≪東南アジアの歴史と文化(下)~高校世界史より≫
(2023年10月22日投稿)
今回のブログでは、高校世界史において、東南アジア(近現代)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
参考とした世界史の教科書は、次のものである。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社
【東南アジア大陸部の変動】
東南アジアの大陸部では、18世紀後半から19世紀にかけて、ビルマ(ミャンマー)、タイ、ベトナムの3国のもとが形成された。ビルマでは、18世紀中ごろ、トゥングー王国がモン人のペグー王国によって滅ぼされたが、内陸におこったビルマ人の勢力が南下してコンバウン朝(Konbaung, アラウンパヤー朝 Alaungpaya, 1752~1885)をおこした。この王朝は、ほぼ現在のミャンマーと等しい地域を領有し、さらにタイにすすんでアユタヤ王国を滅ぼし、また西のインドのアッサム地方に侵攻した。
19世紀のはじめ、ベンガル湾から東南アジア、中国への道をめざしていたイギリスは、コンバウン朝と3次にわたってイギリス=ビルマ戦争(1824~26, 52~53, 85~86)をおこし、1885年にコンバウン朝を滅ぼした。翌年、ビルマは直轄州としてインド帝国に併合された。
ベトナムでは、17世紀以降、北部の鄭氏と中部の阮氏が勢力を二分していたが、18世紀後半にタイソン(西山)党の農民反乱がおこって、両氏はともに滅亡した。阮氏の一族である阮福暎(1762~1820, 嘉隆帝 在位1806~20)は、タイやフランス人の宣教師ピニョー(Pigneau, 1741~99)らの援助を得て、1802年、タイソン党をやぶって全ベトナムを統一して阮朝をおこしてフエを都とし、清朝に朝貢し、国号をベトナム(越南)と定めた。
ナポレオン3世治下のフランスは、中国交易の拠点を求めて、インドシナへの侵略を開始し、1862年、サイゴン(現ホーチミン)を中心とする南部を奪い、直轄植民地とした(第1次サイゴン条約)。さらにフランスはメコン川をさかのぼってカンボジア王国、ついでベトナムを保護国化した(第2次フエ条約 1884)。しかし、宗主国の清はこれを認めず、1884年、清仏戦争(1884~85)がおこった。清にベトナムへの宗主権を放棄させたフランスは、1887年にベトナムとカンボジアをあわせてフランス領インドシナ連邦を成立させ、1899年にはラオスもこれに加えた。
シャム(タイ)では1782年、アユタヤ王国の武将であったチャクリ(Chakri, ラーマ1世 RamaI, 在位1782~1809)がバンコクを都とするラタナコーシン朝(Ratanakosin, バンコクBangkok, 1782~)をおこし、ビルマの侵入を退け、現在のタイの領域全域に支配を広げ、華人商人を仲介とする対中国交易で栄えた。
シャムは19世紀中ごろから英仏に不平等条約を強制されたが、開放的な政策を維持して独立を保った。1880年代、チュラロンコン大王(Chulalongkorn, ラーマ5世 RamaV, 在位1868~1910)のもとで、近代化政策(チャクリ改革)がすすめられた。これにより、近代的な内閣制度や財政システムが導入され、諸侯が廃されて全土に県が置かれた。また、非自由民が解放され、近代的学校制度が整備された。鉄道も敷設され、郵便局制度が導入された。外交においても、列強との交渉によって国境線を画定し、治外法権の撤廃にも成功した。
19世紀の後半、米穀の国際価格が高騰し、メコン、チャオプラヤ、イラワディの3大デルタの水田開発がすすみ、世界の穀倉になった。その利益の多くは植民地母国に送られたが、独立国シャムでは、近代化の原資になった。
【東南アジア島嶼部の植民地化】
17世紀末に大交易の時代が終わると、オランダ東インド会社はこれまでの奢侈品交易を独占するやり方から、ヨーロッパ市場で新しく需要の拡大したコーヒーや砂糖など大量消費物の生産地を領土化する政策に転じた。こうして、18世紀中にジャワ島が東インド会社領になった。18世紀末、フランス革命軍がオランダを占領したために、オランダ東インド会社は解散し、19世紀初頭にはジャワ島がイギリス軍に占領された。ウィーン会議でジャワ島の支配を回復したオランダは、1824年、イギリスと英蘭協定を結び、イギリスのマレー半島支配を認めるかわりに、マラッカ海峡の西と南の地域の支配権を獲得した。
1830年代にジャワ島のイスラーム諸侯の反乱(ジャワ戦争, 1825~30)を鎮圧したオランダは、強制栽培制度をつくり、コーヒー、サトウキビ、藍などの商品作物をつくって、大きな利益を得た。以後、オランダは着々と領土を拡大し、20世紀はじめまでに、ほぼ現在のインドネシアにあたる地域を植民地化した。
イギリスは18世紀末から、ベンガル湾と南シナ海との中継地としてマレー半島のペナン、マラッカを領有していたが、1819年、シンガポールを領有して、自由港と近代的な都市を建設した。植民地インドと南シナ海を結ぶシンガポールは、香港とともにイギリスの東・東南アジア進出の二大拠点として発展した。イギリスは、さらにムスリムのマレー人諸国家をつぎつぎと保護下に置いて錫鉱山の開発をすすめた。マレー半島には、支配の安定とともに鉱山の労働者として大量の華僑が移住し、20世紀に開発されたゴム園のインド人移住労働者(印僑)とともに、複雑な多民族社会を形成した。
16世紀からスペインに領有されていたフィリピンのルソン島は、当初、アカプルコ貿易の中継地として利用されたが、18世紀後半からオランダにならってサトウキビ、マニラ麻、タバコなどのプランテーションが経営され、王立フィリピン会社がその販売にあたった。1834年にはマニラを自由港にして、国際貿易に開放した。スペインはさらに南方に領域の拡大をすすめ、ミンダナオ、スールー諸島のムスリム勢力の抵抗を受けた。
【東南アジアの知識人と民族主義】
現地人のカトリック化のすすんだフィリピンでは、早くから現地人司祭の任用を求める運動がはじまっていた。19世紀末にホセ=リサール(José Rizal, 1861~96)らが独立のためにフィリピン民族同盟を結成し、スペインの支配に抗議した。しかし、スペインはこれらの言語活動を弾圧したために、1896年、カティプーナン党が武力革命を開始した。革命軍はアメリカ=スペイン戦争に助けられ、1899年にはルソン全島を解放し、アギナルド(Aguinaldo, 1869~1964)を大統領とするマロロス共和国を樹立した。しかし、アメリカ=スペイン戦争の結果、フィリピンの領有権を得たアメリカ合衆国は、マロロス軍をやぶって(フィリピン=アメリカ戦争, 1899~1902)、フィリピンを合衆国政府の任命するフィリピン委員会が統治する直轄植民地にした。
