≪勝負師の教え~藤沢秀行氏の場合≫
(2024年7月7日投稿)
先日6月30日(日)、第72回NHK杯テレビ囲碁トーナメント1回戦では、藤沢里菜女流本因坊と小山空也六段との対局が行なわれた。解説の平田智也八段と司会の安田明夏さんが話されていたように、二人の対局者は三代続くプロ棋士だという。言うまでもなく、藤沢里菜さんの祖父は、藤沢秀行・名誉棋聖(1925~2009)である。
今回のブログでは、その祖父の藤沢秀行・名誉棋聖が著された次の著作を参考にして、勝負師の教えについて紹介してみたい。
〇藤沢秀行『勝負と芸―わが囲碁の道』岩波新書、1990年
著者の棋風は豪放磊落で、厚みの働きをよく知る棋士といわれる。ポカで好局を落とすことも多かったらしいが、「華麗・秀行」とも呼ばれた。酒、ギャンブルなど破天荒な生活で、「最後の無頼派」とでも称すべき人柄であったようだ。
書の大家でもあり、安芸の宮島・厳島神社の鎮座1400年に際し、「磊磊」の文字を奉納したことでも知られる。
さて、「あとがき」(198頁)にもあるように、「ガン闘病記を出しませんか」と岩波書店の担当者から言われたのが、この書物のはじまりだったそうだ。自身の生き様や考え方を、碁を知らない人たちにも読んでもらいたいと著者は思ったという。
「ガンに打ち克つ」(93頁~97頁)、「秀行軍団」(102頁~109頁)を読むと、著者の人柄や闘病中の活動(勉強会・研究会、訪中)の様子が伝わってくる。
ここでは、定石や厚みと実利など、囲碁に対する考え方などについて、要約してみたい。
なかでも興味深かったのは、「昔の名人と勝負すれば」(151頁~158頁)と題して、ご自分の好きな棋士について述べているくだりであった。
秀策はなぜかなじめず、秀策のライバルの太田雄蔵に親しみをおぼえ、堅実な秀策よりも雄蔵の華やかな打ち回しに引かれたそうだ。明治初期の秀甫や水谷縫次の打碁約800局を、繰り返し並べたという。好みの棋士はやはり棋風によって変わるものらしい。
また、藤沢秀行先生自身は、ご自分について、勝った負けたと騒ぐ前に相手を思いやってしまい、勝負師としては甘いかもしれない(180頁)、と述べておられる点が興味深い。
ガン闘病中にもかかわらず、研究会を続けられたが、井山裕太氏も、その著書『勝ちきる頭脳』(幻冬舎文庫、2018年)においても、藤沢秀行先生について、次のように評しておられる。
「棋聖六連覇をはじめ名人、王座、天元などのタイトルを獲得した、昭和期を代表する名棋士」(148頁)
【藤沢秀行氏のプロフィール】
・1925年横浜市に生まれる。
・1934年日本棋院院生になる。1940年入段。
・1948年、青年選手権大会で優勝。その後、首相杯、日本棋院第一位、最高位、名人、プロ十傑戦、囲碁選手権戦、王座、天元などのタイトルを獲得。
・1977年から囲碁界最高のタイトル「棋聖」を六連覇、名誉棋聖の称号を受ける。
・執筆当時、日本棋院棋士・九段、名誉棋聖
<著書>
・「芸の詩」(日本棋院)
・「碁を始めたい人の本」(ごま書房)
・「秀行飛天の譜」(上・下、日本棋院)
・「囲碁発陽論」(解説、平凡社)
・「聶衛平 私の囲碁の道」(監修、岩波書店)
【藤沢秀行『勝負と芸』(岩波新書)はこちらから】
藤沢秀行『勝負と芸』(岩波新書)
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
昭和初期の碁界
・木谷実と呉清源が新布石を打ちだしたのは、昭和8年の秋である。
その夏、木谷は奥さんの実家である信州地獄谷温泉に滞在し、呉清源とともに構想を練ったという。
・本場所ともいうべき大手合で、二人そろって新布石を打ち、しかも好成績をあげたので、碁界はもとより世間もびっくりした。
新布石は、わが国500年の囲碁史の中で、確かに一大革命といっていい。
それまでの布石が小目を中心とする三線の組み立てであったのに対して、新布石は星を中心とする勢力とスピードをめざした新戦法である。
・星打ち自体は明治の秀栄名人が数多く試みているけれど、二連星、三連星となると、新布石のオリジナルだろう。
新布石はさらに三々や天元、五の五なども加えて、盤上に幾何学模様を描き出した。
・新布石の熱病は昭和8年の秀哉名人と呉清源九段の記念碁で頂点に達する。
<参考譜>に見るように、伝統的な小目の布石の名人に対し、呉五段は三々、星、天元と奇抜な陣を布いてファンの度胆を抜いた。
この碁は終盤で名人に妙手が出て、呉五段の二目負けに終わったが、新布石の明快さは一般の共感を呼んだようである。
<参考譜>
名人勝負碁
昭和8年10月14日~9年1月29日
本因坊秀哉名人
二先二・先番 呉清源五段
(注)
・黒1が三々(さんさん)~盤端から三線目の交点にある。
・白2と4を小目(こもく)という。
・黒3は星。
・黒5は特別に天元という。
・ほかに左下で説明すると、隅を先に占める場合、
AとDが高目(たかもく)
BとEが大高目
Cが五の五である。
長き夜や 三々の陣 星の陣
こんな川柳がもてはやされたという。
・昭和9年には、平凡社から木谷、呉、安永一(はじめ)の共著である『囲碁革命・新布石法』という本が出た。
安永は当時の日本棋院編集長だった。
この本は碁の出版物としては空前の10万部を売りつくし、左前だった平凡社が立ち直ったと聞いている。
・一方、坊門の村島誼紀(よしのり)五段と高橋重行四段による『打倒新布石法』も出て、新布石の熱病はいよいよ高まった。
・私たちカスリ組は、そんな中で碁を学んだわけだが、著者自身はまったく新布石の影響を受けなかったそうだ。院生時代の棋譜が百局近く手元に残っているが、三連星は一局もないという。
著者が三連星を時折試みるようになったのは、つい最近である。
知らず知らずのうちに影響を受けていたのかもしれないという。
・木谷実や呉清源の活躍についても、すごい人がいるものだな、というくらいにしか感じていなかった。
・著者の勉強法はちょっと変わっていた。
定石の勉強は、野沢竹朝(ちくちょう)の『大斜百変(たいしゃひゃっぺん)』を読んだだけで、ほとんどしない。
何をしたかというと、故人の打碁並べである。
愛読したのは本因坊秀甫(しゅうほ)先生の講評が添えられてある『囲碁新報』である。
明治初期の秀甫や水谷縫次(ぬいじ)の打碁約800局を、繰り返し並べた。
無意味に並べるのではなく、一手一手の意味を追求し、自分ならこう打つと考えるのだ。
入段前の1年間は、1日10時間以上は並べたと思う。
昭和37年、第一期の名人に就いたとき、瀬越先生から「きみの碁は秀甫に似ている」といわれたのも、このときの猛勉強が身についていたからだろう。
・秀甫に次いで並べたのが秀栄。
秀策はなぜかなじめず、秀策のライバルの太田雄蔵に親しみをおぼえた。
堅実な秀策よりも雄蔵の華やかな打ち回しに引かれたのかもしれない。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、16頁~20頁)
<ポイント>
明治初期の秀甫や水谷縫次の打碁約800局を、繰り返し並べた
秀策はなぜかなじめず、秀策のライバルの太田雄蔵に親しみをおぼえた。
