(2024年6月9日投稿)
【はじめに】
歴史学とは何ですか?と真正面から問われると、ふつう、答えに窮する。
私自身、大学では史学科の専攻であったが、いざ、このような問いかけを第三者からされると、やはり、困ってしまう。
そこで、今回のブログでは、次の著作を参照にして、歴史学とは?という問いについて、考えてみたい。
〇小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年
著者は、下記のプロフィールにあるように、大学の経済学部を卒業し、専攻は社会経済史である。そして、フランス近代社会についての専著がある。
歴史学については、次の二つの問題をめぐって、議論が進められている。
①史実はわかるか
②昔のことを知って社会の役に立つか
このことに関連して、構造主義(言語学者のソシュール)、社会学、政治学などの諸科学の議論も取り上げているのが、本書の特徴である。
歴史学に限らず、科学を学ぶことの意味や意義について、「コモン・センス」(個人の日常生活に役立つ実践的な知識)や「懐疑する精神」と「驚嘆する感性」を身につけ、つねに批判的な姿勢をとりつづける人びとを生み出すことに、著者は求めている。(192頁~194頁)
どのような議論をへて、このような結論に達したのか、紹介してみたい。
【小田中直樹(おだなか・なおき)氏のプロフィール】
・1963年生まれ。東京大学経済学部卒業、同大学院経済学研究科。博士(経済学)
・東京大学社会科学研究所助手を経て、現在、東北大学大学院経済学研究科助教授。
専攻は社会経済史。
<おもな著作>
・『フランス近代社会 1814~1852』(木鐸社)
・『歴史学のアポリア』(山川出版社)
・『ライブ・経済学の歴史』(勁草書房)
【補足】
・社会経済史を専攻した学者であるから、「第3章 歴史家は何をしているか」の「Ⅱ日本の歴史学の戦後史「比較経済史学派」の問題設定」での大塚久雄の解説には、説得力がある。(153頁~156頁)
・「あとがき」で、この本を妻にささげるとある。Merci de tout cœur! というフランス語でしめくくるあたりに、フランス近代社会が専門であることがあらわれている。(201頁)
【小田中直樹『歴史学ってなんだ?』(PHP新書)はこちらから】
小田中直樹『歴史学ってなんだ?』(PHP新書)
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
〇はじめに
〇序章 悩める歴史学
<歴史学の意義とは何か>
〇第1章 史実を明らかにできるか
<歴史学は根拠を問いつづける>
<さらに難問は続く>
<史料批判は必須>
<実証主義への宣戦布告>
<「構造主義」のインパクトとは何か>
〇第2章 歴史学は社会の役に立つか
Ⅰ 従軍慰安婦論争と歴史学
Ⅱ 歴史学の社会的な有用性
<「日本人」は一つの空間を共有してきたか>
<アイデンティティを再確認する>
〇第3章 歴史家は何をしているか
Ⅰ高校世界史の教科書を読みなおす
<教科書と歴史家の仕事>
Ⅱ日本の歴史学の戦後史
<「比較経済史学派」の問題設定>
<「近代人の形成」という問題>
<社会史学の出現>
Ⅲ 歴史家の営み
<歴史家の仕事場>
<歴史像には「深さ」のちがいがある~美術史学の営み>
〇終章 歴史学の枠組みを考える
<「物語と記憶」という枠組み>
<「通常科学」とは何か>
<「コモン・センス」とは何か――新しい「教養」>
<「通常科学とコモン・センス」という枠組み>
〇「あとがき」より
〇小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年
【目次】
序章 悩める歴史学
「パパ、歴史は何の役に立つの」
シーン①ある高校の教室で
シーン②ある大学の教室で
シーン③ある大学の学長室で
歴史学の意義とは何か
第1章 史実を明らかにできるか
Ⅰ歴史書と歴史小説
歴史書と歴史小説のちがいとは
史実かフィクションか
テーマや文体か
叙述か分析か
ケーススタディ・五賢帝時代
歴史学は根拠を問いつづける
Ⅱ「大きな物語」は消滅したか
解釈と認識
歴史が終わると歴史学は困る
かつての「大きな物語」――マルクス主義歴史学
ぼくらは相対化の時代を生きている、らしい
最近の「大きな物語」①民族の歴史ふたたび
最近の「大きな物語」②大衆社会の出現
「より正しい」解釈を求めつづけるということ
Ⅲ「正しい」認識は可能なのか
さらに難問は続く
史料批判は必須
実証主義への宣戦布告
「構造主義」のインパクトとは何か
歴史家は困ってしまった
ほかの科学は大丈夫か
認識論の歴史をちょっとふりかえる
「コミュニケーショナルに正しい認識」という途
歴史学の存在可能性
第2章 歴史学は社会の役に立つか
Ⅰ従軍慰安婦論争と歴史学
従軍慰安婦論争を読みなおす
従軍慰安婦の存在証明の試み
戦争責任の問題はぼくらを動揺させた
古くて新しい「新自由主義史観」
国民の歴史は物語であり、フィクションだ
従軍慰安婦論争の複雑さ
歴史学は役に立つか
Ⅱ歴史学の社会的な有用性
歴史学は社会の役に立たなければならないのか
「日本人」というアイデンティティ
「日本人」は一つの空間を共有してきたか
アイデンティティを再確認する
アイデンティティを相対化する
新しいアイデンティティを選びとる
「役に立つ」ことの陥穽
歴史家の仕事
第3章 歴史家は何をしているか
Ⅰ高校世界史の教科書を読みなおす
教科書と歴史家の仕事
十九世紀前半の欧米―「革命」をめぐる論争
十九世紀後半の欧米―「帝国主義」と「国民統合」
二十世紀前半の欧米―二つの世界大戦をどう見るか
二十世紀後半の欧米―「東西対立」と経済開発
教科書の行間を読む
Ⅱ日本の歴史学の戦後史
「比較経済史学派」の問題設定
「近代人の形成」という問題
社会史学の出現
Ⅲ歴史家の営み
歴史家の仕事場
テーマを設定する
史料を料理する
知識を文章化する
歴史像には「深さ」のちがいがある
歴史家のメッセージ
終章 歴史学の枠組みを考える
「物語と記憶」という枠組み
「通常科学」とは何か
「コモン・センス」とは何か――新しい「教養」
「通常科学とコモン・センス」という枠組み
その先へ
あとがき
引用文献リスト
序章 悩める歴史学
<歴史学の意義とは何か>
☆この本では、三つの問題を考える。
①歴史学は、歴史上の事実である「史実」にアクセスできるか、という問題。
・史実のわからないのであれば、そんな学問領域についての知識を苦労して身につけたとしても、何の意味もないのではないか。
具体的には、歴史学の成果と歴史小説とのあいだにちがいはあるか、あるとすればそれは何か、といったことを考える。
②歴史を知ることは役に立つか、役に立つとすれば、どんなとき、どんなかたちで役に立つか、という問題。
・歴史上の事件を知っておくと、さまざまな場面で役に立つものである。
それでは、歴史学という科学にもとづいて知っておくことには、何かメリットはあるのだろうか。
具体的には、いわゆる「従軍慰安婦論争」を顧みながら、歴史学の成果を頭に入れておくと、過去をめぐる論争について、どんな態度をとれるようになるか、という点を考える。
③そもそも歴史学とは何か、という問題。
・歴史学が年号や人物の名前を覚えることとイコールだったら、あまりおもしろくなさそうだし、日常生活に役立ちそうもない。