オランダ植民地下のインドネシアでは、20世紀のはじめに、ジャワの伝統文化の再評価を通じて、民族意識の形成をめざすブディ=ウトモ(Budi Utomo, 最高の英知)運動や、ムスリム商人の団体からはじまり、現地人の相互扶助や啓蒙活動を目的とするサレカット=イスラーム(Sarekat Islam, イスラーム同盟)が生まれた。これらの運動は1910年代末から、しだいに反オランダ独立運動に発展していった。
フランス植民地下のベトナムでは、伝統的知識人のファン=ボイ=チャウ(Phan Boi Chau, 1867~1940)が、立憲君主政による独立をめざし、1904年に維新会を組織した。維新会が中心となって、日露戦争に勝利した日本に学ぶために、日本への留学をすすめるドンズー(Dong Du, 東遊)運動が展開された。しかしフランスとの協調をはかる日本政府によって留学生は追放され、運動は失敗に終わった。いっぽう、フランスとの提携によるベトナムの近代化を求めるファン=チュー=チン(Phan Chu Trinh, 1872~1926)らは、ドンキン義塾を設立して啓蒙活動を展開したが、これもフランスによって弾圧された。以後、ベトナムの民族運動は、ファン=ボイ=チャウらの武力闘争と、ファン=チュー=チンの系譜をひくフランスとの提携路線に分裂する。
3 清の動揺と変貌する東アジア
【東・東南アジアをめぐる国際情勢の変容】
19世紀半ば以後、東アジア国際情勢は大きく変容した。(中略)
1884年、ベトナムをめぐって清仏戦争がおこった。清はフランスを苦しめたが、結果的に阮朝と清との冊封・朝貢関係は停止された。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、326頁~329頁、336頁)
【東南アジアの民族運動】
オランダ領東インド会社では、1920年代から、地域や宗教の枠をこえインドネシアとしての統合をめざす独立運動が展開されるようになった。1920年に結成されたインドネシア共産党は、急速にその勢力を拡大し、26~27年にスマトラやジャワで蜂起したが、オランダ軍により壊滅させられた。しかし、1927年にはスカルノ(Sukarno, 1901~70)の指導下にインドネシア国民党が結成され、ムルデカ(独立)運動を提唱した。1930年代に入ると、オランダ側の弾圧が強化されて指導者の大部分が逮捕され、第二次世界大戦中の1942年には日本軍の侵攻を受けた。
ベトナムでは、1920年代に植民地支配からの独立をめざす諸政党が生まれた。ホー=チ=ミン(Ho Chi Minh, 1890~1969)は、ベトナム青年革命同志会を母体に、1930年にインドシナ共産党を結成した。共産党はベトナム中部で蜂起し、また民族主義政党のベトナム国民党も30年に北部で蜂起したが、いずれもフランス軍によって鎮圧された。1936年にフランスに人民戦線政府が成立すると、ベトナムでも共産党と民族主義政党の統一戦線が結成され、地方議会に進出した。しかし、これも弾圧を受けて壊滅状況となり、1940年には日本軍が進駐してきた。
ビルマでは、1930年にサヤ=サン(Saya San, 1876~1931)が指導する大規模な農民運動がおこったが、イギリス軍によって大弾圧を受けた。同年、ラングーン大学の学生を中心にタキン(Thakin, 主人)党が結成され、やがてアウン=サン(Aung San, 1915~47)の指導下に反英独立運動を展開した。いっぽう、タイでは、1932年に立憲革命がおこり、憲法を発布して議会を開設された。フィリピンでは、アメリカ合衆国が1934年に自治を認め、10年後の独立を約束した。これにより35年に独立準備政府が発足した。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、366頁~367頁)
【東南アジア諸国の独立】
第二次世界大戦中、日本の占領下にあった東南アジア諸地域は、日本の敗戦後にただちに独立を求めたが、宗主国はこれを認めず、各地で独立運動がおこった。しかし、中国に社会主義国家が生まれたこともあって、東西両陣営からの影響も強くみられた。
仏領インドシナでは、1945年、抗日組織ベトナム独立同盟の指導者ホー=チ=ミンが、ベトナム民主共和国の独立を宣言した。宗主国のフランスはこれを認めず、インドシナ戦争(1946~54)となった。フランスは、49年に阮朝最後の皇帝バオ=ダイ(Bao Dai, 在位1925~45)を元首にしてフランス連合の一員としてベトナム国を独立させ、ベトナム民主共和国に対抗させた。54年には、ディエンビエンフーのフランス軍要塞の陥落を機に、ジュネーヴ会議によって休戦協定が成立した。この結果、北緯17度線を境界に、北側をホー=チ=ミンを国家主席とするベトナム民主共和国が、南側をバオ=ダイを追放したゴ=ディン=ジエム(Ngo Dinh Diem, 在職1955~63)を大統領とするベトナム共和国が支配するようになり、それぞれ中ソ、アメリカ合衆国の支援に受けて対立を深めた。また、54年のジュネーヴ会議では、すでに独立を宣言していたラオスとカンボジアの独立が正式に承認された。ラオスでは左派と右派の政治対立があって内戦となったが、カンボジアではシハヌーク(Sihanouk, 1922~2012)が中立政策をすすめた。
フィリピンでは、1946年にアメリカ合衆国から独立して共和国が成立したが、共産主義勢力が土地改革を要求して抵抗をつづけた。政府は合衆国への接近を深め、51年に米比相互防衛条約を結んだ。
英領マレーでは、日本軍占領下での華人社会への弾圧に対する抵抗運動とともに共産主義勢力が拡大していた。1948年にイギリスがマレー人に有利な英領マラヤ連邦を成立させると、華人の影響力の強いマラヤ共産党はこれに反対して武力闘争を開始した。宗主国イギリスは、徹底した弾圧を加え、57年に正式にマラヤ連邦として独立させた。63年、マラヤ連邦、シンガポールにボルネオ北部のサバ、サラワクを加えてマレーシア連邦が成立した。しかし、65年、マレー人優遇をめぐる華人政策のちがいを理由にシンガポールは分離、独立した。