堅実な秀策よりも雄蔵の華やかな打ち回しに引かれた
「5秀行の盤上談義」の「定石について」で、次のように述べている。
・碁のことばが一般的に使われるようになった例はずいぶん多い。
「布石」とか「局面」などは常に使われている。
「ダメ(駄目)を押す」などというのもある。
「序盤」、「中盤」、「終盤」なども碁から出たことばと思う。
それらの中でチャンピオン格は「定石」ということばだろう。
・定石とは何か。
実のところ、著者にもよく分からないという。
だから「定石はいくつありますか」とか、「どのくらい定石をおぼえればいいか」などというアマチュアの質問には、頭をかかえてしまう。
部分において最善とされる一定の打ち方、それが定石の解釈だが、本当に最善かどうか、われわれにも分からないことがあまりにも多い。
・多くのアマチュアは定石について誤った考えを持っていると思う。
定石は絶対だと信じ、定石をたくさんおぼえればそれだけ強くなるという錯覚である。
だいぶ前のこと、一念発起して、『囲碁大辞典』を丸暗記したアマチュアの話を聞いたことがある。
『囲碁大辞典』とは、古今の数万にわたる定石を記した鈴木為次郎先生の労作で、現在も多くの棋士が監修して改訂版が出されている。
そのすべてを暗記しようとする努力には頭が下がるけれど、まったく上達しなかったそうである。当然だろう。
定石はだいたい隅に限られている。
四つの隅はかなり離れているから、アマチュアの方は部分部分で独立したものと考えがちである。
しかしこれが大変な間違いで、各隅は程度の差はあれ、みな微妙に影響し合っている。
したがって一つの隅だけで定石をきちんと打っても、あまり意味がない。
部分といえども、盤全体との関連で一手一手が違ってくる。
おぼえたての定石を使ったところで、どうしようもないのである。
・「定石の本を読むのは非常に参考になる。ただくわしくおぼえる必要はない」と、著者はいってきた。
著者自身も定石の本を何冊も書いたが、決しておぼえよとはいってない。
40年以上も前に書いた定石書の序文の一部を紹介しよう。
元来定石といわれるのは、一局の最も初めに打たれたるものであって、隅から打ち出された定石はその定石から発展して布石を形成し、布石は中盤を、中盤は終局へと発展する。又、隅の定石は他との関連によって、ある場合にはある定石を打つことがより適切であるなど、隅の定石といわれているものは隅のみにおいて解決できると考えられているのは誤りである。(中略)読者はおぼえた定石を対局の際、応用することによって自然に良い知識を得て行く。実際に応用して初めて良き形と優れた技を自然におぼえるのである。つまり読者は良い定石の本を見るのは名画を鑑賞する気持ちで見てほしいと思うものである。」
(『置碁の一間締りの定石』)
・しゃちほこ張った文章だが、いわんとしていることは、お分かりいただけると思う。
誰だって定石をおぼえるのは苦痛である。
そうしておぼえた定石を後生大事に守ると、新しい発想が生まれず、上達にとってもさまたげになる。
定石や形にとらわれては、進歩も何もない。
ごく基本的な定石や常識的な形は、しっかり理解しておかねばならないとしても、あとは絵を鑑賞する気持ちで見れば十分と思う。見ているうちに分かるようになるものである。
・定石はずれ、大いに結構。
私たちが悪いといっても、あなたがいいと思えば、どんどん打ってよろしい。
好きなように打つところに碁の面白味があるのだ。
そしてだんだん悪いことに気がついてくる。
私たちの意見はあくまでも参考程度にとどめておくのがいいかと思う。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、132頁~134頁)
<ポイント>名言
・読者は良い定石の本を見るのは名画を鑑賞する気持ちで見てほしい
・ごく基本的な定石や常識的な形は、しっかり理解しておかねばならないとしても、あとは絵を鑑賞する気持ちで見れば十分と思う
<ナダレ定石について>
・定石はプロの専売特許ではない。
アマチュアが作った定石だってある。
例えばナダレ定石。
相手の石にぶつかっていくのだから決して筋はよくない。
昭和の初め、『棋道』誌上で読者の質問があり、長谷川章先生が「そんなバカな手はありません」と答えたのだが、改めて調べたところ、変化があまりにも多く、立派に成立することが分かったという。
こうしてできたのがナダレ定石である。
ナダレは現代定石の花形といっていい。
決定版とされるものが完成したと思っても、それをくつがえす新手が次々に現われる。
私たちだって分からない部分が多いのに、それをおぼえろといっても、ほとんど意味がない、という。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、134頁~135頁)
・昔の名人と現代の一流プロとどちらが強いか。
プロ棋士の間でも話題になることがあるようだ。
(雷電と双葉山、大鵬、千代の富士がいっぺんに戦えば誰が一番強いか、と考えるようなものであるという)
・昔の名人上手は数多い。
名をあげるとすれば、江戸元禄期の本因坊道策、文化文政から天保にかけての本因坊丈和、丈和の弟子の本因坊秀和、その弟子の本因坊秀策、明治に入っての本因坊秀甫、明治中期から後期にかけての本因坊秀栄あたりが、万人の納得できる歴代の第一人者だろう。
このほかにも、初代の本因坊算砂をはじめとして、名人碁所(実力的にも政治的にも碁界のナンバーワン。江戸時代の各家元は名人碁所に就くために実力を磨き、裏で熾烈な争いを繰り広げた)に就いた安井算知、井上道節、本因坊道知、さらに共に名人の力を持ちながら譲り合ったという本因坊元丈と安井仙知(知得)、丈和に激しいライバル意識を燃やした井上因碩(幻庵)ら、忘れてはならない古人ばかりである。
・この中で誰が最強だったのか。目移りするが、候補をあげている。
〇まず本因坊道策
・道策の碁については、断定的なことはいえないが、近代的な考え方は、道策から発しているといっていいとする。
レベルが低く、部分部分の戦いに偏していた当時の碁界にあって、道策一人だけが、「石の軽重」とか「手割り」などの理屈が分かっていたようだ。
・だから、全盛期に先で勝負できる相手はなく、二子でも道策に苦戦している。
実力十三段といわれ、棋聖と称される。
梶原武雄氏はじめ古今の第一に道策を推す棋士は多いという。
〇本因坊丈和
・著者の好きな名人の一人であるという。
力は古今無双を謳われる。
確かに力戦の雄である。
石が接触したときの強腕ぶりは「丈和は碁の鬼神か」と、同時代人が嘆じたという。
しかし接近戦が強いばかりではない。全局的な構想力はすごいし、ヨセも巧みだった。
※丈和の打碁集を出すとき、集中的に調べたそうだが、四宮米蔵との二子局が強く印象に残っているという。
米蔵は賭け碁打ちともいわれ、在野の棋士。二子置かせた丈和は、家元の権威を守るためにも負けられない立場にあったのだが、アマチュア特有の力碁を見事封じている。
この丈和―米蔵戦には、名局が何局もあり、若い人に並べることを勧めている。
※丈和から本因坊秀和、秀策と続いて、幕末の黄金時代を迎える。
