(2024年7月14日投稿)
【はじめに】
前回のブログでは、勝負師として、藤沢秀行氏を取り上げた。
先日、7月12日(金)、池上彰氏がナビゲーターをつとめる「時をかけるテレビ」という番組があった。NHKの過去番組から時代を超えたメッセージを読み解くというのが趣旨らしい。2005年に放送されたものである「かあちゃんは好敵手―棋士・藤沢秀行と妻モト」では、藤沢秀行氏の晩年の日々の様子が映し出されていた。「最後の無頼派」「天才囲碁棋士」と呼ばれた藤沢秀行氏と妻モトさんとが、がんの闘病生活をどのように送っておられたのかがわかり、また、闘病中にもかかわらず継続された「秀行塾」の様子が伝わるものであった。囲碁に対する秀行氏の厳しさと“異常感覚”を垣間見れたような気がした。例えば、京大医学部卒業後、プロ棋士となった坂井秀至氏(のちに医師に転身)の棋譜を「秀行塾」で添削した際に、小さく囲おうとする「トビ」の手に対して、中央に出るためにどうして「ノビ」なかったのかと評しておられた姿は印象的であった。最後まで失われなかった、囲碁に対する情熱と、最善手を追求する姿勢には、心に刺さるものがあった。
さて、今回のブログでは、次の著作を参考にして、勝負師の教えについて考えてみたい。
〇羽生善治『直感力』PHP新書、2012年
プロフィールにあるように、羽生善治氏は、輝かしい業績をもつ将棋のプロ棋士である。
2018年に棋士として初めて国民栄誉賞を授与されたことは、記憶に新しいであろう。
その羽生善治氏は、本のタイトルにあるように、勝負師として、「直感力」を重要視されている。
直感とは、「一秒にも満たないような短い時間であっても自分の経験則と照らし合わせて使うもの」(17頁)、「論理的思考が瞬時に行われるようなもの」「羅針盤のようなもの」(22頁)であるという。
そして、将棋は、ひとつの場面で約80通りの可能性があるそうだが、著者の場合、その中から最初に直感によって、2つないし3つの可能性に絞り込んでいくという(32頁)。
(こうした「直感」や手を選択する際の考え方として、将棋に限らず、囲碁にも参考になる教えだと思う)
また、「日本の将棋」(199頁~202頁)では、将棋の発祥は古代インドといわれているが、日本輸入の経緯は、貿易ないし交易に伴ったものである点を指摘されている。金将、銀将、王将(玉将)は容易に推測できるが、桂馬と香車は香辛料だそうだ。貿易、交易で取り扱っているものがそのまま駒になっているというは面白い。
そして「底流にあるもの」(203頁~205頁)では、簡略化という日本の伝統文化の共通項について言及されている点も興味深い見方だと思う。
【羽生善治氏のプロフィール】
・1970年、埼玉県生まれ。将棋棋士。
・小学6年生で二上達也九段に師事し、プロ棋士養成機関の奨励会に入会。奨励会の六級から三段までを3年間でスピード通過。中学3年生で四段。
・1989年、19歳で初タイトルの竜王位を獲得。
その後、破竹の勢いでタイトル戦を勝ち抜き、1994年、九段に昇段する。
・1996年、王将位を獲得し、名人、竜王、棋聖、王位、王座、棋王と合わせて、「七大タイトル」すべてを独占。「将棋界始まって以来の七冠達成」として日本中の話題となる。
・2008年には名人通算5期により、永世名人(十九世名人)の資格を獲得し、執筆当時、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将の全7タイトル戦で6つの永世称号の資格を有した。
・2012年7月、タイトル獲得数が81期となり、大山康晴十五世名人の持っていた生涯獲得タイトル数80期を超えて、歴代一位となった。
<著書>
・『簡単に、単純に考える』(PHP文庫)
・『決断力』『大局観』(角川oneテーマ21)
【羽生善治『直感力』(PHP新書)はこちらから】
羽生善治『直感力』(PHP新書)
〇羽生善治『直感力』PHP新書、2012年
【目次】
はじめに―直感をどのように活かすか
第一章 直感は、磨くことができる
一瞬にして回路をつなぐもの
直感とは何か
「見切る」ことができるか