インドネシアでは、日本の敗戦直後に国民党のスカルノ(Sukarno, 在職1949~67)らが独立を宣言し、それを認めない宗主国オランダとの間に4年にわたる独立戦争をつづけ、1949年にインドネシア共和国の独立を認めさせた。
ビルマ(現ミャンマー)も、1948年に共和国としてイギリスから独立したが、共産党や少数民族の内乱がつづいて政情は不安定であった。62年のクーデタでネ=ウィン(Ne Win, 1911~2002)の軍事政権が成立し、産業国有化や貿易統制による経済の自立をめざした。しかし、この政策はビルマの国際的な孤立と経済の停滞をもたらした。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、397頁~398頁)
【「自由世界の防衛」とベトナム戦争】
米ソ間やヨーロッパでは戦争が回避されたが、アジアやアフリカでは、冷戦を背景とした戦争や紛争が生じた。南北に分断されていたベトナムでは、南側がアメリカ合衆国の支援のもとに反共政策をすすめていたが、これに対して反米・反政府運動が高まり、1960年に南ベトナム解放民族戦線が結成され、北のベトナム民主共和国(北ベトナム)の支援を受けてゲリラ戦を展開した。
1961年に成立した合衆国のケネディ民主党政権は、キューバ危機でソヴィエト連邦と対決姿勢をとり、ベトナム戦争(1960~75)にも介入した。63年にケネディが暗殺され、後任となったジョンソン大統領(Johnson, 在職1963~69)は、南ベトナムが共産側となれば周辺諸国も共産化すると考え、「自由世界の防衛」をかかげて、本格的な軍事介入を行った。65年以降、北ベトナムに大規模な爆撃を行い(北爆)、50万人の大軍をベトナムに派遣した。これに対して、ソ連と中国は北ベトナムと解放戦線に大規模な軍事・経済援助を行った。ベトナム戦争は長期化して、第二次世界大戦後最大の戦争となり、数百万の人命が失われた。
【ベトナムの統一とその後】
ベトナムでは北ベトナムが優勢となり、75年には解放戦線とともにサイゴンを陥落させ、南ベトナム全土を制圧した。翌76年にはベトナム社会主義共和国が成立した。ベトナム戦争終結後の1976年、カンボジアでは親中国のポル=ポト(Pol Pot, 在職1976~79)を首相とする民主カンプチア政府が成立した。この政府は農業中心で閉鎖的な社会主義建設という極端な政策を実行し、多くの人々が殺害された。また、反中国のベトナムとの間で国境問題がおこり、78年にベトナムが侵入したカンボジアでは、79年にヘン=サムリン(Heng Samrin)政権が成立した。ポル=ポト派は中国の支援を受けながらゲリラ戦を展開し、中国軍はベトナムに侵攻して79年に中越戦争がおこった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、408頁~409頁)
第12章 アジア諸地域の動揺
【東南アジアの植民地化】
東南アジアにおいても、ヨーロッパ諸勢力が、初期には商業権益の拡大をめざしたが、しだいに領土の獲得へと移行していった。獲得された領土では、農産物や鉱物資源の開発が積極的にすすめられ、それらの生産物は世界市場に直接結びつけられた。
<ジャワ>
オランダは、アンボイナ事件後、ジャワでの領土獲得に取りかかった。各地の政治勢力は抵抗をこころみたが、しだいに圧倒され、18世紀半ばにはマタラム王国が滅ぼされ、ジャワ島の大半がオランダの支配下にはいった。
19世紀になると、オランダ政庁による直接支配のもとで、コーヒーやサトウキビ・藍などの商品作物が導入された。政庁は栽培すべき作物の種類と土地、生産量、必要な労働者の数などを指示し、生産物を低い指示価格で徴収した。こうしたオランダ支配に対し、ジャワ戦争(1825~30)と呼ばれる大規模な反乱が発生した。それにより、本国の財政状況が悪化すると、オランダはたて直しのために強制栽培制度を導入し、莫大な利益をあげた。他方、農村では飢饉が頻発し、生活が疲弊していった。
<マレー半島・ビルマ>
マレー半島とビルマ(ミャンマー)にはイギリスが進出した。イギリスは、東南アジアから中国への貿易活動の拡大をねらい、18世紀末から19世紀初めにかけてシンガポールをはじめとするマレー半島の港市を入手し、さらにはジャワも一時占領した。イギリスはオランダと協定を結び、マラッカ海峡を境界とする支配層の分割を取り決めると、ジャワを返還する一方で、マレー半島のペナン・マラッカ・シンガポールを海峡植民地として成立させた(1826年)。
1870年代にはいると、イギリスは、それまでの港市だけの支配から、領域的な支配に取りかかった。イギリスはおもに出身地域別に組織されて対立抗争をくりかえしていた中国人秘密結社やマレー人スルタンたちのあいだの錫をめぐる利権争いに介入し、軍事と外交の巧妙な政策によって支配地域を広げた。95年にはマレー連合州(Federated Malay States)を結成させ、間接的に統治した半島部の諸州と北ボルネオ地域の諸州をあわせて支配を確立した。20世紀にはいると、ゴムが自動車生産と結びつく有力な商品となることが明らかとなった。広大な未開地が、おもにロンドンで調達される資本によって、ゴムのプランテーションとして開発された。このプランテーションの主力労働者として、南インドから大量の移民が導入された。
ビルマでは、北部を支配していたタウングー朝が南部のモン人の侵攻で滅亡したが、新たにおこったコンバウン朝(Konbaung, 1752~1885)がモン人を撃退し、全土の支配を確立した。コンバウン朝はアッサムにも進出したが、インドでの支配を固めつつあったイギリスは、3次にわたるビルマ戦争(1824~86年)に勝利し、ビルマをインド帝国に併合した。
<フィリピン>
フィリピンにはスペインが進出していた。スペインは政教一致体制をとり、住民をカトリックに強制改宗させ、また地方の町や村の統治のために、フィリピン人を長(おさ)とする行政組織を新しくつくった。しかし自由
貿易を求める圧力をうけて、スペインは1834年にはそれまでの欧米勢力を排除する政策を転換し、マニラを正式に開港した。それにより、大農園におけるサトウキビ・マニラ麻・タバコなどの商品作物生産が広がり、フィリピンは世界市場に組み込まれることになった。また商人や高利貸しによる土地の集積が始まり、プランテーション開発がすすんで大土地所有制が成立した。
<ベトナム・カンボジア・ラオス>