秀和は歴史的にも重要で、秀策と秀甫を育て、秀栄は実子。
明治の碁界は秀和から生まれたといっていいようだ。
ただ、好みからいえば、とにかく強いと思うが、秀和の碁はあまり好きでないという。
(聡明で、優勢を確かめると、さっと逃げて細かく勝ってしまうところがあると評している。)
〇本因坊秀策
・33歳で夭逝し、上手(じょうず、七段)止まりながら、道策と並んで棋聖を称されている。御城碁(おしろご:江戸城黒書院で年一回打たれる将軍上覧碁)19連勝が高く評価されたのだろう。
(御城碁は江戸時代唯一の公式戦。これに負けなかったのだから、なるほど大記録である)
※ただし、好き嫌いでいうと、秀策の堅実さよりも、好敵手だった太田雄蔵の華麗さの方が、著者の棋風に合っているという。
太田雄蔵には、剃髪するのを嫌って、御城碁出場を辞退したとか、面白い話が残っている。人間的にも魅力のあった碁打ちだったようだ。
〇本因坊秀甫
・幕府の保護がなくなり、衰退した明治初の碁界を立て直した。
・まず人間が立派だったという。
日本棋院のはるか前身ともいえる「方円社」を起こして、囲碁雑誌を発行したり、外人に碁を教えたりで、とかく閉鎖的な碁界では珍しくスケールの大きな人物だったと評している。
・碁も超一流である。
※著者は、少年時代に一日10時間も秀甫を並べては、積極的でスケールの大きな取り口に感動したそうだ。
〇本因坊秀栄
・著者は、秀栄も影響を受けた一人であるという。
・碁の明るさは当時群を抜いていた。
相手がやってくれば乱戦も辞さないが、ふだんは明るさだけでサラサラと勝ってしまう。
戦う場と戦わない場をしっていたのが秀栄だという。
・秀栄は晩年の白を持っての打ち回しが特にすばらしいそうだ。
次の棋譜はその一例。
【本因坊秀栄と田村保寿との棋譜】(1~120)
明治31年10月16日
本因坊秀栄と田村保寿(先)、黒は田村保寿(のちの本因坊秀哉名人)
1~120手、以下略(ジゴ)
・黒39の鋭い攻めを白40からあっさりと捨ててかわし、62さらに78と中央から上辺をまとめて優位に立っている。
※名人芸とはどんなものか、この碁が教えてくれるような気がするという。
〇さて、以上の名人の中で誰が一番強いか。
・かつて囲碁雑誌でアンケートをとったところ、
道策、秀策、秀栄の3人がほとんど差がなく、ベスト3にランクされたそうだ。
美人コンテストみたいであまり意味はないが、プロの好みは、道策派、秀策派、秀栄派に分かれるようだ。
道策派:梶原武雄、小林光一
秀策派:加藤正夫、石田芳夫
秀栄派:高川秀格、藤沢秀行
(著者である藤沢秀行は秀栄に一票を投じておいたという)
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、151頁~158頁)
・名局はこれまで数多く打たれている。
ただし、昔と今とでは名局の考え方が変化しているそうだ。
・先番必勝をテーマにした時代は、黒は堅実に、白は趣向をめぐらすのが当たり前とされ、悪手のない碁が名局とされた。
現代は悪手のないことよりも、気迫や内容の面白さが重視される。
悪手や見損じ、打ちすぎがあっても、それ以上に内容が面白く、見る者を感動させればいいのではないかという。
悪手がまったくなく、一手一手が気迫にあふれ、なおかつ感動を呼べば、文句はない。
・著者の考える名局の第一条件は、その場面場面でいい手を盤上に表現したものである。
いい手とは最善手である。
何が最善手か、これが難しい。
一局の中で、一つでも自分自身が納得でき、多くの人の魂を揺り動かせるような会心の一手を心がけたいが、そんな例はあまりにも少ない。
【藤沢秀行VS馬暁春の棋譜】
・応氏杯世界プロ選手権一回戦
昭和63年8月21日
先 藤沢秀行VS馬暁春
棋譜の黒3の肩つきは数少ない例であるという。
・また、いい手が連続して一つの流れとなり、名画を鑑賞するように、見る者を感動させることも名局の条件であるという。
現代の棋士で絵になる碁を時々打っているのは、武宮正樹ではないかという。
位(くらい)が高くて味があり、気がつかない、いい手を見せてくれる。
碁を絵とすれば、過去500年の歴史で、武宮正樹のような絵を見せてくれた者はいないといっても、ほめ過ぎではあるまい、とする。
(しかし出来不出来の激しいのが欠点で、名画を見せてくれたかと思うと、とんでもない駄作をものにするとも付言している)
・いい手――好手、妙手、名手は、碁の強弱とは関係ないともいう。
「三歳の童子たりとも導師である」と、著者は若い棋士によくいうそうだ。
その気になれば、アマチュアからも学べる。
だから指導碁といえども軽く見てはいけない。
木谷実先生はどんな指導碁でも手を抜かず、ふだんの手合と同じように時間をかけて打たれたそうだ。アマチュアに教えるというより、アマチュアからも学ぶという姿勢があったようだ。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、120頁、158頁~160頁)
6勝負か芸か
・碁を芸の表現と見るか、勝負第一と見るか。
棋士の考え方はさまざまである。
圧倒的多数は勝負重視派だろう。
例えば、坂田栄男さんは「勝つことがすべて。私は勝つことによって強くなった」と語っておられる。趙治勲さんも同じようなことをいう。
・しかし、著者には勝ち負けよりも、大切にしたいものがあるという。
それを芸といってもいい。
同世代の梶原武雄さんや山部俊郎さんは、著者の考え方に似ている。
梶原さんはひたすら最善手を追い求め、勝つことなんかまったく念頭にないようである。
勝つための妥協は考えず、最強手で相手を倒そうとするから、しばしば逆転負けを喫する。
梶原さんにいわせると、勝負にこだわるのは不純であり、冠(かんむり、タイトル)を取ったといって喜ぶ連中はアホということになる。
(梶原さんほど徹底はできないけれど、著者は共感できる点が少なくないという)
・「勝つにこしたことはない。しかし碁は無限だから、強くなれば、勝ちは自然に転がり込んでくる。勝った負けたと騒ぐ前に、芸を高め、腕を磨くことを考えろ」と、著者は口を酸っぱくして、若い人にいっていたそうだ。
(ニワトリとタマゴの話ではないが、勝つから強くなるのではなく、強くなるから勝つのである。腕を磨いておけば、いつかどんどん勝てるようになるという)
※現在の碁界は、勝負があまりにも重視されて、大切なものが忘れられているような気がするらしい。
どんな碁を打っても、最終的に勝てばいいんだという風潮が強い。
果たしてそれでいいのだろうか。
もちろん第一手から始まって最後の一手まで、すべてが芸である、と著者は強調している。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、164頁~165頁)
6勝負か芸か
・腕を磨き、芸を高めるにはどうしたらいいか。
アマチュアのみなさんは、打ちたいように打ち、楽しむことが第一だと思う。
強くなるにしたがって、プロのまねをしたがる方がふえるが、これはあまり意味がないらしい。
プロの碁を並べるのはいい勉強になるけれど、ものまねに終わっては上達もたかが知れている。
