歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪勝負師の教え~井山裕太氏の場合≫

2024-07-21 18:00:37 | 囲碁の話
≪勝負師の教え~井山裕太氏の場合≫
(2024年7月21日投稿)

【はじめに】


 今から、100年前はどんな年であったのか? 
 100年前といえば、1924年、大正13年である。
 ちょうど100周年になる記念の年であるものがある。
 1924年は、干支でいえば甲子(きのえね)の年であった。
 この干支の甲子といえば、直感的に甲子園球場が思い浮かぶ人がいることだろう。甲子園球場の名前の由来となる干支であることからもわかるように、甲子園球場が完成して100周年を迎える。
 そして、年を同じくして、日本棋院もこの年に設立されている。
 前年の1923年の関東大震災を機に、方円社と本因坊家などが集結して、翌年の大正13年に設立された。
 報道によれば、先日、7月17日に日本棋院100周年の記念式典、祝賀会が催された。
 日本棋院の理事長も、小林覚氏から、武宮陽光氏(宇宙流の正樹氏の息子さん)へ引き継がれた。また、祝賀会の来賓として、日本将棋連盟会長・羽生善治氏は、「『棋は対話なり』で、人工知能(AI)による技術が進んでも、人と人とのコミュニケーションは変わらない」と述べられた。また、棋士代表として、井山裕太氏があいさつされ、「受け継がれてきたものを大切にしつつ、変化に柔軟に対応していく姿勢が必要。少しでもいい方向にむかっていけたら」と、先を見据えられたという。
 さて、今回は、その井山裕太氏の勝負師としての教えについて、次の著作を参考にして考えてみたい。
〇井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年

【井山裕太氏のプロフィール】
・1989年、大阪府生まれ。囲碁棋士。日本棋院関西総本部所属。
・2002年、12歳でプロ棋士となる。
・2009年、20歳4カ月で、七大タイトルの一つである名人を獲得。史上最年少名人となる。
・その後、数々の記録を塗り替えながら、タイトルを奪取し続け、2016年には囲碁界史上初の七冠同時制覇を達成。
・その後、名人位を失うも、2017年に前人未到の2度目の七冠同時制覇を成し遂げる。
・内閣総理大臣顕彰。国民栄誉賞受賞。



【井山裕太『勝ちきる頭脳』(幻冬舎文庫)はこちらから】
井山裕太『勝ちきる頭脳』(幻冬舎文庫)





〇井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年

【目次】
序章
 七冠崩壊
 大不評だった最終局
 打ちたかった一手

第一章 なぜ打ちたい手を打つのか―リスクを受け入れる決断法
 涙を流した19歳での名人挑戦
 このままではこの人に勝てない
 打ちたい手しか打たない覚悟
 方向性を見出せた20歳での名人戴冠
 最善には、あえてリスクを
 リスクを背負って勝ちきる
 センサーを働かせる

第二章 僕の原風景―囲碁を始めてから初タイトルまで
 囲碁、そして恩師との出会い
 独創の芽生えは石井先生の教育方針
 12歳でプロ棋士に
 自主性を育てた家族の教え
 3年目までは暗中模索
 最年少記録を樹立も停滞

第三章 七冠全制覇までの歩み―諦めない気持ちが大仕事を生む
 逆転負けの連続
 最善手を求め過ぎての敗北
 「最善」と「正解」の違い
 一度は諦めた全冠制覇
 偉業への再挑戦
 七冠達成の瞬間

第四章 直感と読みの相互性―何が独創を育むのか

 直感は「経験と流れ」
 「読み」の思考方法
 プロは「読み」より「判断」で迷う
 時間の使い方
 直感とは個性である
 人の廃案に独創がある

第五章 囲碁は勝負か芸術か―盤上の真理を追い求めることの意味
 ミスを認める辛抱
 基本姿勢は平常心と自然体
 投了に美学はあるか?
 勝負と芸術の二兎を追って

第六章 棋士という職業―勝つために何をするのか
 棋士は恵まれた職業か
 コンディション作り
 対局中の極限状態
 尊敬する人
 復習なくして成長なし
 囲碁に記憶力は重要か
 羽生善治さんの応用力
 定石は覚えて忘れろ
 挫折を克服する
 「好き」という才能

第七章 世界戦に燃える―日本碁界への提言と世界一への想い
 9歳で世界を意識
 勝てなくなった日本
 裾野がケタ違い
 中韓棋士、強さの源
 中国・韓国から学ぶべきこと
 世界への挑戦で得た自信
 世界戦に出場したい!

