歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪童門冬二『小説 上杉鷹山』を読んで≫

2022-05-13 19:00:02 | 私のブック・レポート
≪童門冬二『小説 上杉鷹山』を読んで≫
(2022年5月13日投稿)
 

【はじめに】


今回のブログでは、前回に引き続き、童門冬二氏の小説を紹介する。
〇童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]

・九州の小藩からわずか十七歳で、名門・上杉家の養子に入り、出羽・米沢の藩主となった治憲[はるのり](後の鷹山[ようざん])は、破滅の危機にあった藩政を建て直すべく、直ちに改革を乗り出す。
・高邁な理想に燃え、すぐれた実践能力と人を思いやる心で、家臣や領民の信頼を集めていた経世家・上杉鷹山の感動の生涯を描いた長篇小説である。

「余談」にも述べてあるように、内村鑑三が、英文で、鷹山を紹介したことから、ジョン・F・ケネディも鷹山に関心を持ったことは、よく知られている。



【童門冬二『小説 上杉鷹山』(集英社文庫)はこちらから】
童門冬二『小説 上杉鷹山』(集英社文庫)




童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]

【目次】
・池の魚たち
・冷メシ派登用
・人形妻
・断行
・板谷峠
・灰の国で
・小町の湯
・鯉を飼おう
・神の土地
・さらに災厄が
・江戸
・重役の反乱
・処分
・新しい火を
・募金
・そんぴん
・なかま割れ
・普門院
・きあぴたれ餅
・原方のクソつかみ
・赤い襦袢
・暗い雲
・地割れ
・竹俣処断
・伝国の辞
・改革の再建
・鷹の人

解説 長谷部史親
鑑賞 平岩外四
上杉鷹山年譜 細谷正充




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・童門冬二『小説 上杉鷹山』~長谷部史親氏の「解説」より
・童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』の主要登場人物
・童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』の魚の叙述
・治憲の藩政改革の骨子について
・藩政改革の具体策
・改革派(冷メシ組、“奸物”)VS重臣たち(“米沢の老金魚たち”)
・「重役の反乱」
・「処分」
・北沢五郎兵衛の説いた「孟子」の教え~「新しい火を」より
・「竹俣処断」~泣いて馬謖を斬るの故事
・「伝国の辞」
・改革政策の復活
・「鷹の人」
・余談~上杉鷹山とジョン・F・ケネディ大統領




童門冬二『小説 上杉鷹山』~長谷部史親氏の「解説」より


・本書『小説 上杉鷹山』は、表題に「小説」という文字が見えるように、上杉鷹山の生涯に立脚した歴史小説である。
 むろん史実に即してはいるものの、作者の文学的手法が存分に駆使されているがゆえに、鷹山の理想や内心の苦衷、あるいは言動の数々が、より立体的かつ鮮やかに再現されている。

・鷹山のみならず周囲の人物に付与された躍動感も、やはり小説ならではの魅力である。
 たとえば、側近の佐藤文四郎が、みすずとの間に育んでゆく恋のように、興趣を盛り上げる。
 こうしたドラマ性に小説は支えられている。
 それが読者に感動を与え、この小説を味わい深くしている。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、666頁)

作家としての童門冬二氏


・作者は長く公務に携わるかたわら小説を書き始め、1979年以降は文筆に専念している。
 サラリーマンや役人たちの気質をはじめ、現代日本の諸局面に通じており、現代を舞台とした企業小説やノンフィクションも手がけている。
 そして、そうしたテーマを歴史の中へ投射することによって、新たな認識を模索した作品が多い。

〇本書『小説 上杉鷹山』執筆の動機は、内村鑑三が5人の人物を列伝風に紹介した『代表的日本人』において、上杉鷹山が選ばれているのを目にしたことによるという。
 ⇒本書『小説 上杉鷹山』は、たぶん内村鑑三の英文著作を通じて、アメリカの故ケネディ大統領さえ瞠目させたといわれる鷹山の偉大さを、あますところなく伝えた力作であると、長谷部史親氏は称賛している。

※著者の童門氏は、作品『小説 上杉鷹山』の単行本の“あとがき”で、自分が、上杉鷹山(治憲)にのめり込んだのは、「ウエスギ・ヨーザンは、私の最も尊敬する日本人」と語った故ケネディ大統領の一言を知ったこと、および、心身障害者の妻を限りなくいたわり、その愛情を藩政全般に敷衍していたことを、知ったためだと記している。

本書によって、江戸時代中期の米沢で偉業を達成した鷹山の姿にふれ、ときに感動の涙を流しつつ、現代社会の様相と重ね合わせてみるのも一興であるかもしれない。

さらには、歴史伝記小説を読む楽しさを知り、童門氏の他の作品に手を伸ばしてみるのもよい。
・温故知新という言葉があるように、過去を探ることは現在を知る上で役に立ち、ひいては未来の展望にもつながっていく。
 すぐれた人物の存在性や業績を、小説の形式を通して読む行為も、また温故知新の一環にほかならない。
(そこには作者の認識が付加されている。そして楽しみ感動しながら、人物像の深奥に迫れる。それが最大の効用であろう。

★童門冬二氏の作品には次のようなものがある。
〇歴史上の人物に着目した作品
・『小説二宮金次郎』
・『足利尊氏―南北太平記』
・『小説太田道灌―江戸開発の知将も謀略を見抜けず』
・『小説川路聖謨』
・『小説伊藤博文』
・『近江商人魂』
・『北の王国』
・『平将門』
・『春日局』

〇幕末維新の時代の特性に材をえた作品
・『明日は維新だ』
・『維新の女たち』
・『竜馬暗殺集団』

〇新撰組を描いた作品
・『異説新撰組』
・『新撰組が行く』
・『新撰組の女たち』

(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、660頁~668頁)


童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』の主要登場人物


・『小説 上杉鷹山』は、米沢藩を舞台に、その藩政改革と財政再建を主題にした物語である。
主役は、日向の小藩、高鍋3万石から名門上杉15万石の養子に迎えられ、やがて藩主の後を継ぎ、改革に取り組む上杉治憲(鷹山)である。
脇には治憲が抜擢した改革派の面々を配し、守旧派の藩重役を中心とする反対派と対決させ、この物語は展開する。
治憲が17歳で藩主を継いだとき、米沢藩は、財政危機から、藩籍返上の瀬戸際にあり、藩内は退嬰的な空気に支配されていた。
この青年藩主は、率先垂範して勤倹節約、一方、殖産興業を奨め、貧窮のドン底にあった藩を再建した名君であった。


◆童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』の主要登場人物
上杉治憲(鷹山) うえすぎはるのり(ようざん) 第九代米沢藩主。藩政改革に生涯を賭ける。
幸姫 よしひめ 治憲の妻。八代藩主重定の息女。
佐藤文四郎 さとうぶんしろう 治憲の近習。治憲を敬愛し忠義を尽くす。
竹俣当綱 たけのまたまさつな 農政の専門家。改革派の中心人物で、奉行。
藁科松伯 わらしなしょうはく 医者。細井平洲の弟子。改革の途中、三十三歳で死去
木村高広 きむらたかひろ 民政の大家。御側役として改革派を支え詩文にも優れた。
莅戸善政 のぞきよしまさ 改革派中心人物で町奉行。
須田満主 すだみつたけ 江戸家老。藩政改革に反対し七家騒動で、切腹苗字断絶。
芋川延親 いもかわのぶちか 侍頭。七家騒動に際し、切腹苗字断絶。
色部照長 いろべてるなが 江戸家老。七家騒動で、半知取りあげ、隠居閉門。
千坂高敦 ちさかたかあつ 侍頭。七家騒動で、半知取りあげ、隠居閉門。
長尾景明 ながおかげあき 侍頭。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
清野祐秀 きよのひろひで 筆頭奉行。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
平林正在 ひらばやしまさあり 侍頭。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
須田平九郎 すだへいくろう 須田満主の息子。父親の処罰の件から治憲を憎む。
芋川磯右衛門 いもかわいそえもん 芋川延親の息子。父親の処罰の件から治憲を憎む。
神保甲作 じんぼこうさく 須田・芋川の友人。重役、神保綱忠の息子。
北沢五郎兵衛 きたざわごろべえ 国侍。改革派として小野川の荒地開墾に尽力する。
山口新介 やまぐちしんすけ 国元の改革派。佐藤文四郎の親友。
上杉重定 うえすぎしげさだ 第八代米沢藩主。
上杉治広 うえすぎはるひろ 第十代米沢藩主。重定の実子で、治憲の世子となる。
細井平洲 ほそいへいしゅう 儒者。治憲の師で実学を唱える。
紀伊 きい 江戸、桜田藩邸の奥女中。
みすず 元、奥女中。奥女中解雇の一件で治憲を恨んでいる。
千代 ちよ 小野川の温泉宿の女将。治憲の改革に協力を申しでる。



小姓の佐藤文四郎


〇上杉治憲は、小姓の佐藤文四郎を呼ぶ。
・江戸藩邸で、孤立している者の名を書き出すように命じる。
(つまり、周囲と折り合いの悪い人間の名である)
・そして、その人間がなぜ、なかまはずれになっているのか、その理由も教えてほしいという。
※ふつうに考えれば、その名簿は、藩内の要注意人物一覧表だが、治憲は、藩内の多数派、つまり金魚の群ではなく狭い池の中を所狭しと泳ぐ少数派の魚を探してみようと思った。
※米沢本国にいる重職の顔色をうかがう者では駄目だった。
(つまり古いものを守ることだけに汲汲としている者では駄目だった)
⇒そこで治憲は、江戸藩邸の中で他と折り悪い者に目をつけた。
(癖のある人間で、本国の重職たちからきらわれている者のリストがほしいという)
 (22頁~23頁)
・佐藤は豪快な青年だった。
 ふつう、大名の小姓といえば、色が白く、女のような美少年が多いが、佐藤はそうではない。
 色は真っ黒で、からだつきも武術で鍛えぬいているから骨太のうえに筋肉がどこを突いてもかたく盛り上がっている。(23頁)

・須田平九郎(須田満主の息子)たちからも、佐藤は憎まれていた。
 こんどの人事で、おれたち若い人間を怒らせた最大のものが佐藤文四郎の近習登用だった。
 そもそも小姓だの近習だのというのは、いつもお屋形のそばについている職で、客の前にもしばしば出る。当然、容姿が美しく、立居ふるまいに品があり、また、学問も深くなければならない。
 ところが佐藤は、ずんぐりむっくりで、色はまっ黒け、肩は張って剣術ばかりやっているから、腕は筋肉のかたまりだ。とうていひとさまの前に出せるしろものではない。
 あんな男を小姓にしていたのは、日本三百諸侯のうちでもうちのお屋形だけだぞ」と不平をもらしている。(171頁)

・江戸藩邸では、治憲のうしろで、細井平洲先生の講義をきかせてもらい、勉学させてもらった。平洲も、佐藤の朴訥(ぼくとつ)で、正直な気質を愛した。(359頁~360頁)

竹俣当綱


〇一覧表には、四人の名が書いてあった。
 竹俣当綱、藁科松伯、木村高広、莅戸善政
(佐藤が挙げた四人は、治憲が注目していたのと、ほとんど一致していた)
 そして治憲は佐藤が書いた「なかまはずれになった理由」を読んだ。(29頁)
 以下、この4人について紹介しておこう。

〇竹俣当綱
・正義感の強い人物
⇒先代重定さまのころ、森平右衛門という者がいた。
 森平右衛門は、もとは、わずか3石取りのいたって身分のひくいものであったが、重定さまに重用され、たちまち350石取りとなり、さらに藩政の権力を一手ににぎった。
 その政策はすべて悪いとはいえなかったが、人事を勝手におこない、自分の縁者や一族で要職をひとりじめにした。さらに、公金を遊興に使うようなった。
・そこで、竹俣は森を刺殺した。
 しかし、重定さまは激怒され、竹俣に切腹を命じた。
・それを藁科松伯が救った。
 (藁科は医者。学問も深く、細井平洲先生の友人)
 細井先生に事情を話し、細井先生は、奥方さま(重定夫人)の実兄である尾張中納言に働きかけて、竹俣の生命は助かった。
※竹俣は藩中では気まずく、米沢本国から出され、江戸の藩邸で冷メシを食うことになった。

※竹俣は気骨の士であると同時に、大変な農政の専門家である。(29頁~30頁)
・竹俣は、よく村をまわった。
 農政家のかれは、土の間を歩くのが大好きだった。農民以上に土のことを知っていた。
 田や畠の中で、よく、本気で農民と議論した。
(ただし、後半部分ではそのような竹俣ではなくなった)
・竹俣は、名臣として治憲の改革を助け、縦横に才略を活用して、きびきびと改革を進めた。
⇒農政指導だけでなく藩が抱えていた莫大な借財を、何人もの商人に頼みこんで、返済を延ばしてもらったり、植樹のための資金を提供してもらったり、漆、桑、楮(こうぞ)などの大規模な植樹計画を立てて、実行した。
・細井平洲招請にも労を惜しまなかった
・耕田、殖産、蓄米など、いちじるしい業績はすべて竹俣のものであった。人々は竹俣を称讃した。

※竹俣は治憲の信頼を一身に受けて、江戸藩邸のときから改革案の作成に加わった。
 本国にあって執政に命ぜられ、改革の推進を殆ど一身に背負った。
 竹俣はおどろくべき才人であった。
 農業指導、地場産業の振興、財政運営、藩士の教育など、とにかく藩政のあらゆる面に才能を持っていた。
⇒治憲の考えていることを実行に移し、成果もあげた。

・しかし、竹俣も人に賞められつづけているうちに、次第に自分の功に酔った。そして堕落した。
(⇒どんなに優れた人間にも、好事魔多しというたとえがある。まして権力は魔ものである。権力に永く馴れていると、知らないうちに人間は堕落する。)
(563頁~564頁)

藁科松伯


・藩医であるが、むしろ学者。
⇒竹俣、莅戸、木村はすべてその弟子。
 この学問のなかまを“菁莪社中”(せいがしゃちゅう)と呼んでいる。
・藁科は直言の癖があって、佐藤以上に誰にでもズケズケものをいう。
⇒それできらわれている。
・ちょっと、からだが弱いので、佐藤も心配している。(31頁)

木村高広


・硬骨の士で、竹俣と同じ志に生きる人。民政の大家。
・本国の重職方の評判はよくない。煙たいから。(31頁)

莅戸善政


・改革派中心人物で、町奉行。
・莅戸は硬骨漢であった。
 貧乏な家に生まれ、先代の藩主重定の小姓に召し出されたとき、他の若者たちのように、新しい着物を買ってもらえなかった。父の着ていた古いよれよれの着物と袴をはいて出仕した。
・そして、先代の小姓になってからも、相変わらずいままでとおなじ服装をしているので、同僚の若者たちが、みんなで金を出しあい、それを持っていったところ、「そんな金があるなら、おれより貧乏な足軽たちにやってくれ」といった。
 そして、藩主の重定の許しをえて、それ以後もその古いよれよれの着物で通した。
・莅戸にとって、竹俣は改革の労苦をともにしてきた同志であった。
・後に、竹俣が失脚したとき、莅戸も政治生命を絶ってしまう。
 その莅戸が辞任したときに、歌を詠む。
「いまさらに みるも危うし丸木橋 渡りしあとの水の白波」
(よくも丸木橋から落ちなかったものよと、のちに莅戸は思い返してみてもゾッとすると述懐している)
(596頁~598頁、644頁)

※佐藤が書き出してきた人たちは、「藩内はみだし派」で、藁科松伯を核にしている正義派であった。
 かれらの特徴は、次のような点である。
・藩に巣食う社会悪に怒りをもっている。
・そういうことに気がつくと、相手かまわず直言する。
・その態度が周囲に、特に重役たちにきらわれて、閑職に追いやられてしまった。
・しかし、それぞれに、学問・民政・農政の知識と技術をもっている。(31頁)

治憲の師細井平洲先生


・細井平洲(へいしゅう)は、治憲にとっても、少年時代の学問の師である。(109頁)
・細井平洲は、尾張国(おわりのくに)の生まれで、名は徳民(のりたみ)といった。
 少年のころから京都に行って勉学したが、その期間は極度に生活をきりつめ、文字どおりの一汁一菜で通し、父から送られた学費は、ほとんど本に使った。
・故郷に帰るときは、ぼろぼろの着物で、からだも垢まみれ、まるで乞食のようだったが、馬を一頭引いていた。馬の背には、いままでに読んだ本が、馬が降参するほど沢山くくりつけられていた。
・二十四歳のときに江戸を出て、学塾をひらいた。 
 門人はすぐふえ、高山彦九郎などという変わり種もいた。
・平洲の学風は一応朱子学ではあったが、幅広い応用性を大事にした。
・「学問と今日(現実)とが別の道にならないようにすべきだ」というのが口癖であった。
(つまり、日常の実生活に役に立たないような学問は教えない、というのである)
・平洲は、治憲が十四歳のときに、その師として招かれた。
 「政治の基は道義であります」ということを徹底して教えた。
⇒「政治をおこなう者は、まず徳を養わなければならない」という治憲の態度は、平洲の教えがしみついているからである。
・十七歳になって家督を相続した治憲は、相続早々に平洲から、「まず領内の孝子や節婦の表彰をなされよ。領民のはげみになります」という助言を受けた。
(358頁~360頁)

・平洲を治憲の師としてすすめたのは、藁科(わらしな)松伯である。
(竹俣、莅戸、木村たちといった改革派は、すべて松伯の門人であった)
・平洲は、松伯への追懐の情をこめて、次のような歌を詠んでいる。
「浮雲の あとをしるべに訪いくれば 忘れず山のかいもなかりき」
「苫(とま)の道と いうより袖の露をだに せめては人の形見とも見む」
・松伯は三十三歳で若死にし、その松伯の辞世は、次のような歌であった。
「おしかりき 命のきょうぞおおからぬ さだめなりける数と思えば」
(452頁~453頁)

童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』の魚の叙述


この小説は、「池の魚たち」と題して、魚の叙述から始まる。

〇「池の魚たち」より
 上杉治憲は、江戸桜田にある藩邸の中で、じっと庭の池の中をみつめていた。
 池の中には沢山の魚がいた。金魚もいれば鯉もいる。藩士のこどもが外の川や沼で釣ってきて投げこんだハヤやヤマベもいる。フナもいる。生まれや育ちで、魚の生きかたもずいぶんちがう。ちがいは、泳ぎかたにあらわれた。泳ぎかたが、池の中におけるそれぞれの魚の意気ごみであり、この世に対する態度であった。池の全体像をとらえ、悠々と自信に満ちて泳ぐ鯉、泳ぐよりも底に坐って怠けていることの多い金魚、ツー、ツーと狭い池の中を、むかし育った川と勘ちがいして泳ぎぬくヤマベやハヤ、何を考えているのかわからないような泳ぎかたをつづけるフナなど、みていてまったく飽きなかった。
 飽きない理由は、治憲が、池の中の魚を藩邸の家臣に見立てているからである。それは治憲だけのひみつであった。そういう考えで魚を眺めていると実に面白い。
「色部照長や竹俣当綱などは、さしずめハヤだろうな。医者の藁科松伯や小姓の佐藤文四郎はヤマベだ。木村高広はひねくれているから、ゴリかな。しかし金魚も多い。特に国もとの米沢にいるのは金魚ばかりだ。泳がずにみんな池の底に坐っている。そういえば上杉家には鯉がいないようだ。藩全体をみわたして藩政を改革する鯉がいない。いや、私がそうならなければならないのだが、いまの私にはとてもそんな力はない。それに藩士の大部分は火中の栗を拾うのをいやがってみんな逃げ腰だ。私を助けようとする者はほとんどいない。一体、米沢藩をどうしようというのだろう。みんなは藩を潰してもかまわないと考えているのだろうか」
治憲は魚の泳ぎぶりをみながら、さっきからしきりにおなじ考えを頭の中でくりかえしてた。

(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、9頁~10頁)

池の中には沢山の魚がいた。
〇金魚~泳ぐよりも底に坐って怠けていることの多い
〇鯉 ~悠々と自信に満ちて泳ぐ
〇ハヤ ~ツー、ツーと狭い池の中を、むかし育った川と勘ちがいして泳ぎぬく
〇ヤマベ~ツー、ツーと狭い池の中を、むかし育った川と勘ちがいして泳ぎぬく
〇フナ ~何を考えているのかわからないような泳ぎかたをつづける

〇色部照長や竹俣当綱など~ハヤ
〇医者の藁科松伯や小姓の佐藤文四郎~ヤマベ
〇木村高広~ひねくれているから、ゴリ
※特に国もとの米沢にいるのは金魚ばかりだ。泳がずにみんな池の底に坐っている。そういえば上杉家には鯉がいないようだ。藩全体をみわたして藩政を改革する鯉がいない

〇「冷メシ派登用」より
 治憲は、佐藤との会話で、魚の比喩を使った。
「魚の泳ぎかたが面白い。生き生きと泳ぐ魚、怠けて底に坐(すわ)りこむ魚。飽きないぞ、とりどりで」
 治憲のこの言葉に、佐藤は、「さしずめ私は何でしょう、金魚ですか」ときいた。
 すると、佐藤はハヤかヤマベで、清流の魚だ(沼や池の魚ではない)と、治憲は答えた。
 そして、治憲は、いっしょに米沢へ行って、池で寝ている金魚を突っつく棒をもって、起こしてほしいといった。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、29頁)

〇「人形妻」より
 治憲が、竹俣たち改革派に頼んだのは、早くいえば方法であった。
 その方法は、何のためにおこなうのか。また、どうやって実施するのか。
 いや、池の金魚のようになっている藩士群は、どうやってやる気を起こさせるのか。
 治憲が何よりも苦しんだのは、藩士たちに、このやる気を起こさせることであった。

・上杉領は15万石である。しかし多すぎる家臣の俸禄の合計は13万3千石になる。
(いまでいえば人件費が歳入の88パーセントを占める予算を持つ自治体や企業があるだろうか。)
⇒その負担はすべて農庶民にのしかかる。あきれかえった農庶民は、法を犯してもよその国へ逃げだしてしまう。
・それなのに、藩士のほうは、自分たちだけの古い池で居心地のいい生活を送っていた。
 特に重臣たちは、年を経た金魚のように泳ぎかたを変えなかった。
(泳ぎかたを変えることは、生きかたを変えることだ。そんなことがいまさらできるか)というのが、米沢の池に棲む古い金魚たちの思想であった。
・その古い池を、棒を持ってかきまわしに行こう、と決意したものの、治憲は決して短兵急にいきなりその池をかきまわしてはならない、と自分にいいきかせた。
 それは、予想以上に自分をとりまく条件が悪いからである。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、56頁~57頁)

〇「普門院」より
関根街道から南へちょっと入ると、田畑の中に小さな普門院があった。
石段をたどり、草で葺いた門をくぐった。
治憲は、庭に出て、池の中の魚を見ていた。
「魚というのは面白いものだな」
 入ってきた佐藤、須田、芋川の三人の、誰へともなく治憲はいった。
「この池には、鯉、フナ、金魚、ハヤ、ヤマベ、いろいろな魚がいる。よく見ると泳ぎかたにもいろいろ特徴があるようだ。金魚や鯉はもともと池に飼われているので、泳ぎはゆるやかだ。フナは、ちょっとどっちかとまどっている。ヤマベやハヤは、川の魚だから泳ぎかたも忙しい。それぞれ生まれ、育ったところがちがうのだから、いろいろな泳ぎかたがあっていい。しかし、池の中に長く入れられていると、川魚が次第に緩慢な泳ぎかたになる。たとえば、このヤマベも、すでに長くこの池に入れられているとみえて、金魚のようにゆるやかな泳ぎかたをしている。これはいいことか悪いことか、むずかしいな」
むずかしいな、と、治憲は自分からは結論をひかえているような話しぶりをしたが、治憲が何を話しているのかは、三人にはすぐわかった。三人とも、
(お屋形は、米沢城内の藩士のことを話している)
と直感した。
 それは、藩庁を池に見立て、藩士を魚に見立てていた。その魚も古い魚と新しい魚に見立てている。新しい魚が、古い魚の影響によって、緩慢な泳ぎかたになるのを批判し、また、新しい魚をそうさせる古い魚をも批判している。どちらにしても、
(おれたちのことをいってやがる)
と、須田と芋川は思った。だから、
(相変わらず、嫌味なお屋形だ。若いくせに、説教ばかりしやがる)
と、たちまち不快になった。そして、
(会う早々こんな話をするようでは、どうせろくな用ではあるまい)
と腹が立ってきた。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、466頁~468頁)

治憲は、鯉、フナ、金魚、ハヤ、ヤマベの泳ぎかたに注目している。
〇金魚や鯉~もともと池に飼われているので、泳ぎはゆるやか
〇フナ  ~ちょっとどっちかとまどっている
〇ヤマベやハヤ~川の魚だから泳ぎかたも忙しい。

※佐藤、須田、芋川の三人は、治憲が、藩庁を池に見立て、藩士を魚に見立てていることを直感した。

【補足:米沢鯉】


米沢市のホームページに、「米沢鯉」について、次のようなことが記してある。

米沢鯉の歴史は古く、今から約200年前の1802年に遡るという。
当時、「むくみ」や「乳不足」で悩む人達が蛋白質を補うため、わざわざほかの藩から鯉を求め医療に利用したことを知った、第9代上杉藩主・上杉治憲公(鷹山)は、養鯉の先進地である現在の福島県相馬市に伝授をこうため用人を走らせ、持ち帰った稚鯉を米沢城のお濠で育てたことが始まりとされている。
 
最上川上流の雪国ならではの清く豊富な水で3年間飼育された米沢鯉は、肉が良く締まり、泥臭さのまったくない良質の鯉で人気がある。

現在でも米沢地方でのお盆やお正月、結婚式等のお祝い事には、鯉料理は欠くことのできない料理の一つ。鯉のあらい、鯉こくなど数多くの料理法があるが、代表的なものは「うま煮」である。酒、しょう油、砂糖でトロトロとじっくり煮つめた風味は格別のものがある。

ところで、童門冬二氏の小説にも、観賞用の錦鯉(にしきごい)の話が出てくる。
山口新介は、学校に通っていたが、あまり学問が好きではないから、講義の間は、池のほとりで水中の魚を見ていた。

続きには次のように叙述されている。
ここにも他国に売り出す鑑賞用の錦鯉が飼われていた。上杉治憲が、
「米沢領内の池、沼、あるいは水田も利用して鯉を飼え」
とすすめたあの鯉である。いまではいたるところで育っていた。そして面白いことに、この鯉がどんどん売れた。
 売れる先は、江戸である。
 賄賂好きの老中首座田沼意次(おきつぐ)が、色彩鯉が好きなのだ。そこで、大名や大商人が、田沼に贈るために、米沢の鯉を買いあさった。
 田沼の池は、たちまち鯉であふれた。池の中の鯉がいるのではなく、鯉の中に池がある、という状況になった。そうなると、大名、大商人は、自分たちの庭の池で鯉を飼い始めた。
田沼の真似をして、幸運や出世にあやかろう、というのである。
 そして、誰がいいだしたのか、
「鯉は米沢のがいちばんいい」
という評判が立った。米沢の鯉はとぶように売れた。が、買手が問題である。また、鯉の落ち着き先が問題である。
 治憲は、このへんを気にした。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、478頁~479頁)

このように、賄賂好きの老中首座・田沼意次(おきつぐ)が色彩鯉好きの話が出てくる。

長谷部史親(文芸評論家)氏は、「解説――すぐれた歴史小説の感動」において、田沼意次について、言及している。

江戸幕府は財政難に陥って、享保元年(1716年)に八代将軍の座についた吉宗が享保の改革を行い、中興の祖として幕政を整備する。だが倹約によって引き締められた綱紀が、時が経つにつれ緩む。享保の改革から約半世紀後の明和6年(1769年)、幕政の実力者として頭角をあらわした田沼意次が老中格となる。

田沼意次は、当時としては国際感覚にすぐれた傑物だったが、そのかたわら賄賂政治の元凶と見なされるのが一般的である。彼は天明6年(1786年)に失脚するまで、幕府内で権勢をほしいままにした。この20年あまりに及ぶ田沼時代は、若き日の鷹山が第9代米沢藩主として力を注ぎ始める時期と重なっていると、長谷部史親氏は解説している。

そして幕政では田沼意次の失脚と同時に、松平定信が寛政の改革に取りかかったものの、さほど有効な結果を生み出さなかった。このあと水野忠邦による天保の改革も、ほとんど失敗に帰したのは周知の通りである。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、662頁~663頁)

これらの改革についての童門冬二氏の解釈は、後述する。

治憲の藩政改革の骨子について


治憲の藩政改革の骨子について、童門氏は次のように整理している。
〇藩政窮迫の実態を正確につかむこと。
〇その実態を全藩士にしらせること。
〇実態克服のための目標をしっかりかかげること。
〇しかし、目標実現のためには、藩主としての治憲の能力と現在の藩の力には限界があり、藩士全員の協力が必要なこと。

いまの経営行動パターンに合わせれば、次のようになるという。
〇企業目標の設定
〇それに必要な情報の公開と分析
〇解決策の考究とそれを妨げる障害の認識
〇障害克服のためのモラールアップ、全社員参加

改革の骨子を決めておいて、その具体化のために、当面ふたつのことが大事だった。
〇そのひとつは、米沢へ行く前に、まず、江戸の藩邸で改革を実行すること
⇒つまり、隗(かい、いいだした人)より実行せよということ
〇もうひとつは、人が要る、ということ。
(これは一応、佐藤文四郎の進言で、菁莪社(せいがしゃ)の協力を得た)
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、58頁)