※この本では、古今の歴史家たちが世に問うてきた仕事を検討しながら、この三つの問題に取り組むという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、21頁~22頁)
第1章 史実を明らかにできるか
第1章 史実を明らかにできるか
<歴史学は根拠を問いつづける>
・歴史小説では、最終的な判断を著者の実感にもとづかせることが認められている。
だから、歴史小説では、著者である小説家は、想像の翼を広げられる。
これが歴史小説のメリットである。
その一方では、いくら史料や先行研究を利用し、叙述のみならず分析を加えているとしても、記述の信憑性(しんぴょうせい)に疑いが残ってしまう。
これが歴史小説の小説たる所以である。あるいは限界ともいえる。
そして『物語』も、この点から見ると、やはり一つの歴史小説である。
・これに対して、歴史書は、あくまで史料や先行研究のなかで、それを根拠に考察を進める。
根拠がない場合は、「わからない」と述べるか、あるいは「これはあくまでも仮説である」と断らなければならない。これは歴史書の限界でもあり、いちばん基本的な特徴でもある。
いうまでもなく、歴史書を書く歴史家だって、すべてがわかっているわけではない。
ただし、根拠があることと、根拠がないことは、きちんと区別しなければならない。
そのうえで、根拠がないように見えることについて、ほかの史料や先行研究を読みなおし、新しい史料を探し、新しい解釈を考えることによって、本当に根拠がないと断定できるか否かを問いつづけなければならない。
自分が見つけられなくても、あとに続く歴史家が根拠を見つけるかもしれない、ということを考えて、行動しなければならない。
※その意味では、歴史学はつねに現在進行形の営みであり、歴史家は「<なぜ>と尋ね続けるところの動物」(カー[Carr,E.H.]『歴史とは何か』清水幾太郎訳、岩波書店・岩波新書、1962年、原著1961年、126ページ)である。
これが歴史を学ぶという営みの中核、土台をなしている。
※ちなみに、成田龍一は、著名な歴史小説家である司馬遼太郎の作品を検討しつつ、「史実と仮構(フィクション)との関係」という視点から、歴史書と歴史小説の異同を考えることは時代遅れであり、「ここから先を考えることが必要」だと主張している。
・その根拠としてあげているのは、「書きとめられたことが<事実>で、そこに載せられていないことは<事実>としないというのでは、あまりに単純です」ということ、「文脈と立場によって出来事の意味は異なります」ということ、そして、「誰にとっての<事実>かということを考えないわけにはいかないことは多い」ということである。
(成田龍一『司馬遼太郎の幕末・明治』朝日新聞社・朝日選書、2003年、16~17、49ページ)
➡ただし、成田があげる根拠だけにもとづいて「史実と仮構との関係」を軽視することには、かなり無理がある。とくに、歴史学が現在進行形の営みであり、また、そんな営みでしかない、という点を見落としているのは問題である、と著者は批判している。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、37頁~39頁)
「正しい」認識は可能なのか(61頁~)
<さらに難問は続く>
・歴史学という営みを構成するもう一つの作業である認識について見てみよう。
認識とは、過去に本当にあった史実を明らかにするという作業と、その作業の産物のことである。
では、正しい認識に至ることは可能だろうか。
史料があれば可能だ、ない場合は、なんらかの根拠にもとづく推測を利用するしかない、推測もできない場合は、「正しい認識は、とりあえずいまのところは、できない」とするしかない、という答えが返ってきそうである。
でも、解釈の場合と同じように、認識をめぐる問題も複雑で、一筋縄ではゆかない。
<史料批判は必須>
・史料を利用して正しい認識を得るためには、それなりの手続きが必要である。
この手続きを「史料批判」と呼ぶ。
どんなかたちで史料批判を進めればよいかについての所説を「史料論」と呼ぶ。
※なお、どんな史料を利用しているか、どんな史料論にもとづいて史料批判を進めているか、そこからどんなプロセスを経て正しい認識に至ろうとしているか、といった歴史家の営みの総体については、第3章で考えるという。
☆ここでは、「史料批判をすれば正しい認識に至れるか」という問題だけを検討する。
〇史料論にもとづく史料批判の一端を覗かせてくれる例として、中世ヨーロッパ史家である森本芳樹がおこなった「プリュム修道院所領明細帳」の分析を見てみよう。
・中世ヨーロッパには、領主が農民を働かせる経営体である「荘園」が広まっていたが、領主が荘園を管理するためにつくられ、土地や農民や農民の義務を記載した台帳を、「所領明細帳」と呼ぶ。
今日のドイツ、ベルギー、ルクセンブルクの国境地帯にあり、各地に荘園をもっていたプリュム修道院で9世紀につくられたのが、「プリュム修道院所領明細帳」である。
(原本は散逸してしまったが、13世紀に筆写され、筆写者が注釈を付した写本が残っている)
※ともすれば、「個々の文書の真贋鑑定」をすれば正しい認識にたどりつくのではないかと考えがちである。
でも「プリュム修道院所領明細帳」を素材として森本が提示する史料論は、そんな単純なものではない。
なにしろ9世紀のヨーロッパにかかわる史料は数少ないため、当時の実態を知りたいと思ったら、史料を隅から隅まで、まさに微に入り細を穿って、利用しなければならない。
・森本によれば、原本と注釈からなり、また、修正が加えられたように見える箇所がある「プリュム修道院所領明細帳」の写本は、「年代幅をもった複層的構成の記録」である。
こんな史料を利用する際には、まず、慎重な史料批判が必要である。
・たとえば、そこに書かれている農民の義務は当時の実態か、それとも領主である修道院の希望の産物か。
写本と原本のあいだにちがいはないか。
あるとすれば加筆や削除や修正がなされているということになるが、それはだれの手になるものか。
また、その動機は何か。
筆写者の注釈のなかには9世紀の実態に関する説明が含まれているが、それはどこまで信用できるか。
➡こういった問題を、一つひとつ片づけてゆかなければならない。
そして、森本は、慎重かつ的確な手さばきで、これらの課題をクリアしてゆく。
(そのプロセスは、まるで推理小説の謎解きのようであるという)
・それによって、エッテルドルフ村の農民レインゲルスがプリュム修道院に負う義務は、
ワインと穀物の運搬、垣根づくり、豚番、ねぎの栽培、パンとビールの製造、夜警、織物や縫製、干草やぶどうや穀物の収穫、ワインや塩の販売協力、そして、キイチゴ採取などだった、という史実が明らかになる。
(森本芳樹『中世農民の世界』岩波書店、2003年、122ページ)
➡プリュム修道院所領における農民の義務という、史実をめぐる認識の精度が上がってゆく。
・このように、ちゃんとした史料論にもとづく史料批判の手続きを続けてゆけば、100パーセント、というのは大げさかもしれないが、少なくとも相当な程度には正しい認識に至ることができるのではないか、という気もしてくる。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、61頁~64頁)
<実証主義への宣戦布告>
