像>
・<オランダのレンブラントの場合 >
・<ロダンの彫刻の場合>
・<「クニドスのヴィーナス」の対立物としてのルオーの絵>

・【まとめ】
・【補論 ウォルター・ペイター『ルネサンス』にみえるヴィーナス】








【もう一つの流れとしてのゴシック的裸体像(腹部の曲線に特徴的)】


<ギリシャ的な女性観とゴシック的な女性観の対比>


クラークの芸術観の特徴として、裸体像を建築的なイメージを利用して捉えている点が挙げられる。すなわち、裸体像は、建物に似て、理想的図式と機能的必要性との均衡の表現にほかならないとクラークは理解している。裸体像芸術家は人体各部の構成物を常に考え、その形状や組み合わせのもつヴァリエーションを模索している(芸術家は建築家と7同様に、数学的法則に従っているともいわれる)。

ミケランジェロは、裸体像の素描家として、また建築家として、ルネサンス期の比肩するものなき芸術家であった。彼は、裸体像と建築という二つの秩序の間に相関関係を感じ取り、この感覚を表わすために、「ディペンデンツァ」(Dipendenza イタリア語で一般に依存、依存関係の意)という言葉を使ったといわれる。つまり、建築と裸体像との相関関係を「ディペンデンツァ」「ディペンデンツァ」と表現した。

さて、人体の比例関係の代表的なものとしては、古典的比例とゴシック的比例の二つをクラークは想定している。それぞれ、ギリシャ的な女性観とゴシック的な女性観にみられる人体比例を対比させて考えている。例えば、前者の例として、プラクシテレスの「クニドスのヴィーナス」のポーズをとった「16世紀鋳造の古代ヴィーナス」、そして後者の例としてウィーンのメムリンクの「エヴァ」(15世紀の典型的な裸体像)とを挙げている。

古典的比例の規準(カノン)のひとつは、女性裸体像に関して、二つの乳房の間の距離と低い位置の方の乳房から臍までの距離、さらに臍から両腿の付け根までの距離が、尺度単位として同じ長さをもっていたことであるとクラークは指摘している。こうした構成が古典期および西暦1世紀までは慎重に維持されていた。

一方、ゴシック的比例の方は、臍が古典的な構成の場合よりも身体の下方についている(メムリンクの場合2倍)。そしてその人体は大層長い胴体や長い腹部の曲線をもつ。ゴシック的裸体像は、ふつう「自然主義的」とよびなされている(クラーク、1971年[1980年版]、36頁~39頁)。

クラークは、古典的で優美なヴィーナス像とは異なる、「もう一つの流れ」として、ゴシック的裸体像を想定している。ここではその流れを、具体的な作品を紹介しながら、みてゆきたい。

<「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」に見えるエヴァ>


さて、「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」は、中世フランス王国の王族ベリー公ジャン1世が作らせた装飾写本で、1410年頃に、ド・ランブールによって作られた。「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」は、フランス語でいえば、Les Très Riches Heures du Duc Berryである(日本語の訳語が難しそうな言葉であるが、フランス語では基本語からなる。単語としては、Très(adv.)とても(very)、Riches(adj.)豊かな(rich)の複数形、Heures(m)時間(hour)の複数形、Duc(m)公爵(duke)である)。

その中の挿絵のひとつに、蛇の誘惑と人間の堕落の物語を表したものがある。エデンの園の中で、エヴァは海老のようにはだかで、しかもそのはだかの状態を全く意識していないように見える。しかし、全能の神から叱責されるうちに恥ずかしさを意識するようになり、ゴシック式飾り格子のある楽園の門から追放される時には、無花果(いちじく)の葉を前にあてて「貞潔のヴィーナス」のポーズをとっている。

ケネス・クラークによれば、このはだかのエヴァは、その後200年間にわたって北方の趣味を満足させることになる新しい女性像の形となり、ド・ランブールはそれを意識的に創り出したという。
ド・ランブールの描いたエヴァは、ポンペイの三美神のような、引き伸ばされた胴部をもっている。しかし、エヴァの身体の本質的な構造はいかに東方化されているとはいえ、ヘレニスティック期芸術のもっているそれとはまったく違うようだ。その骨盤はいっそう広く、その胴はいっそう狭く、その腰はいっそう高い。そして何よりも腹部が大きく突き出ている。この点こそが、ゴシックの女体の理想像の特色であるとクラーク氏はみている。すなわち、古代の裸体像においては支配的なリズムは臀部の曲線であるが、もうひとつの流れにおいては、腹部の曲線であるというのである(クラーク、1971年[1980年版]、400頁~401頁、514頁~515頁原註124)。

<ドイツの画家によるゴシック的ヴィーナス像>


ところで、この腹部の曲線を強調する約束事に従って描いた画家として、15世紀フランドル人画家ファン・アイクとファン・デル・グースを挙げている。ファン・アイクは、ゲントの祭壇画の「エヴァ」を“球根のような肉体”として描き、ファン・デル・グースはウィーンにある小品「人間の堕落」の中にエヴァを、ヒルデスハイムの聖堂門扉のエヴァ(1010年頃)とよく似た比例で描いたとする。

15世紀の末期、北方の芸術家たちは、イタリア芸術では30年ほど前から肉体解放の動きが進行中であることに衝撃を受けた。その一人が、ドイツのルネサンス期の画家アルブレヒト・デューラー(1471-1528)である。
1496年に描かれた「女たちの入浴」のデッサンにおいては、ゴシック的好奇心と驚愕とが全体を支配しているとクラーク氏はみている。すなわち、左手の人物はほとんどミケランジェロ的であり、中央で髪を梳く女は「水から上るヴィーナス」を踏襲したが、前景で膝をついている女や、右手の太った怪物のような女は、ドイツ的であるという(腹部が大きく突き出ており、球根のような比例の肉体である)。
また「四人の魔女」の題名で知られる1497年の版画は、古典主義に対する好奇心を示しているものの、肉体のもつ重々しい不規則な特性に惹かれており、古典的図式を滅茶滅茶にしていると評している。

そして同じくルネサンス期のドイツの画家クラナッハ(1472-1553)はゴシックの身体に新しい様式を与えた。マニエリスムと、復活したゴシック趣味との両方の要素が混じり合った人工的な作品を創り出した。例えばクラナッハの「ヴィーナス」という作品がある。これは15世紀写本装飾のエヴァの発展したかたちであるとクラーク氏はみている(実際、クラナッハは優れた考古趣味の持主で、15世紀の作品を模写している)。
クラナッハの肉体美に対する個人的趣味は、幅の狭い肩と大きく突き出た腹部とをもつゴシック風の身体を材料として、それに長いしなやかな脚と、ほっそりした腰と、優しくうねるような輪郭線とを与えたものであった。クラナッハは肉体の美についてのわれわれの想像力のレパートリーに新しいものをつけ加えた稀な芸術家のひとりであるとクラーク氏は評価している(クラーク、1971年[1980年版]、394頁、400頁~406頁)。

<オランダのレンブラントの場合 >


また、古典主義に挑戦したオランダの画家レンブラント(1606-1669)も、肉体のもつみじめな不恰好さを仮借なく描き出した。神話上の「ダイアナ」や、古代の美女「クレオパトラ」といった作品では、肉体に対する中世的見方=ゴシックの約束事を受け入れている(この点、「可愛い女(ラ・プティト)」という新しい裸体像の美の理想を完成した18世紀のブーシェ[1703-1770]の「ダイアナ」(ルーヴル美術館蔵)と比較してみると一目瞭然であろう。そこでは、甘美なロココ絵画を代表する画家らしく、繊麗な若々しい肉体をもつダイアナが優雅なポーズをとり、洗練された印象を受ける。ブーシェの第一のパトロンはあのポンパドゥール夫人であった!)。

そしてレンブラントは、女性のみならず、男の裸体像も、フォン・デル・グースの描くアダムのように、薄っぺらで平らに描いた。つまりレンブラントの男性像のモデルは、女たちがみっともないほど太っているのと同じ程度に、みじめなほど痩せていた。古典的優美さという考えは、レンブラントを悩ませたようだが、若い肉体の整った比例より、年老いた身体のゴシック的な太った塊りの方を好んだとクラーク氏はみている。

ルーヴル美術館にあるレンブラントの至高の芸術作品のひとつである「バテシバ」(「ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴」Bethsabée au bain tenant la lettre de David)という絵は、若い女性の身体(レンブラントの愛するヘンドリッキエがモデルとされる)を描いている。
実際、ケネス・クラークは、この作品を「レンブラントが描いた裸婦画の最高傑作」と高く評価している。ただし、この裸体像についてのレンブラントの考え方はまったく非古典的であるともいう。例えば、その豊かな腹部、その重々しい実用的な手と脚は、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」の理想的な形態と比較すれば明らかであるが、それらは偉大な高貴さを実現していると主張している。そして、こうした不幸な肉体に対するこのキリスト教的受け入れは、同時に魂に対するキリスト教的特権をもたらしたとする(クラーク、1971年[1980年版]、192頁~194頁、420頁~426頁)。

<ロダンの彫刻の場合>


その後、19世紀末になって、憐みの裸体像として最も完全に出来上っている芸術作品は、ロダン(1840-1917)の「美しかりしオーミエール」である。レンブラントの老婆の身体は優美さに欠けていたとはいえ、なお力強く、仕事にも堪えられるものであったが、ロダンの老婆は老衰の最後の姿であり、ひとつの「死を忘れるな」(memento mori)の訓えであり、ある種のゴシックの人物像を思わせると評している。つまりロダンは、オーミエールの皺だらけの身体に、ゴシックの構成の偉大さを見出したとクラーク氏はいう(クラーク、1971年[1980年版]、192頁~194頁、406頁~427頁)。

ロダンは、自分はギリシャ人とゴシックの彫刻家の弟子であると主張していた。しかし、クラークは、ロダンを「偉大なロマン派の巨匠たちの最後の後継者」とみている。すなわち、長い歴史の中で見れば、ロダンは、ミケランジェロの創意を受け継ぎながら、それを瞬間的・絵画的なものに変えつつ、ジェリコーとドラクロワの悲劇性を彫刻の世界にまで拡げて行った芸術家であると捉えている。ロダンの形態感覚は驚くほどドラクロワのそれに近いし、「地獄の門」の中のある種の人間像が、ダンテの小舟にしがみつく亡者たちの魂から影響を受けているという(クラーク、1971年[1980年版]、339頁)。

<「クニドスのヴィーナス」の対立物としてのルオーの絵>


近代西洋美術史では、一般にフォーヴィスムに分類される、フランスの画家ルオー(1871-1958)は、シャルトル大聖堂のステンドグラス修復に従事したことだけはあって、ステンドグラス風の太い黒の線で輪郭を描く特有の重厚な筆触で、宗教画の傑作を数多く残した。

ルオーが、1903~04年にかけて描き出した、はだかの娼婦の絵は、おそろしいイメージで迫ってくる。そこで、クラークは、「いったいどのような理由でギュスターヴ・モローのおとなしい弟子が聖書の情景やレンブラント風の風景からこの粗野な堕落の怪物に向うようになったのだろうか」という問いを投げかけている。この問いに次のように答えている。1903年前後の物質的な社会においては、世間的な体裁による誤魔化よりも絶対的な堕落の方が贖罪に近いとする彼の友人のネオ・カソリック教義がその理由であったとする。
ただ、興味深いのは、この信仰を伝える手段として、ルオーが裸体像を選んだ事実である。ルオーがそうしたのは、それが最も大きな苦痛を与えるために、敢えて粗暴に描き出したという。

理想化された人間の肉体(例えばボッティチェリとかジョルジョーネのヴィーナス)を見る時に感じる喜びに満ちた繊細な感情は、ルオーの「娼婦」を見ると、脅かされ、卑しめられる(欲望の昇華は汚辱そのものの存在にとって代られた)。
形態の点から言えば、その最初の創造の時から裸体像に実現されていたもの(すなわち健康な構造の感覚、明確で幾何学的な形と調和のとれたその配置)は、ふくれ上がった無気力な肉の塊りのためにすっかり見捨てられてしまったとクラークはルオーのこの絵を解説している(クラーク、1971年[1980年版]、427頁~430頁)。

 そして、次のように述べる。
「しかしそれでもなお、このおぞましいイメージが必要だということを、ルオーはわれわれに納得させてくれる。それは≪クニドスのヴィーナス≫の究極的な対立物であって、二千年ほど遅れて登場はしたが、しかしそれと同じように避け難いものなのである。あらゆる理想はすべて崩壊する。一九0三年という時点においては、肉体の美に対するギリシャの理想は、すでに一世紀にわたって奇妙な破壊作用を蒙っていた。その真理を裏から確認させてくれるものとしては、おそらく娼家で描いたドガのデッサンがその最初のものとして挙げられるであろう。このようにして、アカデミックな裸体像の形態上の偽りは、ある程度までは道徳上の偽りでもあったということがはっきりと暗示された。というのは、カバネルやブーグローの裸体像を称揚していた愛好者たちも、実はメゾン・テリエにおいて真実の姿を見ていた筈だからである。ドガの娼婦たちは、エジプトの彫刻家の手になる淫らな昆虫の像のように生きた存在であるし、同じ主題を扱ったトゥールーズ=ロートレックのパステルは、あるひとつの時代と社会の性格をわれわれに伝えてくれる。だが、ルオーの人間像は別の世界に属している。≪クニドスのヴィーナス≫と同じように、それは「礼拝の対象」である。ただそれを支える信仰は、クニドスのそれよりもむしろメキシコのそれに近い。彼女は、われわれに憐みよりもむしろ恐怖の念を抱かせる怪物のような偶像である。この点において、ルオーは、肉体の醜さの探求における最も大胆な先駆者であり、ルオー自身も深く尊敬していたレンブラントとも、まったく違っている。レンブラントの態度は道徳的であった。ルオーのそれは宗教的である。それなればこそ、彼の脅かすような娼婦が、われわれにとってきわめて重要なものとなる。彼女のおぞましい肉体は、深い畏怖の精神にもとづいて生み出されたものである故に、やはり理想的なのである。」
(クラーク、1971年[1980年版]、431頁)。

ルオーの「娼婦」は、「クニドスのヴィーナス」の究極的な対立物であったとクラークは捉えている。
肉体の美に対するギリシャの理想は、娼家で描いたドガのデッサンあたりから、1世紀にわたって破壊され始めた。カバネルやブグローといったアカデミックな裸体像の形態上の偽りに気づき、ドガやトゥールーズ=ロートレックが、デッサンやパステルで、真実の姿を表現しようと模索し始め、あるひとつの時代と社会の性格を伝えた。

だが、ルオーの人間像は別の世界に属していたという。「クニドスのヴィーナス」と同じように、「礼拝の対象」であったが、それを支える信仰は古代ギリシャの信仰より、メキシコのそれに近く、恐怖の念を抱かせる怪物のような偶像であるとクラークは説明している。
この点、ルオーは「肉体の醜さの探求における最も大胆な先駆者」であるとする(ルオーが尊敬していたレンブラントの態度は道徳的であったため、この点、ルオーとは違うという)。
娼婦のおぞましい肉体は、「深い畏怖の精神にもとづいて生み出されたものである故に、やはり理想的なのである」と、クラークは逆説的にルオーの裸婦像を理解している。


【むすび】


以上、ケネス・クラークの『ザ・ヌード』の内容を紹介しながら、ヴィーナス論をみてきた。
 ケネス・クラークの『ザ・ヌード』は、500頁をこえる大著であり、古代から近代にまで及ぶ幅広い時代の中から、裸体像に関する西洋美術の作例を解説した名著である。
 目次からみると、第2章の「アポロン」で男性裸体像、第3、4章の「ヴィーナス」で女性裸体像を考察し、これらの主題が、その後の各章に通底しているという構成であった。
 ヴィーナス像の歴史を見た場合、紀元前4世紀半ばのプラクシテレス「クニドスのヴィーナス」は、肉体の欲望を穏やかに甘美に形象化したという意味で、画期的な彫像で、美しい人体表現によってギリシャ世界を豊かにした。
後期ヘレニスティックの芸術家によって制作された「ミロのヴィーナス」は、「最も複雑かつ技巧的な産物のひとつ」であり、「古典的な効果をもったバロック的構造物」「最も輝かしい人体の肉体的理想のひとつ」( 122頁)としてクラークは捉えている。また「「麦畑に立つ楡の木を想わせる」( 122頁)とも喩えている。
ルネサンス以降のヴィーナス像の歴史をみてみると、「ヴィーナスの最大の詩人のひとり」( 131頁)として、ボッティチェリが、「春」「ヴィーナスの誕生」を描く。
 そしてレオナルド・ダ・ヴィンチは「生殖的な生命のシンボルとして表現」「生殖のアレゴリーの表現」( 159頁)として「レダと白鳥」という素描を残した。そして、「ヴィーナスの至上の巨匠」( 122頁)として位置づけられるラファエロは、古典世界以後におけるプラクシテレスたるべき天分を賦与され( 143頁)、「ヴィーナス」「レダ」といったデッサンを描いている。
その後、ジョルジョーネが、古代彫刻「クニドスのヴィーナス」の地位に匹敵する名画「眠るヴィーナス」(ドレスデンのヴィーナス)を描く( 153頁)。また「官能の叙事詩人」ティツィアーノが「水から上るヴィーナス」を矩形的なデザインに変更して描き、ルノワールの主題を先駆した( 168頁)。そしてバロックの大家ルーベンスが「ヴィーナスとアレア」を描くが、そのアレアの姿勢には「うずくまるヴィーナス」の影響が認められる( 186頁)。 
 近代以降では、アングルがヴィーナスを解放し「クニドスのヴィーナス」に返す試みを実現した画家としてクラークは捉えている( 196~197頁)。「水から上るヴィーナス」そして「泉」(美術史上最も名高い裸婦のひとつ)を描いた。
 また、ルノワールが、プラクシテレスの「クニドスのヴィーナス」の版画から着想を得て、同じポーズをとらせた「浴女とグリフォンテリアの犬」を描く。ただ寸法は異なり、豊かな肉付きでルノワールらしい女性像を残した( 211頁、216頁、218頁) 
 こうした流れの一方で、「もうひとつ流れ」があり、「肉体の醜さの探求における最も大胆な先駆者」として位置づけられるルオーが、「クニドスのヴィーナス」の究極的な対立物ともいえる「娼婦」という作品を残した(431頁)。
 
 以上の要約を簡単な表にまとめてみたので、掲載しておく。

【クラークのヴィーナス論のまとめ表】










































































芸術 クラークの評価 作品
プラクシテレス 肉体の欲望を穏やかに甘美に形象化( 113頁) 脚に衣を巻きつけて彫像の足場を堅固にすることに成功( 119頁) 「クニドスのヴィーナス」「アルルのヴィーナス」(テスピアイのアフロディテ)
後期ヘレニスティックの芸術家 「美」のシンボル( 120頁) 「麦畑に立つ楡の木を想わせる」( 122頁)
最も複雑かつ技巧的な産物のひとつ( 122頁) 古典的な効果をもったバロック的構造物( 122頁) 最も輝かしい人体の肉体的理想のひとつ( 122頁)
「ミロのヴィーナス」
ボッティチェリ ヴィーナスの最大の詩人のひとり( 131頁) 「春」(ゴシック的) 「ヴィーナスの誕生」
レオナルド・ダ・ヴィンチ 生殖的な生命のシンボルとしての表現 生殖のアレゴリーの表現(159頁) 「レダと白鳥」
ラファエロ ヴィーナスの至上の巨匠( 122頁) 古典世界以後におけるプラクシテレスたるべき天分を賦与( 143頁) デッサンの「ヴィーナス」
ジョルジョーネ 古代彫刻「クニドスのヴィーナス」の地位に匹敵( 153頁) 「眠るヴィーナス」(ドレスデンのヴィーナス)
ティツィアーノ 官能の叙事詩人(ルノワールの主題を先駆) 矩形的なデザインに変更( 168頁) 「水から上るヴィーナス」
ルーベンス 「自然のヴィーナス」の巨匠(182頁) バロックの大家( 186頁) 「ヴィーナスとアレア」
アングル ヴィーナスを解放し「クニドスのヴィーナス」に返す試みを実現した画家( 1196~197頁) 「水から上るヴィーナス」「泉」(美術史上最も名高い裸婦のひとつ)
ルオー 肉体の醜さの探求における最も大胆な先駆者 「クニドスのヴィーナス」の究極的な対立物( 431頁) 「娼婦」



ケネス・クラーク『ザ・ヌード』 (ちくま学芸文庫)はこちらから


【補論 ウォルター・ペイター氏によるヴィーナス論】


ウォルター・ペイターと『ルネサンス』


ウォルター・ペイターは美の理念の追求に生涯をかけた19世紀末の英国の批評家である。処女作『ルネサンス』は、芸術としての批評、いわゆる創造的批評を開花させた名高い著作である。『ルネサンス』は、ルネサンスをギリシャ精神とキリスト教とが融合した究極の芸術と捉え、代表的なルネサンスの芸術家の肖像を描いた印象主義批評の古典である。

「すべての芸術は絶えず音楽の状態に憧れる」という有名な言葉(「ジョルジョーネ派」より、富士川訳138頁)、「千年ものあいだに男たちが欲望の対象」であった「モナ・リザ」への賛美(「レオナルド・ダ・ヴィンチ」より、富士川訳128頁)などがよく知られている。
オスカー・ワイルドは、ペイターを「創造的な印象主義批評家」と呼んだ。
「訳者あとがき」で富士川義之氏も解説しているように、「ペイターは、ちょうど突然日光が射したために平凡な田園風景が一瞬のうちに変容して見えるときのように、一見ささやかとも見える日常的な事物や情景のなかにひそむ美を知覚したり発見することに重要な意味や価値を見い出し」たといわれる。瞬間の微妙な美的印象に執着した。
ルネサンスの芸術家たちは、いわば印象主義的な「瞬間の美学」を芸術の基盤にしていたと見ている。そしてその基盤を支えていたのが、ヘレニズムとキリスト教の融合という状態であったとする。ペイターは、こうした前提をもって、その批評を展開しているようだ(ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社、2004年、253頁~254頁)。


ルネサンス―美術と詩の研究 (白水uブックス)


ヴィーナスについて


ペイターは『ルネサンス』の「フランスの古い物語二篇」の中でヴィーナスについて、次のように言及している。

「中世における理性と想像力の急激な出現、心の自由の確認、それを私は中世のルネサンスと名づけたのだが、その最も強烈な特徴のひとつは、信仰至上主義、すなわち時代の道徳的・宗教的理念に対する反逆や反抗の精神である。感覚と想像力の快楽を求め、美を愛し、肉体を崇拝するとき、人びとはキリスト教の境界を踏み越えざるをえなかった。しかも彼らの愛は、ときには奇妙な偶像崇拝、キリスト教の競争相手である奇妙な宗教になったのである。それは、死ぬことなく、ヴェヌスベルクの洞窟にしばらく姿を隠していただけの、あの古代のウェヌス(ヴィーナス)の復帰であった。あらゆる種類の装いに身をやつして、地上をいまなおあちこち往来している古い異教の神々の復帰であったのだ。」
 (ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社、2004年、34頁)。
  
 One of the strongest characteristics of that outbreak of the
reason and the imagination, of that assertion of the library of the
heart, in the middle age, which I have termed of a medieval
Renaissance, was its antinomianism, its spirit of rebellion and
revolt against the moral and religious ideas of the time. In their
search after the pleasures of the senses and the imagination, in
their care for beauty, in their worship of the body, people were
impelled beyond the bounds of the Christian ; and their
love became sometimes a strange idolatry, a strange rival reli-
gion. It was the return of that ancient Venus, not dead, but only
hidden for a time in the caves of the Venusberg, of those old
pagan gods still going to and fro on the earth, under all sorts of
disguises.
(Walter Pater, The Renaissance : Studies in Art and Poetry, Dover Publications, INC.,1893[2005], p.20.)

The Renaissance: Studies in art and poetry (Works of Walter Pater)

ペイターがルネサンスを考える際に、
・中世における理性と想像力の急激な出現
・心の自由の確認
・信仰至上主義に対する反逆や反抗の精神
を挙げている。
キリスト教の理想と古い異教とを対置させ、その古い異教とは、「感覚と想像力の快楽を求め、美を愛し、肉体を崇拝する」宗教である。「奇妙な偶像崇拝」「古い異教の神々」の一つが古代のウェヌス(ヴィーナス)であり、ルネサンスとは、「古い異教の神々の復帰」「代のウェヌス(ヴィーナス)の復帰」(the return of that ancient Venus)という特徴があったというのである。この反抗、心の自由という側面をもち、「美を愛し、肉体を崇拝する」存在が、ヴィーナスであったとペイターは捉えている。

「ミロのヴィーナス」について


ペイターは、「ルカ・デッラ・ロッビア」を論じた中に、「ミロのヴィーナス」について言及している。

「時と偶然により、ミロのヴィーナスは「小さなミロの畑」の畝の下で暗黒の数世紀を過ごしたために、その表面が磨滅し線が和らげられて驚くべき巧妙な仕上がりぶりを見せている。そのため、そのなかに潜むある精神がつねにいまにも外へ現われ出そうに見え、あたかも、古代彫刻がこの作品においてはすでに神秘的なキリスト教時代に一歩近づいたかのような観を呈しているのだが、この作品の表現は、古代作品全体のなかで、ミケランジェロ自身の表現に最もよく似かよっている。これと同じ効果をミケランジェロは、ほとんどすべての彫刻作品を、現実の形態を実現するというよりもむしろ暗示するような、一種謎めいた未完成な状態に放置することによって、獲得する。」
(ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社、2004年、205頁)。

What time and accident, its centuries of darkness under
the furrows of the “little Melian farm,” have done with singular
felicity of touch for the Venus of Melos, fraying its surface and
softening its lines, so that some spirit in the thing seems always
on the point of breaking out, as though in it classical sculpture
had advanced already one step into the mystical Christian age,
its expression being in the whole range of ancient work most like
that of Michelangelo’s own: ― this effect Michelangelo gains by
leaving nearly all his sculpture in a puzzling sort of incomplete-
ness, which suggests rather than realises actual form.
(Walter Pater, The Renaissance : Studies in Art and Poetry, Dover Publications, INC.,1893[2005], pp.47-48.)

ここでは、ミケランジェロの完成された彫刻作品に見られる「暗示的で、未完成な状態」からミロのヴィーナスと同様の効果が生まれているとも語られる。


ペイターはルネサンスの定義にはヴィーナスを重要な要素として挙げているが、ヴィーナス像そのものに対する興味・関心は薄かったようである。
ペイターは19世紀後半の人であるので、「ミロのヴィーナス」にも言及している。例えば、「ヴィンケルマン」を論じた中に、次のようにある。

 「ところがギリシア美術の作品を例にとってみよう――たとえばミロのヴィーナス。これは、いかなる意味においても、それ自体の圧倒的な美しさ以外の何かの象徴とか、暗示ではない。心は有限のイメージで始まり有限のイメージで終わり、しかもその精神的動機のいかなる部分も失うことがない。その動機は、意味が寓意(アレゴリー)に付着しているような具合に、感覚的形態に軽くゆるやかに付着しているというのではなく、その形態に浸透し、それとひとつになっているのである。ギリシア精神は、自己省察の一定の段階までは達したが、注意深く、その段階を超えることはなかった。」
(ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社、2004年、205頁)。

 But take a work of Greek art, ― the Venus of Melos. That is in
no sense a symbol, a suggestion, of anything beyond its own vic-
tortious fairness. The mind begins and ends with the finite
image, yet loses no part of the spiritual motive. This motive is
not lightly and loosely attached to the sensuous form, as its
meaning to an allegory, but saturates and is identical with it. The
Greek mind had advanced to a particular stage of self-reflection,
but was careful not to pass beyond it.
(Walter Pater, The Renaissance : Studies in Art and Poetry, Dover Publications, INC.,1893[2005], pp.134-135.)

