歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪古代出雲への問いかけ その2 関裕二氏の著作より≫

2024-06-23 18:00:01 | 歴史
≪古代出雲への問いかけ その2 関裕二氏の著作より≫
(2024年6月23日投稿)

【はじめに】


 前回にひきつづき、古代出雲について考えてみたい。
 今回は、次の著作を参考にする。
〇関裕二『「出雲抹殺」の謎―ヤマト建国の真相を解き明かす』PHP文庫、2007年[2011年版]
 この著作の特徴は、第一章に記してあるように、記紀神話と出雲神話の学説史整理を、見事な“筆さばき”で、要領良く簡潔に述べてあることであろう。
(この点は、丁寧に要約したつもりである)
 また、日本古代史を、“祟り”というキーワードで斬ってみせる点も本書の特徴であろう。
たとえば、「「祟る神」は、日本の神の本来の属性だった」といい、「日本の神は「神」と「鬼」の属性を兼ね備えていた」といい、「出雲神こそが、最も「神らしい神」「神のなかの神」」と、ヤマトの人たちは考えていたのではないか、と著者はいう(66頁)。

(横溝正史の「八つ墓村」じゃあるまいし、そんな“祟り”なんかで、日本古代史が説明できるわけないじゃんと言い、荒唐無稽な説などと一蹴する前に、著者の言い分に耳を傾けてみると、読後に何か納得する部分があるかもしれない。そんな面白さがあるのが、本書ではないかと感じた。
 思うに、“学問の神様”として祀られる菅原道真(845-903)にしても、藤原氏との政争に敗れ、大宰府に左遷され、恨みを残して亡くなった。清涼殿落雷事件などで日本三大怨霊の一人として知られ、後に天満天神として祀られたことが想起できる。また、平安時代の『源氏物語』のストーリーにも、紫式部は、六条御息所が生霊(怨霊)として葵の上に取り憑いたことを組み込んでいることを思うと、“祟り”というのも当時の人々には真実味を帯びていたのかもしれない)

【関裕二氏のプロフィール】
・1959年、千葉県柏市生まれ。歴史作家。
 仏教美術に魅せられて、足繁く奈良に通い、日本古代史を研究。古代をテーマにした書籍を意欲的に執筆している。
<著書>
・『藤原氏の正体』(東京書籍)
・『謎とき古代日本列島』(講談社)
・『天武天皇 隠された正体』『封印された日本創生の真実』『検証 邪馬台国論争』(以上、KKベストセラーズ)
・『大化改新の謎』『壬申の乱の謎』『鬼の帝 聖武天皇の謎』(以上、PHP文庫)



【関裕二『「出雲抹殺」の謎』(PHP文庫)はこちらから】
関裕二『「出雲抹殺」の謎』(PHP文庫)




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


第一章 「出雲」は本当になかったのか?
・『出雲風土記』に残された出雲の神話
・記紀神話と風土記の違い
・『出雲風土記』に残された出雲の神話
・記紀神話と風土記の違い
・『風土記』神話には本当に政治性はないのか
・めまぐるしく移り変わる出雲観
・出雲は都から見て忌むべき方角にあった?
・出雲は実在した?
・出雲氏族が交替していたとする説
・有力視される巫覡信仰宣布説
・出雲にまつわる諸説の長所と短所
・出雲が祟る意味

第二章 出雲はそこにあった
・四隅突出型墳丘墓の謎
・出雲に残る濃厚な海の信仰
・呪術を用いて海に消えた出雲神・事代主神
・出雲の謎を解く鍵は「祟り」

第三章 なぜ出雲は封印されたのか
 『日本書紀』の歴史隠しの巧妙なテクニック
 出雲神が祟ると信じられたきっかけ

第四章 出雲はなぜ祟るのか
 『日本書紀』は何を隠してきたのか

第五章 明かされた真実
 武内宿禰のまわりに集まるそっくりさん
 そもそも武内宿禰とは何者なのか
 武内宿禰と浦島太郎が三百歳だった意味
 浦島と住吉と武内宿禰の素性









〇関裕二『「出雲抹殺」の謎―ヤマト建国の真相を解き明かす』PHP文庫、2007年[2011年版]

【目次】
はじめに
第一章 「出雲」は本当になかったのか?
 古代史の謎を解き明かす最後の鍵
 時代に翻弄された「神話」
 津田左右吉の反骨
 神話は本当に絵空事なのか
 『日本書紀』神話に秘められた歴史
 『出雲風土記』に残された出雲の神話
 記紀神話と風土記の違い
 『風土記』神話には本当に政治性はないのか
 めまぐるしく移り変わる出雲観
 出雲は都から見て忌むべき方角にあった?
 出雲は実在した?
 出雲氏族が交替していたとする説
 有力視される巫覡信仰宣布説
 出雲にまつわる諸説の長所と短所
 天皇家に讃えられた出雲神
 天皇家と出雲神の奇妙な関係
 出雲が祟る意味

第二章 出雲はそこにあった
 出雲はなかったというかつての常識
 考古学の示す最新の出雲像
 荒神谷遺跡の衝撃
 加茂岩倉遺跡の銅鐸の謎
 出雲特有の青銅器
 なぜ大量の青銅器が出雲に埋められたのか
 四隅突出型墳丘墓の謎
 出雲に残る濃厚な海の信仰
 呪術を用いて海に消えた出雲神・事代主神
 出雲と越の強い関係
 山陰の弥生時代の印象を塗り替えた鳥取県の遺跡
 青谷上寺地遺跡は弥生時代の博物館
 初めて見つかった「倭国乱」の痕跡
 驚異の妻木晩田遺跡
 出雲の存在を証明した纏向遺跡
 ヤマト建国以前にヤマトにやって来た出雲神
 ヤマト建国に果たした吉備の役割
 中央集権的な吉備と合議の出雲?
 出雲はヤマト建国とともに衰退したのか
 出雲の謎を解く鍵は「祟り」

第三章 なぜ出雲は封印されたのか
 とてつもない柱が出現した出雲大社境内遺跡
 出雲信仰はなぜ起こったのか
 謎が多すぎる出雲
 死んでも生かされつづける出雲国造
 身逃げの神事の不思議
 『日本書紀』は出雲の歴史を知っていたから隠したのか
 『日本書紀』の歴史隠しの巧妙なテクニック
 出雲神が祟ると信じられたきっかけ
 出雲を侵略するヤマトという図式
 祟る出雲の可能性をかぎつけた考古学
 日本列島の地理が弥生後期の出雲を後押しした!
 北部九州の地理上の長所
 関門海峡を封鎖した鉄を独占した北部九州
 弥生時代後期の出雲の勃興
 中国の盛衰と北部九州への影響
 北部九州の地理上の短所
 はっきりしてきた出雲の目論見

第四章 出雲はなぜ祟るのか
 どんどん繰り上がる古墳時代の年代観
 邪馬台国は本当に畿内で決まったのか
 脚光を浴びる庄内式・布留式土器
 西から東ではなく東から西に行った神功皇后
 神功皇后の足跡と重なる北部九州の纏向型前方後円墳の分布
 ヤマトのトヨによる山門のヒミコ殺し
 スパイラルを形づくる『日本書紀』の記述
 天稚彦と仲哀天皇のそっくり度
 『日本書紀』は何を隠してきたのか
 ヤマトに裏切られたトヨ
 海のトヨは裏切られ祟る
 ヤマトに裏切られた武内宿禰
 歴史から抹殺された物部氏と蘇我氏の本当の関係
 関門海峡の両側に陣取った物部氏
 出雲を追いつめる物部氏の謎
 出雲の勢力圏を包み込むように楔を打ち込んだ物部氏
 三輪山の日向御子という謎
 祟る出雲の正体

第五章 明かされた真実
 神社伝承から明かす大国主神の正体
 大国主神の末裔・富氏の謎
 大国主神は何者なのか
 やっと気づいた「大国主神は聖徳太子とそっくり!!」という事実
 大国主神と聖徳太子の共通点
 蘇我氏を悪役に仕立てるための大国主神?
 武内宿禰のまわりに集まるそっくりさん
 そもそも武内宿禰とは何者なのか
 武内宿禰と浦島太郎が三百歳だった意味
 浦島と住吉と武内宿禰の素性
 見るな見るな、といわれれば見たくなる秘密
 ヤマトの本当の太陽神
 出雲の国譲りの真実
 