ベトナムは、16世紀以降、黎朝の名目的な支配のもとで政治勢力が南北に分裂していたが、1771年に圧政に苦しむ農民の不満を背景に西山(タイソン)の乱が生じ、南北両政権が倒され、統一がはかられた。一方、これに対し阮福暎(在位1802~20)が、フランス人宣教師ピニョー(Pigneau, 1741~99)が本国からつれてきた義勇兵やタイ・ラオスなどの援助をうけ、西山政権(1778~1802)を倒して1802年に全土を統一し阮朝(1802~1945)をたてた。阮福暎は清によってベトナム(越南)国王に封ぜられ(04年)、清の制度を導入し、行政制度を整備した。19世紀半ばになると、フランスはカトリック教徒への迫害を理由にベトナムに軍事介入しはじめ、南部地域を奪い(67年)、さらに領土拡大へと動いた。これに対し、劉永福(1837~1917)が組織した黒旗軍は、ベトナム北部に根拠をおいて頑強に抵抗した。しかし、それを口実にフランスは北部に進出し、ユエ条約(83年)により北部と中部を支配下においた。他方、清朝はベトナムへの宗主権を主張して派兵し、清仏戦争がおきた(84~85年)。その結果、清は85年の天津条約でベトナムへのフランスの保護権を承認した。ベトナムの植民地化に成功したフランスは、63年以来保護国としてきたカンボジアとあわせて、87年にフランス領インドシナ連邦を成立させ、99年にはラオスも編入した。
【タイの情勢】
東南アジアのほとんどの地域がヨーロッパ諸国の植民地となるなか、唯一植民地化の圧力を回避したのはタイであった。タイでは18世紀の終わりに、バンコクに首都をおき、現王朝のラタナコーシン朝(Ratanakosin 1782~、チャクリ朝Chakriとも呼ばれる)が創始された。19世紀前半は、ヨーロッパ諸国に対して閉鎖的な政策がとられていた。しかし、ヨーロッパの諸勢力からの門戸開放の圧力がしだいに強まり、19世紀後半、ラーマ4世(Rama IV, 在位1851~68)の時代に政策の転換がおこなわれた。王室による貿易独占が解除され、自由貿易の原則が確認されると、つぎつぎと先進諸国と外交関係が結ばれた。その結果、米の商品化がすすみ、デルタ地帯の開発がすすんだ。チュラロンコン(Chulalongkon, 在位1868~1910, ラーマ5世:Rama V)は、イギリスとフランスとの勢力均衡策をたくみにとると同時に、外国人専門家をまねいて行政・司法組織などを改革し、また外国への留学を奨励するなどして近代化に成功し、植民地化を回避した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、291頁~294頁)
第14章 二つの世界大戦
【東南アジアにおける民族運動の展開】
東南アジアにおいても第一次世界大戦後、民族運動が再び広がった。
オランダが支配するインドネシアでは、1920年にインドネシア共産党が結成され、独立をとなえた。その運動が弾圧によってほぼ壊滅したのちは、オランダから帰国した留学生が、運動の指導権をにぎった。27年にはスカルノ(Sukarno, 1901~70)を党首とするインドネシア国民党が結成され、翌年にインドネシアという統一された祖国・民族・言語をめざす宣言がなされた。
フランスが支配するインドシナでは、1925年にホー=チ=ミン(Ho Chi Minh, 1890~1969)がベトナム青年革命同志会を結成し、それを母体に、30年にベトナム共産党(同年10月にインドシナ共産党に改称)が成立した。党は、徹底的な弾圧をうけながらも、村々にソヴィエト政権を樹立するなど農民運動を展開した。またイギリスが支配するビルマ(ミャンマー)では、1920年代から民族運動が始まり、僧侶による啓蒙運動やタキン党(Thakin)と呼ばれる急進的民族主義者の台頭がみられた。
アメリカ合衆国が統治するフィリピンでは、1907年に議会が開設され、立法や行政についてはフィリピン人への権限委譲がすすめられた。しかし、経済面ではアメリカに大きく依存した商品作物生産がすすんだため、窮乏化した農民たちは反乱をくりかえした。その結果、34年にフィリピン独立法が成立し、翌年独立準備政府が発足した。タイでは、長く王による専制的統治が続いていたが、財政的混乱や王族支配への批判が高まり、32年の立憲革命によって王制から立憲君主制となった。
こうした状況のもとで、アジア地域は、1941年末から太平洋戦争に突入し、多くが日本軍の侵攻を迎えることになった。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、352頁~353頁)
Chapter 17 Reformation in Various Regions in Asia
2 Colonization of South Asia and Southeast Asia, and the Dawn of National Movements
■Change of Mainland Southeast Asia
■Colonization of Islands of Southeast Asia
■Intellectuals and the Racialism of Southeast Asia
2 Colonization of South Asia and Southeast Asia, and the Dawn of National Movements
■Change of Mainland Southeast Asia
In the mainland Southeast Asia, the origins of three nations, i.e., Burma (Myanmar),
Thailand and Vietnam, were formed from the latter half of the 18th century to the
beginning of the 19th century. In Burma, in the mid-18th century, the Toungoo dynasty was
defeated by the Hanthawaddy kingdom of Mons, but then the Burmese group originated
in the inland advanced to the south and founded the Konbaung (Alaungpaya) dynasty.