第八章 囲碁界の未来―人工知能という新たな強敵
 若手への想い
 衝撃のアフファ碁
 Zenとの戦いに燃える
 囲碁はどこへ行くのか?
 人工知能が拓く可能性

終章 
 孤独と付き合う
 僕にできる唯一のこと
 目指すところ

文庫特別書き下ろし 七冠再制覇と世界戦
 七冠再制覇は無理だと……
 再制覇の原動力は大舞台での惨敗
 夢の世界戦に立つ
 大きな収穫を得た敗戦
 
 あとがき
 文庫化によせてのあとがき
 解説 加藤正人





さて、今回の執筆項目は次のようになる。


第一章 なぜ打ちたい手を打つのか―リスクを受け入れる決断法
・このままではこの人に勝てない
・打ちたい手しか打たない覚悟

第四章 直感と読みの相互性―何が独創を育むのか
・直感は「経験と流れ」
・直感とは個性である

第五章 囲碁は勝負か芸術か―盤上の真理を追い求めることの意味
・勝負と芸術の二兎を追って

第六章 棋士という職業―勝つために何をするのか
・復習なくして成長なし
・羽生善治さんの応用力
・定石は覚えて忘れろ

第七章 世界戦に燃える―日本碁界への提言と世界一への想い
・中韓棋士、強さの源
・中国・韓国から学ぶべきこと








第一章 なぜ打ちたい手を打つのか―リスクを受け入れる決断法
 

このままではこの人に勝てない


・名人戦の最終局に敗れて、痛切に思い知らされたことは、張栩さんと著者の間に歴然と存在する「大きな差」であったそうだ。
 「このままではこの人に勝てない」と思った。
 最も顕著に表れていたのが、著者が自分を信じきれなかったのに対して、張栩さんは絶対的に自分を信じきっていたという点であった。 
 張栩さんの打つ手が皆、良い手に見えてしまったという。
 「ここまで踏み込んできたのだから、きっとこれを咎める手はないのだろう」
 「相手が自信満々に打っている。ということは自分が劣勢なのか?」
 このように対局中に考えてしまった。
※つまり、自分を信じることができず、相手を信じてしまった。
 これでは勝てるはずもなく、特に最終局第7局で、そういう心理に陥ってしまったことが、悔やまれたようだ。
 なぜそう思わされてしまったのか?
 張栩さんの全身から噴出されている迫力、オーラであるらしい。
 そうした精神力に加えて、技術力でも大差があった。
 こちらの形勢が少しばかり良くなっても、楽をさせてくれない。少しでも緩めば徐々に差を詰められ、最後には抜き去られてしまう恐怖感があり、逆にリードを奪われてしまったら、そのまま逃げきられてしまうという焦燥感を抱いたという。
 特に格別だと痛感させられたのが、優勢な碁をスムーズに勝ちきる力である。
(特別に厳しい手を打っているわけでもなく、緩んでいるわけでもなく、勝利というものに向かって、まっしぐらに最短で突き進んでいく感じである。)

※碁においては本来、この「ちょっとだけ優勢」という状態が最も難しいはずである。
 張栩さんに関してだけは、この「少しだけ優勢の状況が最も難しい」が当てはまらない。
 わずかな優位をそのままゴールまでキープしてしきってしまう。これが「勝ちきる」ということで、真似のできない芸当だと思わされたとする。
 「自分の着手だけに集中しなければ」と思って碁盤に臨んでいるのに、いつの間にか「優勢にならなければ」「もし逆転されたら」ということを思わされてしまう。
 これが張栩さんの強さだという。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、25頁~29頁)

打ちたい手しか打たない覚悟
・先の名人戦で最も不甲斐なく感じたのは、自分を信じきれなかったことであるという。
 そのためには、どうすればいいかを突き詰めて考えたようだ。

・囲碁というゲームは、200手を超えて終盤を迎えた場面でも、たった1手のミスで優勢をフイにしてしまうことがある。
 しかし人間である以上、ミスを100パーセント防ぐことはできない。
 どんな名手・高手でも、その確率を減らすことはできても、いつかどこかで必ずミスはしてしまう。

・名人戦での自分を信じきれなかったことによる敗戦を、根本的な大問題として、自問自答を繰り返した結果、「あとで後悔するような手だけは打たない。常に自分が納得できる手だけを打つ」という、自分に対する決め事を作ったそうだ。

・では、納得できる手というのは、具体的にどういう手を指すのか?
 あえてひと言で表現するなら、「今」という単語に集約できるそうだ。
 つまり、一手一手、目の前にある局面で最善を尽くすということ。
(覆水盆に返らずではないが、打ってしまった手は、もう打ち直すことができない。だから、結局また「今この局面でどうすればいいか?」の繰り返しになるわけである)