 文庫版あとがき
 参考文献





時代に翻弄された「神話」


・日本の神話は、そのほとんどが牧歌的にみえる。
 だが、実際には、多くの貴重な歴史のヒントが神話のなかに隠されている、と著者は考えている。
 「神話」全体が、近世以降どう考えられてきたかについて、触れている。
・記紀神話については、江戸時代中期ごろから、国学の隆盛によって、数々の論究が行なわれてきた。
 本居宣長や平田篤胤らは、神話に疑念を抱くことなく、素直に受け入れた。
 それどころか、国学者たちは、日本文化の固有性を神話や古代社会に求めている。
 たとえば、本居宣長は、儒教的な道徳主義を排し、「もののあはれ」を知れ、と説き、このような「主情主義」こそが、人間の本来あるべき姿だと主張した。
 その上で、太古の日本人は、ごく自然に、「もののあはれ」を知っていて、無意識のうちにありのままの自分でいることを、会得していたのだと指摘している。
 そして、神話のなかに、日本人としての理想、「主情主義」の世界を見出していった。
また、本居宣長を筆頭とする国学者たちは、天孫降臨を史実と認め、天皇を神の末裔と捉えることで、天皇に絶対的権威を見出していった。

・イデオロギー的要素の強い本居宣長らの主張に対し、反発する者も現れた。
 伴信友らは、神話はたんなる絵空事といい放ち、史実の考証を重視し、イデオロギー化する国学の傾向に歯止めをかけようとした。

※だが、復古的な国学の影響は、やがて西欧列強の砲艦外交に対する民族主義的な反発と重なり、幕末の尊王攘夷思想を形づくり、明治維新の原動力となっていった。
 ただし、国学そのものは、明治維新後、近代化を推し進める時代の流れによって消滅する。
 そのいっぽうで、教育現場では、神話は「史実」として、教えられることになっていく。
 たとえば、明治44年(1911)に文部省が発行した尋常小学校用の歴史教科書の出だしは、皇祖神・天照大神からはじまる。
※このような国家の示した歴史観に対し、「神話は創作だ」と唯一反発した学者が、津田左右吉である。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、20頁~23頁)

津田左右吉の反骨

 
・大正12年(1923)に記された『神代史の研究』(岩波書店)のなかで、津田左右吉は日本の神話は民族が語り継いできたものとは異なり、「神代史は我が国の統治者としての皇室の由来を語ったものに外ならぬ」と断言した。
 すなわち、神代史上の神々は、民族的・国民的英雄ではけっしてないという。
 なぜ、このような発言が飛び出したかというと、記紀神話に登場する神々の活躍が、天皇家の権威に関係する物語であることに、まず津田は注目したからである。

・本来、神話とは、民族が共有するものであるにもかかわらず、記紀神話は天皇家による日本支配の正統性を証明するために、朝廷の貴族の手で6世紀中葉に記され、8世紀に完成した代物にほかならない、と指摘したのである。

※このような積極的な発言が飛び出した背景には、大正デモクラシーの影響があったともいわれる。だが、時代は右傾化を加速していく時期に当たっていたから、津田は攻撃を受け、昭和15年(1940)、その著書は発禁処分を受け、起訴され、昭和17年、有罪判決を受けた。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、24頁~25頁)

神話は本当に絵空事なのか


・津田左右吉の後継者たちが唯物史観を駆使し、歴史学に新たな風を吹き込んだ。
 だがいっぽうで、あまりに合理的な発想であったがために、かえって古代史に多くの謎を残してしまった、と著者はいう。
 たとえば、シュリーマンが、神話のどこかに、かすかな真実が残されているのではないかという発想をもちつづけたことで、大発見をしたように、日本神話のなかにも、わずかな史実の残像を見出せないかとする。
 また、神話の見方が変わりつつある。
 このあたりの事情を河合隼雄は、『日本神話の思想』(ミネルヴァ書房)のなかで、次のように指摘している。
 神話は、それを外的な事実を語るものとして見ると、まったくナンセンスなことが多い。従って、近代合理主義的な観点からは、その価値が相当におとしめられていたことも事実である。しかし現在では、近代合理主義や、自然科学万能主義に対する反省と共に、神話を低次の、あるいは歪曲された自然科学の知を伝えるものとして見るのではなく、神話を、「神話の知」を伝えるものとして見てゆこうとする態度が、相当一般にも受けいれられてきたように思われる。

※このように、民俗学的な視点から神話は見直され、多くの成果が上がっている。

・だが、神話と歴史の間には、いまだに深い溝が横たわっている。
 つまり、神話に民俗学的な価値はあったとしても、「ストーリーに歴史を読みとることはできない」という考え方そのものは、そう簡単には取り払うことはできない。
 だが、神話には、これまで見過ごされてきた貴重な歴史のヒントが隠されている、と著者はいう。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、27頁~29頁)

『日本書紀』神話に秘められた歴史


・記紀神話の作者は、3世紀のヤマト建国前後の歴史を熟知していて、この歴史を神話にしてしまったのではないかと思える節があるという。
 つまり、神話は、ヤマト建国の諸事情を闇に葬るための隠れ蓑だった疑いが出てくる。
 たとえば、天皇家の祖神で神話の中心的存在となった女神・天照大神は、『日本書紀』の神話のなかで、はじめ「大日孁貴(おおひるめのむち)」の名で登場する。
 「大日孁貴」の「孁」は「巫女(みこ)」を意味するから、「日孁」を分解すると「日巫女(ひのみこ)」となり、太陽神を祀る巫女を意味することになる。また、「ヒノミコ」は「ヒミコ」であり、邪馬台国の卑弥呼を連想させるという。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、29頁~30頁)

『出雲風土記』に残された出雲の神話


・『風土記』といっても、現存するものは「常陸国」「播磨国」「出雲国」のわずかに三巻である。『出雲風土記』は、そのなかでも完本に近い形で残された。

・『出雲風土記』で最も有名な神話といえば、国引き神話であろう。
 国引き神話は、古代出雲の中心・意宇(おう)の郡(こおり)(現在の島根県松江市や安来市の周辺)の段に出てくる。
 「意宇と号(なづ)くる所以は」とはじまるように、いわゆる地名起源神話である。
 この説話の主人公は、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)である。
 この神は、『古事記』にも現われているが、そこでは目立たない存在で、逆に『出雲風土記』では、出雲建国の父、といったイメージである。

〇では、『風土記』の八束水臣津野命の活躍は、いかなるものだったのだろう。
・あるとき、八束水臣津野命は次のように詔した。
「八雲立つ出雲の国は、幅の狭い布のように若く小さくつくられた。だから、縫い合わせなければならない」
 こうして八束水臣津野命の国引きがはじまる。
 まず目をつけたのは、日本海の対岸、朝鮮半島の新羅で余った土地はないかと眺めると、岬が余っていた。
 そこで、童女の胸のような平らな鋤で、大きな魚のエラをつき分けるように、新羅の地を刻んで、三本を縒(よ)ってつくった太い綱を引っかけて、河船を運び上げるようにゆっくり慎重に「国よ来い、国よ来い」と引き寄せた。
 こうして縫い合わせた国が、「去豆(こづ)の折絶(おりたえ、出雲市小津)」から「八穂爾支豆支(やほにきづき)の御碕(みさき)(同市大社町日御碕)」にかけての地だった。
 このときつなぎ止めるために打ち込んだ杭は、石見国(島根県西部)と出雲国(島根県東部)の境にある佐比売(さひめ)山(三瓶山)である。引いた綱は「薗の長濱(神門郡北部の海岸)」になった。
・次に、北門の佐伎(さき)の国(出雲北方の出入り口の意)に余った土地はないかと眺めると、余っていたので、これを引き寄せた。これが多久の折絶(松江市鹿島町)から狭田(さだ)の国(同市鹿島町佐陀本郷)に至る地だ。
・次に、北門の農波(のなみ)の国(松江市島根町野波)から土地を引っ張ってきた。宇波(うは)の折絶(松江市東北端の手角[たすみ]?)から闇見(くらみ)の国(松江市本庄町新庄)がこれである。
・次に、高志(こし、越)の都都(つつ)の三碕(みさき、能登半島の北端珠洲岬?)の余った土地を引っ張ってつくったのが三穂(みほ)の埼(美保関町)で、このときの綱が夜見の嶋(弓ヶ浜)だ。そして、打ち込んだ杭は伯耆国(鳥取県西部)の火神岳(ひのかみだけ、大山)である。
・こうして、「今はもう、国を引き終えた」と述べた八束水臣津野命は、意宇の社(やしろ)に御杖(みつえ)をつきたてて、「おゑ」と声を発した。それで、この地を「意宇」というようになったというのである。