・ちゃんとした史料論にもとづいて史料批判を進めれば正しい認識に至ることができる、という考える立場を「実証主義」と呼ぶ。
ちゃんとした史料論を利用するとか、史料批判は必要だと考えるとか、正しい認識に至るよう努めるとか、どの点をとっても実証主義は歴史学の基本中の基本だという感じがする。
・ところが、ここのところ、実証主義歴史学に対する風当たりは強くなる一方である。
もちろん、実証主義歴史学が批判されるのは、最近に始まったことではない。
フランスを見ると、すでに第二次世界大戦前、ブロックとリュシアン・フェーヴルという二人の優れた歴史家が生み出した、通称「アナール学派」が、実証主義歴史学を批判し、「新しい歴史学」をつくりあげる必要性を唱えている。
あるいはまた、第二次世界大戦後の日本の歴史学界に大きな影響を与えたマルクス主義歴史学派も、一貫して実証主義歴史学を批判してきた。
・これらの学派が主張したのは、歴史家は「現在を生きる人間として、繰り返し過去に問いかけ、繰り返し過去を読み直す」のである。
(二宮宏之『全体を見る眼と歴史家たち』平凡社・平凡社ライブラリー、1995年、初版1986年、38ページ)
・とすれば、特定の主観的な問題関心にもとづく視角から過去に接近せざるをえない、ということだった。 このことを、フェーヴルは、
「歴史家は……明確な意図、解明すべき問題、検証すべき作業仮説をいつも念頭において出発します。このような理由から、歴史はまさしく選択なのであります」と、簡潔に表現している。
(フェーヴル[Febvre,L.]『歴史のための闘い』長谷川輝夫訳、平凡社・平凡社ライブラリー、1995年、原著1953年、部分訳、18ページ)
※この一文が含まれているエッセー集『歴史のための闘い』は、まさに、歴史は選択だということをわかろうとしない実証主義歴史学に対する宣戦布告の書であったという。
・もしもフェーヴルたちの所説が正しければ、どんなに客観的かつ虚心坦懐に過去に向き合おうとしても、すべての史実を認識することはできない。
自分の問題関心や視角というフィルターを通して史実を選択してしまうし、また、選択された史実だけを認識せざるをえない、ということになる。
ただし、アナール学派やマルクス主義歴史学派が主張したのは、特定の問題関心や視角から歴史に接近する以上、すべての史実を一望のもとに捉えることはできない、ということであった。正しい認識は不可能だ、と主張していたわけではない。
つまり、議論の焦点は「どの正しい認識を、どのように組み合わせればよいか」という、認識よりはむしろ解釈にかかわる問題にあったという。
正しい認識に至るという実証主義歴史学の営みの中核に対して、疑問が呈されたわけではない。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、65頁~67頁)
<「構造主義」のインパクトとは何か>
・ところが、1970年代に入ると、そもそも正しい認識なんてできるのか、という根本的な疑問が、実証主義歴史学のみならず、歴史学の全体に対して寄せられるようになる。
もしも正しい認識ができないとすると、正しい解釈も不可能であるから、歴史学の営みからは「正しさ」がなくなってしまう。
たしかに歴史学は科学だったはずであるが、正しいか否かを判断できないものを科学と呼ぶのは、なかなか困難である。こうして、歴史学は「科学としての危機」に陥る。
・科学としての歴史学に危機をもたらしたのは、「構造主義」と呼ばれる思想である。
現代思想学者の内田樹(たつる)によれば、構造主義とは、「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している」という考え方である。
(内田樹『寝ながら学べる構造主義』文藝春秋・文春新書、2002年、25ページ)
ある思想家は、「存在は意識を規定する」と喝破した。
ちなみに、日本では、構造主義は1970年代に広まりはじめる。とくに1980年代には、「ニュー・アカデミズム」と呼ばれ、爆発的に流行る。
・ところが、アナール学派やマルクス主義歴史学派の考え方とくらべると、構造主義の考え方はそれほど新しいのか、独自なのか、という疑問が湧いてくる。
たしかに「ぼくらは特定の問題関心や視角から歴史を見るしかない」と主張している点で、両者は共通している。これだけでは、歴史学に与えた構造主義のインパクトの大きさは、どうも理解できない、と著者はいう。
・構造主義は、さまざまな学問領域が交差するところに生まれた思想であり、そのため、論者によって力点に多少のちがいがある。
そのなかで、歴史学にインパクトを与えた存在といえば、言語学を背景とする論者、とくに言語学者にして「構造主義の父」とも呼ばれているフェルディナン・ド・ソシュールである。
彼の所説は、アナール学派やマルクス主義歴史学派の所説を、さらには構造主義の一般的な考え方すら、大きく超えるものであった。
・ソシュールは、さまざまな言語をくらべながら、分析することを生業とする比較言語学者である。
研究を進めているうちに、単語が指し示す対象の範囲が、言語によって微妙にずれることをどう説明すればよいか、という問題にぶつかる。
つまり、フランス語で「ムートン(mouton)」は生きている羊と羊肉の双方を指すのに対して、これとよく似た英語の単語「マトン(mutton)」は羊肉のことしか意味しない。生きている羊を意味するのは、英語では別の単語「シープ(sheep)」である。
・ここから、ソシュールは、存在する「もの」、その「もの」に与えられる「意味」、そしてその「意味」を指し示す「言葉」、この三者のつながりは恣意的なものにすぎない、という独創的な見解にたどりつく。
※ぼくらは何をするにも言葉を使っているから、これはつまり「真実はわからない」ということである。こんな発想を「言語論的転回」と呼ぶ。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、67頁~70頁)
第2章 歴史学は社会の役に立つか
Ⅰ 従軍慰安婦論争と歴史学
・従軍慰安婦をめぐる問題は、日本人にとって、とてもセンシティブな問題であり、さまざまな議論を呼び起こした。ここでは、次の三人の議論を紹介しておく。
歴史家の吉見義明
政治思想史家の坂本多加雄
社会学者の上野千鶴子
・吉見と坂本の所説を比べておくと、吉見は日本国民加害者論の立場に立ち、坂本は「指導層も含めた日本国民免責」論の立場に接近している。そして、吉見は史料批判を用いれば史実はわかるという立場をとるのに対して、坂本は、歴史は物語なので史実はわからないという立場をとる。(二人は二重に相対立しているという)
➡そして、吉見をはじめとする日本国民加害者論派と、坂本たち「新自由主義史観」派とのあいだで、激しい論争が始まる。
ただし、当初は、両者の対立が二重の性格をもつことは明らかになってなかった。
この点が明らかになるには、社会学者の上野千鶴子が論争に介入するのを待たなければならなかった。
そして、上野の介入以後、論争は三つ巴の性格を呈し、そのなかで「歴史学は社会の役に立つか、役に立つとすればどう役に立つか」という問題が立ちあらわれることになる。
・上野は、フェミニズムの代表的な論客としても知られている。だから、彼女が論争に参加したとき、吉見たち日本国民加害者論派は、それを歓迎したようだ。