・そこで、犯してしまったミスを悔やみながら次の一手を考えるのと、やってしまったものは仕方がないと気持ちを切り替えて考えるのでは、当然ながらその後の進行に違いが出てくるだろう。
 そのためにも、着手をする際、「この後どんなことになっても、それを受け入れる」という覚悟を持つようになったという。
➡これが「納得した手を打つ」ということである。
(仮にその手が原因で形勢が暗転しても、その手を悔やむのではなく、訪れた局面でベストを尽くすことを心掛けるようにした)

※一局の碁は、とても長い道中で、簡単に結末は訪れない。
 過去ではなく、今、目の前で求められている一手一手に全力を尽くし、自分なりの最善を追い求めることが、一局の碁における勝利に最も近づけるのではないか、と思うようになった。

※囲碁には正解が存在しない局面も多々ある。
 そうした時でも、「この程度でいいか」ではなく、「自分はこれがベストと思うのだから、この後どんな結果になろうとも、それを受け入れる」という覚悟を持つ。
 この覚悟が「納得した手を打つ」ということの、定義付けだとする。

・ミスをした時と同じように、一局の碁に敗れた時も、「この一局に全力を尽くしたのだから後悔はない」と考えようと、自分に誓った。
 そして、負けてもそう思えるだけの勉強と準備を怠らないこと。
 名人戦で張栩さんに敗れたことで、このような考えに至ったようだ。
 
・著者は、現在に至るまでの囲碁人生のなかで、自分の棋風(囲碁のスタイル)を変えようとしたことはほとんどないらしい。ただ、名人戦に負けた後の1年間くらいだけは例外で、意図的に棋風を変えたという。
 自分の打つ手に納得して覚悟を持ち、自分を信じることが、張栩さんに追いつくための唯一の道だと、自分に言い聞かせたそうだ。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、29頁~33頁)

第四章 直感と読みの相互性―何が独創を育むのか

直感は「経験と流れ」


〇ファンから受ける質問で、最も多いのが、「手を読むとよく言いますが、いったい何手くらい読めるものなのですか?」というものであるそうだ。
・かつて石田芳夫先生(二十四世本因坊)は、こうしたファンの質問に対し、「ひと目千手」と答え、周囲を驚かせたというエピソードがある。
 この答えは、リップサービスの感がなきにしもあらずだが、では荒唐無稽な数字なのかというと、そうでもないようだ。
 枝葉のように無数に分岐する膨大な読みを換算すれば、それくらいの数字にはなるかもしれないという。

〇では、プロは対局中、どういう思考回路で読み、着手を決定しているのか?
・これを説明するためには、まず「直感」について話していくのが、最もわかりやすいという。
 ひとまず「読み」は置いておき、「直感」についての話を著者はする。
・プロなら、相手が着手した瞬間に「ここで自分が打つべき手はここだろう」とか「ここに打ちたい!」という手が浮かぶ。
 その候補手が一つの場合もあれば、二つ、三つというケースもある。
 その手もしくはそれらの手が、実際に正解であることは極めて多いらしい。
 これが、囲碁における「直感」であるという。
 ともすると、この「直感」は「ヤマ勘」と同じイメージで捉えられるかもしれない。
 しかし、この両者には明らかな差異がある。
 つまり、「ヤマ勘」が、明らかな当てずっぽうで根拠がない選択である。
 それに対して、「直感」には、確実に根拠がある。

〇では、その根拠とは何か?
 著者は「経験と流れ」と答える。
 
〇まずは「経験」から説明している。
・それまで数えきれないほどの対局を積み重ねているので、似た局面や形には、過去に必ず出くわしている。
 そうした過去のデータが頭の中に残っているので、まったく同じ局面というのはないにしても、似た局面だと「ここが正解ではないか?」と直感が働く。
 
・これが石の生死を扱った部分的な形(いわゆる「詰碁」)だったら、話はよりはっきりする。
 プロは子供の頃から膨大な数の詰碁問題を解いてきているから、似た形が現れたら「ここが急所だ!」と直感で正解がわかる。
 過去に解いてきた無数の詰碁から導き出された「経験による直感」で、この思考法が、実戦における全局的着手の決定においても使われる。
 
〇もう一つの「流れ」について
・その局面に至るまでの手順には、必ず「流れ」がある。
 自分がこう打つと相手はこう打つという具合に、一手一手にストーリーがある。
 棋士は、この「流れ」に沿って着手を考える。
(「こういう流れでここまで来たのだから、次の手はここに行くのが自然だな」という具合である。)