This dynasty possessed almost the same territory as that of present-day Myanmar, and
further advanced to Thailand and ruined the Ayutthaya dynasty as well as invaded toward
the west into the Assam district of India.
At the beginning of the 19th century, Britain, which had sought the route to China and
Southeast Asia from the Bay of Bengal, provoked the Anglo-Burmese Wars against the
Konbaung dynasty three times, and in 1885, defeated the Konbaung dynasty. In the
following year, Burma was annexed into the Indian Empire as a province under
direct control.
In Vietnam, after the 17th century the Trinh lords in the northern area and the Nguyen lords in the central area competed against each other. However, in the latter half of the
18th century, both lords were destroyed due to the Tayson Rebellion (peasants’ riots).
Gia Long (嘉隆帝 Nguyen Phuc Anh 阮福暎) of the Nguyen clan defeated Taisson[sic]party
with the support from Thailand and Pigneau, a French missionary; unified Vietnam; and
founded the Nguyen dynasty with Hue as its capital in 1802. He brought tribute to the
Qing dynasty and named the country as Vietnam.
France, under Napoleon III, invaded Indochina seeking a basis for trade with China.
In 1862, it conquered the southern area, where Saigon (present-day Ho Chi Minh City)
was located as a center, and made it into a direct colony (the First Treaty of Saigon).
France went up the Mekong River, and made the Cambodian kingdom, and then Vietnam,
into protectorates (Second Treaty of Hue). The Qing dynasty, a suzerain of them, however,
did not approve this, and in 1884, the Sino-French War broke out. France, by defeating the
Qing dynasty, made them abandon suzerainty. And in 1887, France formed the Indochinese
Federation by combining Vietnam and Cambodia, and then in 1899 added Laos into the
Federation.
In Siam (Thailand), General Chakri (Rama I) of the Ayutthaya dynasty founded the
Ratanakosin dynasty(ラタナコーシン朝, Bangkok[バンコク朝]) with Bangkok as its
capital; drove back Burma’s invasion; expanded its territory to almost the same
as today’s Thailand; and flourished by trade with China through Chinese merchants
as intermediaries.
Siam was forced into uneven treaties by Britain and France from the middle of the
19th century, but maintained independence by adopting an open policy. In the 1880s,
modernization reform (Chakri Reform) was promoted under King Chulalongkon
(チュラロンコン Rama V[ラーマ5世]). A modern cabinet and fiscal system were introduced
and the clan system was abolished, and in exchange prefectures were placed in the whole
territory. Also non-free people were emancipated and the modern educational system was
consolidated. Railways were constructed and a postal system was introduced. Diplomatically, through negotiation with the great powers, the national boundary was
decided and the extra territorial rights were successfully abolished.
In the latter half of the 19th century, the international price of crops rose rapidly and
consequently the development of rice fields in three major delta areas, the Mekong, the
Chao Phraya and the Irrawaddy, was promoted, and they became the granary of the world.
Most of the profits coming from the colonies were sent to the mother countries, but in
Siam, an independent country, profits were utilized as the source of modernization.
■Colonization of Islands of Southeast Asia
When the great trade period ended in the end the 17th century, the Dutch East India
Company (オランダ東インド会社) changed its business style from monopolizing trade of
luxurious goods into occupying the production areas of mass consumption goods such as
coffee and sugar. Consequently, Java became a territory of the Dutch East India Company
in the 18th century. In the end of the 18th century, as the French Revolutionary troops
occupied the Netherlands, the Dutch East India Company was dissolved, and in the
beginning of the 19th century British troops occupied Java. The Netherlands recovered
its control over Java at the Congress of Vienna, and obtained the right of control over
the west and south area of the Malacca Strait, in exchange for recognizing British control over the Malay peninsula, by executing the Anglo-Dutch Treaty of 1824.
In the 1830s, the Netherlands, by suppressing the rebellion by Islamic clans in Java
(the Java War), obtained huge profits by instituting a forced cultivation system to produce
commodity crops such as coffee, sugarcane and indigo plants. Thereafter, the Netherlands
expanded its territory steadily, and by the beginning of the 20th century, colonized almost
the same area of present-day Indonesia.
From the end of the 18th century, Britain had held Penang and Malacca of the Malay
peninsula as intermediary places between the Bay of Bengal and the South China Sea. It
took Singapore in 1819 and constructed a free port and a modern city there. Singapore,
which intermediated between India, the colony of Britain, and the South China Sea,
developed together with Hong Kong as the two major British stepping stones to East and
Southeast Asia. Britain further put Muslim Malay nations successively under
a protectorate status and promoted the development of tin mines. In the Malay peninsula,
as the control was stabilized, a huge number of overseas Chinese(華僑) immigrated and
worked in the mines, and overseas Indians worked on rubber plantations which would be
developed in the 20th century, and thus a complicated multi-racial society was formed.