「断行」(59頁~104頁)の章では、冷メシ組がまとめた改革案の大要が示されている。
一、伊勢神宮の参拝は、いちいち米沢本国や江戸から使者を派遣しない。ちかくにいる京都留守居役の仕事とする。
一、年間の祝いの行事は全部延期する。
一、藩がおこなってきた宗教上の行事はすべて延期か中止する。
一、衣類は木綿のものにする。
一、食事は一汁一菜とする。ただし、歳暮だけは一汁二菜を認める。
一、贈答の習慣は一切禁止する。
一、建物などの修理は、公務でよく使う場所以外認めない。
一、幸姫(よしひめ)殿もふだんは木綿の衣類を着ること。
一、奥の女中は九人に減らすこと。

改革案の骨子は、上杉家がいままで守ってきた形式主義を粉々に砕くことであった。
治憲は、この案に誓詞をそえて、さっそく米沢の白子神社に納めようと告げた。
 
※明和4年(1767年)9月13日づけで、上杉治憲が奉納したこのときの誓詞は、それから125年後の明治24年8月に、はじめてその存在が知られた。
 それまで白子神社の箱の中に深く納められていた。
 治憲の誓詞には、
「国家が衰微して、国民が衰えてしまったので、このたび大節倹をおこないたい。このことは色部照長(江戸家老)も同意してくれた……」と書いてある。
ちなみに、色部はやがてこの誓詞にそむくような行動に出る。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、59頁~61頁)

藩政改革の具体策


一、伊勢代参は、距離的に近いところにいる京都留守居役におこなわせること。
一、神仏社寺に対する行事は、すべて当分中止すること。
一、年間の祝事もすべて延期すること。
一、行列はもっと減員すること。
一、邸内では木綿の衣類にすること。
一、食事は一汁一菜にすること。ただし歳暮だけは一汁二菜にすることを認める。
一、贈答は一切禁止すること。
一、住居、台所、馬小屋など、あるいはふだん使わないところの補修は、ほんのかんたんなものにすること。
一、幸姫も木綿を着ること。
一、奥女中は九人に減らすこと。

冷メシ組のつくった案を治憲は一項目ずつ読みあげた。
策の底を流れているのは、“虚礼廃止”である。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、65頁)

この藩政改革案に対する重臣たちの結論は次のようなものだった。
【重臣たちの結論(千坂高敦)】
〇まず、このような大事なご改革案を、米沢本国のわれわれにはひとことも相談なく、江戸で勝手に作成したこと。
〇つぎに、江戸でのご改革の趣旨は、お屋形が自らお告げになったのに、米沢本国においては重職の私が告げたのでは、いかにも本国の家臣を軽く考えているようにとられること。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、143頁)

それに対して、治憲は、自らの限界を認めつつ、城の大広間で説明した。
【藩主としての治憲の限界】
(1) 私は大藩の生まれではなく、九州の小藩の生まれである
(2) 若年である
(3) 経験が非常に不足している
(4) 米沢藩を継いだものの、米沢本国には初めて入って来て、米沢の実態を全然知らない
(5) 今日、広間に集まってもらったおまえたちとは初対面であり、江戸藩邸でいっしょにくらした者のほかは、ほとんど誰をも知らない
(6) 同時におまえたちの方も私をまったく知らない

この広間でみんなに頼むことは、指示・命令ではなく、協力の要請である。

そして治憲は「三助」を提案する。
「三助とは、
一、自ら助ける。すなわち自助。
二、互いに近隣社会が助け合う。互助。
三、藩政府が手を伸ばす。扶助。
の三位一体のことである」とする。

(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、151頁、153頁)

改革派(冷メシ組、“奸物”)VS重臣たち(“米沢の老金魚たち”)


改革派(冷メシ組、“奸物”)VS重臣たち(“米沢の老金魚たち”)について、ここで整理しておこう。(主要登場人物を参照のこと)

<改革派(冷メシ組、“奸物”)>
佐藤文四郎 さとうぶんしろう 治憲の近習。治憲を敬愛し忠義を尽くす。
竹俣当綱 たけのまたまさつな 農政の専門家。改革派の中心人物で、奉行。
藁科松伯 わらしなしょうはく 医者。細井平洲の弟子。改革の途中、三十三歳で死去
木村高広 きむらたかひろ 民政の大家。御側役として改革派を支え詩文にも優れた。
莅戸善政 のぞきよしまさ 改革派中心人物で町奉行。

<その他の改革派>
北沢五郎兵衛 きたざわごろべえ 国侍。改革派として小野川の荒地開墾に尽力する。
山口新介 やまぐちしんすけ 国元の改革派。佐藤文四郎の親友。

<重臣たち(“米沢の老金魚たち”)>
須田満主 すだみつたけ 江戸家老。藩政改革に反対し七家騒動で、切腹苗字断絶。
芋川延親 いもかわのぶちか 侍頭。七家騒動に際し、切腹苗字断絶。
色部照長 いろべてるなが 江戸家老。七家騒動で、半知取りあげ、隠居閉門。
千坂高敦 ちさかたかあつ 侍頭。七家騒動で、半知取りあげ、隠居閉門。
長尾景明 ながおかげあき 侍頭。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
清野祐秀 きよのひろひで 筆頭奉行。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
平林正在 ひらばやしまさあり 侍頭。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。

<重臣たちの息子>
須田平九郎 すだへいくろう 須田満主の息子。父親の処罰の件から治憲を憎む。
芋川磯右衛門 いもかわいそえもん 芋川延親の息子。父親の処罰の件から治憲を憎む。
神保甲作 じんぼこうさく 須田・芋川の友人。重役、神保綱忠の息子。

「重役の反乱」


「重役の反乱」(284頁~318頁)では、上記の重臣たちの反乱について、述べている。

【治憲への論難】
〇そもそも、ご政治の本体は家臣への賞罰にあります。しかるに、最近のお屋形さまの賞罰はすべて筋ちがいです。
〇先年、ご籍田(せきでん)の礼までとらせられて、領内の諸所に新しい田畑をひらかれましたが、一体、どれほどの実りがあったでしょうか。
〇ご自身、一汁一菜の食事や、木綿の衣類でお通しになっておられますが、そんなことは小事中の小事で、ご政治とは何のかかわりもありません。
〇小野川の開拓地で開拓の士に酒の酌をなさったことや、先日、福田橋で橋の修理に当たっていた士庶に、礼をなされ、しかも下馬してお渡りになったことなど、下世話でいう“こどもだまし”の類であります。

※武士が土を耕し、橋の修理の工夫になるということは、米沢藩だけでなく、当時の266もある日本中の藩にとっても前代未聞のことだという。

【重役たちの要求】
一、御生活を越後風に改めおとなしくして下さい
一、もの堅く厳正なる者をお用いになって下さい
一、今なさっていることを一切中止して、誠実な藩政に戻して下さい
一、口先ばかりの理屈をお捨てになって、重厚な政策をおとり下さい
一、賞罰の誤っていることを、深く反省して下さい
一、目下、米沢の国風は、しまりがなくて、いたずらにひそひそとしております。活気もなく、騒々しくて仕方がありません。人心も、向上心がなく、ふわふわ浮気が多くなっております。忠信がなくなってすべて追従(ついしょう)に終っております。これらはすべて竹俣はじめ侫人奸人たちの余毒です
一、竹俣、莅戸をはじめ侫奸の者をお退け下さい。われわれほど、国政に精通して、国を中興できる者はおりません。しかし、われわれは口べたで、文学も心得ないために、今退けられておりますけれども、現在藩政を取り仕切っているような侫奸のきもちはまったくございません。われわれをお用いになれば御政道も正しくたちなおると思います
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、309頁~312頁)

第八代米沢藩主、つまり養父の上杉重定は、養子の治憲に味方した。
「ここまで、あなたが苦労されていようとは思わなかったのです。まったくもって不届至極、あれが高禄を食(は)む重役かと思うと、なさけなくなります。」
他家から入り、底をついた米沢藩の財政再建を、一身の肩に負っているこの若い養子に、重定はていねいなことばを使う。それは、障害児として育った娘の幸(よし)にも、治憲が人の及ばない愛情を注ぎつづけてくれていることへの感謝のきもちも、含まれていた。
そして、重定は、重役どもの処断を治憲にゆだねた。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、317頁~318頁)

「処分」


「処分」(319頁~346頁)では、治憲が重臣たちを処分したことを記す。

安永2年(1773)7月1日に、治憲は判決を下した。
「おまえたちがさし出した建言書について、全藩士にたしかめた。しかし、おまえたちがいうような事実はまったくない。民もまた藩の方針によく帰服している由である。即ち、おまえたちは重職の身を忘れ、それぞれの非念によって徒党を組み、上をあざむき、下をもあざむいた。よって急度(きっと)仕置を申しつける」

仕置は、
切腹 須田満主、芋川延親
隠居・閉門・半知召上げ 千坂高敦、色部照長
隠居・閉門・知行のうち三百石召上げ 長尾景明、清野祐秀、平林正在

※きびしい判決であった。
 切腹がふたりも出たことには、さすがに全藩士も動揺した。
 そして、治憲が一旦筋を通すとなると、果断に厳刑を下す一面があることを、身にしみて知った。
 たかをくくっていた七人にとって、茫然とするきびしい断罪であった。

 治憲からすれば、七人の書いたことが不当であっても、その背後に多くの支持者がいて、書かれたことが多くの藩士の意見であるなら、治憲は潔く藩主の座を去り、高鍋に帰ろうと思っていたのである。藩士世論の支持のない改革は、進みっこない。本当にそれが藩士世論であるならば、言い訳をせずにだまって去ろうと心に決めていたのである。しかしちがった。治憲は怒った。上に立つ者が、下の者のきもちが代弁していると称して、まったくの嘘をついて、自分たちに都合のよいようないい方をしたことが、治憲を怒らせたのである。


※きびしい処分を実施してからちょうど2年目の、安永4年(1775)7月3日に、治憲は須田・芋川の家は、それぞれ遺児の平九郎と磯右衛門に継がせる。そして両家の系図や重宝の刀を返し、新知二百石を与える。
また、閉門中の色部・千坂・長尾・清野・平林らも罪を許し、それぞれ嗣子に家を継がせる。しかし、そこへ行くまでの二年間は、七家は治憲を恨んだ

(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、341頁~343頁)

ここで、もう一度、主要登場人物の中で、重臣たちおよびその息子を列挙しておく。

須田満主 すだみつたけ 江戸家老。藩政改革に反対し七家騒動で、切腹苗字断絶。
芋川延親 いもかわのぶちか 侍頭。七家騒動に際し、切腹苗字断絶。
色部照長 いろべてるなが 江戸家老。七家騒動で、半知取りあげ、隠居閉門。
千坂高敦 ちさかたかあつ 侍頭。七家騒動で、半知取りあげ、隠居閉門。
長尾景明 ながおかげあき 侍頭。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
清野祐秀 きよのひろひで 筆頭奉行。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
平林正在 ひらばやしまさあり 侍頭。七家騒動で三百石召しあげ、隠居閉門。
須田平九郎 すだへいくろう 須田満主の息子。父親の処罰の件から治憲を憎む。
芋川磯右衛門 いもかわいそえもん 芋川延親の息子。父親の処罰の件から治憲を憎む。

北沢五郎兵衛の説いた「孟子」の教え~「新しい火を」より


主要登場人物の中に、改革派として小野川の荒地開墾に尽力した人物として、北沢五郎兵衛という国侍が挙げられている。この人物について述べておこう。

小野川の温泉宿の女将である千代(ちよ)は、小野川の学校に通っている。
小野川開墾地の采配をとっている北沢五郎兵衛が先生である。
(北沢は、板谷宿の失策で切腹しなければいけなかった身を、治憲に救われた人物であった)
その北沢が塾をはじめたのである。
ただ鍬をふるっていても駄目で、何のために鍬をふるうのか、やはり学問をしなければいけない、という。
開墾地に住む藩の侍の子に限らず、誰が来てもよいとし、千代も通うことにしたようだ。

〇北沢が使う教材は、「孟子」だけであった。
孟子は、人間は誰でもその性は善である、他人に対するやさしさを持っている、しかし、何らかの理由で、そのやさしさが表に出ないことがあると説いている。
そのやさしさを素直に出しあうために、もういちど、孟子を勉強しあおうと、北沢は考えた。

北沢は、孟子が書いた“井戸に落ちるこども”の話をよくした。
人が井戸のそばを通りかかったとき、いましもこどもが井戸の中に落ちようとしている。そのとき、それを見た人はどうするか。衝動的にこどもを助けに走るだろう。
そういう人間の自然な心を、孟子は“忍びざるの心”といった。見ているには忍びないという意味である。

〇人間が他人の役に立つためには、まず、この忍びざるの心を持つことが必要だ。井戸に落ちかかるこどもがいたら、衝動的に走り出すやさしさを持つことから始めなければならない。
この開墾地で、そのやさしさをまなぼうと、北沢は説いた。
つまり、孟子の“忍びざるの心”を例に、他人のやさしさを教えた。

(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、377頁~379頁、395頁)

「竹俣処断」~泣いて馬謖を斬るの故事


汚れ役をになった竹俣を治憲は処断した。
治憲は、清い政治を貫いた。
米沢を再びにごった沼にしてはならぬ。米沢藩の改革は領民のために清い方法で行う。
領民の眼にいささかの汚れを見せてはならない。

そして治憲は、「私は馬謖(ばしょく)を斬(き)る。泣いて斬る」といった。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、595頁)

【補足:「泣いて馬謖を斬る」】


・これは、「泣いて馬謖を斬る」という故事である。
規律を守るために、私情を離れ涙をのんで愛する者を処分するという意味である。
・語源としては、『蜀志』諸葛亮伝などに見るように、次のような故事である。
 三国時代、蜀の諸葛孔明(しょかつこうめい)は、腹心の部下であった馬謖(190―228)が命に背いて大敗を喫したことから、軍律違反のかどでやむなく斬罪に処した。
(『明鏡国語辞典』より)

・英訳すると、次のようになるようだ。(『プログレッシブ和英中辞典』より)
 mete out justice to an offender, regarding discipline more important than personal feelings
【単語】
 mete (他動)<賞・罰など>を[…に]割り当てる、<罰・報酬>を与える 
    (名)計測、計量
 offender (名)(法律上の)犯罪者、違反者



竹俣の罰は、
「竹俣の一切の役を免ずる。本人は終身禁固にせよ」
というものだった。

本来なら、重大な過失なので切腹だったろう。
しかし、藩政改革の功績を勘案して、治憲は寛大な処分にした。
莅戸善政が、治憲の命を江戸から米沢へ急行して伝えた。
(莅戸は、竹俣にこの判決をいい渡すと、盟友にかかる罰を申し渡して、おめおめと役はつとめられぬ、といって、辞職した。つまり竹俣の失脚は、そのまま硬骨漢の莅戸の政治生命も絶った。)

罰せられた日、竹俣は54歳であった。
竹俣は芋川邸に幽閉されること3年で、後に自分の家に帰ることを許されたが、謹慎は解かれなかった。
10年の禁固刑に処せられて、寛政5年(1793年)に死んだ。65歳であった。

禁固中、竹俣は歌を詠んだ。
  積もる園 いつかは我が身に白雪の
   今日の寒さを訪(と)う人もなし

竹俣は幽閉中もいろいろな改革論を書き、「長夜寝語」「樹養編」「文武論」「政談夜光集」などの政務要書数十巻を書いた。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、595頁~599頁)

<著者・童門冬二氏のコメント>
・「トップの信頼を一身に集めて、自分ではそのつもりでなくても、権力が集中していると見られれば、まわりの人間が放っておかず、寄って集(たか)って堕落させてしまう典型的な例であった」(600頁)
・根まわしとか、仁義を切るというような古いしきたりに、竹俣はひきずられた。竹俣にもそういう古さが残っていたと、童門氏はみている。つまり、目前の現実に即応して、改革理念の偉大さを忘れた人物、それが竹俣だった。

そして、トップ側面の補佐役の責務として、現代に即して、次の点を童門氏は列挙している。
・社会状況の変化で、所属企業に何がもとめられているのかを知り、
・そのニーズに応えるには、いまの企業目的や組織や社員の意識が、それでいいのかどうかを反省し、
・それをどう改革して、上を補佐し、下を指導するか、これらを自分で的確に把握することが大切であるという。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、600頁~601頁)

「伝国の辞」


天明5年(1785年)2月3日、上杉治憲は幕府に隠居を願い出た。
治憲は、自身が上杉家の養子に入ったときから、漠然と考えていた。
(上杉の家は、なるべく早く上杉の血筋の人間に渡さなければならない、と。)

九州の日向高鍋(ひゅうがたかなべ)の、3万石の小大名の家から、米沢15万石の大名に入ったのだから、ふつうなら、あくまでも自分の血筋の者に相続させようとするだろう。
こう思うのが、人情だ。
しかし、治憲はそうは考えなかった。
そして、治憲が、上杉家の血筋の人間に上杉家を渡したい、という思いが具体的にうながされたのは、治憲が養子に入った後に、養父重定に実子が生まれたことであった。
治憲は、この子が13歳になったとき、自分の世子とした。

振り返ってみると、治憲が家督を継いだとき、17歳だった。
米沢へ本国入りしたのは、19歳のときである。
米沢藩士や藩民からみれば、足りないものだらけの藩主であった。
〇若い
〇九州のちっぽけな大名の家から養子にきた
〇米沢のことは何も知らない
〇米沢の家臣は誰も治憲を知らないし、治憲もまた家臣の誰も知らない

しかし、この若い養子藩主は、民は国の宝だと思って、上杉家の再建を実行した。
藩士ひとりひとりが改革の火種になり、他人の胸にその火を移してほしいと願いつつ、改革を進めていった。
治憲が進めた地場産業で、領民たちはうるおっていった。そして領民たちは、若い養子藩主が愛情と思いやりのある人間であることを知った。

しかし、竹俣当綱(たけのまたまさつな)の事件が持ち上がったとき、治憲は大きな不安におちいった。
それは、改革派が、新しい権力を持った派閥と見られているということであった。
(治憲は古い派閥をこわし、藩を風通しのいい職場にするために改革を始めたが、それをこわす勢力を、藩士や藩民の中には新しい派閥だと思う者もいた)

治憲は竹俣を罷免した。
治憲が、隠居しようときもちを強めたのは、改革派が治憲を頼りにしすぎる、と感じたからであろうと、童門氏は推測している。
そのことが、もっとも端的に現われたのが、世子治広(はるひろ)に対する教育係の木村高広の態度であった。
治広が13歳のときに、正式に世子にすることを幕府にとどけ出た治憲は、教育係に硬骨漢の木村高広をつけた。が、結果として、この人選は失敗だった。
木村の頭の中には治憲の映像しかなく、世子教育の基準(ものさし)は、すべて治憲の言行であった。

江戸藩邸で世子の教育を、よろしく頼むと、治憲に命じれられたとき、木村が決意したのは、「治広さまを、治憲公のように仕立てあげよう」ということであった。
木村から見れば、13歳の治広は、まるで駄目な少年だった。木村は、何かと治憲をひきあいに出して、“ぐうたら二代目”を責めた。治広は自信をなくし、木村の言葉に食傷し、屈辱感を味わった。

木村の教育が19歳になるまでつづいたから、治広は、完全にかたくなになってしまった。治広は、木村に対して強硬になり、反抗的態度を露骨にした。
木村は、治広の教育に失敗したことを知る。
木村は辞職し、家にこもった。硬骨漢で剛直な木村は、治広にきらわれたことで、お屋形さまに申し訳ないと思い、自刃したそうだ。木村は52歳であった。

治憲には、衝撃であった。「火が消えた」と思ったことであろう。
治憲の周囲には、もう殆ど人がいなくなった。
●藁科松伯がまず最初に死んだ。
●竹俣当綱が堕落して職を去った。
●その責任を感じて莅戸善政も辞職した。
●そしていままた木村高広が自刃した。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、606頁~616頁)

改革政策の復活


鷹山は、莅戸善政を登用して、彼に神保甲作、あるいは黒井忠寄らを配して、表面は治広体制を強化しながら、内実は鷹山が政治指導をした。

かつての改革政策を復活し、養蚕を奨励し、その他の国産品を振興し、医学館も建て、堰をつくり、村々に伍什組合をコミュニティとして組織させ、つぎつぎと富民を実現していった。藩政は再び安定した。

このころ、幕府は田沼意次の賄賂政治が終り、そのあと始末のために、八代将軍徳川吉宗の孫で白河藩主の松平定信が老中となり、改革をおこなっていた。しかし、余りにも商業を無視し、また、ただ幕府の財政再建だけを目的にする定信の改革は、あきらかに失敗の道をたどっていた。定信はやがて失脚した。国民は、
「白河の清い政治よりも、元の濁った田沼が恋しい」
と落首した。

こういう中で、上杉鷹山の改革は着々と成功していた。これは二百六十余もある日本の藩の中でも珍しいことだった。

<童門冬二氏のコメント>
童門冬二氏は、上杉鷹山を次のように見ていた。
・どんな絶望的状況にあっても複眼の思考方法を持ち、歴史の流れをよく見つめるならば、閉塞状況の中でも、その壁を突破する道はあるのだということを、鷹山は示したという。
・鷹山は、決して人情一辺倒のトップではなかったとみる。
 かれは、はるかに柔軟な思考と、果断な行動力を持っていた。そしてそれをおこなうのに、徳というシュガーコートをまぶした。
(しかしその徳は、かれの生来のものであり、メッキではなかった。まやかしものではなかった)
・率先垂範、先憂後楽のかれの日常行動は、多くの人々の心をうった。かれが、贋物(にせもの)でなく、本物の誠実な人間であったからである。
・世の中が湿っぽく、経済が思うように発展しないと、人々は、どうしても他人を責めたり、状況のせいにしたりすることが多い。しかし、鷹山はそれを突破した。鷹山の藩政改革が成功したのは、すべて、「愛」であったという。他人へのいたわり・思いやりであった。藩政改革を、藩民のものと設定し、それを推進する藩士に、限りない愛情を注いだとみる。
鷹山が甦らせたのは、米沢の死んだ山と河と土だけではなかった。かれは、何よりも人間の心に愛という心を甦らせた。

・そして、徳川幕府による三大改革についても、コメントしている。
人間の心に愛という心を甦らせることなくしては、どんなにりっぱな藩政改革も決して成功はしない。鷹山の治績は、そのことを如実に物語っている。
そして、それは徳川幕府による三大改革が、特に白河楽翁といわれた名君の松平定信の寛政の改革と、水野忠邦による天保の改革が、余りにも明確に失敗した例によってもはかり知れるであろうとする。
名宰相といわれたこのふたりは、幕臣に対しても、民に対しても愛情を欠いていたといい、それが改革を失敗させた主因であると童門氏はみる。鷹山は、その轍を踏まなかったという。
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、650頁~652頁)

「鷹の人」


童門氏の小説は、「鷹の人」章で終わっている。どのように描いているのか?
上杉治憲、佐藤文四郎、山口新介の三人は、板谷峠の宿駅に行く。それは、灰の中から火種を見つけた思い出の場所であった。季節は春で、里では一斉に花が咲いていた。死の国、灰の国だった米沢は緑と紅の色に染まっていた。

一羽の鳥がとんでいた。天を悠々と舞っていた。天がまるで自分ひとりのもののようにだ。
「鷹だ、珍しい」
佐藤がいった。うなずいた山口が、
「まるでお屋形さまだ……」
とつぶやいた。そして、天に舞う鷹を仰ぎ見たまま、こんなことをいった。
「お屋形さま、藩政に何かあったときは、あの鷹のようにさっと降りてきてください」
鷹山は何もいわなかった。何もいわずに微笑んでいた。しかしその眼の底には、米沢への深い深い愛情が湛えられていた。
鷹山は、はるか下方の米沢に目を移した。そしていった。
「美しい国だ」
……

文政5年(1822年)2月12日、鷹山は病を得て床に就いた。そのころは、治広から斉定に家督が継がれていたが、ふたりはもちろん、家臣団のすべては深く憂慮した。しかし、3月12日の早暁、丑の刻に、鷹山はついに冥界に旅立った。72歳であった。廟号を、
「元徳院殿聖翁文心大居士」
という。
鷹山が振興した米沢織、絹製品、漆器、紅花、色彩鯉、そして笹野の一刀彫りにいたるまで、現在もすべて健在である。鷹山の墓は旧米沢城内にある。
                           (完)
(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、653頁~659頁)

余談~上杉鷹山とジョン・F・ケネディ大統領


アメリカのジョン・F・ケネディ大統領が日本人記者団と会見した際に、
「あなたがもっとも尊敬する日本人は誰ですか」
と質問された。
そのとき、ケネディは即座に、
「それはウエスギヨウザンです」
と答えたという。
ところが残念なことに、日本人記者団のほうが上杉鷹山という人物を知らず、
「ウエスギヨウザンて誰だ」
と互いにききあったというエピソードがある。

ケネディは、日本の政治家として、鷹山の姿に、理想とする政治家の姿を見たのかもしれない。
(日本の政治家として、何よりも国民の幸福を考え、民主的に政治をおこない、「政治家は潔癖でなければならない」といって、その日常生活を、文字どおり一汁一菜、木綿の着物で、鷹山は通した)

ただ、ケネディが鷹山に関心を持ったのは、おそらく英訳された治憲の「伝国の辞」を読んだためらしい。
(内村鑑三が、英文で、鷹山を紹介したからである)

【付記】
天明五年二月六日 治憲の隠居 治広の相続を許可
「人君の心得」 三条を示した
世間は「伝国の辞」と呼んだ。

童門氏によれば、鷹山の考えは藩機関説だという。
藩は人民の合意を、実行するための機関だとする。
およそ200年ほども前に、こういう民主主義的な考え方を表明したことは、徳川幕藩体制下では稀有(けう)のことであった。また、鷹山の思想がどれほど思い切ったものであったかを示している。
まだ、近代民主主義が発達しているわけでもなく、鷹山がまたそんなことを知るわけもない。
あくまでも鷹山の独創であったと、童門氏はみている。
そして、日本人よりもむしろアメリカ人のケネディのほうが、敏感に、しかも実感をもって鷹山の考えを汲み取ったとする。

(童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]、619頁~621頁)



≪童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』を読んで≫

2022-05-12 19:05:22 | 私のブック・レポート
≪童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』を読んで≫
(2022年5月12日投稿)

【はじめに】


 今年のゴールデンウィークは、コロナ禍ということもあって、自宅で小説を読んで静かに過ごした。
 今回と次回のブログでは、童門冬二氏の次の2つの小説を紹介してみたい。
〇童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]
〇童門冬二『全一冊 小説 上杉鷹山』集英社文庫、1996年[2007年版]

 渋沢栄一(1840-1931)といえば、昨年2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公であり、「資本主義の父」として知られる、日本を代表する経済人である。そして、2024年度(令和6年度)発行予定の新1万円札の顔となる人物である。
 小説家童門冬二氏は、どのように渋沢栄一を描いているのか?
 この点に焦点をあわせて、この小説を紹介してみたい。
 



【童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』(集英社文庫)はこちらから】
童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』(集英社文庫)



童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]

【目次】
・攘夷派からの大旋回
  平岡円四郎との出会い
  攘夷派から一転して開国派へ
  一橋慶喜への大胆な進言
・人間渋沢の誕生
  藍の買いつけで見せた非凡さ
  日本の地下水脈を発見
・動乱の京都で
  故郷、血洗島への凱旋(がいせん)
  民衆を苦しめる武士への怒り
  親兵募集で実力を発揮
・西郷との暗闘
  大実業家の片鱗(へんりん)
  日本の進むべき道はいずれか
  慶喜の真の黒幕
・幕府倒壊
  胸を打った近藤勇の言葉
  万国博覧会使節としてパリへ
  金融制度の重要さを実感
  冷静な対応
・維新後の雌伏(しふく)
  慶喜のいる静岡へ
  “実業の道”への決意
  商法会所の頭取として新政府に貢献
  「士魂商才」の精神
・貫き通した「論語とソロバンの一致」
  大隈重信のたくみな誘い
  大蔵省で大改革を敢行
  実業家の資質とはなにか
  渋沢栄一、その精神の原点
  今よみがえる渋沢の心
あとがき
解説 末國善己




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・はじめに
・文芸評論家の末國善己氏の解説
・登場人物
・童門氏の渋沢栄一像~小説の「地下水脈」というキーワード
・栄一の考えた「共力合本法」
・渋沢栄一の理念としての「論語とソロバンの一致」
・貫き通した「論語とソロバンの一致」
・渋沢栄一の「万屋主義」




文芸評論家の末國善己氏の解説


童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』(集英社文庫)は、渋沢栄一についてどのように描いているのか。
文芸評論家の末國善己氏は解説(258頁~265頁)において、次のように捉えている。
童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』は、栄一の前半生に着目することで、二つの謎を解き明かし、現代人は渋沢から何を学ぶべきなのかを描いている。
その二つの謎とは、
①なぜ栄一は誰からも一目置かれる官僚ではなく、実業家の道を歩み民間活力の育成に尽力したのか?
②なぜ栄一だけが、資本主義のシステムを日本に輸入し、根付かせることができたのか?
 そして帝国主義の時代にあって、なぜ栄一は、金を稼ぐためなら手段を選ぶ必要はないという強欲を批判し、商業活動には高い倫理観が必要という思想(いわゆる「論語とソロバン」)を構築することができたのか?
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、259頁~260頁)