約80通りの可能性から、瞬時に急所を絞る
直感を磨くには多様な価値観をもつこと
第二章 無理をしない
無駄はない
何も考えずに歩く
空白をつくる
何も考えないこと、ひとつのことを考え続けること
底を打つ
完璧主義に陥らない
第三章 囚われない
意欲と楽しさについて
分からないことこそ、やってみる
苦手なものを引き受けてみる
先のことは分からないもの
読書について
第四章 力を借りる
「他力」を活かす
同世代のライバルをもつ
自発的でなくとも頑張れる環境をつくる
若手にならう
スランプのとき、いかに心を処するか
不調を乗り越えるための「経験のものさし」
第五章 直感と情報
相手を研究するより自分の型
データを自分の手として昇華させる
将棋の強さか、型についての知識か
インプット以上にアウトプットを
データ分析と勘を併用する
忘れること、客観的に見ること
独自性、個性は積み重ねて初めてあらわれる
第六章 あきらめること、あきらめないこと
勝敗の分岐点を知る
見極めの精度
健全な粘り
ミスの後にミスを重ねない
反省は後でするもの
第七章 自然体の強さ
マラソンのラップを刻むように
道のりを振り返らない
自己否定しない
先達にならう―大山康晴十五世名人のこと
キャンセル待ちをする
想像力と創造力
ツキを超越する強さ
情熱をもち続ける
第八章 変えるもの、変えられないもの
水面下を読む力
鉱脈を見つける勘所
大変革は必要ではない
アイデアは付け足されていくもの
基本的なこと
日本の将棋
底流にあるもの
思い通りにならない自分を楽しむ
おわりに―直感を信じる力
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・はじめに
〇第一章 直感は、磨くことができる
・一瞬にして回路をつなぐもの
・直感とは何か
・約80通りの可能性から、瞬時に急所を絞る
・直感を磨くには多様な価値観をもつこと
〇第三章 囚われない
・読書について
〇第五章 直感と情報
・相手を研究するより自分の型
・データ分析と勘を併用する
・独自性、個性は積み重ねて初めてあらわれる
〇第八章 変えるもの、変えられないもの
・水面下を読む力
・鉱脈を見つける勘所
・基本的なこと
・日本の将棋
・底流にあるもの
はじめに
・「直感」と「読み」と「大局観」。棋士はこの三つを使いこなしながら対局に臨んでいるという。
・一般的に経験を積むにつれ、「直感」と「大局観」の比重が高くなる。
これらはある程度の年齢を重ねることで成熟していく傾向がある。
「習うより慣れろ」ということだろうか。
「読み」は計算する力といっても過言ではない。したがって、十代や二十代前半は基本的に「読み」を中心にして考え、年齢とともに「たくさん読む」ことよりは、徐々に大雑把に判断する、感覚的に捉える方法にシフトしていくのだろうという。
・何を選択し、行動するかには外的要因とは関係のないプリンシプル(原理・原則)があるのではないか。それを見つけ出さなければならない。
そのときにひとつの指針となるのが、直感であるという。
なぜなら直感は、無駄な迷い、思い、考えの無い状態で浮かび上がっているのだから、次に何をするのか、何を望んでいるのかが如実にあらわれる。
本書では、直感がどのように具体化するのかについても述べている。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、3頁~5頁)
第一章 直感は、磨くことができる
一瞬にして回路をつなぐもの
一瞬にして回路をつなぐもの
・棋士は、若いときには計算する力、記憶力、反射神経のよさを前面に出して対局する。
年齢を重ねるにつれ少しずつ直感、大局観にシフトしていくのが普通の流れである。
直感や大局観は、一秒にも満たないような短い時間であっても、自分の経験則と照らし合わせて使うものである。ある程度の実地経験を積んでからでないと使えない。
(つまり、成功したり失敗したりした経験を消化して、栄養となったものが、大切な財産なのである)
・どのコースを行けばいいのか。