ペイターが、ここでギリシャ美術の作品の例として、「ミロのヴィーナス」を挙げているのは、ギリシャ美術とキリスト教中世の神秘的な美術との間の相違を考えた場合の例示としてである。
中世美術の作品の例としては、フィレンツェのサン・マルコ教会の僧房にあるアンジェリコの「聖母戴冠」を挙げている。アンジェリコのフレスコ画には、感覚的なもの(羊毛のような髪の毛、薔薇色の光輪、真珠の冠など)が描かれているが、表現不能な世界の象徴ないしは類型にすぎない。中世においては過剰な内面性のゆえに、芸術によって提示された内容が処理しきれていない。感覚的形態で何とか表現しようとして苦闘するが、なかなかうまくいかないという。つまり感覚的形態はせいぜいのところ意味を詰め込んだ象徴、観念を暗示する手段にすぎない。

それに対して、ギリシャ美術の作品はどうか。「ミロのヴィーナス」は、「それ自体の圧倒的な美しさ」であり、それ以外の象徴とか暗示ではないというのである。「心は有限のイメージで始まり有限のイメージで終わり」、その動機は、感覚的形態に浸透し、それとひとつになっているとペイターは述べている。ギリシャ思想は、「内面的にすぎるというところまではいっていない。精神はまだ肉体からの独立を誇ることを知ってはいない」(206頁)という。

古代ギリシャのヴィーナス像について


「また、最もすぐれたギリシア彫刻では、アルカイックな不動性に活が入れられて、その形態に動きが出ているが、その動きは常に抑制されたもので、何らかの明確な行為をあらわしていることは滅多にない。ギリシア彫刻の姿態は実に多種多様で、この方面でのギリシア人の創作は何とも申し分のないものだが、許容されている動作や状態は、単純で少ない。ギリシアには聖母はいない。女神はいつも子供がいない。作者が選んだ動作は、神々に近い人物以外には、取るに足らぬものばかりである――たとえばサンダルを紐でゆわえるとか、入浴の準備をするとか。もっと複雑で意味のある行為が許されるときでも、その行為がちょうど終わったところを描いたものが大部分であって、そのため作品からはどうなるのかという熱心な期待が取り除かれている。たとえば、大蛇ピュトンを殺したばかりのアポロンの姿とか、あるいはすでにパリスのりんごを手にもっているヴィーナスの像とか。ラオコーンの像は、忍耐強いありとあらゆる研究によって、ほとんど処理不可能な題材を克服したものだが、従来は目を楽しませるがゆえに絵画においてのみ正当と認められていた効果を、いまや彫刻が目指しはじめることになったひとつの新紀元を画する作品である。」
(ウォルター・ペイター(富士川義之訳)『ルネサンス 美術と詩の研究』白水社、2004年、215頁)。

Again, in the best Greek sculpture, the archaic immobility has
been stirred, its forms are in motion ; but it is a motion ever kept
in reserve, and very seldom committed to any definite action.
Endless as are the attitudes of Greek sculpture, exuquisite as is
the invention of the Greeks in this direction, the actions or situ-
ations it permits are simple and few. There is no Greek
Madonna ; the goddesses are always childless. The actions
selected are those which would be without significance, except
in a divine person ― binding on a sandal, or preparing for the
bath. When a more complex and significant action is permitted,
it is most often represented as just finished, so that eager
expectancy is excluded, as in the image of Apollo just after the
slaughter of the Python, or of Venus with the apple of Paris
already in her hand. The Laocoon, with all that patient science
through which it has triumphed over an almost unmanageable
subject, marks a period in which sculpture has begun to aim at
effects legitimate, because delightful, only in painting.

(Walter Pater, The Renaissance : Studies in Art and Poetry, Dover Publications, INC.,1893[2005], pp.141-142.)

ギリシャ彫刻の姿態は多種多様であるが、作者が選んだ動作は神々に近い人物以外には、取るに足らないとペイターはみている。
 ・サンダルを紐でゆわえる(binding on a sandal)
・入浴の準備をする(preparing for the bath)
・「その行為がちょうど終わったところを描いたもの」として、「すでにパリスのりんごを手にもっているヴィーナスの像」([the image ] of Venus with the apple of Paris already in her hand.)
を例示に挙げている。
ハヴロックの著作を紹介した際に説明したように、「サンダルを紐でゆわえる」の方は、「サンダルを履くアフロディテ」、「入浴の準備をする」の方は、「クニドスのアフロディテ」または「カピトリーノのアフロディテ」などを指すのであろう。
そして「すでにパリスのりんごを手にもっているヴィーナスの像」は、訳者が註を施しているように、「パリスの審判」でトロイア王の息子パリスから勝利の黄金のりんごを与えられたアフロディテ(ヴィーナス)を指す(富士川訳、2004年、250頁訳者註56)。

【コメント】
ハヴロックも、ウォルター・ペイターの見解について、「第4章 その後:クニディアに触発された諸作品」において言及していた。
「ロダンもほめたたえ、1872年には、ウォルター・ペーターが、この作品によって彫刻という芸術が「キリスト教時代の精神的象徴に向けて一歩」踏み出したと宣言している」(ハヴロック、2002年、110頁)。

また、ここでペイターは、「ギリシアには聖母はいない」(There is no Greek Madonna)という味わい深い一文を記している。
このことは、歴史を少し学んだ人なら、余りにも自明の理である。ただ、後述するように、若桑みどりのヴィーナス論、聖母マリアとヴィーナスの関係で見る時、この一文の意味するところは、示唆的で含蓄深いことに思いあたろう。

若桑は、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品はとても少ないが、その80%が「聖母子」であり、これはちょっと驚くべきことであると指摘している(若桑、1983年、22頁)。レオナルドは、ギリシャ神話の「レダ」の素描は描いたが、ヴィーナスを描いた形跡は認められず、もっぱら「聖母子」と女性の肖像画などに集中していたことになる。

ミケランジェロは「ダビデ像」のような秀逸な彫像を残したのにもかかわらず、ヴィーナス像を彫ることはなく、若桑も指摘するように、アポロン像が関心事で、男性美に惹かれた彫刻家であった(ただ、クラークが指摘しているように、「ピエタ」像は、図らずもブロンツィーノのヴィーナス像に影響を与えたとみられている)。

こうした画題に対する志向には、レオナルドとミケランジェロにある種の共通性があるような気がする。「プリマヴェーラ」や「ヴィーナスの誕生」でヴィーナス像を追求したボッティチェリとは明らかに異なるのである。
今後も、「ギリシャには聖母はいない」という一文は深く掘り下げて考えるべき命題であろう。


ウォルター・ペイターの題辞とヴィーナス


ウォルター・ペイターの『ルネサンス』の題辞とヴィーナスの関係を論じた、興味深い論文がある。それは上村盛人「「鳩の翼」が意味するもの―『ルネサンス』の題辞(エピグラフ)をめぐって」日本ペイター協会編『ペイター『ルネサンス』の美学』論創社、2012年所収、86頁~98頁)である。

ペイターは、『ルネサンス ―芸術と詩の研究』(1873年初版、1893年第4版)によって、審美主義の代表的批評家・作家としてのゆるぎない地位を確保した。
ペイターは、1893年の第4版で、
「だがあなたたちは鳩の翼のようになるのです。」
(“Yet shall ye be as the wings of a dove.”)
という一文を書物全体の題辞(エピグラフ)として新たなに付け加えている。ペイターがこのような題辞をつけた理由を上村論文は考察している。

ペイターが題辞として用いた文章は、旧約聖書『詩篇』(第68篇13節)に由来すると従来見なされてきた。
しかし、反キリスト教的道徳律廃棄論者であったペイターが、旧約聖書を出典としたとは考え難いようで、そうではなく、スウィンバーンの古典ギリシャ的な悲劇『カリドンのアタランタ』(1865年、富士川義之の訳者註248頁参照のこと)の中に、この謎めいた題辞に関わる鍵があると上村氏は主張している。
その中には、愛と美の女神アフロディテ(ヴィーナス)を讃えた歌の一節に、
「あなたの翼は、鳩の翼のように、空中に輝きながら舞って行きます。」
 (Thy wings make light in the air as the wings of a dove.)
とある。
この文をペイターは『ルネサンス』の題辞に応用したという。そして、先に引用したペイターの「ウェヌス(ヴィーナス)の復帰」の文章は、スウィンバーンの『アタランタ』の詩行の内容と一致していると説明している。
ところで、1890年前後の英国社会は、同性愛などをめぐる性の問題を市民社会および文化に関わるものとして問い直す動きが際立つ時代であったとされる(同性愛をめぐって1895年にはオスカー・ワイルドの裁判があったが、ペイターはその1年前に死去している)。

ペイターが『ルネサンス』の第4版を出版したのは1893年頃の社会状況は、審美主義者と保守主義者がマスメディアを通じて議論を繰り広げていた。ペイターのような審美主義者は、キリスト教に代わるものとして、古代ギリシャ芸術を理想化する新しい美の崇拝、フランス文化の受容、同性愛への理解などを主張したという。
『ルネサンス』の第4版を出すに当たって、ペイターは勇気を振り絞って新たに付け加えたのが、「だがあなたたちは鳩の翼のようになるのです」(富士川訳では、「汝らは鳩の翼のごとく」[2頁])という題辞だったのではないかと考えられる。

ともあれ、『ルネサンス』の題辞は、見かけ上は聖書からの引用というポーズを採りながら、「鳩の翼のように」は、スウィンバーンの『アタランタ』を出典としていて、題辞全体でヴィーナスを始めとする異教の神々の復活を称えるというのが、審美主義を理解する人々に向けて、ペイターが仕掛けたひそかな目論見だったと解釈されている。題辞全体でヴィーナスを始めとする異教の神々の復活を称えるというメッセージがあるとみられている。

そして、題辞の中の「鳩」が、ヴィーナス(アフロディテ)の鳥、アトリビュートであることはいうまでもない(ここで、「ミロのヴィーナス」の復元案の一つとして、中村るいは「第3案 左ひじを台にのせ、リンゴをもち、右手に鳩ととまらせている」という案があることも想起したい。中村、2017年[2018年版]、199頁)。
ケネス・クラークは、ペイターが公然たる異教徒であると同時に、儀式的なイギリス国教会(アングリカン・チャーチ)に対して感覚的な魅力を感じていたと指摘している。更にクラークは、ペイターの『ルネサンス』が、ワイルド、プルースト、イエイツ、ベレンソンなど、後代の文学者や美術研究家に決定的な影響を与えた書物であったと述べている(上村、2012年、86頁~98頁参照のこと)。







《「ミロのヴィーナス」考 その9 ケネス・クラーク氏のヴィーナス論2》

2019-12-14 19:11:41 | 西洋美術史

《「ミロのヴィーナス」考 その9 ケネス・クラーク氏のヴィーナス論2》


ケネス・クラーク氏の『ザ・ヌード』 (ちくま学芸文庫)の購入はこちらから



【西洋美術の中のヴィーナス】
<ボッティチェリの絵>
<レオナルドと「レダと白鳥」>
<ミケランジェロと「アポロン」像と「ピエタ」>
<ヴィーナスの至上の巨匠としてのラファエロ>
<「クニドスのヴィーナス」とジョルジョーネの絵>
<「水から上るヴィーナス」とティツィアーノの絵>
<ルーベンスの絵>
<アングルの絵>
<「クニドスのヴィーナス」のポーズとルノワールの絵>







<ボッティチェリの絵>


クラークによるボッティチェリ作品の解釈


高階本で紹介したように、ボッティチェリの有名な絵に「春(プリマヴェーラ)」という絵がある。この絵の画面中央にひとりだけ他の登場人物より高い位置に描かれているのが、ヴィーナスである。鬱蒼とした森の背景も、そこだけアーチ形に開かれ、ヴィーナスを強調している。そもそもこの絵の題名「春(プリマヴェーラ)」は後世つけられたもので、以前には「ヴィーナスの国」という題名でも呼ばれていたようだ。このヴィーナスは、礼儀正しく衣裳を着けて聖告をうけるマリアのように片手を挙げている(高階秀爾氏によれば、右掌を相手に向けるヴィーナスの仕草は、相手を迎え入れる仕草である。また、この絵の中で、アトリビュートである羽根の生えた靴をはくヘルメスを別とすれば、ただひとり、裸足ではなくサンダルをはいており、地上のヴィーナスであることを示しているという[高階、2014年、43頁~50頁])。

さて、クラークは、ボッティチェリという画家を「ヴィーナスの最大の詩人のひとり」と位置づけている。「春(プリマヴェーラ)」のヴィーナス像は、ゴシック的であるとクラーク氏は捉えている。この中央のヴィーナスのポーズや腹部のゆるやかな曲線は、「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」でアダムを誘惑する小さなエヴァのそれに近いというのである。
クラーク氏は、この「春」という作品を次のように理解している。すなわち、この「春」は古典思想と中世思想とのちょうど平衡のとれた接点に立っており、一見相容れることのない二つの考え方をひとつに結びつけるやり方で作られた作品である。あたかも人文主義者が古典的知識をスコラ的な思考の枠に嵌めこんだように、ボッティチェリの人物のイオニア的な優美さはゴシックの枠に組み入れられた。しかも新プラトン主義者が理性を犠牲にして象徴に変幻自在な解釈を施したように、ボッティチェリは空間とか量体性を表そうとせず、ビロードのクッションに置かれた宝石のように、個々の美しい形態をただその美しさの故に並べたてた。そのような作品としてクラークは理解している(クラーク、1971年[1980年版]、130頁~135頁)。

<レオナルドと「レダと白鳥」>


クラークは、「第4章 ヴィーナスⅡ」の書き出しを、次のように、レオナルドの「レダと白鳥」について書き始めている。
「「天上のヴィーナス」は、かつてフィレンツェの地で新プラトン主義的な思索の海から生まれ出た。しかし彼女の妹はヴェネツィアで厚く生え揃った芝草、丸太造りの井戸、豊かな樹葉からなるもっと感触的な環境から生まれた。以来今日まで四百年にわたって、「自然のヴィーナス」はその起源から言っても本質から言ってもヴェネツィア人であると画家たちに認められている。とはいえ天才の奇妙な気まぐれというべきか、創造的で生殖的な生命のシンボルとしてはだかの女を最初に表現したルネッサンス芸術家は、フィレンツェ人レオナルド・ダ・ヴィンチであった。一五0四年から一五0六年の間に彼は少くとも三点の≪レダと白鳥≫の習作をつくっており、そのひとつは油絵に仕上げられてフォンテーヌブロオに運ばれ、十七世紀の末までこの地に残っていた。なぜ彼がこうした主題を描く気になったのか、その動機はレオナルド特有の謎めいたものである。表面的に見ればこの主題はまったく彼にふさわしくないであろう。レオナルドは古典神話に心動かされなかった。新プラトン主義の空想に我慢がならなかったし、古典的裸体像の源流をなす人体の幾何学的な調和化といったことに何ら感興を覚えなかった。何よりもまず彼は、情緒的にも官能的にも女たちに惹かれなかったのである。ところでこの女に惹かれないという事実が、決定的な因子となって働いていること疑いない。女は何ら肉欲の情を掻き立てない、さればこそかえってますます、彼は生殖のもつ神秘な性格に好奇の目を向けたのであった。」
(クラーク、1971年[1980年版]、159頁)。

「天上のヴィーナス」は、メディチ家の支配するフィレンツェの地で、新プラトン主義の思想の中から誕生した。しかしその妹の「自然のヴィーナス」は、ヴェネツィア人であると画家たちに認められた。
とはいえ、生殖的な生命のシンボルとして「はだかの女」を最初に表現したのは、ルネサンスの芸術家である天才レオナルド・ダ・ヴィンチであったとクラークは主張している。それは、1504年から1506年の間に描かれた「レダと白鳥」という作品である。
なぜレオナルドがこうした主題を描いたのか、その動機はレオナルド特有の謎めいたものであるとする。レオナルドは古典神話に心動かされなかったし、新プラトン主義の空想に耐えられなかったし、情緒的にも官能的にも女たちに惹かれなかったから、「レダと白鳥」というのは、不思議な主題である。
ただ、女に惹かれなかったからこそ、生殖のもつ神秘な性格にレオナルドは好奇の目を向けたものとクラークは推察している。

レオナルドは、1504年頃から生殖過程の科学的な研究を始め、正確な挿図を付している。「レダ」の最初のスケッチも、こうした一連の解剖デッサンの1枚のかたわらに描かれた。
レオナルドの「レダ」は、少なくとも立像による2つの下図(カルトン)と、膝をついている姿の1つの下図がある。
その最初のものは、ラファエロの模写したデッサン(現在ウィンザー宮王室図書館蔵)が残っているので、1505年以前の作と推測されている。第2の下図ははるかに後年のものであり、この立像の全体的観察は何か古代作品から得られているはずだが、両腕が体重を支えている方の脚から反対方向に回転されている点で、「水から上るヴィーナス」とは異なるとクラークは指摘している。そして膝をついているレダ像も、石棺に彫られているような貝の中に膝をついている「水から上るヴィーナス」から影響されたとクラークは考えている(クラーク、1971年[1980年版]、487頁~488頁原註55)。
レオナルドのレダ像は、「水から上るヴィーナス」と影響関係があるかもしれないとクラークはいう。

さて、クラークは、レオナルドの「レダと白鳥」について、次のように続けて叙述している。
 かりにこの種の断片的な証拠がないとしても、レオナルドの≪レダ≫を模写した何点かの現存するコピーを見れば、彼の意図が疑いもなく生殖のアレゴリーの表現にあったことは明瞭だろう[91図]。彼は≪クニドスのヴィーナス≫やその子孫たちが覆い隠していた肉体の部分を巧みに強調するポーズを発明した。これと似たポーズが古代にも知られていたかもしれない。テルメ美術館の≪バッカスの石棺≫[218図]には片腕を曲げて胸にまわし、下半身をさらけ出しているバッカスの巫女が含まれていたし、この種の像をレオナルドが知っていたと考えることができるからである。とはいうものの彼が「発明」したことに変りはないであろう。なぜなら古代の作例では腕が乳房を覆っているに対し、同じ動作が乳房を露わにし、これに東方的(オリエンタル)な隆起を与えるより、レオナルドは巧みにやってのけているからである。」(クラーク、1971年[1980年版]、159頁~160頁)。

「レダ」を描いたレオナルドの意図は、生殖のアレゴリーの表現にあったとクラークはみている。そして、レオナルドは、「「クニドスのヴィーナス」やその子孫たちが覆い隠していた肉体の部分を巧みに強調するポーズを発明した」という。
これと似たポーズは、「バッカスの石棺」(グレコ・ローマン彫刻、ローマにある国立美術館であるテルメ美術館)にみられるバッカスの巫女の舞踊の姿にもあるといい、レオナルドはこの種の像を知っていたとクラークは推測している。ただ、古代の作例とは異なるので、やはりレオナルドの「発明」とみなされるとする。
レオナルドの「レダ」像には、くねるような、錯綜した成長のリズムが流れており、あらゆる形態と象徴とを一貫した意図のもとに統御されているため、それは「否定すべからざる天才の作品」であるとする。

そして、レオナルドの「レダ」は、ちょうど同じ頃、ヴェネツィア人の感覚的な想像世界のなかで、「自然のヴィーナス」の概念が形をとりつつあったとき、これを知的に(科学的に)実現したものであったと評している。このポーズもヴェネツィアに知られていたかは正確には不明だが、レオナルドの他の作品は既にヴェネツィア芸術に影響を及ぼしていた。だから、「レダ」のコピーが、ジョルジョーネやティツィアーノの裸婦像にも影響したことも想像しうる。
ともあれ、ヴェネツィアの地で「自然のヴィーナス」が初めて偉大な姿を示すのは、ジョルジョーネの「田園の合奏」(ルーヴル美術館蔵)においてである(クラーク、1971年[1980年版]、159頁~162頁、352頁)。

<ミケランジェロと「アポロン」像>


クラークはミケランジェロに対して、次のような賛辞を呈している。
「紀元前四世紀のギリシャ人を別とすれば、ミケランジェロほど男性裸体像のもつ神的な性格を確信をもって感じとった者はいない。」と(クラーク、1971年[1980年版]、85頁)。

クラークは「第2章 アポロン」で上記のように述べているので、ここで言う「紀元前四世紀のギリシャ人」とはプラクシテレスを想定していることだろう。プラクシテレスには、「トカゲを殺すアポロン」(通称「クリーブランドのアポロン」)(原作紀元前350年頃のコピー、ブロンズ、クリーブランド美術館[アメリカ])や「ヘルメス」(ヘレニズム時代のコピー、原作紀元前4世紀半ば、大理石、オリュンピア考古博物館)がある(中村、2017年[2018年版]、136頁~139頁、189頁~192頁参照のこと)。

ルネサンス期の『芸術家列伝』を残したヴァザーリも、「そして裸体は彼にとって神的なものに思われた」とミケランジェロを記している。ミケランジェロの弟子であるヴァザーリは、ミケランジェロを英雄と仰いだが、上記の言葉は単なる修辞ではなくて確信の表明である。
ギリシャ人のようにミケランジェロも男性美に激しく心を駆り立てられたが、生来の生真面目でプラトニックな性向から、彼は自己の情動を理念と同一視したという。ミケランジェロの作品ではオリュンピア的な晴朗とかアポロン的な理性の明晰は決してありえないが、ミケランジェロは後世の誰よりも、酷烈なアポロン的権威、あの「正義の太陽」の性格を与えることができたとクラークはみている(クラーク、1971年[1980年版]、85頁~86頁)。

若きミケランジェロは、古代の完成された美を追求した。ミケランジェロの裸体像デッサンは、トスカナ的な力強さと、筋骨の逞しさがあるといわれる。ルーヴル美術館所蔵の裸体の青年を表わしたデッサンでは、神のごとき肉体がフェイディアス的な光彩を放っているいる。ただ、このデッサンを分析していくと、胴部の輪郭線は、古典的な肉体構成の基礎をなしていた旧い幾何学的分割がほとんど消え失せているなど、非ギリシャ的な側面も見られるという。
とはいえ、ミケランジェロは古典的な比例体系(ポリュクレイトスに関するプリニウスの記述から出たと思われる比例)を研究し、利用している。ミケランジェロのデッサンは古代に最も近い。
ミケランジェロは肩の軸線と臀部の軸線とを強く対比させ、また各筋肉を解剖学的な正確さで描き、ポリュクレイトス的スタンスを誇張して表わした(結果的にはポリュクレイトスよりも、アンドレア・デル・カスターニョによく似てしまったようだが)。

さて、ミケランジェロの作品のうち、アポロン的理念を最高度に具体しているものは、「ダビデ」の最初の大理石像であるとクラークは位置づけている。その胴部だけでも、ミレトス出土の断片や「クリティオスの青年」(紀元前480年頃)に端を発した調和の追求の絶頂をなすものである(クラーク、1971年[1980年版]、86頁~89頁)。
ミケランジェロは、30歳のとき、名声は確立したといわれる。

<ミケランジェロの「ピエタ」>


キリスト教と古典の図像の交錯は、「埋葬」と「ピエタ」という二つの偉大な悲劇性の主題にはっきりとうかがうことができる。ゴシックの想像力が生み出した最も記念すべき成果は、「ピエタ」であるといわれる。それは、キリストの遺体が聖母の膝に支えられたという伝説的出来事を見られるのは、14世紀ドイツの木彫像であるが、その表現が完成されるのは、15世紀半頃のことである。
そして15世紀の末頃には、ネオ・プラトニズムの思想にとっぷりと浸された芸術家ミケランジェロによって、発展させられたとクラークは理解している。サン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロの「ピエタ」は、1500年前後の数年間に、イタリア芸術がその視覚芸術を確立することのできた、あの古典哲学とキリスト教哲学との崇高な結合の一例であるというのである。
ミケランジェロは、キリストが聖母の膝の上に力なく横たわるというこの主題特有の北方の図像を受け入れはしたが、しかしそのキリストの身体に、見る者が思わず息を呑むほどの洗練された美しさを与えた。
ただ、ミケランジェロがどのような段階を経て、この最終的構想に達したかについてはわかっていない。というのは、サン・ピエトロ大聖堂の「ピエタ」のためのデッサンがただの1枚も残っていないからである。
しかし、同じモティーフをラファエロが「埋葬」(1507年、ボルゲーゼ美術館[ローマ])を描いているので、これにより、その跡を辿ることができるようである。クラークによれば、この構図のためのラファエロのデッサンを見てみると、このキリスト教の主題に古代的性格を与えようとしており、まるで古代の悲劇のような趣きをそなえているという。ラファエロはこの主題を古代の墓石の浮彫、ないしは石棺によって影響されたとクラークは考えている。さらに言えば、その霊感源となったのは、グレコ・ローマン彫刻の「戦士の墓石」であるかもしれないとする。それは死んだ英雄を仲間たちが戦場から運び去るという構想のもとに彫られたものだった(クラーク、1971年[1980年版]、287頁~288頁、301頁~306頁)。

<ヴィーナスの至上の巨匠としてのラファエロ>


クラークは、ラファエロについて、次のように述べている。

「ラファエルロの多岐にわたる驚くべき天稟のうち、まったく彼自身のものに属し、彼の個性の光源から発していると思われるものは、感覚を通じて理想をつかむその能力であった。彼は調和によって人類に愛すべき完全性を与えるが、この調和とはけっして計算とか意識的な洗練の所産ではなく、彼生来の肉体的な理解力の一部をなしていた。ラファエルロはこうしてヴィーナスの至上の巨匠、古典世界以後におけるプラクシテレスたるべき天分を賦与されていたのである。だが保護者たちの意向は別のところにあったし、ラファエルロほど保護者に忠実に奉仕した芸術家もいなかった。ヴィーナスがつねに彼の念頭にあったことはデッサンから知られるが、彼はこのヴィーナスを一度も完全には絵に表わしていない。当時の人びとは、現代のわれわれほど仕事の肌理の細かさを気にかけず、ラファエルロが理想とするものを版画や弟子の作品のなかに捜し求めた。われわれとしても彼らの先例に従うよりほかはない。幸いにも彼の最も初期と目されるオリジナル作品が裸体像を主題としており、ラファエルロはここで十全に自己を表現している。シャンティイーの≪三美神≫がそれで[81図]、裏面には今日ロンドンにある≪騎士の夢≫が描かれてあった。もともとこれらの二点は、天上のヴィーナスを最終の目標として責任ある道を歩むよう、若きシビオーネ・ボルゲーゼのための鑑戒画として描かれたものではないかという主張がなされているが、いかにももっともな話と思われる。ラファエルロは在来の因襲的なモティーフやペルジーノの形骸化した様式の束縛から脱して、彼に生得のものであり、その指針に従うならば衒学(ペダントリー)に陥らずに古代芸術の高さに迫ることのできる、あの古典主義を自分の内部に見つけ出す。それまでに彼がどんな古代の三美神を実際目にしていたかはわからない。」(クラーク、1971年[1980年版]、143頁~144頁)。

ここでクラークは、画家ラファエロに、「ヴィーナスの至上の巨匠」という最大の賛辞を呈している。それのみならず、「古典世界以後におけるプラクシテレスたるべき天分を賦与されていた」と最高の評価を下している。
プラクシテレスといえば、前述したように、「クニドスのヴィーナス」の作者で、古代ギリシャ彫刻史において確固たる地位を築いた、紀元前4世紀の彫刻家であった。そのプラクシテレスに匹敵する天分を賦与されたとクラークは形容している。この評価により、クラークのヴィーナス論、美術史観の精髄に触れる思いがする。
ラファエロの古代観は古典的である。ヴェルフリンは古典芸術の諸特質に見事な定義を下したが、これらの諸特質のすべてがラファエロに現われているという。その諸特質とは、装飾の節約、途切れることのない輪郭線、本質的なものへの集中である(クラーク、1971年[1980年版]、143頁~144頁)。

ラファエロは、フィレンツェでの修業時代、男性裸体像の素描に明け暮れて、はだかの婦人習作はただの1点しか残っていない。当時のフィレンツェ人たちは、筋肉の盛り上がった背中とか、伸ばした腕の動態には喜びを覚えたが、穏和で静止的なヴィーナスのかたちには、興味を感じなかったようだ。そしてラファエロもそうしたフィレンツェ人の権威に従い、節くれ立った肉付けに対するある種の好みを持ち続けた。