ところで、2024年を目処に発行される新1万円札に、“日本の資本主義の父”と呼ばれる渋沢栄一の肖像を使うことが発表された(2019年4月)。
末國善己氏は、その渋沢栄一について次のように捉えている。
〇渋沢は、最後の将軍・徳川慶喜に仕えた幕臣
〇1867年のパリ万博に将軍名代として出席した慶喜の異母弟・昭武(あきたけ)の随員としてフランスに渡る
⇒そこで最先端の産業と経済システムを目の当たりにする
〇大政奉還により帰国し、静岡で謹慎している慶喜を支え、フランスで学んだ経済理論を活かして、1869年1月に、日本初の合本(株式)組織「商法会所」を設立した
〇同年、1869年10月には、大隈重信の説得で、大蔵省(現在の財務省と金融庁)に入る
⇒全国測量、度量衡の改正、会計に複式簿記を用いる簿記法の整備、新通貨を円とする貨幣法と江戸時代に各藩が発行していた藩札と円を引き換える藩札引換、国立銀行条例の実施などに尽力
(生まれたばかりの近代国家・日本の財政制度の構築)
〇しかし、予算編成をめぐって、大隈重信、大久保利通らと対立し、1873年に井上馨らと下野
 それ以降は、次のような現在も続く大企業の設立や経営に携わり、その数500以上とされる
 ・大蔵省時代に設立を主導していた第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の頭取に就任
 ・東京瓦斯(ガス)(現在の東京ガス)
 ・東京海上火災保険(現在の東京海上日動火災保険)
 ・王子製紙(現在の王子製紙、日本製紙)
 ・田園都市(現在の東京急行電鉄)
 ・秩父セメント(現在の太平洋セメント)
 ・帝国ホテル
 ・麒麟(キリン)麦酒(現在のキリンホールディングス)
 ・サッポロビール(現在のサッポロホールディングス)
 ・東洋紡績(現在の東洋紡)
 ・大日本製糖など
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、258頁~259頁)

童門冬二氏の「あとがき」


童門冬二氏は「あとがき」において、次のようなことを述べている。
〇幕末の思想家横井小楠
〇渋沢栄一
二人とも「道」の問題を唱えたと理解している。


童門氏が、改めて渋沢栄一を書いたのは、「経済界における道の復活」の小さなきっかけが得られればと思ってのことであるという。
(企業経営家だけでなく、日本人全体が努力すべきだとする)

二宮金次郎の報徳の考えを、童門氏なりにメモしている。
「分度・勤労・推譲・至誠」の考えは、経済界の一つの指針になるだけでなく、それは日本の国そのものの歩み方にも何がしかを示唆してくれるという。
(同時にまた、日本人一人ひとりの生き方の問題にもなってくれる)

童門氏は、この本で、渋沢栄一の前半生に主力を注いでいる。
その理由について、次のように記している。
明治の大実業家渋沢栄一を理解する、よすがになるのは、少年時代から青年時代、そして壮年時代に得た渋沢の、いわば「実業家としての心の核」が何であるかを追求することであると、童門氏は考えたからである。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、256頁~257頁)

登場人物


渋沢栄一


・栄一は、武蔵国(むさしのくに、埼玉県)の豪農の息子
・もともと栄一には、家を継いで、農業や商業に精を出す気はまったくない。
 憂国の志士気取りで、国家の役に立ちたいという気持ちで一杯だった。
(ただ、100両の金をもらうと、気が大きくなり、栄一は豪遊して、金は底をついてしまう)
・江戸の牢に放り込まれた尾高長七郎のこともあり、京都に着いても、不安な思いで、花街で遊んで忘れようとつとめていたある日、一通の手紙が届く。差出人は平岡円四郎である。
 翌日、栄一と喜作は、一橋の陣屋に、平岡を訪ねた。そこで、平岡は一橋家に仕えてみないかと二人の説得工作を行なった。
 円四郎は老練な人間だから、慶喜様と二人をそれとなくお目にかかる方法を取った。
 慶喜様は、毎朝早く、下賀茂(しもがも)から松ヶ崎(まつがさき)辺りまで、ご乗馬をなさるから、それを途中で待ち構えていて、慶喜様の馬を追いかけるという。
 当時かなり太っていた二人は、これを実行に移し、何とかお目通りがかなう。
(「平岡円四郎との出会い」より、16頁~21頁)

・「日本資本主義の父」
・武蔵国血洗島村の農家に生まれた栄一は、幕末には過激な尊王攘夷青年となっていた。
・平岡円四郎との出会いが彼の運命を変える。
 一橋慶喜の家臣となり、その本質を捉えたぶれない判断力と交渉力でめきめきと頭角を現していく。
・パリで学び帰国した後は士魂商才を掲げ、「論語とソロバン」の精神で、五百を超える事業に関わる。
・現代に通じる経済の礎となった男の生涯

【栄一の性格について】
・栄一は、武蔵国の豪農の生まれだから、金に困ったことはない。
 そういう意味で、栄一は本当の貧乏の味を知らない。
 (金がなくなっても、何とかなるさというようなお坊ちゃん的気質がまったくなかったとはいえない)
 が、半面からいえば、それが栄一の強みでもあった。
 したがって、栄一はどんな窮況に陥っても卑しい行為はしなかった。
 借りた金も、一橋家に仕えるとすぐ勤倹節約して返した。
 そういうけじめをつけていた。
 (「動乱の京都で」より、77頁)

・栄一は徳川幕府が倒れたといっても、別に悲しんだり、怒ったりはしない。もともと武士が嫌いだからである。
 武士が思うままに政治の実権を握り、農工商の三民を虐げてきたのは300年にも及んでいる。そのために、栄一もしばしば嫌な思いをした。
 (栄一の場合は、まだ家が豪農だったから多少の防壁にはなったが、貧しい農民たちの虐げられ方に対しても、義憤を感じ、だからこそ、尊王攘夷論を唱え、討幕運動に邁進した。)
・しかし、方向が狂って、たまたま一橋家に仕えるようになった。 
 まわりは全部武士である。そうなると、やはり環境のせいで栄一の武士の精神がまったく影響しなかったとはいえない。むしろ、栄一の方が他の幕臣と比べて、「武士道」あるいは「士魂」を持っていた。

※栄一は「武士道」あるいは「士魂」というような精神を植えつけたのは、いうまでもなく父と、一族の尾高惇忠だと、童門氏はみる。とくに尾高惇忠の影響は強い。
(武士道といい士魂といっても、栄一の受け止め方はあくまでも「人間の道」すなわち「道徳」ということである。「人として、歩まなければならない道と、踏み外してはならない道」の存在である。栄一は、死ぬまでこれを守る。)
(「維新後の雌伏」より、174頁~176頁)

栄一の父、美雅


・栄一の父は、美雅(よしまさ)といった。(晩香という号を持つ雅人だった)
・美雅は、もともと渋沢本家の出ではなく、分家の出身だった。
・養子に来て本家を継いだという遠慮もあってか、かなり几帳面に仕事をした。
(金銭の扱いについても、決してないがしろにしなかった)
・栄一が京都に行こうとした時には、父親から100両の金をもらっていた。
 (世間体があるから、表面は、栄一を勘当したことにした)
(「平岡円四郎との出会い」より、15頁~16頁)

平岡円四郎


・出会いは、人間の運命を変える。
 平岡円四郎に会ったことによって、渋沢栄一は二つの変革をしたと、童門氏は捉えている。
①思想的な変革~それまでの過激な尊王攘夷青年から、進取開国の思想家へ
②自己の能力の認識
 ~「この才能を駆使して生きていこう」とは思わなかった“理財”に関する能力を掘り起こした。
(栄一は、武蔵国(むさしのくに、埼玉県)の豪農の息子だったから、子供の頃は、祖父について藍の買い出しにも出かけて、かなりの商才を示した。もちろん経営について、まったく認識がなかったわけではないのだが)

・栄一が会った時の平岡は、一橋慶喜(その頃、慶喜は京都にいて、禁裏守衛総督[きんりしゅえいそうとく]をつとめていた)の用人だった。
 平岡はもともとは一橋家の人間ではない。れっきとした幕臣。

・円四郎は、岡本忠次郎の四男。
  岡本忠次郎は、近江守に任官し、勘定奉行もつとめた。
 しかし、銭勘定よりも、むしろ外交文書の作成で能力を示した。
(とくに、対朝鮮関係の文書の作成や、あるいは朝鮮から来た使者との対応には、名外交官ぶりを示した)
  忠次郎は、川路聖謨(かわじとしあきら)と仲が良かった。
  嘉永3年(1850)8月27日に、83歳の高齢で死去。

・平岡円四郎は、はじめは学問所の幹部だった。
 (ある時、「武術を修業したい」といって、学問所から退いた)
 かねてから、この円四郎に目をつけていたのが、川路聖謨だった。
 知人の藤田東湖から、「藩公のご子息慶喜様が、一橋家の養子になられたが、誰かいい補助者がいないか」といわれ、川路は平岡円四郎を推薦した。こうして一橋慶喜の家臣になった。
※一橋慶喜は、のちに徳川最後の将軍になるが、背後にブレーンが3人いた。
 ①平岡円四郎 ②黒川嘉兵衛(くろかわかへい) ③原市之進
・この3人のブレーンのうち2人が暗殺される。
 平岡が殺されると黒川がその後を追い、黒川が失脚すると原市之進がその後を継いだ。
・3人のブレーンが知恵をつけていた間の一橋慶喜は、日本のトップ層としてそれなりに政治を主導した。しかし、ブレーンたちが倒れてしまうと、生彩を失う。
 そしてついに幕府をつぶしてしまう。

・当時過激な尊王攘夷青年であった栄一が、なぜ、平岡と遭遇したのだろうか。
 栄一が円四郎に出会ったのは、23歳の頃。文久3年(1863)11月のころである。
 この頃、栄一は、自分なりに、幕府から追われていると思い込んでいた。
 従兄弟(いとこ)の渋沢喜作という同行者もいた。
 栄一や喜作は、従兄弟の尾高惇忠という地元の学者に、子供の頃から学問を習い、影響を受け、尊王攘夷論になっていった。
(「平岡円四郎との出会い」より、9頁~21頁)


西郷吉之助


・西郷は、死んだ薩摩藩主島津斉彬の愛弟子(まなでし)だった。
 西郷が若く、島津斉彬が生存していた頃、いま(第二次長州征討後)、西郷が口にしている案が実現される寸前にあった。いわゆる「公武合体」という考えである。
(公というのは天皇と公家と京都朝廷のことである。武というのは、大名によって象徴される武士と、武家政権である幕府を指す。)
 公武合体というのは、朝廷と幕府が一体となって、国事にあたろうということである。
(「西郷との暗闘」より、107頁)

原市之進


・第二次長州征討軍の総指揮をとった徳川家茂は病弱だった。
 戦争最中の慶応2年(1866)7月20日に、急死した。
 そうなると、相続人は誰にするかが大問題になった。
 老中からも慶喜に正式な要請が来た。
・慶喜は迷い、ブレーンの原市之進や黒川嘉兵衛、それに栄一たちを呼んで意見を聞いた。
 その頃の一橋家では、原市之進がメキメキ頭角を現し、いつの間にか黒川嘉兵衛を追い抜いた。
・原市之進は、慶喜の父徳川斉昭のブレーンだった藤田東湖の親戚に当たる。学者である。
 水戸家での人望も厚かった。
 頭も鋭いし、度胸もある。
(それが、処世術一方の黒川を追い抜いた。栄一も、原には一目置いた。原の方も、栄一の才能を認めて尊重していた)
(「西郷との暗闘」より、109頁~110頁)
・慶喜のブレーンだった原市之進も、栄一がパリに出発して間もなく暗殺された。
 (「幕府倒壊」より、168頁)

童門氏の渋沢栄一像~小説の「地下水脈」というキーワード


童門氏の小説には、「地下水脈」というキーワードが頻繁に出てくる。これが渋沢栄一像を形作っている。

〇「人間渋沢の誕生」の「日本の地下水脈を発見」(50頁~54頁)に、最初に「地下水脈」という言葉が出てくる。
・世の中の動きを見つめるのによく使われる言葉が、「潮流」あるいは「世論」である。
 しかし、栄一は、この潮流や世論に、そのまま従うことはなかった。
(逆にいえば、潮流や世論をそのまま鵜吞みにしなかった)
〇栄一には幕末の潮流や世論の底に流れている、もう一つの別な流れが見えていた、と童門氏は捉えている。
 つまり、潮流や世論の底に、ヒタヒタと静かな音を立てて流れている、地下水脈のようなものを発見したという。
・栄一が、それまでの過激な尊王攘夷論から、平岡円四郎の仲介によって、開国国際化論に傾いていくのは、栄一にすれば、別に転向でも裏切りでもなかった。

※地下水脈の方向は、単純な尊王攘夷論とは違っていた。
 また、ただいたずらに欧米に追随する開国論とも違っていた。
 日本人が、日本人のよさを保ちつつ、国際社会に乗り出していくような道筋を、その地下水脈ははっきりと示していた。
⇒その地下水脈に気づかせたのは、一橋家の用人平岡円四郎だった。
 円四郎が栄一という人間の中に見抜いた「理財に対するすぐれた能力」がそれである、と童門氏は理解している。

※ただ、その大恩人である円四郎は、元治元年(1864)6月16日の夜、暗殺されてしまう。
 暗殺者は水戸藩士。
 円四郎が、度量が大きく、開国論も受け入れるほどの器量人だったために、尊王攘夷論で固まった水戸藩士たちは、「円四郎が一橋慶喜様を誤らせている」と短絡した。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、53頁~54頁)

〇「動乱の京都で」の「故郷、血洗島への凱旋」(55頁~69頁)にも、出てくる。
・京都禁裏守護総督一橋慶喜の家臣として、栄一は、関東地方から王城を守護する有志を募り、50人の人々を集め、喜作と共に再び京都に向かった。
 関東にいた時、栄一は、水戸天狗党の蜂起の話を聞いた。
 藤田東湖の息子小四郎(こしろう)や、水戸家の武田耕雲斎(たけだこううんさい)、そして田丸稲之右衛門(たまるいなのえもん)たちが首謀者となって、60余の人間が筑波山山頂で、反乱の旗を掲げた。(天狗党は数カ月で、およそ700人に膨れ上がった)
 水戸家では、幕府に討伐応援の軍勢を求め、幕府もこの反乱を重視して、すぐ関東近辺の諸藩に出兵を命じた。

・栄一は、こういう反乱が成功するとは思っていなかった。
 怜悧(れいり)な栄一は、ただ反乱を起こすだけでは駄目で、政権を手にした時に、どういう政治を行なうかという見取図がなければ、人々はついてこない。この天狗党の反乱は、宙に浮いた砂上の楼閣にすぎない。
⇒この栄一の予測は当たる。

※栄一がこういう考えを持ったのは、やはり一般に時の流れとか、世論とかいわれるものの底で、別な流れ方をしている地下水脈を、しっかりと感じとっていたからである、と童門氏は捉えている。
 その地下水脈こそが、本当に日本の世の中を変えていく力である。

※そういうクールな地下水脈の流れを知る栄一にとっても、間もなく耳にした平岡円四郎の暗殺はこたえた。
 栄一にとっては平岡円四郎の存在は、単なる上役ではなく、師でもあった。
 平岡亡き後の一橋家の用人筆頭は、黒川嘉兵衛だったが、優秀な人物ではあるが、平岡ほどの器量はなく、一まわり小さい人物である。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、65頁~69頁)

〇「動乱の京都で」の「民衆を苦しめる武士への怒り」(70頁~81頁)にも、出てくる。
・栄一は、一橋家の御用談所下役として、京都の花街に出没し、他大名家の京都留守居役たちと親交を深め、情報を得た。
 この天狗党事件の時に、「薩摩藩は油断がならない」ことを知った。
 西郷吉之助が、腹心の中村半次郎(のちの桐野利秋)を、天狗党に派遣していたことを知る。
⇒栄一は西郷という人間の底知れぬ恐ろしさに身震いし、薩摩藩は、やがて幕府を倒す側にまわるのではないかと予感したようだ。

※世の中で普通の人間たちが持つ潮流とは別な流れが、この世に存在しているということを、栄一はよく知っていた。
 うわべの潮流とは別な流れである地下水脈が、実は本当に世の中を動かしているのである。
 政治や社会の運動法則は、実をいえば、こっちの地下水脈にある。
(それはあくまでも底の方でひっそりと流れ続けている。が、絶対に妥協はしない。自分なりの原則を持って流れ続ける。)
⇒それを栄一は凝視していた。

※西郷吉之助といえば、その頃、京都御所に発砲した長州を征討する軍の参謀を命ぜられていた。
 だから、誰が考えても薩摩藩も西郷吉之助も、幕府に対して協力的な姿勢を率先して示しているように見える。
・が、栄一はそれを信じなかった。
 栄一は、そういう表面上の潮流とは別に、地下水脈を凝視した。
 「薩摩藩は、決してそんな存在ではない。西郷吉之助も、世上でいわれているような人物ではない。もっとも恐ろしい存在だ。」と考えていた、と童門氏は想像している。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、74頁~76頁)

〇童門氏は、「武士の論理」「歴史の法則」について、次のようなことを述べている。
・栄一からすれば、水戸天狗党の乱も、あるいは「武士の論理」に基づいた行動だと思えたのかもしれない。
 「どこに民衆がいるのだ? 農民がいるのだ?」という思いがあっただろう。
 「自分たち武士の意地を貫くために、藩内が真っ二つに割れた。尊王攘夷と口にはしても、結局は武士同士の争いではないか」
⇒栄一が凝視していた、現世の潮流や、世論とはかかわりなく、底の方を静かに流れている地下水脈というのは、そういうことではなかっただろうか、と童門氏はいう。
 つまり、「武士の論理」とは別な運動法則に目を向けていた。
それは運動法則というよりも、栄一にとってはむしろ「歴史の法則」だったに違いない、という。
・栄一が見つめる「歴史の法則」とは、「主権」をどんどん下に下ろしていくというものだ、と童門氏はみる。
 つまり、帝から武士へ、武士から民衆へ下ろしていくのである。
 やがては一般の庶民や農民が、主権者となって日本の政治を行なう時代が来るに違いない。また、そうならなければならない、そうさせるのが、歴史の法則だ、と栄一は思っていた。
 このように、童門氏は栄一像を理解している。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、78頁~79頁)

〇「西郷との暗闘」の「日本の進むべき道はいずれか」(104頁~114頁)にも、出てくる。
・元治元年(1864)に京都御所に突入した長州藩は、孝明天皇の命令によって討伐軍を差し向けられた。第一次長州征討である。
(しかしこの時長州征討軍の参謀だった西郷吉之助の判断によって、長州藩には比較的軽い刑罰が与えられた。)

・その後、再び長州征討軍が起こされた。
 第14代将軍徳川家茂(いえもち)が直接指揮をとるために大坂城に下り、戦争になった。
 しかし、四つの国境から攻め込んだ幕府軍は、四つの国境ですべて負けた。長州全土を挙げた藩軍の活躍はめざましかった。
 長州藩は、「武士は役に立たない。本当に戦争に強いのは、農民や庶民だ」ということを実証した。

・この話を聞いて、栄一の胸の中は複雑だった、と童門氏は述べている。
 栄一は、はじめから農民の立場に立っている。武士が嫌いだ。
 士農工商の身分制も、頭の中では否定してきた。
 それを、こともあろうに幕府に盾ついた長州人が実行して見せたのである。

・栄一は、自分がじっと凝視してきた、一般の世の中の潮流や世論とは別な地下水脈の流れが、正しかったことを改めて知った。
 世間でいわれる、“世の中を変える運動法則”よりも、ヒタヒタと静かに流れてきた“地下水脈の運動法則”の方が、はるかに強かったのである。
 栄一はしみじみと思った。
(この地下水脈の運動法則が、やがて日本を変えるだろう)
※一次、二次にわたる長州征討のことで一橋家の代表として、栄一はしばしば薩摩藩の西郷吉之助に会った。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、104頁~106頁)

〇「西郷との暗闘」の「慶喜の真の黒幕」(115頁~124頁)にも、出てくる。
・栄一には信念があった。
 それは、すでに薩摩藩のような外様大名家においてでさえ、西郷吉之助のような考えを持つ人物が出てきている。
 他にもいるだろう。そうなると、すでに一個人の意見ではなく、そういう世論がつくられつつあると見ていい。
⇒それが、栄一がずっと見つめてきた、例の“地下水脈の法則”だ。
 うわべの潮流や世論を越えて、次第に地下水脈の法則が上層部に上がってきたのだ。これは無視できない。
 そして、その地下水脈の法則に従うことが、一橋家を誤らせない活路なのだと考えた。

※しかし、「日本に共和制を導入して、有力な大名連合をつくり、その議長に一橋慶喜が就任すべきだ」という意見は、慶喜と原市之進に大きな関心を持たせた。
 現状は閉塞状況だ。
 打開するには、二つの道しか考えられない。
⇒それは、あくまでも幕府の権威を強めて、たとえば長州藩を徹底的にたたくことだ。
 もう一つは、朝廷の支配下に入ってしまうことだ。天皇に忠節な徳川家になり代わることである。
 が、そのどちらも割り切れないものがある。
〇栄一が示した意見は、第三の道だ。西郷の考えている“共和制”を利用することだ。

栄一は、慶喜に、有力な大名連合の議長をつとめる存在になってほしいと考えていたようだ。
(いま慶喜の取り得る道は、この第三の道以外にないと考えた。
 雄藩会議のイニシアティブを取るのは、あくまでも徳川一門の一橋家だということを実行しようとした)
栄一のこの時の意見は、慶喜の心を動かしたようだ。
 その意味では、「慶喜の真の黒幕」は栄一だといっていい、と童門氏は想定している。

※ところが、黒川嘉兵衛、あるいは原市之進たちは、一橋慶喜の黒幕だといわれたにもかかわらず、栄一はそういわれたことはあまりない。なぜだろうか?
⇒これは、栄一の人柄によった、と童門氏はいう。
 円満で、あまり敵をつくらない栄一は、それだけで相手に警戒心を持たせなかった。つまり、頭はいいけれど、好人物だというようなイメージを持たれていたと想像している。
(頭の鋭さを、鋭い姿勢で示さなかった。そのため、敵もできないし、逆にいえば、多少安心したつきあいができた。
 だから、情報もどんどん入ってくる。それを、栄一は胸の奥底にしまった。そして、発酵させる時を急いで利用するようなことはしない。)

※世の中の表面の潮流や世論によって、栄一は軽挙妄動しなかった。地下水脈の法則を、じっと凝視し続けた。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、116頁、122頁~124頁)

〇栄一のせりふの中の「地下水脈」という言葉
・童門氏は、この“地下水脈”について、栄一のせりふとして会話の中に盛り込んでいる。
それは、昭武のパリ留学からの帰国の旅路の時である。

・昭武のパリ留学中、昭武の長兄である水戸藩士慶篤侯が急死し、相続人に昭武を指名したので、昭武は帰国することにした。
・栄一は帰りの旅路で、寄港する度に日本の噂を聞いた。
 幕府海軍の指揮者だった榎本武揚(えのもとたけあき)が、オランダ留学から戻って幕府艦隊の指揮を取っていたが、江戸湾から脱走して箱館にこもっている。
榎本は箱館で独立共和国のようなものをつくったという。

※栄一は、(そんなことは夢で、おそらく実現されない)と感じた。
 共和、共和といってはいるが、底が浅い計画で、しっかり地についた展望の青写真があるとは思えなかったからだ。所詮、徳川脱走兵のつくった砂上の楼閣にすぎない。

・上海のホテルでは、ドイツ人の武器商人スネルと、通訳の長野という男に、栄一は会った。その際に、長野から頼み事を持ちかけられる。
 榎本さんが北海道に旧幕府の政府をつくったが、栄一がお供している徳川昭武様に、北海道に集結した旧幕軍の総指揮をとっていただきたいという。
(昭武様は最後の将軍徳川慶喜様の弟様でもあられますので、もし昭武様が北海道に行ってくださったら、旧幕軍の勢いが一挙に上がり、薩長主体による新政府を打ち倒して、もう一度徳川の天下にすることができるという)

⇒栄一は、即座に断り、その理由として次のように答えた。
「時の流れには逆らえません。私は、かねてから表面上の世の中の流れがつくり出す世論とは別に、世の中の地下をヒタヒタと流れている水脈があることに気づいていました。これからは、その水脈が表面に出ます」
「地下水脈というのは何ですか?」と長野は聞いた。
栄一は、また答えた。
「政治に対する主権が、どんどん庶民の手に移っているということです。もう武士の時代ではありません。失礼ながら長野さんのお考えは、昔の武士の夢を追っておられる。私はもうごめんです。私は、武蔵国の農民の出ですから、武士万能の世の中には、ほとほと愛想をつかしているのです……」

・それから栄一が日本に帰り着いたのは、明治元年(1868)11月3日のことであった。
 栄一は、横浜港で、旧知の杉浦愛蔵が迎えに来てくれているのを見た。徳川昭武については、水戸家から迎えが来ていた。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、161頁~165頁)

栄一の考えた「共力合本法」


「維新後の雌伏」の「商法会所の頭取として新政府に貢献」(192頁~202頁)には、次のようなことが述べられている。

・新政府は、諸藩に対して、「石高拝借」という制度をつくった。
政府が太政官札(だじょうかんさつ)と呼ばれた金札を発行して、政府の財政の助けとし、同時に諸藩の財政をも助けようという策だった。
発行した紙幣を、大名の石高に応じて政府が貸しつけ、やがて返還させるという方法である。
静岡藩にも70万両の紙幣が割り当てられた。
この使い道について、藩庁首脳部は、渋沢の意見を聞いた。
栄一は、外国で学んできた国の財政、あるいは地方の財政について、一つの考え方をまとめ、「共力合本法」という方法を提案した。

・「共力合本法」とは、次のようなことである。
一、政府から貸しつけられた金札を、基金にする。
一、しかし、これだけではなく、静岡地方には今川家の支配以来、後北条氏(ごほうじょうし)の支配を経て、徳川家康がここに隠居した頃を含めて、商人が保護され商業が発達した。今川時代には、駿府の商人たちが、年貢の徴収の代行まで行なっていたという。そういう伝統があるので、静岡は一面商人の町でもあった。支配者は代わっても、この商人は蓄積した資本を持っている。そこで、この静岡の商人が持っている地方資本を、藩の基金に加える。つまり合本だ。
一、この基金を基にして、地域の産業振興をはかり、付加価値を加えるような製品開発をする。それを他国に売り出し利益を上げる。
一、この利益の中から、政府への借金を返す。
一、基金の運営には、藩庁の役人だけでなく、静岡の地域商人も加える。
一、そのために、この基金を運営する組織をつくる。この組織をたとえば「商会」と呼ぶ。

〇この考え方の底には、大事なことが一つあるという。
 「たとえ商業といえども、一人の力はたかが知れている。
  また、独断に走ると、必ずしも相手の幸福を促すようなことにはならず、逆に相手を苦しめる場合がある。これは道に悖る。これを避けるためには、商人が共同体を組織して、手を取りあって運営していくことが必要なのだ」

 つまり、栄一が信念としている「道徳と経済の一致」すなわち「論語とソロバンの一致」を実現するためには、一人ではなく、商人が共同組織をつくって運営することが必要だという。

 栄一は、のちに数百の会社を興したり、商法会所(現在の商工会議所)をつくったりする。
 そのため、「渋沢栄一は、組織づくりの名人」といわれた。
 栄一は天才的なオルガナイザー(組織者)であった。そういうリーダーシップを持っていた。
(ただ、栄一は強引なリーダーではなく、あくまでも、理で相手を説得し、納得させた上で参加させるという方法をとった)
※栄一にすれば、自分の案は、外国で学んだ経済理論をそのまま移行して、日本の経済の近代化をはかることであった。そして、これにいくらか日本的特性を加味しようとした。

・栄一は、静岡の紺屋町(こうやまち)というところに事務所を設け、「商法会所」という看板を掲げた。
 12人の静岡商人に「用達(ようたし)」という辞令を出し、商会員とした。
 商会の仕事は、いまでいえば銀行と商社を一緒にしたようなものだった。総取締は頭取の栄一である。
 仕事の内容は、商品抵当の貸付金、定期当座預金、地方農業の奨励のため他国から農民を招いて、農耕資金を与える、あるいは、茶の生産を拡大する、また外国で評判のいい生糸生産を奨励する、などである。
 元資金は、政府から借りた太政官札と、地域商人たちが供出した資金である。

(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、196頁~199頁)

留守政府の財政を預かる栄一は、次の三点を力説しつづけた。
一、政府予算における、「入るをはかって出ずるを制する」という原則の徹底。
一、国立銀行の創設。
一、貨幣制度における兌換(だかん)制度の採用。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、229頁)

【補足】「入るを計って出ずるを為す」という原則~鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』より


鹿島茂氏は、『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫、2013年[2020年版]において、「入るを計って出ずるを為す」という予算原則について言及している。
「第三十四回 大蔵省を去る」の【「入るを計って出ずるを為す」は緊急課題】と題して、次のようなことを述べている。

・第三章の前回「第三十三回 元勲たちの素顔」では、維新の三傑や江藤新平に対する渋沢の人物評を紹介した。
⇒この人物評の基準となっていたのは、渋沢が大蔵省において井上馨とともに強く主張していた「入るを計って出ずるを為す」という国家予算の原則に対する各人の反応の違いだった。
(いいかえれば、この予算原則をどの程度まで理解していたかである)
※西郷隆盛は△、大久保利通は×、江藤新平は××と評価された。