それを見極めるためには、記憶を駆使し、データに基づいて、その局面での最善手を選んでいくことも必要である。しかし、ずっと同じ位置で、同じ視線で考え続けても、結局答えの見つからないことは多い。
さらに、よけいな情報を増しても(たとえば相手の読みや棋風などにまで考えを巡らせると)、邪心が入ってしまう。
(策士策に溺れるがごとく、自滅してしまう)
・それよりも、その状況を理解する、「ツボを押さえる」といった感覚が自分の中に出現するのを待つことが大事だという。
その感覚を得るためには、まずは地を這うような読みと同時に、その状況を一足飛びに天空から俯瞰して見るような大局観を備えなければならない。
そうした多面的な視野で臨むうちに、自然と何かが湧き上がってくる瞬間がある。
たとえば、この形はこういう方向でやればいい、こういう方針で、こういう道順で行けばいいと、瞬時のうちに腑に落ちるような感じである。考えを巡らせることなく一番いい手、最善手が見つけられる。その場から、突如ジャンプして最後の答えまで一気に行きつく道が見える。ある瞬間から突如、回路がつながるという。
➡この自然と湧き上がり、一瞬にして回路をつなげてしまうものを、著者は直感と称している。
(本当に見えているときは、答えが先に見えて、理論や確認は後からついてくるものらしい)
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、17頁~20頁)
直感とは何か
第一章 直感は、磨くことができる
・直感の正体とは何か。
直感とは、論理的思考が瞬時に行われるようなものだという。
勝負の場面では、時間的な猶予があまりない。
論理的な思考を構築していたのでは時間がかかりすぎる。
そこで思考の過程を事細かく緻密に理論づけることなく、流れの中で「これしかない」という判断をする。そのためには、堆(うずたか)く積まれた思考の束から、最善手を導き出すことが必要となる。直感は、この導き出しを日常的に行うことによって、脳の回路が鍛えられ、修練されていった結果であろうという。
・将棋を通して、著者は、それが羅針盤のようなものだと考えるようになったとする。
航海中に嵐に直面した。どのルート(指し手)をとればいいのか分からない。
そのとき、突如として、二、三のルートがひらめくことがある。これが直感だという。
その直感にしたがって海図を調べ(検証)、最終的に最善のルートを決断するのは思考の段階だ。その前の直感は、具体的に頭の中で考えるとか表現するというものではない。自然と湧き出た感覚、「感じ」なのである、という。
・経験を積むことでも、直感を導き出す力は鍛えられる。
直感は、本当に何もないところから湧き出てくるわけではない。
考えて考えて、あれこそ模索した経験を前提として蓄積させておかねばならない。
また、経験から直感を導き出す訓練を、日常生活の中でも行う必要がある。
もがき、努力したすべての経験をいわば土壌として、そこからある瞬間、生み出されるものが直感であるという。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、21頁~24頁)
約80通りの可能性から、瞬時に急所を絞る
・たとえば将棋で、「何手ぐらい先まで読むか」といったとき、プロの棋士は、単純に「手を読む」ことだけをするわけではないそうだ。
昭和の初期から20年代にかけて活躍した木村義雄14世名人は、「一睨み2000手だ」と言っている。これはかなり誇張もあるが、プロ棋士であれば、30分とか1時間とか、ある程度の時間を費やすことで、100手でも1000手でも「よく考える」ということだけであれば、できるようになるという。
(ただ、それをしたところで、その対局におけるあらゆる展開の可能性から見ると、全体のほんの1000分の1にも満たないようなことだけしか、分からない)
・いまの将棋は、情報収集と分析、研究が進み、それを記憶していること、それに基づいた読みを進めることが第一義のようにも、いわれる。
たしかに読みは大切だが、それだけで結論が出せるほど、将棋は甘くないようだ。
将棋は、ひとつの場面で約80通りの可能性があるといわれている。