ただひとつの例外がある。それは生きたモデルや古代作品を写したものではなく、レオナルドの「レダ」のための習作の模写である。そして、1年ほど後に、ラファエロがローマ教皇の居室の装飾を始めた時、そのほとんど最初の仕事が、「アダムとエヴァ」のエヴァの誘惑の場面である。このエヴァの下半身は「レダ」の模写から直接に来ている。
しかし、左腕の動きや肩への頭の据え方など、レオナルドのポーズに変更を加える必要のあった箇所では、人体のリズムが破綻している。このことは、ラファエロがそれまで裸婦についてはほとんど勉強できずにいたことを物語っているとクラークは指摘している。ラファエロ自身もこのエヴァには不満を覚えていたようで、マルカントニオの版画が伝えるように、ラファエロはもっと注目すべきエヴァの誘惑を描いている。

これと同じ頃の「オルレアンの聖母」のための紙の裏に、ラファエロの初めてのヴィーナス像が簡略な素描で表わされた。別にこれといった目的もなしにつくられた素描で、たまたま残ったらしいが、この素描からもラファエロが古代に親しんでいたことを推測できる。
古典時代このかた、ラファエロほど、裸体像の原理をこれほど完全に吸収した画家はいないといわれる。この素描の各部分の形態は、「カピトリーノのヴィーナス」のように、卵型にしっくり内接し、それ以上に堅固とすら言えるとクラークは評している。

ラファエロの描いたヴィーナスは、身体をいったんよじらせ、最後に顔を正面向きにさせることによって、各形態を螺子(ねじ)のように締めこんでいるからという。このヴィーナス像は、古典的な実在感をもっており、まるでたったいま海の泡から生まれ出たかのようである。それでいて、このヴィーナスはどっしりと重みがあり、率直に肉としての存在を受け容れていることにより、ラファエロとその古典趣味的模倣者との間に本質的な相違があるとクラークはみている(この点、マラッタやメングスよりもルーベンスの方が近かった)。

さて、この「水から上るヴィーナス」のような構想は実現を見ずに終わった。ラファエロはキリスト教世界の中心地で「教会」の首長のために仕事をした人であったから、この構想が実現しなかったのは、むしろ当然のこととクラークは考えている。
ただ、この時期に「ウェヌス・ゲネトリクス」と「アリアドネ」という古代の最も名高い範例をモデルにして、着衣の裸体像(濡れた衣[ドラプリ・ムイエ])の入念な習作や教皇庁の一室つまり枢機卿ビビエーナの浴室に、はだかのヴィーナスを装飾のために描いている。後者は、マルカントニオによって版画に移され、それらを通じて、プーサンの時代まで、ヴィーナス図像を豊かにしたという(クラーク、1971年[1980年版]、144頁~147頁)。

<「クニドスのヴィーナス」とジョルジョーネの絵>


クラークによれば、マルカントニオの版画を研究すると、盛期ルネサンス期のヴィーナス像は、ローマではなく、ヴェネツィアの地で創造されたという感を深くするという。ヴェネツィア派の古典的な裸体像は、ジョルジョーネの創意になるという。

ジョルジョーネは、紀元前4世紀ギリシャ以後のどんな芸術家にもまして精妙な肉体美に対する彼生来の愛着をもち、欲求の形状と色彩とを突如として発見したと理解している。ジョルジョーネこそが、「裸体像に関して真の発明者」であったというのである。

そして、クラークは、ジョルジョーネの「眠るヴィーナス」について、次のように記している。

「 さらに彼はただひとりの裸婦を主題とした作品も残している。ジョルジョーネ独特の優雅が最も鮮やかに現われた、ドレスデンの≪眠るヴィーナス≫がこれである。
 ヨーロッパの絵画において≪ドレスデンのヴィーナス≫が占める地位は、古代彫刻における≪クニドスのヴィーナス≫のそれに匹敵するであろう[図80]。彼女のポーズがあまりに見事であるため、以後四百年にわたって優れた裸体像の画家たちは――ティツィアーノ、ルーベンス、クールベ、ルノワールそしてクラナッハすら――同じモティーフの変奏曲を作曲しつづけることになった。彼女は長くマルチエルロ邸に秘蔵され、そのため≪クニドスのヴィーナス≫とちがって比較的人に知られなかったが、そのヴァリアントであるティツィアーノの≪ウルビーノのヴィーナス≫や≪パルドのヴィーナス≫は当初から王者のごとくに迎えられていた。彼女のポーズがあまりに静かで自然であるため、われわれはその独創性にすぐには気づかない。だがジョルジョーネのヴィーナスは古代的でない。裸体婦人の横たわる姿は、バッカス石棺の隅の方に時に見られるとは言っても、古代の著名な芸術作品の主題とはならなかったようである。また先例が見当らぬばかりでなく、形態的に見ても彼女はヘレニスティックではない。(中略)ヴィンケルマンが主張したように、古典美とはひとつのそれと把握できる形態から次の形態への移行が完璧な暢達さをもってなされている点にありとするならば、≪ドレスデンのヴィーナス≫は古代の裸体像と同様に古典的に美しい。
 プラクシテレスのヴィーナスは短い外衣をわきに置いて、儀式的水浴につつましく歩を移すところであった。ジョルジョーネのヴィーナスは、はだかでいることも知らぬげに蜜色の風景のなかに睡っている。しかしその輪郭線は彼女を「自然のヴィーナス」と同一視することを許さない。」
(クラーク、1971年[1980年版]、153頁~154頁)。

上記の文からもわかるように、ドレスデンの「眠るヴィーナス」が占める地位は、ヨーロッパの絵画において、古代ギリシャ彫刻家プラクシテレスの「クニドスのヴィーナス」のそれに匹敵すると最大級の賛辞をおくる。プラクシテレスのヴィーナスは、短い外衣をわきに置いて、儀式的水浴につつましく歩を移すところであるのに対して、ジョルジョーネのヴィーナスは、はだかでいることも知らぬげに蜜色の風景のなかに睡っている。
そのポーズは、ティツィアーノ、ルーベンス、クールベ、ルノワールそしてクラナッハといった優れた裸体像の画家たちに、以後400年にわたって影響を与え続けたとみる。

ただ、「眠るヴィーナス」は秘蔵されていたので、「クニドスのヴィーナス」と違い、比較的人目に触れなかったが、この絵のヴァリアントであるティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」や「パルドのヴィーナス」が大いに影響を及ぼしたようだ。ただ、クラークは、ジョルジョーネのヴィーナスは古代的でないとも断っている。形態的に見ても、このヴィーナスはヘレニスティックでないという(クラーク、1971年[1980年版]、151頁~154頁)。

<「水から上るヴィーナス」とティツィアーノの絵>


クラークは、ティツィアーノの「水から上るヴィーナス」について、次のように述べている。

「 これに対して例外がひとつある。エルスミア・コレクションの≪水から上るヴィーナス≫(95図)のことである。彼女は長い年月と修復によっていたんでおり、その洋紅色(カーマイン)は色褪せ、左腕と肩の線は誰か無神経な修復者の手で改変されてしまった。またティツィアーノ自身が彼女の頭部を塗り直し、今では頭と胴体がぴたりと合っていない。にもかかわらず彼女は古代以降の芸術における最も完全で最も密度の濃いヴィーナス像の表現にかぞえられよう。≪田園の合奏≫の笛を吹く女が十九世紀の女性裸体像の形状を予告的に表わしているとすれば、エルスミアの≪ヴィーナス≫は今世紀のルノワールの裸婦に至って終りを告げるこの主題の全概念を先取りしている。つまり女体はここで、いっさいの感覚的な重みともども、それ自体を目的として、単独で提示されている。物語とか周囲の道具立てを口実に使うことなくこのように裸婦を提示することは、十九世紀以前にはきわめて稀であった。ティツィアーノがどんな状況のもとでこの構想を得たかを知ることができたら面白いにちがいない。おそらく彼がジョルジョーネといっしょにドイツ人商会
の装飾に幾人もの単独裸体像を描いた際、そのうちのひとりを油絵具で描いて保存しておくよう依頼されたのであろう。彼の出発点はむしろ古代の作品にあり、それはおそらくマルカントニオの髪の水をしぼっているヴィーナスの版画の発想源と同一のものであった。ただティツィアーノはヘレニスティックの原作の流れるリズムを両腕によるがっちりとした矩形的なデザインに変え、大腿部すらもある程度までこれに呼応させている。」
(クラーク、1971年[1980年版]、168頁)。

「水から上るヴィーナス」は、古代以降の芸術における最も完全で最も密度の濃いヴィーナス像の表現にかぞえられるとクラークはみなしている。そして「≪田園の合奏≫の笛を吹く女が十九世紀の女性裸体像の形状を予告的に表わしているとすれば、エルスミアの≪ヴィーナス≫は今世紀のルノワールの裸婦に至って終りを告げるこの主題の全概念を先取りしている。」と高く評価している。

クラークは、ボッティチェリを「官能の叙事詩人、肉を描かせたら無比の巨匠」と呼んでいる。
ティツィアーノの出発点はむしろ古代の作品にあるのではないかと推測している。おそらくマルカントニオの髪の水をしぼっているヴィーナスの版画の発想源と同一のものであったとする。ただし、ティツィアーノは、ヘレニスティックの原作の流れるリズムを、両腕や大腿部に関して、がっしりとした矩形的なデザインに変えてしまったという(クラーク、1971年[1980年版]、168頁)。


 なお、「水から上るヴィーナス」は、高階秀爾も「海から上がるヴィーナス」として紹介している(高階、2014年、42頁~43頁)。


<「うずくまるヴィーナス」とルーベンスの絵>



マントヴァ公の宮廷画家として雇い入れられたルーベンスは、「自然のヴィーナス」の巨匠として、当時の最大の宗教画家として、クラークは捉えている。
ルーベンスを「肥った裸婦の画家だと片付け」られない理由について、ルーベンスの均衡のとれた性格および絵画技法の習得に費やした修業の跡に、クラークは求めている。
ルーベンスは「純粋な喜悦の泉はけっして汚されることがない」と信じて疑わなかったが、これこそが、ルーベンスの裸婦に無垢の気配を漂わせているとクラークはみている。ルーベンスは、楽天的な自然観の体現者であったようだ。

ルーベンスの制作方法は、ある種の理想が胸の裡に確固と刻みつけられるまで、古代作品のデッサンを繰り返し、先人の作品を模写し、次に写生に移ると、眼で捉えた事実を想像力のなかに出来上がっているパターンに従属させるものであったそうだ。概して画学生は、こうしたやり方をとっても、様式をつくる方にとびついて、本質を見過ごしてしまうため、うまくいかないという(クラーク、1971年[1980年版]、182頁~186頁)。

そして、クラークは次のように述べている。
「ルーベンスがやったことはその反対であった。彼の場合、他から学び取りながらすでに無意識の記憶となっているものに自身の独自な様式と独特の鋭敏な自然感覚をきわめて多量に盛りこんでいるため、何をもとにして描いているのかなかなか気づかれない。その例外をなすものがカッセルにある≪ヴィーナスとアレア≫で、アレアの姿勢は明らかにドイダルソス(ママ)の≪うずくまるヴィーナス≫から、ヴィーナスはミケランジェロの≪レダ≫のメモからとられている[105図]。だがその盛り上った、浮彫のような処理から言って、この絵はルーベンスの作品中最も古典的な構図に属している。ごく数年後に同じミケランジェロ的モティーフが≪レウキッポスの娘たちの掠奪≫[106図]に使われる際には、バロック的構成に同化されてしまう。事実ルーベンス作品において、他からの借りものがそのまま使われている例は珍しい。」
(クラーク、1971年[1980年版]、186頁)。

ルーベンスの「ヴィーナスとアレア」は、その作品の中では、何を典拠としているかがわかるという点で珍しいようだ。
アレアの姿勢は、古代ギリシャのドイダルサスの作とされる「うずくまるヴィーナス」に拠っているとクラーク氏は指摘している。そして、ヴィーナスの方はミケランジェロの「レダ」のメモからとられているという。
 
この絵を見ても、ルーベンスが古代作品のデッサンを繰り返し、先人の作品を模写し、形態の訓練をしていたことが想像される。ただ、ルーベンスの場合、そうしたデッサンを繰り返して、ある点まで来れば、古典形式に気がねせずに、自由な写生により、独自な様式に達することを彼自身知っていたそうだ。こうして、ルーベンスの描く裸体像は、輪郭線の重ね合わせと、豊かな内部の肉付けによって、ふくよかで、重量感がある。

画家ルーベンスは、外交官としても活躍したが、その思想が反映された絵として、「平和を守るミネルヴァ」(1629-30年、203.5×298cm、ナショナル・ギャラリー[ロンドン])がある。
この絵では、武具に身を包んだアテナ(ミネルヴァ)が、平和と秩序の女神パクスを守り、軍神マルスを退けている場面を描いている。
外交官ルーベンスは、この絵を、時の英国王チャールズ1世に献上した。ルーベンスは、武力ではなく、知恵(外交)によってもたらされた英国の平和と繁栄を祝して、この絵を贈ったとういわれている(高階、2014年、107頁~108頁)。

バロックの大家ルーベンスは、ワトーとブーシェのふたりに霊感を与えた画家であった。

「クニドスのヴィーナス」とアングル


<アングルの「ヴァルパンソンの浴女」>
アングル(1780-1867)に、ヴィーナスを解放し、「クニドスのヴィーナス」に返す試みを実現した画家として、クラークは理解している。アングルはある種の表現的形状を永遠化しようとする欲求が結びついていた。ボードレールは、アングルの絵を「古代の愛のように逞しく充実した絵」と形容している。
アングルは、「憑かれたる形態」を自身の内部から発掘することに努め、個別的なものに対する執着を古典美の理想と和解させるべき必要を認めていた(当時の批評家はアングルを「アテネの廃墟をうろつくシナ人」と比喩している)。

アングルは、裸体像の素描家としても知られている。アングルのラファエロ前派的段階や円熟期のデッサンは、ゴシック趣味が感じられるといわれる。それらのデッサンの多くは、突き出た腹などといったゴシック裸体像の特性(形態論的な特質)が見られる。形態構成上の理想形式は、アングルの霊感を導き出す契機となり、制作の拠り所となった。
アングルの裸体像の系列は、アングルが着想を得てすぐさま制作にかかれると感じて仕上げた絵「ヴァルパンソンの浴女」(1808年)に端を発する。この絵は、アングルの全作品中、最も穏やかで、彼が考える美の最も優れた例示であるとクラークはみている。
アングルの考える美とは、おおらかで単純で持続的で、切れ目なくつづく線で閉じられた豊かに満たされたものをいう。事実、「ヴァルパンソンの浴女」の構成は、古代ギリシャのそれに匹敵する単純さをもっている。

<アングルの「水から上るヴィーナス」と「泉」>
しかし、アングルには、女体に関するほかの理想形式もあった。それは自然らしいポーズに満足せず、もっと人工的な表現をとっていた。そのためか、アングルの脳裡に形成された時期よりずっと後まで実行に移されなかった。そうした理想形式のひとつが、「水から上るヴィーナス」(Venus Anadyomene、「海から上がるヴィーナス」とも)である(クラーク、1971年[1980年版]、198頁)。

アングルの「水から上るヴィーナス」と「泉」には、長々しく複雑な歴史があるといわれる。その最も早い記録(1807年)は、モントーバンにあるヴィーナスのための2点の簡略なデッサンである。ひとつは、「貞潔のヴィーナス」のポーズを示し、もうひとつは両腕を胸の下にまわしている。アングルは、翌1808年に、この図柄を発展させたとみられている。なぜなら、シャンティーの絵に「J・アングルが1808年と1848年にこれを描いた」という銘が入っているからだという。
しかし、アングルが右腕を頭の上で折り曲げるという主要モティーフをそれまで得ていたかどうかの証拠はない(というのは、このモティーフを表わしているデッサンは後の時期の作であるから)。

クラークは、アングルがこのモティーフを、グージョンの「幼児たちの泉」の有名なニンフの浮彫から借用したと考えている(シュリー館のレリーフ彫刻に由来するともいわれる)。
そしてこの借用は、次のような事実を説明するという。つまり、アングルは既に1820年にこの像の第2のヴァージョンに取り組んでいて、そこでは髪の水をしぼるというモティーフが、水甕から水を注いでいうるモティーフ(「泉」の起源をなすモティーフ)に代えられたという事実である。

また、1821年と1823年にアングルはパトロンに「水から上るヴィーナス」の完成を約束したといわれる。ただ、アングルは2人の弟子に制作を手伝ってもらったといわれる1856年まで、「泉」の制作にとりかかったように見えないとクラークはみている(クラーク、1971年[1980年版]、492頁原註68)。

さて、「水から上るヴィーナス」のデッサンから、アングルが古代の記録ばかりでなく、ボッティチェリのヴィーナスにも注目し、またその像にくねりながら形をつくってゆく自分の輪郭線のための保証を見出していたことがわかってくるとクラークはいう。これらのデッサンがすぐさま作品の準備に用いられたかどうかは不明だが、シャンティーにある「水から上るヴィーナス」という絵は、1848年の作である。ここではボッティチェリ的描線がふくよかなラファエロ的肉付けでもって実体化されている。

そしてその1848年から8年経って後、アングルは自分の家の門番の娘の姿を見て、グレゴリアーナ街に住んでいた日々を思い出し、再びこの「モティーフ」を取り上げて仕事にかかった。
先述したように、アングルは既に1820年に自分のヴィーナス像を水甕をもつ少女に変える考えをもっていたといわれる。これはアングルの理想形式のひとつの現われであり、1856年に至って完成させようと決意した。

その結果が美術史上最も名高い裸婦のひとつ、「泉」(La Source、1820年~1856年、163cm×80cm、オルセー美術館)である。主題は、若く美しい女性の姿で表現された泉の擬人像である。1856年に「泉」を完成させたとき、アングルは76歳に達していた。ただ、「メディチのヴィーナス」の場合と同じく、「泉」の名声は、シャルル・ブランがそれをフランス絵画で最も美しい裸婦像とよぶことのできた時期が過ぎると、衰えていったようだ。

<「クニドスのヴィーナス」とアングル>
クラークによれば、繊細な裸体表現の進化した定型は、18世紀の絵画ではなく、彫刻に見出されるそうだ。とりわけ、クローディオン(1738-1814)やファルコネ(1716-1791、代表作に「浴女」1757年、ルーヴル美術館)の名に結びつけられるテラコッタの小像、あるいはセーヴル焼きが挙げられる。

ヴィーナスは、クローディオンによって、18世紀のいかなる芸術家よりも審美的鑑賞的な眼で捉えられた。その作品として、「ニンフとサテュロス」(メトロポリタン美術館[ニューヨーク])があり、優雅で自由なロココ的作風で知られる。
ブーシェ自身は、クローディオンほど女体の感触を喚び起こす鋭敏な感覚に恵まれていなかったが、ブーシェもファルコネも理想への洗練のために、観察がもたらす感情を抑制することができた。かつての昔人間は自然的欲望を抑制して、「天上のヴィーナス」の精神性を得たが、それと劣らぬ欲望を抑制して、ここでは瀟洒に達しているという。

「事実≪ヴァルパンソンの浴女≫の構成は霊感の閃きから生まれたようであり、古代ギリシャのそれに匹敵する単純さをもっている。彼女の語りかける言葉には完全な充足の響きがあり、五十五年後のアングル作品に再び彼女が姿を現わすのを見ても驚くに当らない。しかし女体に関するほかの理想形式はもっと人工的な表現をとっていて、おそらくそのためか、彼の脳裡に形成された時期よりずっと後まで実行に移されなかった。そうしたもののひとつは「水から上るヴィーナス」(Venus Anadyomene)として二点のペン・デッサンに最初に現われている。これらを見ると、アングルが銅鏡の裏面に筋彫りしたものや他の古代の記録ばかりでなく、ボッティチェルリのヴィーナスにも注目していたこと、またその像にくねりながら形をつくってゆく自分の輪郭線のための保証を見出していたことがわかってくる。これらのデッサンがすぐさま作品の準備に用いられたかどうかはわからない。シャルル・ブランによれば、この主題の未完の絵が一八一七年には存在していた。つまりこの年にジェリコーがローマのアングルのアトリエでこの絵を見ているというのだが、何かの理由からそれ以上進められず、シャンティイーにある絵は一八四八年の作である[114図]。ここではボッティチェルリ的描線がふくよかなラファエルロ的肉付けでもって実体化されているが、例えば左の脇腹の輪郭のようなわずかの箇所では、あまりに普遍化が個別化に対して優越している。」
(クラーク、1971年[1980年版]、198頁~200頁)

アングルはすでに一八二0年に自分のヴィーナス像を水甕をもつ少女に変える考えをもっていたと言われる。これは彼の理想形式のひとつの現われであって、一八五六年に至って完成させようと決意した。その結果が美術史上最も名高い裸婦のひとつ、≪泉≫である。≪メディチのヴィーナス≫の場合と同じく、彼女の名声はシャルル・ブランが反駁される危惧なしに彼女をフランス絵画で最も美しい裸婦像とよぶことのできた時期が過ぎると、衰えて行った。」
(クラーク、1971年[1980年版]、200頁)

「ヴィーナスをその閨房から解放し、彼女の≪クニドスのヴィーナス≫tの光彩を幾分でも返してやろうとする試み、そのためにはジロデに確信が欠けておりプリュードンにスタミナが欠けていた試み、これを遂行実現した画家がアングルである。ボードレールはこう言っている。『彼の放蕩は生真面目な、確信に満ちたものである、、、もしシテール島がアングル氏に絵を注文をしてきたら、きっとワトーのそれのような浮かれたものとはならないだろう。古代の愛のように逞しく充実した絵となろう。』」
(クラーク、1971年[1980年版]、196頁~197頁)

<「クニドスのヴィーナス」のポーズとルノワールの絵>


19世紀末には、ヴィーナス像は軽視されてしまっていたが、ルノワールは「浴女とグリフォンテリアの犬」(1870年、サン・パウロ美術館)をサロンに出品し、世俗的成功を収めた。
クラークは、ルノワールの「浴女とグリフォンテリアの犬」という絵について次のように述べている。

「一八八一年ともなると人びとの眼にヴィーナスはアポロンが蒙った運命を繰り返しているかに映ったかもしれない。つまり彼女は軽んじられ、変造され、断片化されてしまって、アカデミー派の冷たく堅苦しい構成とパリ生活(ラ・ヴィ・パリジェンヌ)がもたらすさまざまの卑俗な刺戟挑発の間で二度とかつての輝かしい完全性をもって人びとの想像力を占めることがなかろうと思われたかもしれない。この年、四十歳のルノワールは、妻と連れ立ってローマとナポリに新婚旅行に出かけたのであった。
 ルノワールについて書く人は誰でも彼の女体鑽仰に言及し、女体がこの世になかったら自分はまず画家になっていなかったろうという意味の彼の言葉をひとつ引用する。しかし、読者は、彼には裸婦の絵というものが四十歳までごくわずかで、稀にしか描かれていないことを思い出さなければならない。初めて名声を得たものは現在サン・パウロ美術館にある≪浴女とグリフォンテリアの犬≫である[120図]。これは一八七0年のサロンに出品され、ルノワールにとって以後二十年間に享受するただ一度の世俗的成功を収めた絵であった。彼はいつもの率直さから、自分の絵の起源となるものを強いて隠そうとしなかった。そのポーズは≪クニドスのヴィーナス≫の版画からとられ、光の当て方や物のつかみ方はクールベから出ていた。この相反する発想源は、以後の半生にわたって彼の心を占めるに至る問題が何であったかを示してくれる。それは、ギリシャ人の発明になるあの完全無欠の性格と秩序とをいかに女性裸体像に与えるか、同時にこのような秩序を女体という熱っぽい実在を愛する感情といかに結びつけるか、という問題だった。≪浴女とグリフォンテリアの犬≫は確かに感嘆すべき作品ではあるが、そこではまだ二つの構成要素が調和的に結びつけられてはいない。古代的ポーズがあまりにあからさまだし、クールベ様式の土臭さがルノワールのものである太陽のような気質を表わすに至っていないのである。」
(クラーク、1971年[1980年版]、211頁~212頁)。

「浴女とグリフォンテリアの犬」のポーズは、「クニドスのヴィーナス」の版画からとられ、光の当て方や物のつかみ方はクールベから出たという。
クラークによれば、この相反する発想源は、以後半生にわたる問題を示すという。その問題とは、ギリシャ人の発明した完全無欠の性格と秩序とをいかに女性裸体像に与え、同時に、このような秩序を女体という実在を愛する感情といかに結びつけるかということであったようだ。
この絵では、まだ二つの構成要素が調和的に結びつけられないと評している。古代的ポーズがあからさまで、クールベ様式の土臭さがルノワール的気質を表わすに至っていないらしい。

<ルノワール夫人と「クニドスのアフロディテ」のプロポーションの違いについて>
ルノワールは、裸体とは円柱とか卵のように単純であらねばならぬという確信をもっていたといわれるが、1881年、裸体像の概念の基盤たるべき範例を追求し始めた。その範例を、ファルネジーナのラファエロのフレスコやポンペイ、ヘルクラネウムから出た古代壁画に見出した。その結果、1881年、「金髪の浴女」という題の妻の絵を描いた。
その絵について、クラークは次のように述べている。

「同じ年の末ごろにソレントで描かれた≪金髪の浴女≫という題の妻の絵で[121図]、真珠のように青白くて単純な裸身が、杏色の髪と暗い地中海を背に、古代絵画に出て来るような確固とした輪郭をとっている。ラファエルロの≪ガラテア≫やティツィアーノの≪水から上るヴィーナス≫に似て≪金髪の浴女≫は、何か魔法のレンズを通してプリニウスの激賞した失われた傑作のひとつを目にしているかのような錯覚をわれわれに覚えさせる。そしてわれわれはここに改めて、古典主義とは規則の遵守によって達成されるものではなく――なぜなら若いルノワール夫人の胸囲や胴まわりの寸法は≪クニドスのヴィーナス≫と非常にかけ離れている――肉体的生命をそれ自身が静かな高貴を表わせるものとしてありのままに受け入れれば達成されるということを、納得するのである。」
(クラーク、1971年[1980年版]、212頁~213頁)。

この「金髪の浴女」は、ラファエロの「ガラテア」やティツィアーノの「水から上るヴィーナス」に似て、「プリニウスの激賞した失われた傑作のひとつを目にしているかのよう」だと賞賛している。そして、ここに描かれた若いルノワール夫人を見ると、胸囲や胴まわりの寸法では「クニドスのヴィーナス」と非常に異なるが、古典主義のあり方を再考させられるともいう。つまり、規則の遵守によって達成されるものではなく、「肉体的生命をそれ自身が静かな高貴を表わせるものとしてありのままに受け入れれば」、古典主義は達成されるものと、この絵を見ると気づかされるという。


<ルノワールと古代ギリシャ>
「周知のようにルノワールはプラクシテレスと同じくモデルなしには描けなかった。女中を選ぶにも、「彼女らの肌が光をうまく引っかけた」という理由によらなければならないとルノワール夫人は嘆いていたし、足が萎え妻に先立たれた晩年に再び彼を絵の仕事に駆り立てたものは、新しいモデルの眺めであった。しかしながらルノワールの裸婦たちについて、彼がただ手をのばしさえすれば吊した壁からもぎとれる熟れた桃の実でもあるかのように書くことは、長期にわたる古典様式との苦闘、一八八七年の勝利の後にもつづけられた戦いを無視するものであろう。彼はブーシェやクローディオンのみならずラファエルロやミケランジェロすら参照し、とりわけ古代ギリシャを研究した。ポンペイの記憶やルーヴル美術館でたまたま目にしたブロンズやテラコッタの像が、彼を模刻参考室の公的な古典主義から遠ざけて、アレキサンドリア風のヘレニズムの胴長で西洋梨型の人体に向かわせた。これらの小芸術において裸体像は、いまだ古代の理想化された統一性を留めながらも、幾世紀にもわたる模倣によって原初の面影をすっかり失ってはいなかったし、それらの通俗的自然主義の香り――「植物的ヴィーナス」の感触――が彼を惹きつけたにちがいない。この比例を示した私が知る最初期の作例は、マラルメの『詩と散文のアルバム』の一八九一年版の扉絵に使われた≪水から上るヴィーナス≫のエッチングである。しかしこうしたアレキサンドリア型の人像はふつう一九00年より後、つまりこれらが古代神話の場面とりわけ「パリスの審判」と結びついて驚くばかりに甦った年よりも後の時期に属している。この一九00年以後の時期になるとルノワールは美しくまろやかで彼に名声をもたらした少女たちをしだいに棄て去り、量塊的に血色がよく非誘惑的だが偉大な彫刻の重みと統一性をもつ女の新種族を創造してゆくことが認められる(123図)。事実ルノワールのヴィーナスがその最も完成した形態に達するのは彫刻作品としてであり、奇妙な逆説からこの油絵の巨匠はは次代の絵画にほとんど影響を与えず、近代彫刻に決定的な影響を及ぼした(註74)(クラーク、1971年[1980年版]、216頁~218頁)。