The Philippines, controlled by Spain from the 16th century, was originally utilized as
an intermediary point for the Acapulco trade. But from the latter half of the 18th century,
plantation of sugarcane, Manila hemp and tobacco were managed there following the
Netherlands, and the Royal Philippines Company took charge of their sales. In 1834, Spain
made Manila a free port and opened it to international trade. Spain further promoted the
expansion of its territory to the south, but received resistance from Muslim powers of the
Mindanao and the Sulu Archipelago.
■Intellectuals and the Racialism of Southeast Asia
In the Philippines where conversion of local people into Catholic was advanced, the
movement toward the appointment of local priest began from an early stage. In the end of
the 19th century, Jose Rizal(ホセ=リサール) among others organized the Filipino
nationalist organization to achieve independence and opposed to Spanish rule. However,
since Spain suppressed such movements, the Katipunan initiated the armed revolution
in 1896. Thanks to the Spanish-American War, the Katipunan revolution troops liberated
Luzon in 1899 and established the Malolos Republic with Aguinaldo(アギナルド) as the
president. As a result of the Spanish-American War, however, the United States, which
obtained the right of possession of the Philippines, defeated Malolos troops (the Philippine-
American War フィリピン=アメリカ戦争) and made the Philippines a direct colony ruled
by the Philippines Committee which was installed by the U.S. Government.
In Indonesia, a Dutch colony at the beginning of the 20th century, the Budi Utomo
(supreme wisdom) movement (ブディ=ウトモ[最高の英知]運動) aiming to form racial
consciousness through reevaluation of the traditional cultures of Java occurred. And there
occurred also the Sarekat Islam(サレカット=イスラーム Islamic Union) movement aiming
to provide local mutual support and to enlighten activities which were initiated by a group
of Muslim merchants occurred. These movements gradually turned into anti-Dutch
independence movement from the end of 1910s.
In Vietnam, a French colony, Phan Boi Chau(ファン=ボイ=チャウ), a traditional
intellectual, initiated the Dong Du movement(ドンズー運動) promoting study in Japan
in order to obtain lessons from Japan which defeated Russia in the Russo-Japanese War.
But the Japanese government deported Vietnamese students in order to cooperate with
France, resulting in the failure of the movement. On the other hand, Phan Chu Trinh
(ファン=チュ=チン) and others, seeking for modernization of Vietnam through coalition
with France, established Don Kynh Nghia Thuc(ドンキン義塾) and extended enlightening
movements. But this was also suppressed by France. Thereafter national movements in
Vietnam were split into armed strife by Phan Boi Chau and a route of coalition with
France succeeding Phan Chu Trinh.
<Wayang Kulit, or shadow puppetry in Indonesia (British Museum)>
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、261頁~264頁)
Chapter 18 The Age of the World Wars
4 Movement of Nation Building in Asia and Africa
■Ethnic Movements in Southeast Asia
In Dutch East India, movements toward independence were developed from the 1920s.
The movements aimed for unity of Indonesia(インドネシア), overcoming differences of
areas and religion. The Indonesia Communist Party, which was founded in 1920, expanded
rapidly; rose in revolt in Sumatra and Java in 1926-1927; but was given a crushing blow
by the Dutch army. In 1927, the Indonesian National Party(インドネシア国民党) was
formed, and led by Sukarno(スカルノ), advocated the Merdeka(ムルデカ, Independence 独立) movement. In the 1930s, the Netherlands strengthened the suppression and most of
the leaders were arrested. In 1942, during World War II, the Japanese army invaded
Indonesia.
In Vietnam, various political parties hoping for independence from the colonial ruling
were formed in the 1920s. Ho Chi Minh(ホー=チ=ミン) formed the Indochinese
Communist Party(インドシナ共産党) based on the Revolutionary Youth League of
Vietnam in 1930. The Communist Party revolted in central Vietnam, and the Vietnam
People’s Party, a nationalistic party, rioted in northern Vietnam. However, both were
suppressed by the French army. When the Front Populaire (the Popular Front)
government was established in France in 1936, a united front of the Communist Party
and the ethnic parties was formed, and advanced to local parliaments. But again,
this was cracked down completely. In 1940, the Japanese army occupied Vietnam.
In Burma, Saya San led a large scale peasant movement, but the British army
completely suppressed them. In the same year, the Thakin (Master) Party(タキン[主人]党)
was established mainly by students of Rangoon University, and Aung San led the
anti-Britain independence movement. In Thailand, the constitutional revolution occurred
in 1932; a constitution was proclaimed; and a parliament was established based on the
constitution. In the Philippines, the United States accepted its autonomy in 1934, and
promised its independence 10 years later. Thus the government of the Commonwealth
of the Philippines was formed in 1935.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、292頁)
Part 5 Establishment of the Global World
Chapter 19 Nation-State System and the Cold War
2 Independence of the Asian-African Countries and the "Third World"
■Nation States in Southeast Asia
Just after the Japan’s defeat, Southeast Asian countries occupied by Japan sought
independence. However, since former suzerains did not grant independence to them,
independence movements occurred in each country.