楽しんで打ち、壁にぶつかったら、別の打ち方を自分なりに試すのがアマチュアの最上の上達法であるとしている。
・碁にお金をかけなさい(「賭けろ」ではない)という。
もう一つ、詰め碁を見るのもお勧めしたい勉強法であるという。
“解く”のではなく、文字通り“見る”のだ。
やさしい問題を見て、多少は頭をひねって考える。
分からなければ、すぐ解答を見たってかまわない。
難しい問題なら、解答を見ながら考える。
だまされたと思って試してみるとよいらしい。
いい勉強になることは、著者が保証している。
・頭の中で詰め碁を解くのはプロの勉強である。
著者が若い時に、井上道節が著した難解な詰め碁集の『囲碁発陽論』を研究して解説書を出版された。
その改訂版を出したところ、アマチュアよりもプロやプロ志望の子供たちが愛読したそうだ。
(依田紀基氏などは、どこに出掛けるにも『囲碁発陽論』を離さなかったという。)
・プロとは、かつぎきれない荷物を背負って曠野をとことこ行く人種であるという。
努力を持続させる才能が要求されるし、倒れるまで勉強しなくてはならない。
苦しいものであるらしい。
超一流はみな、その苦しみを味わっている。これは碁の道に限ったことではないが。
・プロの勉強法だが、ふだんの対局が大切なことはいうまでもない。
しかしそれ以上に日常が勝負という。
自分の打った碁を反省するのもいい。
一流棋士の対局や古碁を並べるのもいい。
一局の碁には勝負どころがいくつかある。
それを的確にとらえるよう訓練し、自分ならどう局面を動かすか、必死になって工夫する。
(著者は、この方法で強くなったという)
・1日10時間も並べると、右手の人さし指のつめがぺらぺらに薄くなったり、変形したりする。
武宮正樹氏から同じ話を聞かれたそうだし、最近では依田紀基氏がそうらしい。
かつて小林光一氏は脛(すね)に毛がまったくなかったという。坐り続けて勉強したからだそうだ。
これがプロの勉強だという。
ぶっ倒れるまで勉強しろといったら、そのまま実行し、碁盤に頭をぶつけたのも気がつかずに眠り込んでしまった子もいたそうだ。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、166頁~168頁)
六 勝負か芸か
・腕を磨いて強くなる。
この努力はプロなら当然だし、誰でもやっている。
そこからさらに進み、人間を磨いてこそ、一流の碁打ちに成長するのだという。
・碁は人間と人間の勝負。
最終的には人間の質が碁の優劣を決定するのかもしれない。
そこまで突き詰めて考えなくともいい。人間の幅を広げ、人生観、世界観を豊かにすれば、盤上の見方も広がるのではないかという。
人間が悪い方が勝負に適しているという狭い見方には反対であると強調している。
・昔の剣客は、禅を組み、書や絵を書いて、己れを鍛えた。
著者は子供のころから盤上の勉強だけでは不安だから、いろいろなことに手を出したそうだ。
老師の話を聞いたり、禅をやったり、漢詩を読んだり、自分で詩を作ったり。
哲学書や歴史書まで読みあさったのも、人間の幅を広げようと思ったからであるらしい。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、170頁~172頁)
六 勝負か芸か
・勝つことによって強くなるのか、強くなることによって勝てるようになるのか―この問題とよく似ているのが、厚みと実利である。
・厚みと実利というのは碁の基本的な考え方である。
「厚み」というのは、弱点のない、しっかりした石の形(姿)のことである。
これを形容して「厚い」とか「手厚い」といっている。
(この反対語が「薄い」、「手薄い」である)
また、実利というのは、対局者いずれかの領分(地)として確定した領域のことである。
一般的にいえば、厚みを重んずれば実利を失うし、実利を重視すれば厚みを失うことになる。
・実利や地は現金に、厚みは信用にたとえられる。
現金はそれ自体ではせいぜい利子がつくくらいだが、信用は一文にもならないおそれがある代わりに、将来2倍3倍になって返ってくる。
※ただ、実利と厚みはまったく相反するものではない。
例えば木谷実先生は、実利を重視した打ち方をされたが、同時に厚いといわれた。
あとくされのない実利を確保し、そこから力強く一歩一歩前進する。
スピード感には欠けるものの、重戦車で各個撃破するような迫力がった。
対照的なのが、呉清源先生である。
超スピードで大場に先行し、部分の戦いにはこだわらない。
木谷-呉戦が人気を集めたのは、棋風が相反していたからだろう。
・著者と坂田栄男さんも対照的といっていい。
著者が手厚く構えるのに、坂田さんは足早に地を稼ぐ。だから中盤戦は著者の攻め、坂田さんのしのぎになることが多かったという。
著者の場合は、知らず知らずのうちに、地の手より厚みの手に行ってしまう場合が多いようだ。例えば、次のような棋譜をあげている。
<譜13>
第三期棋聖戦第一局
昭和54年1月12・13日
先番 石田芳夫九段
藤沢秀行棋聖
・白1のカケは誰でも打てる。
・黒2の一手に白3、5と止め、黒6まではこうなるところだろう。
・次の白7に注目してほしい。
※評判は散々で、これに賛成する棋士は一人もいなかったらしい。
「いくら秀行さんでも厚がりすぎだよ」という。
なるほど白7では、Aとでも地につけば普通か。
しかし、著者には白7と厚く備えて打てるという信念のようなものがあったという。
地の手はまったく考えなかったそうだ。同じ局面がまた現れても、白7と打つかもしれない。これは棋風としかいいようがないそうだ。
※このような場合は善悪よりも好き嫌いになってしまうが、厚みか地かと考えるよりも、どこに打つのが最善かと考える方が正しい姿勢だろうとする。
その場面場面で最善手は必ずある。常に最善手を追求するのが、棋士の務めである。
※現代碁では、いささか実利に偏しているように見えるとする。
時代の風潮かもしれないが、必要以上に地を重視する。
布石の段階から地の計算ばかりするようなことになる。もちろん地を第一に考える人があってもいいが、そればかりでは面白くない。
戦い抜く碁、厚みで寄り切る碁など、いろいろな個性がもっと出てきてほしいという。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、174頁~177頁)
(2024年7月7日投稿)
【はじめに】
先日6月30日(日)、第72回NHK杯テレビ囲碁トーナメント1回戦では、藤沢里菜女流本因坊と小山空也六段との対局が行なわれた。解説の平田智也八段と司会の安田明夏さんが話されていたように、二人の対局者は三代続くプロ棋士だという。言うまでもなく、藤沢里菜さんの祖父は、藤沢秀行・名誉棋聖(1925~2009)である。
今回のブログでは、その祖父の藤沢秀行・名誉棋聖が著された次の著作を参考にして、勝負師の教えについて紹介してみたい。
〇藤沢秀行『勝負と芸―わが囲碁の道』岩波新書、1990年
著者の棋風は豪放磊落で、厚みの働きをよく知る棋士といわれる。ポカで好局を落とすことも多かったらしいが、「華麗・秀行」とも呼ばれた。酒、ギャンブルなど破天荒な生活で、「最後の無頼派」とでも称すべき人柄であったようだ。