註74では、ルノワールの後期の裸婦たちは、ピカソやローランスのように、未来に眼を向けているが、これに対してマイヨールの裸婦たちは過去に向いているとクラークは記している。
マイヨールの女性小像は古代芸術の模倣であるとという理由ばかりでなく(事実写実的である)、マイヨールが古代と同じ簡潔な官能性によって育まれた造形的確信の持主であるため、ギリシャ的に見えるとクラークは規定している。
マイヨールは異教という原初的な意味で異教徒であり、時間の流れの外にある国の住民であるとする(クラーク、1971年[1980年版]、494頁原註74)。

クラークによれば、「ルノワールはプラクシテレスと同じくモデルなしには描けなかった」という。


ルノワールは裸婦を描くにあたって、長期にわたり古典様式と苦闘したようだ。ブーシェやクローディオンのみならず、ラファエロやミケランジェロすら参照し、とりわけ古代ギリシャを研究した。また、ポンペイの壁画やルーヴル美術館の彫像を目にして、アレキサンドリア風のヘレニズムの胴長で西洋梨型の人体を描いたという。

例えば、マラルメの『詩と散文のアルバム』の1891年版の扉絵には、「水から上るヴィーナス」のエッチングが使われた。また1900年より後、アレキサンドリア型の人像が見られる。そして1900年以後の時期になると、ルノワールは量塊的で血色がよく、偉大な彫刻の重みと統一性をもつ女性像を創造してゆく。
事実ルノワールのヴィーナスがその最も完成した形態に達するのは、彫刻作品としてであるとクラークはみている。逆説的だが、この油絵の巨匠ルノワールは、次代の絵画にほとんど影響を与えず、近代彫刻に決定的な影響を及ぼしたというのである。

<ルノワールという画家>
そして、クラークは、「第4章 ヴィーナスⅡ」を次のように締めくくっている。

「 ルノワールが一八八五年から一九一九年の死までにつくった裸体像の数々は、大芸術家がこれまでヴィーナスに捧げた最も美しい供物にかぞえられ、この長い章に出て来るあらゆる絲をひとつに縒り合わせている。プラクシテレスとジョルジョーネ、ルーベンスとアングルは、たとえ互いに異なっているにせよ、すべてルノワールを自分の後継者に見立てたであろう。彼らもまた彼のように、自身の作品について、とびきり美しい個人の姿を巧みに描写しただけのものだと語ったであろう。それが芸術家のとるべき語り口というものである。しかしながら実を言えば、彼らはすべて記憶と必要と信念との合流、つまり昔日の芸術作品の記憶と、自分らの感受性が必要とするものと、女体とは世界の調和ある秩序のしるしであるとする信念との合流から、自身の心のなかに生まれ成長した何ものかを追求していた。彼らがこれほど熱烈に「自然のヴィーナス」に瞳を凝らしたのは、近より難い彼女の双児の姉妹の姿をすでにちらりと垣間見ていたからである。」
(クラーク、1971年[1980年版]、218頁)。

1885年から1919年の死まで、ルノワールは、裸体像を、「ヴィーナスに捧げた最も美しい供物」として描き続けた。ここで、クラークは大変興味深い比喩を用いている。すあんわち、「プラクシテレスとジョルジョーネ、ルーベンスとアングルは、たとえ互いに異なっているにせよ、すべてルノワールを自分の後継者に見立てたであろう」という。
この比喩に、ヴィーナス像を描いた芸術家ルノワールに対するクラークの高い評価が言い尽くされていよう。
ケネス・クラーク『ザ・ヌード』 (ちくま学芸文庫)はこちらから









《「ミロのヴィーナス」考 その8 ケネス・クラーク氏のヴィーナス論1》

2019-12-06 18:12:20 | 西洋美術史
《「ミロのヴィーナス」考 その8 ケネス・クラーク氏のヴィーナス論1》


ケネス・クラーク氏の『ザ・ヌード』 (ちくま学芸文庫)の購入はこちらから


【はじめに】


前回のブログでは、ハヴロック氏の著作を紹介して、「クニドスのアフロディテ(=ヴィーナス)」を中心とするヴィーナス像を検討してきた。「ミロのヴィーナス」を知るには、「クニドスのアフロディテ」を源流とする数多くのタイプのヴィーナス像にも目配りする必要がある。ハヴロック氏によれば、「ミロのヴィーナス」は、その中の1つのタイプに位置づけられるヴィーナス像であった。

さて、今回のブログでは、そのハヴロック氏が、その著作の中で高く評価していたイギリスの美術史家ケネス・クラーク氏のヴィーナス論を紹介してみたい。
繰り返しになるが、ハヴロック氏は、クラーク氏の業績を次のように賞賛していた。すなわち、
「オリジナルかコピーかという考古学的な問答の対象ではなく、美術作品として偏見なしにミロのヴィーナスを評価したのは、ケネス・クラークただ一人と言ってよいだろう。彼は、この彫刻を、「小麦畑に立つ楡の木」のようだと感じた」
(ハヴロック、2002年、113頁。「第4章 その後:クニディアに触発された諸作品」より)

ところで、クラーク氏のヴィーナス論を理解するには、氏の数ある著作の中で、大著『ザ・ヌード』に拠るのが最適かと思う。後述するように、この著作は名著の誉れが高く、美術史家が推奨する名著である。ハヴロック氏もその著作の中で参考文献として大いに利用ししているのみならず、ギリシャ美術史家の中村るい氏も絶賛している。そして、何より、この名著を翻訳して日本に紹介したのは、他ならぬ高階秀爾氏であった。

この大著は、幅広いテーマを扱っているが、今回のブログは、「ミロのヴィーナス」を主題としているから、クラーク氏がヴィーナスを対象として叙述した部分を中心に紹介することにする。
以前のブログで紹介したように、高階秀爾氏の著作『ミロのヴィーナスはなぜ傑作か?』(小学館、2014年)において、第2章以下第10章まで、ヴィーナス以外のヘラ、アテナ、レダ、ディアナなど、ギリシャ・ローマ神話の女神を解説していた。ただ、そこでは、ヴィーナス自体の名画を取り上げることが少なかったように思われる。
しかし、クラーク氏の大著は、ハヴロック氏が考察の対象とした、様々なタイプのヴィーナスを主題とする名画や彫刻を数多く解説している。
そこで、今回のブログでは、クラーク氏の「クニドスのヴィーナス」および「ミロのヴィーナス」に関する見解を紹介するとともに、名画・彫刻といった西洋美術に取り上げられたヴィーナス像も説明したい。
 なお、字数制限の関係上、クラーク氏の著作を3回に分けて、紹介したい。
(以下、敬称省略)



執筆項目は次のようになる。


・【ケネス・クラークの名著『ザ・ヌード』の目次】
・【ケネス・クラークの名著に対する評価】
・【古代ギリシャの彫刻家について】
・【ケネス・クラークのヴィーナスについての理解】
・<「クニドスのヴィーナス」について>
・【「ミロのヴィーナス」と他のヴィーナス像】

ケネス・クラークと西洋の美術(名画と彫刻)
・【西洋美術の中のヴィーナス】
・<ボッティチェリの絵>
・<レオナルドと「レダと白鳥」>
・<ミケランジェロと「アポロン」像>
・<ヴィーナスの至上の巨匠としてのラファエロ>
・<「クニドスのヴィーナス」とジョルジョーネの絵>
・<「水から上るヴィーナス」とティツィアーノの絵>
・<ルーベンスの絵>
・<アングルの絵>
・<「クニドスのヴィーナス」のポーズとルノワールの絵>

・【もう一つの流れとしてのゴシック的裸体像(腹部の曲線に特徴的)】
・<ギリシャ的な女性観とゴシック的な女性観の対比>
・<「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」に見えるエヴァ>
・<ドイツの画家によるゴシック的ヴィーナス像>
・<オランダのレンブラントの場合 >
・<ロダンの彫刻の場合>
・<「クニドスのヴィーナス」の対立物としてのルオーの絵>

・【まとめ】
・【補論 ウォルター・ペイター『ルネサンス』にみえるヴィーナス】







【ケネス・クラークの名著『ザ・ヌード』の目次】


ケネス・クラーク(高階秀爾・佐々木英也訳)『ザ・ヌード――裸体芸術論・理想的形態の研究』(美術出版社、1971年[1980年版])の目次は、先に紹介したように、次のようになっている。
 「序」以外は次の9章からなる。
 I  はだかと裸体像
 II アポロン
 III ヴィーナスI   
 IV ヴィーナスII
 V  力
 VI 悲劇性
 VII 陶酔
 VIII もうひとつの流れ
 XI  自己目的としての裸体像

「日本語版への序文」でも記しているように、クラークの「本書の基本的な議論は、人間の身体を幾何学的原理にもとづいたある種の構築に変貌させる裸体芸術というものは、紀元前五世紀のギリシャの流れを受けて」いるという前提がある。西洋の裸体芸術は、紀元前5世紀のギリシャの流れの影響があるといい、本書を通読すると、クラークの古代美術史への強い関心がうかがえる(ただ、「裸体芸術とは、ギリシャ人たちによって生み出された芸術形式だ」というクラークの主張は、エジプトの歴史を考慮に入れると、いささか言い過ぎであると自ら断っている)。

また、クラークは、1956年の出版当時、裸体像という主題をイタリア・ルネサンス芸術の研究者の眼で眺め、ギリシャ、ローマの芸術をラファエロやミケランジェロの眼で見ていたと告白している。ただ、1971年時点では、この点を特に強調しようとは思わないと断わっている。その理由は、本書で最も優れている部分は、ルーベンスを論じたところであると思うからという(4頁)。

目次をみてもわかるように、第2章の「アポロン」に続いて、第3章と第4章を「ヴィーナス」に当てていることから、ヴィーナスに対するクラークの関心の高さがうかがえる。章立てのタイトルとして、第5章から「力」「悲劇性」「陶酔」といった章名をつけている。

この点については、先の序文にも記している。「私が取り上げた主題は広大なものであり、それに秩序を与えるためには、「力」とか「悲劇性」とか「陶酔」といったような範疇で分類する以外に方法がありませんでした。この範疇は、今でも充分有効なものと思いますが、しかし、それが多少とも人為的なものであることは否定し得ません」という(3頁)。
取り上げた主題が広大なものであるから、「力」「悲劇性」「陶酔」といった範疇で分類する方法でそれに秩序を与えたと説明している。

【ケネス・クラークの名著に対する評価】


ケネス・クラーク氏の『ザ・ヌード』は名著の誉れが高い。「はじめに」において述べたように、ハヴロック氏はこの著作を高く評価していた。
他にも例えば、著名な美術史家の中山公男は、クラークの『ザ・ヌード』について、次のように評している。
「 力の表現、運動感の提示は、もちろん、これらの先史美術だけのものではなく、全美術史を通じて、ひとつのすばらしい系譜をなしている。ケネス・クラークは、その『ザ・ヌード』で、ギリシャの壺絵や彫刻の躍動的な人体表現からドガの≪スパルタの少女たち≫に至るまでの「力の表現」についてみごとな構成と分析を試みている。それらは、ほとんどすべて写実的な芸術ではあるが、しかし、ほとんどつねに、大なり小なり、人体のフォルムや姿勢に対して、なんらかの歪曲を強制している。ミケランジェロやシニョレルリの場合はもちろんのこと、ミュロンの彫刻ですら、人体に対してひそかな歪曲を行なっている。マニエリズムからバロックにかけての絵画や彫刻の試みたコントラ・ポスト、短縮法、きわめて特異な視点の採用などの諸要素は、すべて「表現」のためのデフォルマシヨンだと考えられる。たぶん、その歪曲が、写実性の基本的な諸要素とほとんど背馳しない限り、私たちはそれを歪曲とは受けとらないし、醜悪だとも考えない。」
(中山公男『レオナルドの沈黙―美の変貌―』小沢書店、1989年、100頁~101頁)。
このように、クラークはその著作で、古代ギリシャの壺絵や彫刻から、ドガの絵に至るまで、「力の表現」について、みごとな構成と分析を試みていると、中山は賞賛している。

また、古代ギリシャ美術史家の中村るいも、今回取り上げている著作『ギリシャ美術史入門』の「コラム9 古代ギリシャの衣装」において、
「美術史家ケネス・クラークは名著『ザ・ヌード』で、人間の肉体こそが、調和や力、陶酔、悲劇性など人間的経験を呼ぶ起こすと述べています。このような身体を演出するのが衣装であり、ギリシャ彫刻を理解する上で不可欠の要素です。」と述べている(中村、2017年[2018年版]、111頁)。

このように、名著の誉れが高い著作であるが、批判もないわけではない。例えば、先述したハヴロックは、その著作で、クラークの著作を批判している。ハヴロックは、「ヘレニズム期ギリシャ美術における女性裸体像という主題の歴史に、クラークが見たのはただ衰退のみだった」(ハヴロック、2002年、91頁)と批判している。
 500ページをこえる大著であるが、西洋美術史に関心のある美術好きの人は、是非とも一読をお勧めしたい。

古代ギリシャの彫刻家について


ミュロンとポリュクレイトス


ミュロンは、競技者の活力の永遠の範例を創造した。その作品「円盤投げ」は、活動中の人体を幾何学的な完全性と融合させようとするあらゆる試みのうち最も名高いものである。この彫刻は、天才が人間の可能性の領域を開く際に示す飛躍のひとつであるとして、クラークは高く評価している。ミュロンは、束の間の移ろい易い瞬間の動作を取り上げ、完結性を与えた。

そしてミュロンとポリュクレイトスを比較して次のように述べる。
「ポリュクレイトスは動作にかからんとして静止している状態の人像を表現しようとしたし、ミュロンは動作をとりながら均衡を保っている人像を表現しようとした。彫刻家としてはミュロンの方がより困難な仕事に立ち向っていたと言えよう。なぜなら、動作を急に堰き止められた人像は、固体であるだけに、何か無理をして限界内に踏み留まっている感を与えがちだからである」と(クラーク、1971年[1980年版]、229頁)。

クラークによれば、静止状態の人像を表現したポリュクレイトスの「槍をもつ人」より、動作をとりながら均衡を保っている人像を表現した、ミュロンの「円盤投げ」の方がより困難な仕事であるとみている(ただし、中村は、自然に立つ姿は運動中より、難易度が高いポーズであるという。中村、2017年[2018年版]、150頁参照のこと)。

フェイディアスの「アポロン」像


古代の著述家たちは、ポリュクレイトスが完全に均衡のとれた男性像を創造したことを認めている。しかし、ポリュクレイトスは神の似姿を創造し得なかったと付言している。
それならば、これを為し遂げたのは誰か。古代の著述家たちは、それはフェイディアスであるという。紀元前480年から440年にかけて、一連の競技者像と並行して、一連の神像が見られたが、それはアポロンの幾つかのアポロン像に至って絶頂に達したとクラークは理解している。

これらのアポロン像は、ポリュクレイトスの形態自身の完成をさらに補足して、イメージの完成を表わしている。古典期に属した偉大なアポロンのイメージのひとつが、原作のまま今日に残っている。それは、オリュンピアの神殿の西正面破風に周囲の争闘を超越して立ち、ケンタウロスの激情に叱責を加えているアポロンである。
クラークによれば、晴朗、非情、また肉体美という力に寄せる無上の信頼など、初期ギリシャの理想とするものを、これほど完璧に具現した例はほかにない(ただ、このアポロンには神的な権威を高める意図から故意にアルカイックな性格が与えられており、肢体の方は造形的に平板で非現実的であるともいう)。

またフェイディアス様式を伝えるアポロン像として、「テヴェレのアポロン」(ローマ)がある。ブロンズ像からのコピーであるが、きわめて美しい大理石像である。ここではポリュクレイトス的競技者と、フェイディアス的神との相違が明瞭である。アポロンは、ポリュクレイトスのそれより丈が高く、より優美である。「テヴェレのアポロン」は、「神々の製作者」(古代の文献がフェイディアスについて述べる際に付された肩書)にふわわしいとする(クラーク、1971年[1980年版]、63頁~66頁)。

【ケネス・クラークのヴィーナスについての理解】


クラーク氏は、前述したように、第3章と第4章を「ヴィーナスⅠ」「ヴィーナスⅡ」として、ヴィーナス論を叙述している(97頁~219頁)。
クラーク氏は、ヴィーナス論をプラトンの『饗宴』の中に出てくる二種のヴィーナス、天界と俗世のヴィーナスの話から始めている。後世、「天上のヴィーナス」と「自然のヴィーナス」と呼ばれたが、中世とルネサンスの哲学では、それが根本命題となって、女性裸体の存在理由を正当化した。
古くから人間の非理性的本性は、イメージに形式を与え、それによって、ヴィーナスを低俗的なものから天上的なものへ高めることがヨーロッパ芸術の立ち還る目標のひとつとなってきたそうだ。
プラトンはふたりの女神を母と娘だとしたが、ルネサンスの哲学者はふたりが双生児であると認知した。
17世紀以後、女性裸体像は男性のそれよりも、ノーマルで魅惑的な主題のように考えられているが、本来はそうではなかった。ギリシアに紀元前6世紀作とされる女性裸体像はなく、紀元前5世紀にも、なお稀である(クラーク、1971年[1980年版]、99頁~100頁)。

<「クニドスのヴィーナス」について>


プラクシテレスの「クニドスのヴィーナス」は、彼がマウソレウムの建立に協力した直後、紀元前350年頃につくられたといわれる。東エーゲ海のコス島の人びとが着衣のヴィーナスを好んで、プラクシテレスの裸体のヴィーナスを受け容れなかったとプリニウスは伝えているが、真偽はともかく、ヴィーナス崇拝が長くつづいていた小アジアの南岸に程近いクニドスという島にヴィーナスはふさわしい存在であった。
ともあれ、「クニドスのヴィーナス」は、肉体の欲望を穏やかに甘美に形象化した像であった。そしてその美は、単にプラクシテレスの創造になるばかりでなく、すでにそのモデルでもあるフリュネーその人のなかに具現されていたとクラーク氏はみる(但し、ハヴロックはこの点に異を唱えている)。
プラクシテレスは美しい人体によってギリシャ世界を豊かにしたが、その功績の一端は彼女のものでもあったとみる(ただ、現存する49体の「クニドスのヴィーナス」の全身像レプリカのうち、原作の面影を幽かにでも伝えるものは皆無であるともいわれる。像の表面に微妙な色彩が施されていたため型取りが許されず、そのため模刻することは絶望的であったようだ)。

<「クニドスのヴィーナス」についてのケネス・クラークの原注>


偽ルキアノスの記述も含めて、この像に関して現在利用できるあらゆる文献資料は、C.S.Blinkenberg, Knidia, Copenhagen, 1933.に収められているという。
 本文で挙げなかった主な事実をクラークは列挙している。
・われわれは「クニドスのヴィーナス」のポーズをローマ時代のクニドス島の貨幣から確認することができる。
・この像の成功に大いに寄与した彩色は、有名な画家ニキアス(Nikias)によってなされた。
・この原作の自由なコピーは明らかにブロンズで鋳造された。そしてヴァティカンにある第二のレプリカ、つまり「ベルヴェデーレのヴィーナス」はこのブロンズ・コピーをもとに大理石に刻んだものである。そしてこの大理石像が16世紀にピエール・ポンタンによって改めてブロンズに移し変えられ、こうして生まれた現在ルーヴル美術館所蔵のブロンズ像は、おそらく「クニドスのヴィーナス」の面影を最もよく伝えるものであろうとクラークはみている。
(クラーク、1971年[1980年版]、481頁原注37)

<中世における「クニドスのヴィーナス」の運命について>


 テオドシウス帝によってコンスタンティノープルに運ばれたと伝えられるプラクシテレスの≪クニドスのヴィーナス≫は、十世紀に至っても皇帝コンスタンティヌス・ポルフィロゲニトゥスの讃美の的となっていた。原作か模刻か、いずれにせよ、十字軍によるコンスタンティノープル攻略の報告書のなかで、ロベール・ド・クラーリはこの像に言及している。その上、肉体自身は、ビザンツ人の眼にもなお、つねに興味の対象でありつづけた。その理由を人種的な連続に求めることもできよう。そして運動家たちは円形競走場(キルクス)で技を競っていたし、労働者たちは腰まではだかになってハギア・ソフィア大聖堂の建造に汗を流していた。
(クラーク、1971年[1980年版]、25頁~26頁)

クラークは原注において、次のようなことを記している。
中世における「クニドスのヴィーナス」の運命についての考察は、Blinkenberg, Knidia, 1933.
にみられる。また、ロベール・ド・クラーリの年代記を立論の根拠として、「クニドスのヴィーナス」は1203年にはまだコンスタンティノープルにあったと推定している。だが、ロベールが述べている像は「青銅づくり」であった。彼によれば、像は「優に20フィートの高さ」をもっていたという(他の点では正確な記述の中で寸法だけを誇張があったとしても、等身大を越える大きさのものであったろうとクラークはみている)。
彼の記述から、像が「貞潔のヴィーナス」だったことは明瞭であり、したがっておそらっく「クニドスのヴィーナス」のコピーか派生的作品であったとされる。
(クラーク、1971年[1980年版]、470頁原注8)

【「ミロのヴィーナス」と他のヴィーナス像】


ところで、19世紀に芸術の象徴のごとくみなされた白大理石の裸体像は、一般に「クニドスのヴィーナス」からではなくて、「カピトリーノのヴィーナス」と「メディチのヴィーナス」というヘレニスティック期の彫像から派生したものである。それらは基本的にはプラクシテレス的理念の翻案であるとはいえ、重大な相違点があるとクラークは考えている。
「クニドスのヴィーナス」はこれから入ろうとする儀式的水浴のことしか考えていないが、「カピトリーノのヴィーナス」は意識的にポーズをとっている。クニドスの右腕の所作がカピトリーノの場合左腕に与えられているが、カピトリーノの「自由な」側の右腕は衣をおさえる代わりに胴体の上方の、ちょうど乳房の下にまわされている。これは美術史上、「貞潔のヴィーナス(Venus Pudica)」の名で知られているポーズである。

「カピトリーノのヴィーナス」の方が、クニドスのそれよりも肉感的な写実に優れているが、あけっぴろげなプラクシテレスの「クニドスのヴィーナス」の裸体表現が世の憤激を買うような場合にも、このポーズをとったレプリカが後世に受け容れられた。ルネサンス以降の美術において「カピトリーノのヴィーナス」が非常な権威を獲得したその理由の大半が、ひとつの翻案的作品「メディチのヴィーナス」にもとづいていることは奇妙なことであるとクラーク氏はいう。後者は、全身をめぐるリズムが破綻しているようだ。その右腕は貞潔であろうとするために、あまりに鋭い角度をつくって曲がってしまい、軀幹をめぐる運動の流れを中断してしまった。そしてウフィツィ美術館の特別席に君臨していた「メディチのヴィーナス」には気取りとわざとらしさがある。ヴィンケルマンこのかた数多くの優れた鑑識家が「メディチのヴィーナス」をもって女性美の範例と見做しているが、それを理想美とする根拠は薄弱である。そして「メディチのヴィーナス」はだだっ広い応接間の飾りものの域を出ないとクラークはみなしている(クラーク、1971年[1980年版]、110頁~118頁)。

<「アルルのヴィーナス」>


ところで、「クニドスのヴィーナス」は、プラクシテレスの作になる唯一の有名なヴィーナスではなかった。プラクシテレスは、テスピアエの住民のためにも両脚が衣に包まれ胸乳を露わにした像「アルルのヴィーナス」(ルーヴル美術館)を作った。ルイ14世時代の彫刻家ジラルドンの補修前のブロンズ像を見ると、この像はひとつの優れた着想を具体化し、彫刻の主要課題のひとつを解決した。すなわち、トルソという完璧な造形的単位を紡錘状に先細りしてゆく支持脚の上に安定して載せなければならないという彫刻家の悩みの種となっていた問題を解決した。
プラクシテレスはただ脚に衣を巻きつけてトルソをむき出しにし、彫像の足場をきわめて堅固にすることに成功した。その結果、壺や柱や海豚といった支持体なしですまし、自由に両腕を演じさせることができるようになった。

ただ、「アルルのヴィーナス」がありきたりに見えるのは、その無表情な表面もさることながら、どちらかと言えば、動きの乏しい構成のせいであるようだ。とりわけ、身体の軸線が像の活力を削ぎとるほど平行に近い。
そして、この点では、後の彫刻家たちがプラクシテレスの創意をさらに発展させてゆくことができた。すでに紀元前4世紀に、膝で支えたマルスの楯を鏡にしてヴィーナスが自分の姿を眺めるというモティーフにこの創意が応用され、像ははっきり目立つ上昇的な対角線を基本にして組み立てられることとなった。ナポリにある「カプアのヴィーナス」がその主要なレプリカである(クラーク、1971年[1980年版]、118頁~120頁)。

<ケネス・クラークによる「うずくまるヴィーナス」への言及>


あるいは、女性裸体像から一例を引くなら、カタログや教科書ではドイダルソス(ママ)の作とされているが確実なところ前四世紀初頭の作と思われるあの≪うずくまるヴィーナス≫[281図]の像がある。洋梨のような彼女の身体の造形的な豊かさは、ティツィアーノ、ルーベンス、ルノワールなど、芸術に豊麗な実りをもたらした太陽たちをはじめとして、今日に至るまで、多くの人びとを喜ばせて来た。そして、この場合には、その理由を見出すのは容易である。というのは、それは豊かな実りの完璧な象徴であり、あたかも木になっている実のように大地の牽引力を感じながら、しかもその構造のなかに、官能的エネルギーの泉があることをも隠そうとしないからである。しかし、女性裸体像のその他のポーズの場合、われわれがそれに感ずる完全さは、ほとんど説明し得ない。例えば、そのような作品の一例として、ルネッサンス期の人びとをあれほどまで魅了した≪ポリクレトの寝台≫の名で知られる(今は失われた)ヘレニスティック期浮彫のあのプシュケーの像の輪郭線を挙げることができる。ちょうど、お祭の時にふと耳にした民謡が、ひとたび意識されるとつぎつぎと多くの作曲家たちの主題の素材として使われるように、このプシュケーの輪郭線はラファエルロ、ミケランジェロ、ティツィアーノ、プーサンなどの傑作に姿を現わし、歌のメロディーが最初の言葉から離れて独立した曲に育って行くように、われわれはそれによって裸体像が独立した存在を獲得するようになったと感じさせられる。
(クラーク、1971年[1980年版]、436頁~438頁)。

<「ミロのヴィーナス」>


このモティーフのもつ可能性は、それから200年ほどの間にさらに発展することになる。「カプアのヴィーナス」は像全体が浮彫のようにプロフィルで捉えられていたが、紀元前100年ごろ、ある天才的な彫刻家の手でこれが奥行きの次元で再構成されることになった。こうして生まれたのが、古代ギリシャの最後の偉大な作品である「ミロのヴィーナス」とクラーク氏は理解している。
1820年に発見されてから数年と経たぬ間で、「ミロのヴィーナス」はかつて「メディチのヴィーナス」が占めていた中枢的な地位を掌握していた。そして美術鑑賞家や考古学者の愛顧を失った今日でもなお、「ミロのヴィーナス」は「美」のシンボルとして確固たる地位を占めている(クラーク、1971年[1980年版]、118頁~120頁)。


<ケネス・クラークによる「ミロのヴィーナス」への言及>


シャトーブリアンとロダンが誤解していたのも、彼らの生きた時代を想えば、無理もない。クラークも、フルトヴェングラーが「ミロのヴィーナス」の制作年代を引き下げたことを評価して、次のように述べている。