上野は、基本的には吉見たちの側に立つが、しかし不満を表明する。
歴史学の対象は一つしかない「事実」ではなく、各々にとっての「現実(リアリティ)」なはずであるという。多元的な歴史が存在していることを認めれば、日本国民加害者論派と「新自由主義史観」派は、「事実」が大切だと考え、証拠の存否をめぐって論争する点で、構造主義以前の古臭い土俵を共有している、という。
これに対して、吉見は上野の所説に反発している。吉見によれば、従軍慰安婦論争のなかで問題になっているのは、国家の関与は論証できるか、強制徴集は論証できるか、という点である。大切なのは、史料や証言といった証拠によって、これらを確認(実証)することであるとする。「史実はわかるか」という問題をめぐる両者の見解が対立している。
※この三者の関係を整理すると、日本国民を加害者と考えるか否かについては、吉見と上野が坂本と対立し、構造主義の所説を受け容れるか否かという点では、上野と坂本が吉見と対立する、という構図になるという。
論争は複雑にねじれ、三つ巴化していく。
構造主義を受け容れた上野や坂本のほうが、「歴史学は社会の役に立つか」という問いに対して明確に「イエス」といっている。
坂本にとっては、歴史学には「国民の物語」を紡ぎ出すという大切な仕事があり、また、この仕事をするかぎりで社会の役に立つ。上野は、他者の声に謙虚に耳を傾けなければならないと主張するが、それは、他者のアイデンティティを尊重する姿勢を身につけることに役立つからである。
どちらの立場にとっても、歴史を学ぶことは、とくに集団あるいは個人のアイデンティティにかかわる、とてもアクチュアルな営みである。そして、歴史を学ぶときに大きな助けとなるものといったら、歴史学であるということになる。
※でも、たしかに構造主義は「史実はわからない」と主張し、歴史学の営みに即していえば、「正しい認識にはたどりつけない」と断言していたはずである。実際、坂本も上野も、一貫して、歴史は「物語」や「フィクション」や「現実」であって、「事実」ではないと主張している。
とすると、複数の歴史像が存在することになるが、では、このように複数存在する歴史像のなかから一つを選びとる際には、いったいどんな基準を用いればよいのだろうか、さらにまた、正しい歴史像を選びとったことを証明するには、どうすればよいのだろうか、と著者は問うている。
歴史学の立場からすると、これは簡単な問題だという
歴史像を選びとる際の基準は正当性である。歴史像の正当性は、「どのように<事実>に迫りえているか、どの程度の説得力があるか、総じて歴史像が文書・記録・証言・物証などによってどれだけ論理的・説得的に構成されているか」という基準によって測定される。
問題は、「どの解釈や認識がより正しいか」であるという。
※著者としては、歴史像の正当性を計る際に使える基準といったら、そこで提示される解釈や認識の正しさをおいてほかにはないと主張している。そして、歴史にかかわる解釈や認識の正しさについての知識を提供できる学問領域といったら、歴史学をおいてほかにはない。歴史学が提供する基準が絶対的に正しいという保証はないが、でも基準自体をよりよいものにしてゆくことはできるはずだという。
歴史学は、歴史像の正当性を計る際に使える基準を供給し、それによって、歴史上のさまざまな問題をめぐる議論をよりよいものにしてゆくことができるし、また、そうでなければならない。
ぼくらがコミュニケーションをよりよいものにしようとするとき、歴史学の営みは、きっと社会の役に立つツールになるはずである。というよりも、歴史家がどう思うかにかかわりなく、歴史学は社会の役に立つツールを提供してしまうにちがいない、と著者は主張している。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、89頁、97頁~105頁)
Ⅱ 歴史学の社会的な有用性
<「日本人」は一つの空間を共有してきたか>
・「日本人」というアイデンティティをめぐる歴史像について考えるとき、まず示唆的なのは、『日本社会の歴史』と題された、新書ながら全3巻からなる大著である。
著者の網野善彦によれば、「日本社会の歴史」とは「日本列島における人間社会の歴史」であり、「日本国」の歴史でも「日本人」の歴史でもない。
・この表題を選んだことの背景には、次の認識があるという。
「これまでの<日本史>は……いわば<はじめに日本人ありき>とでもいうべき思い込みがあり、それがわれわれ現代日本人の歴史像を大変にあいまいなものにし、われわれ自身の自己認識を、非常に不鮮明なものにしてきた」
(網野善彦『日本社会の歴史 上巻』岩波書店・岩波新書、1997年、「はじめに」)
こうして網野は「日本列島」という空間を対象に設定し、そこで展開される歴史を描き出す。
・特定の空間を対象に設定することのメリットは何かというと、それは、そこに「複数の」文化や「複数の」国家を見てとれるということである。
網野はこのメリットを存分に活かし、複数の歴史が並存し、絡み合い、対立し合うという、いわば複数型の歴史像を提示する。
とくに、東日本と西日本は、前者がシベリアの文化的な影響を受けたのに対して、後者は朝鮮半島の文化的な影響を受けたという点で、歴史的なちがいがある。
➡このちがいをもとに、縄文文化と弥生文化の関係や、壬申の乱(7世紀)や平将門の乱(10世紀)や承久の乱(13世紀)の性格など、さまざまな史実について、新しい見方を提示してゆく。
そして、それは、常識的な日本史の知識しかもっていない者には、思いも寄らないものである。
・それだけではない。ふだん「検地・刀狩」とか「士農工商」とかをよく耳にしているせいか、かつての日本は閉鎖的で静態的な農村社会であり、基本的な産業は農業であり、人びとの多くは農民だった、と考えがちである。
でも、日本社会のかなりの部分は、はるか以前から、海やアジア大陸に開かれた動態的な商工業社会であったという。
※これはそれまでの日本社会の歴史像を根底から覆すものであり、大きな反響を呼ぶことになる。
網野の所説が大きな反響を呼んだのは、彼が提示した歴史像が「日本人」というぼくらの集団的なアイデンティティを再検討することを迫ったからである。
そして、自分が何者なのか、どんな歴史をもっているのか、といったことを認識するうえで、この作業が必要不可欠だからである。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、112頁~114頁)
<アイデンティティを再確認する>
・網野の仕事などをきっかけとして、常識にある「日本人」像は大きく変容しはじめている。常識が常識として広く受容される背景には、なんらかの根拠がはるはずである。
たとえば、しばしば「日本人は勤勉だ」といわれるが、こんな「日本人」像が受け容れられた背景には、第二次世界大戦後の高度経済成長期の「日本人」の働き方がある。
それは、まさに「働きバチ」と呼ばれるにふさわしいものであった。
・では、なぜ「日本人」はこんなに働くのだろうか。
「勤勉」というのは一つの道徳であるが、日常的に見かける道徳としては、このほかに「倹約」とか「謙譲」とか「孝行」といったものがある。
安丸良夫によれば、これらは、生活習慣としては昔から存在していたが、規範としての道徳になったのは、江戸時代のことだった。
この道徳には、次のような特徴がある。