※これが出雲の国引き神話のあらすじである。また、意宇の地名説話でもある。

(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、34頁~36頁)


『風土記』神話には本当に政治性はないのか


・水野祐は、『日本書紀』や『古事記』に載る出雲神話を理解するためには、地方色豊かな『出雲風土記』との対比、比較研究をしなければ、実相を見極めることはできないという。
 そして、『出雲風土記』と記紀神話の関係を、次のように説明している。
「出雲には中央の大和の神話、それから発展をして統治者としての天皇氏の氏族神話や日本国家を主体にした国家的統一神話とは別に、それらの影響をほとんど受けていない独自の神話が存在していたのである。
 そうした独得な神話の存在が、中央における神話体系の構成の上に影響をあたえ、日本神話の大系の中に、開闢神話から直接的に天孫による大八洲国(おおやしまのくに)の統治神話へ結びつけることができなかった。その間に出雲国が大八洲の下界に既存していたのでそれをまず服属させてから天神(あまつかみ)の裔孫を天降し統治を委ねるという、すなわちその中間に出雲神話を挿入せねばならなかったのである。」
(水野祐『日本神話を見直す』学生社)

※つまり、出雲には土着の信仰があって、それが記紀神話で取りあげられるとき、中央的潤色が加えられたとすることが、今日的な解釈になりつつあると指摘している。

・このような考え方が、出雲神話に対する常識的な判断といっていいのかもしれない。
 しかし、中央の朝廷の記した神話は政治的な思惑に満ちていて、地方の記した神話は牧歌的な「本当の神話」だという単純な決めつけをそのまま受け入れることはできない、と著者はいう。
 中央が政治的なら、地方も政治的であってもおかしくはない。
 中央の締め付けがあったならば、地方はそれに恭順し順応するか、あるいは反発することもあっただろう。そしてそれは、それぞれの政治的判断にもとづき、『風土記』に色を添え、中央に報告したということであるとする。

・つまり、出雲でも朝廷の思惑にあわせ、「歴史の核心」を抹殺して神話をつくった可能性が残されているという。
 出雲側の提出した神話が、朝廷の創作した神話と重ならないからといって、出雲側の神話に政治性はなかったという証拠にはならない。そして、『風土記』と「記紀」の神話が重ならないからといって、「出雲はなかった」と決めつけることもできないと主張している。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、38頁~40頁)

めまぐるしく移り変わる出雲観


〇出雲をめぐる史学界の諸説をまとめている。
①津田左右吉、鳥越憲三郎
・津田左右吉が戦前から唱え、戦後唯物史観を信じ切った学者たちに支持された、「神話そのものが中央の都合のいいように記された代物なのだから、出雲も虚構にすぎない」とする考え
・たとえば、「出雲神話=架空説」を強く打ち出した鳥越憲三郎は、『出雲神話の成立』(創元社)のなかで、出雲神話が記紀神話の三分の一を占めていることから、千年にわたって、出雲に巨大な勢力がかつて存在していたと信じ込まされていたのだという。
 また、杵築(きづき)大社(出雲大社)が天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る伊勢神宮に対立する神社として発展したために、かつて「出雲族」が日本の国土を支配していたという「錯覚」を、もってしまったのだ、とした。
・そして、出雲神話が架空だとしたら、なぜ舞台に出雲の地が選ばれたのかが問題になってくるはず。
 出雲族が、ヤマト朝廷に対峙するほど強力な力をもっていたわけでも、征服戦の最大の敵だったわけでもないのに、神話の裏方に選ばれた理由は、地理が意味をもっているとする。
 『日本書紀』成務紀に、
「山の陽(みなみ)を影面(かげとも)と曰ふ。山の陰(きた)を背面(せとも)と曰ふ」とあるように、古くから山の南北で、陽の当たる側を「山陽」といい、陽の当たらない側を「山陰」と呼んでいたことがわかる。
 つまり、西日本の屋台骨を支える中国地方の「山陽」は、歴史の「陰」には相応しくなく、「山陰」にあたる石見・出雲・伯耆・因幡のいずれかであればどこでもよかったのだ、と鳥越は断定している。

・さらに、なんにもなかったはずの「出雲」が、しだいに「実在したのではないか」と疑われるほどの存在感を示しはじめたのは、神話における出雲の役割の大きさから、伊勢神宮に対立する神社としての杵築大社の発展を促し、「古くは出雲族が日本の国土を治めていたのだという考えが、いつしか錯覚として人びとの脳裡を占めるようにもなっていった」のだとする。

・そして、あくまでも出雲は、神話の裏方として便宜上選ばれただけのことだということを、忘れてはならない、と強調する。

※また、石母田正は、記紀神話が出雲を取り上げた理由のひとつに、西暦645年の大化の改新以降、中央集権化が進み、地方に対する支配力が強まったことを挙げている。
 たとえば、斉明5年(659)には、出雲国造に厳神宮(いつくしのかみのみや)(島根県松江市の熊野大社)の修理が命じられたように、ヤマト朝廷は出雲との間に強い関係を築き上げていた。そして7世紀の壬申の乱が、大きな意味をもっていたのではないか、としている。
 天武元年(672)6月から翌月にかけて、古代日本を二分した骨肉の争いが演じられた。これが壬申の乱で、このなかで、出雲神が唐突に出現している。
 高市郡の大領・高市県主許梅(こめ)が、金綱井(かなづなのい、奈良県橿原市今井町付近)に陣を張っているときのこと、突然口がきくことができなくなってしまった。
 3日後、許梅が神がかり(トランス)状態になった。
 すると、出雲神・事代主神(ことしろぬしのかみ)が現われ、
「神武天皇陵に馬や兵器を奉納しろ」と命じた。
「そうすれば、事代主神は皇御孫命(すめみまのみこと、大海人皇子、のちの天武天皇)の行軍の前後に立ち、無事に東国に送り届けよう」というのである。
※石母田は、この事代主神の神託や、壬申の乱のなかで、出雲臣狛や三輪氏といった出雲とかかわりをもつ氏族が大海人皇子に荷担していたことが、神話の舞台に出雲が選ばれた大きなきっかけになったのではないかとする。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、40頁~45頁)

出雲は都から見て忌むべき方角にあった?


・「出雲」は観念的につくられたとしても、それは政治的な意味をもっていたのではなく、当時の「信仰」や「宇宙観」が大きな意味をもっていた、とする説がある。
・三谷栄一は、都から見た出雲の方角と当時の宗教観の関係を指摘している。
日本神話そのものは、古代氏族社会の崩壊期に、復古的なものと進歩的なものとの混沌のなかから生まれたものとする。
・また一方で、神話の原初的な姿を追えば、政治・宗教・文学・倫理を統一した祭祀(マツリゴト)に行き着くのであり、各地の各氏族の祭祀から生まれた文学(カタリゴト)を政治的意図をもって改作・潤色したのが、神話にほかならないとする。
(三谷栄一『日本神話と文学』歴史教育、昭和41年4月号)

※三谷は、出雲について、次のような推理を働かせている。
・出雲が記紀神話に占める割合が高いこと、さらには、大嘗祭に古詞(ふること)を奏する語部が、出雲をふくめて、ほとんどが西北の方角から選ばれているのはなぜかと問いかけた。
 西北(戌亥隅[いぬい])の方角は、「祖霊の去来する方角、鎮ります彼方」「祝福をもたらす方角」であり、稲作の豊饒をもたらす神々の去来する方角だ、とするのである。
 そして、ヤマト朝廷が版図を拡大し、日本海岸の最果てまで支配下においたとき、出雲は西北の端で戌亥隅信仰を反映し、祖霊の住む地、豊饒をもたらす地となり、他の地域にはみられない形で、神話に欠かせない場所となった、という。
(『日本神話の基盤』塙書房)
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、45頁~46頁)

出雲は実在した?