著者の場合、その中から最初に直感によって、2つないし3つの可能性に絞り込んでいく。
(残りの77とか78という可能性については、捨てる。たくさん選択肢があるにもかかわらず、9割以上、大部分の選択肢はもう考えていない。見た瞬間に捨てているということになる。)
・では、その80通りの中から直感によって、2つないし3つ選び出す作業とは、どのようなものか。
それは、写真を撮るようなものだ、と著者は捉えている。
カメラで写真を撮るときには、被写体に向かい、全体の絵柄(構図)を考えて、ピントを合わせる。このピントを合わせるような作業が、直感の働きではないか、という。
➡なんとなくここが中心、急所、要点ではないかといったことを、それまでの自分自身の経験則や体験、習得してきたことのひとつのあらわれとして、つかむことができたなら、そこには直感が働いている。
※直感は、目を瞑(つぶ)ってあてずっぽうにくじを引くような性格のものではない。
またその瞬間に突如として湧いて出るようなものとも違う。
今まで習得してきたこと、学んできたこと、知識、類似したケースなどを総合したプロセスであるようだ。
直感は、ほんの一瞬、一秒にも満たないような短い時間の中での取捨選択だとしても、なぜそれを選んでいるのか、きちんと説明することができる。
適当、やみくもに選んだものではなく、やはり自分自身が今まで築いてきたものの中から、生まれてくるものであるという。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、30頁~33頁)
直感を磨くには多様な価値観をもつこと
・直感は、だまっていても経験によって自然に醸成されていくものであるらしい。
その醸成は、日々の生活の中でも、知らず知らずのうちに、行われている。
そうした経験も大切だが、そこから何を吸収するかは、より重要である。
それによって価値観も変わるから。
・だからこそ、時には立ち止まって、軌道修正が必要かどうかを確認しなければならない。
直感のように感覚的なものは、とても繊細なものなので、少しのズレが大きな結果の違いを生むことも珍しくない。
そして、目の前の現象に惑わされないことも大切。
※自分の思うところ、自分自身の考えによる判断、決断といったものを試すことを繰り返しながら、経験を重ねていく。そうすることで、自分の志向性や好みが明確になってくる。
(「好み」というと、単なる好き嫌いに聞こえるが、それはとりもなおさず自分自身の価値観をもつこと)
つまり、直感を磨くということは、日々の生活のうちに、さまざまのことを経験しながら、多様な価値観をもち、幅広い選択を現実的に可能にすることである、と著者は考えている。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、34頁~35頁)
第三章 囚われない
読書について
・迷ったら本は買ったほうがいい。
・どんなかたちで役に立つかは分からないが、それが本のよさでもある。
エンターテイメントであったり知的刺激であったり、さまざまなことを経験することができる。
一人の人間が決められた時間の中で経験できることは限られている。古今東西の事象や考え方などを知るには他にはないものだと思うし、同様のものでは映像があるが、これはそのものの刺激がとても強いので、自分で考えたり吟味したりする余地は小さい。
本を通じてたとえ他人から見たら意味のなさそうなことでも、自分なりに解釈してみることが、想像力や創造力を生み出す源泉になるという。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、76頁~78頁)
第五章 直感と情報
相手を研究するより自分の型
・十代の頃、対戦する相手の棋譜を1年分ぐらい、ずっと調べていたこともあったそうだ。
しかし、すでに終わってしまった過去の対局の棋譜を調べたところで、必ずしも、次回同じになるわけではない。いたずらに心配の種を増やすだけだということに、途中で気がついてやめたらしい。
つまり、相手のことを研究しても、あまり意味がないと。