「けっして手段ではなく、それ自体が至高の目的・価値なのであるが、ただその結果としてかならず富や幸福がえられる。実践者をかりたてている動機は、最高善としての道徳そのものにほかならないのに、そのことがかならず結果的に自分の功利的利益をもたらす」
(安丸良夫『日本の近代化と民衆思想』平凡社・平凡社ライブラリー、1999年、初版1974年、15ページ)
※成功した人は優れた道徳の持ち主だということになるから、成功した人を批判することは難しくなる。また、成功していないことは道徳を身につけていないことを意味するから、「成功しないのは、社会のせいではなく、自分のせいだ」という発想になる。
こうして、人びとは、「成功しようとすれば」、知らず知らずのうちに「道徳のワナにかかって支配秩序を安定化させる」ことになる。
この道徳は、ものを考えたり行動したりする際に使ってしまうが、ただし存在を意識することが難しい、無色透明のレンズのようなものである。そして、そのせいで、ぼくらは「働きバチ」になってしまったわけである、と著者はコメントしている。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、114頁~116頁)
<アイデンティティを相対化する>
・今日の「日本人」は、四角い形の家に慣れている。四角い理由は何か、それ以外の形がありうるか、なんて問題は、ふつう考えない。でも、グレート・ジンバブウェの歴史を知ると、四角以外の形の家もあることがわかる。さらに、日本の家が四角い形をしているのは当たり前のことではなく、そこにはなんらかの理由があるはずだ、ということもわかる。
・たとえアフリカ大陸という遠い世界の歴史像であっても、ぼくらの日常生活に影響をおよぼさないということはない。それを知ってしまうと、「日本人」のあり方を当たり前のものとはみなしにくくなるからである。
これは、「日本人」というアイデンティティを相対化する途が開けることを意味している。
ぼくらの集団的なアイデンティティという観点から見る場合であっても、外国にかかわる歴史像は役に立つ。
さらにいえば、日本と、ジンバブウェをはじめとする諸外国とは、歴史的にまったく没交渉だったわけではない。
たとえば、音楽の歴史を見てみるだけでも、日本と外国はさまざまに多様な交流をくりひろげてきたことがわかる。
・日本のポピュラー・ミュージックについての知識は、ブラックとか、ヒップホップとか、スクラッチとか、ラップとか、近年の傾向にはついていけないと著者は感想をもらしている。
でも、文化学者の佐藤良明によれば、日本のポピュラー・ミュージックの歴史的な変化には、ちゃんと理由も背景もあるという。
「ブラック・ミュージック……を吸収した新しい英米のポップスが世界に浸透していくという大きな流れの中で、20世紀後半の日本の大衆のうたの展開を、私たちの心の移行過程として語る」
(佐藤良明『J-POP進化論』平凡社・平凡社新書、1999年、26ページ)
という、壮大な営みが可能になる。
・明治維新を経て成立した明治政府は、「日本人」の心性を近代化するための方策として、大々的に欧米の音楽を導入した。その手段として利用されたのが、文部省唱歌や軍歌である。ただし、民謡に代表される日本の伝統音楽は「日本人」の心性に深く根づいており、また、欧米の音楽もたえず変化してきたため、その後の展開は複雑なものになる。
佐藤良明は、「ヨナ抜き音階」と「単純五音階」の対立を軸に、二つの音楽の接触のなかから、今日の「J-POP」が誕生する過程をあざやかに描き出す。
日本のポピュラー・ミュージックは、単に「民謡色の払拭と欧米音楽化」と表現するだけではすまないような複雑な関係を、欧米の音楽と取り組んできた。
※ちなみに、いちばん驚いたのは、民謡とブラック・ミュージックが同じ音階を利用している、という佐藤の指摘であったという。
これは、「日本人」というアイデンティティの強力な支柱だと思われている伝統文化ですら、じつは外国の文化と要素を共有したり、相互に交流し合ったりしている、ということを意味している。
※こんなことを知ると、「日本人」というアイデンティティを軽々しく口にすることはできなくなる。
「日本人」とは何か、もう一度考え、相対化しなければならない、という気になる。
外国と日本の関係にかかわる歴史像は、ぼくらの集団的なアイデンティティを相対化する際に、重要な役割を果たしているという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、118頁~123頁)
第3章 歴史家は何をしているか
第3章 歴史家は何をしているか
Ⅰ高校世界史の教科書を読みなおす
<教科書と歴史家の仕事>
☆ここまで、次の二つの問題を考えてきた。
①史実はわかるのか。
②歴史を学ぶことは社会の役に立つのか。
・そして著者がたどりついた結論は、第一の問題については、史料批判などによって「コミュニケーショナルに正しい認識」に至り、さらにそこから「より正しい解釈」に至ることはできる。つまり、(絶対的な真実ではないが)その時点でもっとも確からしいことはわかる、というものであった。
・第二の問題については、歴史家が真実性という基準をくぐり抜けた知識を供給するという仕事に取り組むとき、それは確実に社会の役に立っている、というものであった。
☆ここでは歴史家の仕事、つまり、歴史家が具体的に何をしているかを垣間見ることにする。
どんな動機でテーマと対象を選択するのか、どんな手続きを用いるのか、あるいはまた、どんな史料を用いるのか、といったことである。
・歴史家の仕事と聞いて思いつくのは、中学校や高校の歴史関係の授業、とくにそこで使われた教科書であろう。ここでは、高校世界史の教科書を例に、学校で習うことと歴史家が明らかにしてきたこととを比較し、両者のちがいと共通点を明らかにする。
・高校世界史の教科書といえば、膨大な史実と年号がつめこまれ、それらを暗記するためにラインマーカーで引いた線がいっぱいの本を思うだろう。つまり、「教科書=年号つきの史実が時代順かつ地域別に並べられた年表を文章化したもの」としか見えない。
(無味乾燥な史実が羅列されているだけだとか、ストーリーがないとか、単一の歴史の見方を押しつけているとか、その批判は枚挙に暇がない)
・でも、ちょっと考えると、様々な疑問が生まれる。
教科書にある執筆者紹介を見ればわかるように、教科書を書いているのは、大学に籍を置く、一線級の歴史家たちである。だから、現在の歴史学にとって重要な問題を知らなかったとは考えられない。
・歴史家の営みは、史実を認識できるか否かを考え、どんな解釈がまともかを選択し、描き出した歴史像が社会の役に立つか否かに、想いをめぐらせることにあるから、そこから生み出されたものが単純なものになるはずがない。
つまり、歴史家に必要な資質は、「疑い、ためらい、行ったり来たりすること」であるが、それは歴史教科書の書き方とは相容れない。
ただし、では、歴史家の営みをそのまま文章化すれば問題はなくなるか、といえば、とんでもない。
イギリスの産業革命を例にとって、歴史家の営みを文章化してみると、次のようになるという。
「産業革命とは何か。そもそもそんな史実が存在したか否かについては疑問が残るが、
それは措くとして、その定義については諸説がある。その原因についても、結果につい