書の大家でもあり、安芸の宮島・厳島神社の鎮座1400年に際し、「磊磊」の文字を奉納したことでも知られる。
さて、「あとがき」(198頁)にもあるように、「ガン闘病記を出しませんか」と岩波書店の担当者から言われたのが、この書物のはじまりだったそうだ。自身の生き様や考え方を、碁を知らない人たちにも読んでもらいたいと著者は思ったという。
「ガンに打ち克つ」(93頁~97頁)、「秀行軍団」(102頁~109頁)を読むと、著者の人柄や闘病中の活動(勉強会・研究会、訪中)の様子が伝わってくる。
ここでは、定石や厚みと実利など、囲碁に対する考え方などについて、要約してみたい。
なかでも興味深かったのは、「昔の名人と勝負すれば」(151頁~158頁)と題して、ご自分の好きな棋士について述べているくだりであった。
秀策はなぜかなじめず、秀策のライバルの太田雄蔵に親しみをおぼえ、堅実な秀策よりも雄蔵の華やかな打ち回しに引かれたそうだ。明治初期の秀甫や水谷縫次の打碁約800局を、繰り返し並べたという。好みの棋士はやはり棋風によって変わるものらしい。
また、藤沢秀行先生自身は、ご自分について、勝った負けたと騒ぐ前に相手を思いやってしまい、勝負師としては甘いかもしれない(180頁)、と述べておられる点が興味深い。
ガン闘病中にもかかわらず、研究会を続けられたが、井山裕太氏も、その著書『勝ちきる頭脳』(幻冬舎文庫、2018年)においても、藤沢秀行先生について、次のように評しておられる。
「棋聖六連覇をはじめ名人、王座、天元などのタイトルを獲得した、昭和期を代表する名棋士」(148頁)
【藤沢秀行氏のプロフィール】
・1925年横浜市に生まれる。
・1934年日本棋院院生になる。1940年入段。
・1948年、青年選手権大会で優勝。その後、首相杯、日本棋院第一位、最高位、名人、プロ十傑戦、囲碁選手権戦、王座、天元などのタイトルを獲得。
・1977年から囲碁界最高のタイトル「棋聖」を六連覇、名誉棋聖の称号を受ける。
・執筆当時、日本棋院棋士・九段、名誉棋聖
<著書>
・「芸の詩」(日本棋院)
・「碁を始めたい人の本」(ごま書房)
・「秀行飛天の譜」(上・下、日本棋院)
・「囲碁発陽論」(解説、平凡社)
・「聶衛平 私の囲碁の道」(監修、岩波書店)
【藤沢秀行『勝負と芸』(岩波新書)はこちらから】
藤沢秀行『勝負と芸』(岩波新書)
〇藤沢秀行『勝負と芸―わが囲碁の道』岩波新書、1990年
【目次】
一 碁打ちをこころざす
父・重五郎
兄弟は十九人
五歳で碁をおぼえる
院生となり、福田先生に入門
昭和初期の碁界
皇軍慰問団
入段のころ
二 青年秀行
満州に一年
木谷道場のこと
棋士と戦争
囲碁新社事件
囲碁新聞を発行
三好達治先生のこと
昭和二十年代と呉清源
三 名人から棋聖へ
“我々の時代がきた”
名人戦創設に奔走
第一期名人に
ライバルについて
酒と借金
初ものに強い
怪物にされる
ガンに打ち克つ
忘れ得ぬ人たち
四 次代を育てる
秀行軍団
中国はなぜ強くなったのか
曺薫鉉と韓国碁界
国際化の時代
二十一世紀に向けて
五 秀行の盤上談義
定石について
秀行流の感覚とは
私とポカ
何手まで読めるか
コンピュータは人間に勝てるか
昔の名人と勝負すれば
名局とは
指導碁について
六 勝負か芸か
なぜ芸にこだわるのか
碁に強くなるには
個性を伸ばす
日常がすべて
持ち時間について
厚みと実利
マナーが第一
碁と年齢
碁は難しい?
九路盤で入門を
プロの世界
これからの碁界
あとがき
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
一 碁打ちをこころざす
昭和初期の碁界
五 秀行の盤上談義
定石について
昔の名人と勝負すれば
名局とは
六 勝負か芸か
なぜ芸にこだわるのか
碁に強くなるには
日常がすべて
厚みと実利
昭和初期の碁界
昭和初期の碁界
・木谷実と呉清源が新布石を打ちだしたのは、昭和8年の秋である。
その夏、木谷は奥さんの実家である信州地獄谷温泉に滞在し、呉清源とともに構想を練ったという。
・本場所ともいうべき大手合で、二人そろって新布石を打ち、しかも好成績をあげたので、碁界はもとより世間もびっくりした。
新布石は、わが国500年の囲碁史の中で、確かに一大革命といっていい。
それまでの布石が小目を中心とする三線の組み立てであったのに対して、新布石は星を中心とする勢力とスピードをめざした新戦法である。
・星打ち自体は明治の秀栄名人が数多く試みているけれど、二連星、三連星となると、新布石のオリジナルだろう。
新布石はさらに三々や天元、五の五なども加えて、盤上に幾何学模様を描き出した。
・新布石の熱病は昭和8年の秀哉名人と呉清源九段の記念碁で頂点に達する。
<参考譜>に見るように、伝統的な小目の布石の名人に対し、呉五段は三々、星、天元と奇抜な陣を布いてファンの度胆を抜いた。
この碁は終盤で名人に妙手が出て、呉五段の二目負けに終わったが、新布石の明快さは一般の共感を呼んだようである。
<参考譜>
名人勝負碁
昭和8年10月14日~9年1月29日
本因坊秀哉名人
二先二・先番 呉清源五段
(注)
・黒1が三々(さんさん)~盤端から三線目の交点にある。
・白2と4を小目(こもく)という。
・黒3は星。
・黒5は特別に天元という。
・ほかに左下で説明すると、隅を先に占める場合、
AとDが高目(たかもく)
BとEが大高目
Cが五の五である。
長き夜や 三々の陣 星の陣
こんな川柳がもてはやされたという。
・昭和9年には、平凡社から木谷、呉、安永一(はじめ)の共著である『囲碁革命・新布石法』という本が出た。
安永は当時の日本棋院編集長だった。
この本は碁の出版物としては空前の10万部を売りつくし、左前だった平凡社が立ち直ったと聞いている。
・一方、坊門の村島誼紀(よしのり)五段と高橋重行四段による『打倒新布石法』も出て、新布石の熱病はいよいよ高まった。
・私たちカスリ組は、そんな中で碁を学んだわけだが、著者自身はまったく新布石の影響を受けなかったそうだ。院生時代の棋譜が百局近く手元に残っているが、三連星は一局もないという。
著者が三連星を時折試みるようになったのは、つい最近である。
知らず知らずのうちに影響を受けていたのかもしれないという。
・木谷実や呉清源の活躍についても、すごい人がいるものだな、というくらいにしか感じていなかった。
・著者の勉強法はちょっと変わっていた。
定石の勉強は、野沢竹朝(ちくちょう)の『大斜百変(たいしゃひゃっぺん)』を読んだだけで、ほとんどしない。
何をしたかというと、故人の打碁並べである。
愛読したのは本因坊秀甫(しゅうほ)先生の講評が添えられてある『囲碁新報』である。
明治初期の秀甫や水谷縫次(ぬいじ)の打碁約800局を、繰り返し並べた。
無意味に並べるのではなく、一手一手の意味を追求し、自分ならこう打つと考えるのだ。
入段前の1年間は、1日10時間以上は並べたと思う。