・相手のことを研究するよりも、自分の作戦や型を充実させておいたほうがいい。
自分のやり方を求めていくほうが、対応しやすいのではないか、と思い直す。
相手がこう出てくるからこうしよう、というのではなく、自分はこうするのだということを、きっちり押さえておいたほうがいい。
そうすれば、相手に誰がやってこようとも対応できる。
だからそのほうがいいのではないかと、途中から考えるようになった。
そして、そのための方法は、自分で自分に合ったやり方を研究するしかないという結論に至った。
(ただし、それは二十代に入ってからのこと)
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、105頁~108頁)
データ分析と勘を併用する
・人間の能力は、若いときには記憶力とか、計算力とか、瞬発力といったところが強いものだが、年齢を重ねるにつれ、それはだんだんと変わってくる。
棋士も、自分の能力のどこを一番の強みにするかは、時を経るにつれて変わっていく。
・たいていは、大局観のような漠然としたもの、答えの出ない場面や混沌とした状況の中で、どうしたらいいかということを、「正しく」ではなく「だいたい」でつかむ力が長けてくる。
・それは、コンピュータが「進化」していく過程とは、違う。
コンピュータが進化していく、学習していく過程というのは、データを増やすこと。
処理能力を高くして記憶容量を増やすとか、計算速度を上げるとかいったことである。
(いわば、ひたすら数を増やしていく作業)
・一方で、人間の進歩の過程は、たとえば同じ将棋が強くなるにしても、いかに悪手を見極められるようになるかが大事である。
次第にたくさんの手を考えずに済むようになっていくことが、イコール強くなる、進歩していくことになる。つまり、減らしていく、捨てていくということである、と著者はいう。
(ただ、それで万全だと考えるのも早計だという。直感が合っているケースも少なくはないが、それと同時に一歩ずつ、着実に積み重ねる作業、まさに地べたを這うような泥臭い粘りも経験しなければならないそうだ。
それは時には、コンピュータも行うようなデータの集積であったり、一縷の可能性を信じて砂場から砂金を探すような一つひとつの検証であったりもする)
※創造性と情報処理能力、感性とロジカルの両方を兼ね備えて、バランスをとることが必要である。
加えて精神性。特に将棋のような長丁場の勝負の世界では、不安な時間に対してどれだけ耐性をもてるかが大事らしい。
※いま現在あらゆるジャンルで拡大を続けるデータとか情報といったものは、いわば人間の知識の集積である。だから、そこから打ち出される結論や道筋は重要である。
また一方では、人間が本来もっている動物的な勘、野性の勘みたいなもの、そういうものも欠いてはいけない。
それら双方を、自分の置かれた場面や状況に合わせて、上手に使いこなしていくということが、必要である。
そして、そのいずれを選ぶのかという決断は、まぎれもなく自分自身の直感による。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、118頁~121頁)
独自性、個性は積み重ねて初めてあらわれる
・型や戦法をデータとして蓄積することは、いってしまえば暗記である。
基本的な知識を押さえておく、この形になったらこうしてはいけないといったことを、全部覚えておけばいい。そうすれば、少なくとも最悪の局面にはしないように心がけることができる。
その局面にしてはいけないという形を何百通りか記憶しておけば、その前段階から回避するために、作戦を立てていくことができる。
(覚えた形を回避しさえすればいいのなら、それは単純に暗記とか記憶の問題である)
・こうした情報がどれだけ増えても変わらない大切さは、個性だという。
さまざまな経験や知識、その集積からなる価値観に基づいて表出される独自性である。
時には、今まで築いてきた経験則をゼロにして考えてみることによって、生まれるものもある。遠回りしながら熟考し導いたもののほうが、長期的視点に立てば、後々まで役立つことが多いといえる。深く考えて得られた自信、確信こそが、疑念や迷いが生じたときの支えになるらしい。