・ところで、渋沢が固執していた「入るを計って出ずるを為す」の予算の原則は、たんなる原則論ではなく、実際の通貨・金融政策の上から実現しなければならない緊急課題でもあった。

・明治4(1871)年から6年にかけて、渋沢は大蔵省で、通過・金融政策の舵取の実務担当となった。
 その頃の最大の問題は、三つの貨幣が併存し、これに偽の金貨・銀貨および贋札が加わって、通貨的な混乱が起きている状態をどのように解決するかであった。
 (三つの貨幣とは、①幕府の時代に発行された金貨・銀貨、②各藩が独自に流通させていた藩札、③明治政府が慶応4(1868)年から発行していた太政官札[金札]をさす)

〇大隈重信の参議転出によって、大蔵省の実質的責任者となった井上馨と渋沢のコンビは、これを次のような手順によって乗り切ろうと考えた。
⇒まず国家の歳入を正確に算定したうえで、各省から出された予算を検討する。
 このさい、歳出をできるかぎり節約して、剰余金を作るように努める。
 というのも、これを正貨準備金とすれば、銀行制度の確立が可能になり、そこで発行する銀行紙幣で、不統一な貨幣を回収することができると踏んだからである。
(つまり、「入るを計って出ずるを為す」の予算原則の確立と、通貨混乱を解決するための金融政策は密接に結びついていた)

⇒そのため、大隈重信に代わって大蔵卿となった大久保利通は、明治4(1871)年の9月に陸海軍の予算を執行するよう同意を迫ったとき、渋沢は、大久保に反対意見を述べた。
 そして、大蔵省の首脳ともあろうものが、この調子では金融政策の確立などおぼつかないと絶望。辞職の相談を井上馨にもちかける。
⇒ところが、井上馨は渋沢の実力を高く評価していたので、慰留。
 当分、大久保との間に距離をおくため、渋沢を大阪造幣局へ転任させた。
 明治4年9月下旬のことだった。

(鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫、2013年[2020年版]、419頁~420頁)

【鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』文春文庫はこちらから】
鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫)


渋沢栄一の理念としての「論語とソロバンの一致」


「維新後の雌伏」の「慶喜のいる静岡へ」(170頁~183頁)において、渋沢栄一の理念としての「論語とソロバンの一致」について書かれている。

栄一の実業の理念は、「道徳と経済の一致」。これはまた人生信条でもあった。
「道徳と経済の一致」という理念の表し方は、「論語とソロバンは一致させなければならない」といういい方によって、他者に伝えられた。

栄一は、小さい時から学んだ論語の教えに、深く共感していた。
しかし、中国から伝わった儒学は、経済を軽んじていた。それが職業となった場合、商人を卑しんだ。つまり、「自ら生産しないで、農民や工人(職人)が作り出した品物を、ただ右から左に動かすだけで、利益を得るというのはけしからん」という考え方が、日本でもずっと続いてきた。
とくに、身分制の頂点に立つ武士は、「武士は食わねど高楊枝」といって、金や商人を卑しんだ。そのくせ、商人から金を借りては、踏み倒すような武士もたくさんいた。
商人からすれば、「口先ばかり偉そうなことをいっていて、やっていることは何だ。人の道にも悖(もと)るではないか」という気持ちがある。しかし、だからといって商人の方が金の力だけを借りて、他者に対してふんぞりかえっていれば、それも間違いだ。

そこで、栄一は、いままでは絶対に一致することのなかった、論語(すなわち、商人を卑しむ中国の教え)とソロバン(すなわち経済、転じて商人)の一致をはかった。

渋沢栄一のこの「道徳と経済の一致」あるいは「論語とソロバンの一致」ということを考えていたのは、渋沢栄一だけではなかった。
たとえば、同時代のすぐれた思想家横井小楠(よこいしょうなん)も同じことを唱えていた。
⇒横井は、熊本出身の学者だったが、熊本ではあまり受け入れられず、むしろ越前藩に行って、経済改革に力を貸した。横井の考え方は、「日本は有道の国になれ」ということだった。
・地球上には、有道の国と無道の国がある。いまは無道の国が多すぎるという。
 とくにイギリスがそうだ。イギリスは産業革命によって多くの製品をつくり出すが、生産過剰になって、マーケットを諸国に求めた。その中でも清国を狙ったが、自分の思いどおりにならないと、阿片戦争を起こして、中国の領土に侵入した。あの行為一つ見ても、イギリスは無道の国であるとする。
・一方、日本には、イギリスはじめ列強に対抗していけるだけの武力がない。したがって、急いでそういう力を蓄える必要がある。しかし、だからといって、国際紛争のすべてを武力に頼るのは間違いである。むしろ、日本は道徳を真っ向から掲げ、悪どい列強を反省させ、世界をもっと人の道によって営まれるような社会にすべきだと主張した。

(栄一が、小楠などの説をどこまで承知していたかどうかはわからないが、唱えていることは同じである)

小楠の、「日本は有道の国になって、国際社会に進出すべきだ」といういい方の中には、小楠流の国際貿易論が含まれていた。(道徳を軸にして、国際交易を行なえというのが小楠の主張だった)
〇そして、小楠を顧問とした越前藩は、これを実行した。長崎に越前商会をつくって、外国貿易に乗り出した。その越前藩の中心になったのが、三岡八郎(みつおかはちろう、のちの由利公正[ゆりきみまさ])である。
〇また、坂本龍馬は、小楠の教えを受けて、国際商社をつくった。長崎の海援隊がそれである。
〇海援隊はのちに土佐藩に活用される。その上に乗ったのが、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)である。
〇そして、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)が、海援隊の資産と思想を引き継いだ。岩崎は、のちに三菱商会をつくる。それが今日の三菱の基になる。

ところで、横井小楠のいっていた、「日本が有道の国になれ」ということについて、そのよりどころとなった論は、一つは、鈴木正三(すずきしょうさん)という戦国時代から江戸初期に生きた武士出身の禅僧の言葉に遡れると、童門氏はみている。
すなわち、「商いには、有漏(うろ)と無漏(むろ)のものがある。無漏というのは、ホトケの心にそって他人を幸福にする商いだ。有漏というのはホトケの心に反いて、逆に他人を苦しめる商いのことだ。商人は全て無漏を志さなければならない。無漏の商いをすれば、その商いはそのままホトケの心の代行だといえる」と説いた。
日本の近世を開いてきた商人群は、身分的に転落した。これを見た戦国生き残りの鈴木正三は、「商人よ、もっと自信を持て」ということを主体に、このようなことを主張していた。

〇もっと時代が下って、商人に自信を与えたのが、商人の石田梅岩(いしだばいがん)の唱えた「心学」である。
武士に忠義があるように、商人は主人であるお客さんに対して、忠節を尽くさなければならない。商人がお客さんに尽くす忠節というのは、よい品物を、安い価格で提供することであると説いた。

要するに、鈴木正三も、石田梅岩も、商売の初心を説いた。
「商人の行ないは、ホトケの心の代行でなければならない」と鈴木正三はいった。
「商人は、主人である客に、忠節を尽くさなければならない」と石田梅岩はいったのである。

そして、栄一は、「道徳と経済の一致」、つまり「道徳を、中国の儒学で鍛えた武士の精神に求め、商人の知識や技術を外国に学ぶ」ということを考えた。
栄一は、武士精神である「士魂」と、商人の保つべき姿勢との融合をはかった。

江戸時代の商人にとって、必要なのは、読み書きとソロバンだけだという気風が蔓延していた。そしてそれ以上の勉学に進まなかった。
そこに栄一の不満があった。商人も、向上しなければ駄目だ。その向上の一環として、栄一は、「商会」という共同組織を考えた。つまり、商人が一カ所に集まり、共同の目的に進むことによって、お互いに切磋琢磨し、自己学習をし、前へ前へと進んで行く縁(よすが)をここにつくろうとした。
栄一の実現しようとした「和魂洋才」は、次第に「士魂商才」に変わっていったと童門氏は捉えている。「士魂」すなわち武士精神を武器に、官尊(旧薩摩藩や長州藩などの下級武士)に立ち向かおうとした。
栄一が標榜している「論語とソロバンの一致」がその根幹になっている。論語の精神は、江戸時代もずっと武士の間で保たれていた。中国の儒学精神は、まさに武士階級が精神的なよりどころにしていたものである。

栄一は、パリで、高級軍人と銀行家とのやりとりが印象に残っていた。パリの高級軍人は、威張らずに銀行家の意見に謙虚に耳を傾けていた。そして、接する態度も礼儀正しく、銀行家を尊敬していた。
栄一は日本に戻って、「それを日本で実現するのは、やはり士魂商才以外ない」と思ったようだ。
論語とソロバンを一致させる実業家への志が胸の中で湧き立った。

ところで、栄一の「道徳と経済の一致」、砕いていえば「論語とソロバンの一致」という考え方の底流は、よく、イギリスの先覚的経済学者アダム・スミスになぞらえられる。しかし、栄一は別に系統立てて経済学を学んだわけではないようだ。
(持ち前の勘で、栄一は世界のすぐれた経済学者の論を感覚的に身につけていた)
栄一は、「新しい日本において、道徳に一致された経済の発展を実現する」ということを、ひそかに心に期していた。
そして、その基幹として、「銀行」を日本につくろうと考えていた。
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、176頁~182頁、203頁~207頁)

貫き通した「論語とソロバンの一致」


栄一が、実業家になってまず整備しようとしたこと
〇日本の「農工商界」の現状の底上げ(=産業振興)
 産業を振興することが、すなわち日本を富ませることだと思った。
〇同時に、金融面についていえば、銀行を創立すること(=金融機関の整備)
 それまでの金融界は、両替商、蔵元、掛け屋、札差(ふださし)などが支配していた。
 これを、もっと近代的なものに改める必要があった。
※この産業振興と金融機関の整備の底流にある理念が、栄一の言葉を借りれば、「論語とソロバンの一致」であった。
・論語というのは孔子の言葉を、弟子たちが綴ったものである。
 日本でもよく読まれていた。
・しかし、中国から伝わった儒学を、常に肌身離さず学習し抜いたのは、やはり武士である。そのため、この儒学に依拠して、自分の身を慎む姿勢を、「儒教の精神」あるいは「孔子の精神」といった。
・論語やソロバンを一致させるということは、「孔子の精神で、商業を営め」ということであると、童門氏は解釈している。
⇒ということは、
 「多くの人々の利益を志す商売を行わなければならない。自分だけ勝手に、ガリガリ亡者の儲け主義になってはならない」ということである。
(これは、「したがって、商業も多くの人たちと手を取りあって、公益のために努力しなければならない」ということになる。)

※この点、岩崎弥太郎の“一人一業主義”とは距離をおく結果になったと、童門氏は推測している。

(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、237頁~238頁)

渋沢栄一の「万屋主義」


栄一が関与した会社の数は、約500余りだという。「万屋(よろずや)主義」と栄一は称した。
なぜ栄一が万屋主義と自嘲してまで、いろいろなことに手を出したか。
政府から身を引いて、実業界に打って出た時の日本の状況について、栄一は次のようないい方をしている。

「たとえば、日本の農工商の実態についていえば、商はわずかに味噌の小売に従い、農といえば大根をつくって沢庵漬けの材料を供しているだけだ。また、工といったところで、老いた女性が糸車を使って、機織りをしているにすぎない。また、商店といっても、日本の住民自体の購買力が低下してしまっているから、一製品の販売で、身を立てることはできない。だから、呉服屋が荒物商を兼ねている。酒屋が飲食店を兼ねている。これは、店を維持していく上で、そうせざるを得ないからだ。
 そうなると、やはりわが国の商工界は、まず万屋から出発せざるを得ない。これは、世界的規模についていえば、日本の商工業がとりあえず万屋主義をとらざるを得ないということになる。世の中には、いやそれは間違いで、一人一業主義をとるべきだと頑張る人もいる。確かに、それも理(ことわり)だ。が、こういうことはよほど才幹がなければできない。誰にもできるということではない。誰にでもできるのは、やはり当面万屋主義をとることである」

“万屋主義”といってみても、栄一の主張したことは、単なる兼業主義をいっているわけではない。
栄一は生涯を通じて、その主張するところは変わらなかったようだ。
 一、合本主義
 一、組織主義
 一、商法会所主義

これに対して、「一人一業主義」を唱えたのが、三菱の岩崎弥太郎である。
その意味では、生涯を通じて渋沢と岩崎とはあわなかった。
世間では、一度だけ料亭で顔を合わせたが、その物別れに終わった会見を「三国志の曹操と劉備玄徳が会ったようなものだ」といった。
(童門氏は、むしろ項羽と劉邦の会見だといった方がよいとする)
(童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』集英社文庫、2019年[2020年版]、233頁~235頁)





≪朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』を読んで≫

2022-04-24 18:54:46 | 私のブック・レポート
≪朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』を読んで≫
(2022年4月24日投稿)

【はじめに】


 先日、ある集まりで、名刺をいただいた。建設コンサルタントをしておられ、常務であるW氏である。フェルメールが好きで、大阪まで展示を見にも行かれたという。
 以前、ブログでルーヴル美術館を紹介した際に、フェルメール関連の本を読んだことがあった。今回は、フェルメール好きの生物学者で知られる福岡伸一氏の本を紹介してみたい。
〇朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年




【朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版はこちらから】
朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版








〇朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年
【目次】
まえがき
1 フェルメールのモデルを読む
 映画『真珠の耳飾りの少女』をどう観るか?
 ≪地理学者≫のモデルはレーウェンフックか?
 ≪天文学者≫のモデルはスピノザか?

2 フェルメールの謎を読む
 フェルメールが生きた時代のオランダ
 風景画はたった2点?
 アムステルダムで行われたフェルメール作品21点のカタログに書かれた値段(1696年5月16日)
 第3の「デルフトの絵」があった?
 フェルメールは「寡作」の画家か?
 日本人が「フェルメール好き」の理由とは?
 
3 フェルメールの技を読む
 「昆虫少年」、顕微鏡の父レーウェンフックに憧れる
 若き生物学者、フェルメールに癒される
 「光の魔術師」は「カメラ・オブスクーラ」を利用したか?
 フェルメールの色彩
 フェルメールのファッション

4 盗まれたフェルメールの行方を読む
 本の執筆をきっかけにフェルメールに夢中になる
 行方不明の≪合奏≫がもうすぐ見つかる!?

5 フェルメール・フィーバーを読む
 「再発見」されたフェルメール
 1995年、第2次「フェルメール・フィーバー」始まる
 美術の門外漢・モンティアスの功績
 
6 フェルメールの真贋を読む
 37点or32点? 揺れる「真作」の点数
 メーヘレン贋作事件の影響
 今も鑑定に持ち込まれる絵と個人コレクターの存在

7 フェルメールの旅
 フェルメール全作品マップ
 全点踏破の旅の“難所”
 フェルメールの街・デルフト
 時間旅行の中で観るフェルメール
あとがき
主要参考文献




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・著者のプロフィール
・フェルメール作品21点のカタログに書かれた値段
・「光の魔術師」は「カメラ・オブスクーラ」を利用したか?
・フェルメールの色彩
・画商のトレ=ビュルガーについて
・経済史学者モンティアスのフェルメール研究の功績
・フェルメール全作品マップ
・全点踏破の旅の“難所”
・オランダという国
・フェルメールの街・デルフト
・フェルメール最大の謎~福岡伸一氏の「あとがき」より
・おわりに―感想とコメント








著者のプロフィール


【朽木ゆり子】
 ノンフィクション作家。東京生まれ。エスクァイア日本版副編集長を経て、1994年にニューヨーク移住。
 著作に『盗まれたフェルメール』『フェルメール全点踏破の旅』

【福岡伸一】
 生物学者。1959年東京生まれ。京都大学卒。青山学院大学教授。
 著作に『生物と無生物のあいだ』『動的平衡』『フェルメール 光の王国』
 
 『フェルメール 光の王国』について
 「フェルメールの絵を17世紀から20世紀にかけてのさまざまな科学者とその背後にある大きな生命科学思想の流れと結びつけて、それを鋭い観察力とチャーミングな文章で包んだユニークな本」と朽木ゆり子氏は評している(3頁~4頁)
 生命の本質が、絶え間ない移ろいの中のバランス、つまり「動的平衡」にあり、フェルメールの絵は光や生命のその移ろいの一瞬を捉えて表現したものであるという。
 芸術家と科学者は、光、生命、時間などの本質を切り取ってみせるという意味で、同じコインの表と裏なのだと、朽木ゆり子氏は「まえがき」で記している。(4頁)

福岡伸一氏がフェルメールに夢中になったきっかけ


・福岡伸一氏は生物学者である。
・生物学者を志す前は、虫が大好きな昆虫少年だったという。
 きれいな蝶々などから、自然が作り出した「きれいな色合い」に魅せられたそうだ。
・そして『世界ノンフィクション全集2』(筑摩書房、1960年)の中の『微生物の狩人』という本に出あう。これは、歴史の微生物を発見した人たちの人物列伝を書いた名著である。
 この偉人列伝の中に、レーウェンフックが登場する。17世紀オランダのデルフトに生まれ、顕微鏡を最初に手作りした人である。
 レーウェンフックはプロの研究者ではなくて、毛織物職人の息子に生まれた商人で、アマチュアとして微生物を観察し、赤血球や白血球などを発見した人である(「微生物学の父」とも称せられる)。福岡伸一氏はいたく感銘を受けた。
・その後、大学時代の1984年前後に“ニューアカブーム”が起き、浅田彰氏を知る。フェルメールに特別な興味を持ったのは、80年代初期に読んだ、浅田彰『ヘルメスの音楽』(筑摩書房、1985年)という本がきっかけだという。
 17世紀に生きたフェルメールが「カメラ・オブスクーラ」という機械を使って遠近法を研究していたことや、顕微鏡の祖・レーウェンフックも同じ、オランダ・デルフト出身の同時代人だから、彼との交流で光の描き方が独特になり、「光の魔術師」と言われるようになったのでは?といった、仮説を披露した。

・80年代後半に、ニューヨークのロックフェラー大学に研究留学したとき、「フリック・コレクション」という美術館に入って、そこでフェルメールの作品と出会い、「とても美しい」と衝撃を受けたそうだ。
フリック・コレクションには、≪女と召使≫≪兵士と笑う女≫≪稽古の中断≫がある。
 これら3点ものフェルメール作品が収蔵されている。
(フリック自身の遺言で、コレクションはすべて原則的に門外不出。だから、フリックの3点はニューヨークを訪れないと絶対に観られない貴重な作品群)
※フリック・コレクションはガラスを入れていないから、とても身近に作品と相対できる貴重な美術館である。福岡氏はそこで本物のフェルメールとはじめて出会ったそうだ。

〇福岡氏は、フェルメールの配色、色の散らばり方が原体験で知っているきれいな色の配色に、すっとなじむ感じがしたそうだ。それでフェルメールに魅了された。
〇そして、フェルメールはメトロポリタン美術館にもあると知って、その5点を観に行った。
(フェルメール37点のうちの8点は観た、ということになる。それでは、フェルメールをコンプリートしよう、と決意したそうだ。37分の8をすでに制覇したなら、もうやるしかないと。)
(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、62頁~75頁)

福岡伸一氏は小林秀雄の評論に反対


「メーヘレン贋作事件の影響」(159頁~169頁)の中で、福岡氏は、小林秀雄の有名な言葉に言及している。
 すなわち、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」(「文学界」1942年4月号『当麻』より)

福岡氏は、いまだに小林秀雄が何を言っているか、よくわからないとする。
 むしろ美しい花などない。あらかじめ美しい花なんてない。花を見たときに美しいと思うと、主張している。
 自分の思う脳内作用として美しさというのはあるわけで、絵を観るときだって、その絵が自分の中に入ってくるわけではない。
 絵に当たった光が自分に反射してくるものを見ているだけである。だから、その場その場で自分の中につくられるものが、絵を観るということであると理解している。
 福岡氏の絵画観によれば、絵を観たときに、自分の頭の中に現れた色や構図の美しさは曖昧なものである。美しい絵があるというより、絵の美しさを感じ取る、という感覚が自分の心の内部に立ち現れる。(つまり、絵の美しさは心の内部に立ち現れる)
それが絵画鑑賞の本質ではないかと考えている。
(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、167頁~168頁)

フェルメール作品21点のカタログに書かれた値段


 ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer, 1632―1675年)は、ネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ)のデルフト出身の画家である。
 アムステルダムで行われたフェルメール作品21点のカタログに書かれた値段
(1696年5月16日)がわかるという。

【アムステルダムで行われたフェルメール作品21点のカタログに書かれた値段(1696年5月16日)】
出品NO. タイトル 落札金額(ギルダー)
1 "金をはかる若い女性
箱入り デルフトのJ.ファン・デル・メールによる
技巧に富んで生き生きとした描きぶり" 155
2 "牛乳を注ぐ女中
非常に優れた作品 同人作" 175
3 "さまざまな品物に囲まれた室内のフェルメールの肖像
同人作の類例のない美しい作品" 45
4 "ギターを弾く若い女性
同人作 大変よい出来栄え" 70
5 "向こうに見える彫像のある部屋で手を洗う男
芸術的で珍しい作品 同人作" 95
6 "室内でクラヴサンを弾く若い女性と耳を傾ける紳士
同人作" 80
7 "若い女と手紙を持ってきた女中
同人作" 70
8 "酩酊してテーブルで眠る女中
同人作" 62
9 "室内で歓談する人々
同人作の生き生きとした良品" 73
10 "室内で音楽を演奏する紳士と若い女性
同人作" 81
11 "兵士と笑う若い女
非常に美しい 同人作" 44.10
12 "刺繍をする若い女
同人作" 28
31 "南側から見たデルフト市街の展望
デルフトのJ・ファン・デル・メール作" 200
32 "デルフトの1軒の家の眺め
同人作" 72.10
33 "デルフトの数軒の家の眺め
同人作" 48
35 "書き物をする若い女性
大変よい出来栄え 同人作" 63
36 "着飾っている若い女性
大変美しい出来栄え 同人作" 30
37 "クラヴサンを弾く女性
同人作" 42
38 "古代風の衣装を着けたトローニー
類例のない芸術的な出来栄え 同人作" 36
39 さらにもう1点のフェルメール 17
40 "上の対作品
同人作" 17
"出典 John Michael Montias, Vermeer and His Milieu : A Web of
Social History, Princeton University Press, Princeton, New Jersey, 1989, pp.363-364
(出品NO.が通し番号でないのは、他の画家の作品が混じっているため)"

(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、42頁~43頁)



「光の魔術師」は「カメラ・オブスクーラ」を利用したか?


「「光の魔術師」は「カメラ・オブスクーラ」を利用したか?」(76頁~86頁)には、興味深いことが語られている。

・カメラ・オブスクーラとは、ピンホール(針穴)写真機に似ている箱型の光学装置のことである。
 レンズを利用して集光し、反対側のすりガラスまたは暗くした壁に、風景や部屋の配置や遠近を正確に2次元平面に写し取ることができる機械である。
⇒映し出された像の輪郭がぼやけるのが特徴で、この曖昧さがかえってニュアンスをもたらし、とても良い雰囲気に見えるようだ。
(フェルメール作品に感じる奥行きの深さに通じる美しさがあるという)
〇映画『真珠の耳飾りの少女』でも、カメラ・オブスクーラにはじめて触れた少女が驚愕しているシーンがある。
(17世紀の人にとって、この機械は極めて斬新でユニークなものだったであろう)
・フェルメールを「光の天才画家」と思っている人たちは、「フェルメールは機械を使うなんて、そんなずるいことはしていない」と思いたいだろうが、福岡伸一氏は、光学的な当時の最先端のテクノロジーを駆使して、何とかリアルに見えるためにはどうしたらいいかと工夫して、方法を編みだそうとしていたのではないかと、想像している。
(つまり、テクノロジーの可能性を否定するのは一種の偶像崇拝だという)
⇒カメラ・オブスクーラの「obscura」は「暗い」という意味であるが、小さな薄暗い小部屋に入って、3次元の世界を観るという体験は新しい「視覚体験」で、フェルメールもきっと興奮したと考えている。

※ちょうど当時、レンズ磨き職人が職能化し、専門化していくということがあったそうだ。
 カメラ・オブスクーラに付いたレンズは現代のカメラに付いているようなレンズと同じような、小さな凸レンズだった。
 その一方で、レーウェンフックが顕微鏡に付けたレンズは、完全に球形のレンズで300倍程度の倍率がもう出ていたそうだ。

※ただ、フェルメールの遺品リストにカメラ・オブスクーラは、残念ながら入っていないと、朽木ゆり子氏は言い添えている。
 もしフェルメールがカメラ・オブスクーラを使っていたとしても、誰かから借りたかもしれない
 ちなみに、シュヴァリエの小説では、例によって、レーウェンフックが貸したことになっている。
 しかし、福岡伸一氏の推測を裏付ける証拠は、いくつかあるという。
 それは、ステッドマンや経済史学者ジョン・マイケル・モンティアス(“執念の身元調査人”で、フェルメール研究を1歩も2歩も進めた「フェルメール・マニア」と形容されている学者)が突き止めている。

⇒フェルメールの絵の中にはピンを打った穴が残っている。
 ピンがささっていた点が、遠近法における消失点だった。
 そしてピン、つまり針に通した糸にチョークの粉をまぶして、消失線が画面の端と交わる場所まで延ばし、チョークの薄い線を描き、それでタイルや窓枠などの遠近を描いていったと考えられている。

〇そういう事実を重くみれば、天才だからさらさらと描いたというファンタジーでフェルメールを捉えるより、クラフトマンシップがあって、ディテールにこだわった科学者、実験者と捉えるほうが、福岡伸一氏は自然だと考えている。
※ちなみに、フェルメールの科学者、実験者としての努力の証を突き止めたモンティアスやステッドマンは、ふたりとも美術史家ではない。
モンティアスは経済史学者で、ステッドマンは建築家である。
ふたりとも美術に関してはアマチュアである(ふたりは大いなるオタクと福岡氏は称している)

(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、76頁~86頁)

フェルメールの色彩


「フェルメールの色彩」(86頁~100頁)は、今回の対談でとりわけ面白い内容である。
フェルメールの魅力を語るうえで、欠かせないのが「色」である。
①「フェルメール・ブルー」
 「フェルメール・ブルー」と呼ばれる「青」の効かせ方は、やはり特徴的である。
〇≪青いターバンの女≫という別名もある≪真珠の耳飾りの少女≫
(口絵あり 1665年頃、油彩・カンヴァス、44.5×39㎝、マウリッツハイス美術館蔵)
〇≪手紙を読む青衣の女≫
〇≪牛乳を注ぐ女≫
(口絵あり 1657―58年頃、油彩・カンヴァス、45.4×41㎝、アムステルダム国立美術館蔵)
〇≪絵画芸術≫~フェルメールが生前、最後まで手放さなかった
※高価なラピスラズリを使って「青」を追究したフェルメールは、とりわけ「色」に強い関心を持っていた。
・もちろん、ラピスラズリを砕き、油で溶いて青をつくっていたのは、フェルメールだけではないけれど、フェルメールはこの青を「フェルメール・ブルー」以外の、たとえば、壁などにも使っている。
 つまり、一見、ブルーに見えないところに、光を表現するために隠し味として使っているのが特徴的である。
(とても高価な絵の具を、言ってみれば、あえて使う必要のないところにまで使っている。 
 それができたのは、やはり潤沢に資金があったからだろうし、なんとしても自分の思う通りの色を出したかったのだろう。)

②「フェルメール・イエロー」
・「フェルメール・ブルー」とともに、「フェルメール・イエロー」にも朽木氏は注目している。
〇≪牛乳を注ぐ女≫
〇≪手紙を書く女≫
〇≪真珠の首飾りの少女≫~朽木氏の「ベスト・フェルメール」
(口絵あり 1663―64年頃、油彩・カンヴァス、51.2×45.1㎝、ベルリン国立美術館蔵)

・これらの作品にふんだんに使われている「黄色」も実に深淵なイエローで、とても魅力的である。
 黄色もいろいろな黄色がある。
 たとえば、黄色い上着をよく見てみると、全部をベタッと黄色で塗っていない。ほんの少し、金色や褐色が混ざっている。
⇒そうした色彩のグラデーションを上手く使って黄色を表現するところは、さすがにフェルメールである。

※映画『真珠の耳飾りの少女』では、牛にマンゴーを食べさせて黄色い尿から原料をとっていたように描かれていた。
(黄色いカロテノイド色素を集めようとしたのだろうか。ミカンを食べすぎると黄色くなる。あれは色素が皮膚に移行して一時的に黄色くなるからである。
 しかし、マンゴーを食べさせた牛の話は、どういう根拠で言っているのか、福岡氏は不明であると語っている。
 それに対して、朽木氏は、当時、インディアン・イエローと呼ばれる顔料は、マンゴーの葉を食べさせた牛の尿を乾かして作ったものだったと付言している。)