昭和37年、第一期の名人に就いたとき、瀬越先生から「きみの碁は秀甫に似ている」といわれたのも、このときの猛勉強が身についていたからだろう。
・秀甫に次いで並べたのが秀栄。
秀策はなぜかなじめず、秀策のライバルの太田雄蔵に親しみをおぼえた。
堅実な秀策よりも雄蔵の華やかな打ち回しに引かれたのかもしれない。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、16頁~20頁)
<ポイント>
明治初期の秀甫や水谷縫次の打碁約800局を、繰り返し並べた
秀策はなぜかなじめず、秀策のライバルの太田雄蔵に親しみをおぼえた。
堅実な秀策よりも雄蔵の華やかな打ち回しに引かれた
定石について
「5秀行の盤上談義」の「定石について」で、次のように述べている。
・碁のことばが一般的に使われるようになった例はずいぶん多い。
「布石」とか「局面」などは常に使われている。
「ダメ(駄目)を押す」などというのもある。
「序盤」、「中盤」、「終盤」なども碁から出たことばと思う。
それらの中でチャンピオン格は「定石」ということばだろう。
・定石とは何か。
実のところ、著者にもよく分からないという。
だから「定石はいくつありますか」とか、「どのくらい定石をおぼえればいいか」などというアマチュアの質問には、頭をかかえてしまう。
部分において最善とされる一定の打ち方、それが定石の解釈だが、本当に最善かどうか、われわれにも分からないことがあまりにも多い。
・多くのアマチュアは定石について誤った考えを持っていると思う。
定石は絶対だと信じ、定石をたくさんおぼえればそれだけ強くなるという錯覚である。
だいぶ前のこと、一念発起して、『囲碁大辞典』を丸暗記したアマチュアの話を聞いたことがある。
『囲碁大辞典』とは、古今の数万にわたる定石を記した鈴木為次郎先生の労作で、現在も多くの棋士が監修して改訂版が出されている。
そのすべてを暗記しようとする努力には頭が下がるけれど、まったく上達しなかったそうである。当然だろう。
定石はだいたい隅に限られている。
四つの隅はかなり離れているから、アマチュアの方は部分部分で独立したものと考えがちである。
しかしこれが大変な間違いで、各隅は程度の差はあれ、みな微妙に影響し合っている。
したがって一つの隅だけで定石をきちんと打っても、あまり意味がない。
部分といえども、盤全体との関連で一手一手が違ってくる。
おぼえたての定石を使ったところで、どうしようもないのである。
・「定石の本を読むのは非常に参考になる。ただくわしくおぼえる必要はない」と、著者はいってきた。
著者自身も定石の本を何冊も書いたが、決しておぼえよとはいってない。
40年以上も前に書いた定石書の序文の一部を紹介しよう。
元来定石といわれるのは、一局の最も初めに打たれたるものであって、隅から打ち出された定石はその定石から発展して布石を形成し、布石は中盤を、中盤は終局へと発展する。又、隅の定石は他との関連によって、ある場合にはある定石を打つことがより適切であるなど、隅の定石といわれているものは隅のみにおいて解決できると考えられているのは誤りである。(中略)読者はおぼえた定石を対局の際、応用することによって自然に良い知識を得て行く。実際に応用して初めて良き形と優れた技を自然におぼえるのである。つまり読者は良い定石の本を見るのは名画を鑑賞する気持ちで見てほしいと思うものである。」
(『置碁の一間締りの定石』)
・しゃちほこ張った文章だが、いわんとしていることは、お分かりいただけると思う。
誰だって定石をおぼえるのは苦痛である。
そうしておぼえた定石を後生大事に守ると、新しい発想が生まれず、上達にとってもさまたげになる。
定石や形にとらわれては、進歩も何もない。
ごく基本的な定石や常識的な形は、しっかり理解しておかねばならないとしても、あとは絵を鑑賞する気持ちで見れば十分と思う。見ているうちに分かるようになるものである。
・定石はずれ、大いに結構。
私たちが悪いといっても、あなたがいいと思えば、どんどん打ってよろしい。
好きなように打つところに碁の面白味があるのだ。
そしてだんだん悪いことに気がついてくる。
私たちの意見はあくまでも参考程度にとどめておくのがいいかと思う。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、132頁~134頁)
<ポイント>名言
・読者は良い定石の本を見るのは名画を鑑賞する気持ちで見てほしい
・ごく基本的な定石や常識的な形は、しっかり理解しておかねばならないとしても、あとは絵を鑑賞する気持ちで見れば十分と思う
<ナダレ定石について>
・定石はプロの専売特許ではない。
アマチュアが作った定石だってある。
例えばナダレ定石。
相手の石にぶつかっていくのだから決して筋はよくない。
昭和の初め、『棋道』誌上で読者の質問があり、長谷川章先生が「そんなバカな手はありません」と答えたのだが、改めて調べたところ、変化があまりにも多く、立派に成立することが分かったという。
こうしてできたのがナダレ定石である。
ナダレは現代定石の花形といっていい。
決定版とされるものが完成したと思っても、それをくつがえす新手が次々に現われる。
私たちだって分からない部分が多いのに、それをおぼえろといっても、ほとんど意味がない、という。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、134頁~135頁)
昔の名人と勝負すれば
・昔の名人と現代の一流プロとどちらが強いか。
プロ棋士の間でも話題になることがあるようだ。
(雷電と双葉山、大鵬、千代の富士がいっぺんに戦えば誰が一番強いか、と考えるようなものであるという)
・昔の名人上手は数多い。
名をあげるとすれば、江戸元禄期の本因坊道策、文化文政から天保にかけての本因坊丈和、丈和の弟子の本因坊秀和、その弟子の本因坊秀策、明治に入っての本因坊秀甫、明治中期から後期にかけての本因坊秀栄あたりが、万人の納得できる歴代の第一人者だろう。
このほかにも、初代の本因坊算砂をはじめとして、名人碁所(実力的にも政治的にも碁界のナンバーワン。江戸時代の各家元は名人碁所に就くために実力を磨き、裏で熾烈な争いを繰り広げた)に就いた安井算知、井上道節、本因坊道知、さらに共に名人の力を持ちながら譲り合ったという本因坊元丈と安井仙知(知得)、丈和に激しいライバル意識を燃やした井上因碩(幻庵)ら、忘れてはならない古人ばかりである。
・この中で誰が最強だったのか。目移りするが、候補をあげている。
〇まず本因坊道策
・道策の碁については、断定的なことはいえないが、近代的な考え方は、道策から発しているといっていいとする。
レベルが低く、部分部分の戦いに偏していた当時の碁界にあって、道策一人だけが、「石の軽重」とか「手割り」などの理屈が分かっていたようだ。
・だから、全盛期に先で勝負できる相手はなく、二子でも道策に苦戦している。
実力十三段といわれ、棋聖と称される。
梶原武雄氏はじめ古今の第一に道策を推す棋士は多いという。
〇本因坊丈和
・著者の好きな名人の一人であるという。
力は古今無双を謳われる。
確かに力戦の雄である。