独自性、個性は、一朝一夕にはつくれない。さらに、それを常に発揮するのは、もっと難しい。
一手ずつの指し手に個性を出すことは難しい。ひとつの局面でどの選択肢を選んだところで、たいていそんなに違わない。そのとき可能性のある三つの選択肢の中からどの一手を選ぼうが、たいして大きな差が感じられるわけでもない。ただし、それを一局としてまとめ上げたときに、個性は自ずと生じてくる、という。
・常に戦型を研究し、覚えるといった基本は押さえた上で、プラスアルファのものを付け加えるということをしたい、と著者はいう。
基本的な知識は踏まえた上でこそのオリジナル、個性である。
将棋の世界では、データの重み、定跡や研究の成果といったものは、やはり軽視できないようだ。
・いかに自分の個性を出していくか。
それは、今日意図したから出せるというものではない。
基本を踏まえ、一手ごとの選択をし、時にはリスクを冒して決断するといった経験を重ね、道のりを歩いてのちに、自然とあらわれてくるものと著者は考えている。
(自分の意識や意図とは離れたところであらわれる、その個性こそが、総合的な「力」であるそうだ)
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、125頁~128頁)
第八章 変えるもの、変えられないもの
水面下を読む力
・将棋の世界は、勝負によって結果がはっきりする自己責任の世界である。
月並みなことをしていると、少しずつ状況が悪くなる。変化を恐れない前向きな姿勢が必要であるそうだ。
・元来、将棋の世界では師匠が弟子に何かを「教える」ことはなかった。
それが最近は、師匠のほうから進んで弟子に手取り足取りしてしまうケースが多いという。それは弟子を思ってというよりも、師匠のほうが心配で仕方がないから、ついつい直接的に教えてしまっているようだ。
だが実は、分からない、迷っている、悩んでいるとか空回りしているといった苦しい時間こそが、後々の財産になる、と著者は考えている。
(そこで自分の力を精一杯使ってもがいている人にいきなり、こうしろと教えてしまうのは、親切なように見えて、実際のところはその逆の作用をしてしまうとする)
・何事であれ、最終的には自力で考える覚悟がなければならない。
何かのデータや誰かの意見に乗って、多数派だから安心だとか安全だとかいうことはない。
自分で調べて自分で考え、自分で責任をもって判断する姿勢をもっていないと、自分の望んでいない場所へ流されていく可能性もある。
その先を読む眼をもつためには、表面的な出来事を見るのではなく、水面下で起きているさまざまな事象を注視することが重要である、という。
・たくさんの情報が入手できるのであれば、それを活用するのもいいだろう。
ただそこで、やみくもにその情報に従うのではなく、やはり自分なりの価値基準を決めて取捨選択することが必要になる。
玉石混淆だと承知しながら、たとえば100なら100の情報をざっと見る。その後に、これはダメだとか、使える、使えないというような、取捨選択をするアプローチの仕方もあるだろう。
そういうプロセスをとりながら、自分なりの決断方法を構築していく。
ただ、取捨選択を繰り返すのではなく、そこで自分なりに判断したり、もがいたり、何か新しいアイデアを考えたりしながら、その先へと向かっていく。
たとえば棋譜も、必要な情報が全部、そこに載っているわけではない。
自分が本当に知りたいことは、棋譜にあらわれた内容を超えて、その水面下にあるという。表に出現しているところから一歩踏み込まないと、価値をもたないようだ。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、181頁~184頁)
鉱脈を見つける勘所
・表には出てこない水面下のもの、鉱脈を見つけるには、勘所(かんどころ)というものがある。
棋譜の例でいうと、一手指す場面で30分考えるとする。
すると、用紙には「30分」と書いて提示される。
30分考えたということは、つまりそれだけ分岐が多い局面だったのである。