〇ところで、フェルメールが色を創りだすさいに、光の粒として扱うことに腐心していたと、福岡氏は推測している。
・フェルメールは人や物に輪郭の線を入れることを拒否した。
 (そんな線は実在しないから)
・線で形を描いてその内部を塗り絵するのではなく、光の粒をドットとしてつなげていって実体を描こうとした。
※福岡氏は、フェルメールに、画家というより科学者的なマインドを持っていたとみる。
 フェルメールは探究心あふれる時代の先駆者であった。
 フェルメールやレーウェンフックたちは、「光の見え方」を追究していた。
 フェルメールが鋭かったのは、光が粒だと感覚的に理解していたということである。
(ずっと後になって、アインシュタインは「光は粒子」と言った)
・たとえば、新聞の印刷も虫眼鏡で見ると、色のドットで構成されている。それでも全体を見ると絵になっている。
 そもそも、たった3色で(甚だしい場合は2色でも)、かなり色が再現できる。
⇒フェルメールは、すでにその点に気がついていて、絵で見ると、光をすごく重層してあって(これもスフマートというのかな)、点々点々って光を作っているという。
 だから、黄色と青を混ぜたら緑になるというような基本だけではなく、あらゆる色が基本的な色で作れることを気がついていたとみる。
(色は粒で作れるということを自覚していた)
※ヤン・ステーンはフェルメールと似たような室内の絵を描いているが、カメラ・オブスクーラを使った形跡がなくて目分量で描いている。

※「フェルメール・ブルー」について
・青というのは光の中では、科学的に言うと1番波長が短く、つまり1番エネルギー的には強い光で、もっと強くなると紫外線という見えない光になって皮膚を焼いてしまうぐらいエネルギーが強くなる。
 その1歩手前の光で、人間にとっては見えるぎりぎりの光である。
・本当は人間の目というのは、光の3原色、赤、緑、青しか見えない。 
 特に赤と緑は、光の波長がすごく近いのに、人間には全然違う色に見えている。
 おそらく、生物学的には、赤が最初に見えるようになって、青が見えるようになって、その2色で世界を見ていたのだが、赤がちょっとだけずれて緑が見えるようになって、その混合でいろいろな色を判断しているという。

〇福岡氏は、フェルメールが青を特別に大事にした理由について、次のように推測している。
⇒自然界には青空や海の青さなど、さまざまなところにすごくきれいな青があるのに、長い間決して取り出せない色だったから。
・青の色素はなかなかなかった。
 ジーンズを染めたりするインディゴなどができてきたけれども、それまでは青は取り出しにくい色だった。
(その昔は異教徒の色でもあったらしい)
・ラピスラズリも、単に砕いただけでは青くならない。
 粉から青だけを取り出す、その抽出方法は、水で溶いて先に沈んできたものを選り分けて上澄みを持ってきて、それを油で溶いて、濾(こ)して、熱する。
 こうした大変な工程を経て、やっとあの特別美しい青になったはずである。
⇒こうした作業は、画家というより、やはり科学者的だと、福岡氏はみる。
 ウルトラマリンという青の成分を抽出してくる特技を持った錬金術師的である。
(おそらく、そうした複雑な工程と方法は、秘密にしていたのではないか。秘儀)
 自然界の中にあるのに取り出せなかった青を取り出せたのは大きな発見であった。
・空とか海みたいにぼんやりした青はあるのに、キュッとクリアな、局所的な青はなかなかなかったから、そんな青があると、とても美しく見える。
※ムラサキツユクサ、青いケシ、青い虫(たとえば、ルリボシカミキリ)
 (とても美しい青色のルリボシカミキリをいくらすりつぶしても青い色は取り出せないそうだ)

※ラピスラズリも顕微鏡で見ると本当は青くない。
⇒鉱物の青さというのは構造色だという。
 細かい結晶が非常にうまく並んでいるせいで、光が入ってくると青い光線だけが整流されてこっちに見えてくる。だから実際は青くない。

・青い色素は本当に限られている。
 ムラサキツユクサとか、青いケシは本当に青いけれども、あれも抽出してきたら赤くなってしまう。
 特殊な条件で花びらの細胞の中に浮かんでいるから青くなるという。
・藍染めのインディゴも最初は全然青くない。その途中ではどす黒い色で空気酸化して、発酵して藍玉にすると青くなる。
※だから、青さを取り出すのは昔からすごく難しくて、色素としての青はなかなかない。
 鉱物の中から青い成分を取り出して、それを使うというのは、今みたいに画材屋さんに行って青い絵の具を買うみたいな簡単なことではなくて、フェルメールのように地道な作業が必要で、とても大変なことだったと、福岡氏は強調している。

※黄色について
 このように考えると、特別美しい黄色も、牛の尿や糞ではなく、鉛や錫といった鉱物から採ってきたものかもしれないという。
・鉱物で作った色は、鉱物の結晶だから、なかなか色褪せない。金属系の色だとすると、鉛錫黄(レッドティンイエロー)という顔料があるそうだ。
 マンゴーから採った色は、酸化して、たちまち色褪せるはず。
※ただ、フェルメールの絵でも、色褪せてしまった部分もある。
 たとえば、≪絵画芸術≫で、歴史の女神クリオに扮した女性がかぶっている月桂樹の冠。
⇒あれは緑色だったはずだが、黄色が飛んだようだ。
 本物を見ると青くすすけた色にしか見えない。
(あの月桂樹の葉は黄色が飛んで、ラピスラズリの青だけが残ったから、あんなふうにくすんで、はげて見えてしまっている)
※洗浄は上に載っているワニス(仮漆)を取って、くすみを取ることしかできないので、洗浄しても、色は戻らない。
※絵の具やキャンバスといった「道具の問題」は時代を表す。
 まだ絵の具はチューブになっていないから、持ち運びが非常に難しい「道具」だった。
 17世紀、当時、画家は家で絵の具作りをしてから、塗るしかなかった。
 だから≪デルフトの眺望≫も室内で描いたはず。まして、高価なラピスラズリを道端で濾すなんて、絶対にしなかっただろう。
(それがチューブ状の絵の具ができて、絵の具も持ち歩けるようになる。つまり、描きたい現場、しかも屋外で描けるようになったのは、19世紀になってから)

(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、86頁~100頁)

画商のトレ=ビュルガーについて


「「再発見」されたフェルメール」(132頁~137頁)において、フェルメール・フィーバーについて解説している。

2012年当時の「フェルメール・フィーバー」は第2次フェルメール・フィーバーであるようだ。
それでは、第1次はいつだったのか?
それは、1866年に画商のトレ=ビュルガーがフェルメールを「再発見」したことによって、美術界が沸き立った「フェルメール・フィーバー」であると、朽木氏は捉えている。

もちろん、現代のような大規模な「フィーバー」ではなかったが、美術の専門家や愛好家の間では「事件」だった。
というのも、フェルメールは存命時、それなりに有名な画家であったし、死後も彼の作品は市場で売り買いされてはいたけれど、美術史上で大きな存在感を示す存在ではなかったからである。
(極端に史料が少なく、今と違って絵画は個人所有の作品が多かったから、なかなか本物を観る機会も少なかった。それで、フェルメールについて大型論考を著そうという専門家がいなかった。)

〇そうした中、フェルメールの魅力に取り憑かれたトレが丹念に調べた。
ヨーロッパ中のフェルメールを探し当てて見て回り、満を持して、1866年に美術雑誌にフェルメールに関する本格的な論文を発表した。
⇒それで、一躍、愛好家の間で注目されるようになった。

〇トレ=ビュルガーはなぜにフェルメールに固執したのか?
この点、彼は17世紀オランダ美術にある種の理想を見ていて、オランダ絵画に憧れていたと、朽木氏はみている。
・トレ=ビュルガーは、フランス人である。
 本名はテオフィール・トレ。
・トレ=ビュルガーについて説明する場合、どうしてもフランス革命に言及しなくてはならない。
 彼は、共和主義者で、バリバリの左翼だった。
⇒それで、王政復古した7月王政時代に亡命し、そのまま国外追放になって、ドイツ風の名前に変えた。
(ちなみに「ビュルガー」はドイツ語で「市民」の意味。
 ビュルガー Bürger=シティズン citizen)

・トレ=ビュルガーはフランスやイタリアの絵画が、人生や理想を「歴史画」で表現する傾向があるのに対し、オランダの風俗画のような、より具体的な絵画を評価した。
⇒だからか、マリー・アントワネットのお抱え画家だったエリザベート・ルイーズ・ヴィジェ・ルブランなんかが大嫌いだったようだ。
※自由な市民たちを描いたオランダの風俗画が好きだった。
⇒そうした好みの中で、フェルメールに出合い、夢中になったようだ。
 フェルメールの絵は普通の人を描いているにもかかわらず、普通を超越した神秘に到達しているから。
※トレ=ビュルガーが真のフェルメール・マニアで、作品を高く評価していたのは事実である。さらに彼の研究結果や鑑識眼が今日のフェルメール研究に大いに役立っていることも確かである。
 ただ、その一方で、彼は画商だから、絵の売買で儲けるために、ブームを「仕掛けた」と見ることもできるかもしれないそうだ。

<朽木氏のコメント>
・厳密に言えば、「再発見」は誇張であるとおそらく本人も自覚していたにもかかわらず、絵の値段が釣り上がるように派手に「権威づけ」をした。
・さらに、そうなると市場になるべく多くのフェルメール作品が出したほうが儲かるわけであるから、鑑定が甘くなっていった。
⇒ちなみに、後にトレ=ビュルガーが鑑定した73点のうち、49点がフェルメールの作品ではなかった、と専門家たちが判定している。
※しかし、フェルメールの特徴を知り尽していて、今日、真作とされている37点のうちの24点をすでに鑑定していたのだから、すごいと言えばすごい。
(それだけに、49点もの「不正解」を出しているのは、いささか不自然。画商としてのビジネスに勤しんだ結果の「73点」だっただろうと、朽木氏は推察している。)
・この第1次フェルメール・フィーバーのときは、幸いにもお金があれば買えた時期だったので、ブームに乗って買ってみたら、後でハズレくじを引いてしまった人が結構いたことになる。

(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、132頁~137頁)

経済史学者モンティアスのフェルメール研究の功績


「美術の門外漢・モンティアスの功績」(144頁~149頁)において、経済史学者モンティアスについて語っている。
・モンティアスは、イェール大学で教えていた経済史学者である。
 同時に、究極の「フェルメール・マニア」で多くの史料を発掘した人である。
⇒未発掘の貴重な史料を次々と掘り起こし、フェルメール周辺の「経済状況」から、謎に包まれていたフェルメールの仕事ぶりや生活の一端を明らかにした。
〇1989年にモンティアスが発表した『フェルメールとその環境 社会史のネットワーク』
(John Michael Montias, Vermeer and His Milieu : A Web of Social History, Princeton University Press, Princeton, New Jersey, 1989)は、フェルメール研究家の必読書になっているそうだ。

〇モンティアスの調査のそもそもの始まりは、17世紀のオランダ絵画取引に関連した商業システムに興味を持ったことがきっかけである。
⇒1975年からデルフトに通い、画家のギルド、聖ルカ組合にまつわるさまざまな古文書を、デルフト市公文書館で目を通すようになったらしい。
(当初はフェルメールに特に注目していたわけではなかった)
〇ところが、フェルメールの父親が居酒屋兼宿屋の「メーヘレン亭」を購入したことを示す文書をたまたま見つけた。
⇒そこでどうやら、この発見はフェルメール研究にとって重大な発見らしいと気づいて、以後、積極的にフェルメール関連の古文書を探して、読み漁るようになったそうだ。

※今日のフェルメール研究に必須のテキストである財産目録、不動産売買、金銭貸借、遺言書、訴訟、結婚や死亡に関する書類など、多くの重要史料を発掘した。
(モンティアスはオランダ古語を読めたので、このような調査が可能だった)
⇒そのおかげで、3人早世したけど計14人(子どもの人数について諸説あり。小林頼子説では14人)も子どもがいた。フェルメールの「子だくさん家庭事情」などを垣間見られる。

〇モンティアスはいろいろと新事実を発見しているが、もっとも重大な「発見」は、フェルメールのパトロンの可能性がある、ピーテル・ファン・ライフェンという醸造業者の存在を突き止めたことであるという。
⇒1696年5月16日に、アムステルダムである競売が行われるが、これにフェルメールが21点も入っていた。(前に引用した表を参照のこと)
・モンティアスは、これが前の年に死んだ出版業者ヤーコプ・ディシウスのコレクションだったのではないか、と推理する。
・そして、この21点ものフェルメールがどこから来たのかを遡っていって、ファン・ライフェンに辿りつく。
・モンティアスによる推測によれば、
 ヤーコプ・ディシウスは、このコレクションを自分より7年前に死んだ妻マフダレーナ・ファン・ライフェンから相続した。
⇒マフダレーナの死の直後に作られた彼女の財産目録には、20点(「小路」にあたる絵がフェルメールの作品リストからもれてしまった可能性が高いという)のフェルメールが含まれていたことが確認されている。
・そして、モンティアスは、それらは父ピーテル・ファン・ライフェンと母マーリア・デ・クナイトから相続したものではないかと推理した。
⇒ファン・ライフェンはフェルメールに大金を貸すなど特別な関係にあったのであるが、その借金はフェルメールの絵によって相殺されていたのではないか、と考えた。

<朽木氏のコメント>
※真相は不明。
 しかし、次のふたつは確実であるという。
①ファン・ライフェンとフェルメールが非常に近しい間柄であったこと。
②ファン・ライフェンの娘とその夫が計20点のフェルメール作品を所有していたこと。
※だからモンティアスの推論は突飛ではなく、自然な「読み」である。

※ちなみに、映画『真珠の耳飾りの少女』では、ファン・ライフェンの描き方が歪められているそうだが、彼がいたからこそ、フェルメールが比較的優雅に作品に集中できた可能性が大いにあると、福岡氏は付言している。
 そして、フェルメールの絵を気に入っていたファン・ライフェンのリクエストにフェルメールが応えていたとしたら、フェルメールが描いたモチーフや世界観にはファン・ライフェンの好みがかなり反映しているかもしれないという。
 モンティアスが示した経済的アプローチから見えてくるフェルメール像は、非常に刺激的である。

☆フェルメールにまつわる気になるテーマとして、フェルメールの改宗問題がある。
 オランダで主流のプロテスタントだったフェルメールが、妻と結婚すると同時に、妻の実家と同じカトリックに改宗したことが、モンティアスは気になっていた。そしてその事情についても精力的に調査しようとしていたそうだ。しかし、残念なことに、2005年に亡くなってしまう。

(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、144頁~149頁)


フェルメール全作品マップ



フェルメール全作品マップ
マウリッツハイス美術館[オランダ・ハーグ]
1 真珠の耳飾りの少女
2 デルフトの眺望
3 ディアナとニンフたち
アムステルダム国立美術館[オランダ・アムステルダム]
4 小路
5 手紙を読む青衣の女
6 恋文
7 牛乳を注ぐ女
ドレスデン国立絵画館[ドイツ・ドレスデン]
8 取り持ち女
9 窓辺で手紙を読む女
ベルリン国立美術館[ドイツ・ベルリン]
10 真珠の首飾りの少女
11 紳士とワインを飲む女
シュテーデル美術館[ドイツ・フランクフルト]
12 地理学者
アントン・ウルリッヒ公美術館[ドイツ・ブラウンシュヴァイク]
13 ワイングラスを持つ娘
ウィーン美術史美術館[オーストリア・ウィーン]
14 絵画芸術
ルーブル美術館[フランス・パリ]
15 レースを編む女
16 天文学者
スコットランド・ナショナル・ギャラリー[イギリス・エディンバラ]
17 マルタとマリアの家のキリスト
ロンドン・ナショナル・ギャラリー[イギリス・ロンドン]
18 ヴァージナルの前に立つ女
19 ヴァージナルの前に座る女
ケンウッド・ハウス[イギリス・ロンドン]
20 ギターを弾く女
バッキンガム宮殿ステート・ルーム[イギリス・ロンドン]
21 音楽の稽古
アイルランド・ナショナル・ギャラリー[アイルランド・ダブリン]
22 手紙を書く女と召使
フリック・コレクション[アメリカ合衆国・ニューヨーク]
23 女と召使
24 兵士と笑う女
25 稽古の中断
メトロポリタン美術館[アメリカ合衆国・ニューヨーク]
26 リュートを調弦する女
27 少女
28 窓辺で水差しを持つ女
29 眠る女
30 信仰の寓意
ワシントン・ナショナル・ギャラリー[アメリカ合衆国・ワシントンD.C.]
31 手紙を書く女
32 天秤を持つ女
33 赤い帽子の女
34 フルートを持つ女※
個人蔵[アメリカ合衆国・ニューヨーク]
35 ヴァージナルの前に座る若い女
バーバラ・ピアセッカ・コレクション(保管場所不明)
36 聖女プラクセデス※
盗難のため行方不明
37 合奏
<注意> ※フェルメールの真作でないとする学者もいる
参考文献 『フェルメール巡礼』(朽木ゆり子、前橋重二) 監修、朽木ゆり子
(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、182頁~183頁)




全点踏破の旅の“難所”


「全点踏破の旅の“難所”」(184頁~192頁)では、フェルメール作品の所蔵美術館について解説されている。

ケンウッド・ハウスの≪ギターを弾く女≫


・ロンドンのケンウッド・ハウスは、歴史的建造物で、映画『ノッティングヒルの恋人』(1999年/イギリス・アメリカ合作)でも使われた。
・ケンウッド・ハウスが、2012年夏から老朽化に伴う改築工事で1年間ほど閉館になる
⇒主要な作品はアメリカを巡回。
 ただし、≪ギターを弾く女≫は、絵の状態が不安定なため、今回も巡回せずに、ロンドン・ナショナル・ギャラリーで修復。
⇒これまで修復されてこなかっただけに、何か新しい発見があるかもしれない。
・≪ギターを弾く女≫
 1974年に盗難に遭っているが、犯人たちは不思議と丁重に扱ったらしく、ダメージはほとんどなかったという。
 この作品の額はフェルメールの家にあった鏡らしい。
 (当時は出来あいのもので済ませたという、ただの鏡の額だけど、今となっては素晴らしい資料価値がある。1630年代製の額だそうだ。)

ロンドン・ナショナル・ギャラリーの≪ヴァージナルの前に立つ女≫と≪ヴァージナルの前に座る女≫


・なぜかヴァージナルの前に立ったり座ったりしている女性像を所蔵している。

バッキンガム宮殿ステート・ルームの≪音楽の稽古≫


・エリザベス女王がスコットランドに避暑に行く、7月下旬から9月下旬にかけてしか観られないので、ロンドンとはいえ、意外と「難所」であると、朽木氏はコメントしている。
⇒朽木氏は、全点踏破弾丸ツアーが冬だったので、その取材時は観ることができなかったという。

スコットランド・ナショナル・ギャラリーの≪マルタとマリアの家のキリスト≫


・スコットランドも難所といえば、難所。
⇒≪マルタとマリアの家のキリスト≫はエディンバラのスコットランド・ナショナル・ギャラリー所蔵。
※エディンバラは、あまり普通の旅行先として選ばないので難所であるらしい。
※2008年に1度、来日している絵。

アントン・ウルリッヒ公美術館の≪ワイングラスを持つ娘≫


・ドイツのブラウンシュヴァイクのアントン・ウルリッヒ公美術館は、1番の難所かもしれないそうだ。
・この美術館は、≪ワイングラスを持つ娘(別名:ふたりの紳士とワインを飲む女)≫を所蔵している。
・ブラウンシュヴァイクは、ベルリンから200キロ少々の小さな街。
(ブラウンシュヴァイクは、歴史はあるけれど、ヨーロッパのよくある中都市、という感じの街)
 街は小さい上に、駅からも遠いし、美術館以外に見どころがそんなにないから、よほどのフェルメール・マニアでないと行かない。
(だから、ベルリンからブラウンシュヴァイクに行く電車に日本人がいたら、きっとフェルメール・マニアにちがいないという)

※その他のドイツにあるフェルメール作品としては、次のものがある。
〇≪地理学者≫があるシュテーデル美術館
〇≪真珠の首飾りの少女≫≪紳士とワインを飲む女≫を所蔵しているベルリン国立美術館
※≪真珠の首飾りの少女≫は、ベルリン国立美術館の目玉作品の1点。
※ベルリンは難所と言えるか微妙であるが、日本からの直行便がないから、意外と行きづらい。
〇≪取り持ち女≫≪窓辺で手紙を読む女≫を所蔵しているドレスデン国立絵画館のアルテ・マイスター美術館

ウィーン美術史美術館の≪絵画芸術≫


・オーストリアのウィーンも、巡礼の難所と言えば難所で、意外と遠い。
・ここには、フェルメールが最後まで手放さなかった≪絵画芸術≫がある。
(フェルメール・マニアなら行かないと、と福岡氏は勧めている)
・この美術館には、有名な「ブリューゲルの部屋」があって、≪バベルの塔≫≪農家の婚礼≫など揃っている。
※フェルメールの絵は、薄暗い部屋にあって、結構、冷遇されているそうだ。
 絵そのものも、経年変化で色褪せて見える。
⇒ハプスブルク家にとって、オランダ絵画は全然、重要でなかったことがわかると、朽木氏は感想をもらしている。
(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、184頁~192頁)


オランダという国


・フェルメール(1632―1675)やスピノザ(1632―1677)が生きた時代のオランダは、スペインから独立し、新しいプロテスタントの国となった。
 いろいろな流れ者や異端審問官に拷問されるようなユダヤ教の人たちをも受け入れ、首都アムステルダムにも住まわせた。つまり、自由な場所だった。
(現代のオランダも、安楽死もある自由な国である)

そして、ユダヤ人社会から飛び出したスピノザは、自分の世界観をつくり出した。
(後世には、アインシュタインがスピノザに共感して、「スピノザの神が自分の神、世界の調和の裏側にあるものが神だ」と言っていた。)

・フェルメールが生きた時代のオランダは、まさに世界の覇者として、東インド会社を作り、世界に飛び出していった頃である。自分たちの都市のランドスケープに興味があったようだ。

〇≪デルフトの眺望≫は、
 1654年に起こった「デルフト火薬庫大爆発事故」後の1659年から60年頃の制作である。
 この大爆発は、デルフトの歴史に残る大事故であった。
 ≪デルフトの眺望≫が描かれた時期は、大爆発で破壊された街を復興しよう、と市民が心をひとつにしていた頃である。
 失われたものとこれから新しく作るもの、ということを考えたら、当然「都市」に関心が向く。デルフトの街、というモチーフは、当時のデルフト市民にとって魅力的なモチーフだったであろう。
⇒水辺に女性がふたり、小さく描かれている横に、当初、実は帽子をかぶった男性も描かれていたと、調査で判明している。
≪デルフトの眺望≫は、フェルメールが特に心血を注いで描いた作品である。
⇒17世紀に生きたデルフト市民としてのフェルメールの思いを感じさせると、朽木氏は語っている。

※この作品は≪真珠の耳飾りの少女≫≪ディアナとニンフたち≫と同じマウリッツハイス美術館所蔵である。
※福岡伸一氏の『フェルメール 光の王国』(木楽舎、2011年)の基になったANAグループ機内誌「翼の王国」の連載で回った、すべての美術館のキュレーター(学芸員)に、「予算制約なしならどの作品を買いたいか」と尋ねてみたところ、ダントツ1位が≪デルフトの眺望≫だったという。

〇17世紀前半、世界の覇者だったオランダは繁栄の極みを迎えていて、オランダ・ファッションが最先端だった。
 その後、最先端モードはフランスのお家芸になるわけだが、フェルメールの前半生の時代は、まだオランダのファッションが最先端だった。
⇒その代表的なシルエットが、ハイ・ウェストのゆったりしたスカートだった。

※フェルメールのファッションというテーマでいうと、論議の的になっている問題がある。
⇒特に≪手紙を読む青衣の女≫について、まことしやかにささやかれている説がある。
 つまり、フェルメールが描く女性たちは、「ふっくら」している服に身を包んでいることが多いので、彼女たちは妊婦だ、という解釈。
(≪手紙を読む青衣の女≫で解釈すると、妊婦が真剣な表情で届けた手紙を読んでいる、ということになる。
→手紙が子どもの父親から来たものだとすると、わかりやすくてドラマティックなモチーフになるのだが……)
 しかし、その推測は、先の17世紀前半のオランダの時代背景を考えると、おそらく間違いであると、朽木氏はみている。

〇そして、もうひとつの理由として、17世紀のオランダでは「妊娠している女性は魅力的ではない」という価値観がスタンダードであった点を挙げている。
 妊婦さんたちは臨月に近づくまで、できる限り、妊婦とわからないように工夫していたという。
※肖像画に妊婦が描かれたケースはまったくなくて、風俗画では妊婦が描かれることはあっても、コミカルな扱いだったそうだ。
⇒そうした時代背景の中で、フェルメールがあえて妊婦を何度もモチーフに選んだとも考えにくい。
 だから、フェルメールが描いた女性たちの「ふっくらファッション」は、「そういう服が流行っていたから」という単純な理由によるものであると、朽木氏は考えている。

(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、38頁~39頁、45頁~47頁、104頁~105頁)

≪真珠の耳飾りの少女≫の真珠のイアリングについて


・≪真珠の耳飾りの少女≫が着けている真珠のイアリングは、とても大きい粒である。しかし、あんなに大きい真珠が、当時、あったのだろうか。疑問がわく。
⇒真珠は当時非常に人気があったが、大変高価だった。
 天然真珠は東洋からの輸入品で、お金のある家の女性がブレスレットやチョーカーのセットで持っている、ということも多かった。
(そういうことも、当時の遺品目録からわかる)

・ただ、真珠は人気があったので、ガラスに着色したフェイクが流行った。
⇒この絵の女性が付けている真珠は不自然なほどに大きい。
 だから、フェイクだった可能性もあるし、効果を狙って誇張して描かれた可能性もあると、朽木氏はみている。

・ガウンやサテン地のスカートも高価だった。
 たとえば、黄色いガウンは当時フェルメールの絵1点より高価だった可能性が高い。
 さらに真珠はもっと高価だった。
⇒そういった高価な装飾品を、着用していたり、思わせぶりに机の上に置いてあったり、フェルメールの絵にはたびたび描かれている。
 それは富をある意味で見せびらかしている。もしかすると、ファン・ライフェン(フェルメールのパトロン、醸造業者)の注文だったかもしれないという。

※ちなみに、フェルメール未亡人と義母の財産目録には、真珠や金などのアクセサリーや貴金属品がまったく含まれていないそうだ。
(わざと入れなかった可能性も含め、真相を知りたいと朽木氏は望んでいる)
(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、105頁~107頁)

※オランダの首都、アムステルダムは、とても素敵な街で、特に旧市街は本当に美しくて、歴史を感じる。
⇒名所旧跡と言えば、アムステルダムには『アンネの日記』の「アンネ・フランク・ハウス」もある。

※オランダ旅行の唯一の問題は、食事だという。
 日本人が食べておいしいと思える料理がほとんどない。
 (ベルギーほどビールもおいしくない) 
 アムステルダムは大都会だから、まだちょっとインターナショナルなレストランがあるから、大丈夫。しかし、地方のロッテルダムでは、パンがパサパサで、サンドイッチすらまずいらしい。
※オランダは基本的に質素な食事。
 昔は、フェスティバル以外の日常では、パンとじゃがいもとチーズ、といった食事だった。
 ただ、ビタボーレンという小さくて丸いコロッケのような名物料理は、おつまみに良い。
 また、日本料理の代わりに、インドネシア・レストランに入ってナシゴレンを食べると、「ああ、ご飯おいしい」とホッとしたという。
(インドネシアは元オランダ領だったから)

※オランダに行くなら、夏が1番良いようだ。
 フェルメール・マニアには、夏の7時10分のデルフトの光を体験してほしいという。
 というのは、≪デルフトの眺望≫は、夏の朝、7時10分に描かれたといわれているからであると、福岡氏はいう。
 フェルメール・マニアとしては、せっかくなら、≪デルフトの眺望≫が描かれた時間に合わせて、訪れてほしいというのである。
※そもそも、オランダは、夏は夜10時ぐらいまで外が明るいけれど、冬は朝9時でも真っ暗で、午後3時過ぎになると、もう暗くなって気分が滅入る。
(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、198頁~201頁)

フェルメールの街・デルフト


〇そもそもオランダは、意外と小さな国で、面積は四国の2倍ぐらい。
 だから、どの街に行くにしても、2時間程度しか、かからない。
 アムステルダム、ハーグ、デルフト、ライデン、ロッテルダム
 街が集まっているから、車でも電車でもすぐに行くことができ、旅先としてはお勧めだという。
 ここでは、フェルメールの街・デルフトについてまとめておこう。
〇フェルメールが生きた時代、17世紀のとても豊かだった時代のオランダの都市が「保存」されているのが、フェルメールの街・デルフトである。フェルメールが43年の生涯のほとんどを過ごした故郷がデルフトである。

 ただ、残念ながら、ここにはフェルメール作品がない。
(だから、純粋に作品だけを「全点踏破の旅」とするだけなら、除外しても問題ない。しかし、フェルメール・マニアはもちろんのこと、オランダに行く予定があったら、訪れてもらいたい、美しい街であると、福岡氏は勧めている)

・「フェルメール展」がワシントンとハーグで実現した90年代半ばまで(あるいは映画『真珠の耳飾りの少女』のヒットまで)、世界に誇る街の偉人であるにもかかわらず、フェルメールをそんなに押し出していたわけでもない。
⇒世界中からフェルメール・マニアが訪れるようになったのは比較的最近のこと。
 ツーリストからフェルメールについて尋ねられても、記念碑ぐらいしかなかった。

※朽木氏が最初に行ったとき、フェルメールが入っていた聖ルカ組合があった場所は、フェルメール小学校があったという。
 次に行ったときは空き地になっていた。ここにフェルメール・センターができる予定と聞いたようだ。(しかし、資金不足でなかなかできない状態)
 その後、オランダの名だたるスポンサーが資金を出して、聖ルカ組合の建物に似せたものを作り、フェルメール・センターとしてオープンした。
(しかし、運営がうまくできなくなって1年程度で閉館)