「 ≪ミロのヴィーナス≫の名声の一端は、偶然の賜物であった。一八九三年にフルトヴェングラーがそれまでよりも厳密な分析を加えるまで、彼女は紀元前五世紀の原作と信じられており、首つきのさまという利点までそなえた、この偉大な世紀からの唯一の婦人単身立像と信じられていた。こうして彼女は熱烈な党派心のもとで、「エルギン・マーブルズ」が至高の芸術に祭り上げられた時代にめぐり合わせ、得をしたのである。「エルギン・マーブルズ」は堂々として自然であるため、また気取りや作為が見られないため、それまで称讃されてきたが、≪ミロのヴィーナス≫を冷たくとりすました古典主義の寵姫たちと対比させるときにも、同じ頌辞が使われたのである。古代の他の裸体のヴィーナス像に比べれば、彼女は遥かに頑健で多産型であるかもしれない。≪メディチのヴィーナス≫が温室を想わせるとすれば、≪ミロのヴィーナス≫は麦畑に立つ楡の木を想わせる。しかしながら、実のところ、彼女が古代の作品を通じて最も複雑かつ技巧的な産物のひとつであることを考慮に入れるなら、自然らしさを楯に弁護することにはある種のアイロニーがひそんでいる。この像の作者は、当時のさまざまな創意工夫を活用したばかりでなく、前五世紀作品の効果をも与えようと意識的に試みた。比例ひとつを取り上げただけでも、それを証明することができよう。つまりアルルやカプアのヴィーナスでは両乳間の距離が乳から臍までの距離よりも著しく短いのに対し、ミロのヴィーナスでは古い時代の等距離の形式が回復されている。彼女の身体の各面(プラン)は非常に広く穏やかであるため、一見するとひとつの面が次の面に移るときに通過する角が幾つあるのかわからない。建築に譬えて言えば、彼女は古典的な効果をもったバロック的構造物である。十九世紀に彼女がヘンデルの≪メサイア≫やレオナルド・ダ・ヴィンチの≪最後の晩餐≫と同じ美の範疇に加えられた理由も、この効果に求められよう。フェイディアスの英雄時代の作品ではなく、しかも「感受性」という近代的特質を幾分欠いているらしいことを承知されている今日でも、依然として彼女は最も輝かしい人間の肉体的理想のひとつであることに変りはなく、また芸術作品はそれが属する時代を表現せねばならぬという現代批評の合言葉に対する最も高尚な反駁となっている。」
(クラーク、1971年[1980年版]、120頁~122頁)。

このクラークの「ミロのヴィーナス」に関する叙述のポイントを箇条書きにして、まとめてみよう。
・「ミロのヴィーナス」の名声の一端は、偶然の賜物
・1893年のフルトヴェングラーの分析まで、「ミロのヴィーナス」は紀元前5世紀の原作と信じられていた
・「ミロのヴィーナス」は「エルギン・マーブルズ」とみなされていた時代にめぐり合わせ、得をした
・「ミロのヴィーナス」は、他のヴィーナス像に比べ、頑健で多産型
・「メディチのヴィーナス」が温室を想わせるとすれば、「ミロのヴィーナス」は麦畑に立つ楡の木を想わせる
・「ミロのヴィーナス」は、古代の作品を通じて最も複雑かつ技巧的な産物のひとつ
・「ミロのヴィーナス」像の作者は、前5世紀作品の効果をも与えようと試みた。例えば、比例で、古い時代の等距離の形式が回復されている(両乳間、乳から臍までの距離)
・建築に譬えて言えば、古典的な効果をもったバロック的構造物
・「ミロのヴィーナス」は、今日でも最も輝かしい人間の肉体的理想のひとつ

「ミロのヴィーナス」の作られたヘレニズム時代>


「ミロのヴィーナス」の作られた後期ヘレニズム時代について、クラークは次のように述べている。

「 ≪ミロのヴィーナス≫の生成は、後期ヘレニスティックの芸術家が創造の問題にどう取り組んで行ったかを明かしてくれる。彼らは偉大な発明の才に恵まれていなかったので、モティーフの組み合わせと発展に技巧の限りを尽した。芸術史を通観すればこれは異常なことでも不真面目なことでもない。例えば中国やエジプトではこれが通則であったし、ルネッサンス以後のヨーロッパ芸術の極度なめまぐるしさをそのまま優越のしるしと受け取ることはできないのである。ところで、こと女性裸体像に関して、およそ永続的な価値をもつ形態構成上の創意のうち、元をただせば紀元前四世紀に発見されなかったものがまずひとつとしてなかったとは、刮目に値する事実である。「うずくまるヴィーナス」という美しいモティーフがその一例で、後にルーベンスや十八世紀のフランス芸術家は大いにこれを利用した。通例、碑文を根拠としてビチニア出身のドイダルソス(ママ)という後期ヘレニスティックの彫刻家がこれを創始したと言われ、たしかに彼はこのポーズで彫像を製作した。しかしながらこのモティーフは画家カミロスが絵付けをした前四世紀のアンフォラに現われていて、その人像はスコパスの彫刻から想を得ているようである。とすれば「うずくまるヴィーナス」の見事な構成もやはり、あの偉大な造形的エネルギーの時代に起源を遡る筈である。」
(クラーク、1971年[1980年版]、123頁)。

クラークは、「ミロのヴィーナス」の制作年代に関して、いち早くフルトヴェングラー説およびシャルボノー説に注目したので(120頁、482頁原註41)、後期ヘレニスティック時代とみていたことが、上記の文章よりわかる。
そして上記のように、「≪ミロのヴィーナス≫の生成は、後期ヘレニスティックの芸術家が創造の問題にどう取り組んで行ったかを明かしてくれる。彼らは偉大な発明の才に恵まれていなかったので、モティーフの組み合わせと発展に技巧の限りを尽した。」という。つまり「ミロのヴィーナス」などを制作した後期ヘレニスティックの芸術家たちは、偉大な発明の才に恵まれていなかったと捉え、その才能のないのをモティーフの組み合わせに意を注いだとする。
クラークのこの記述からもわかるように、後期ヘレニスティック時代の芸術家や彫刻について、さほど評価していない。これはこの時期を積極的に評価しようとするハヴロックとは対照的である。
そして、クラークは、こと女性裸体像に関して、紀元前4世紀という時代は形態構成上の創意の源を作り出した点で高く評価している。その一例として、「うずくまるヴィーナス」という美しいモティーフを挙げている。クラークによれば、このモティーフは画家カミロスが絵付けをした紀元前4世紀のアンフォラに現われていて、その人像はスコパスの彫刻から想を得ているとみている。そして、クラークは、「うずくまるヴィーナス」の見事な構成も、「あの偉大な造形的エネルギーの時代」=紀元前4世紀にその起源を遡っている。
ただ、通説では、碑文を根拠としてビテュニア出身のドイダルサスという後期ヘレニスティックの彫刻家がこれを創始したとされる(ハヴロックは、平面的な絵画的表現と、立体彫刻、三次元の構想とを区別して、「うずくまるヴィーナス(アフロディテ)」を後期ヘレニズム期の作とみている。ただし、ドイダルサス説には否定的である。ハヴロック、2002年、95頁~98頁参照のこと)。

【補足 クラークのヴィーナス理解】


後期古代の女性裸体像は、数が少ない上に、大部分が粗野であり、実質的に芸術の主題であることをやめていた。
クラークによれば、紀元2世紀以後の作とされる女性の単身裸体像はただの一点もないという。ヴィーナスは宗教から娯楽に、娯楽から装飾へと変転し、次いで消滅してしまった。
そして、再びヴィーナスが世に姿を現わしたとき、建物も思考体系も道徳も、姿を変えていたし、女体も変貌を遂げていた。

エヴァの肉体に、人類最初の不幸な母にふさわしい性格とゴシック装飾の尖頭アーチ的リズムと結合するため、新しい約束的手法(コンヴェンション)が発明されていた。イタリア・ルネサンスの初期の段階における芸術家たちの作品にも、こうしたコンヴェンションの意識が認められる。

14世紀半ば、1357年、シエナで、リュシッポスの署名入りの彫像(海豚に支えられていたというから、ヴィーナス像と推測されている)が発掘され、町の中央に据えられたが、異教の偶像崇拝にあたるとして、国家の布告によって取り外され、敵に悪運をもたらすようにと、フィレンツェの領内に埋められた。この話を彫刻家ギベルティは伝えている(この決定は、像が裸体のせいではなく、異教の偶像だったためであることにクラークは注意を促している)。
また、シエナからヴィーナスが追放されるより50年も前に、シエナ大聖堂の建築家ジョヴァンニ・ピサーノは、「貞潔のヴィーナス」(Venus Pudica)をほとんどそっくりに写した裸像をピサ大聖堂の説教壇上に「基本道徳像」のひとりとして含め入れていた。今日「節制」か「貞潔」の寓意像とみなさており、1300年から1310年の間の作品である(クラーク、1971年[1980年版]、127頁~128頁)。
ケネス・クラーク『ザ・ヌード』 (ちくま学芸文庫)はこちらから







《「ミロのヴィーナス」考 その7 ハヴロック氏のアフロディテ(ヴィーナス)論まとめ》

2019-12-05 11:17:30 | 西洋美術史
《「ミロのヴィーナス」考 その7 ハヴロック氏のアフロディテ(ヴィーナス)論まとめ》



ハヴロック氏の『衣を脱ぐヴィーナス―西洋美術史における女性裸像の源流』の購入はこちらから

【後期ヘレニズム時代の特徴について】


1820年に出土した「ミロのヴィーナス」は、発掘された時に付いていたとされる台石の字体は大体紀元前120~100年ころのもので、後期ヘレニズム期の年代と合致していたことは先述した。この年代は、クラ―マーの言うところの開放的様式と新古典主義的特性の混ざった、彫刻自体のもつ折衷様式とも一致していた。

さて、それでは、「ミロのヴィーナス」が制作されたとされる後期ヘレニズム時代とは、美術史的にどのような時代として捉えれているのか?
この点について、ハヴロックは、1921年に発表されたヴィルヘルム・クラインの見解を紹介している(W. Klein, Vom antiken Rokoko, Vienna, 1921.)。

クラインは、このギリシャ美術後期において、「ロココ」対「バロック」の図式を想定した。ふつう「ロココ」とは、17世紀のヨーロッパ美術におけるバロック様式に続く、フランス王ルイ15世(1715~74年)の時代に栄えた装飾的な芸術様式の言葉であるが、クラインはこれを借用した。
クラインによれば、古代のバロック様式は、紀元前3世紀から紀元前150年ころまでのペルガモンの彫刻に明らかに見られるという。しかし紀元前175年には、やはり小アジアに端を発するロココ様式がとってかわる兆しを見せ、この様式はおおよそ紀元前25年まで続くと考えた。
クラインの定義する古代バロックはモニュメンタルで、英雄的で、神話的なテーマが主流で、動きと表現は力強いと理解した。一方、古代のロココは、サイズが小さくなり、装飾的かつエロティックで、音楽や文学、にぎやかな祝祭のテーマが好まれた。気楽で繊細、時にもの悲しく、時に喜劇的で、目的としては公的というよりも私的なものである。テーマとしては、じゃれあう子供や踊り子などが広く見られるが、ディオニュソス的なテーマや女性像が重要である。

クラインは「うずくまるアフロディテ」(ローマの国立博物館所蔵)とその後世のヴァリエーションと考えられるものを例に挙げて、バロックからロココへの移行を説明している。
クラインが紀元前3世紀前半のドイダルサスの手によるものと考えたローマの国立博物館所蔵の「うずくまるアフロディテ」の方は、豊満な体つきで、そこから重量感のある四肢が伸びてトルソーを支えており、端的に言うと、ルーベンスの裸体像に近い。それに対して後世のヴァリエーションは、体がより正面を向いており、膝を落として落ち着いて安定した姿勢になっている。トルソーはずっと細身である。言ってみれば、18世紀の優美な理想美を体現している。このような特徴は、ロドス島の「うずくまるアフロディテ」にも見られる。

ただ、クラインの説には、時代的制約もあることも事実である。クラインの執筆当時、18世紀のヨーロッパ美術は、革命前の退廃的なフランス宮廷との関連もあり、多くの人に軽薄で表面的で軟弱なものと捉えられていたが、クライン説にも、こうした軽蔑的態度が見られるとハヴロックは評している。

ところで、ロココはバロックのお膝元である小アジアで始まったが、主に栄えたのはアレクサンドリアであったとクラインは考えた。ヘレニズム期の都市、アレクサンドリアでは、ファラオ時代のように巨大な建造物を建てることはできなくなっていた。その代わりに、小さく魅力的なものや、きらびやかな祝祭や、アフロディテの恋人だったアドニス信仰に目が向いた。アフロディテもアドニスも、プトレマイオス朝の女王たちによって人気が高まっていたそうだ(クライン説では、アレクサンドリアは紀元前4世紀後半からプラクシテレスに充分に感化されていたため、バロックの強い影響に屈することがなかったとされている)。

「バロック」という用語は紀元前2世紀のペルガモンとその周辺の作品の華やかな様式を表す語として定着している。しかし、ヘレニズム美術におけるロココ様式を独立した存在と見ることについては、クラインの発表当時から疑問視されてきた。ロココを独立した様式や時期としてではなく、連続した伝統の中でとらえている学者もいる。例えば、「古代美術においてロココ的潮流は紀元前3世紀に始まり、その後ずっとローマ時代に至るまで続いている」とする。
著名なギリシャ美術史家J・J・ポリットは、ヘレニズム美術におけるロココ期を定義することが正しいかどうか疑問視している。年代を断定する作品が少なすぎるという理由からであるが、もしロココ的性質を持つヘレニズム時代があるとすれば、紀元前2世紀後半の可能性が高いという。

ハヴロックの見解では、少なくとも紀元前2世紀になって群像立体彫刻に新しいテーマが加わったという点に関しては、クライン説は正しいとしている。
そのような等身大よりほんの少しだけ小さい群像は、広く複製された。そのサイズと独創的なデザインは偉大な業績で、ギリシャ美術史において新しい関心が生じた。そして女性のヌードがいわゆるロココ期に人気があったテーマだということについても、ハヴロックはクライン説に賛成している。
しかし、ハヴロックにクラインと意見を異にするところがある。それはこの新しい方向性が示されたのは紀元前175年ではなく、紀元前2世紀も終わりになってからである点である。そしてクラインが提案したような紀元前2世紀前半のペルガモン王国の重厚なバロックに対する反動として生まれたのではなく、このロココ様式はむしろ新しいタイプの注文主の趣味に応えたものであるとハヴロックは考えている。

後期ヘレニズム時代(紀元前150~100年)に新しく起きたエロティックな匂いのする裸体に対する好みは、アフロディテ像だけに限らず、いわゆるロココ様式の作品に多く見受けられる。例えば、「アフロディテとパン(牧神)とエロスのデロス島の群像」は、その好例である。それは、紀元前100年ころに刻まれ、おそらく紀元前2世紀後半の彫刻家ヘリオドロスの手によるものと考えられている。全体の構図こそ独創的であるが、個々の像は類似例がある。アフロディテはクニディアのしぐさのパロディーである。
先述したように、陰部を覆う片手のポーズが模倣されているのが、はっきり見て取れるのは、この時が初めてであるが、プラクシテレスは複雑な意味を伝えようとしたが、デロス島の彫刻では、その宗教的な含意は風刺とユーモアに覆われてしまった。

古代ロココ期の主題では、アフロディテとディオニュソスの人気が高く、二人とも人生の喜びを司る女神である。デロスの「パンとエロスとアフロディテの群像」を見てもわかるように、物語的な興味を引き、見ている人を引き込みやすい。しかし、これらの彫刻を包括的に見れば、特に優雅で上品でもなく、18世紀のロココ美術になぞらえるのにはかなり無理があるとハヴロックはみている。むしろ、がさつで、単刀直入で、ユーモラスである。
さらに18世紀美術の注文主の多くが女性だったのに対し、これらの群像はかなり単純な男性の好みを反映しているともいう。紀元前2世紀後半に始まったこれらの群像の革新性についてのクラインの評価は的確だったが、その様式的特性についてはいま一つ理解が欠けているとハヴロックは批判している。

さて、一方で、紀元前2世紀後半から紀元前1世紀にかけては、激しいエロティシズムよりも、情緒を高揚させる効果を求めるパトロンもいた。彼らは、活気溢れる動きよりも緩やかな動作を、あけすけな性的表現よりも何かをじっくり考えさせる物語的群像を好んだ。
南イタリア生まれのギリシャ人、パシテレスの作品はその好みに合ったものである。彼は彫刻家であると同時に、学者でもあった。彼の一番弟子であるステファノスと、その弟子のメネラオスは、紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけてローマで活動し、師の路線に沿った作品を作り続けた。対立するというよりも親しく語らうような構図の二人組が構成されており、簡素で質素なその人物像を見ていると、内省的な気分にさせられる。ポーズやドレープのあしらいは、過去の芸術からの程良い影響を感じさせる。

例えば、現存する「ステファノスの若者像」のコピーには、若者が謎めいたささやき合いや以心伝心の意志疎通をしているペアとして表されているものも多い。ナポリの国立博物館にある「オレステスと姉のエレクトラ」の像はその一例である。
いわゆる「ステファノスの若者像」である男性像は、ドリュファロスのポーズよりも物憂げなコントラポストのポーズで立っている。このような群像でヌードになるのは、男性像に限られていた。おそらく裸体に肉欲よりもヒロイズムや向上心を映し出したかったのだろうとハヴロックは推測している。硬質な表面の質感や抑制された輪郭と、気取った上品な雰囲気のコントラストは、刺激的でさえあるともいう。

さて、以上のように見てくると、後期ヘレニズム時代のモニュメンタルな彫刻においては、図像学的に見て、少なくとも二つの潮流が判別できる。
一つ目は、「ロココ」様式である(ハヴロックは他に適切な言葉がないので仕方なく使うと断わっている)。エロティックで、煽情的で、陽気という特徴を持つ。
もう一方は、古典主義的で、礼節を保ち、品位を感じさせるようなパシテレス一派に集約される系統である(古典主義は、当時の芸術理論でも明言されている)。

紀元前1世紀には、クィンティリアヌスやキケロ、そしてパシテレスが表明した、高尚な道徳観が突出しはじめている。したがってフェイディアスやポリュクレイトスの優位性が主張されるようになった。
クラインによれば、ロココ群像に付きものとされる軽やかさや官能性は、プラクシテレスの影響であるが、後期ヘレニズム時代からローマ時代にかけての恋愛詩にも鮮やかに反映されているとハヴロックはみている。ともあれ、二つの潮流は、同じ現象の表裏であるようだ(ハヴロック、2002年、109頁~110頁、127頁~134頁)。



 ハヴロックの著作を要約する前に、「クニドスのアフロディテ」「ミロのヴィーナス」などについて、補足をしておきたい。

【補足】「クニドスのアフロディテ(通称クニディア)」について


「クニドスのアフロディテ」は、ポリュクレイトスの「ドリュフォロス(槍を持つもの)」と同様に、ギリシャ美術の中核をなしている。「クニドスのアフロディテ」の柔和で穏やかな姿は、抑制された理想的な輝かしい女性美を表現している。

フリュネはギリシャの高級娼婦だが、プラクシテレスが愛人フリュネをモデルにしてアフロディテ像を彫ったという逸話があるが、彼女は主にフィクションの人物であり、プラクシテレスとの関係は彼の死後捏造された架空の物語であるとハヴロックは考えている。ただ、19世紀の終わりには、これらの物語や詩は、クニドスのアフロディテの解釈の手だてとして確立していた。

ところで、ヘレニズム期も終わりに近づいて、急にプラクシテレスの彫刻が新たな強い関心を引くようになった。風刺詩(エピグラム)にクニディアの裸体美に関する言及が見られ、またフリュネとプラクシテレスの男女関係についてのフィクションがその頃出回り始めた(モデルと恋に落ちるプラクシテレスという発想には、オウィディウスの書いた象牙の乙女に恋するピグマリオンと相通じるものがある)。
紀元前1世紀前半、ギリシャが完全にローマの支配下にあった頃、クニディアの評判は高まり、東方の富裕な王が高値で競り落とすまでに至った。

また、デロス島で見つかった「アフロディテとエロスとパン(牧神)の群像」は後期ヘレニズム期(紀元前150~100年)にクニディアが再発見されたことの証拠であるとハヴロックはみなしている。陰部を覆う右手のポーズが模倣されているのが見て取れるのは、この時が初めてである。このポーズを考案したプラクシテレスは、それによって複雑な意味を伝えようとしたが、デロス島の彫刻では、その宗教的な含意は風刺とユーモアで覆われてしまったとハヴロックはみている。

「クニドスのアフロディテ」のレプリカは、デロス島の三神像が作られたのとほぼ同時期から、数多く制作されるようになるが、その大半は縮小型である。後期ヘレニズム期における未曾有のクニディア人気を示している。この頃、プラクシテレス作品に想を得て、多くのヴァリエーションの像が現われた。手で陰部を覆うポーズのものもあれば、衣服のドレープで隠し、自由になった手で髪をまとめたり盾を持ったりしているものもある。立っていたり、跪いていたり、かがんでいたり、腰を曲げていたり、振り向いていたりと、様々なポーズを取ったアフロディテの裸体像が作られている。若い愛の神エロスが、母アフロディテと遊んでいたり、鏡を持ってあげたりしているものもある。ただ、これらの作品をデザインした彫刻家はほとんど無名である。あまりにも多いため、クニディアとその他の7タイプに限定してハヴロックは検討している。

そこには、時系列と解釈にまつわる問題や、制作年代についての問題があるが、その問題の中心には、ヴィンケルマンの意見がある。それはヴィンケルマンの唱えたギリシャ美術に関しての根強い信念、すなわちヘレニズム期は政治的下降期であり、結果その芸術も衰退に向かっていたという意見である。ハヴロックはヴィンケルマンをはじめとする学術界の性癖(つまり題材ではなく作品を扱わなければいけないことを忘れがちな傾向)を批判している。

またアフロディテ像については、ある種の父性原理的なバイアスが培われてきており、その偏見のせいで受け止め方に悪影響が生じているのは、クニディアだけではなく、別の有名な彫刻、メロス島のアフロディテ(「ミロのヴィーナス」として著名)も同じであるという(史上最も有名な彫刻の一つにふりかかった学術界の不思議な出来事についてもハヴロックは言及している)。

ハヴロックは持論として、等身大のレプリカの方が縮小されたコピーやミニチュアの像よりオリジナルに近いということは決してないと主張している。小さいコピーは、彫刻家が既存のタイプをどのように捉えていたかを知るのに格好の材料であるという。
そして、かつて古代ギリシャ彫刻のローマ時代におけるコピーとされてきたものの多くが、実は後期ヘレニズム期もしくは初期ローマ時代の創作であったことが明らかになりつつあり、その結果、後期ギリシャ美術の評価は好転してきているそうだ。
そして、アフロディテ像の7タイプに、例えば壺絵や小像の前例があったか否かも、調べるべき問題である。というのは、そのタイプは目新しい創作なのか、過去の芸術からの借り物なのかという疑問は、後期ヘレニズム期の業績の評価は関わってくるからである。つまり、ヘレニズム期はまだ活気と創造性を保っていたのか、それともヴィンケルマンがいうように、新たな着想のない衰退する時代だったのかに関わる問題であるからである。

最も早い時期のコピーがどこで発見されたかは、それが宗教的用途のものか世俗的用途のものか判断する材料になりうる。小像が発見された場所、例えば個人宅か、公園か、墓所か、といったことが、その用途を明らかにすることになると、ハヴロックは考えている。
ハヴロックは、ギリシャの全域の遺跡とポンペイから例を集め、年代的には後期ヘレニズム期からイタリアにおける初期帝政ローマ時代までをカバーして調べているが、かなり多くのアフロディテの彫像が、どちらかといえば世俗的な場所で発掘されていることから、そうした像が万人に共通の願いを体現していると仮定している。その上で、等身大のレプリカが公共の場に飾られるようになったのは、後期ローマ時代以降のことであると付言している。

後期ヘレニズム期における女神アフロディテの彫像には、ある種の趣向が見られる。古代の「ロココ」と呼ばれた。それは後期ギリシャから初期ローマ時代にかけての、巧妙に作られたエロティックな感情を喚起する群像について、付けられた呼称である。これらの作品は遊びと快楽中心の性的な出会いを主題とし、女性の裸体の露出と鑑賞を目的としたものである。古代の「ロココ」群像のディオニュソス的な活気とセクシュアリティには宗教的な意味合いがあり、アフロディテの身体美も神々しいものである。ただ、古代の「ロココ」美術は、軽薄であり、不運にもギリシャ美術の崇高な理想から外れて生まれたということから、必ずしも評価は高くない。けれども、アフロディテの彫像は、後期ヘレニズム期の活気ある文化全体のかけがえのない証拠でもあるとハヴロックは考えている。

こうして、ハヴロックは次のようにまとめている。「女性の裸体が彫刻の題材として主流となる気運が本当に高まるのは、古典期でも初期ヘレニズム期でもなく、ギリシャとローマが画期的な交代を迎える紀元前2世紀後半から紀元前1世紀にかけての洗練された世俗的文化が花開いた時代である」と(ハヴロック、2002年、9頁~17頁)。

<「クニドスのアフロディテ」の安置場所>
「クニドスのアフロディテ」の安置場所はどこだったのか。古代都市クニドスは、トルコ南東部の狭隘な半島に位置しており、現代のテキールにあたる。アフロディテの聖域は、その街を見下ろす高台に立っていた。海に臨んだその高台からは、半島を周回する航路の難所をよく見渡すことができた。「よき旅路の」アフロディテに捧げられた聖域としては、うってつけの立地条件だった(ハヴロック、2002年、72頁)。

【補足】「ミロのヴィーナス」について


ハヴロックは、アフロディテの7つのタイプはすべて紀元前150年以後に新しく作り出されたものだと結論づけている(実際にはもう少し新しいと言ってもよいとする)。
というのは、デロス島の「アフロディテとパンとエロスの群像」は、台座に残された寄贈者の銘から紀元前100年ころのものだと分かるが、これより古いと確証をもって断定できる作例は存在しないからだという。
同じように、刻まれた文字から年代が確定できる作品に、「ミロのヴィーナス」がある(紀元前125~100年)。このことから、官能的なアフロディテの形を取った裸体の女性は、紀元前2世紀の終わりになって初めて、一般的な彫刻のテーマになったものと考えている。

また、クニディアや仲間のアフロディテたちのレプリカは、紀元前2世紀から帝政期に至るまでのギリシャ・ローマ世界全域から発見されている。ただ、像の分布域よりもその像の果たしていた役割、とりわけ創生期にどのような目的で創られたかが重要なポイントである。ついで、後期ヘレニズム期から帝政ローマ時代にかけて、女神像がどこにどのように置かれていたか、代表例を集めることが大切である。

等身大より大きな「ミロのヴィーナス」は、当時としてはかなり珍しかったようである。劇場そばのニッチのような場所で発見されたと言われているが、もともとの周辺状況を知ることができない。
「アルルのアフロディテ」と「カプアのアフロディテ」については、劇場にあったことがより確実に断言できるが、紀元後2世紀までは劇場のような壮麗なシチュエーションに等身大の彫像をおくことは、数として多くなかった(そのため、ハヴロックは、小規模の彫刻に焦点をあてて、第5章で「文脈の中のアフロディテ」と題して論を進めている)。
(ハヴロック、2002年、119頁~120頁)

【補足】<デロス島の「アフロディテとエロスとパンの群像」について>


デロス島で見つかった「アフロディテとエロスとパンの群像」は、後期ヘレニズム期(紀元前150~100年)にクニディアが再発見されたことの証拠である。それは、1904年にフランスの考古学者が発見し、現在はアテネの国立考古学博物館に所蔵されている(それはギリシャ時代のオリジナルであり、群像としてのレプリカではない)。発掘された場所は、ベリュトス(今日のベイルート)のポセイドン信者たちが建設した巨大な建造物跡であった。
その建造物は、紀元前153年から152年に、旅行者のための宿泊施設のようなものとして、東方の流儀でポセイドン神をあがめていたベリュトスの船主と商人たちによって建設されたものである。そして、それは紀元前69年にデロスを占拠した盗賊によって破壊されるまで、使われた。
デロス島発見の群像の台座には、奉納者の名前が刻まれており、そこからは注文した正確な日付と理由が分かる。また、発見された場所もその意味と用途を物語っている。