・出雲は中央でつくられた観念ではなく、実際に存在した、とする説もある。
 古代の日本を支配する立場にいたのは「天孫種族」で、その次は地祇(ちぎ)=土着の神の後裔としての出雲系統の民族だった、と喜田貞吉は単純に割り切った。
 
・では、記紀神話にある天孫族の故地・高天原を、喜田はどこに比定したのだろう。
 考古学や科学的材料の揃っていない戦前の論究ながら、言語や神話の似通いから、天孫族は、朝鮮半島、しかも扶余(ふよ)族なのではないか、と指摘している。
 そして、次のような日本人形成の過程を推理している。
 日本にはそもそも、アイヌ系の人びとが住み、弥生時代には、マライ人種に属する「隼人(はやと)」が上陸し、アイヌ族(蝦夷)を東北に駆逐した、とする。そして隼人らは、そのあとにやって来る天孫族と同化・融合し、今日の日本人ができあがった、という。
 
・では、この場合、神話に登場した「出雲」をどう考えればいいのか、ということになる。
 喜田は、まず紀伊(和歌山県)方面で、出雲地方と同じような伝承が伝わっていること、天皇家の初期の皇后が「出雲系」であったことに注目した。
 これらの例から、「出雲民族」は出雲だけにいたわけではなく、要するに彼らこそが、蝦夷らを駆逐した先住民(蝦夷よりあとだが天孫族よりも先に住んでいた、という意味)なのであって、まず大和の出雲民族が天孫族と同化・融合し、さらに大和勢力はしだいに外縁部を併合していったとする。
 
・そこで喜田は、
  大国主神の国譲りの伝説は、同様の事蹟が繰返し各地において行われた事実に関する、代表的説話と解すべきものなのである
(『喜田貞吉著作集8』平凡社)と述べている。
※論証の内容はともかく、かなり早い段階で出雲は実在したと唱えた点、貴重な意見といえるとする。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、46頁~48頁)

出雲氏族が交替していたとする説


・次に、井上光貞や上田正昭らの「出雲氏族交替説」を解説している。
 出雲神話の原形は、出雲の東西二大勢力(熊野神社と意宇川流域一帯の東部、杵築大社と簸川(ひのかわ)流域一帯の西部)の間で交わされた壮絶な闘争という史実があって、そのいきさつが中央で取りあげられ、神話化されたものだ、とする。
・このような発想が生まれる背景には、古代出雲を二分する東西の温度差、というものがある。
 それは、古墳の分布、神社の分布密度などからしても、はっきりしている。
 上田は、代表的な出雲の伝承も、以下のように分類し、東西に色分けしている。
①神代巻の出雲平定
②崇神朝の出雲神宝の物語
③『出雲国造神賀詞(かむよごと)』
④斉明五年紀の出雲国造による厳神宮(いつくしのかみのみや、熊野大社)の修理

➡このなかの①と②が西部の「杵築」、③と④が東部の「意宇」との関わりで語られていることに井上は注目している。
 「杵築」に関わる①と②の話の共通点は、天孫族や朝廷の要求に対し、一族のひとりは帰服、他は抵抗をつづける、ということである。
 また、事件の終結が、武力による祭祀権の収奪であるとする。
(『井上光貞著作集 第四巻』岩波書店)
そして、ほとんど似たような強圧的に征服されるという話の繰り返しに、何かしらの史実が背景に隠されていてもおかしくないと指摘する。
 これに対し、③と④の「意宇」に関わる説話には、「杵築」の朝廷への帰服記事はあっても、「意宇」の帰服はまったく欠如し、むしろ「意宇」が朝廷寄りの匂いを漂わせているという。
➡このことから、井上は、「出雲平定」とは、「杵築」の平定であって、「意宇」は関わりないとする。そして、この「意宇」の勢力こそが出雲国造家であったところに問題がある、という。

・また、杵築大社(現在の出雲大社)の所在地・杵築郷では、(知られる限りにおいて)氏族構成と呼べるものがなく、すべてが部姓であり、「〇〇部臣」といった、支配階級が存在しないという事実も、出雲の東西の支配・被支配の関係を明らかにしている、という。
 つまり、出雲神話とは、歴史時代に入ってから、杵築一帯を支配していた勢力を意宇の勢力が滅ぼし、これが国造(出雲氏)になった因縁を神話化したものにほかならないとする。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、48頁~53頁)

有力視される巫覡信仰宣布説

 
・青木紀元は、記紀神話のなかで「出雲」は重要な地位を占めるが、それはヤマトの対立者として設定された観念上の神話にほかならない、とする。
 そして、なぜ出雲が選ばれていったのか、その理由を、「巫覡(ふげき)信仰宣布説」を用いて説明している。
(『日本神話の基礎的研究』風間書房)

・出雲神話出現の契機は、出雲に起こった「オホナムチ信仰」(オホナムチは大己貴神[おおなむちのかみ]、大国主神[おおくにぬしのかみ])の宗教的勢力の活動抜きには考えられない、とする。
 この勢力は出雲のみならず、他の地域にも進出していたはずで、その証拠のひとつが、『播磨国風土記』の大汝命(おおなむちのみこと、オホナムチ)の活躍にみられるという。
(オホナムチを祀る神社が出雲のみならず、日本各地に広がっている)
・では、なぜオホナムチ信仰が広がる余地があったのかといえば、『日本書紀』神代第八段一書第六の次の一節が重要なヒントになってくるとする。
 それによれば、大己貴神と少彦名命は、力をひとつにあわせて、天下をつくったとあり、また、人と家畜のために、病気の治療法を確立した、とある。
 さらに、鳥獣や昆虫の災いを祓うためのまじないの法を定めた。
 このため、今にいたるまで、人びとはその恵みを享受している、というのである。

※オホナムチは、病気を治す神、ということである。
 このことは、『古事記』の稲羽(いなば)の素兎(しろうさぎ)説話からもはっきりしている。このなかでオホナムチは身ぐるみはがされたウサギに、適切な治療法を伝授していた。

※青木は、この「病気を治す」というオホナムチ特有の「機能」こそ、「普遍的」であり、部族社会を地盤とし、氏族集団を主体としていた封鎖的な古代信仰に、風穴を開ける新興宗教としての力を得たのではないか、とする。
 逆に、皇祖神天照大神の信仰を前面に押し立てていたヤマト朝廷にすれば、この出雲の信仰は脅威になり、政治問題にまで発展したのではないかとする。
 出雲国造を中心とする政治勢力そのものは恐ろしくないが、各地に広まったオホナムチ信仰こそが頭痛の種、というわけである。
 つまり、出雲の国譲り神話とは、このような天照大神信仰とオホナムチ信仰の対決に対するヤマト朝廷側の解決策であったという。

※そして、神話のなかでオホナムチに「大国主神」という偉大な国の主の神という性格をあえて与え、この神が国を譲ったという形にして、反ヤマト勢力の服従のみならず、オホナムチ信仰が天照大神信仰に屈服したという物語を構築し、神々の秩序化をはかったということになる。
 たとえば、信州諏訪で祀られている出雲神・建御名方神(たけみなかたのかみ)も、オホナムチ信仰と無縁ではないとする。
 建御名方神は諏訪土着の神であるにもかかわらず、出雲の国譲りで最後まで抵抗した神として『古事記』に描かれたことになる。これは、オホナムチ信仰が信州に伝播していたなによりの証拠であり、だからこそ神話化されて、建御名方神を出雲の神に仕立て、服従させたのだろう、と青木は推理した。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、53頁~56頁)