ても、諸説がある。産業革命の歴史像としてはさまざまなものがあるが、ここでは……
というものにしたい。では、そんな歴史像を提示することに社会的な意義があるか否か
といえば、私は意義はあると考えている。その理由は……」
※これでは、何をいっているのか、何をいいたいのか、よくわからない。
読者も歴史家ならば、これでもよいかもしれないが、そうでない読者は困ってしまう。
断定的で滑らかで、場合によっては、単純で退屈な歴史教科書の書き方のルールは、いいたいことをはっきり伝えるためにはやむをえない選択なのかもしれないという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、132頁~134頁、151頁~152頁)
Ⅱ日本の歴史学の戦後史
<「比較経済史学派」の問題設定>
☆ここで、第二次世界大戦後の日本における歴史学の歴史をふりかえってみよう。
・だいたい、1960年代までのあいだ、日本の歴史学界で大きな力をもっていたのは、「比較経済史学派」という立場をとる歴史家たちであった。
この学派が興味深いのは、当時、歴史学界のみならず、広く社会に対して大きな影響力を行使したからである。
指導的な歴史家たちがオピニオン・リーダーとして世間に認知され、その言動が人びとの注目を集めていた。
・「比較経済史学派」の創設者は、ヨーロッパ、とくにイギリスの経済史の専門家だった大塚久雄である。
ヨーロッパ経済の歴史を特徴づけているのは、「資本主義の発達」である。
「資本主義」とは、資金をもつ資本家が賃金を払って労働者を雇い、機械を導入して工場で商品を生産する、という「近代に独自な」生産システムである。
※通説では、この資本主義の成立をもたらしたのは、「貨幣経済の発達」だった。
でも、大塚は、貨幣経済はいつの時代にも、どこの地域にも存在していたはずだと考えて、通説に疑問をもち、ヨーロッパ独自の史実に資本主義の成立の動因を求めるべきことを提唱した。
そう考えて歴史を見直すと、経営規模は小さいが自由な生産者である「中産的生産者層」が両極分解して資本家と労働者になった、という史実が目に入る。これこそが資本主義の発達の動因だ、というわけである。
(大塚久雄『欧州経済史』岩波書店・岩波現代文庫、2001年、初版1956年、214~215ページ)
※でも、もう一度見直してみると、いろいろと疑問が湧いてくるという。
たとえば、どうしてヨーロッパ経済の歴史を特徴づけているのは資本主義の発達といえるのか。貨幣経済がいつの時代にも、どこの地域にも存在していたからといって、どうして資本主義の発達の動因をほかに求めなければならないのか。
大塚の描く歴史像は、たしかにすっきりしているが、よく見ると、すっきりしすぎているという。
・じつは、ヨーロッパ、とくにイギリスの経済史を研究する大塚の念頭には、つねに日本の現状に対する問題関心があったようだ。
日本は、開国以来、イギリスやアメリカやドイツの生産能力に驚かされた。
また、第二次世界大戦に敗北したため、一刻も早く経済を復興させなければならなかった。
そして、先進諸国に追いつくためには、これら諸国の歴史的な経験を知り、それを応用することが必要だし、有効である。
こう考えて、大塚は、先進諸国を代表するイギリスの経済史の特徴を解明しようとした。
イギリス経済史を研究する目的は、それを日本の経済復興のモデルとして利用することにあった。
大塚にあっては、なによりもまず「いま、ここ」というアクチュアルな問題関心が先行した、と著者はいう。
(大塚が提示する歴史像がすっきりしており、見ようによってはすっきりしすぎているのはそのためである。こんな大塚の姿勢や枠組みは「比較経済史学派」の歴史家たちに継受されてゆく)
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、153頁~156頁)
<「近代人の形成」という問題>
・大塚の所説の特徴は、歴史像のアクチュアリティを重視したことだけにとどまらない。
もう一つ大切なのは、工場や機械といった生産システムのあり方だけに着目したわけではない、という点である。
実際、生産システムだけを輸入しても、そこで働く人びとの思考や感覚や行動のあり方が変わらなければ、それらは宝の持ち腐れになってしまう。
大塚は、「自律的に、つまり自分で決めて行動するような人間」が誕生しなければ、経済復興も無理だし、さらには日本社会そのものの再建も難しい、と考えた。
(こんな人間を「近代人」と呼ぶことにする。近代人が生まれるためには、何をどうすればよいのか。この問題を提起した大塚自身も、それを解くことはできなかったそうだ)
・では、この事態に直面して、その後の歴史家たちは、どう対処したのだろうか。
1950年代まで、歴史家たちは、産業革命の前提条件である「中産的生産者層の両極分解」を重点的に研究してきた。でも、1960年代になると、日本も、戦後復興の時代から経済成長の時代に入った。この事態に対応して、産業革命そのものを研究しなければ、歴史学は時代に取り残されてしまうかもしれない、というわけである。産業革命の研究はアクチュアリティをもつものであった。
でも、このあと、歴史学はアクチュアルでなければならないという前提そのものに疑問を投げかける研究が登場する。それらは「社会史学」から大きな影響を受けていた。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、156頁~158頁)
<社会史学の出現>
・社会史学とは、単なる「社会の歴史」を分析する営みではない。
それは、世界各地で1960年代に出現し、日本では1980年代に広まった一つのアプローチを指している。
・社会史学に分類される研究には、さまざまなものがある。
たとえば、支配階層ではなくて、民衆に着目する研究。大きな出来事ではなくて、日常生活を重視する研究。大系だった思想ではなくて、日常ののなかの心性(メンタリティ)を分析する研究。公的な組織ではなくて、日常の社会的結合(ソーシャビリティ)に狙いを定めた研究。あるいは、国家ではなくて、地域を分析の単位とする研究などである。
※これらに共通する特徴といえば、それまでの歴史学が、支配階層と大きな出来事と体系だった思想と公的な組織と国家を重視してきたことを念頭に置き、「歴史の読みなおしを志向」している点にあるようだ。
その際に社会史学が採用する基本的な視点は、
「一つには、すべての事業を常に全体的な連関のうちに捉えること、第二には、過去を常に現在との対話のうちに捉えること」の二つである。
(二宮宏之『全体を見る眼と歴史家たち』平凡社・平凡社ライブラリー、1995年、初版1986年、37ページ)
そして、日本における社会史学の代表的な成果として、次の著作を紹介している。
〇川北稔ほか『路地裏の大英帝国』平凡社・平凡社ライブラリー、2001年、初版1982年)
・この時代以降、歴史学界における社会史学の影響は拡大し、多くの歴史家を、さらには多くの読者を惹きつけることになった。
社会史学にもとづく歴史書は、しばしば日常生活にかかわる身近な話題を取り上げており、たとえアクチュアルではないとしても、具体的でおもしろい。そして、社会史学の興隆という傾向は、21世紀に入っても続くことになる。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、158頁~162頁)