石が接触したときの強腕ぶりは「丈和は碁の鬼神か」と、同時代人が嘆じたという。
しかし接近戦が強いばかりではない。全局的な構想力はすごいし、ヨセも巧みだった。
※丈和の打碁集を出すとき、集中的に調べたそうだが、四宮米蔵との二子局が強く印象に残っているという。
米蔵は賭け碁打ちともいわれ、在野の棋士。二子置かせた丈和は、家元の権威を守るためにも負けられない立場にあったのだが、アマチュア特有の力碁を見事封じている。
この丈和―米蔵戦には、名局が何局もあり、若い人に並べることを勧めている。
※丈和から本因坊秀和、秀策と続いて、幕末の黄金時代を迎える。
秀和は歴史的にも重要で、秀策と秀甫を育て、秀栄は実子。
明治の碁界は秀和から生まれたといっていいようだ。
ただ、好みからいえば、とにかく強いと思うが、秀和の碁はあまり好きでないという。
(聡明で、優勢を確かめると、さっと逃げて細かく勝ってしまうところがあると評している。)
〇本因坊秀策
・33歳で夭逝し、上手(じょうず、七段)止まりながら、道策と並んで棋聖を称されている。御城碁(おしろご:江戸城黒書院で年一回打たれる将軍上覧碁)19連勝が高く評価されたのだろう。
(御城碁は江戸時代唯一の公式戦。これに負けなかったのだから、なるほど大記録である)
※ただし、好き嫌いでいうと、秀策の堅実さよりも、好敵手だった太田雄蔵の華麗さの方が、著者の棋風に合っているという。
太田雄蔵には、剃髪するのを嫌って、御城碁出場を辞退したとか、面白い話が残っている。人間的にも魅力のあった碁打ちだったようだ。
〇本因坊秀甫
・幕府の保護がなくなり、衰退した明治初の碁界を立て直した。
・まず人間が立派だったという。
日本棋院のはるか前身ともいえる「方円社」を起こして、囲碁雑誌を発行したり、外人に碁を教えたりで、とかく閉鎖的な碁界では珍しくスケールの大きな人物だったと評している。
・碁も超一流である。
※著者は、少年時代に一日10時間も秀甫を並べては、積極的でスケールの大きな取り口に感動したそうだ。
〇本因坊秀栄
・著者は、秀栄も影響を受けた一人であるという。
・碁の明るさは当時群を抜いていた。
相手がやってくれば乱戦も辞さないが、ふだんは明るさだけでサラサラと勝ってしまう。
戦う場と戦わない場をしっていたのが秀栄だという。
・秀栄は晩年の白を持っての打ち回しが特にすばらしいそうだ。
次の棋譜はその一例。
【本因坊秀栄と田村保寿との棋譜】(1~120)
明治31年10月16日
本因坊秀栄と田村保寿(先)、黒は田村保寿(のちの本因坊秀哉名人)
1~120手、以下略(ジゴ)
・黒39の鋭い攻めを白40からあっさりと捨ててかわし、62さらに78と中央から上辺をまとめて優位に立っている。
※名人芸とはどんなものか、この碁が教えてくれるような気がするという。
〇さて、以上の名人の中で誰が一番強いか。
・かつて囲碁雑誌でアンケートをとったところ、
道策、秀策、秀栄の3人がほとんど差がなく、ベスト3にランクされたそうだ。
美人コンテストみたいであまり意味はないが、プロの好みは、道策派、秀策派、秀栄派に分かれるようだ。
道策派:梶原武雄、小林光一
秀策派:加藤正夫、石田芳夫
秀栄派:高川秀格、藤沢秀行
(著者である藤沢秀行は秀栄に一票を投じておいたという)
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、151頁~158頁)
名局とは
・名局はこれまで数多く打たれている。
ただし、昔と今とでは名局の考え方が変化しているそうだ。
・先番必勝をテーマにした時代は、黒は堅実に、白は趣向をめぐらすのが当たり前とされ、悪手のない碁が名局とされた。
現代は悪手のないことよりも、気迫や内容の面白さが重視される。
悪手や見損じ、打ちすぎがあっても、それ以上に内容が面白く、見る者を感動させればいいのではないかという。
悪手がまったくなく、一手一手が気迫にあふれ、なおかつ感動を呼べば、文句はない。
・著者の考える名局の第一条件は、その場面場面でいい手を盤上に表現したものである。
いい手とは最善手である。
何が最善手か、これが難しい。
一局の中で、一つでも自分自身が納得でき、多くの人の魂を揺り動かせるような会心の一手を心がけたいが、そんな例はあまりにも少ない。
【藤沢秀行VS馬暁春の棋譜】
・応氏杯世界プロ選手権一回戦
昭和63年8月21日
先 藤沢秀行VS馬暁春
棋譜の黒3の肩つきは数少ない例であるという。
・また、いい手が連続して一つの流れとなり、名画を鑑賞するように、見る者を感動させることも名局の条件であるという。
現代の棋士で絵になる碁を時々打っているのは、武宮正樹ではないかという。
位(くらい)が高くて味があり、気がつかない、いい手を見せてくれる。
碁を絵とすれば、過去500年の歴史で、武宮正樹のような絵を見せてくれた者はいないといっても、ほめ過ぎではあるまい、とする。
(しかし出来不出来の激しいのが欠点で、名画を見せてくれたかと思うと、とんでもない駄作をものにするとも付言している)
・いい手――好手、妙手、名手は、碁の強弱とは関係ないともいう。
「三歳の童子たりとも導師である」と、著者は若い棋士によくいうそうだ。
その気になれば、アマチュアからも学べる。
だから指導碁といえども軽く見てはいけない。
木谷実先生はどんな指導碁でも手を抜かず、ふだんの手合と同じように時間をかけて打たれたそうだ。アマチュアに教えるというより、アマチュアからも学ぶという姿勢があったようだ。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、120頁、158頁~160頁)
6勝負か芸か
なぜ芸にこだわるのか
・碁を芸の表現と見るか、勝負第一と見るか。
棋士の考え方はさまざまである。
圧倒的多数は勝負重視派だろう。
例えば、坂田栄男さんは「勝つことがすべて。私は勝つことによって強くなった」と語っておられる。趙治勲さんも同じようなことをいう。
・しかし、著者には勝ち負けよりも、大切にしたいものがあるという。
それを芸といってもいい。
同世代の梶原武雄さんや山部俊郎さんは、著者の考え方に似ている。
梶原さんはひたすら最善手を追い求め、勝つことなんかまったく念頭にないようである。
勝つための妥協は考えず、最強手で相手を倒そうとするから、しばしば逆転負けを喫する。
梶原さんにいわせると、勝負にこだわるのは不純であり、冠(かんむり、タイトル)を取ったといって喜ぶ連中はアホということになる。
(梶原さんほど徹底はできないけれど、著者は共感できる点が少なくないという)
・「勝つにこしたことはない。しかし碁は無限だから、強くなれば、勝ちは自然に転がり込んでくる。勝った負けたと騒ぐ前に、芸を高め、腕を磨くことを考えろ」と、著者は口を酸っぱくして、若い人にいっていたそうだ。
(ニワトリとタマゴの話ではないが、勝つから強くなるのではなく、強くなるから勝つのである。腕を磨いておけば、いつかどんどん勝てるようになるという)
※現在の碁界は、勝負があまりにも重視されて、大切なものが忘れられているような気がするらしい。