ところで、その群像を見ると、にやついた笑顔を浮かべた獣のパンは、女神の気を引こうとしており、片手で女神の腕をつかみ、片方の手を背中に回している。アフロディテは全体的に肉付きが良く、柔らかく、肉感的な印象を与える。髪はスカーフを結んで束ねられ、右手を挙げ、今にもパンをサンダルでひっぱたきそうである。エロスは笑いながら、両者をつなぐ橋のように宙に浮いている。
この群像でもっとも意味があるのは、アフロディテが片方の手(この像では左手)で恥部を覆い隠している点である。というのは、年代の明らかなオリジナルが残っているものの中では、プラクシテレスが考案したこのしぐさの最初の作例であるからである。この作者がクニディアを知っていたことは、数々のデロス島の家から、クニディアの複製が発掘されていることから確かである。
プラクシテレスの著名も見つかっていることから、彼の名前とそのクニドスの彫像とは、ヘレニズム後期のデロス島ではかなり知られていたことが分かる(ハヴロック、2002年、13頁、69頁~72頁)。



【ハヴロックの著作の要約】


プラクシテレスの「クニドスのアフロディテ」と近代的バイアス


古代の著述家たちは、プラクシテレスのアフロディテに関する詩や賛辞を残した。この像は、単なる大理石の彫像ではなく、アフロディテ自身が乗り移った、生きた女性として認識されることが多かったようだ。その柔和な表情とつつしみを示したしぐさは、エロティックさと神々しさを体現していたが、その裸体像は、いつでも容易に神殿で鑑賞することができ、多くの見物客を集めた。
数々の逸話があるが、プラクシテレスの「クニドスのアフロディテ」は、形而上的なプラトンのイデアのようなものを表現したのではなく、実体のある愛人フリュネの体をモデルにして作られたということをそれらは物語っている。フリュネが高級娼婦であったことから、二人の恋愛関係は危ないエキゾティックな香りのするものになったが、逸話による限り、彼女こそ彫刻の女性そのものであると想像してしまうほどである。

ただ、注意すべき点をハヴロックは指摘している。つまり、こうした古代の風刺詩や文献は、プラクシテレスの名作に対して、19世紀から20世紀の美術史家などのバイアスに影を落とした点である。ベルヌーイもその一人であるとみる。ベルヌーイこそ、クニディアやその他の古代アフロディテ彫刻に関する後世の研究の素地を作ったのだが、彼が生きていた時代は、父権主義的な色彩が強く、売春の招いた惨状に攪乱された時代だった。
古代の文学者が、既婚男性と愛人との情事をこっけい味と皮肉をこめて表現していたのに対し、近代の著述家はフリュネの振る舞いを倫理に反した不適切なものと見なした。そして、その見方はアフロディテやプラクシテレスの作品、本人自身にまで及び、その責を負わされることになったとハヴロックはいう。

古代文献の注意点


そして、次に注意すべき点は、「クニドスのアフロディテ」の解釈に大きな影響を与えた文献が、彫刻が安置されてから何世紀も経って記された点である。同時代はおろか、ヘレニズム期の文献ですら、クニディアに言及していない。
時代の確定している文献の中では、紀元前70年のキケロ(紀元前106~紀元前43)の作品が最も古く、クニドスの市民は女神像を売る際にどれだけの金額を要求したのだろうかと問いかけているそうだ(『ウェッレス弾劾』)。そして、重要な情報源として信頼されているプリニウス(紀元後23~79)、パウサニアス(2世紀後半)、ルキアノス(紀元後約120~200年)は、キケロから200年後の著述家である。

一方、紀元前4世紀のギリシャ人の反応は、かなり違ったものだったとハヴロックは推測している。すなわち、当時のクニディアは崇拝対象で、巡礼者が入れないような小さな祠に奉られた神聖な像であったとみる。当時の状況では、この像を生身の女性(フリュネにしろ他の誰にしろ)と見まがうことは信じがたく、アフロディテの全身は神の現れと見られるべきものであったとハヴロックは捉える。当時、この像が衝撃や興奮を巻き起こしたという記録は残されておらず、おそらくその壮麗さのあまり、プラクシテレスの同時代人は沈黙するほかなかったと想像している。

ローマ帝国下のクニドス


さて、時代が移れば、状況も変わってくる。紀元前2世紀後半からローマ帝国が地中海世界の統一を図り始めると、交通や交易や観光が発展してくる。ローマから東方ヘレニズム地域のギリシャ都市への道が開かれ、比較的安全に旅行できるようになる。
クニドスも、紀元前129年にローマから自由港の認可を受け、商船や貿易商人は増す一方だった。紀元前31年のアクティウムの海戦後、アウグストゥスは、スペインからシリアまでを傘下に収めた。プリニウスやルキアノスなどの著述から、クニドスが人気の寄港地だったことがうかがわれる。こうして、エキゾティックな裸体像であったクニディアは、国際色豊かな好みを持つ観客の賛美の的となった。
また、アペレスが描いたアナデュオメネを見ることができたコス島も、少なくともアウグストゥスがその絵をローマに持ち去るまでは、クニドスと並ぶ人気の寄港地だったのである。

風刺詩の中のプラクシテレスとフリュネ


クニディアの名声が高まるにつれて、それにまつわる風刺詩も作られるようになった。そうした詩の中には、おそらく後期ヘレニズム時代かそれ以後の作と思われる年代不詳の詩があり、芸術家プラクシテレスと高級娼婦フリュネのつながりを明言している。二人が初めて関係づけられたのも、この時期だとハヴロックは推測している。二人は、当時の風潮に乗って創作されたとみる。
紀元前4世紀にアテナイにいたとされる高級娼婦フリュネと、クニドスにある愛の女神像(ヘレニズム後期のその頃にいたって脚光を浴びるようになったクニディア)を彫ったアテナイ人の彫刻家プラクシテレスが結びついても、理論上はおかしくないというのである。そしてフリュネは、モデル兼愛人の原型として歴史に残ることになった。

ところで、後期ヘレニズム時代から帝政ローマ時代初期にかけて書かれた詩文や風刺詩は、クニディアを理解するのには役立たないかもしれないが、他のアフロディテ像の解釈と年代同定には大きな意味を持つ。この点、オウィディウスの哀歌形式の詩は興味深いという。彼の詩はその優雅さとエロティシズムとユーモアゆえに、「ロココ」的だと考えられてきた。彼のヴィーナス、彼の恋人コリンナは、まるで美しい彫刻であるかのように対象化され、崇拝された。恋愛そのものは、オウィディウスより前の世代から既に中心的テーマになっていたが、エロティックな哀歌という新しい文学ジャンルの誕生は、アフロディテ彫刻がグレコ・ローマン美術に広まり始めたのと、時を同じくしている。そして、これらの詩のほとんどが、女神や高級娼婦の愛人に向けて歌われたものであるそうで、プラクシテレスとフリュネの恋愛関係も、この流れに位置づけられるとハヴロックはみている。
そして、フリュネとプラクシテレスの逸話は、デロス島から出土した「アフロディテとパンとエロスの大理石製群像」(ポセイドン信者の集会所から出土)と共通点があるともいう。文献から読み取れるフリュネのじらすような振る舞いは、デロス島のアフロディテに体現されているとする。

「クニドスのアフロディテ」と7タイプのアフロディテ


ところで、ベルヌーイ以降、「クニドスのアフロディテ」は、後続のギリシャの彫刻家に、インスピレーションを与えたと正しく認識されてきた。ハヴロックが紹介した7タイプのアフロディテは、プラクシテレスの彫刻の影響を受けており、古代の女性裸体彫刻に関する近代の議論を支配してきた。
ただ、その中で、ギリシャ時代のオリジナルが残っているのは、「ミロのヴィーナス」だけであるとハヴロックは指摘している。その他の名前の付いた彫像の大半は紀元後2世紀から3世紀にかけてのローマ時代のコピーである。

ローマを中心にイタリアに集まっていたそれらの彫刻は、ヴィンケルマンやベルヌーイなどによって聖典化され、以後、芸術家たちに賛美されることになる。20世紀になっても、これらの作品が私たちの思考や知識を過度に支配してきたし、そしてこれらの作品によって直線的進化がたどられてきたとハヴロックは批判している(そして、より古い時代に作られた違ったタイプの小さなコピーは、年代的な問題に重要な光を投げかけるものであったのにもかかわらず、ほとんど顧みられることはなかったと不満を記している)。

それはさておき、アフロディテの7つのタイプは、ギリシャ時代後期の創作である。それらをひとつのグループとしてとらえれば、その出現の持つ重要性も増す。
紀元前4世紀中ごろのプラクシテレスの作品に続いて、間髪開けずにオリジナルが連なっていったのではなく、全裸や半裸の女神像が華々しく開花するまでには、およそ紀元前330年から紀元前100年までの間、2世紀にも及ぶ空白期間があったということが、立証されていることに注意を促している。

そして、この後、官能的アフロディテは初めて人気のタイプとして揺るぎない座を築くこととなった。これらの後世のアフロディテ像のうち、カピトリーノとメディチの2タイプは、ずっと昔のクニディアからヒントを得たものとハヴロックは考えている。
それに対し、「うずくまるアフロディテ」、半裸や全裸の「アフロディテ・アナデュオメネ」、「サンダルを脱ぐアフロディテ」「ミロのヴィーナス」「アフロディテ・カリピュゴス」は完全に新しい創作であるとみている。
「アフロディテ・カリピュゴス」以外の各タイプについては、人々が多くのコピーを欲しがったことで、急速に複製が作られるようになり、それと同時に芸術活動にも拍車がかかった。

ところで、アフロディテの裸体像は、紀元前150年以後生まれ変わったとする見解をハヴロックは支持している。プリニウスも、第156オリンピア期間(紀元前156~153年)を境に芸術は復興したと『博物誌』に記していることも、その論拠としている。
ほとんど同時期に、小さな大理石やテラコッタ製の複製も出回り始め、広域に分布するようになった。複製は多様性に富み、ポーズの左右が逆だったり、頭部の角度が違っていたり、しぐさが異なっていたりする。また、イルカやリンゴや壺や鏡や柱といった付属物が、必要に応じて、添えられたり外されたりした。
ただ、タイプの数は比較的限られており、レプリカ同士でかなりの類似を示すものもあることから、単一の工房内において協同作業で工程が進められていたようだ。また、デロス島の発掘結果から、特定の工房が一つないしは二つのタイプを得意にしていたことがわかる。

壺の形も彫像もそうであるが、ギリシャ美術は定式によって限定された範囲内で製作される傾向があった。職人の一人一人が、柔軟性のある、一般的なタイプに基づいて作った自分なりのヴァージョンに誇りを持っていたとハヴロックは推測している(クレオメネスも、そのような気持ちで「メディチ家のアフロディテ」にサインしたとする)。
ブロンズや大理石やテラコッタといった素材は、像を置きたい場所に応じて選ばれ、デロス島で圧倒的に大理石像が多かったのは、陶土が採れなかったからであるらしい。

また、テラコッタの小像は、年代がはっきりしているものが多いため、そのタイプが生まれた時期を決定するのに特に役立つ。個人宅から多数発見されているほか、家庭内の神殿や墓地からも見つかっている。しかし“純粋芸術偏重主義の偏見”にとらわれすぎて、これらのモニュメンタルな作品群から学ぶべきものを学んでこなかったとハヴロックは不満を抱いている。

ところで、プラクシテレスの女神像は、神殿に立っている、穏やかな女神の姿である。この像のポーズの由来を分析した結果、それが紀元前4世紀中盤に作られた真の古典主義的表現だという確証を得た(ただ、ハヴロックは、しぐさや付属物から物語的なコンテキストを読み取ることはできないという)。
しかし、後期ヘレニズム期のアフロディテ像の場合はだいぶ違い、そのしぐさには人を動かさずにいられないところがあった。カピトリーノとメディチ家の像の恥じらいのしぐさ、「うずくまるアフロディテ」、アナデュオメネ、「サンダルを脱ぐアフロディテ」の優雅な動きは、人々に感嘆と尊敬の意を起こさせる。
恥じらいのしぐさを取る彫像は、女神の力の中心や、女性の体の美と豊かさを肯定しているという。そして、「うずくまるアフロディテ」の豊かな肉付きは、より肉感的な女性像の表現として賞賛されたであろう。
そして半裸の「ミロのヴィーナス」の誇り高く自律的な態度は、私たちの同情を引こうと感傷的に訴えかけてくることはしないとハヴロックは捉えている。そして、この像は官能的でありながら、よそよそしく作られているともいっている。

ヘレニズム期理解の見直し


ところで、ヘレニズム期は創造性の欠如した模倣の時代で、衰退は必至であったという説が、ヴィンケルマンによって広められた(このことは、「ミロのヴィーナス」理解・評価に影響を与えた)。今日では、ヘレニズム期全体というよりも、後半もしくは後期3分の1に限定して、この概念が適応されることが多い。
その結果、紀元前150年以降に広まった数多くのアフロディテ像のタイプは、より想像力に富んだ時代のギリシャ美術のモデルから着想を得たものでなければならないという、基礎的な前提ができあがったそうだ。この理屈から考えれば、初期および盛期ヘレニズム期は、より時期的に早いため、後期ヘレニズム期よりも無条件に革新的だということになってしまう。たとえば、後期ヘレニズム時代に作られた本物の傑作である「ミロのヴィーナス」は、二級品のローマ時代のコピーしか残っていないオリジナル作品のコピーに格下げになっていた!! これはばかげた論理であると、ハヴロックは非難している。
そして、現代では、後期ヘレニズム期は極めて創造力ある時代であり、無味乾燥な枯渇した時代ではないということを証明しようとするのが、研究の推進力になってきていると付言している。

ヘレニズム期のアフロディテ像について


さて、ヘレニズム期のアフロディテ像の発展について、どのように考えられてきたのか。
まず、ベルヌーイの歴史観を基にして進化の枠組みが考えられ、それが19世紀全体の考え方の基礎となった。ベルヌーイは、紀元前4世紀のクニディアを出発点として、その後、女性裸体彫刻がただちに興隆したものと考えていた。
そして、クラーマーがヘレニズム彫刻全体の形態に関する基本的な発達理論を確立すると、その後の学者はベルヌーイの描いた図式を完成させていくことになった。
男性像の段階的発達は、不変的上昇としてとらえられてきた。例えば、男性裸像の発達は、次のように解釈されてきた(ハヴロックは、男性裸体像も女性裸体像の発展と平行して展開したと考える方が自然であろうと批判している)。
ギリシャ美術初期の男性裸体像は、戦士・運動家に対する英雄崇拝や神性を、暗に感じさせるものとして、常に意味を持ち、衣服を着けていないことに対して何の理由付けも要らなかった。
しかし、「クニドスのアフロディテ」の場合は裸であることの口実として、沐浴という状況を用意する必要が考えられていた。脇に添えられた衣服は、トラブルを回避するための安直な手段として受け止められた。しかし、クニディアは、アポロンやゼウスと同じように、神であるから裸なのである。
男性裸体像の発達が倫理的・知的な完全性に向かっていたとされているのに対して、女性の裸体像における時間的・空間的な解放は、不当にも退廃という烙印を押されることが多すぎた。それは、神から人へ、道徳から不道徳への堕落を意味するとされてきた。

著者ハヴロックの疑問と結論


ポリュクレイトスとその代表作「ドリュフォロス」がギリシャ美術史の中核をなしていたのに対し、プラクシテレスとクニディアが周辺的存在だったのはどうしてなのだろうかという疑問をハヴロックは抱いたという。
そして、それは、近代の偏見に基づくものであるという結論に達している。
古代ギリシャの彫刻家は男性の体の理想を追求したのと同じように、女性の体の理想も追求し続けていたとみる。さらに、古代ギリシャにおいて、ポリュクレイトスが芸術の代弁者として第一人者だったとか、彼の男性裸像が芸術の規範だったという証拠は、美術作品にも文献にも見出せないという。プラクシテレスは当時の文筆家の深い尊敬を集めており、ポリュクレイトスに匹敵する存在だった。ローマ時代の複製とヴァリエーションの数が「ドリュフォロス」の人気の指標だとすれば、クニディアの数はもっと多いそうだ。

後期ヘレニズム美術には、「閉じられた」形態も、「開かれた」形態も、また正面性の強調も「バロック」的なものも、三次元の構図としてはすべてが共存していた。多様なアフロディテの形態に関する単一の原則は存在せず、クラ―マーの年代同定法は通用しなかった。
そして、ハヴロックは、これまでアフロディテ彫刻に関して適用されてきた発達理論は捨て去るべきであると主張する。
プラクシテレスのクニディアは確かに後世の彫刻家たちにインスピレーションを与えたが、完成直後からそうだったわけではない。紀元前3世紀になってアフロディテは徐々に自分が裸であるという苦境を認識し出したというこれまでの主張や、紀元前2世紀においては自分の体を隠そうとながらも、結果として体を解放することが必要だったという議論も、正しくないとする。

それよりも、焦点を当てるべきは、裸であることの宗教的な意味合いであるとハヴロックは強調している。その像が性にまつわる力と御利益を体現していたということが理由の一つであると考えている。ヌードの女神像は、生命そのものに対する支配力やその起源に対する尊敬の念の象徴だったが、古代において、アフロディテ像はこのような宗教的目的を持っていたというのである。

古代のアフロディテ像は、宗教的意味合いとともに、商業的な意味合いもあった。例えば、ニコメデスは、クニディアを崇拝偶像として崇めていたが、同時に交換用の商品としてもとらえていた。また、デロス島の「アフロディテとパンとエロスの群像」も、ポセイドン信者の集会所に集まる商人や船主にとっては、商業的な意味合いがあった。
そして古代ギリシャ・ローマの一般の女性にとって、女神像は賞賛と理想化の表れと考えられていた。アフロディテ像は、家庭や家の神棚や庭や墓地に置かれた。
結果的に、後期ヘレニズム期において女神像が浸透し、その「英雄的な裸体」が巧妙に飾り立てられたが、このことはヘレニズム期の女性の社会的地位が古典期に比べ向上したことの表れとなっているとハヴロックは考えている。
プラクシテレスとその作品を理解する上で役に立つ基本的な問題のひとつとして、ハヴロックは次の点を指摘している。古代ギリシャ・ローマにおけるアフロディテや女性は生来的に無垢であるのに対し、19世紀におけるアフロディテや女性は生来的に罪深い存在だということである。

彫刻において女性のヌードというテーマの人気が高まった要因として、ローマ人の支援と影響力をハヴロックは挙げている。
例えば、紀元前3世紀後期に、「エリユクスのアフロディテ」がシチリア島からローマにもたらされ、カピトリーノの丘にその神殿が建てられた。ヴィーナス[ウェヌス]と名前を変えたアフロディテは、古代ローマの主要な神となり、その像は家々に据えられた。ポンペイはその好例である。

また古代ローマ世界において、デロスはローマと東方を結ぶ商業活動の中心地として栄えるようになる。ポセイドン信者の集会所には、地中海一帯から貿易商人が訪れた。デロスからローマへ向かう途中のアンティキュテラ沖の難破船から「クニドスのアフロディテ」の複製のトルソーが発見されている。おそらくローマのパトロンが注文した最も古い時代の複製の一つだと推測されている。
そして、帝政ローマ後期になっても、「クニドスのアフロディテ」と、その他のタイプのアフロディテは、重要なものであった。女神たちは、ローマ帝国内の劇場や浴場や噴水や邸宅を飾るようになった。例えば、ティボリにあるハドリアヌス帝の円形神殿は、クニディアのコピーを見せびらかすために建設された。

ところで、アフロディテの長期にわたる人気を最もよく示しているのは、古銭の分野であるといわれる。紀元後2世紀から3世紀にかけてのローマ帝国東部では、「アフロディテ・カリピュゴス」以外の各タイプのアフロディテをかたどったコインが鋳造されている。さらに、同一のタイプの彫像が複数の都市で発行された貨幣に使われた。
例えば、211年から218年にかけてカラカラ帝と后プラウティラによって作られたコインは、プラクシテレスのクニディアが刻まれ、クニドスから見つかっている。一方、235年にはマクシミヌス帝治下のキリキア地方のタルソスでも、同じ像が使われている。紀元後3世紀の初期には、ビテュニアでも、ポントスでも、「うずくまるアフロディテ」がコインに選ばれている。裸体の「アナデュオメネ」の貨幣は、2世紀後半にはアカイアで、3世紀前半にはリュディアで鋳造されている。

それらの像をコインに使うということは、複数の都市国家が名高い秘蔵の芸術作品を所有しており、そのことが富と市民の誇りの表明であったことを意味しているとハヴロックは解釈している。そして、アフロディテ=ヴィーナス信仰は、ローマ帝国の東西を問わず、ユリウス・カエサルに始まるローマ皇帝の血筋の神話的起源と結びついていたことも付言している。
また、後期帝政期においてアフロディテの各タイプが、コインの図案として圧倒的に選ばれたが、その多くには、皇后の名が刻まれており、中にはセプティミウス・セウェルス帝の2番目の妃であったユリア・ドムナ、ハドリアヌス帝の妃サビナなどである。
彼女たちは政治的権力を持ち、野心に満ち、夫である皇帝や息子の後ろ盾を持っていた。彼女たちは、政治的・宗教的理由からアフロディテ=ヴィーナスとの同一化を、自らの力の表明として図っていたとハヴロックは捉えている。
後期ヘレニズム期に人気を博した主題である愛の女神アフロディテは象徴としての力を持ち続けた。芸術作品としてのアフロディテの裸体像は、神話世界における女性の寛容と人間性を象徴している。同時に、そこには理想のセクシュアリティの概念とか愛の本質の姿といった普遍的な意味もある。
後期ヘレニズム期において、アフロディテは美術史上の新時代の活気をも表現しており、衰退していく時代でないことをハヴロックは強調している。ギリシャの芸術家は、それまでとは異なった挑戦に対して想像力豊かに応じていたが、その道を指し示したのがプラクシテレスであったというのである(ハヴロック、2002年、149頁~162頁)

【訳者(左近司彩子)によるハヴロックの著作に対する評価】


 訳者(左近司彩子)は、「訳者あとがき」(203頁~204頁)において、このハヴロックの著作の特徴を2つ挙げている。
1 ハヴロックの明解な論の展開と文章
 このため、翻訳の作業そのものは、スムーズに筆を進めることができたそうだ。そして、「当初女性学的観点からの裸体彫刻研究と聞き及んでいたが、全体の論調としては、フェミニズム色は薄く、むしろ歴史的な観点からの推論や精査に基づく年代確定などが際立った論文となっている」と評している。
すなわち、ハヴロックによる「歴史的な観点からの推論や精査に基づく年代確定」に関して訳者は高く評価している。
内容紹介で述べたように、「クニドスのアフロディテ」以外の7つのタイプのヴィーナス像の年代確定について、原著者は様々な学説を例示しながら、紀元前2世紀以降とする点など、参考になるかと思う(半裸のアナデュオメネは後期ヘレニズム時代以前とするが)。

2 いわゆる等身大の「彫刻」だけではなく、小像や工芸品、貨幣などを重要な作例として扱っている点も評価している。
 日本人は工芸品や実用品を古くから「美術品」としてとらえる習慣があったが、西洋人は近代に至るまで、それらを低くみる傾向があった。それに対して、ハヴロックはそれらの作品を彫刻と並べて論じ、「純粋芸術優位主義」という偏見や先入観にも挑戦していると訳者は評価している(ハヴロック、2002年、203頁~204頁)。



【ハヴロックの著作を読んでの感想】


1 ハヴロックは、後期ヘレニズム期を衰退期と規定してよいかどうか、重要な問題提起をしている。
これは、プリニウスの『博物誌』で示された、古代ギリシャ美術史の見方だが、ハヴロック自身は、そうではないと主張している。「ミロのヴィーナス」が制作されたとされる時代が果たして衰退期なのか、豊かな展開をとげた時代なのか、今後、多様な視点からの研究がなされるべきであろう。

2 女神の裸体像彫刻の美術史において、紀元前4世紀半ばの「クニドスのアフロディテ」を源流とする7つのタイプのアフロディテ像に注目している点、言い換えれば、「クニドスのアフロディテ」を祖先とする、いわば“7人姉妹”に注意を払っている(神様なので、厳密には“7柱の姉妹神”かもしれないのだが)。
その“7人姉妹”の一人が、ルーヴル美術館所蔵の「ミロのヴィーナス」である。その“7人姉妹”の中でも、なお、美術史上の制作年代に関しては、今後の研究の進展に期待したいが、「カプアのヴィーナス」と「ミロのヴィーナス」との関係が焦点となるべきではないかと思う。


 古代ギリシャ美術の発展についての二つの体系について、わかりやすく表にまとめておきたい(ハヴロック、2002年、51頁~52頁の記述をもとに筆者作成)












 



 







ギリシャ美術の発展の2通りの体系(枠組み)
項目 クセノクラテス(紀元前3世紀の彫刻家)(大プリニウスの著作『博物誌』に記載) ローマ時代のキケロとクィンティリアヌス
究極の理想 写実性(リアリズム) 威厳と美
作者 プラクシテレス リュシッポス フェイディアス ポリュクレイトス
作品 「クニドスのアフロディテ」 オリュンピアのゼウス像 パルテノンのアテナ像
下り坂の時期 紀元前4世紀後半リュシッポスと画家アペレスの後、ほどなくして停滞 紀元前4世紀

ハヴロック『衣を脱ぐヴィーナス―西洋美術史における女性裸像の源流』はこちらから




《「ミロのヴィーナス」考 その6 ハヴロック氏のアフロディテ(ヴィーナス)論》

2019-12-04 17:21:19 | 西洋美術史
《「ミロのヴィーナス」考 その6 ハヴロック氏のアフロディテ(ヴィーナス)論》

ハヴロック氏による古代ギリシャ彫刻史 ヴィーナス像の変遷――「クニドスのアフロディテ」を源流として




ハヴロック氏の『衣を脱ぐヴィーナス―西洋美術史における女性裸像の源流』の購入はこちらから

【はじめに】


ハヴロック氏の『衣を脱ぐヴィーナス――西洋美術史における女性裸像の源流』(すずさわ書店、2002年)は、「ミロのヴィーナス」を知るには、格好の書であり、精読・熟読されるべき良書である。
ハヴロック氏の直接の関心は、後期古典期の紀元前4世紀のプラクシテレス作「クニドスのアフロディテ」であるが、ヘレニズム期の様々なタイプのアフロディテ(ヴィーナス)像を幅広く考察対象としている。
私が本書を推奨する理由は2つある。欧米の研究史をきちんと整理し、学説史の展開を見事に行っている点がその推奨理由の一つである。そして、もう一つは、ヘレニズム期の捉え方に独自の主張が見られ、従来の停滞説に異議を唱えており、傾聴に値する点があることである。

随所で、「ミロのヴィーナス」には言及しているが、まとまって叙述しているのは、「第4章 その後:クニディアに触発された諸作品」の中で、6頁ほどである(109頁~114頁)。章名からもわかるように、「ミロのヴィーナス」をクニディア(=「クニドスのアフロディテ」)に触発された諸作品の一つとして、「ミロのヴィーナス」を位置づけている。
なお、この著作の表紙の写真に使われているのは、「ミロのヴィーナス」と同じくヘレニズム期に制作された「ロドス島のアフロディテ」である。すなわち「ロドス・タイプ」と呼ばれる「うずくまるアナデュオメネ」である(96頁参照のこと)。

「ミロのヴィーナス」を知るには、まず“外堀を埋める”必要がある。「ミロのヴィーナス」をより深く知るためには、その源流や、「ミロのヴィーナス」と同時代のアフロディテ像を探る必要がある。そのための最適の水先案内役を果たしてくれるのが、ハヴロック氏の著作である。