※逆に言うと、流れに逆らった手は打ちにくいというか、浮かばないという。
 対局後に他の人から、「あの場面でこういう手はなかったですか?」と言われ、確かにその手もありえたというケースは多々あるそうだ。
 しかし対局中は、ストーリーがあり、その「流れ」の中で着手選択をしているので、のちに指摘された手がストーリーから外れていたら、その手は「直感」として浮かばないという。

※だから、自分が打っていない他人の碁の一部分をパッと見せられて、「ここでどう打ちますか?」と問われても、判断に困ることがあるそうだ。
 そのような時は、その局面に至るまでの手順を教えてもらい、ようやく「なるほど。こういう流れで来たなら、次はここに打ちたいかな」と意見が持てるようになるらしい。

〇このように、棋士にとっての「直感」とは、「経験と流れを下地に構成されている」という。

・なお、「直感」とよく似た「ひらめき」という言葉がある。
 ニュアンスの違いがある。
 「直感」によって浮かんだ手がいくつかあるものの、その後の進行を想定してみたところ、いずれも今一つと感じるケースがある。
 そうした際は「他の手がないか」と探すわけだが、あれこれ考えた末にふと浮かぶのが、「ひらめき」であるようだ。
 従って、「ひらめき」は、形勢がやや苦しい時に要するものと言っていいとする。
 形勢が順調なら、「直感」によって浮かんだ常識的な手で事足りているはずであるから。「直感」だけでは不利な形勢を打開できないので、もうひと絞りして「ひらめき」にたどり着く――こうした思考順序だという。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、100頁~105頁)

直感とは個性である


・一局の碁において、「直感」が優先される比率は序盤が最も多く、中盤から終盤にかけて、終局に近づけば近づくほど、少なくなっていく。
 よく「あれも一局、これも一局」と言われるように、序盤では明確な正解がなくてわからないので、着手決定は「直感」の割合が高い。
 まだ土台を築き上げている段階なので、読みというよりは「どうしていきたいのか」という「好み」で着手を決められると言ってもいい。
(「序盤における直感は好みである」とも言える)

・それに対し、石が混み合ってくる中盤以降では、石の生死や地の計算といった要素が入ってくるので、はっきりとした正解手が存在する局面が増えてくる。
 それに伴って、「直感」の割合が減っていき、その代わりに「読みや計算」の割合が増えてくる。

・とはいえ、中盤だったり終盤入口の段階では、プロといえども最後の最後までを読みきれるわけではないともいう。「僅差で勝てそうだ」とか「このままでは大差負けだ」などと、それなりの見通しが立つところまでしか窺い知ることはできないそうだ。
 従って、そういう段階ではある程度のところで読みを打ち切って、自分がどの道を行きたいかで最終的な着手を決めることになる。
 結局のところ、「直感」の割合が少なくなっている局面でも、やっぱり「好み」の要素を完全に払拭できない。多かれ少なかれ「好み」ともいえる「直感」が入ってこざるをえないようだ。

・だから、碁が強くなるためには必然的に、そうした感覚的な部分を磨くことが重要になってくる。
 「直感」の基となっている経験と流れに反応するセンサーに、万人共通の答えはない。碁が強くなるために棋士ができることは、感性を磨いて「自分にしかない世界」を切り拓いていくしかないという。
(しかし、感性を磨くということがまた難しい。その方法もまた明確なものが確立されていない。そこがプロ棋士にとって最大のジレンマだという)
〇囲碁とは、こうした個性を競うゲームであるとも言える。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、114頁~116頁)

第五章 囲碁は勝負か芸術か―盤上の真理を追い求めることの意味

勝負と芸術の二兎を追って


・棋士は、囲碁を勝負事として捉えるタイプと、「芸道」として捉えるタイプがあるといわれる。「芸道」の方は、形勢の悪い碁をいつまでも未練がましく打つのは恥であるとの意識が強く、「散り際を美しく」という気持ちが働くものらしい。

・著者はどちらのタイプかと自問し、ポキッと折れるタイプではないとする。
 可能性がある限りは粘って、逆転を追求するタイプであるらしい。
 勝利という目的に向かって全力を尽くす姿や、盤上の技をファンの皆さんに観ていただくのが、その役割だと考えているという。

※芸術家タイプの棋士の考え方を否定しているわけではない。
 そうした棋士の囲碁への澄みきった気持ちは尊敬するし、碁盤に対するそういう思いは忘れずにいたいという。棋譜が残る立場であるから、いいものを作りたいし、恥ずかしい作品を残すことはできない。
 だから、「囲碁に求めるのは勝負か芸術か?」と問われたら、著者は「二兎を追います」と答えている。
 というのも、勝負と芸術は、決して対立するものではないと考えている。
 「貪欲に勝利を追い求めながら、芸術性を発揮することもできる」。これが著者の考えであり、究極の理想である。