どんな碁を打っても、最終的に勝てばいいんだという風潮が強い。
果たしてそれでいいのだろうか。
もちろん第一手から始まって最後の一手まで、すべてが芸である、と著者は強調している。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、164頁~165頁)
6勝負か芸か
碁に強くなるには
・腕を磨き、芸を高めるにはどうしたらいいか。
アマチュアのみなさんは、打ちたいように打ち、楽しむことが第一だと思う。
強くなるにしたがって、プロのまねをしたがる方がふえるが、これはあまり意味がないらしい。
プロの碁を並べるのはいい勉強になるけれど、ものまねに終わっては上達もたかが知れている。
楽しんで打ち、壁にぶつかったら、別の打ち方を自分なりに試すのがアマチュアの最上の上達法であるとしている。
・碁にお金をかけなさい(「賭けろ」ではない)という。
もう一つ、詰め碁を見るのもお勧めしたい勉強法であるという。
“解く”のではなく、文字通り“見る”のだ。
やさしい問題を見て、多少は頭をひねって考える。
分からなければ、すぐ解答を見たってかまわない。
難しい問題なら、解答を見ながら考える。
だまされたと思って試してみるとよいらしい。
いい勉強になることは、著者が保証している。
・頭の中で詰め碁を解くのはプロの勉強である。
著者が若い時に、井上道節が著した難解な詰め碁集の『囲碁発陽論』を研究して解説書を出版された。
その改訂版を出したところ、アマチュアよりもプロやプロ志望の子供たちが愛読したそうだ。
(依田紀基氏などは、どこに出掛けるにも『囲碁発陽論』を離さなかったという。)
・プロとは、かつぎきれない荷物を背負って曠野をとことこ行く人種であるという。
努力を持続させる才能が要求されるし、倒れるまで勉強しなくてはならない。
苦しいものであるらしい。
超一流はみな、その苦しみを味わっている。これは碁の道に限ったことではないが。
・プロの勉強法だが、ふだんの対局が大切なことはいうまでもない。
しかしそれ以上に日常が勝負という。
自分の打った碁を反省するのもいい。
一流棋士の対局や古碁を並べるのもいい。
一局の碁には勝負どころがいくつかある。
それを的確にとらえるよう訓練し、自分ならどう局面を動かすか、必死になって工夫する。
(著者は、この方法で強くなったという)
・1日10時間も並べると、右手の人さし指のつめがぺらぺらに薄くなったり、変形したりする。
武宮正樹氏から同じ話を聞かれたそうだし、最近では依田紀基氏がそうらしい。
かつて小林光一氏は脛(すね)に毛がまったくなかったという。坐り続けて勉強したからだそうだ。
これがプロの勉強だという。
ぶっ倒れるまで勉強しろといったら、そのまま実行し、碁盤に頭をぶつけたのも気がつかずに眠り込んでしまった子もいたそうだ。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、166頁~168頁)
六 勝負か芸か
日常がすべて
・腕を磨いて強くなる。
この努力はプロなら当然だし、誰でもやっている。
そこからさらに進み、人間を磨いてこそ、一流の碁打ちに成長するのだという。
・碁は人間と人間の勝負。
最終的には人間の質が碁の優劣を決定するのかもしれない。
そこまで突き詰めて考えなくともいい。人間の幅を広げ、人生観、世界観を豊かにすれば、盤上の見方も広がるのではないかという。
人間が悪い方が勝負に適しているという狭い見方には反対であると強調している。
・昔の剣客は、禅を組み、書や絵を書いて、己れを鍛えた。
著者は子供のころから盤上の勉強だけでは不安だから、いろいろなことに手を出したそうだ。
老師の話を聞いたり、禅をやったり、漢詩を読んだり、自分で詩を作ったり。
哲学書や歴史書まで読みあさったのも、人間の幅を広げようと思ったからであるらしい。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、170頁~172頁)
六 勝負か芸か
厚みと実利
・勝つことによって強くなるのか、強くなることによって勝てるようになるのか―この問題とよく似ているのが、厚みと実利である。
・厚みと実利というのは碁の基本的な考え方である。
「厚み」というのは、弱点のない、しっかりした石の形(姿)のことである。
これを形容して「厚い」とか「手厚い」といっている。
(この反対語が「薄い」、「手薄い」である)
また、実利というのは、対局者いずれかの領分(地)として確定した領域のことである。
一般的にいえば、厚みを重んずれば実利を失うし、実利を重視すれば厚みを失うことになる。
・実利や地は現金に、厚みは信用にたとえられる。
現金はそれ自体ではせいぜい利子がつくくらいだが、信用は一文にもならないおそれがある代わりに、将来2倍3倍になって返ってくる。
※ただ、実利と厚みはまったく相反するものではない。
例えば木谷実先生は、実利を重視した打ち方をされたが、同時に厚いといわれた。
あとくされのない実利を確保し、そこから力強く一歩一歩前進する。
スピード感には欠けるものの、重戦車で各個撃破するような迫力がった。
対照的なのが、呉清源先生である。
超スピードで大場に先行し、部分の戦いにはこだわらない。
木谷-呉戦が人気を集めたのは、棋風が相反していたからだろう。
・著者と坂田栄男さんも対照的といっていい。
著者が手厚く構えるのに、坂田さんは足早に地を稼ぐ。だから中盤戦は著者の攻め、坂田さんのしのぎになることが多かったという。
著者の場合は、知らず知らずのうちに、地の手より厚みの手に行ってしまう場合が多いようだ。例えば、次のような棋譜をあげている。
<譜13>
第三期棋聖戦第一局
昭和54年1月12・13日
先番 石田芳夫九段
藤沢秀行棋聖
・白1のカケは誰でも打てる。
・黒2の一手に白3、5と止め、黒6まではこうなるところだろう。
・次の白7に注目してほしい。
※評判は散々で、これに賛成する棋士は一人もいなかったらしい。
「いくら秀行さんでも厚がりすぎだよ」という。
なるほど白7では、Aとでも地につけば普通か。
しかし、著者には白7と厚く備えて打てるという信念のようなものがあったという。
地の手はまったく考えなかったそうだ。同じ局面がまた現れても、白7と打つかもしれない。これは棋風としかいいようがないそうだ。
※このような場合は善悪よりも好き嫌いになってしまうが、厚みか地かと考えるよりも、どこに打つのが最善かと考える方が正しい姿勢だろうとする。
その場面場面で最善手は必ずある。常に最善手を追求するのが、棋士の務めである。
※現代碁では、いささか実利に偏しているように見えるとする。
時代の風潮かもしれないが、必要以上に地を重視する。
布石の段階から地の計算ばかりするようなことになる。もちろん地を第一に考える人があってもいいが、そればかりでは面白くない。
戦い抜く碁、厚みで寄り切る碁など、いろいろな個性がもっと出てきてほしいという。
(藤沢秀行『勝負と芸』岩波新書、1990年、174頁~177頁)
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