内容紹介にあたり、章立てに忠実に紹介していくより、このブログ記事のテーマに沿った形で、次のような執筆項目に従って述べていくことにする。
・【ハヴロックの関心と問題提起】
・<「クニドスのアフロディテ」について>
・<コントラポストのポーズについて>
・【ギリシャ美術史の捉え方】
・【ギリシャ美術史におけるプラクシテレスの位置】
・<クラーマーのヘレニズム彫刻研究について>
・【クニディア以外のタイプのアフロディテ像】
「カピトリーノ」と「メディチ家のアフロディテ:「恥じらいのしぐさ」
 うずくまるアフロディテ
 サンダルを履くアフロディテ、もしくはサンダルを脱ぐアフロディテ
 半裸のアフロディテ・アナデュオメネ(海から上がるアフロディテ)
 全裸のアフロディテ・アナデュオメネ
 ミロのヴィーナス
 アフロディテ・カリピュゴス(お尻のきれいなアフロディテ)

・【後期ヘレニズム時代の特徴】
・「クニドスのアフロディテ」について
・「デロス島のアフロディテとエロスとパンの群像」について
・「ミロのヴィーナス」
・【ハヴロックの著作のまとめ】
・【ハヴロックの著作を読んだ感想】

 なお、ブログの字数制限により、ハヴロック氏の著作内容の紹介と私のコメントを2回に分けて述べることにする。


【ハヴロックの関心と問題提起】


古代ギリシャ美術において、立体の、モニュメンタルな(実物より大きい)形式の女性の裸体という主題は、後期古典期(紀元前4世紀)の彫刻家、プラクシテレスによって始められたといわれる。
その作品は紀元前およそ350年にクニドス(小アジア南西端にあった古代都市)が購入した女神アフロディテの彫像であった。それは革新的なできごとであり、重要な結果をもたらした。プラクシテレスが古典的ギリシャ芸術に裸体のアフロディテという主題を導入したというだけではなく、彼の作品が後のギリシャの女神像に大きな影響を与えた。
それらの作品はその後ローマに受けいれられ、さらに広く流布した。このようにして、女性の裸体は、西洋塑造芸術の題材の主流となった。

「クニドスのアフロディテ」(通称クニディア)が、それ以降の発展の決定的な始まりだという仮説が正しいにしても、その「それ以降の発展」というのは、正確にはいつ始まったのかとハヴロックは問題を提起している。
多くの学者は、プラクシテレスの作った彫像が展示された直後、つまりヘレニズム時代が始まった紀元前300年頃と信じている。しかし、紀元前4世紀から3世紀にかけての美術・文学には全くクニディアの影響が見られない。クニディアの、あの独特で有名な右手のしぐさは、紀元前2世紀の終わりまで現れない。この点に、ハヴロックは疑問を抱いている。
つまり、これは単に現存している証拠がないだけなのか、それとも多分2世紀にも及ぶような長期のブランクを経て、「クニドスのアフロディテ」が再発見されたということか?
この疑問を解決するためには、クニディアをその作成時期である紀元前4世紀という文脈におく必要があるとハヴロックは主張している。クニディアの像はどう解釈されるべきで、当時の人々にはどのような意味があったのかを探る必要があるという。そのため、この像の原形を再現するように努め、ポーズや色使いや表面の仕上げ、頭の位置や手つきについて、ハヴロックは細かく考察していく。
また、プラクシテレスの造った像が、どんなに革新的だったかを知るために、ギリシャ美術における女神の裸体像と、裸体像の歴史についても考えている。

そして、ハヴロックの著作の主眼の一つは、プラクシテレスとその彫像に関して書かれた古代の文献が近代の学者によっていかに間違った読み方をされてきたかを指摘することにあるという。古代文献を近代の学者は誤って解釈してきたため、不幸にもプラクシテレスとその作品の両方が誤解され、低く評価されてきたと主張している。
ギリシャ美術の発展について記した古代の著者は、例外なくプラクシテレスを高く評価している。後期古代ギリシャ時代も下って紀元前100年頃にもなると、プラクシテレスのアフロディテ像の美しさを褒め称えた詩が現れる。
ただ、古代の著者の記述の中には、プラクシテレスが愛人フリュネをモデルにしてアフロディテ像を彫ったという逸話も見られる。この点、ハヴロックは、フリュネは主にフィクションの人物であり、プラクシテレスとの関係は彼の死後捏造された架空の物語であったとみなしている。
にもかかわらず、19世紀の終わりには、これらの物語や詩は、「クニドスのアフロディテ」の解釈の手だてとされ、この像の作られた紀元前4世紀の人々の感情を反映しているものと誤解されたと主張している。
古代でさえ、アフロディテとフリュネは同一視され、混同されがちであったが、プラクシテレスと高級娼婦との情事関係が倫理的に問題のあるものとは思われていなかった。ところが、19世紀にはそのような道徳観が倫理的に表面化し、プラクシテレスの作品評価にも影響したとみる(19世紀後半にはロダンが作品とモデルとの親密な関係により、似たような悪評にさらされたと付言している)。
(C・M・ハヴロック(左近司彩子訳)『衣を脱ぐヴィーナス――西洋美術史における女性裸像の源流』すずさわ書店、2002年、9頁~12頁)


<「クニドスのアフロディテ」について>


古代ギリシャ・ローマ時代にクニドスで神殿におさめられていた愛と美の女神アフロディテの像は、最も名高い彫像の一つである。彫刻家プラクシテレスによる、パロス島産の大理石を用いたこの彫刻は、おそらく彼の最盛期である紀元前360年から330年の間の作と考えられている。彼の愛人であった高級娼婦のフリュネがモデルをつとめたと言われていた。
残念なことに、「クニドスのアフロディテ」は現存していない。最後に像を見たという記録は、キリスト教時代の初期、コンスタンティノープルにあったラウソスの宮殿でのことで、紀元後476年に火事で焼失している。しかし、焼失前に作られた大小様々な複製があり、地中海沿岸のあらゆる地域で発見されている。

また原像のサイズについては、神殿に安置されていた崇拝対象ということを考えれば、おそらく等身大か少し大きめだったのだろう。ヴァチカンに現存するレプリカの一つである「コロンナのクニディア」は、2m4cmで、しばしば最も忠実なコピーと言われている。

プラクシテレスは、紀元前4世紀に「クニドスのアフロディテ」という、ギリシャ美術史上初めてのモニュメンタルな女性裸像を作り出すことになった。ただ、そのポーズについては、後述するように、すでにギリシャ美術で長い歴史をもつコントラポストという伝統的な型にこだわった。また、当時の手法に従い、控え目に彩色と金メッキが施されていた。

「クニドスのアフロディテ」について、現存するコピーのうち最もオリジナルに近いものは、ローマのヴァチカン美術館に2体とも一緒に所蔵されている。通称「コロンナのアフロディテ」と「ベルヴェデーレのアフロディテ」である(1933年、ブリンケンバーグの説)。
コロンナは1781年、ベルヴェデーレは1536年からの所蔵である。とりわけ、コロンナは紀元前4世紀の名作のオリジナルの再現だと一般に考えられている。
(ハヴロック、2002年、19頁、23頁、31頁、38頁、165頁原注20)。

<h3><コントラポストのポーズについて></h3>
「クニドスのアフロディテ」は、プラクシテレスの紀元前4世紀の中頃の作であるが、コントラポストのポーズが使われている。この重心を両脚に均等にかけない立ち方の作品は、ハヴロックによれば、遅くともアルカイック期の後半(紀元前490年頃)から出現している(コントラポストについては、高階、2014年、24頁~26頁。中村、2017年[2018年版]、150頁~151頁でも言及)。

コントラポストがその意味を最大限に発揮されている例は、紀元前5世紀の彫刻家ポリュクレイトスの「ドリュフォロス(槍を持つ人)」である。槍を携えた男性競技者の裸体像である「ドリュフォロス」は、紀元前440年頃の古典期の彫刻である(オリジナルの青銅像は、何世紀も前に消失しているが、ナポリに現存するローマ期の複製でも、その姿を知ることができる。国立考古博物館[ナポリ])。
プリニウスは、『博物誌』において、片脚に体重をかける像を初めて考案したのはポリュクレイトスだとしているが、それは誤りであるという。ただ、その作品「ドリュフォロス」は最も理論に沿った完全な形でコントラポストのポーズを表現したとして賞賛された。「ドリュフォロス」は動きと休息の間で微妙にバランスを保つ競技者の裸体像であるが、それはそのポーズの微妙なバランスとつり合いと同じように、中庸を表しているとされる。そして、その中庸こそがギリシャ思想の中核と解釈された。クラークは、ポリュクレイトスについて、知性的で一つの目的に対してひたむきな、「戦う知識人」と述べている。
コントラポストの話に立ち戻ると、パルテノン神殿の、パンアテナイア祭の祭典行列を表したフリーズに彫られた歩行者や奉仕者には、男女を問わず、コントラポストの立ち方をしている。その行列シーンに落ち着きと威厳と秩序を与えているのは、このコントラポストのポーズである。エレクテイオン神殿の女像柱(カリアティド)も、この立ち方をしている。このように、片側に重心を乗せた人物像は、古典期のギリシャ彫刻で発展を遂げた。後期ギリシャ時代はもちろんのこと、ローマ時代にもコントラポストは使われている。
カラカラ帝とその后プラウティラが紀元後211年から218年にかけてクニドスで鋳造されたコインや、キリキア地方のタッソスでマキシミヌス帝が紀元後235年から238年にかけて鋳造したコインでも、女神アフロディテは左右均等に重心を乗せて立っておらず、右脚で体を支えているコントラポストの典型例が見られる。
(ハヴロック、2002年、22頁、27頁~29頁。クラーク、1971年[1980年版]、56頁参照のこと)。

【ギリシャ美術史の捉え方】


ギリシャ・ローマ時代を通して、ギリシャ美術の発展・進化は、2通りの体系で捉えられてきたとハヴロックは説明している。
・1つ目の枠組みは、クセノクラテス(紀元前3世紀の彫刻家で、美術史の父とも呼ばれている)が考案したもので、大プリニウスの著作『博物誌』第34巻54章~65章)にその見解が刻まれている。
・第2のパラダイムは、ローマ時代のキケロ(紀元前106~49年)と、クィンティリアヌス(紀元後39~95年)の著作に残されている意見である(これらは、クセノクラテスやプリニウスのものより時代が下り、ギリシャ時代というよりもローマ時代の観点を反映している)

1つ目の枠組みについて
プリニウスによると、初期(アルカイック期)の美術は、「美術」と呼べるようなものから
は程遠い、「粗野な骨董品(rudis antiquitas)」の段階で、注目に値しないと考えていた。
その後、芸術家の技術は向上し、動きの表現や写実性が進歩したが、彫刻芸術が広がりを見せたのは、紀元前5世紀のフェイディアス以後であり、ポリュクレイトスの登場により洗練された。
ブロンズ彫刻から大理石彫刻に論が進むと、紀元前4世紀のプラクシテレスに敬意が払われている。さらに、ギリシャ美術の発展の体系において、プラクシテレスが、フェイディアスやポリュクレイトスより写実性に関して勝っているとする(最高傑作である「クニドスのアフロディテ」については、その名声から所在地にいたるまで、かなりの行数が割かれている)。

そして、リュシッポスは、発展の締めくくりにふさわしい巨匠として、その名前が挙がる。彼は、それまでの芸術作品に芽生えた特徴の数々を完成させ、円熟の域にまで達した人であるとする。自然を師と仰いだリュシッポスは、人物を写実的に、つまり「目に見えるままに」表現した。リュシッポスと同時代人で紀元前4世紀後半の画家アペレスは、プリニウスのお気に入りだったようだ。そこでプリニウスは、その後ほどなくして、「芸術はそこで停滞した(cessavit ars deide)」と言ったのである。

第2のパラダイムについて
キケロとクィンティリアヌスを代表とするローマ時代の批評家にとって、究極の理想は、写実性ではなく、威厳と美であったとされる。
だから、キケロにとって、その理想の極致は、紀元前5世紀に作られた偉大なる偶像、オリュンピアのゼウス像とパルテノンのアテナ像である(『弁論家について』)。
この2つの像を作ったフェイディアスは、「何らかの人間のモデルを見て写生したのではなく、彼の内に宿った非凡なまでの美のヴィジョンを凝視した」芸術家である。また、その比率と美に対するこだわりが人間の体の理想像を生み出したとして、ポリュクレイトスをほめたたえた。
しかし、紀元前4世紀に入り、究めるべき目標が威厳からリアリズムへと移行するにつれ、発展は下り坂を迎えるとみる。クィンティリアヌスは、リュシッポスとプラクシテレス、アペレスについては、写実主義の巨匠として評価している(ただ、紀元前4世紀後半の彫刻家であるアロペケのデメトリオスについては、美を二の次にして現実の模倣に走ったとして批判する)。

さて、これらの捉え方に対して、ハヴロックは次のようにコメントしている。
いずれの発展体系でも、プラクシテレスは、ギリシャ時代の頂点をなす規範的芸術家の一員と見なされている。とはいえ、クィンティリアヌスの評価では、神からのインスピレーションによって制作したフェイディアスや、数学の計算にこだわったポリュクレイトスよりも、プラクシテレスは、下位に位置する。
しかし、前者のクセノクラテスやプリニウスは、写実という究極の目標に向けて芸術を促進させたという点において、プラクシテレスを後者の2人よりも高く評価している。
どちらの体系においても、プラクシテレスは、目に見える現実や外界に深くかかわることにより、芸術家として大きく貢献したと捉えられている。
そして、古代にはプラクシテレスの作品が堕落しているとか、劣っているとかいう見方はなかったとハヴロックは強調している。
以上が、古代ギリシャ人やローマ人による、ギリシャ美術史の捉え方である。
(ハヴロック、2002年、51頁~52頁。)。


「監修者による補注」


プリニウスは、その後ほどなくして、「芸術はそこで停滞した(cessavit ars deide)」と言った。
「監修者による補注」(159頁)において、
監修者である左近司祥子(学習院大学文学部教授)は、プリニウスの『博物誌』の句の補注を付している。
すなわち、プリニウスの『博物誌』第34巻52章の冒頭に、「そこで芸術は停滞した(cessavit ars deide)」とある句に対してである。
正確には、次のようにあるという。
「リュシッポスは第113オリンピア期間(327~324年)、アレクサンドロス大王の時代にいた。、、、第121オリンピア期間(295~292年)にはエウチェキデス、、、がいた。そこで芸術は停滞した(cessavit ars deide)、第156オリンピア期間(156~153年)には生き返った」とある。
この句に対して、監修者は、次のような意見を述べている。
「アペレスとリュシッポスは同時代人であるので、ここにアペレスについての言及がなくてもリュシッポスの後ならアペレスの後とも言えるが、プリニウスの言いたかったのは、芸術の停滞は彼らのいた頃よりは50年ほど後だということではなかったのだろうか。著者の主張するようになるのかどうか、このあたりの年代決定が気になるところではある」と。
(ハヴロック、2002年、189頁)。

要点をまとめてみると、
・リュシッポスとアペレスは同時代人で、アレクサンドロス大王がいた第113オリンピア期間(327~324年)に生存していた。
・そしてプリニウスが言及した「芸術は停滞」は、アペレスとリュシッポスの生存していた年代から約50年後のことではないかと監修者はみている。
・プリニウスが主張する「芸術停滞」論が正しいかどうかは、その年代決定をする必要があるというのである。

【ギリシャ美術史におけるプラクシテレスの位置】


ギリシャ美術史では、段階的な形態上の発展という観点から、次の4つの区分に分類している。

1 アルカイック期(archaic phase) ―紀元前7世紀後半から6世紀まで
2 古典期(classic phase)     ―紀元前5世紀全体
3 後期古典期(late classic phase) ―紀元前4世紀
4 ヘレニズム期(Hellenistic phase)―紀元前300年から紀元前31年まで

この4つの段階は、「近代美術史の父」と呼ばれたヴィンケルマン(1717-68)の分類に基づいている(とりわけ『古代美術史』[1764年])。
彼は美術史、主に彫刻史の時代区分を次のように考えた。フェイディアスまでの美術が最古の様式で、「アルカイック様式」と呼ばれる。2番目は、フェイディアスによる卓越の域に達した様式で「荘重高尚様式」と呼ばれるべきもので、プラトンの理論に基づいた様式である。感覚の助けを借りずに美を具体化しており、高尚な洞察と巧みな想像力から生まれた理念のようなものである。紀元前5世紀にフェイディアスが作った「オリュンピアのゼウス像」と「パルテノンのアテナ像」は、威厳と美といった理想の極致が具体化されている。
3番目は、プラクシテレスからリュシッポス、アペレスの時代にかけて栄えた様式である。前の様式と同じく観念的ではあるものの、魅力や優美さも兼ね備えており、「美の様式」とも言える。
しかし、この様式の芸術家の流派を境に、ギリシャ美術は、4番目の模倣者の様式に向けて、下降線をたどり、しまいには「芸術は自ら没落するまでに打ちひしがれる」と捉える。すなわち、ヘレニズム期と呼ばれるギリシャ美術最後の段階の行く手には、すでに暗雲が立ち込めていたという説をヴィンケルマンは唱えた。
ただし、プラクシテレスはその没落を免れたという。プラクシテレスは、ギリシャ美術に適度な感情と官能性をもたらし、その発展に貢献した巨匠であると考えていた。
プラクシテレスが好んだ主題は、紀元前5世紀の彫刻家のそれとは対照的である。フェイディアスの場合、男性神の像が大半を占める。ポリュクレイトスは男性像を好み、作品は男性神や英雄や運動選手の像である。多作といわれるリュシッポスは神々や英雄の像、男性の肖像(特にアレクサンドロス大王)、男性の運動選手である。
それに対して、プラクシテレスが作った神々の像のうち、圧倒的多数は女神アフロディテであった。その他の大半も女性像で、デメテルやアルテミスやヘラといった女神像や、フリュネをはじめとする女性の肖像である。

しかしヴィンケルマンは、プラクシテレスの主題の多くは高尚な性格からは程遠いものと考えていた。ヴィンケルマンは、女性裸像やプラクシテレスの芸術を直接に攻撃はしなかったものの、男性像(特に男性裸像だけ)を向上志向のあるものとして尊重した。そのため、結果として、クニディアとプラクシテレスの評価の低下につながった(このバイアスは、後世の研究家の間に、根強く残った)(ハヴロック、2002年、52頁~55頁)。

<ベルヌーイの学説>


J・J・ベルヌーイの理論と視点は、プラクシテレスの革新的な彫刻の理解や、その他のアフロディテ像の解釈に大きな影響を与えた。
ベルヌーイは、プラクシテレス以後ギリシャ美術は急激に没落したというヴィンケルマンの考えを受けて、紀元前4世紀以後の作と推定された作品に、堕落と衰退の影を見出そうとする傾向があった。そのため、クニディアより後に作られたと考えられるアフロディテ像は、切り捨てがちであった。
ベルヌーイが、クニディアと、ローマの「カピトリーノのアフロディテ」、フィレンツェの「メディチ家のアフロディテ」を比較した際にも、このバイアスは顕著だった。クニディアが片手だけで身を隠しているのに対し、後の2体は伸ばした片手で胸を、下げたもう片手で下腹部を覆い、両手を使っている。
ベルヌーイは、この相違に注目する(ベルヌーイの美術史における信条は、ここで最大限に発揮されるとハヴロックはいう)。すなわち、プラクシテレスのアフロディテは、何も知らずに美しく、うっとりしているだけだが、カピトリーノとメディチの方からは、恥と自意識が読み取れるとベルヌーイは主張する。後の2体は、無垢なつつしみを表すクニディアとは違い、裸体であることがみだらで不道徳だと分かっているかのように、もっと体を隠そうとしているように思われるとする。
そして、その2体の腕の動作を「恥じらいのしぐさ」と命名した。つまり、カピトリーノとメディチの方は、見られていることを認識しているというのである。
また、メディチ家の像の場合は、水も、水がめも衣服もなく、髪はきちんと整いすぎているため、沐浴という裸になるための口実も用意されていない点にも注意を促している。
なお、この2体のどちらにも、クニディアの持つ理想美と近寄りがたさが感じられないことから、年代的に後のものであり、質的に劣っているとした(クニディア以後のアフロディテ像にまるわるベルヌーイの誤解の基盤は、このように形成されたというハヴロックは説明している)。(C・M・ハヴロック(左近司彩子訳)『衣を脱ぐヴィーナス――西洋美術史における女性裸像の源流』すずさわ書店、2002年、83頁~84頁)。

<クラーマーのヘレニズム彫刻研究について>


アフロディテ像の展開について、より系統的な分析をしたのは、ゲルハルト・クラーマー(G.Krahmer)である。彼はヘレニズム彫刻の進化に関する最初の包括的な理論を、1920年代に唱え、時代の様式を語る上での枠組みを提示した。
クラーマーは単体像と群像の両方の構成と動きを調べた結果、発達段階を三段階に分類することを提案した。
1 ヘレニズム前期(紀元前330~225年)
  抑制され、ポーズも控えめで、求心的な、「閉鎖的形態」が特徴である
2 ヘレニズム中期(紀元前225~150年)
  拡散的な構図とダイナミックな感情表現を用いた、「開放的形態」への段階的な傾倒によって特徴づけられる
3 ヘレニズム後期(紀元前150~75年)
  開放的な形態を引き継いでいるが、一面的な構成をとり、古典的色彩を次第に強めていく
クラーマーは、一体しかアフロディテ像の分析をしていないそうだ。それが、ルーヴル美術館所蔵の大理石像「ミロのヴィーナス」である。
クラーマーの方法論のうちで最も重要で、他に大きい影響を与えたのは、彫像のポーズと空間との密接な関係性の考察と、直線的な進化の強調である。クラーマーの発展の図式は、懐疑主義的な意見も招いたが、ヘレニズム期のものとされる個々のアフロディテ像の年代を特定しようとする際にも用いられることが多かった。クラーマーの様式論的枠組み・方法を最も包括的に用いたのが、D・M・ブリンカーホフ(D.M.Brinkerhoff)であった(1978年)。
ブリンカーホフは、ポーズの観点から分類できるアフロディテ像のタイプを挙げ、進化の過程で目立つ側面を説明している。「クニドスのアフロディテ」のヌードは、決定的な急変をもたらした「古典期最後の記念碑的作品」と位置づけ、その神性は保たれ、古典期の無垢は妨げられずに済んでいるとする(「アルルのアフロディテ」と「カプアのアフロディテ」は、紀元前5世紀特有の威厳をはっきり現しているため、ブリンカーホフの時系列の中では最初に位置するそうだ)。
しかし、ヘレニズム時代になると、徐々にわざとらしく官能的効果を狙った表現で追随が始まる。「カピトリーノのアフロディテ」では、体のねじりと、写実性と、空間の広がりが増しながら、クラーマーの定義するところの初期ヘレニズム様式の閉鎖的な形態と共存しているという。そしてブリンカーホフは、ヘレニズム期が進むにつれ、ゆっくりだが確実に女神の神性と距離感は失われていくと主張している(C・M・ハヴロック(左近司彩子訳)『衣を脱ぐヴィーナス――西洋美術史における女性裸像の源流』すずさわ書店、2002年、85頁~86頁)。


クニディア以外のタイプのアフロディテ像について


ハヴロックは、その著作の第4章「その後:クニディアに触発された諸作品」と題して、次のようなアフロディテ像を検証している。その一つに「ミロのヴィーナス」もある(ハヴロック、2002年、83頁~117頁)。


  •  「カピトリーノ」と「メディチ家のアフロディテ:「恥じらいのしぐさ」

  •  うずくまるアフロディテ

  •  サンダルを履くアフロディテ、もしくはサンダルを脱ぐアフロディテ

  •  半裸のアフロディテ・アナデュオメネ(海から上がるアフロディテ)

  •  全裸のアフロディテ・アナデュオメネ

  •  ミロのヴィーナス

  •  アフロディテ・カリピュゴス(お尻のきれいなアフロディテ)



「カピトリーノ」と「メディチ家のアフロディテ」:「恥じらいのしぐさ」


「カピトリーノのアフロディテ」は、1670年から76年の間に、ローマで発掘されたと伝えられ、1752年にカピトリーノ美術館に寄贈されている。
ヴィンケルマンは、この像のことをよく知っており、クニディアを模したものだと考えていた。そのころ、「カピトリーノのアフロディテ」は、「メディチ家のアフロディテ」のライバルだったが、知名度は劣っていたそうだ。しかし、1762年にヴィンケルマンは、ローマの彫像の方が「フィレンツェの方よりいっそう女性である」と宣言している。
また、1797年から1815年まではルーヴル美術館に所蔵されていたが、ナポレオンの敗北によってローマに返還されたというエピソードもある。

「カピトリーノのアフロディテ」
さて、「カピトリーノのアフロディテ」は、紀元前2世紀にパロス産の大理石で作られた。左脚に体重を乗せ、掲げた腕と緩めた腕が正しく重心を取り合い、コントラポストのポーズを保っている。左手は恥部を覆っているが、右腕は乳房の下を通っている。クニディアよりは、若い女性のように見える。豊かな波打つ髪は高く結われ、スタイリッシュにひねってあるが、徐々に背中にこぼれ落ち始めている。左下には、背の高い優美な水かめが置かれ、その上には裾飾りのついた衣服が投げ出されている。
この有名な彫刻のオリジナルがいつ作られたかという意見はまちまちである。立ち方などが「クニドスのアフロディテ」にそっくりであるため、プラクシテレスの直弟子の手によるものと推定されてきた。ブリンカーホフは、クニディアと同時代と見なし、紀元前4世紀の巨匠スコパスの作と考えたり、またノイマー=ファウは、クニディアよりも緊張と恥ずかしさと不安を表現しているとして、紀元前300年前後に原型が作られたとする。その他にも、女神像の周りの空間などから、紀元前3世紀初頭と想定されたり、その解剖学的な写実性から紀元前2世紀とされたり、紀元前4世紀の慣習に倣った造りの頭部を持つ「ギリシャ時代後期かローマ時代前期の佳作」だとして紀元前1世紀とする研究者もいる。

「メディチ家のアフロディテ」
一方、「メディチ家のアフロディテ」は、1638年にフィレンツェにあるメディチ家の別荘に置かれ、1688年には現在あるウフィツィ美術館に移されている。
しかし、ボッティチェリが「ヴィーナスの誕生」の主役のモデルにしたことから、15世紀後半には他のコピーが既に知られていたことがわかる。
「カピトリーノのアフロディテ」と並んで、「メディチ家のアフロディテ」は、18世紀から19世紀にかけて名の知られた彫刻だった。ヴィンケルマンは「美しい夜明けに、朝日を浴びて花びらを開くバラのようだ」と言って、この像の初々しい美しさを絶賛した。
ケネス・クラークは、ギリシャの女性裸像が、どのように官能性と宗教性を兼ね備えていたかについて理解していた。しかし、クニディアの甘美でいて端正なポーズを賞賛していた一方で、プラクシテレスの像は、不幸な末路をたどったとも考えていた。「クニドスのアフロディテ」の場合、ありふれた並品の複製でさえ、「純潔さと穏やかな人間性」の名残があったのに対し、「メディチ家のヴィーナス」は「単なる応接間の装飾に過ぎない」ともいう。ヘレニズム期ギリシャ美術における女性裸体像という主題の歴史に、クラークが見たのはただ衰退のみだった。

ところで、「メディチ家のアフロディテ」像の左脚は、イルカと戯れる小さな2体のエロス像によって支えられており、女神が海で誕生したことがほのめかされている。彫刻を支える台座には、「クレオメネス、アテナイ市民、アポロドロスの息子」という彫刻家の名前が刻まれている。
そのポーズからは、カピトリーノと同様に、「メディチ家のアフロディテ」も、基本的にプラクシテレス作のアフロディテからヒントを得た作品だと考えられている。カピトリーノとメディチ家の像はどちらも、片脚に体重を乗せ、同じような両腕のしぐさを取っている。相違点と言えば、メディチ家の方が、頭を高く上げ、横向きの角度が鋭いことと、髪が短めで、シンプルに結ばれていることである。