・フェルメール好きは≪デルフトの眺望≫や≪小路≫の場所を探しにデルフトに来るそうだ。
(フェルメールという文化遺産は町おこしになるから、やはり街として受け皿をつくったほうが得策であると、朽木氏はいう)
・フェルメールの故郷なのにフェルメールの絵が1点もないのが残念だが、フェルメールが作品の中に描いたようなデルフト焼タイルはある。
(また、蚤の市に行くと、フェルメール時代のデルフト焼が安価な値段で売られていて、楽しいと、福岡氏は勧めている。)
 17世紀の古いデルフト焼でも、1枚、2000~3000円くらいから手に入るので、良い記念になるらしい。
 ≪ヴァージナルの前に立つ女≫に描かれているような17世紀のデルフト焼タイルは、子どもが遊んでいる絵とか、いろいろな職業の絵があって面白いという。

(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、193頁~202頁)

フェルメール最大の謎~福岡伸一氏の「あとがき」より


フェルメール最大の謎について、福岡伸一氏は「あとがき」に次のように述べている。

「≪真珠の耳飾りの少女≫はいったり何を見ているのか。フェルメール最大の謎である。
 オランダ・ハーグにあるマウリッツハイス美術館に来てこの絵を実際鑑賞すると、彼女の
見ているものが何なのか、その答えが自然にわかるようになっている。絵は比較的小さな部屋に掛けられている。そしてこの絵の反対側の壁には、フェルメールのもうひとつの傑作≪デルフトの眺望≫が掛けられているのである。そう、彼女のまなざしはちょうどそこに届いている……。
ぜひ皆さんも深読みフェルメールを!」
(朽木ゆり子、福岡伸一『深読みフェルメール』朝日新聞出版、2012年、222頁)
このように、「あとがき」を結んでいる。
福岡伸一氏によれば、≪真珠の耳飾りの少女≫は、作者フェルメールの故郷デルフトを眺めていたという解釈になる。

おわりに―感想とコメント


この本の中で、一番印象に残った話は、福岡伸一氏が語った「フェルメール・ブルー」についてであった。さすが生物学者で、自然界の生き物に詳しい。
私は福岡氏の話をきいて、青いバラのことを想起した。昔、読んだ本に、
〇最相葉月[さいしょう・はづき]『青いバラ』小学館、2001年
という本がある。
その「青いバラ」について、触れておきたい。

☆青いバラについて
「この世に青いバラはない」といわれてきた。
 青いバラという言葉には「不可能」という意味がある。
(キクにもユリにもチューリップにも青はないが、バラに青がないのは特別なことだった)
バラには青い色の遺伝子、すなわち青い色素デルフィニジンをつくる遺伝子が存在しないために、従来の育種方法では青いバラはできなかった。だが、バラ以外の青い花から青い色の遺伝子を取り出してバラに導入し、その遺伝子がバラの中で活性化すれば、青いバラができるとされる。
 例外はあるが、この世にある青い花の多くはデルフィニジンを持っている。だが、三大切り花の、バラ、キク、カーネーションの花弁にはなぜかデルフィニジンはなく、シアニジン(赤)とペラルゴニジン(黄)しか含まれていないため、青い品種はなかった。
(ただ、デルフィニジンがあるからといって、必ず青くなるわけではなかった。デルフィニジンにも、赤紫から青という色の幅があるため)
ちなみに、青い花には、ツユクサやヤグルマギク、アサガオなどがあるが、これらの青い花の色素を溶媒で抽出すると、もとの花弁の色とは違って赤色になってしまう。
(最相葉月『青いバラ』小学館、2001年、4頁、120頁、184頁、186頁)

※この後、2004年6月30日に「青いバラ」が遺伝子組み換え技術により誕生した。2009年、「アプローズ」のブランドを設け、切り花として発表された。

【最相葉月『青いバラ』小学館はこちらから】
最相葉月『青いバラ』小学館


≪田中秀明『桜信仰と日本人』を読み返して≫

2022-04-14 17:50:17 | 私のブック・レポート
≪田中秀明『桜信仰と日本人』を読み返して≫
(2022年4月14日投稿)

【はじめに】


 4月1日、市内の桜は満開であった。
 この日、ある集まりで花見のお誘いがあり、参加することにした(もちろん、コロナ対策を万全にしつつであるが)。
 話題の豊富な人が一人でもおられると、場が和み、その場にいても楽しい。桜に蘊蓄の深い人がおられ、随分、勉強になった。
 私も、以前に桜に関する本を何冊か読んだことはある。しかし、とっさに機転を利かして、適当な話題が頭に浮かんでこないのは、困ったことだ。年のせいにはしたくない。
 そこで、手元にある桜に関する手頃な本を読み返してみた。それが、田中秀明氏の監修した本書である。
〇田中秀明『桜信仰と日本人 愛でる心をたどる名所・名木紀行』青春出版社、2003年
 頭を整理する意味でも、簡潔に紹介してみたい。何かの参考にしていただければ、幸いである。




【田中秀明『桜信仰と日本人』(青春出版社)はこちらから】
田中秀明『桜信仰と日本人』(青春出版社)






田中秀明『桜信仰と日本人 愛でる心をたどる名所・名木紀行』青春出版社、2003年
【目次】

はじめに
第一章 桜と日本人
 待ちに待った開花
  「桜前線」を追いかける
  日本にしかない花見の風習
 古代人が見た桜
  「コノハナサクヤヒメ」伝説
  「サクラ」の語源
 貴族の風雅から庶民の遊びへ
  花見は昔「梅」だった
  平安貴族の「花の宴」
  桜に託された無常観
  庶民への広がり
 時代に翻弄された桜
  本居宣長の桜
  ソメイヨシノの悲劇
  現代人の桜観

第二章 歴史にみる桜
 秀吉が催した花見宴
  「吉野の花見」の意味
  栄華を誇った「醍醐の花見」
  醍醐寺に残る当時の面影
 花のお江戸と花見風俗
  江戸の花見は上野から
  川柳にみる江戸っ子の花見
  花見小袖と「茶番」
 ポトマック河畔に咲く桜
  桜に魅入られたアメリカ女性
  受け継がれる日本の桜

第三章 暮らしに息づく桜の文化
 こんなにあった桜の種類
  桜の特徴
  桜の自生種と園芸種
 生活の中の桜
  桜を味わう
  桜の工芸品

第四章 桜を守る人々
 桜を育てた人々
  東西交流による桜の改良
  桜を広めた園芸技術

 絶滅を免れた荒川堤――五色桜
 継体天皇お手植えの桜の復活――根尾谷の淡墨桜
 ダムから救われた二本の桜――荘川桜
 天の川のような桜道を作りたい――桜街道
 桜守三代、日本の名桜を守る――佐野藤右衛門家の桜

第五章 日本全国桜名所案内




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・第一章 桜と日本人
・桜の語源~◆「コノハナサクヤヒメ」伝説
・◆「サクラ」の民俗学的語源
・花見は昔「梅」だった~第一章 桜と日本人 貴族の風雅から庶民の遊びへ
 ◆花見は昔「梅」だった/◆平安貴族の「花の宴」/【補足:和歌の掛詞について】
 ◆桜に託された無常観/◆『新古今和歌集』の無常観/◆庶民への広がり
・時代に翻弄された桜
 ◆本居宣長の桜/◆ソメイヨシノの悲劇
・桜の自生種と園芸種
 【ヤマザクラ(山桜)】/【オオシマザクラ(大島桜)】/【エドヒガン(江戸彼岸)】
 【ソメイヨシノ(染井吉野)】/【ギョイコウ(御衣黄)】
・第五章 日本全国桜名所案内
 【三隅の大平桜】/【根尾谷(ねおだに)の淡墨桜(うすずみざくら)】/【荘川桜】
 【山高神代桜(やまだかじんだいざくら)】






第一章 桜と日本人


桜は本格的な春の到来を告げる花である。そして、日本人を魅了してやまない花である。
桜の花の美しさに感動する日本人の感性こそが、桜と日本人の素晴らしい関係を育んできた。

花見は、平安貴族たちが風雅な遊びとして行った「花見の宴」に端を発するといわれる。
その後、権力や財力のある武士・町人らに受け継がれ、江戸時代には庶民の娯楽として広く浸透していった。つまり、日本人は現在にいたるまで千年以上もの間花見を続けてきたことになる。現代的な花見が成立したといわれる江戸中期から数えても、すでに数世紀が経っている。

ところで、花が大好きでガーデニングの元祖ともいえるイギリス人でも、大勢の人が花を楽しむ場所で仲間と飲食しながら時間を過ごすという習慣はないそうだ。
また、比較的気候や文化に共通点のあるアジアの国々でも花見はなかったと、白幡洋三郎氏(国際日本文化研究センター)はいう(その著『花見と桜』)。
(ただ、中国の大連に桜の花見があったが、そこはかつて日本人が作った桜の名所であった)
つまり、花見は日本独自の文化であると、白幡氏は結論している。白幡氏は日本の花見の特徴として、「群桜」「飲食」「群集」の三要素を挙げている。

それにしても、さまざまな疑問がでてくる。
どうして日本人は桜、花見が好きなのか。
たくさんある花の中でなぜ桜にばかり特別な目を向けるのか。
また、日本人は桜に対して、どのような心情を抱いてきたのか。

こうした問題意識のもとに、本書は桜と日本人の関係について、様々な側面から論じている。
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、3頁~19頁)

桜の語源~◆「コノハナサクヤヒメ」伝説


・桜は日本人の祖先が日本列島に現われる前から自生していたといわれている。
・桜が古代の日本人の目にどう映っていたのか。
 その手がかりとして、研究者たちが目をつけたのが、「サクラ」の語源である。
 これには、様々な説がある。
〇「咲き群がる」「咲麗(サキウラ)」「咲麗如木(サクウルワシギ)」「咲光映(サキハヤ)」などの略であるという説
〇桜の樹皮が横に裂けることから「裂くる」が転じたという説
〇「盛」「幸」「酒」と同義語だという説
〇「木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)」の「サクヤ」が「サクラ」に転じたという説
 (有力な説として最初に定着)

木花開耶姫の伝説


・この伝説は、『古事記』神代巻に登場する。
・天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が笠沙(かささ)の御前で美女に出会い、名を尋ねると、姫は「木花開耶姫」と答える。
 尊は妻にしたいと思い、父親の大山津見(オオヤマツミ)の神に結婚を申し出たのだが、父親は姉の「磐長姫(イワナガヒメ)」もめとってくれるならと姉妹を差し出す。
 ところが、尊はあまり美しくない姉を避け、妹とだけ一夜の契りを結ぶ。
 これに対して、大山津見の神は、尊の永遠の寿命を願って、磐長姫を差し出したのに、これを退けたということは、これから尊の命は花のように短かくはかないものになるだろうと語ったという。

※ここには桜についての記述がはっきり出てくるわけではないが、美しい花「コノハナ」は桜を指すという解釈がなされた。
 また、古代の音韻にはラ行がヤ行に転じることがあるという学説もあり、「サクヤ」が「サクラ」になったのだろうともいう。

・ところで、木花開耶姫は伊勢の朝熊(あさくま)神社で桜を神木としたという伝説もある。⇒これも木花開耶姫と桜を結びつける一因になったと考えられている。
・さらに、富士山の御神体は木花開耶姫で、一般的にこれは桜のことであると解釈されている。⇒本居宣長(もとおりのりなが)の『古事記伝』にも、この説が使われている。
(つまり、『古事記伝』が書かれた江戸中期以降、これが研究者の間で通説となっていた)
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、20頁~22頁)

◆「サクラ」の民俗学的語源


〇木花開耶姫伝説から導き出された語源説が長いこと最有力と目されてきたのだが、その後、民俗学的な見地から新しい解釈が生まれた。
⇒これは、「サクラ」を「サ」と「クラ」に分けて解釈する。
(サは穀霊を表し、クラは神が依りつく「座(くら)」のことであるとする)
 つまり、「サクラ」とは、「稲の神が集まる依代(よりしろ)」を意味する言葉である、という説である。

・民俗学で「サ」はサオトメ(早乙女)、サツキ(五月)、サナエ(早苗)といったように、すべて稲霊を表すとされている。
一方、「クラ」はイワクラ(磐座)、タカミクラ(高御座)のように、神霊が依り鎮まる座の意味があるという。

〇このように、「サクラ」と稲の霊との関連性を最初に指摘したのは、折口信夫と見られている。
(「折口学」という独自の研究世界を作り上げた民俗学者)
⇒折口は、桜を、もともと観賞用ではなく稲の実りを占う実用的な植物であったという(『花の話』)。
 そのため花が早く散ってしまうのは前兆が悪いものとして、花が散らない事を欲する努力につながっていったとする。
※京都・今宮神社の「やすらい祭」を例に挙げて、この裏には桜の花が早く散ってしまうと稲の実りに悪い影響が出るので、散らないでほしいと祈る民衆の呪術観念が潜んでいるとも、説いている。
※「サ・クラ」説には直接触れていないが、折口は桜の花を稲の豊凶を占う重要なサイン、神意の顕れと見ている。

※この折口の説から一歩踏み込んだところで、「サ・クラ」説が展開されるようになったようだ。
 ただ、懸念の声も挙がっている。
 というのも、桜は日本人が現れる前から日本列島に自生していた植物である。稲作が渡来する、はるか昔からあった桜に、なぜ稲霊に由来する名前がつけられたのか、まだ何も説明がなされていないから。

※また、「やすらい祭」も、折口説とは反対に、疫病や邪気を桜の花が散るのといっしょに追い払ってしまおうという思いから始まったという説もある。

<田中秀明氏のコメント>
〇「サ・クラ」説が桜の語源説としてゆるぎないものかどうか不明。
 だが、桜が稲作と深い関係にあったことは確かである。
・今でも日本各地に「種まき桜」「苗代桜」「作見桜」などが残っている。
 桜の花は籾種(もみだね)をまいたり豊凶を占うなど、農作業の目安となっていた。
⇒四季の変化を自然の中から読み取っていた古代日本人が、稲作りを開始する季節になると、山々に咲き乱れる桜に神聖なものを感じたとしても不思議ではない。
・稲などの作物を神からの賜わり物とみなしたように、桜にも神の存在を見ていたと考えてよい。
 こうした日本古来のアニミズムを出発点とした桜観は、各地の桜祭や古木伝説の中だけでなく、今も日本人の心に生きているといえよう。

(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、22頁~24頁)


花見は昔「梅」だった~第一章 桜と日本人 貴族の風雅から庶民の遊びへ


 貴族の風雅から庶民の遊びへ

◆花見は昔「梅」だった


桜と日本人の関係を考えたとき、花見を抜きにして語ることはできない。
では、花見はいつどのような形で始まったのか。
実は、日本人が初めて体験した花見は「桜」ではなく、「梅」であった。

奈良時代は、遣唐使などによって中国の文化が日本に運ばれ、貴族たちに大いにもてはやされていた時代である。梅は外国からやってきた貴重な花樹として人々に歓迎された。そして、梅の花を楽しみながら詩を詠むという中国の宮廷文化にも、奈良朝の貴族は最先端の教養文化として飛びついたようだ。

そうした状況を物語るのが、現存最古の歌集『万葉集』である。
桜を詠んだ歌も40首ほどあるものの、梅は100首以上と、桜をはるかにしのいでいる。
もっとも、『万葉集』で一番多く詠まれている花は萩である。

では、桜はどのような存在であったか。
今でこそ桜はソメイヨシノなどの里の桜が主役となっているが、もともと桜といえば、山に咲くヤマザクラが中心であった。
万葉人たちの歌には、山を含めた風景として桜の美しさを素朴に詠んだものが多い。

  見渡せば春日(かすが)の野辺(のべ)に霞立ち咲きにほへるは桜花かも(巻一0・一八七二)

この歌は、春日山に桜の咲きほこる様子を詠んでいる。
遠くから眺めて楽しむものではあったが、春日山、高円(たかまど)山、香具(かぐ)山など、この頃すでに桜の名所といえる場所が奈良の周辺にいくつかあったようだ。

『万葉集』の時代は、花見が「梅」から「桜」に移行する前の、桜を観る眼を養う下準備の時期だったともいえる。
『万葉集』の中にも、桜を観賞する姿勢は見られるが、万葉人たちの桜を観る眼はそれまでのアニミズム的自然感覚に「花を愛でる」という外来文化の影響が加わったものであったであろう。

◆平安貴族の「花の宴」


花といえば、桜を指すほどに桜への思いが強くなっていくのは、平安時代になってからのことである。
『古今集』になると梅と桜の立場は逆転し、圧倒的に桜を詠んだ歌が多くなっている。

平安京の内裏(だいり)の紫宸殿(ししんでん、南殿)前庭には、一対の樹木が植えられていた。これが今もよく知られている「左近(さこん)の桜」、「右近(うこん)の橘(たちばな)」と称されるものである。

実は平安京遷都の際、最初に植えられたのは桜ではなく、梅であった。遷都の折には、奈良時代の平城京にならい、橘とともに梅を植えたのだろう。奈良朝でもてはやされていた梅を崇める空気がまだ残されていたようだ。
ところが、この樹が枯れてしまった後に植え替えられたのは桜だった。この出来事は、仁明(にんみょう)天皇の承和(じょうわ)年間(834―48)のこととされている。
それから間もなく、894年には遣唐使が廃止された。こうした事柄から、平安時代に入ると、日本人の外への関心が徐々に薄れ、自国の文化に目覚め始めた。外来植物である梅ではなく、日本自生の花、桜へと関心が移っていった。

そして、いよいよ「桜」の花見の登場となる。
『日本後紀』には、弘仁(こうにん)3年(812)嵯峨天皇の命により、
「神泉苑(しんせんえん)に幸して花樹を覧(み)る。文人に命じて詩を賦さしめ、綿を賜うこと巻あり、花宴の節はここに始まる」
と記されている。これが記録に残る最初の花見といわれている。
その後、天長(てんちょう)8年(831)には、場所を宮中に移し、「花の宴」は天皇主催の定例行事となっていった。

花見の文化が定着するとともに、桜の種類は増え、都の郊外には、花山、雲林院、東山、月林寺、法勝寺など桜の名所も数多くできた。
鷹狩から始まった桜狩も盛んに行われるようになり、貴族たちは野山に出かけて花見をし、そこで宿泊するという遊びを楽しんだ。
『伊勢物語』に登場する交野は、桜狩の名所である。惟喬(これたか)皇子(文徳天皇皇子)は在原業平(ありわらのなりひら)を連れてよく訪れ、花の下で酒を飲んでは歌を詠み、近くの水無瀬離宮(みなせりきゅう)に宿泊するという狩を好んだといわれる。

このように、平安時代は桜が人々の心にクローズアップされてきた時代でもあった。
花の宴や桜狩で詠まれた歌には、桜に対する細やかな心理が映し出されるようになる。
その代表といえるのが、『古今和歌集』である。

  世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(五三)

桜の花があるばかりに心が乱される、いっそ世の中に桜がなければ穏やかな日々を過ごせるのに、という桜へ寄せる思いを詠んだ在原業平の歌である。
(咲いても散っても美しさを素直に詠んだ『万葉集』の歌に比べ、格段に成熟した表現といえる点に、注目したい)

  花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに(一一三)

小野小町(おののこまち)のあまりにも有名な歌である。桜と自分の容姿とを重ね合わせて嘆きつつ世の無常をも詠んでいる。(この有名な和歌は、高校の古文でもよく取り上げられている)

  久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ(八四)

これも非常によく知られた紀友則(きのとものり)の歌である。
穏やかな春の日であるのに、心は散る桜に乱される、と美しい情景と乱れる心との対比を見事に描いた。

<注意>
※『万葉集』に比べると、『古今集』の歌は自然を観る眼の熟練を感じさせる。
また、桜の歌は春を詠んだ歌の半数以上を占めており、いかに桜が平安貴族たちの心を捉えていたかがわかる。桜と梅で比較するなら、『古今集』では桜の方がはるかに多い。
※本居宣長が『玉勝間(たまがつま)』の中で、
「ただ花といひて桜のことにするは、古今集のころまでは聞こえぬことなり」
と指摘しているように、『古今集』に詠まれている桜の多くは「花」で表現されている。

【補足:和歌の掛詞について】


和歌の修辞における「知的効果」の味わい方として、黒川行信『体系古典文法』(数研出版)において、次のように記している。
①物語の文脈、詞書などから作歌意図をつかむ
②五七五七七に分かち書きして、リズムや切れ字などを把握する
③枕詞、縁語、掛詞の代表例を覚えておく
(黒川行信『体系古典文法』数研出版、2019年[1990年初版]、138頁)

和歌の修辞問題、掛詞(かけことば)の攻略法については、次のように解説される。
掛詞が分からないと、和歌の意味が理解できない場合もある。
●掛詞の特徴と見つけ方
①掛詞とは、同じ部分に重ねられた同音異義語で、一つの歌の中に複数のイメージを組み込んだ技法。
②上から読んで、急に意味が理解しにくくなる部分に掛詞がある。
⇒掛けられた双方の意味を解釈に反映しないと理解できない場合が多いため。
③物(現象事象)と心(心象人事)の掛詞が多い。
 <例> ながめ(「長雨」=現象と「ながめ」=心象」
  花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせし間に
(古今集・巻二・小野小町)
 ふる(降る・経る)
 ながめ(長雨・眺め)
【現代語訳】
 桜の花の色はむなしく色あせてしまったことだなあ、長雨が降り続いて見ることもできずにいるうちに。そのように私の容色もむなしく衰えてしまったことだ、自分が生きてゆくことで物思いをしていた間に。
 
※和歌には、<表の意味>と<裏の意味>があることが多い。二つを橋渡ししているのが掛詞である。多くの場合、
●表の意味=自然物・地名
●裏の意味=人事・人の心情となる。
上記の小野小町の歌では、「長雨―降る」が自然物で表の意味、「眺め―経る」が人事で裏の意味ということになる。
(黒川行信『体系古典文法』数研出版、2019年[1990年初版]、136頁~138頁など)

◆桜に託された無常観


平安時代とは、平安京遷都から鎌倉幕府の設置までの約400年を指す。
とてつもなく長い年月の間には、様々な政権交代劇や貴族文化の開花があった。しかし、国家の充実期、成熟期を過ぎると、やがて貴族社会も衰退期を迎える。
平安末期には武士の台頭によって、戦乱が相次ぎ、また地震、旱魃、大火などの災害、飢饉も続発して世情は不安定になっていった。そうした中で、人々は無常観にとらわれ、その思いは来世信仰へつながっていく。

世の中に変わらないものなどひとつもない、という「諸行無常」の考え方はそもそも仏教によるものである。だが、仏教本来の諸行無常はそれを超越した先に究極の境地があると説いている。それに対して、日本人の心に根づいたのは、世の無常を嘆き悲しみつつ、諦めるという心情であった。人々はいずれ消えていく命のはかなさを観念的に知っており、それを自然の中に重ね合わせて歌に詠んだ。その題材として、桜を好んで用いられたのも、日本人の無常観と桜の生態がマッチしていたからだろう。
貴族文化華やかなりし頃の『古今集』にも無常観漂う歌はあるが、基本的には桜の美しさに心酔する様がみてとれる。無常は観念の中にとどまっていた。

◆『新古今和歌集』の無常観


しかし、すでに貴族社会が実権を失った鎌倉時代前期に編まれた勅撰和歌集、『新古今和歌集』になると、桜に託した無常観は切実な嘆きへと変わる。

  桜散る春の山辺は憂かりけり世をのがれにと来しかひもなく(一一七)

世間から逃れるために山へ隠遁しようとやってきたのに、桜の散る様子を見ていると決心がゆらいでしまう、という恵慶(えぎょう)法師の歌である。

  はかなさをほかにもいはじ桜花咲きては散りぬあはれ世の中(一四一)

世のはかなさを表すなら桜が咲いては散っていく様子以外にない、と詠んだのは、後徳大寺左大臣藤原実定(さねさだ)である。

  ながむべき残の春をかぞふれば花とともに散る涙かな(一四二)

この俊恵(しゅんえ)法師の歌などは、まさに嘆きそのものである。

<注意>
※『新古今集』では、このように道俗の別なく、ひたすら桜の散るのを惜しんでは嘆く歌が多い。桜の散るさまにかけて世の移り変わりを嘆くのである。
※平安時代だけを取りあげても、日本人の桜観は時代背景や社会情勢の影響を受けながら、少しずつ変化あるいは洗練されてきた。

◆庶民への広がり


平安時代が終わりを告げ、武家政権の鎌倉時代に移っても、花見は武士たちによって受け継がれていった。京の上流文化を武士たちは、自分らのものにしようと取り入れた。
鎌倉時代には鎌倉近辺の鶴岡八幡宮や永福寺などが桜の名所となった。室町時代は再び都を京に移し、華やかな花見が行われた。また、吉野山は平安時代から知られた花見の名所であったが、足利義満はここに様々な種類の桜を持ち込み観賞したといわれる。
桃山時代になると、さらに花見は盛んになった。中でも天下人豊臣秀吉が吉野と醍醐で催した豪勢な花見は、今に語り継がれる大規模なものであった。この花見によって、秀吉は天下人としての地位を世間に知らしめた。
(ただ、武士たちが行った花見には、もはや貴族文化の風雅はなく、権力を誇示するための道具になっていった)

一方、桜の名所が地方へ広がっていくにつれ、庶民の間にも花見は浸透していった。まずは財力のある町人など裕福な階層に広がり、やがて江戸時代になると、一般の庶民も郊外へ花見に出かけるのが行楽の行事となっていった。
「花の宴」の流れを汲む花見は、江戸時代の初期頃までは経済力や教養のある上層階級にとどまっていたが、元禄期には俳諧など文芸の大衆化にともなって、花見も庶民化した。
さらに、享保期になると、江戸には上野をはじめ、向島や飛鳥山、御殿山など花見の名所の開発も行われた。江戸中期に盛んになった大衆花見が現代の花見の原型といわれている。
(落語「長屋の花見」「花見の仇討ち」などに花見の風景が語られているが、これこそ花見が庶民に浸透した証拠であろう)
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、25頁~36頁)

時代に翻弄された桜


◆本居宣長の桜


国学者・本居宣長は、桜に並々ならぬ思いを寄せた人である。

  敷島の大和心(やまとごころ)を人とはば朝日に匂ふ山桜花

これは宣長を語るときに必ずといっていいほど取り上げられる歌である。
昭和初期から敗戦に至るまで日本が掲げていた軍国主義を扇動するのに大いに貢献した歌とされたからである。

国粋主義を突き進んでいた時代に、歌の中の「大和心」は、「日本人の心」ではなく「大和魂」と解釈された。「漢意(からごころ)」を排し日本古来の道へ戻るべきである、とする宣長独自の思想も手伝い、国家と桜は結びついた。
(しかし、最近ではこの歌は詠まれたとおりの意味に解釈するのが宣長の本意と考えられえるようになってきている)

では、宣長はどのような桜観を持っていたのだろうか。
その手がかりとして指摘されるのが、宣長の出生にまつわる事情である。

宣長の父はなかなか子どもに恵まれず、願をかけると子を授かるという吉野の水分(みくまり)神社に詣でたところ、念願の男子を授かったという。それが宣長であり、自分は吉野の申し子と信じていたようだ。

  水分の神のちかひのなかりせばこれの我が身は生れこめやも

水分神のおかげで自分は生まれてきたという歌である。この神への信仰は生涯続いた。

吉野といえば、修験道の聖地である。桜はこの地の神木とされている。
平安の頃から多くの歌人が歌に詠んだ、いわば桜の聖地でもある場所である。吉野から生を受けたという思いは、宣長を自ずと桜を向かわせたようだ。

『玉勝間』には、次のような桜観が綴られている。
「花はさくら、桜は、山桜の、薄赤くてりて、ほそきが、まばらにまじりて、花しげく咲きたるは、またたぐふべき物もなく、うき世のものとも思はれず」

桜の美しさ、特に山桜のすばらしさを、「この世の物とは思えない」という最大級の感動で表現している。吉野の桜はもちろん山桜であり、この花に特別な思い入れがあったのであろう。
また、宣長の遺言書には、自分の墓の念入りな設計図が書かれてあった。その中に、築いた塚の上に「花のよい山桜」を植えるようにとの指示があったという。
こうしてみると、宣長の桜観には、桜の中に神を感じた古代日本人の自然観と近いものがある。
「敷島の……」の歌も、これと同じ桜観から生まれたものと考えられる。
(国家のイデオロギーと結びつけられてしまったのは、宣長にとっても桜にとっても不幸なことだったと、田中氏はコメントしている)

◆ソメイヨシノの悲劇


今、日本にある桜の8割以上はソメイヨシノが占めているといわれる。
つまり、桜といえばほとんどの日本人がソメイヨシノをイメージし、それしか見たことがないという人も多い。
(ちなみに、開花予想もソメイヨシノを基準にしている)

だが、この桜の歴史は意外にも浅い。
新種として登場したのは、江戸末期、豊島郡の染井(現在の東京都豊島区駒込と巣鴨の境界地、染井墓地がある)あたりの植木屋が「吉野桜」という名で売り出したといわれている。

生育が早く、花付きがよく、見るからに華やかな桜はたちまち人気を呼んだが、本場吉野の桜と混同されては困るということで、発祥の地である「染井」を頭につけ、「ソメイヨシノ」になったそうだ。