・個性の表現の積み重ねこそが「芸術」になるという。
 江戸時代や明治時代における名人たちの棋譜を並べていても、そこには弾けるほどの個性がある。
 「この人はこういうことを考えながら、この手を打ったんだな」ということから始まり、「こういう考え方をするということは、きっとこういう信念を持った人だったのだろう」ということまで感じ取れるのだから、棋譜はやっぱり、人を映す芸術作品であるという。

・羽生善治さんも著書の中で言っておられる。
「できるだけ一局の早い段階で、定跡や前例から離れたい」と。
 これははやり「他人の真似ではなく、自分の個性を出したい。自己表現をしたい」との意味だ、と著者は捉えている。

※自分を表現することに繋がるが、自分らしい手や自分にしか打てない手を打つことが、著者の大きなモチベーションとなっているそうだ。
 一局のなかで「この手は自分らしい、満足のいく手だった」と思うことができれば、その碁を打った意味や、幸せを感じるようになってきたそうだ。そう考えると、著者にも芸術家タイプの要素が芽生えてきたのかもしれないという。
 そこに「勝利」という結果を加えることができれば、言うことなし!
 勝利を懸命に追い求めるなかで、盤上に自分らしさを表現したい。
 勝負と芸術の二兎を求めることが、著者にとっての究極の目標であるという。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、128頁~131頁)

第六章 棋士という職業―勝つために何をするのか

復習なくして成長なし


・何事も成長するためには反省と復習が欠かせない。これが囲碁にも例外なく当てはまる。
 囲碁では、対局を終えると対戦相手と「感想戦」と呼ばれる局後検討を行なうが、これも反省と復習をしている。
 この感想戦の主目的は、敗者が自分の敗因を突き止めることである。
 同時に、対局中に感じていた疑問を解決することも目的としている。
 ただし、この感想戦はやはり対局直後ということもあって、勝者が敗者を気遣う場でもあるらしい。だから、勉強になる一面、本当に突き詰めて一手一手を振り返ることができない一面もあるようだ。本当の意味で、厳密に自分の対局を検証したいなら、家に帰って自分一人で反省し直すか、後日に他の棋士を交えて共同検証することになるという。

・棋士ならば誰もが、自分の打った碁を並べ直し、反省を行なっている。
 勝った時と負けた時で、この並べ直しに対するスタンスが微妙に違ってくるそうだ。
 著者の場合、負けた場合は「負けの原因がどこにあったか」の検証が中心となる。
 敗因が判明するまで行ない、そこで一度、敗戦をリセットする。
 ただ稀に、どんなに検証しても自分の問題手が見つからないこともあるようだ。
 ということは、自分には発見できなかった好手を相手が打ったということで、そうした場合は「相手が上だった」と自分に言い聞かせているそうだ。
 勝った碁を並べ直す時は、勝負所の研究以外にも、一手一手について「他の可能性はなかったか」という視点で振り返る。勝利という結果に満足するのではなく、より向上できる可能性を探っていくらしい。

〇複数の棋士で一緒になって勉強する「研究会」がある。
 これを行なうかどうかについては、棋士のタイプによる。研究会が好きな人と、好まない人がいる。
・坂田栄男先生(二十三世本因坊)や趙治勲先生、山下敬吾さんは、一人で勉強するタイプの代表格。
 囲碁というものを「碁は自分一人で強くなるもの」と捉えている。

・一方で、藤沢秀行先生(棋聖六連覇をはじめ名人、王座、天元などのタイトルを獲得した、昭和期を代表する名棋士)や王銘琬(おうめいえん)先生(九段)、結城聡さん(九段)は、「皆で勉強して強くなっていけばいいじゃないか」と考えて、率先して研究会を主宰しておられる。
(もちろん根本には「自分」があるのだが、「自分一人では考え方が偏ってしまう。他人の意見を聞くことで視野が広がる」と考えている)

・著者がどちら派といえば、「どちらもあり派」という。
 というのも、どちらにも長所があり、短所があるからである。
 一人派の長所は、自分だけの世界を深く追求できる。誰が何と言おうとも自分はこの道を行くという、強烈な個性と棋風を持っている人が多いことも特長の一つである。
 その反面、自分の世界を追求し過ぎるあまり、視野が狭くなってしまいかねないマイナス面がある。
(坂田先生や治勲先生、山下さんほどのレベルになれば、このマイナス面を完全に払拭して大きなプラスへと作用している。中途半端なレベルで自分の世界だけにこもると、マイナス面のほうが大きくなってしまう可能性がある)