Ⅲ 歴史家の営み
<歴史家の仕事場>
☆では、今日の歴史家は何をしているのだろうか。
あれやこれやの史実を時間を追って叙述するような文章を読んでも、歴史家の営みを垣間見ることは困難である。ちなみに、こんな文章を「通史」と呼ぶが、その典型が歴史教科書である。
・それでは、どんな文章を読めばよいか。
いちばん適切なのは専門の歴史家向けに書かれた「学術書」である。
そこでは、「疑い、ためらい、行ったり来たりする」という、歴史家に必要な資質に沿ったルールに則って、文章が紡がれているはずである。
(でも、学術書は敷居と値段が高すぎる。学術書を買い、読み、理解するのはなかなかたいへんである)
・次に頭に浮かぶのは、優れた歴史家が自分の研究生活をふりかえった回想録である。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、163頁~164頁)
第3章 歴史家は何をしているか
<歴史像には「深さ」のちがいがある~美術史学の営み>
・常識を疑わせるようなテーマをもち、ちゃんと料理した史料にもとづき、読み手をわくわくさせるような文章で表現されている歴史像であっても、その「深さ」は千差万別である。
そして、歴史像の深さは、史料に対する歴史家の問いかけ方によって決まる。
・史料に対する問いかけ方を考えるうえで、示唆的なものとして、美術史学の営みがある。
若桑みどりによれば、美術史家が絵画や彫刻といった美術品を史料として取り扱う方法は、大きく三つに区別できるとする。
①「様式論」
・これは、美術品をつくった人がどんな学派に属するかを決定する、いわば分類学である。
「子どもの遊戯」という有名な絵を例にとると、その作者ピーテル・ブリューゲルは、精密でカラフルな画風で、庶民生活を描いた「ネーデルラント学派」に属する、といった具合である。
ただし、これだけでは、絵に込められた意味はわからない。
②「図像学」
・これは、絵のなかに表現されたものの「意味」を検討する方法である。
たとえば、同じブリューゲルに「バベルの塔」という絵がある。
これは明らかに『聖書』に出てくる逸話をモチーフにしているから、この絵の意味を『聖書』に探る、といった具合である。
ただし、これだけでは、ブリューゲルがこの絵に込めた意図はわからない。
③「図像解釈学」
・どんな絵でも、それを描いた人は必ず生きた時代の状況に影響される。
だから、画家が生きた時代の特徴を知れば、彼(女)の「意図」に接近できるはずである。
たとえば、ブリューゲルが生きた16世紀のネーデルラントの歴史を知ると、彼が「バベルの塔」で表現しようとしたものは何かが見えてくる。
(若桑みどり『イメージを読む』筑摩書房・ちくまプリマーブックス、1993年)
(若桑みどり『絵画を読む』日本放送出版協会・NHKブックス、1993年)
※ここからわかるのは、絵に限らず史料は問いかける対象であり、問いかけ方が下手だと何も教えてくれないが、上手だといろいろなことを教えてくれる、ということである。
ここで区別した三つの方法を見ると、様式論よりも図像学のほうが、そして図像学よりも図像解釈学のほうが、問いかけ方としては広いことは明らかだろう。
それは、史料に問いかけるにあたって、なるべく幅の広い知見と関連づけようとしているからである。
そして、問いかけ方のちがいを反映して、同じテーマ、同じ史料批判、同じような文章であっても、生まれる歴史像の深さがちがってくる。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、175頁~177頁)
終章 歴史学の枠組みを考える
<「物語と記憶」という枠組み>
・史実はわかるか、昔のことを知って社会の役に立つか、という二つの問題は、互いに無関係ではない。実際、歴史学をめぐる議論のなかでは、両者は密接にかかわるものとして論じられている。
吉見義明たち歴史家を批判した上野千鶴子と坂本多加雄は、政治的な立場こそ正反対ながら、史実はわからない、でも昔のことを知ることは役に立つ、という二つの判断を共有していた。
・史実がわからないのであれば、それは「物語」と大差ない。
これは、「歴史は物語である」という立場である。
また、自分の身近にあり、真偽を問わずとも役に立ちそうな過去は、「記憶」と呼ぶことができる。歴史について、こんな側面を重視するとき、「歴史は記憶である」という立場に立つ。つまり、上野や坂本は「物語と記憶」という枠組みで歴史学を捉えているという。
「物語と記憶」という枠組みは、なにもこの二人だけのものではないし、歴史家でない人びとに限定されたものでもない。
・20世紀末から今日にかけて、「冷戦」という枠組みが壊れ、新しい枠組みとして「歴史の終わり」とか「文明の衝突」とか「文明の対話」とかが登場しては消えてゆくさまを、目の当たりにしてきた。
「史実なんてわかるのか」という疑問や、「自分のアイデンティティを支える記憶は大切だ」という印象は、身近なものに感じられる。
「物語と記憶」という枠組みが受け容れられてきたのも、そういった時代背景があるのだろう。
・さらにまた、この枠組みが重視されるようになってきたのは、日本だけのことではない。
構造主義が外国から日本に輸入されたことからも予想できるように、諸外国でも歴史を考えるうえで、物語や記憶を重視する立場は、広く受容されるようになっている。
たとえば、構造主義の本場ともいえるフランスでは、すでに1980年代「記憶の場」というコンセプトのもとに、膨大な数の歴史家を集めた壮大なプロジェクトが実施されている。
(ノラ[Nora,P.]編『記憶の場』全3巻、谷川稔監訳、岩波書店、2002~03年、原著1984~92年、部分訳)
※こういったことを認めたうえでも、著者は、「物語と記憶」という枠組みにどこか違和感をもつという。
それは、「物語と記憶」という枠組みが「真実性という基準」を無視しているからである。
というよりも、「真実性という基準」を絶対視するから、というべきかもしれないともいう。
実際には、「100パーセントの真実」なんて、ほとんど存在しないから、この立場に立つと、議論はいつまでたってもすれちがい、決着しない。
だから、もう少し、議論を生産的なものにするための枠組みを構築しなければならない、と著者はいう。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、182頁~185頁)
<「通常科学」とは何か>
・トマス・クーンという科学史家がいる。
彼は「パラダイム」という言葉を世間に広めた。
彼は、歴史学に限らず、ほかの科学についても、100パーセント正しい認識にたどりつくことはできないと主張した。大きな反響と議論を巻き起こした。
クーンは、自然科学の歴史には、ときどき断絶的な変化が見られるという。
断絶的というのは、「時代遅れの理論は、捨てられたからといって、原則として非科学的ではない」ということである。
この現象を「いろいろな学派が現れるのは、方法に誤りがあるのではなくて……世界を観る観方の違い、科学のやり方の違いがあるからである」と解釈する。
(クーン[Kuhn,T.]『科学革命の構造』中山茂訳、みすず書房、1971年、原著1962年、3,5ページ)