次に、メディチ家の像の原型の年代についてであるが、これも意見の相違が著しい。例えば、メディチ家の像のオリジナルはプラクシテレスの理想と優美さに精通した弟子の手によるものであるとして、カピトリーノの像より1世紀前の、紀元前300年から280年までの間に作られたとする研究者がいる。
一方、メディチ家の頭部の鋭い角度を理由にして、カピトリーノよりも50年は新しいはずだと推定している研究者もいるし、カピトリーノのヴァリエーションに過ぎないと考え、後期ヘレニズム期のものだという説を提案している者もいる。
また、「メディチ家のアフロディテ」のコピーは38体、カピトリーノのコピーは101体あるといわれるが、その膨大な数のレプリカが、2つの別々のオリジナルに端を発しているものかどうか疑わしいとハヴロックは考えている。そしてメディチをカピトリーノのヴァリエーションとみなす見解を支持している。どちらのタイプのヴァリエーションも紀元前150年以前には作られていないことから見て、かりに両アフロディテがもしクニディアを模したものだとしても、かなり時代が経ってからの模作だとしている。

ところで、ルネサンスの画家は、恥じらいのしぐさをイヴやヴィーナスを描く際に用いており、その表現を通じて、古代彫刻の特質の理解を深めることができる。南ヨーロッパのボッティチェリやマサッチオから、北ヨーロッパのヤン・ファン・アイクやデューラーに至るまで、裸の人物のポーズが、メディチ家の像をはじめとする古代彫刻のタイプに基づいていることは明らかである。ただ、キリスト教美術におけるイヴやヴィーナスは、哀れだったり、悲嘆にくれたりしているのが特徴で、常に罪にさいなまれているように見える。
例えば、マサッチオの有名な「楽園追放」のフレスコ画においては、恥じらいのしぐさは、イヴのアダムに対する誘惑と、それによって生まれた罪の意識に関係があり、彼女の顔は苦痛にゆがみ、腕をぴったり体につけて、必死に片手で乳房を抱えている。

また、19世紀の新古典主義の彫刻家カノーヴァが、メディチ家の像をベースにて作製したアフロディテ像についても、相違点をハヴロックは認めている。1803年にカノーヴァは、エトルリア国の王に、「メディチ家のアフロディテ」の複製を作製するように命じられた。当時、「メディチ家のアフロディテ」は、ナポレオンによってカピトリーノと一緒に、パリに持ち去られていた。しばらくしてカノーヴァは独自のアフロディテ像「ウェヌス・イタリカ(イタリアのヴィーナス)」の構想に着手し、1811年に完成させた。このカノーヴァのヴィーナス像は、メディチ家の像と違い、大きな布をつかんで、下半身と片方の乳房を隠しながら、思いきり右[向かって右]を向き、肩をすぼめている。カノーヴァは、おそらくメディチ家の像の全裸の姿を受け入れ、その古代における意味合いを理解するだけの覚悟がなかったとハヴロックは推測している(ただし、肉感的でエロティックな色調は巧妙なドレープの扱いで表現された)(ハヴロック、2002年、83頁~95頁)。

「うずくまるアフロディテ」


「うずくまるアフロディテ」(ローマの国立博物館所蔵)は、1914年にティヴォリにあるハドリアヌス帝の別荘から出土した。この型は、既に16世紀にはローマで知られていた。ヴィンケルマンはメディチ家の別荘でこの型も見ていたようだ。跪くポーズはこの上なく訴えるものがあるとハヴロックはみている。そして洋梨形のどっしりした体、だらりとした乳房、腹部の周りの豊かな肉付きは、成熟した女性の体を、立像よりも率直に表現できたと推測している。製作者については、プリニウスの一節に則って、オリジナルはドイダルサスという彫刻家の手によるものであるとされていた(製作を命じたのは、プラクシテレスのアフロディテ裸像を買おうとしたニコメデス4世の先祖にあたる、ビテュニア国初代の王ニコメデス1世[紀元前247年没]であるとされた。しかし、その後、ドイダルサス説は疑問視された)。

ところで、このうずくまるタイプの作品は多いが、唯一の原型を再構築することは不可能である。一般的なタイプの特徴をよく表しているのは、「ロドス・タイプ」とよばれる「うずくまるアナデュオメネ」(ロドス島のアフロディテ)である。体の下に折り曲げられた右脚が体重の大半を支え、ひざを立てた左脚でバランスを取っている。

「うずくまるアフロディテ」のオリジナルの年代は、紀元前3世紀の中期から後期にかけてとされることが多い。この論は、ドイダルサスの作と見なす説を認めるか、クラ―マーの様式的時代区分を採用するかのどちらかに基づいているようだ。オリジナルの年代を紀元前250年直後とみなす研究者もいれば、紀元前3世紀後半の時代の徴候を示すと論じる人や、ヘレニズム初期の特徴だと論じる人もいる。また現存するコピーは紀元前200年より前のプロトタイプを模したものであるとする研究者もいれば、紀元前2世紀中ごろに活躍していたと考えられるポリュカルモスの作と仮定する研究者もいる。
そして「うずくまるアフロディテ」のコピーには、人物大のものから小像まである。ミュリナやデロスからは、後期ヘレニズム時代のテラコッタの作品も出土している。ブロンズ像も紀元前150年より前のものはない。ヴァリエーションに関しては、素材を問わず、ギリシャ後期よりもローマ時代の方に多く見られるそうだ(ハヴロック、2002年、95頁~198頁)。

「サンダルを履くアフロディテ」もしくは「サンダルを脱ぐアフロディテ」


このアフロディテの裸体像のタイプは、既に16世紀にはよく知られており、頻繁に用いられた。主題の性質からしてヴァリエーションの数は多く、180点ほどのレプリカをリストアップした研究者もおり、オリジナルの発見は難しいようだ。
中でも代表的なものは、スミュルナ出土とされるテラコッタ像(ボストン美術館蔵)である。紀元前1世紀に作られたこの作例は、最も美しく、保存状態もよいものとされている。少し傾いた頭はカーブした体と一緒になって流れるような線を描き、その丸みを生かして表面は控えめな仕上げである。もしかしたら、サンダルもあったのかもしれないが、今は残っていない。

沐浴に当たって最後に脱ぎ捨てるはずのサンダルを脱ぎかけているというのが定説だが、サンダルがない場合もある。三次元彫刻のレプリカでは、右脚で立っている方が多いが、左脚のこともある。木の幹や柱やヘルメス柱にもたれかかっていることもあるし、花冠を手に自分でバランスを取っていることもある。エロスやイルカや宝飾品やりんごの存在によって、アフロディテであることがはっきり示されている場合もある。

ベルヌーイは、沐浴の準備中に見えるというだけの理由で、この主題をアフロディテと見なした。なぜなら、オリュンポス神で沐浴といえばアフロディテだったから。ベルヌーイは、彫刻家が重視したのは女神の宗教的な意義よりも、女性が裸体であることと、このデザインの魅力や美しさだったと解釈した(ハヴロックもこのベルヌーイの見方に賛意を示している)。
「うずくまるアフロディテ」に比べると、体の回転が多く、より開放的な構図をしているとして、「サンダルを脱ぐアフロディテ」の原型は、クラーマー流にいえば、ヘレニズム最盛期のバロック期(紀元前230年から190年)に作られたものだと考えた研究者もいる。女神は、今や完全な俗世間にいることから、崇拝対象というよりも宗教的な供物として紀元前200年頃に考案されたとする研究者もいる。かと思えば、紀元前150年頃のルネサンスともいえる時期に創作されたものの一つだと見る人もあり、また「ロココ」的と称して、その創出は後期ヘレニズム期まで下るとする人もいる。

ハヴロックは、レプリカを分析する限りでは、「サンダルを脱ぐアフロディテ」のオリジナルが後期ヘレニズム期以前に存在したということを支持するデータはないに等しいと主張している。すなわち大理石像、ブロンズ像、テラコッタ像おいて後期ヘレニズム時代のものは存在するが、紀元前2世紀半ば(紀元前150年)よりさかのぼることはないという。後期ヘレニズム時代以前には、「サンダルを脱ぐアフロディテ」の立体彫刻は存在しなかった。
ただし、赤絵式ペリケなどに、サンダルを履く、もしくは脱ぐ女性の姿は、「うずくまるアフロディテ」の場合と同じように、ヘレニズム時代より前に描かれている。例えば、紀元前440年頃の、裸の女性が腰を曲げてサンダルを履く様子を描いた赤絵のペリケ(古代ギリシャのワインや水の容器)が、ルーヴル美術館に所蔵されている(ハヴロック、2002年、98頁~100頁)。

「アフロディテ・アナデュオメネ(Anadyomene、海から上がるアフロディテ)」


画家アペレスの名は、同時代の人プラクシテレス同様、古代を通じて知れ渡っていた。プリニウスの『博物誌』によれば、それまでのいかなる画家をも凌駕しており、絵画芸術に貢献した。優美さと線描の魅力を作品に吹き込むことに関しては、肩を並べる者がいなかった。彼の描いた馬の前に連れてこられた馬がいなないたというような、後世の逸話もある。
アペレスは肖像画も描いたが、プラクシテレス同様、恋多き男だったようだ。アペレスの最大の信奉者で顧客でもあったアレクサンドロス大王は、肖像画のモデルとなった自分の愛人パンカスペの美しい裸体に恋したアペレスに、パンカスペを与えたという。

さて、プラクシテレスもアペレスも、エレウシスでフリュネが服を脱ぎ、髪を解き、裸で海に向かった姿を見ていたという逸話がある。その時、アペレスは、コス島にあるアスクレピオスの聖域に備え付けるアフロディテ・アナデュオメネ(「海から上がる」の意)の板絵(プリニウスの『博物誌』にも記述)のモデルに彼女を使うことを思いついた。ただし、その作品については、紀元前4世紀にも、3世紀にも言及がない。ところが、プリニウスの時代になると、アナデュオメネがアペレスの代表作となったようである。

アペレスのアナデュオメネも一度はその評判に翳りを見せたが、ギリシャの風刺詩(エピグラフ)で褒め称えられることで、ついには名声を勝ち得たのだとプリニウスは述べている。プリニウスは、皆に愛読されていたヘレニズム時代後期のギリシャの著作が、忘れられていたいくつかの芸術作品に対する関心を復活させる役目を果たしたというのである。アペレスのアナデュオメネは、そういった再発見された芸術作品のうちの一つである。

そして、クニディアもそこに含まれるとハヴロックは主張している。
ヘレニズム時代後期にプラクシテレスのアフロディテ像に対する関心が復活するのと偶然時を同じくして、数々の風刺詩が流布するようになった。
アナデュオメネを賞賛する詩の代表は、紀元前125年頃に没したシドンのアンティパトロスのものであり、次のようにある。
 「アペレスの筆が生んだ作品をごらん。母なる海から上がったばかりのキュプリス(=アフロディテ)を、雫滴る髪を手でまとめ、濡れた毛束から泡を絞る、、、」
プラクシテレスのアフロディテ同様、アペレスの絵も後期ヘレニズム時代に再発見され、旅行者にとっての見所になった。
偶然なことに、二つの作品がその後たどった経過にも共通点がある。ニコメデス王は、クニディアと引き換えにクニドスの負債を帳消しにしようと申し出たが、アペレスの絵も同じような商品としてとらえられていた。皇帝アウグストゥスは、それをコス島からローマまで、船で運ばせ、神格化したユリウス・カエサルの神殿に奉納した。当時ローマの支配下にあったコス島は、その絵を差し出すことと引き換えに年貢の一部を免除してもらっていた。時が経つにつれ、絵は損傷を受けてしまった。

アペレスが描いたアフロディテから作られた彫刻像は、長年捜し求められてきたが、これといったものはないようだ。ただ、アフロディテ・アナデュオメネの彫刻作品としては、二大潮流が競い合っている。半裸の立像と全裸の像である。前者の代表例はヴァチカン美術館所蔵であり、後者のそれはコロンナ宮殿所蔵のものである(現存している複製では、全裸のものの方が半裸のものよりも多い)。

<半裸のアナデュオメネ>
ヴァチカン美術館所蔵の半裸のアナデュオメネ立像が最初に記録に上ったのは、18世紀にカルロ・アルバチーニの収集品としてである。そのとき、高く上げられた両腕などが大幅に修復されたそうである。このオリジナルの年代についての見解には大幅な違いがある。
紀元前3世紀初期とされたり、紀元前3世紀中ごろとされたり、ヘレニズム後期、とりわけ紀元前160年以後で「ヘレニズム期ロココ」の産物とされたりしている。ハヴロックは、サイズの大小や、素材が大理石か、ブロンズかテラコッタかということを問わず、後期ヘレニズム時代以前に作られたと断言できるとする。半裸のアナデュオメネのテーマによるヴァリエーションは存在しないと主張している。

<全裸のアナデュオメネ>
一方、コロンナ宮殿所蔵の全裸のアナデュオメネは、ローマで発掘された。この作品も、体重を左脚にかけ、左手の方を下げている。やはり髪を絞っているというよりは、まとめているしぐさである。この作品のように、イルカが左脚にもたれかかっているコピーは他にも何点かある。このタイプは、ローマ東方州、特にビテュニアのコインに多く登場しているそうだ。

ちなみにイタリア・ルネサンスのヴェネツィア派の画家ティツィアーノが、アペレスの伝説の名画を意識していたことは疑うべくもなく、「アナデュオメネのヴィーナス」を描いたときには、コロンナの像と同じ型の古代彫刻をモデルとした。けれども、それもティツィアーノにとっては、数々のヴァリエーションを生み出したお気に入りのテーマである、化粧中の女性のみずみずしい美しさを表すための口実に過ぎなかった。
さて、全裸のアナデュオメネの製作年代についても定説を見ない。半裸のアナデュオメネを紀元前3世紀の半ばの創作と仮定して全裸のタイプを最低150年は下るものとみなす研究者がいるかと思えば、全裸のものは紀元前3世紀後半とされたり、紀元前2世紀半ばの彫刻家ポリュカルモスによるものであるとする説もある。

髪を整えたり洗ったりする女性というモティーフは、ヘレニズム期以前の美術、例えば紀元前4世紀の赤絵の小鉢などにも見られる。しかし、このタイプの彫刻の作例は、ヘレニズム時代後期に至るまで現われないとハヴロックはみている。その最古のものは、アレクサンドリア出土で、等身大より小さな大理石の群像のアナデュオメネで、現在はドレスデンにある。頭も腕もないが、左脚で立つそのポーズは穏やかである。その脇には海の怪物トリトンが女神に目を向けている。
また、クニディアと同じように、裸体のアナデュオメネもヘレニズム時代後期には劇画化されるようになる。ボルティモアにある紀元前2世紀後半のテラコッタ製レリーフは、矢筒を持ったエロスがアフロディテのポーズをまねている像である。
紀元前4世紀の画期的なクニディアに始まり、ヘレニズム時代の3世紀間を通して、アフロディテ彫刻は進化し続け、この直線的な発展における頂点となるのが、神体のアナデュオメネであると考えられてきた。

さて、後期ヘレニズム期のギリシャ美術(おおよそ紀元前150~131年)は、「グレコ-ローマン時代」と呼ばれることも多い。この時代の彫刻は、特定の様式で代表されるというよりも、様式の多様性で特徴づけられる。写実性を求めたり、気まぐれでエロティックな「ロココ」風を好んだりする彫刻家がいた。また、第三の潮流として、以前の芸術へ回帰し、過去の単なる模倣や、かつての名作の改訂をした彫刻家もいた。現存しているアフロディテ像の大半が、このカテゴリーに属すると考えられている。紀元前150年以降、目立った創造的な作品はほとんど作られておらず、彫刻家は需要に応えるため、クニディアや「うずくまるアフロディテ」、メディチ家やカピトリーノなど各タイプを模倣したり、変化を加えて、生産したと考える学者も多い。
ともあれ、女性裸体像の進化の歴史において、紀元前150年ころに重大な転換期が訪れたことは、方法論を問わず共通認識であるようだ。この転換期は、絶頂とか終焉とか見なされることが多い。
しかし、ハヴロックはこれを、新しい時代が始まり、ギリシャ美術史で初めて主流になった女性裸体像というテーマに、一流の彫刻家のクリエイティブな想像力が集結するようになった契機と捉えている。そこにはローマの領地が東方に拡大していたことも大きく関係していると主張している(ハヴロック、2002年、101頁~109頁)。

「アフロディテ・カリピュゴス(お尻のきれいなアフロディテ)」


アフロディテ・カリピュゴス(カリピュゴスKallipygosは、「美しい尻をもった」の意)は、16世紀のいつごろかに発見された。おそらく皇帝ネロが建てた黄金宮殿から出土したものとされるが、18世紀後半にはナポリに移されている(現・ナポリ国立博物館)。
ナポリに移される前には、アルバチーニによってかなりの修復と変更が加えられている。18世紀には、かなりこのタイプの模倣が多い。

ただ、ヘレニズム時代起源とされる彫刻の中でも、ここまで人々の顰蹙を買ったものはなかったようだ。自分の体を見せようと衣服をめくり上げる動作を女神の伝説的な沐浴に関連づけようとする試みは、古くからなされてきた。全身の構図がらせんを描いている。見方によっては、ヘレニズム期芸術における道徳規範の低下の前兆を描き出したという批判もある。

別の意見もある。このアフロディテ像は、ローマ時代のコピーであるが、18世紀にアルバチーニによって修復された際、ポーズが変えられたとする。正しいポーズでは頭がもう少し前向きで、視線を自分のお尻に向けていなかったと主張する学者もいる。ただ、この像に似た作品としてコス島から出た後期ヘレニズム時代の石灰岩の小レリーフがある。おそらくヘタイラ(高級娼婦)と思われる踊り子のポーズは、ナポリのカリピュゴスのポーズとほぼ同じであるようだ。
こうした点から、アフロディテ・カリピュゴスが、後期ヘレニズム時代、それも紀元前1世紀にローマ帝国がギリシャ世界を支配するようになってから、新しく創作された唯一のものであると考える別の学者もいる。ポーズは、沐浴とは関係がなく、挑発的に裸になっていることから、この作品の主題はアフロディテかもしれないが、モデルはヘタイラだったと推測している。
お尻をあらわにした女性像は、紀元前4世紀の壺絵にも見られ、また紀元前3世紀後半の宝飾芸術家も、女性の体をねじって背中を見せるデザインを好んで作っていたようだ。

結局、ハヴロックは次のように考えている。つまり、モニュメンタルな彫刻としてこのモティーフがより広くより官能的に作られるようになったのは、ヘレニズム後期である。ナポリにある等身大立体彫刻のアフロディテ・カリピュゴスに代表されるこのタイプが、ヘレニズム時代後期より前に創作されたものだとする確かな証拠は存在しないとハヴロックは主張している(ハヴロック、2002年、114頁~117頁)。

<ミロのヴィーナスとその評価>


1820年にメロス(ミロ)島で出土した「ミロのヴィーナス」は、ルーヴル美術館で、近代に作られた台座の上に高く据えられている。この像は、古代劇場から程近くのニッチのような場所で発見されたが、発掘された時に付いていたとされる台石には、おそらくメアンドロス川沿いのアンティオケ出身で、アレクサンドロスという彫刻家の銘が刻んであったとされる。その字体は大体紀元前120~100年ころのもので、後期ヘレニズム期の年代と合致している。さらに、この年代は、クラーマーの言うところの開放的様式と新古典主義的特性の混ざった、彫刻自体のもつ折衷様式とも一致している。
しかし、こうした統一的見解が出される前に、紆余曲折があった。例えば、1873年、スイスの考古学者ベルヌーイは、メロス島の女神について、ギリシャ美術の絶頂期、つまりヴィンケルマンの唱える紀元前5世紀の崇高様式か紀元前4世紀の美の様式との両者の間に属するものと考えた(J.J.Bernoulli, Aphrodite, Leipzig, 1873.)。
フェイディアス時代の完全に衣服をまとった大人のアフロディテと、プラクシテレスによるクニドスのより若い裸体の女神とのギャップを埋めるものだと結論づけた。ベルヌーイは、「ミロのヴィーナス」は現存する他の半裸の女神像と比べて、群を抜いてすばらしい彫像だと考え、その卓越した技術と理想は、パルテノン神殿の彫刻に比較されるのも当然と感じていたそうだ。ベルヌーイは、「凛とした美しさをもった女性」を「ミロのヴィーナス」像に見い出し、その清らかさはクニディアにも匹敵するとみていた。
それに対し、プラクシテレスの初期作品の複製と考えられることが多い「カプアのアフロディテ」は、ギリシャ時代のオリジナルである「ミロのヴィーナス」に基づく、無味乾燥なローマ時代の脚色であると主張した(ベルヌーイ説は、「カプアのアフロディテ」の捉え方に関して、クラーク説とも異なることがわかる。クラーク、1971年[1980年版]、119頁~120頁参照のこと)。

ベルヌーイは、この像が後期ヘレニズムの署名の刻印がある台座とともに発見されたことも知っていたが、パリに着くや否やその台座はなくなっていた(ルイ18世には巨匠プラクシテレスのオリジナルとして紹介されたため、古典期の年代と矛盾する台座の紛失は意図的だったのかもしれないともいわれる)。
ともあれ、ベルヌーイはクニディアや「うずくまるアフロディテ」よりも早く、紀元前4世紀の著名なスコパス一派の作品だろうと断言した(1964年の図録で、シャルボノーが言及していた学説)。

しかし、こうした一連の考察は、1893年、A・フルトヴェングラーによって完全に覆された。この間に台座のコピーが復元されており、作製年代は紀元前2世紀後半とした。
ただ、ヘレニズム芸術に対する偏見から、この彫像を劣った芸術作品としてみることしかできなかった。「カプアのアフロディテ」はもともと鏡に映った自分を堪能するための磨いた盾を手にしており、半裸であることの理由があったが、メロス島の女神は目的もなく淡々と柱に寄りかかっており、そのドレープはゆるく官能的に巻かれており、紀元前4世紀の固く引き締まった表情ではなく、弛緩した顔つきをしているとみている。
また、「ミロのヴィーナス」は芸術的にだけではなく、倫理的にも弱く、堕落しているという。そして、「カプアのアフロディテ」の方が「ミロのヴィーナス」よりもコピーの数が多いことから、古代には前者の方が高名であったと主張し、両者の関係を完全に覆した。要するに、ローマ時代のコピーである「カプアのアフロディテ」は、ギリシャ時代のオリジナルである「ミロのヴィーナス」よりも年代的にも美的にも勝っていると主張した。

一方、シャルボノー(1964年の図録で紹介されていたルーヴル美術館古代美術部長だった学者)は、「ミロのヴィーナス」のモデリングがしっかりしているのに、顔が弱々しく無表情なのは、ヘレニズム後期特有の宗教的熱意の欠如によるものと考えた。
ブリンカーホフは、「カプアのアフロディテ」は一つの一貫した内なるリズムに従っているが、メロス島の女神の内面には統一性がないと評した(D.M.Brinkerhoff, Hellenistic Statues of Aphrodite, New York, 1978.)。
ノイマー=ファウは、「ミロのヴィーナス」という作品は後世のローマ時代のコピーではなく、ギリシャ時代のオリジナルだと断言しながらも、紀元前2世紀後半以降作られた他のアフロディテ像と同様に、新しく創り出されたものではなく、「カプアのアフロディテ」に基づいて形が作られたためだろうとしている。衣服で半分覆われた「ミロのヴィーナス」は、その前の時期に作られた赤裸々なヌードのアナデュオメネに対する反発で、古典期のカプアの持つ引っ込み思案な感じや、内向的な控えめさへの回帰だろうと、ノイマー=ファウは結論づけた(W.Neumer-Pfau, Studien zur Ikonographie und gessellschaft Funktion hellenistischer Aphrodite-Statuen, Bonn, 1982.)。

当時、美術作品として偏見なしに、「ミロのヴィーナス」を評価したのは、ケネス・クラークだけだったようだ。この彫刻を、「小麦畑に立つ楡の木」のようだと感じていた。
両胸の間の距離と、胸から臍までの距離が等しいことから、クラークは幾何学の応用を感じ取っていた。クラークは「ミロのヴィーナス」が紀元前4世紀ではなく、後期ヘレニズム期という時代を体現しているという論もありうるのではないか、などとは疑いもしなかった(K. Clar, The Nude, London, 1956.)。

<ハヴロック説>


ともあれ、「ミロのヴィーナス」についてはまだ分かっていない点が多い。具体的な問題としては、次のようなものが提起できる。
・柱に寄りかかっていたのか?
・盾を持っていたのか?
・ローマ時代のコインに見られるように、アレスと一緒だったのか?
・りんごを持っていたのか?
これらの問題はいまだ解決されていないが、C・M・ハヴロックの考えを紹介しておく。ナポリの「カプアのアフロディテ」は「ミロのヴィーナス」の派生で、後世の作だという昔の考えに戻るべきだと彼は考えている。ポーズやドレープのあしらいには、両者を別のタイプだとする根拠が見出せないという。実際のところ、コス島で出土した小さな大理石のカプアのヴァリエーションは、「ミロのヴィーナス」の姿を復元するのに役に立つ。紀元前2世紀の後半から1世紀の前半に作られたその小像は、アフロディテがエロスとたわむれる姿を表しており、デロス島のパンとアフロディテとエロスの三人組の像と似た構図と活気をもっているとハヴロックは捉えている。
また次のような事実が明らかにされている。すなわち半裸の女性の彫刻は、どんなポーズのものであろうと、後期ヘレニズム時代以前にはほとんど見られなかった。現存する半裸のアフロディテやニンフやミューズの大理石像には、紀元前2世紀半ばより前の作と思われるものは存在しない。岩に腰掛けるか、片足を岩に乗せて立っている半裸の女性像は、特に後期ヘレニズム時代に特徴的な主題であるが、それ以前、紀元前4世紀ごろからこのタイプは散見されるものの、それは小規模のテラコッタの作品に限られているようだ。
また半裸の女性像は全裸の女性像より古くなければならないという手垢のついた議論は、「ミロのヴィーナス」の例には当てはまらない。そしてカプアの仲間と言える等身大の「アルルのアフロディテ」は、まだ若いプラクシテレスの手によるオリジナルのコピーではなく、紀元前1世紀にアテナイの舞台装飾のために新しく創り出されたものではないかともいわれている。
古代の円形劇場跡で発掘された「カプアのアフロディテ」は、アルルと同時期の作品で、数十年早い(やはり劇場そばで発見された)「ミロのヴィーナス」に触発された作品であるとハヴロックは仮定している。つまり「ミロのヴィーナス」は偉大な芸術作品であり、追随者というよりも主導者だったと考えている(C・M・ハヴロック(左近司彩子訳)『衣を脱ぐヴィーナス――西洋美術史における女性裸像の源流』すずさわ書店、2002年、109頁~114頁)

「ミロのヴィーナス」が1822年にパリに到着すると、より荒削りなカピトリーノやメディチ家の像の評判をくすませる人気となった。
ちょうどエルギン卿の尽力で、パルテノンの装飾彫刻がロンドンに到着したのと重なったため、フランス側は、自分たちが手に入れたばかりのメロス島の女神も、それと引けを取らない傑作だという主張に走ったようだ。
(それだけイギリスとフランスは列強同士で芸術分野でも張り合っていた。トルコ支配下のアテネで、英国大使エルギン卿によって、パルテノン神殿から大理石彫刻が剝ぎ取られて、大英博物館に所蔵されるまでの経緯については、朽木ゆり子『パルテノン・スキャンダル』(新潮選書、2004年、とくに7頁~133頁)に詳しい。大英博物館のパルテノン・ギャラリー(アテネのパルテノン神殿の大理石彫刻を展示)は、「エルギン・マーブル」(19世紀初頭、当時の駐トルコ英国大使エルギン伯爵の名前をとってつけた名称)と呼ばれてきた。エルギン卿とギリシャに同行する写生画家の候補として、後に世界的な風景画家となるターナー(当時24歳)の名があがっていたが、ターナーの方から拒否したという)。

永遠の理想の女性美を具現し、愛の女神にふさわしい官能性を生み出す古代美術の最高傑作の一つとして、目を見張るようにして見られた。その後、ロダン(1840-1917)もほめたたえ、1872年には、イギリスの批評家ウォルター・ペーター(1839-1894)が、この作品によって彫刻という芸術が「キリスト教時代の精神的象徴に向けて一歩」踏み出したと宣言している(ハヴロック、2002年、110頁)。