・一方で研究会派のプラス面は、「いろいろな人の意見が聞ける」ことである。
 自分一人では絶対に浮かばなかったであろう手や考え方を知ることができるので、知識や考えの幅が広がる。
 しかし、知識や情報に頼りきりになってしまうと、「自分で考えて碁を創り上げていく」という、棋士としての根幹をなす能力を養うことができないというマイナス面が頭をもたげてくる。

・中国や韓国の棋士が共同研究で生まれた結論を多用し、10代から早々に活躍する反面、30歳を超えると皆揃って衰退していくのは、この「情報に頼りきり」という一面があるからではないか、と著者はいう。
 著者は、一人派と研究会派のそれぞれの長所を「いいとこ取り」したいとする。
 「自分が打ちたい手を打つ」ことが、著者の絶対的テーマである。
 自分で自分の碁を創り上げていくことが根本ではあるが、それだけでは視野が狭くなってしまうので、「研究会で他の人の考えも、情報として聞いてみたい」というスタンスである。
 人からの意見や情報は大きなヒントになり、それを自分なりに考えて理解し、納得することが大きな財産となるというのである。
(まずは情報として仕入れ、それを自分なりに吟味して選択する作業が重要である)
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、145頁~150頁)

羽生善治さんの応用力


・陥りがちな誤解として、「囲碁は頭の良い人がやるもの」という思い込みがある。
 一般的に言われている「学業の成績」は、まったく囲碁と関係がない、と断言できるそうだ。
 著者自身、小学校時代、特に勉強ができたということはなく、ごくごく普通の成績だったらしい。そして中学校入学と同時にプロ棋士になったので、学校を休むことも多くなり、やがて勉強にはついていけなくなったという。
 だから、囲碁で必要なのは、学業的な能力ではないとする。
 求められているのは、ある局面を見て、「あ、以前に似た局面があったな」とか「こういう形の時は、ここが急所であることが多い」などと察知する能力(応用力とか適応力)である。
(刺激的な表現をすれば「嗅覚」と言ってもいい)

・この応用力について考える時、著者はいつも将棋の羽生善治さんを思い浮かべるそうだ。
 雑誌などの対談でよく一緒になるそうだが、話をすれば必ず勉強になることばかりで、学業的な頭の良さではなく、「真の意味で頭がいい」とは、こういう人のことを言うのだろうと思うらしい。
・まず羽生さんの根本として、知識の幅がものすごく広いということがある。
 そして、この豊富な知識を土台にして、将棋のことを説明する時などでも、じつに的確なたとえがすらすらと出てくる。
(なるほど、こういうふうに話せば将棋を知らない人でも理解しやすいと感じるそうだ)

・囲碁や将棋に必要なのは、こうした能力だ、と著者はいう。
 どちらも未知の世界にどんどん入っていくので、そういう時に自分の知識や過去の経験を基に適応し、自分の世界を切り拓いていく。
 以前に経験したことを同じ局面ではなくても活用し、自分が持っているものをヒントとして対処していく。これができる人は強い。これができないと、勝負の世界で勝ち続けていくことはできないという。
 その意味では記憶力も、自分の経験と知識のストックとして、ある程度は必要だろうが、それはあくまでも「あるに越したことはない」というレベル。本当に大事なのは、その経験や知識を「いかに活用するか」である。
 囲碁において、ただ暗記するだけでは何の役にも立たないという。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、153頁~155頁)

定石は覚えて忘れろ


・囲碁ファンの思い込みとして、「上達にするためには、定石を覚えないといけないでしょうね」というのがある。
 「定石」(じょうせき)とは、本来は囲碁用語である。
(将棋では“定跡”とも書く)
 それは、過去の先人たちの研究によって編み出され定着した「ある部分において双方最善と認められた着手の応酬」のことである。
(このとおりに打っていれば間違いがないというガイドラインのようなもの。囲碁におけるマニュアル)

・囲碁ファンは「定石を覚えなければいけない」と思うが、これに対し返答することは、難しいという。
 というのも、定石とは、あくまでもマニュアルであり、それ以上でも以下でもないから。
(使い方しだいで、薬にも毒にもなってしまう。そのとおりに打っていれば、少なくとも大失敗はないという安心感はある。)
 