出雲にまつわる諸説の長所と短所


〇松前健は、『出雲神話』(講談社現代新書)のなかで、出雲神話にまつわる諸説を、三つに分類し、それぞれの長所と短所を指摘している。
①高天原と出雲の対立の神話は、歴史とは無関係な、中央貴族の理念的産物である。
 津田左右吉や唯物史観をとる学者
※これに対し、松前は、出雲世界が高天原の裏として死や冥府(めいふ)に結びついたという特性は説明できるが、出雲土着の神々が記紀神話に登場する事実を説明できないという欠点を持つと指摘している。

②天つ神系諸族と、国つ神系諸族の対立のような、二つの勢力の対立が実際にあった。
 喜田貞吉(きださだきち)や高木敏雄らの「民族闘争説」
※だが、松前は、全国各地の出雲系神社や出雲系氏族の分布を説明するのに適しているが、その具体的な対立の時期や事情がはっきりしないと指摘する。

③現地の出雲では、小規模の勢力の局地的交替があったが、朝廷でこれを大きく取りあげて、全国的なスケールにしたてた。
 井上光貞や上田正昭らの「出雲氏族交替説」
※これは、ヤマト建国後の出雲の内部闘争であり、考古学や文献資料によって、ある程度検証可能である。
 したがって、多くの歴史学者や考古学者がこの説を支持している。
 だが、これだけでは、出雲神が大きな霊格として『古事記』『日本書紀』に取りあげられた理由が説明できない、と松前はいう。

<松前の見解>
・このように三つの説を概観した上で、出雲神話そのものが複雑な成立過程をたどって成長したのだから、このなかのどれかひとつの説が正しいというのではない、とする。
 ただし、三つの説のどれにも含まれない巫覡(ふげき)信仰説をそれぞれに当てはめれば、すべての説を一元化して説明できる利点がある、とする。
・たとえば、出雲が「観念」にすぎないとする説が根強いが、では、なぜ神話のなかに、出雲土着の神が登場したのかといえば、出雲の巫覡らの信仰圏を特殊視し、高天原に対立的な世界と考えたとすれば、すんなり説明がつく、と指摘した。

・さらに、東西の出雲で勢力争いがあったとしても、なぜそれが中央の神話に取りあげられたのかといえば、巫覡らの最高支配者としての出雲大社の司祭職の交替があったから、と考えれば矛盾はなくなる、という。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、57頁~60頁)

出雲が祟る意味


・出雲神が祟ると『古事記』が記した意味は、けっして小さくない。
 まず第一に、話のなかで、本牟智和気(ほむちわけ)が出雲神に祟られるいわれはなかった。
 それにもかかわらず、口がきけなかったのは、ヤマト朝廷全体が出雲に祟られる要因を抱えていた、ということである。
(祟りは、「やましい気持ち」の裏返しである)

・ヤマト朝廷が出雲に対し、やましい心をもっていたというのは、過去において、出雲に対して何かしらの恨まれる行動を起こしたからにほかなるまい。
 ヤマト側の勝手につくりだした観念上の「悪」が「出雲」であるとするならば、本牟智和気の障害が「出雲の祟り」と思いつくはずもないからである。
 さらに、「祟る神」は、日本の神の本来の属性だった。

※多神教は、万物に精霊が宿るというアニミズムから派生したもので、唯一絶対の神が地球を支配するという一神教とは、根本的に発想を異にする。
 特に、対立し対決する善と悪は表裏一体の二面性として捉えられている。
 その最たるものが「神」の属性であって、神は祟りをもたらす恐ろしい存在であるとともに、恵みをもたらす者でもあった。
 だから、人びとは、神が祟らぬように、ひたすら祈り、祀りつづけた。
 このように、日本の神は「神」と「鬼」の属性を兼ね備えていた。
 出雲神が祟り神と恐れられたということは、出雲神こそが、最も「神らしい神」「神のなかの神」という認識を、ヤマトの人たちが抱いていた可能性を示唆する。
(記紀神話が、朝廷と天皇の権威を高めるために創作された物語だとすると、どうにも腑に落ちないといったのは、このような「出雲」の存在があるから)

・「出雲」が、6世紀から8世紀にかけて、ヤマトで編み出された偶像だということになる。
 だが、その偶像に、どういう理由でヤマト朝廷が怯え、祀り、讃えなければならなかったのだろう。
 「恐ろしい出雲」には、しっかりとした証拠(歴史)があり、だからこそ8世紀の朝廷は、その真実を闇に葬ってしまったのではあるまいか、と著者は考える。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、65頁~67頁)




第二章

四隅突出型墳丘墓の謎


・出雲の奇妙な墓の存在は、すでに昭和45年(1970)頃に知られていた。
 基本的には長方形や正方形なのだが、その四隅に、舌のようなヒトデの足のような奇妙な出っ張りがある。
・大きいものでは、一辺が40メートルほどもある。
 また、斜面に貼石(はりいし)を伴うことが多い。この貼石が、前方後円墳の「葺石(ふきいし)」となっていた可能性が高い。
 これが、弥生時代後期、出雲を中心に、越(こし)にいたる日本海側につくられた四隅突出型墳丘墓である。

・一辺40メートル以上の墳丘墓は、西谷三号墓、西谷四号墓、西谷九号墓と名づけられているが、なかでも西谷三号墓は、唯一発掘されたことで名を挙げた。
 四隅の形が一番はっきりしていたことから、この西谷三号墓に、白羽の矢が立った。
・山陰地方の巨大な四隅突出型墳丘墓は、この出雲市大津町の西谷墳丘墓群のほかに、島根県安来市塩津墳墓群、鳥取県鳥取市西桂見墳墓群が知られる。

※そして、西谷三号墓を含むこの墳墓群が残した問題は、二つある。
①出雲と「海」のつながりである。
②出雲の「王の誕生」である。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、86頁~88頁)

出雲に残る濃厚な海の信仰


〇「出雲と海」について考えてみよう。
・西谷墳墓群の所在地と海は密接な関係にある。
 現在では、出雲平野を貫通し、宍道湖に抜ける斐伊川だが、太古には、平野に降りてから流れを東ではなく西に向け、『出雲風土記』に見える神門(かむど)の水海を通って日本海に注いでいた。
・その神門の水海は、日本海に突き出た「潟(かた、ラグーン)」という天然の良港であり、古代日本海の海運を考える場合、重要な意味をもってくる。
 朝鮮半島南部の海岸地帯から舟を漕ぎだし、西南から流れくる対馬海流に乗れば、至極簡単に、神門の水海にたどり着いたであろうことは、想像に難くない。

・かつてなかった巨大な首長墓「西谷墳墓群」の出現は、神門の水海の存在なくしては、ありえなかっただろう。
 実際、出雲の神々は、「海」や「水」の要素で満ちている。
 出雲の冬は、北西の季節風が厚い雲を日本海から運び込む季節でもある。
 11月の半ば前後、空の色と海の色は、一気に変わり、これを地元では、「お忌み荒れ」といっている。

 そして、この頃、出雲大社(杵築大社)最大の祭りで、日本中の神が出雲に集まるという、神在祭(かみありまつり)が行なわれる。
 神在祭は、沖合から海蛇が到来しなければならない。
 ここにある「海蛇」は、黒潮に乗って遥か南方海域からこの時期に必ずやって来る、セグロウミヘビで、出雲の人びとは、これを竜神のお使いと信じ、崇めている。

・出雲大社の背後の山を、かつては「蛇山」と称していたが、それは出雲の人びとの蛇に対する信仰の篤さを物語っている。
 また、出雲大社ばかりでなく、周辺の日御碕(ひのみさき)神社や佐太(さだ)神社、美保神社といった出雲を代表する神社の多くが、海蛇を「竜蛇さま」と呼び、丁重に祀っていた。
(現在では、佐太神社で竜蛇信仰が色濃く残っている)