明治になると、ソメイヨシノは全国各地に広まっていった。東京などの都市だけでなく、地方でも城跡や公園、堤防、学校などありとあらゆる場所に植栽された。
本州では、ちょうど4月の入学式と桜の花の時期が重なるため、桜というと入学式を思い出す人も多い。

こうして、日本全国を席巻したソメイヨシノではあったが、それが結果的に桜と戦争を結びつける要因のひとつになったという見方もある。
明治維新以来、日本は近代国家としての体制を作り上げるために変革を余儀なくされてきた。
『大日本帝国憲法』や『教育勅語』の発布などで国民の意識変革を図り、富国強兵策を邁進させることで、国を存続させようとした。そうした中で日清・日露戦争に勝利し、さらに国民の士気を高めようと国が気炎を上げていた時期と、ソメイヨシノが全国に広まった時期は重なる。

ソメイヨシノは花期が短く、満開になったかと思うと、一週間もしないうちに散ってしまうのが特徴である。
花が多いだけに、それらがいっせいに散る様子は見事でもある。パッと咲いてパッと散る。この潔い散り様が戦争における士気の高揚に用いられるようになっていく。
明治新政府は、このソメイヨシノの性質を利用し、それまでのヤマザクラから意図的にソメイヨシノに代えて植樹した、という見方もある。
(特に軍隊の駐屯地は城跡が多く、軍人の生き様と桜を対比させるがごとく、ソメイヨシノを植樹したといわれている。現在、城跡に桜が多いのもこのためという。『同期の桜』など軍歌にも桜は多く登場するが、歌詞の中の桜はソメイヨシノを連想させる。軍国主義と桜が結びついたのは、この時代、日本全国にソメイヨシノが溢れていたことも関連あるかもしれないともいわれる)

(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、37頁~42頁)

桜の自生種と園芸種


「第三章 暮らしに息づく桜の文化」では、「桜の自生種と園芸種」を解説している。
桜というのは、植物分類上ではバラ科サクラ亜科サクラ属サクラ亜属に属する樹木である。
自生種は主に東アジアに分布している。日本で見られる自生種は、ヤマザクラ、オオヤマザクラ、オオシマザクラ、エドヒガンなど9種類である。これらを基本として変異した100以上の品種が野生しており、あとはそこから育成された園芸品種である。

※自生種
ヤマザクラ群
【ヤマザクラ(山桜)】
・北は東北地方南部から四国、九州、韓国の済州島(チュジュド)にまで分布。
・4月上中旬、若葉と同時に花を咲かせる。若葉は赤味を帯びているものが多いが、中には黄色、茶色などもある。葉の裏側は粉白色である。
・花は淡い紅色のいわゆる桜色だが、時間が経つにつれて次第に色が白くなっていく。
・変異に富んでいて、栽培されている品種もある。八重咲きのサノザクラ(佐野桜)、ゴシンザクラ(御信桜)、菊咲きのケタノシロキクザクラ(気多の白菊桜)などがそれである。
・平安以降、桜の名所や歌に詠まれた桜は、ほとんどがこのヤマザクラといわれている。いわば、日本人の桜観の基礎となっている桜といえるだろう。
 現在もあるヤマザクラの名所といえばやはり吉野である。

【オオシマザクラ(大島桜)】
・伊豆七島に自生していた桜だが、現在は伊豆半島、房総半島に野生化しているのを始め全国各地に植えられている。
・若葉は鮮やかな緑色で、葉の縁の鋸歯は糸状にのびる特徴がある。成葉は大きく、塩漬けにしたものが桜餅を包むのに用いられる。
・栽培種は多く、ソメイヨシノもオオシマザクラとエドヒガンの雑種といわれている。
・他にも、白色で大輪一重の花を咲かせる「タイハク(太白)」「コマツナギ(駒繋)」、一重と半八重の花が混ざる「ミクルマガエシ(御車返し)」、枝が上に伸びる「アマノガワ(天の川)」、花が淡黄緑色の「ウコン(鬱金)」「ギョイコウ(御衣黄)」、紅色八重の「ヨウキヒ(楊貴妃)」「フクロクジュ(福禄寿)」、さらに花弁の多い「ショウゲツ(松月)」など、里桜と呼ばれる園芸品種に多く関与している。

エドヒガン類
・高木になる種類で、樹皮がヤマザクラ類のように横に裂けるのではなく縦に裂けるのが特徴。
 野生種はエドヒガン一種である。

【エドヒガン(江戸彼岸)】
・本州、九州、四国、韓国の済州島にも分布するが、東国に多い種類であるためアズマヒガンとも呼ばれる。
 また、花の時期に葉が出ないことから、「葉」と「歯」をかけて歯のない老女の「姥」に例えてウバヒガンと呼ばれることもある。
・花はひとつの芽から2、3個の花がつく散形花序で、がく筒や花柄、葉にも毛が多い。ヤマザクラよりも小さな花である。
・樹勢が強いのも特徴で、幹の内部が空洞になっても生き続けるものもあり、樹齢数百年の古木が各地に残されていて天然記念物に指定されているものも多い。
 最古のエドヒガンは山梨県にある「山高神代桜(やまだかじんだいざくら)」である。
・また、江戸の人々が花見を楽しんだのはエドヒガンが多かったと思われる。
 八代将軍吉宗が、飛鳥山、向島、玉川上水などの花見の名所を造成する際にも、このエドヒガンを中心に植樹したといわれている。

※園芸種
【ソメイヨシノ(染井吉野)】
・エドヒガンとオオシマザクラとの雑種といわれる桜である。
 江戸末期に売り出され明治中頃から全国に普及した。現在、公園や並木などの花見の名所といわれるところは、ほとんどこのソメイヨシノが占めている。
・花の大きな性質はオオシマザクラから、葉が開く前に開花する性質はエドヒガンからというように、双方の優れた特性を受け継いでいる。
・人気を呼んだ理由のひとつとして、生育の早さが挙げられる。
 また、花つきが多く、葉が出る前に花が満開になるため、見た目に華やかであることも喜ばれる理由であろう。
・ただし、成長が早いだけに、栄養分も多く必要とするため、3、40年をピークに、7、80年には老衰する。さらに、天狗巣(てんぐす)病などの病害にかかりやすいのも難点。
(寒冷地にあるものは病気にかかりにくいといわれる)
・起源や原産地については諸説ある。
 江戸染井村の植木職人が作り出したといわれているが、自然交配してできたものを見つけてきて増殖させたとの見方もある。

※黄緑色の桜
【ギョイコウ(御衣黄)】
・ウコンと同様に、淡黄緑色の花を咲かせるが、ウコンより小さな八重咲きで、花の最盛期を過ぎると花弁中央に紅色の縦線が現れてくる。
 花びらは緑色が強くなり、外側へ反り返る性質がある。花弁は肉厚で、数は12~14枚位。
・やはりオオシマザクラ系のサトザクラだが、一見したところ桜というイメージではなく、数ある桜の品種の中でも変り種といえる。
 4月下旬に開花する。
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、80頁~104頁)

第五章 日本全国桜名所案内


中国地方
【三隅の大平桜】
●所在地/島根県那賀郡三隅町(現在:浜田市三隅町)
●開花時期/4月上旬~中旬

・樹齢300年以上、樹高18メートルの巨桜。
・地上2メートルあたりから幹が6本に分かれ、横に20メートル以上大きく枝を張っている。
 樹勢が盛んで迫力がある。
・ミスミオオビラザクラ(三隅大平桜)という品種。
 日本にこの木一本しかない稀有な品種で、国の天然記念物に指定されている。
 エドヒガンとヤマザクラとが自然交配してできたものと考えられている。
・4月上旬から中旬頃、白い花が咲く。
 ヤマザクラと同様に、花が咲くのと同時に若葉も開く。また、幹の古い部分には、エドヒガンと同じような縦裂がある。

・そもそもは、地主である大平氏が、その昔、馬をつなぐために植えたものといわれており、代々大切にされてきた。付近の人々にも愛され、開花期には見物客が遅くまでひっきりなしに訪れる。

(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、166頁~167頁)


中部地方
【根尾谷(ねおだに)の淡墨桜(うすずみざくら)】
●所在地/岐阜県本巣郡根尾村
●開花時期/4月上旬~中旬

・日本三大名桜の一つ。
 山高神代桜に次ぐ日本第二の老樹と言われる。継体天皇(507~532)お手植えの伝説があり、樹齢1500年ともいわれる。
 根尾川上流の根尾谷断層の北寄り、山麓台地に生えている。
・エドヒガンの巨樹で、樹高22メートル、幹まわり8メートル(根元まわり11メートル)、枝張りは四方に十数メートル。
 主幹にはうねるようにコブが盛り上がり、苔むし、神聖な雰囲気を漂わす。
 咲き始めは白い小さな花が、盛りを過ぎる頃には薄墨色になることから「淡墨桜」の名がついた。
・大正初期の雪害などで樹勢が衰え始めたが、昭和23(1948)年、老木回生の名人と言われた前田利行が地元の人々と共に、238本の若い根を切り接ぎ、見事に蘇った。
 昭和34(1959)年、伊勢湾台風により再び損傷したが、作家・宇野千代の呼びかけで保護・延命術が施され、不死鳥のごとく蘇った。国の天然記念物。
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、179頁)

【荘川桜】
●所在地/岐阜県大野郡荘川村
●開花時期/4月下旬~5月上旬

・合掌づくりで有名な世界遺産・白川郷の一角、御母衣(みほろ)ダム畔に立つ樹齢450年の2本のエドヒガンの老樹。
 ダムの湖底に沈む照蓮寺、光輪寺境内にあったもので、永年、村人に愛されてきた桜である。
 この桜が水没してしまうことを惜しんだ電源開発初代総裁・高碕達之助と、「桜博士」と呼ばれた笹部新太郎の熱意により、昭和35年に元あったところから、100メートルほど高い場所へ移植された。
・以来、毎年春には見事な花を咲かせ、水没地区の住民がふるさとを偲ぶシンボルとなっている。
 近くに「ふるさとは水底となりつ移り来し この老桜咲けとこしえに」の歌碑がある。
 県の天然記念物
(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、180頁)

【山高神代桜(やまだかじんだいざくら)】
●所在地/山梨県北巨摩郡武川村
●開花時期/4月下旬~中旬

・日本一の巨桜。
 樹齢1800年とも2000年ともいわれる最古の老桜。
 幹まわり11メートル、根元まわり13メートルと幹の太さでは日本最大。
 鳳凰三山、甲斐駒ヶ岳を望む地にある古刹・実相寺の境内にある。
・日本武尊が東征の帰途に植えたという伝説があり、それが「神代桜」の名の由来。
・文永11(1274)年、日蓮上人巡錫の折、この木の樹勢が衰えているのを見て祈念したところ、見事に蘇り繁茂したという伝説もあり、「妙法桜」とも呼ばれる。国の天然記念物。
・品種はエドヒガンで、花の色が開花と共に白くなることから「白彼岸」とも呼ばれる。
 幹はコブが幾重にも重なり、年月の重さを物語っている。

(田中秀明『桜信仰と日本人』青春出版社、2003年、184頁)




≪【新刊紹介】榧野尚先生の『反り棟屋根』≫

2021-05-03 19:14:19 | 私のブック・レポート
≪【新刊紹介】榧野尚先生の『反り棟屋根』≫
(2021年5月3日投稿)



【はじめに】


この度、榧野尚先生から『反り棟屋根』という御高著をご恵贈いただいた。ここに記して深く感謝申し上げます。
先生とお知り合いになったのは、私が1994年から約6年間、短大の非常勤講師を勤めていた時に遡る。だから、かれこれ四半世紀をこえることになる。
 当時1990年代には、榧野尚(かやのたかし)先生は島根大学理学部助教授で、専門は数学で、極大フロー、調和境界、ロイデン境界などを研究しておられた。短大には、コンピューターのプログラミング関係の講義をなさっておられたように記憶している。
 学問分野は異なったが、先生のお人柄の温かさと教養の広さにより、話を合わせていただき、懇意にさせていただいている。
榧野先生には、専門の数学の分野以外にも、次のような出版物もある。
〇榧野尚、阿比留美帆『みなしごの白い子ラクダ』古今社、2005年
(モンゴルの民話にもとづいた絵本。母親を金持ちの商人に捕まえられ、王さまのところにつれていかれ、ひとりぼっちになった白い子どものラクダの悲しみを描いたもの)

 今回のブログでは、榧野尚先生の『反り棟屋根』(高浜印刷、2021年1月25日発行、190頁、定価2750円)を紹介してみたい。

巻末には、本書は「公益財団法人いづも財団」の助成を受けて出版しました、とある。
先生のお手紙には、「いづも財団の選定意見」が添付されており、次のようにある。
「これまで45年間にわたる調査研究に敬意を表します。まとめられた冊子を拝見いたしますと、写真撮影の年月日がきちんと表記され、出雲地方のみならず全国、海外の反り棟屋根の写真が掲載されています。これは文化財の保存継承の観点からみても、大変貴重な資料です。
 今回の申請内容は、「文化の探求」分野の趣旨に合致していますので、採択いたします」

この選定意見にあるように、次の点が注目される。
・45年間にわたる反り棟屋根に関する調査研究
・写真撮影の年月日が表記されている
・出雲地方のみならず全国、海外の反り棟屋根の写真が掲載されている
⇒これは文化財の保存継承の観点からも貴重な資料

 ご高著の問い合わせは、高浜印刷(〒690-0133松江市東長江町902-57 TEL.0852-36-9100)
にしていただければよいのではないかと思う。
 ISBN 978-4-925122-69-6である。





榧野尚先生の『反り棟屋根』の目次は次のようになっている。
【目次】
はじめに
民家の屋根について
第1部 出雲地方の反り棟屋根
第1章 出雲市の反り棟屋根
     第1節 出雲市 大社町、日下町、平田町
第2節 出雲市 西林木町、口宇賀町、三津町
     第3節 出雲市 万田町、灘分町
     第4節 出雲市 鹿園寺町、島村町
     第5節 出雲市 斐川町
     第6節 出雲市 馬木町、稗原町、乙立町、西谷町、久多見町
第2章 松江市の反り棟屋根
     第7節 松江市 大野町、大垣町、西長江町、東長江町
     第8節 松江市 鹿島町、島根町
     第9節 松江市 法吉町
     第10節 松江市 西川津町、西持田町
     第11節 松江市 朝酌町、本庄町、上宇部尾町、八束町、手角町
第12節 松江市 玉湯町
     第13節 松江市 西忌部町、東忌部町、八雲町
     第14節 松江市 大庭町、東出雲町
第3章 安来市の反り棟屋根
     第15節 安来市 荒島町、利弘町、安来町
     第16節 安来市 広瀬町
     第17節 安来市 門生町、清瀬町
第4章 雲南市、奥出雲町の反り棟屋根
     第18節 雲南市、奥出雲町
第5章 隠岐郡の反り棟屋根
     第19節 隠岐郡 隠岐の島町

第2部 その他の地方の反り棟屋根
第6章 山陰地方、近畿地方、北陸地方
     第20節 鳥取県
第21節 兵庫県、京都府、滋賀県、福井県
第22節 石川県
     第23節 富山県
第7章 中部地方、関東地方、東北地方県
     第24節 長野県、東京都、埼玉県、山梨県、岩手県
第8章 九州地方
     第25節 福岡県、佐賀県
     第26節 沖縄県

第3部 反り棟寺院
第9章 近畿地方、その他の地方の反り棟寺院
     第27節 奈良県の反り棟寺院
     第28節 京都府、滋賀県、兵庫県の反り棟寺院
     第29節 富山県、東京都、大分県、反り棟寺院

第4部 反り棟屋根の旅
第10章 反り棟屋根の誕生
     第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生
第31節 哈尼族のマッシュルームハウス
第11章 貴州省福建省から山東省までの旅
     第32節 貴州省、福建省
     第33節 金門島、台湾、ベトナム
     第34節 浙江省、江蘇省、上海市
     第35節 河南省、山東省
第12章 韓国、朝鮮、中国東北地方、モンゴル
     第36節 韓国
     第37節 朝鮮、中国東北地方、モンゴル
第13章 再び出雲地方へ
お礼の言葉




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・榧野先生が反り棟屋根に興味を持たれたきっかけ
・本書の構成 と先生の関心事
・出雲地方の民家の屋根と棟の作り方の分類
・反り棟屋根について
・第1部 出雲地方の反り棟屋根 第1章~第5章
・第2部第6章 山陰地方、近畿地方、北陸地方
・第8章第25節 福岡県、佐賀県
・第10章 反り棟屋根の誕生 第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生
・第10章第31節 哈尼族のマッシュルームハウス
・第11章第32節 貴州省、福建省
・第11章第33節 金門島、台湾、ベトナム
・第11章第35節 河南省、山東省
・第13章 再び出雲地方へ
・出版の動機 と今後の構想
・読後の感想とコメント




榧野先生が反り棟屋根に興味を持たれたきっかけ


数学者として高名な榧野先生が、なぜ反り棟屋根にご興味を抱かれたのか?
「はじめに」によれば、先生が反り棟屋根の記録写真を撮り始めるようになられたのには、あるきっかけがあった。それは、1975年8月、先生のご子息(当時小6)の夏休みの自由研究のテーマとして、東は米子市から西は大田市まで走り回り、約100枚の反り棟屋根の記録写真を撮られたことであるようだ。
それ以後、最近まで、出雲地方は勿論、東北地方から九州、沖縄まで、更に中国雲南から中国各地、台湾、ベトナム、韓国など、反り棟民家を訪ねて走り回られたそうだ。

反り棟民家のみならず、世界中の民家に興味を持たれた。
例えば、
・イランのカスピ海沿岸の稲作地帯の校倉[高床式米倉](1999/12/21、先生が撮影された年月日を示す)
・ネパールの草葺の屋根の農家(1998/12/22)
・ガーナの土壁丸い家(1997/7/21)
・モンゴル草原のゲル(2006/9/11)
 ※モンゴル語のゲルは建物を意味するだけでなく、家族、家庭も意味する。日本語の“家”が家族や家庭を意味するのと同じである。
・インドネシアの船型民家(1980)
その他には、次のものがある。
・イングランドのthatched house(写真未掲載)
・ジャバのロングハウス(写真未掲載)
・アメリカンネイティブのテント住居ティピ(写真未掲載)

このように、1975年から出雲地方の反り棟屋根の写真を撮り始められ、世界を股にかけて、民家の写真を撮り続けられた。先生の探求心の深さと視野の広さとフットワークの良さには、ただただ敬服するばかりである。(榧野、2021年、4~5頁)

本書の構成 と先生の関心事


さて、目次をみてもわかるように、「第1部 出雲地方の反り棟屋根」では、出雲地方の反り棟屋根を写真とともに解説しておられる。
ここでいう「出雲地方」とは、出雲市から松江市、安来市、雲南市、奥出雲町、飯南町をさす。この地方には、棟が反っている独特の反り棟茅葺き民家が残る。出雲地方の農家は、そのほとんどがこの反り棟茅葺き民家であった。

茅葺きのお家では、竈(かまど)で薪を燃やしてご飯を炊き、囲炉裏で暖を取り、お茶を沸かした。囲炉裏の煙が屋根の萱を乾かし、萱の中の虫を殺し、屋根を持たせていた。10年か20年に萱の傷んだ所を差し萱すると、300年は持つと言われた。

しかし、生活様式が変わった。
炊飯器でご飯を炊き、ガラス戸で家を締め切り、エアコン暖房するようになった。その結果、茅葺き家屋がもたなくなった。さらに、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなった。こうして、茅葺民家が無くなっていったそうだ。
残念ながら、今や現存するほとんどの茅葺家屋は特別に保存された家屋だけになってしまった。
伝統的な民家が無くなっていくのは、全世界的な現象である。(4~5頁)

出雲地方の民家の屋根と棟の作り方の分類


出雲地方の民家は、入母屋、寄棟、切妻に分かれるようだ。
屋根の斜面を“ひら”と言う。
メインの大きい斜面を“おおひら”、煙出しのある部分を“つま”、つま部分のひらを“こひら”と言う。
入母屋、寄棟、切妻は次のようになる。
①入母屋~煙出しがあり、おおひらとこひらがある屋根
②寄棟 ~煙出しがなく、おおひらとこひらが棟に直接つながっている屋根
③切妻(あるいは合掌造)~こひらがない屋根

棟の作り方は、A型、B型、C型、箱棟と分類できる。
①A型~横に細い竹で棟を抑えている
②B型~太めの木または竹で棟を抑えている
③C型~縦、横に木または竹で棟を抑えている。中には縦横の間に竹や木で文様が入っているものもある。家の紋の場合もある。
④箱棟~瓦葺も萱葺もある。瓦の下の竹細工を袴(はかま)と言う。(7頁)

反り棟屋根について


出雲地方には反り棟屋根の伝統があったが、何時頃からこうした反り棟家屋が作られたかは不詳とのことである。
この冊子では、島根県出雲地方を中心に、1975年以来撮り貯めた反り棟屋根の記録を残しておきたいとのことである。
ところで、中国雲南省の昆明、麗江、大理付近には数多くの瓦であるが、反り棟がある。
鳥越憲三郎氏の『古代中国と倭族』(中公新書)には、祭祀場面桶形貯貝器(晋寧石塞山遺跡、前漢時代晩期)、人物屋宇銅飾り(同、前漢時代中期)の中にある家屋は反り棟で、鳥越氏はこの家屋は茅葺きであると断定している。当時この地方には、倭族の一王国滇(てん)国があった。BC100年頃のことである。

反り棟屋根は、中国雲南省東部の滇池周辺にあった滇王国あるいは滇王国以前その地に住んでいた人々の家屋が元であったと、榧野先生は推定しておられる。
それが付近の少数民族等を経由して、閩の国(福建省)へ、さらに、河南、安徽、江蘇経由し、山東半島から朝鮮・韓国へ、新羅あるいは伽耶をたどり、出雲地方に伝わったと考えておられる。
(それは、鳥越憲三郎氏が“古代朝鮮族と倭族”などで主張している“稲の伝播経路”と同様な道筋ではないかとする)(6頁)

第1部 出雲地方の反り棟屋根 第1章~第5章


第1章 出雲市の反り棟屋根


出雲地方の屋根は反り棟で特徴づけられていた。出雲地方のほとんどの農家は反り棟であった。
出雲大社近く、出雲市遙堪(ようかん)から始まって平田地方、平田から松江をつなぐ湖北道路(国道431号)の沿線、松江市内の各地、宍道湖の南側、39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡や358本の銅剣や銅鐸、銅矛が出土した荒神谷遺跡のある斐川町から玉造、忌部を通り、奥出雲、安来市の各地に、反り棟茅葺の農家が連なっていた。
しかし、出雲地方の西、浜田市、益田市、大田市、山口県には、反り棟屋根を全く見ることが出来なかったそうだ。
そして東は鳥取県、兵庫県、京都府、滋賀県、石川県、富山県と反り棟屋根(もしくはその痕跡)が続いた。(12頁)

第1節 出雲市 大社町、日下町、平田町


〇【写真】出雲市大社町遙堪 入母屋 A型(1978/5/8)
〇【写真】出雲市大社町菱根 入母屋 C型(2015/8/16)
・2019年3月29日 国の登録有形文化財に登録された。反り棟の茅葺き屋根も評価の一つである。(13頁)

第2節 出雲市 西林木町、口宇賀町、三津町


〇【写真】出雲市西林木町 鳶ケ巣城の近く 入母屋 C型(1999/11/25)
・実に素晴らしかったが、現在は無い。
・一度、広島の屋根職人が葺き直したことがあったが、屋根の感じが変わったようだ。
・鳶ケ巣城を越えた鰐淵寺の門前街に、この建築に似た荘重な反り棟屋根があったそうだが、今はない。(15頁)

〇【写真】出雲市口宇賀町 稲はぜ置き場 切妻 A型(1979/5/18)
・農機具あるいは収穫物置き場納屋が反り棟の切妻であった。(16頁)

第3節 出雲市 万田町、灘分町


〇【写真】出雲市万田町 瓦屋根(2018/2/24)
・出雲地方にはこのような反り棟瓦屋根があちらこちらに存在している。かつての反り棟茅葺き屋根の名残りである。(18頁)

〇【写真】出雲市灘分町 寄棟 箱棟 C型(1978/6/19)
・出雲市の斐川町、灘分町、島村町、出島町、平田町、岡田町、多久町、鹿園寺町にかけて、築地松に囲まれた箱棟反り棟の家が並んでいた。(19頁)
    

第5節 出雲市 斐川町


〇【写真】出雲市斐川町 前方切妻、後方入母屋 千木を置く棟、雪割あり(2014/11/21)
・湯の川温泉「松園」の宿泊棟。千木のある棟飾りは出雲地方では特例であるようだ。千木の上、棟をとおして連なっている一本の木を雪割と言う。(28頁)

〇【写真】出雲市斐川町 常松家 国登録有形文化財 1874年(明治7年)建築 瓦棟入母屋(31頁)

〇【写真】出雲弥生の森博物館 出雲市大津町 出雲地方の反り棟屋根を模して作られた。
★向井潤吉画伯の“斐川平野の家”(島根県出雲市郊外)の中に反りのある箱棟寄棟が描かれているそうだ。(31頁)

第2章 松江市の反り棟屋根


第8節 松江市 鹿島町、島根町


〇【写真】松江市島根町 寄棟(1980/6/1)
・この1980年時点でかなりの解体中の家屋を見かけられたそうだ。(46頁)

〇【写真】松江市島根町 入母屋 C型(1980/6/1)
・木の枠の間に模様(家の紋だそうだ)がある。(48頁)

第10節 松江市 西川津町、西持田町


〇【写真】松江市西川津町 入母屋 A型(1975/8/13)(51頁)
(※先生がご子息と夏休みの自由研究のテーマとして反り棟屋根の記録写真を撮られた時の1975年8月の写真である。カラー写真でなく、白黒写真であることも歴史を感じさせる)

第11節 松江市 朝酌町、本庄町、上宇部尾町、八束町、手角町


〇【写真】松江市手角町 切妻 B型(1979/6/1)
・中海に面した船小屋、かすかに反りがある。(59頁)

第13節 松江市 西忌部町、東忌部町、八雲町


〇【写真】松江市八雲町 熊野大社鑚火殿 切妻 C型(熊野大社提供)
・正月古式に則って火をおこし、その火を出雲大社に奉納する。火をおこすことを火を鑚(き)ると言う。寄棟である。(68頁)

第3章 安来市の反り棟屋根


第15節 安来市 荒島町、利弘町、安来町


〇【写真】安来市荒島町 入母屋(2軒はC型、1軒はB型)(1975/8/29)(72頁)
(※これも1975年8月の撮影で、白黒写真である)

第17節 安来市 門生町、清瀬町


〇【写真】安来市清瀬町天の前橋 入母屋 C型(1996/4/28)
・島根県の東端、ここまで反り棟屋根が見られるが、鳥取県西部に入ると反り棟屋根が見られなくなる。(78頁)

第4章 雲南市、奥出雲町の反り棟屋根


第18節 雲南市、奥出雲町


〇【写真】雲南市大東町須賀 入母屋 C型(2015/10/25)
・神楽の宿、神楽の上演。古来神楽の舞われていた茅葺屋根の民家を再現したもの。(85頁)

〇【写真】奥出雲町亀嵩 入母屋 A型(2015/10/25)
★映画“砂の器(松竹、1974年)”には、奥出雲町亀嵩の反り棟茅葺屋根が出てくる。(86頁)

第5章 隠岐郡の反り棟屋根


第19節 隠岐郡 隠岐の島町


〇【写真】隠岐郡隠岐の島町 入母屋 C型(2015/8/9)
・千木を置く棟 国の重要文化財億岐家住宅 享和元年(1801)の建築 隠岐の島に残存している反り棟茅葺き屋根はこれだけであるそうだ。(87頁)

〇【写真】広瀬貫川画伯「後醍醐天皇行在所」島根県隠岐郡西ノ島町観光協会蔵 入母屋 C型(2015/8/7)
・次のような注釈がある。
「この歴史絵は増鏡、太平記を資料として、広瀬貫川画伯によって画かれた。「黒木御所」は急造の粗末なものであったとおもわれます。寄贈者 五条覚 澄」(88頁)

第2部第6章 山陰地方、近畿地方、北陸地方


「第2部第6章 山陰地方、近畿地方、北陸地方」では、出雲地方から離れて、“反り棟屋根”の旅をしておられる。まずは、伯耆の国(鳥取県西部)、因幡の国(鳥取県東部)、兵庫県、京都府、滋賀県、福井県、石川県、富山県へと旅を続けておられる。(90頁)

第20節 鳥取県


伯耆の国(鳥取県西部)には、大国主命が兄弟に忌み嫌われ、赤猪(焼けた石)で怪我させられた伝説のある手間の山本(現手間町)がある。
20世紀梨の産地である。20世紀梨の貯蔵倉庫に反り棟屋根があったそうだ(現在はなし)。

反り棟が現れるのは、鳥取県の中ほどにある東郷池付近からと鳥取市にかけて点々とある瓦葺の反り棟屋根である。
(かつては、茅葺きの反り棟屋根であったであろう)(90頁)

鳥取市は、大国主命と白兎の伝説の地である。
〇【写真】鳥取市千代川東詰 入母屋(2016/6/21)
鳥取県中部の東郷池から鳥取市まで反り棟屋根が点々とある。
(茅葺き反り棟から瓦屋根に改築するとき、かつての反り棟への思いから、瓦屋根になっても反り棟屋根にするのであろう)(90頁)

〇【写真】鳥取市八東町用呂 矢部家住宅 国指定重要文化財 千木を置く棟、雪割あり(2015/11/8)
鳥取市から少し山手に入った八東町用呂の矢部家住宅がある(91頁)