※著者は、師匠の石井邦生先生から「定石を覚えなさい」と言われたことは、一度もないそうだ。
 その理由は、おそらく以下のようなことであろうという。
・定石をデータとして覚えておくのは良いことだが、それはあくまで「部分的な打ち方のマニュアル」に過ぎない。
 囲碁とは、常に全体・全面を視野に入れた上で着手を決定する必要があるゲームなので、いくら部分的には好手であっても、全局的には疑問手となってしまうケースがある。
➡だから、「定石どおりの手を打つ」ことよりも、「その定石が全局にマッチしているかどうか」という判断のほうが重要となってくる。
 その判断力こそが、その人の囲碁の力と言ってもいい。
 従って、定石をたくさん知っている人が強いわけではない。
 記憶力=棋力ではない。

〇定石とかマニュアルというものは、決して正解ではなく、「あくまで一つの考え方」だと認識し、位置づけるべきである。
 やはり大事なのは、その人が自分なりに考えることである。
 
・自分で考えるということで言えば、藤沢秀行先生もそうであったという。
 人真似をすごく嫌う先生で、定石だからとか、誰かがこう打っていたからという理由で、その手を打ったりすると、烈火のごとく怒られたそうだ。
(逆に、秀行先生の目にそれほど良い手だとは映らなくても、その人なりに考えて打った手であれば、特に怒られなかったらしい)

※ただ、著者は定石の価値を否定しているわけではない。
 定石を鵜呑みにして頼りきってしまうことが良くない。
 定石というもの自体は、素晴らしいもので、先人たちが研究に研究を重ねた上に築かれたもので、黒と白の双方にとっての最善手が凝縮されているから。
 定石にちりばめられた一手一手の意味を理解し、その応酬の素晴らしさを味わおうとするなら、これ以上の勉強方法はないと言ってもいい。
 だから、定石に関して、難しい定石を手順だけ覚えようとするのではなく、簡単な定石でいいので、その一手ごとの意味を考えるようにするとよい、と著者はアドバイスしている。

〇完全に理解できなくても構わないから、自分であれこれ考え、そうした試行錯誤の末に身につけたものなら、その定石は囲碁ファンの皆さんの財産になる。
ただ漠然と手順をなぞるのではなく、全局にマッチしているかどうかの判断も、誤ることはないであろう。
 昔から言われている「定石は覚えて忘れろ」という格言は、かなりの真理だという。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、156頁~159頁)

第七章 世界戦に燃える―日本碁界への提言と世界一への想い
 

中韓棋士、強さの源


・では、中国・韓国棋士は、具体的にどこが強いのか?
 
〇世界で活躍するトップレベルになれば、序盤、中盤、終盤とすべての分野で、強い。
 そのなかでも、読みであったり、計算であったりといった「答えの出る分野」での正確さが際立っているそうだ。

※勝負という観点に立つと、「正解がある場面で正解を出せる」ことは、非常に重要。
 そこで正しく打てるかどうかが、勝敗を決めると言っても過言ではない。
 中韓は、その点を最重要視し、読みと計算の能力を上げることを最優先している。

 この能力アップのためには、幼少時からの鍛えが必要不可欠。
 中韓ともに、優秀な才能をさらに伸ばす体制・システムが確立されている。
 読みや計算という「正解が存在する分野」の鍛え方が、日本よりも一枚上を行っている。
 だから、中韓の棋士は、答えの出る場面で間違えることが少なく、全体的に精度が高い。

●一方で、日本の棋士は、そうした分野でわずかに甘さがある。
 正解の存在しない序盤でリードを奪っても、中盤の戦闘で読み負け、終盤の計算で損をしてしまうので、最後には負かされてしまう。
➡これが日本棋士の典型的な負けパターン

※今の中韓と日本の差は、「正解が存在する局面で、正しく打てるかどうか」の正確さにある。鍛えられる部分を徹底して鍛えていること、これが中韓の強さの源。

〇さらに、「正解が存在しない分野」である序盤の布石でも、中韓は、着実にそして急速に進歩を遂げている。
・以前、日本のナンバーワンが怪しくなってきた頃は、「読みや計算では中韓が上かもしれないが、布石では日本のほうが上」と言われていた。しかし、近年では、この布石分野でも、日本は中韓に後れをとっている。
 というのも、中韓特に中国は、世界レベルの強い打ち手が集まって、序盤の共同研究をしているから。

・従来、「好勝負か」「白が良いとしたものだろう」と感覚的な判断で済ませていたものを、「本当にそうなのか?」とさらに深く追究し、はっきりと最終的な結論が出るところまで、突き詰めていく
・さらには、30~40手にも及ぶ布石の型を編み出され、「これが双方最善の手順である」と結論づけるなど、序盤で石数が少なくて漠然としていることから、「正解がない」「どう打っても一局」とされていた布石の分野に、正解を持ち込むかのような研究結果が出されている。
(今や、序盤研究においても、中韓が日本を上回っている)