そして、この「世界を観る観方」を「パラダイム」と、ある「パラダイム」にもとづく安定的な科学を「通常科学」と、ある「通常科学」から別の「通常科学」への断絶的な変化を「科学革命」と、それぞれ呼ぶ。
科学の歴史は、ある「世界を観る観方」にもとづき、安定していた科学が、何かのきっかけで動揺し、別の科学に取って代わられる、というものになる。
例として、地動説を提唱したコペルニクスによる天文学の革新について言及している。
天動説と地動説は互いに異なった「世界を観る観方」であり、コペルニクスはそれまでとちがう「世界を観る観方」を提示して、天文学を断絶的に変化させた、という。
※クーンの所説から読みとれる大切なことは、100パーセント正しい科学とか、100パーセントまちがっている科学というものはないということである、と著者はいう。
みんなで検討し合って「より正しい」科学を選びとってゆくことは、不可能ではない。
天動説と地動説の例でいえば、どっちを利用したほうがいろいろな現象を説明しやすいかという問題について、みんなで考えて、そのうえで「より正しい」ものを選ぼう、ということである。もちろん、「より正しい」ものが100パーセント正しいという保証はない。その意味では、この選択はつねに暫定的なものである、と著者は主張している。
そして、歴史を見る枠組みにも、クーンが示唆する考え方を適用すべきだ、と著者は考える。
・史実はわかるかといわれれば、100パーセントわかるとはいえない。でも、100パーセントの史実なんてわからないからといって、過去のことすべては物語にすぎないと考えるのも、早計すぎる。そんなにあわてず、現在の段階で最善を尽くし、史実をより正しく認識し、解釈し、よりよい歴史書を構築することを考えるべきだという。
将来どう評価されるかはわからない知識を提供するという点で、歴史学もまた一つの「通常科学」である。歴史学が用いるべき「真実性という基準」は、相対的で暫定的なものである。だから、認識や解釈や歴史像が正しいか否かは、時間が経過するなかで評価されなければならないとする。
歴史学が提供する知識が相対的で暫定的なものだということは、科学としての歴史学にとっては、マイナスではなくプラスの意味をもっている。ある時点で得られる知識が相対的で暫定的なものであるからこそ、さらに過去の探求を進めようという意欲が湧いてくるし、歴史学はそれによって変化し、進化してゆくからである。
だからこそ、史実を知ろうとするという歴史学の基本的な営みは、ダイナミックなものでありうるという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、185頁~188頁)
<「コモン・センス」とは何か――新しい「教養」>
・コミュニケーションを改善するためのツールになるとか、アクチュアルなモデルや教訓になる歴史像を提示するというかたちで、歴史学は個人の日常生活に役立つ実践的な知識を提供する力をもっている。日常生活に役立つという観点から見ると、歴史学は十分に「使える」はずである。
歴史学が供給できるような「個人の日常生活に役立つ実践的な知識」を「コモン・センス」と呼ぶことにする。「コモン・センス」とは、日常生活を送るために必要な「常識」とか「教養」といったものをあらわす言葉である。
充実した生活を送るために必要な知識は、いつでも、どこでも、必要である。「教養」はつねに不可欠な存在である。問題は、ぼくらの時代にはどんな知識が「教養」に含まれるか、にある。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、188頁~191頁)
<「通常科学とコモン・センス」という枠組み>
・ここで提示した二つの概念、つまり、「通常科学」と「コモン・センス」を組み合わせれば、歴史を考える際に使える枠組みが一つにできあがる、と著者は考えている。
この枠組みにもとづけば史実がわかるかという問題に対しては、「歴史学も通常科学でありうる以上、みんなで考えれば、よりよい認識や解釈や歴史像に到達できる」という。
「社会の役に立つか」という問題に対しては、「歴史学は、さまざまなかたちで、ぼくらのコモン・センスを提供できる」という。
「物語と記憶」という枠組みが生産的でないとすれば、この「通常科学とコモン・センス」という枠組みを利用すべきだ、著者は主張している。
利用できるかぎりの証拠をかき集め、みんなで突き合わせ、そして蓋然性が現在のところは高いのであれば、ほかの「通常科学」と同じように、そのことを認め、そのうえで、どんな「コモン・センス」が得られるかを考えてみることのほうが、はるかに意味がある、と著者は考えている。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、191頁~192頁)
「あとがき」より
☆著者は次の三つのことを念頭に置いて、筆を進めてきたという。
①歴史を学ぶことを「歴史学」と呼ぶとすれば、歴史学について、なるべく体系的に基本的な知識を整理すること。つまり、歴史学の入門書として機能すること。
・歴史学について、「適切な入門書」の条件を充たすものとしては、たとえばエドワード・カー『歴史とは何か』(岩波新書)や渓内謙『現代史を学ぶ』(岩波新書)がある。
前者はちょっとレベルが高いし、後者はしばらく前から品切れ状態。
というわけで、それなら自分で書いてみようと思ったという。
②歴史にかかわる優れた啓蒙書を紹介するブック・ガイドとして機能すること。
・だれでも興味深く読めて、値段も高くなくて、でもレベルは低くない本を「啓蒙書」と呼ぶとすれば、歴史家の手になる優れた啓蒙書は、とくに新書や各種「ライブラリー版」として、結構刊行されている。
しかし、それらはあまり知られていなし、書店でたまに見つけても、大量の本にとりかこまれて窒息気味。
たとえば、良知力『青きドナウの乱痴気』(平凡社ライブラリー)は、おそらく塩野七生や司馬遼太郎といった一流の歴史小説家の手になる歴史小説と同等か、あるいはそれ以上の「物語」を紡いでいるが、この書名がよく知られていると思えないという。
網野善彦『日本社会の歴史』(岩波新書)は、刊行当時、相当話題になった本であるが、それでも広く読まれているかといえば、そんな気はしない。
※これはとても残念な事態である。
どうして優れた啓蒙書だけが取り残されなければならないのだろうかという。
③歴史を考える枠組みを再検討してみること。
・小田中直樹氏の前著『歴史学のアポリア』(山川出版社、2002年)で、日本の歴史学について、過去を顧みながら、今日の位置を考えてみたようだ。
この本は、最近流行りの「物語と記憶」という枠組みを念頭に置きながら、それ以外の枠組みはありうるかという問題を考えたものだった。
でも、たどりついた結論は、「ないわけではない」という中途半端なもので、「では、どんな枠組みがあり、また<使える>のか」という問題には答えを出せなかった。
前著で立てた二つの問題(史実はわかるか、過去を知ることは社会の役に立つか)を再度取り上げ、議論を進めてみようと考え、本書を書いたという。
(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』PHP新書、2004年、196頁~199頁)
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