※蛇は中国から竜神思想が伝わる以前の原始的な信仰形態といってよく、両者は習合していくが、日本では縄文中期から、蛇を敬う伝統をもつようだ。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、88頁~90頁)

呪術を用いて海に消えた出雲神・事代主神


・出雲と海蛇のつながりは、中央にも知れ渡っていたようだ。
 垂仁天皇の段の、例の口のきけない本牟智和気(ほむちわけ)の話である。
 出雲の祟りとわかり、本牟智和気は出雲に出向き、大神の宮を拝したので、言葉を発すことができるようになった、という話である。

・この場面で、本牟智和気は出雲の、肥長比売(ひながひめ)と結ばれるのだが、そっとその姿を見てみると蛇だった。
 驚いた本牟智和気が思わず逃げ出すと、肥長比売は悲しんで海原を照らして追って来た。
 いよいよ恐ろしくなった本牟智和気は、そのままヤマトにまで逃れてきたという。

※出雲の海蛇が強烈な印象として伝わっていたのは、出雲と「海・水」がつながっていたからである。

・出雲と海のつながりを考える上で興味深いのは、加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸のなかで、出雲固有と思われる代物のなかに、「海亀」の絵が描かれていたことである。
・銅鐸に描かれる「亀」は一般的にはスッポンで、出雲の海亀は、例外中の例外だった。
 海亀を描いた銅鐸が出雲で発見された意味は大きい。
 それほど出雲と海は密接につながっている。
 出雲が海蛇を敬うのは、出雲が「海の国」だからである。

・島根半島の東のほぼ突端、松江市美保関町美保関の美保神社で行なわれる青柴垣(あおふしがき)神事のクライマックスは、頭屋(とうや、神籤によって順番に神に仕えることが決まり、頭屋は長い年月潔斎(けっさい)をし、神を祀る)らが沖合に舟を漕ぎだし行なわれる。
 ちなみに、このとき同行する頭屋の妻女の出で立ちは、葬式の礼装そのものとされる。
 なぜ、神聖な祭りのなかで、神を葬る仕草をしているのだろう。
 実は、この祭りは、出雲神話を再現しているのだという。

・出雲の国譲りに際し、事代主神(ことしろぬしのかみ)は天つ神に恭順した。
 そして国を献上するといい、自らは、船を踏み傾けて、天の逆手(さかて、呪術的あ動作。手の甲と甲を合わせたものか)を打って船を青柴垣(青い柴の垣で、神のこもる場所を示している)にして、隠れてしまったのだという。

※事代主神は呪術を用いて入水(じゅすい)して果てた。
 海に沈んだのは、出雲の神が水とかかわるからである。
 出雲が「水・海」と強烈につながっている意味は大きい。
 そして、弥生時代の後期に、なぜ出雲の西部に、巨大な四隅突出型墳丘墓が登場したのか、その理由を知る上でも、出雲と「海・水」の強烈なまでのつながりを、無視することはできない、と著者はいう。
 つまり、西谷墳墓群は、この斐伊川と神門の水海に育まれた、流通を支配する首長の墳墓だった、と推測がつくという。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、90頁~94頁)

出雲の謎を解く鍵は「祟り」


・記紀神話の出雲の国譲り説話が、大きな意味をもってくる。
 というのも、神話にしたがえば、出雲の神々は、天つ神が高天原にいた頃、せっせと国づくりに励んだということになっている。
 ところが、ようやく国の基礎が固まった頃、天つ神たちは、国譲りを強要したというのだ。
 出雲神の命運を託された事代主神(ことしろぬしのかみ)は、天つ神に恭順したけれども、天の逆手という呪術をほどこして、海の底に消えていったという。
 この呪術は、乗っていた船を青柴垣(あおふしがき)に替えてしまう呪術で、その青柴垣のなかに、事代主神は隠れるようにして消えていく。

※出雲神は、天つ神の法外な要求に、それほど従順だったのではないという。
 少なくとも、事代主神の消え方には、何かしらの怨みの恐ろしさを感じずにはいられない。そういう不気味な最期である、と著者がいう。
 たとえば、大国主神は、事代主神の事件の後、やはり天つ神に恭順するが、条件をひとつ付けている。
 それは、自分の住処をつくれ、ということで、しかも、天つ神の宮と同じように、宮柱を太く建て、氷木(ひぎ、千木)を高々と揚げてほしい、というのである。
 つまり、大国主神は、「宮をつくり、わたしを祀るのなら、国を譲り渡してもいい」といって、天つ神を脅し、強請(ゆす)っているわけである。
(『古事記』の表現は、どうにもまどろっこしいが、要するに、出雲の神を祀らなければ、祟りに遭う、ということをいっているとする。その証拠に、実際に出雲神は頻繁に祟って出ている。
 垂仁天皇の皇子が言葉を発しなかったのは、出雲神の祟りであったと記録されていた。
 そして、第十代崇神天皇の時代、天候不順と疫病の蔓延に苦しめられたが、出雲神・大物主神を祀ってみると、世は平穏を取り戻したという)

※弥生時代後期の「出雲」は、けっして絵空事ではない。
 そうではないのに絵空事にしてしまったのは、8世紀の朝廷である。
 そして、ヤマト建国とともに、出雲は没落していった疑いが強い。
 『日本書紀』や『古事記』を以上のような観点から読み直せば、出雲の国譲りの後、出雲神は「幽界」に消えてしまい、以後、人びとは出雲神の祟りに怯えはじめた、という。
 出雲の謎は、出雲の国譲りをめぐる謎解きに進んでいく。
 出雲を解くヒントは、祟りである、と著者はいう。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、127頁~130頁)



第三章 なぜ出雲は封印されたのか

『日本書紀』の歴史隠しの巧妙なテクニック


〇『日本書紀』が3世紀のヤマト建国、それに出雲の歴史を知っていたからこそ、これを抹殺し、あるいは神話の世界に封印してしまった可能性が高い、と著者はいう。

・そこで問題となるのは、『日本書紀』の歴史隠しの「テクニック」であり、ストーリー展開の裏側に秘められた、知られざる神話の「三重構造」なのである。
 『日本書紀』の完成は養老4年(720)で、当時の朝堂を牛耳っていたのは、乙巳(いつし)の変(皇極4年=645)の蘇我入鹿殺しのヒーロー中臣鎌足の子・藤原不比等(ふひと)であった。

・当然、藤原不比等の都合のいいように、『日本書紀』は編纂されたとみて、間違いない。
 歴史書が権力者にとって都合のいいように記されるのは当然のことである。だからこそ、『日本書紀』のなかで、中臣鎌足は、天下無双の英雄として描かれたわけである。 
 また、藤原氏の私的な文書『藤氏家伝(とうしかでん)』と『日本書紀』の間には、ほとんど伝承の食い違いが見られない。

・一般に、『日本書紀』は、編纂の発案者・天武天皇にとって都合のいい歴史書だと信じ込まれている。
 だがこれは大きな間違いで、正確にいえば、天武天皇の死後の政権を担当した持統天皇(天武の皇后でもあった)と、これを補佐した藤原不比等にとって都合のいい歴史書であった。このあたりの事情を勘違いしているから、いまだに7世紀から8世紀にかけての歴史が、解明されていないだけの話である、と著者はいう。

〇では、藤原不比等の目論見はいったい何だったのだろう。
 この人物は何を『日本書紀』に織り込んだというのだろう。

①まず第一に、藤原氏の出自をごまかし、新たな系譜を捏造し、正統性を獲得することであった。
 一言で表わすならば、藤原氏の祖は百済渡来人だった、という。
 だからこそ、文武天皇と藤原不比等の娘・宮子との間の子・首皇子(おびとのみこ、のちの聖武天皇)を即位させる正当性を証明し、強調する必要があった。
 初の「藤原腹」の天皇の誕生であり、律令と天皇、二つを支配しようと目論んだ藤原不比等の悲願である。