※日本では、昔から「碁は自分一人の力で精進していくもの」という伝統があり、タイトルを争っている相手と一緒に研究するという土壌がでてきていない。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、182頁~186頁)


中国・韓国から学ぶべきこと


・前項では、中国と韓国がいかに強いか、日本はなぜ勝てなくなったのかという問題について、著者の思うところを述べていた。
 「これでは今後、ますます差を広げられる」。その可能性はかなり高いことも事実である。
・ただ、著者は次のように考えている。
 江戸時代に家元が作られてからたゆまぬ精進を続けてきた日本の囲碁は、そんなにヤワなものではないという思いもある。
 日本の囲碁には、独自の良さがあり、それを前面に押し出し精進していけば、再び中韓を抜き返すことも不可能ではないという。

〇では、その「日本の囲碁の良さ」とは何か?
 それは、「碁は自分一人の力で精進していくもの」という日本の伝統的な考え方であるとする。
・前項では、この点を、中韓の共同研究に対する日本の負の要素として挙げた。
 じつは表裏一体で、中韓に対して日本が誇るべき、最大のアドバンテージだともいう。

・その傍証として、中国や韓国では、それまで世界戦で活躍していた一流棋士であっても、30代になると急に勝てなくなり、40代になればほとんど名前も聞かなくなってしまうことを挙げている。

※中国・韓国棋士の最大の強みは、安定した中盤から終盤の力であった。
 この力は、卓越した読みと計算の能力によって支えられており、脳が素早く働く若さが原動力である。(瞬発力といってもよい)

 だからこそ、スポーツ選手と同様、瞬発力に陰りが見え始めてくる30代になると、衰えてしまう。40代では、その傾向が顕著になる。
 中終盤の瞬発力に頼れるのは、20代のうちだからこそ、中韓の棋士の活躍期は短いのではないかという。

※日本の棋士はと言えば、このたび40歳で名人に返り咲いた高尾紳路さんをはじめ、山下敬吾さん、張栩さん、羽根直樹さん、河野臨さんら、「四天王世代」と言われる方々は、今も日本のトップレベルで活躍している。
 また、還暦を迎えられてもなおタイトルを獲ろうと闘志を燃やしている趙治勲先生は、今や「日本碁界の至宝」と言える存在。

〇では、なぜ日本の棋士は、このように活躍の期間が長いのか?
 これは若い頃に「自分で自分の碁を創り上げてきた」からだと、著者はいう。
 決して人真似ではなく、誰にも真似のできない「自分だけの碁」を、10代から20代にかけて確立してきた強みであるとする。

・読みや計算には、脳の瞬発力を必要とするので、この分野に関しては若い人が有利。
 しかし、囲碁は、読みや計算だけではない。人間では正解を導き出すことができない「感覚」の分野が存在し、勝負における精神面や人間性を問われるゲームでもある。

・古来、日本の碁は、そうした「感性」の分野を大事にしてきた。
 そして、この部分こそ、日本が世界に誇るべき点だと、著者は確信している。
 
※中国や韓国のマニュアル化した序盤や中終盤に特化した戦い方は、若くてもすぐに結果を出しやすく、勝利は摑みやすいかもしれない。
(なので、誰もがある程度までは割と簡単に伸びる)
 それにプラスできる「自分ならではのもの」に欠けるきらいがある。
 その一方で、日本の碁は、自分一人で創り上げていくため、芽が出るのに時間がかかるが、ひとたび実を結べば、それを長く維持できる。
(著者は、こういう図式を考えている)

※ただ、中韓には日本とはケタ違いの裾野の広さがある。すぐに次の若い有望株を出現するので、いくらでも新陳代謝が可能である。
対して、日本は残念ながら裾野が狭いので、一人の棋士に長く活躍してもらう必要がある。大器晩成を好むお国柄でもあるし、今の棋士の育て方が間違っているとも思えない。
要は、お互いの長所を認め、自分の良いところを大事にしつつ、相手の優れているところを取り入れる、融合のバランスであろう。

※日本碁界は、自分たちの良さ=自分の碁を創り上げることができる強みを根本に抱きつつ、中韓の優れている部分=答えが存在する部分で正解を出せる能力の鍛錬を導入していくべきだという。
 江戸時代からの長い歴史がある日本の碁は、間違いなく世界に誇りうるもの。
 正しい方向で精進を重ねていけば、いつか再び世界のナンバーワンに返り咲く日が来る、と著者は信じている。
 そのための大前提の一つとして、まずは裾野を広げるべく、囲碁界が本気でこのゲームを子供たちの間に浸透させていく必要があるという。
(井山裕太『勝ちきる頭脳』幻冬舎文庫、2018年、186頁~191頁)