(いろんな可能性があるから30分も考えているのであって、基本的には、考える必要のないところに時間は使わない。つまり、この局面は盤上にあらわれた以外の有力な選択肢がいくつもあるのだということが想像できる)
・そのようにして、たとえば時間や盤上の形から、過去にその対局者が得てきたものを読みとって、そこに自分との共通項を見つけたり、常識といった前提条件みたいなものとも照らし合わせてみる。
そして、そこから一歩先へと考えを巡らせていく。
※それは、ある種の勘といえば勘であるが、ひとつには「慣れ」の要素も大きいという。
たとえば、どんな局面でもプロなら対応できるかというと、必ずしもそんなことはないらしい。
やはり慣れている局面、よく知っている局面で羅針盤が利きやすくなるそうだ。
したがって、まずはある程度の量を経験することも必要だろう。
さらに、そうして押さえた量の蓄積を、いったんゼロにしたほうが何かが生まれやすい。
※量の蓄積、経験則が増えることによって、自分の中には「できる自信」のようなものが生じてくる。それは、自分自身を信じる力にも当然なり得るが、それを一回捨ててしまったほうが、新たに違うものが生まれやすくなるそうだ。
だから、データでも資料でも、一度まったく見ないようにするとか、それらは別にして新たな研究を始めてみるといい。
すると、既存のものに頼ることはできず、自分で考えるしかなくなる。
それは心許なく、何も生み出せないリスクを伴うものであり、同じ地点まで辿り着くのに時間がかかることもあって、効率が悪いように思われるかもしれないが、長い目で見たときには、実はそうでもない。結局のところ、必死にもがいて身につけたものこそが、自分自身の力になる、と著者は主張している。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、185頁~187頁)
第八章 変えるもの、変えられないもの
基本的なこと
・将棋の世界では、基本的に師匠が弟子にああしろ、こうしろとは言わない。
直すべきところがあっても、基本的には弟子が自分で気づくまでそっとしておく。
これは自分で苦労して、自分なりの方法を見つけなさいという無言の教えである。
その人の個性、本当のオリジナリティをつくるためにはそういった道筋が必要だからだ。
ただ、よい部分を伸ばしてあげようという風潮はあるそうだ。
環境としてそれを見守る姿勢でいながら、教えてもらう前に自分で考える習慣をつけさせるという。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、197頁~198頁)
日本の将棋
・将棋の発祥は、古代インドといわれている。
言い伝えによれば、戦争好きの王がいて、明けても暮れても戦争ばかり。当然、家臣たちは困っていた。
そこでアイデアをめぐらせ、盤上で戦争を疑似体験するゲームをつくった。王に実際の戦争をやめさせようというところから始まったといわれている。
これが「チャトランガ」と呼ばれる、将棋の原型だという。
・最初は二人で遊ぶ双六(すごろく)のようなものから始まったようだが、西方へ渡ってチェスになり、アジアではそれぞれの国で発達し、その国ごとの将棋が発達した。
インドにはインドの将棋があり、タイにはマックルックという、やはり将棋のようなものがある。中国の将棋はシャンチー、朝鮮半島ではチャンギという。
日本に入ってきたのが、およそ千年前から千五百年前だそうだ。
ただし、奈良の興福寺から出土した駒が、およそ千年前のものだとして、現在最古の駒といわれている。
・日本輸入の経緯はほぼ間違いなく、貿易ないし交易に伴ったものだという。
これは、駒を見れば簡単に分かる。
たとえば、金将、銀将は、見ての通り金銀財宝。王将も、王様ではなく、宝のことだ。
『王将』という歌もあるが、本当のところをいえば、最初は王将という駒は実はなかった。「玉(ぎょく)」将しかなかった。玉、すなわち宝石を表す駒だ。主に翡翠(ひすい)を指すという。
・そして、桂馬と香車。
これは、香辛料。
アメリカ大陸発見の例を出すまでもなく、昔は香辛料がたいへん貴重なものだった。