In French Indochina, Ho Chi Minh(ホー=チ=ミン), leader of the Viet Minh(抗日組織
ベトナム独立同盟), an anti-Japan organization, declared independence for the Democratic
Republic of Vietnam(ベトナム民主共和国[北ベトナム]) in 1945. But the suzerain
France did not grant it independence, and this led to the Indochina wars (インドシナ戦争,
1946-54). France installed Bao Dai(バオ=ダイ, throne 1925-45), the last emperor of the
Nguyen dynasty(阮朝), as head of the state, and granted independence to the State of
Vietnam as a member of the French Union in order to confront the Democratic Republic
of Vietnam. In 1954, the Geneva Conference was held and the Geneva Accords were
concluded. They provided for a cease-fire at the event of the fall of French garrison at
Dien Bien Phu. As a result, Vietnam was divided by the 17th parallel (the latitude 17°N
北緯17度線). The northern half of Vietnam was ruled by the Democratic Republic of
Vietnam, and southern half of Vietnam by the Republic of Vietnam(ベトナム共和国),
where Ngo Dinh Diem assumed the role of president, expelling Bao Dai. Each side
received support from China and the Soviet Union, and from the United States,
respectively. In the Geneva Conference in 1954, the independence of Laos and Cambodia,
which had declared independence already, was officially granted. In Laos, the civil war
started due to political confrontation between the left and right wings. In Cambodia
(カンボジア), Sihanouk(シハヌーク) promoted a neutral policy.
The Philippines became independent from the United States to form a republic in 1946.
However, the communist powers continued to resist the government demanding land
reform. The government approached the United States and concluded the Mutual Defense
Treaty between the United States and the Republic of Philippines in 1951.
Britain established the British Malaya in favor of the Malay in 1948. The Malaya
Communist Party, strongly influenced by ethnic Chinese, started a military campaign
against this. Britain suppressed the fight completely and officially established the
Federation of Malaya(マレーシア連邦) as an independent nation in 1957. In 1963,
the Federation of Malaya, Singapore(シンガポール), Sava and Sarawak formed
the Federation of Malaysia. However, in 1965, Singapore was spun off as an independent
nation, led by ethnic Chinese, due to the Federation’s policy in favor of Malay people.
In Indonesia, Sukarno(スカルノ) of the Nationalist Party, and others declared
independence right after Japan’s defeat. The suzerain Netherlands did not grant its
independence, and fought a war for four years. In 1949, the Republic of Indonesia
(インドネシア共和国) was finally granted independence from the Netherlands.
Burma (ビルマ Myanmar [現ミャンマー]) declared independence from Britain as
a republic in 1948, but political conditions were unstable owing a large part to the
internal fights by the Communist Party and ethnic minorities. In 1962, Ne Win led
a coup d’état to establish a military government and aimed at economic independence
through industrial nationalization and trade control. Those policies led to Burma’s
international isolation and economic stagnation.
Thailand(タイ) announced the war against Britain and the United States in favor of
Japan during World War II. However, after the war, the country declared this
announcement was invalid and avoided becoming a defeated nation. Thailand succeeded
in maintaining independence and joined the United Nations in 1946.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、316頁~317頁)
3 Disturbance of the Postwar Regime
■Economic Growth of Asia(一部)
…
Southeast Asian countries also built foundation for economic development by the
compensation from Japan and the special demands from the Vietnam War. In 1965, in
Indonesia, the military coup d’état led by Suharto(スハルト) erupted; Sukarno was
disgraced (the September 30th Movement[九・三0事件]) and the Communist Party
was ruined. Suharto assumed president in 1968 and started government-led
economic development. In Philippines, Marcos became president in 1965 and promoted
developmental dictatorships. In 1967, Indonesia, Malaysia, Singapore, Philippines and
Thailand formed the Association of Southeast Asian Nations (ASEAN東南アジア諸国連合).
At first, the association was an anti-communism alliance, and later changed to an
organization for economic cooperation.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、324頁)
4 Multi-polarization of the World and the Collapse of the U.S.S.R.
■Economic Growth in Japan and Asian Countries(一部)
….
In Southeast Asia, the ASEAN countries(ASEAN諸国) developed economies, owing to
the special procurement of the Vietnam War, and interlinking with Japanese capital
investments and expansion of the Japanese markets. In the late 1980s, the Marcos
dictatorship collapsed and the democratic government was born in the Philippines.
Behind its economic developments, there enlarged also the social distortion such as
the expansion of the gap between the rich and the poor, environmental problems
and the collapse of traditional cultures.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、329頁)
Final Chapter Globalization of Economy and New Regional Order
2 Questions about Globalization and New World Order
■Settlement of Conflict in Southeast Asia
In Southeast Asia, the Cambodian civil war(カンボジア内戦) broke out in 1978. But, taking
advantage of the withdrawal of Vietnam at the end of the 1980s, a peace treaty was concluded in 1991
and the war ended. In 1993, the general election was conduced under the control of a United Nations
Transitional Authority in Cambodia(UNTAC 国連カンボジア暫定行政機構), then a coalition
government with Sihanouk(シハヌーク) as the head of state was established. The second general
election was held in 1998, then the country joined ASEAN in 1999. Thus Cambodia recovered peace
and has moved forward toward reconstruction under the Hun Sen administration(フン=セン内閣)
of the Cambodian People’s Party(人民党).