第21節 兵庫県、京都府、滋賀県、福井県


山陰に続いて、兵庫、京都、滋賀、福井を回っておられる。
この地方では、屋根の棟に千木を並べ一本の柱をのせている。この柱を雪割りと呼ぶ。雪国だから、反り棟で雪割りのある萱葺き屋根が多くあるそうだ。
萱葺き屋根を瓦屋根にしても、雪割りが忘れられないためか、瓦で作った変わった形の雪割りもある。

〇【写真】兵庫県篠山市 入母屋 C型 千木を置く棟、雪割あり(2015/9/23)(91頁)

第22節 石川県


・石川県や次節の富山県には、たくさんの反り棟の家屋が存在していたそうだ。
・神代の時代、大国主命が高志の国へ行き、沼河比賣(ぬなかわひめ)に求婚された。その時、多くの供を引き連れ、その供のために反り棟の家を運ばれたと推測されている。
(この地方にたくさんの反り棟家屋が存在しているのは事実である)(98頁)

〇【写真】石川県能登町 入母屋 C型(1977/3/11)(101頁)
〇【写真】石川県輪島市町野町 上時国家 国指定重要文化財(建物) 入母屋 瓦棟(2016/8/6)(99頁)

第8章第25節 福岡県、佐賀県


〇【写真】福岡県柳川市龍神社 入母屋 C型 千木を置く棟、雪割あり(1980/6/6)
・神社で萱葺き反り棟は、非常に珍しい例である
・しかし、2015年4月15日に先生が再訪された時には、建て替えられ、瓦屋根になっていたそうだ。(107頁)

〇【写真】佐賀県小城市 増田羊羹本舗 くど造り 丸瓦棟(2015/4/15)
・台所の“かまど”を“くど”と呼んでいた。棟が“コ”の字形なので、くど造りと称していた。佐賀県では一般的な屋根型であった。(109頁)
〇【写真】佐賀県多久市 川打家 くど造り 丸瓦棟(2015/4/14)(109頁)

〇【写真】佐賀県川副町大詫間 じょうご谷屋根 丸瓦棟(2015/10/19)(112頁)
・「じょうご谷」とか「四方谷」とか言われている。上から見ると“口”の形をしている。
・肥後川と早津江川に挟まれた中島で、よく洪水にあったらしい。洪水の時、じょうご谷家屋はバランスよく浮き上がるようにできているらしい。佐賀県川副町には今でも、じょうご谷家屋が存在している。(112頁)

第10章 反り棟屋根の誕生 第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生


中国・雲南省近辺には、瓦屋根ではあるが、数多くの反り棟屋根がある。
また、雲南省博物館には、反り棟屋根の資料が保存されている。中でも銅製貯貝器の蓋の反り棟屋根に、榧野先生は注目しておられる。(128頁)

〇【写真】中国雲南省博物館戦国時代室 銅製貯貝器の蓋の反り棟屋根(2016/7/6)
・これは昆明市近く滇池(てんち)のほとりに在った滇王国(BC400~AD100くらい)の地から出土した貯貝器の蓋の文様である。
貯貝器の蓋には、家畜、馬に乗っている騎士、家畜を食べる猛獣、奴隷を生贄として斬殺している像、そして反り棟の家といった文様が載っている。(128頁)

・鳥越憲三郎「古代中国と倭国 黄河・長江文明を検証する」(中公新書)に“屋根の茅”という記述がある。
・さらに中国雲南省博物館戦国時代室には、藁で葺かれた反り棟の民家が復元展示されている。
〇【写真】中国雲南省博物館戦国時代室 復元稲葺き反り棟家屋と後方の反り棟家屋の絵(2016/7/6)
・なお、滇からは伊都国の金印と同様な金印が出土していることで有名である。滇王国はBC400年頃、国が出来た。人々はそれ以前から生活し、家を建てていた。
(現在、昆明、大理、麗江等々に瓦葺反り棟民居が密集している)
⇒榧野先生は、雲南が反り棟屋根の誕生の地と考えておられる。(128~129頁)



「反り棟屋根 流布経路 ※著者推定」(126~127頁)という地図には、反り棟屋根の誕生の地である雲南から、日本にいたる流布経路が示されている。
●:著者の榧野尚先生が現地で反り棟屋根を確認された場所は次のものである。
・雲南省の昆明、元陽、大理、麗江、曲靖
・貴州省の凱里
・福建省の泉州、漳州、金門島
・台湾の斗六、草屯
・浙江省の嘉興
・上海市
・江蘇省の蘇州
・河南省の平頂山
・山東省の威海
・吉林省の図們
・黒龍江省の寧安
・韓国の龍仁、安東、全州、蔚山、梁山、釜山
・日本の出雲地方、隠岐諸島、佐賀地方、その他

■:毎日グラフの写真(157~186頁)あるいは現地の方が撮影した写真で反り棟屋根を確認された場所は、次のものである。
・山東省の煙台
・遼寧省の瀋陽
・北朝鮮の平壌、開城、会寧
・韓国のソウル、仁川、水原、論山、慶州、済州島

≪毎日グラフの引用書名≫
〇毎日グラフ『一億人の昭和史 日本の戦史1 日清・日露戦争』毎日新聞社、1979/2/25
〇毎日グラフ『別冊一億人の昭和史 日本植民地史1 朝鮮』毎日新聞社、1978/7/1
〇毎日グラフ『別冊一億人の昭和史 日本植民地史2 満州』毎日新聞社、1978/8/1
〇毎日グラフ『別冊一億人の昭和史 日本植民地史4 満州』毎日新聞社、1978/8/1
(157頁)




第10章第31節 哈尼族のマッシュルームハウス


雲南には、26の少数民族が住み分けている。
反り棟ではないが、哈尼(はに)族の草葺丸屋根(マッシュルームハウス)に注目しておられる。
哈尼族の人は草葺(主に稲葺)屋根にしか住むことができなかった。しかし、差別はいけないこととして、マッシュルームハウスを改装したという。
(現在では稲藁葺のマッシュルームハウスをほとんど見ることができない)(134頁)

〇【写真】中国雲南省羅平市哈尼族のマッシュルームハウス(2015/2/23)
〇【写真】中国雲南省元陽市 改造された哈尼族の住(2016/3/19)
1年の間に稲藁葺のマッシュルームハウスは改造されて、昔の面影はなかったそうだ
(134頁)

第11章第32節 貴州省、福建省


〇【写真】中国貴州省黔東南苗族侗族自治州丹寨県楊武郷苗族村寨(2017/4/24)
・なお、この写真は浜田憲さんの提供されたものとの注記がある。浜田憲さんは中国民居の研究家で、いろいろ中国民居の資料を提供されたとのこと。また浜田さんは山東省に行って資料収集にあたられたそうだ(135頁、189頁)

〇【写真】中国福建省 承啓楼(土楼の内部)(2015/11/26)
・祖先を祭る祖堂とその門の屋根が反り棟になっている
・“福建の土塁”は世界遺産に登録されている。この土楼の中にも反り棟を持つ建物がある。福建省には、厚い土壁の円形あるいは方形の集合住宅“土楼”が数多く分布している。
・古代中国の時代、戦乱を逃れるため南へ移動した客家(はっか)と呼ばれる人たちが住んでいる。大きな土楼になると、200を超える部屋がある。この承啓楼の中に反り棟を持つ建物・祖堂がある。(141頁)

第11章第33節 金門島、台湾、ベトナム


〇【写真】金門島 三合院(2015/8/24)
金門島、台湾には三合院と言われる“コ”の字型をした反り棟屋根がある。(143頁)

〇【写真】ベトナム中部の街ホイアン市 福建會館(2016/2/15)
ホイアンは交易で栄えた町である。中国の各地から華僑がやってきて、それぞれの出身地の會館をたてた。
例えば、①福建會館、②瓊府(けいふ)會館(中国海南島出身者の會館)、③潮州會館(中国広西チワン自治区桂林市出身者の會館)(147~149頁)

第11章第35節 河南省、山東省


★河南省に開封市と言う町がある。北宋(960年-1127年)の首都であった。
北宋末期にこの街を描いた『清明上河図』と言う絵が残っている。この『清明上河図』中に描かれた街の中に、反り棟瓦屋根民居が点在している。(157頁)

“反り棟の旅”は開封市から東へ山東省に向かう。
★中国山東省徳州市魯北平原にも土坏屋反り棟がある(“山東伝統民居村落”による)

〇【写真】中国山東省烟台(えんたい)市龍口(1905/9/2)
烟台市は山東半島のつけ根・渤海湾に臨む町である。
(出典:毎日グラフ『一億人の昭和史 日本の戦史1 日清・日露戦争』毎日新聞社、1979/2/25より引用)(157頁)

〇【写真】中国山東省威海市栄成市寧津所 アマモ(海草)葺き反り棟屋根の家
(アマモは藻ではなくて草の一種であるという)
・栄成市の道路は、基本的に縦方向と横方向の道路が交差する整然とした村落構成となっている。縦横の道路で区切られた区画は、横長の長方形となる。
・民居(中国では民家を民居と呼ぶ)の平面構成は、北の正房・東(または西)の廂房・南の門房(倒座房)で構成される“コ”字形三合院、あるいは正房・廂房・大門で構成される“L”字形両合院がほとんどである。(158頁)

第12章 韓国、朝鮮、中国東北地方、モンゴル


第36節 韓国


〇【写真】韓国京畿道竜仁市 韓国民俗村 両班の住宅および使用人の住宅(2016/3/30)(161頁)

第37節 朝鮮、中国東北地方、モンゴル


〇【写真】朝鮮平壌市宣化堂 入母屋瓦葺(1894当時)
(出典:毎日グラフ『別冊一億人の昭和史 日本植民地史1 朝鮮』毎日新聞社、1978/7/1より引用)(180頁)

〇【写真】モンゴル ジンギスカンの宮殿のカラコルム Golden Stupa付属の建物 瓦切妻(2016/9/4)
モンゴルで見つけた唯一の反り棟屋根だそうだ(186頁)

第13章 再び出雲地方へ


反り棟が誕生したと思われる中国雲南地方には、“倭人”という言葉が数多く残されているそうだ。この倭人が反り棟を運んだのではないかと推定されている。つまり雲南から北上し、山東半島にたどり着き、更に黄海を越え、韓国・朝鮮へやって来た。

・韓国の新羅本記(ママ)の冒頭部分に、BC50年に倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があると聞き、すぐに帰ってしまった。その後、倭人が何回となく新羅の辺境を侵しては、引き返すという記述がある。
倭人たちが新羅の周辺にやって来たのは、縄文時代晩期(およそBC1400年~BC700年)ではないかとされる。そして、倭人たちは再び海を越えて、出雲に来たのであろう。それまで住んでいた茅葺きの反り棟屋根の民家とともに。

ところで不思議な事実がある。福岡県から山口県、島根県益田市~大田市まで、反り棟屋根がないという事実である。
この点、反り棟屋根の民家は慶州、蔚山、釜山あたりから、直接島根半島にやって来たのではないかと、榧野先生はみておられる。
つまり、河下(旧平田市)から出雲へ、あるいは恵曇(島根町)付近から西川津や法吉に来たのではないかといわれる。
(宍道湖畔でも旧平田市、西川津、法吉は反りの度合いが大変強いが、中間地点では反りは若干緩やかになるようだ)
ともあれ、出雲地方の人々は、長い間、茅葺き反り棟屋根の家に住んできたのである。
(187頁)

出版の動機 と今後の構想


出雲地方の茅葺き反り棟屋根の家に入ると、まず土間があり、家の中心には大きな大黒柱がある。そして、真ん中に囲炉裏(いろり)があり、天井から茶瓶がつるされている。
(正月15日のとんどさん[氏神さんで正月飾を焼く行事]の火を正月飾りの松の枝に移し、家に持ち帰り、囲炉裏にその火を入れ、その火は次の正月まで絶やすことがない)
囲炉裏の煙は天井を回り、天井の茅を乾燥させ、天井にいる虫を殺し、それで屋根をもたせたとされる。

・こうした茅葺き反り棟屋根の家が人の心から心へ愛着をもって伝わっていた。だからこそ、反り棟屋根が長い間保ち続けてきた。
このことを榧野先生は「心の化石」と呼んでおられる。
残念ながら、この化石が無くなり、人々の暮らしの息吹を伝える茅葺き反り棟屋根の家も無くなってきた。
⇒だからこそ、茅葺き反り棟屋根の、このような写真集で人々の生活の息吹を残したいと思いたったと、出版の動機をしるしておられる。(187頁)

ところで、榧野先生が、日本各地および世界を股にかけて旅をされて、反り棟屋根の研究を成し遂げられたのは、多くの人々の協力の賜物でもあった。
このことは、「お礼の言葉」(189頁)からもわかる。
中国民居の研究家である浜田憲さんには本文にも言及されていた。今回の出版を薦めて下さり、挿入された地図を作製して下さったのは、山内靖喜さん(島根大学名誉教授)であったそうだ。また、台湾、金門島、韓国を案内されたのは井上梓さん、昆明博物館への依頼の手紙を翻訳されたのは佐藤智照さん(島根大学准教授)、雲南省博物館に折衝されたのは杜雨萌さん(中華人民共和国駐大阪領事館)だった。その他、出雲弥生の森博物館、富山県民俗民芸村民俗館などの方から、ご教示を受けられた旨が記してある。(189頁)

45年間の長きにわたり、幅広い豊かな人脈を活かされて、日本各地および世界を飛び回られた研究の集大成が、先生のご高著となったことがわかるのである。

そして、先生のお手紙には、次のような構想が記してあった(身体的に叶うかどうかとも)。
①出雲地方の反り棟屋根の写真はまだ残っているそうで、第2号“反り棟屋根 出雲地方特集篇”を作りたいとのこと。
②日本の都道府県中、北海道と高知県へは行っていないので、コロナが収まったら行ってみたいそうだ。
③モンゴル草原にも長い間行っておられないようで、モンゴルの孤児院の子供たち、ボランティアのバーターに再会したいとのこと。

是非ともこうした構想を実現していただきたいと、心から思います。

読後の感想とコメント


私の個人的感想


茅葺き反り棟屋根の民家には、郷愁を感じる。先生の写真集を拝見して真っ先に抱いた私の感想であった。実は昭和47年(1972)に祖父と父が瓦葺屋根の家を新築するまでは、私も茅葺き家屋に住んでいたからである。
さすがに囲炉裏はもうなかったが、幼少の頃、母が土間の竈で薪を燃やして、ご飯を炊いていた記憶はある。だから、「松江市玉湯町 入母屋 C型」(62頁)の写真を見た時など、まるで昔の我が家が写っているのではないかと錯覚したほどである。

今回、榧野先生の写真集を拝見して、いろいろなことを学ばせていただいた。例えば、次のような点が印象に深く残った。
〇茅葺きの家では、囲炉裏の煙が屋根の萱を乾かし、萱の中の虫を殺し、屋根を持たせていたこと(5頁、187頁)
〇10年か20年に萱の傷んだ所を差し萱すると、300年は持つと言われたこと(5頁)
〇茅葺き民家がなくなっていった理由の一つに、生活様式が変わり、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなったことが挙げられること(5頁)
〇映画“砂の器(松竹、1974年)”には、奥出雲町亀嵩の反り棟茅葺屋根が出てくること!(86頁)
〇映画“用心棒(東宝、1961年)”の甲斐の国(山梨県)に反り棟の民家が出てくること(106頁)
〇映画“嵐に咲く花(東宝、1940年)”のワンカットに瓦屋根の反り棟水車小屋切妻(岩手県)が出てくること。福島県二本松市の戊辰戦争がその舞台であるそうだ(106頁)
〇北宋(960年-1127年)の末期に開封という街を描いた『清明上河図』と言う絵には、反り棟瓦屋根民居が点在していること(157頁)
〇出雲地方の人々は長い間、茅葺き反り棟屋根の民家に住んできたこと。
・不思議なことには、福岡県から山口県、島根県益田市~大田市まで反り棟屋根がないこと(187頁)
・島根県の東端(安来市清瀬町天の前橋)、ここまで反り棟屋根が見られるが、鳥取県西部に入ると反り棟屋根が見られなくなること(78頁)
・反り棟屋根の民家は慶州、蔚山、釜山あたりから、直接島根半島にやって来たのではないかと推測されること(187頁)
〇何よりも、反り棟屋根は中国雲南地方(滇池)で誕生したと考えられる点には、大変に興味を覚えた。
・その経路は、雲南から北上し、山東半島にたどり着き、更に黄海を越え、韓国・朝鮮へ、それから日本へ広がったのではないかと想定できること(6頁、126~133頁、187頁)

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照葉樹林文化論に関連して


榧野先生は、雲南が反り棟屋根の誕生の地と考えておられる点について、私は照葉樹林文化論を想起した(榧野、2021年、128~129頁)。

例えば、佐々木高明氏は、『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』(NHKブックス、1982年[1991年版])において、照葉樹林文化について、次のように述べている。

照葉樹林文化は、日本を含めた東アジアの暖温帯地域の生活文化の共通のルーツをなすという立場に立ち、日本をとりまく西南中国から東南アジア北部、それにアッサムやブータンなどの照葉樹林地域で得られた多くの事例をとりあげて論じられた。
それは、稲作以前にまで視野をひろげて、日本文化のルーツを探究することでもあった。つまり、比較民族学、文化生態学、民俗学をとりこんで、日本文化起源論に新しい視点を提示した。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、16頁)

【佐々木高明『照葉樹林文化の道』NHKブックスはこちらから】

照葉樹林文化の道―ブータン・雲南から日本へ (NHKブックス (422))

≪照葉樹林文化論の特色≫
〇中尾佐助氏が、『栽培植物と農耕の起源』(岩波書店、1966年)のなかではじめて「照葉樹林文化論」を提唱した。それは、植物生態学や作物学と民族学の成果を総合した新しい学説である。弥生時代=稲作文化の枠にこだわらないユニークな日本文化起源論として位置づけられた。

〇ヒマラヤ山脈の南麓部(高度1500~2500メートル)に日本のそれとよく似た常緑のカシ類を主体とした森林がある。そこからこの森林は、アッサム、東南アジア北部の山地、雲南高地、さらに揚子江の南側(江南地方)の山地をへて日本の西南部に至る、東アジアの暖温帯の地帯にひろがっている。
⇒この森林を構成する樹種は、カシやシイ、クスやツバキなどを主としたものである。
いずれも常緑で樹葉の表面がツバキの葉のように光っているので、「照葉樹林」とよばれる。

〇この照葉樹林帯の生活文化のなかには、共通の文化要素が存在する。
・ワラビ、クズなどの野生のイモ類やカシなどの堅果類の水さらしによるアク抜き技法
・茶の葉を加工して飲用する慣行
・マユから糸をひいて絹をつくる
・ウルシノキやその近縁種の樹液を用いて、漆器をつくる方法
・柑橘とシソ類の栽培とその利用
・麹(コウジ)を用いて酒を醸造すること
(中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店、1966年。上山春平編『照葉樹林文化 日本文化の深層』中公新書、1969年)
・サトイモ、ナガイモなどのイモ類のほか、アワ、ヒエ、シコクビエ、モロコシ、オカボなどの雑穀類を栽培する焼畑農耕によって、その生活が支えられてきたこと
・これらの雑穀類やイネのなかからモチ性の品種を開発したこと。そしてモチという粘性に富む特殊な食品を、この地帯にひろく流布させたこと。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年)

※このような物質文化、食事文化のレベルにおける共通性が、文化生態学的な視点から追究されてきた

【中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店はこちらから】

栽培植物と農耕の起源 (岩波新書 青版 G-103)

【上山春平編『照葉樹林文化』中公新書はこちらから】

照葉樹林文化―日本文化の深層 (中公新書 (201))

〇この地帯には、比較民族学の立場から、神話や儀礼の面においても、共通の文化要素が存在していることが知られている。
・『記紀』の神話のなかにある、オオゲツヒメやウケモチガミの死体からアワをはじめとする五穀が生れたとする、いわゆる死体化生神話
・イザナキ、イザナミ両神の神婚神話のなかにその残片がみとめられる洪水神話
・春秋の月の夜に若い男女が山や丘の上にのぼり、歌を唱い交わして求婚する、いわゆる歌垣の慣行
・人生は山に由来し、死者の魂は死後再び山に帰っていくという山上他界の観念
(大林太良『稲作の神話』弘文堂、1973年)

このように、中国西南部から東南アジア北部をへてヒマラヤ南麓に至る東アジアの照葉樹林地帯にみられる民族文化の特色と、日本の伝統的文化の間には、強い文化の共通性と類似性が見出せる。
日本の古い民俗慣行のなかに深くその痕跡を刻み込んでいるような伝統的な文化要素の多くが、この地域にルーツをもつことがわかってきた。

こうして「照葉樹林文化論」は、有力な日本文化起源論の一つとみなされた。
東アジアの照葉樹林帯の文化を特色づける特徴の一つは、雑穀やイモ類を主作物とする焼畑農耕によって、その生活が支えられてきたことである。
水田稲作は、この雑穀類を主作物とする焼畑農耕の伝統のなかから、後の時期になって生み出されたと考えられるようだ。
照葉樹林文化は水田稲作に先行する文化である。それは水田稲作を生み出し、稲作文化をつくり出す際のいわば母体になった文化であるとされる。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、13~17頁)

このような照葉樹林文化論を考慮に入れると、今回、反り棟屋根の誕生の地を中国雲南省と想定しておられる、榧野先生の仮説は大変に興味深い。
(「第10章 反り棟屋根の誕生 第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生」(128~133頁)および「反り棟屋根 流布経路 ※著者推定」(126~127頁)を参照のこと)

照葉樹林文化論と東亜半月弧


上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』(中公新書、1976年[1992年版])において、照葉樹林文化のセンターとして、「東亜半月弧」という名称を提唱している。それは、南シナの雲南省あたりを中心として、西はインドのアッサムから東は中国の湖南省におよぶ半月形の地域をいう。

この名称は、西アジアの「豊かな三日月地帯」(Fertile Crescent)を意識して名づけられた。この有名な三日月地帯は、これまで世界農耕文化の一元的なセンターのように考えられがちだった。しかし、それは、ユーラシア西部の暖温帯、つまり地中海周辺を本来の分布圏とする地中海農耕文化のセンターとして相対化されるという。
(たとえば、「西亜半月弧」とでも呼びかえた方がふさわしい)

二つの半月弧の特質について、次のように要約している。
【西亜半月弧】
①沙漠地帯が森林に接するあたりの乾燥地帯のどまんなかに位置する
②地中海農耕文化のセンターをなしている
③この地中海農耕文化はムギを主穀とする
④農・牧混合の農耕方式をとる
⑤コーカソイド系の民族(白色人種)を主なる担い手としている。

【東亜半月弧】
①照葉樹林帯が熱帯林に接するあたりの湿潤地帯のどまんなかに位置する
②照葉樹林農耕文化のセンターをなしている
③この照葉樹林農耕文化は、初めはミレット(雑穀)を、後にイネ(ジャポニカ・ライス)を主穀とする
④牧畜をともなわない農耕方式をとる
⑤モンゴロイド(黄色人種)を主たる担い手としている。

農耕の成立は、人類史のプロセスを未開と文明に両分する大きなエポックを意味している。農耕の特質のうちに、農耕を基盤とする文明の特質がはらまれているにちがいない。そうだとすれば、ユーラシア大陸の西と東に展開された文明の特質を対比するためには、それぞれの文明が基盤としている農耕の特質を対比することが避けられない課題となってくるようだ。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、5~7頁)

照葉樹林文化のさまざまな要素として、日本人としても、ナットウ(納豆)、茶は身近なものである。
『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』(中公新書、1976年)の中でも紹介されている。
照葉樹林文化の農耕が、巨視的にみて、焼畑農耕の形でスタートしたことは、共通の前提とみられている。
ダイズが焼畑の重要な作物である(のちにダイズは水田にアゼマメとして植えられる)。
ナットウ(納豆)の流布経路も、仮説センターから、日本のナットウ以外にも、ジャワのテンペ、ネパールのキネマといった形で伝わったそうだ(「ナットウの大三角形」と称されている)。
塩をたくさん与えて発酵させたナットウは、製法のプロセスの類型でいくと、ミソに接近してくる。ミソがはっきり出てくるのは、華北から日本であるという。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、128~130頁)

また、お茶というのは、照葉樹林文化における固い木の葉を食べる食べ方から出てきているとされる。いわゆる中国産の茶の原産地は雲南あたりを中心とした中国南部と考えられている。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、133~141頁)

【上山春平ほか『続・照葉樹林文化』中公新書はこちらから】

照葉樹林文化 続 (中公新書 438)

なお、ミソ状やモロミ状をしたもの、その他の大豆の発酵食品は、今日でも雲南省から貴州省をへて湖南省に至るいわゆる≪東亜半月弧≫の地域には豊富に存在している。例えば、雲南省南部の西双版納(シーサンパンナ)に「豆司」という大豆の発酵食品がある。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、127~131頁)

アジアの栽培イネの起源としての場所アッサム・雲南センター


また、雲南といえば、アジアの栽培イネの起源の場所として注目されている。
アジアの栽培イネ(オリザ・サチバ)の起源の場所については、従来はインド中・東部の低湿地とされ、その際、インディカ型のイネがまず栽培され、後にそのなかからジャポニカ型のイネがつくり出されたと一般に考えられてきた。
ところが、戦後、インド亜大陸のなかでも辺境のアッサムやヒマラヤ地方、あるいは東南アジアや中国の僻地の調査が進められると、従来の「定説」とは異なる新しい説が出された。
そのなかで、渡部忠世氏は、アジアの栽培イネがアッサムから雲南に至る高地地域で起源したという学説を提唱した。

古い時代のイネを調べるのに、次のような面白い方法を用いたそうだ。
一般にインドや東南アジアでは、古建築に用いられる煉瓦は、泥にイネワラやモミを混入して焼かれることが多い。したがって、古い煉瓦のなかからイネモミを集め、その建物の年代と照合すると、そのイネモミの年代を知ることができるという。
このような方法によって、インドでは紀元前5、6世紀、東南アジアでは紀元後1、2世紀にまで遡る多量のイネモミを集め、それを計測して系統的な分類をすすめたそうだ。

すると、アジアのなかで、最も多くの種類のイネが集中しているのは、インド東北部のアッサム地方とそこから中国の雲南地方にかけての地域であることが明らかになった。
また、古代のイネの資料から古いイネの伝播経路を推定すると、その「稲の道」はいずれも、このアッサム・雲南の地域へ収斂することを見出した。
こうした事実にふまえて、「アジア栽培稲が、アッサム・雲南というひとつの地域に起源したという仮説」を提唱した。
そして渡辺忠世『稲の道』(日本放送出版協会、1977年)の「東・西“ライスロード考”」というエッセーのなかで、

「アジア大陸の稲伝播の道を追ってみると、すべての道が結局のところ、アッサム・雲南の山岳地帯へ回帰してくる。従来の常識とは異なって、インディカも、ジャポニカも、すべての稲がこの地帯に起源したという結論が導かれてくる」という。

そして「雲南もまた、アッサムと非常によく似たところが多い。複雑な地形といい、多様な種類の稲の分布といい、このふたつの丘陵地帯は古くから同質的な稲作圏を成立させてきた。両地域を結ぶきずなとなるのがブラマプトラ川である。この大河はアッサムを貫流してベンガル湾にそそぐが、その上流の一部は雲南省境に達している。
ブラマプトラ川のみでなく、メコン、イラワジの諸川、さらに紅河(ソンコイ川)や揚子江もまた、すべて雲南の山地に発している。ここに出発して、アジアの栽培稲は南へ、西へ、東へと伝播する。雲南と古くに稲作同質圏を形成していたアッサムは、西への伝播の関門であったのだ。アジアにおける稲の経路は、このようにして、大陸を縦横に走る複雑な流れであった」

【渡辺忠世『稲の道』日本放送出版協会はこちらから】

稲の道 (NHKブックス 304)

このように、渡部氏は、アッサム・雲南センターの特色を描き出している。このアッサム・雲南センターの地域は、照葉樹林文化の中心地域として設定した≪東亜半月弧≫の中核部と一致するのである。つまり、この地域は、照葉樹林文化を構成するさまざまな文化要素が起源し、それが交流した核心部に当る地域である。アジアの栽培イネも、そこに収斂する文化要素の一つであったとみることができる。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、215~217頁)

反り棟屋根も、建築分野からみた照葉樹林の文化要素の一つであろうか? 今後の検証がまたれるところである。
反り棟屋根は、中国雲南省東部の滇池周辺にあった滇王国あるいは滇王国以前その地に住んでいた人々の家屋が元であったと、榧野先生は推定しておられた。
それが付近の少数民族等を経由して、閩の国(福建省)へ、さらに、河南、安徽、江蘇経由し、山東半島から朝鮮・韓国へ、新羅あるいは伽耶をたどり、出雲地方に伝わったと考えておられる。
(それは、鳥越憲三郎氏が“古代朝鮮族と倭族”などで主張している“稲の伝播経路”と同様な道筋ではないかとする)(6頁)

また、アジアの栽培イネの起源としての場所アッサム・雲南センターの問題に関して、この稲作との関連でいえば、茅葺き民家がなくなっていった理由の一つに、生活様式が変わり、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなった点を榧野先生が挙げられること(5頁)は、大変に示唆的であった。

≪参考文献≫
〇上山春平編『照葉樹林文化 日本文化の深層』中公新書、1969年[1992年版]
〇上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]
〇佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]