そうした金銀財宝と香辛料が駒になっているのだから、どう考えても、貿易、交易で取り扱っているものがそのまま駒になっていると考えるのが自然だろう、とする。
・そうした駒の取り合いを基調にした遊び、ゲームには、それぞれの国や地域の歴史や文化、伝統、思想といったものが色濃く反映されていく。
(これまでの歴史の中では何百という種類のルールが存在していたのではないかと思われる。その大部分は廃れてなくなってしまった。これが「歴史の淘汰」だろう。)
〇日本の将棋についていえば、二つの特徴がある。
①ひとつは、取った相手の駒を自分の手駒として使う、持ち駒再利用のルール。
これは、世界中の将棋に類似したゲームの中でも唯一日本だけのもの。
駒の色を見れば分かるが、相対する双方が同じ色の駒で戦うのは、日本の将棋だけ。
たとえば、中国将棋は赤と黒か緑、朝鮮の将棋であれば赤と青または緑というように、自分と相手とでは駒の色が違うのが、世界の将棋の中では一般的。
②さらに、日本ならではの文化が将棋にも反映されたといえる特徴もある。
通常は、ルール改変の場合、盤を広くするか、駒の力を強くするかによって、面白さを維持するケースが多い。たとえば、囲碁なら、19×19という361のマス目。これだけ広いマス目があれば、動きや戦型の可能性も大きくなるので、それで面白さを維持するわけである。
チェスの場合は、クイーンという非常に強力な駒をつくり、多様な動きを実現させることで、その可能性を増やしていった。
このとき、日本の将棋はどうしていったか。
それらとはまったく正反対の道をたどった。
以前のルールと比べて、駒の数を少なくし、盤のマス目を小さくし、どんどん小さくしていって、最終的に81のマス目に40枚の駒で戦う形になったのが、約400年前ということになる。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、199~202頁)
底流にあるもの
・何事につけ、小さいコンパクトに、簡略化していくのは、将棋だけの話ではなく、日本の伝統文化の共通項ではないか、と著者はいう。
江戸時代、将棋界には家元制度が布かれていた。
茶道や華道と同様、世襲で代々継いでいく。
そのため、伝統やしきたりに重きを置くという一面はあるが、それ以上に、この小さく、コンパクトにというのは、日本もしくは日本人のDNAに根付くものではないかという。
・たとえば、俳句や和歌。
これは17文字ないし31文字という、極めて限られた字数の中に世界観を築き、感情を表現する。
『万葉集』にしても、ただその言葉だけ字面だけ追っても、何をいいたいのかは分からないが、文字や言葉のあいだに垣間見られるより奥深いものを推察し、そこから展開される世界を追体験するからこそ、面白い。
能もしかり。能面をつけることで、演じ手本人の顔の表情は見えなくなる。しかしその表情をまったく見えなくすることによって、その役柄のより深い情感のようなものを表す。
さらに茶道では、千利休は本当に狭く小さな四畳半の空間の中に、森羅万象を表そうとした。
※その伝統的な世界の考え方、底流には、極めて簡潔に、簡素にするというところがあるという。
・そして、これは歴史や伝統の中だけの話ではなく、現代にも通じることではないか。
と同時に職人芸ということでいえば、たとえばアニメーションは、1秒間に24コマとか30コマという絵コンテを描き、それを動かして成り立たせている。つまり、非常にきめ細かい職人技を必要とする。
・とにかく、簡素化していく。簡略化し、短くして小さくコンパクトにする。
最近の流行でいえば、ツイッターなどもそうだろう。144文字。ほんの少ししか書けない媒体だが、それをたくさんの人が嬉々としてやっている。
・こうして見ると、表現され、想像される世界というものは、昔から基本的に変わらない。
その現れ方こそジャンルや形式、時代によって異なるかもしれないが、根本的なものとして、底流にある考え方、発想というのは、いまの時代も、千年前の時代も、さして大きな違いはないのではないか、と著者は述べている。
(羽生善治『直感力』PHP新書、2012年、203頁~205頁)