・さらに、藤原不比等を大抜擢することで、政敵を倒し即位した持統女帝からつづく王家の正統性を証明するために、天皇家の祖神に、女神・天照大神を据え、持統をこれになぞらえたという。
・それだけではない。
 神話の出雲の国譲りには、天照大神の黒幕に、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)なる神が登場するのだが、この神の役割が、まさに藤原不比等にそっくりで、系図にすれば、一連の神話の思惑は、一目瞭然である。
 天孫降臨神話のなかで、天照大神の子が最初降臨する予定だったのに、急遽孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に変更されたのも、持統の子が皇太子だった草壁皇子が即位することができないまま亡くなってしまったことの反映であろう、とする。

※このように、7世紀から8世紀にかけての皇位継承問題と神話は、まったく重なってくるのであり、神話の構成要素のひとつが、『日本書紀』編纂時の政権の正当化・正統化のための物語であったことは間違いない、という。

〇『日本書紀』の神話を構成する要素は、あと二つある。
②神話の「核」となる伝承で、いわゆる純粋な「神話」の原形である。
 それは、民間や古老の伝承であったり、ヤマトの語部が語り継いできたものかもしれない。
 また、気の遠くなるほど遠い地から伝わってきた不思議な話でもあったろう。
 もちろんこのような神話の「核」には、本来、政治性はなかったはずである。

③そして、もうひとつ、神話を構成する要素がある。それが、3世紀前後のヤマト建国をめぐる混乱……おそらく、実際に生きている「人間」が繰り広げたであろう愛憎劇であり、これをモチーフにし、また、8世紀の都合の悪い部分を改竄するために、神話に放り込んでしまった、歴史であるという。

〇それならば、「出雲」をめぐる神話のなかに、何かしらの史実が織り込まれている可能性はあるのだろうか。
 いや、出雲神話のなかにこそ、3世紀のヤマト建国にいたる悲喜劇が、秘められていたとしか思えないという。
 なぜこのように、著者が推理するのか。
 すでに、山陰地方で、ヤマト建国前後に遺跡が衰弱するという「出雲の国譲り」が現実に起きていたかのような物証が出現していたからである。
そして、さらにこの考えを強く後押ししているのは、人びとが「出雲は祟る」という共通の認識をもっていた、という一点である。
 そういう「常識」が通用していたからこそ、出雲信仰が発達し、出雲に巨大な神殿が建てられたと著者は考える。
(もし仮に、「出雲が祟る」という話を朝廷が勝手に創作し、この観念を喧伝していただけだとすれば、ここまで長い時間を経て、出雲が信仰の対象になることはなかったであろうし、執念を込めた巨大神殿など、だれもつくろうとはしなかったに違いないという)
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、152頁~156頁)

出雲神が祟ると信じられたきっかけ


・神話には、純粋で牧歌的なお伽話だけではなく、いくつもの悪意や政治的な思惑がない交ぜになっている。
 したがって、神話のひとつひとつが、どうして誕生したのか、慎重に判断する必要がある。特に、出雲神話には、何か秘密が隠されていそうな気配である。
 出雲の神が祟るという共通の認識ができあがる「たしかなきっかけ」というものがあった。すなわち、出雲が祟るにいたる、具体的な事件が起きていた、という。

〇そこで『日本書紀』に話を戻す。
 ここには、「裏切られ、乗っ取られる出雲」の話が繰り返し述べられている。
・まず、神話のなかで、出雲に天つ神が舞い降り、せっかく精魂こめてつくり上げた国土を譲り渡すように迫っている。
 出雲神はこの屈辱的な要求を、泣く泣く呑み、事代主神は呪術的な仕草で海の底に消え、大国主神は天皇と同じような宮を建ててくれるならばといって、幽界に去っていった。

※この話は、まさに天つ神側の侵略であり、出雲の敗北を暗示している。
 
・歴史時代に入っても、出雲はヤマト朝廷の非道な仕打ちを受けている。
 『日本書紀』崇神天皇60年の秋7月の条には、次のような話が載る。
 崇神天皇が群臣に、「武日照命(たけひなてるのみこと、出雲国造らの祖)が天からもってきたという神宝は、出雲大神の宮(杵築大社、あるいは熊野大社)に納められている。これを見てみたいものだ」
と述べて、矢田部造(やたべのみやつこ、物部同族)の遠祖・武諸隅(たけもろすみ)を遣わして、献上させようとした。
 このとき、出雲の神宝を管理していたのは、出雲臣(出雲国造家)の遠祖・出雲振根(いずものふるね)であった。
 ただし振根は、ちょうど筑紫国に行っていて不在だったので、弟の飯入根(いいいりね)が応対し、いわれるままに、神宝をヤマトに献上してしまった。
 出雲に舞い戻った出雲振根は、ことの経緯を聞き、弟に、
「なぜ数日待てなかったのだ。何を恐れ、簡単に神宝を渡してしまったのだ」
といい、なじった。
 それからしばらく日時がたったが、振根の気持ちは収まらない。ついに、弟を殺してしまおうと考えた。
 そこで、弟を欺こうと、
「この頃、止宿(やむや)の淵(島根県出雲市の旧斐伊川の淵か)にいっぱい水草が生えている。いっしょに行ってみてみないか」と誘った。
 弟はなんの疑いももたず、兄にしたがった。
 振根は密かに真刀(またち、本当の刀)にそっくりな木刀(こだち)をつくり、これを腰にさしていた。かたや弟は真刀をもっている。
 二人が淵にいたったところで、振根は弟に、
「水がきれいで気持ちよさそうだ。いっしょに水浴びをしようではないか」
ともちかけた。
 二人は刀を置き、水を浴びた。振根は先に上がり、弟の真刀をとり、腰に着けた。弟は驚き、もう片方の刀(木刀)をとり、応戦しようとした。しかし、刀は偽物で抜くことはできず、弟は打ち殺されてしまった。
※人びとは弟の飯入根の死を悼み、次のような歌を詠った。
 や雲立つ 出雲梟帥(いづもたける)が 佩(は)ける太刀 黒葛多巻(つづらさはま)き さ身無(みな)しに あはれ
(出雲建の佩いていた刀は、葛をたくさん巻いてあったが、中身がない偽物で気の毒であった)

・ちなみに、振根の名が出雲梟帥(出雲建)にすりかわっているのは、もともとこの説話が倭建命(やまとたけるのみこと、日本武尊)伝承を拝借したものだからだろう、という。
(倭建命と出雲建の対決の話は、後述)
 それはともかく、この事件は、すぐに朝廷に報告された。
 さっそく、吉備津彦(四道将軍のひとり、第七代孝霊天皇の皇子)と武渟河別
(たけぬなかわわけ、やはり四道将軍のひとり)が派遣され、出雲振根は殺されたという。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、157頁~161頁)



第四章 出雲はなぜ祟るのか

『日本書紀』は何を隠してきたのか


・『日本書紀』は、同じ事件、同じ人物の話を別の形にすり替え、繰り返し語っていた。
 では、なぜそのような手の込んだことをしたのかといえば、「隠さなければならない歴史」があったからであろう、と著者は考える。
〇問題は、『日本書紀』が何を隠し、改竄してしまったのか、にある。

・これまでのいきさつ上、大きなヒントがある。
 それは、ヤマト建国に、出雲が大きくかかわっていた、ということであり、しかもその事実を、『日本書紀』は神話として認めていたが、「歴史」としては認めていなかったことである。
・そして、ここで、もうひとつのヒントに気づかされる。
 いま、神功(じんぐう)皇后は、ヤマトから遣わされたトヨ(台与)ではないかと疑っている。
 しかも神功皇后は、越(こし)から出雲を経由して北部九州に入ったというのである。
 とするならば、神功皇后こそ、ヤマト建国時の「出雲」の動きを象徴していたのではないか、ということである。

・ただそうなると、ここで新たな謎が生まれる。
 というのも、『日本書紀』にしたがえば、神功皇后は北部九州に攻め込み、その後反転し、新羅に向かい、かの地を平定し、北部九州にもどって応神を産み落とし、そこから瀬戸内海を東に向かい政敵を討ち滅ぼし、ヤマトで摂政となり君臨している。
 とするならば、神功皇后も「出雲」も歴史の勝者であったことになる。

・ところがどうしたことであろう。
 出雲も神功皇后も、ヤマト建国にたずさわったものどもも、みな祟って出ているのである。
 「出雲」が祟って出ることは、すでに触れた。そして、神功皇后や応神天皇、神武天皇に崇神天皇と、ヤマト建国伝承をもつものたち全員の漢風諡号(しごう)に「神」の名が冠せられ、これが「神のように立派」だったからではなく、「神(鬼)のように恐ろしかったから」であった。
(関裕二『呪いと祟りの日本古代史』東京書籍)
※「神」と「鬼」は同意語であり、古代においてはむしろ「祟る鬼(モノ)」としての意味が強かった。事実、神功皇后は平安時代にいたっても、祟る神と信じられていた。

・なぜ「出雲」を筆頭に、ヤマト建国の功労者たちは、後世祟って出ると信じられたのだろう。
 そして、なぜ『日本書紀』は、彼らの本当の姿を抹殺し、「祟る理由」を『日本書紀』の記述から消し去ってしまったというのだろう。

・『日本書紀』は、神話のなかで、「出雲の国譲り」を用意していたではないかと、人はいうかもしれない。たしかに、この話のなかで、出雲神たちは、天つ神たちの強圧的な態度の前に屈し、屈辱的な最期を迎えている。だが、神功皇后の行動と出雲の国譲りが、どこでつながっているというのか。

・神功皇后が出雲とかかわりのある人物であるという仮説ならば、祟る出雲と祟る神功皇后のつながりを証明しなければなるまい、という。
 だいたい、なぜ歴史の勝者である神功皇后が祟るのだろう。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、219頁~222頁)



第五章 明かされた真実

武内宿禰のまわりに集まるそっくりさん


・『日本書紀』編纂の最大の目的。それは、蘇我氏の正体を抹殺し、蘇我氏の燦然と輝く活躍を闇に葬り去ることだったという。
 そのために割を食ったのが「出雲」である。
 ヤマト建国に貢献しながら、神話の世界に封印されてしまったとする。
 蘇我氏の祖の武内宿禰(たけのうちのすくね)が神功皇后の忠臣として縦横無尽に動き回っていたことは、『日本書紀』も認めている。
 ただ、藤原氏の武内宿禰に対する態度は、「微妙」である。
 藤原不比等は『日本書紀』のなかで、蘇我氏の祖を特定することを怠っている。
 『古事記』は武内宿禰が蘇我氏の祖だったと指摘しているが、『日本書紀』は、この伝承を無視している。つまり、武内宿禰と蘇我氏の縁を、断ち切っている。 
 もちろん、通説は、蘇我氏がヤマト建国以来つづいた名家とは考えていないから、武内宿禰と蘇我氏のつながりに関心を示さない。
 第一、武内宿禰自体、伝説上の人物であり、実在したわけではないと、高をくくっている。

・たしかに、武内宿禰の素性は怪しげだし、三百歳の長寿という話も、信じるわけにはいかない。武内宿禰は、どこから見ても、「神話」なのである。
 だが逆に、少なくとも歴史時代に入ってから登場した人物であるならば、神格化されたこと自体に、『日本書紀』の作為を感じるという。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、272頁~275頁)

そもそも武内宿禰とは何者なのか


・武内宿禰は景行、成務、仲哀、応神、仁徳の五代の天皇に仕え忠誠をつくしたことで名高いが、武内宿禰が最も活躍したのは、神功皇后の時代だった。
 特に北部九州からヤマトに向かう応神天皇に常に付き従い、政敵追い落としに一肌脱いでいる。
 武内宿禰が伝説上の人物であり、蘇我氏か藤原氏によって、7世紀ごろ創作されたのではないかといわれるひとつの理由は、この人物が人並はずれた長寿だったといい伝えられているからである。

・ところで、『日本書紀』仁徳天皇五十年春三月の条には、武内宿禰を名指しした、次のような歌が載る。
 たまきはる 内の朝臣(あそ) 汝(な)こそは 世の遠人(とほひと) 汝こそは 国の長人(ながひと) 秋津嶋倭(あきづしまやまと)の国に 雁産(こ)むと 汝は聞かすや
(大意:武内宿禰よ。あなたこそこの世の長生きの人だ。この国一番の長生きの人だ。だから尋ねるが、この国で雁が子を産むと、あなたは聞いたことがありますか)

※このように、武内宿禰は当時を代表する「老人」なのである。
 伝説によれば、三百年近く生きたという。

・だが、武内宿禰が三百年を生きつづけたという言い伝えを、たんなる創作上のいたずらとすましておくべきではない、と著者はいう。
 なぜなら、三百歳といえば、浦島太郎(浦嶋子[うらしまのこ])を思い出すからである。
 浦島太郎は、『風土記』『万葉集』『日本書紀』と、ありとあらゆる古文献が、浦島太郎について黙っていられなかった。
 しかも『日本書紀』では、「詳細は別冊に書いてある」といい、特別に浦島太郎のために、一巻を割いたと註記しているほどなのである(もっとも現存しないが)。
 そう考えると、「浦島」は「神話」のなかでも特別な神話だったことがわかる。

・浦島太郎伝承のあらすじ。
 『丹後国風土記』の内容は、今日に伝わる浦島伝承とほぼ同じで、亀(亀比売[かめひめ])に乗って竜宮城(海神[わたつみ]の宮)に行ったこと、三年後にもどってきたが、あたりの景色は変わっていて、実は三百年も時間がたっていたこと、開けてはいけないという玉匣(たまくしげ)を開けたら、浦島は老人になってしまった、というものである。

※この話は、丹後半島の籠(この)神社の周辺で語り継がれていた可能性があるが、籠神社の祭神に豊受大神(とようけのおおかみ)がいて、「トヨとのつながり」という点で興味深いのは、豊玉姫(とよたまひめ)の活躍する海幸山幸神話と浦島太郎伝承がそっくりなことである。
 海幸山幸神話のなかで山幸彦を海神の宮に誘うのは塩土老翁(しおつつのおじ)で、この神は天つ神を嚮導(きょうどう、みちびく)する、という性格をもつ。塩土老翁は字のごとく、「老人」のイメージで、これは玉匣を開けてしまった浦島太郎と通じる。
 また、「老人」といえば武内宿禰を思い出す。
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、279頁~282頁)

武内宿禰と浦島太郎が三百歳だった意味


・塩土老翁は、山幸彦を竜宮に誘うに際し、無目籠(まなしかたま)を用意した。籠は亀甲紋であり、亀のイメージである。どうみても、海幸山幸神話は、浦島太郎のパクリである(逆かもしれない。どちらが焼き直したのかはわからない)。
 浦島とそっくりな塩土老翁も曲者で、神武天皇がまだ日向にいたときのこと、東の方角に国の中心に相応しいヤマトの地があることを報告している。神武が重い腰を上げたのは、塩土老翁の言葉を信じたからである。
 応神が北部九州からヤマトに向かったときは、神武東征のときと同じように、ヤマトの近辺に政敵が待ちかまえていたが、応神を守りヤマトに導いたのは、老人のイメージの強い武内宿禰であった。

・『古事記』によれば、神武がヤマトに向けて船を進めていたときのこと、あちらから奇妙な男がやって来たとある。その男は亀の甲羅に乗り、釣り竿をもってやって来た。
(なんの酔狂か、これも浦島太郎のパクリか。なぜ神武東征に浦島太郎が出現したのだろう。)
・『万葉集』によれば、浦島は墨江(すみのえ)の人であったという。
 墨江とは、大阪の住吉大社の鎮座する地で、住吉大神の別名は塩土老翁という。
(また、神武の前に現われた男が浦島に似ているのは、要するにこの男が塩土老翁だったからではなかったか、という。
 つまり、神武は日向の地で塩土老翁に誘われ、航海中も、塩土老翁に手を引かれていたと考えるとすっきりする。)
(関裕二『「出雲抹殺」の謎』PHP文庫、2007年[2011年版]、282頁~284頁)




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