East Timor, a former colony of Portugal, was absorbed into Indonesia in 1976. Its
independence was authorized through a vote in 1999, which was sponsored by the United
Nations. In 2002, the Democratic Republic of East Timor(東ティモール民主共和国) was established,
and it is on its way to building a new nation under the supervision of the United Nations.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、343頁)
(2023年10月22日投稿)
【はじめに】
今回のブログでは、高校世界史において、東南アジア(近現代)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
参考とした世界史の教科書は、次のものである。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社
東南アジア(近現代)の歴史と文化の記述~『世界史B』(東京書籍)より
第17章 アジア諸地域の変革運動 2南アジア・東南アジアの植民地化と民族運動の黎明
【東南アジア大陸部の変動】
東南アジアの大陸部では、18世紀後半から19世紀にかけて、ビルマ(ミャンマー)、タイ、ベトナムの3国のもとが形成された。ビルマでは、18世紀中ごろ、トゥングー王国がモン人のペグー王国によって滅ぼされたが、内陸におこったビルマ人の勢力が南下してコンバウン朝(Konbaung, アラウンパヤー朝 Alaungpaya, 1752~1885)をおこした。この王朝は、ほぼ現在のミャンマーと等しい地域を領有し、さらにタイにすすんでアユタヤ王国を滅ぼし、また西のインドのアッサム地方に侵攻した。
19世紀のはじめ、ベンガル湾から東南アジア、中国への道をめざしていたイギリスは、コンバウン朝と3次にわたってイギリス=ビルマ戦争(1824~26, 52~53, 85~86)をおこし、1885年にコンバウン朝を滅ぼした。翌年、ビルマは直轄州としてインド帝国に併合された。
ベトナムでは、17世紀以降、北部の鄭氏と中部の阮氏が勢力を二分していたが、18世紀後半にタイソン(西山)党の農民反乱がおこって、両氏はともに滅亡した。阮氏の一族である阮福暎(1762~1820, 嘉隆帝 在位1806~20)は、タイやフランス人の宣教師ピニョー(Pigneau, 1741~99)らの援助を得て、1802年、タイソン党をやぶって全ベトナムを統一して阮朝をおこしてフエを都とし、清朝に朝貢し、国号をベトナム(越南)と定めた。
ナポレオン3世治下のフランスは、中国交易の拠点を求めて、インドシナへの侵略を開始し、1862年、サイゴン(現ホーチミン)を中心とする南部を奪い、直轄植民地とした(第1次サイゴン条約)。さらにフランスはメコン川をさかのぼってカンボジア王国、ついでベトナムを保護国化した(第2次フエ条約 1884)。しかし、宗主国の清はこれを認めず、1884年、清仏戦争(1884~85)がおこった。清にベトナムへの宗主権を放棄させたフランスは、1887年にベトナムとカンボジアをあわせてフランス領インドシナ連邦を成立させ、1899年にはラオスもこれに加えた。
シャム(タイ)では1782年、アユタヤ王国の武将であったチャクリ(Chakri, ラーマ1世 RamaI, 在位1782~1809)がバンコクを都とするラタナコーシン朝(Ratanakosin, バンコクBangkok, 1782~)をおこし、ビルマの侵入を退け、現在のタイの領域全域に支配を広げ、華人商人を仲介とする対中国交易で栄えた。
シャムは19世紀中ごろから英仏に不平等条約を強制されたが、開放的な政策を維持して独立を保った。1880年代、チュラロンコン大王(Chulalongkorn, ラーマ5世 RamaV, 在位1868~1910)のもとで、近代化政策(チャクリ改革)がすすめられた。これにより、近代的な内閣制度や財政システムが導入され、諸侯が廃されて全土に県が置かれた。また、非自由民が解放され、近代的学校制度が整備された。鉄道も敷設され、郵便局制度が導入された。外交においても、列強との交渉によって国境線を画定し、治外法権の撤廃にも成功した。
19世紀の後半、米穀の国際価格が高騰し、メコン、チャオプラヤ、イラワディの3大デルタの水田開発がすすみ、世界の穀倉になった。その利益の多くは植民地母国に送られたが、独立国シャムでは、近代化の原資になった。
【東南アジア島嶼部の植民地化】
17世紀末に大交易の時代が終わると、オランダ東インド会社はこれまでの奢侈品交易を独占するやり方から、ヨーロッパ市場で新しく需要の拡大したコーヒーや砂糖など大量消費物の生産地を領土化する政策に転じた。こうして、18世紀中にジャワ島が東インド会社領になった。18世紀末、フランス革命軍がオランダを占領したために、オランダ東インド会社は解散し、19世紀初頭にはジャワ島がイギリス軍に占領された。ウィーン会議でジャワ島の支配を回復したオランダは、1824年、イギリスと英蘭協定を結び、イギリスのマレー半島支配を認めるかわりに、マラッカ海峡の西と南の地域の支配権を獲得した。
1830年代にジャワ島のイスラーム諸侯の反乱(ジャワ戦争, 1825~30)を鎮圧したオランダは、強制栽培制度をつくり、コーヒー、サトウキビ、藍などの商品作物をつくって、大きな利益を得た。以後、オランダは着々と領土を拡大し、20世紀はじめまでに、ほぼ現在のインドネシアにあたる地域を植民地化した。
イギリスは18世紀末から、ベンガル湾と南シナ海との中継地としてマレー半島のペナン、マラッカを領有していたが、1819年、シンガポールを領有して、自由港と近代的な都市を建設した。植民地インドと南シナ海を結ぶシンガポールは、香港とともにイギリスの東・東南アジア進出の二大拠点として発展した。イギリスは、さらにムスリムのマレー人諸国家をつぎつぎと保護下に置いて錫鉱山の開発をすすめた。マレー半島には、支配の安定とともに鉱山の労働者として大量の華僑が移住し、20世紀に開発されたゴム園のインド人移住労働者(印僑)とともに、複雑な多民族社会を形成した。
16世紀からスペインに領有されていたフィリピンのルソン島は、当初、アカプルコ貿易の中継地として利用されたが、18世紀後半からオランダにならってサトウキビ、マニラ麻、タバコなどのプランテーションが経営され、王立フィリピン会社がその販売にあたった。1834年にはマニラを自由港にして、国際貿易に開放した。スペインはさらに南方に領域の拡大をすすめ、ミンダナオ、スールー諸島のムスリム勢力の抵抗を受けた。
【東南アジアの知識人と民族主義】
現地人のカトリック化のすすんだフィリピンでは、早くから現地人司祭の任用を求める運動がはじまっていた。19世紀末にホセ=リサール(José Rizal, 1861~96)らが独立のためにフィリピン民族同盟を結成し、スペインの支配に抗議した。しかし、スペインはこれらの言語活動を弾圧したために、1896年、カティプーナン党が武力革命を開始した。革命軍はアメリカ=スペイン戦争に助けられ、1899年にはルソン全島を解放し、アギナルド(Aguinaldo, 1869~1964)を大統領とするマロロス共和国を樹立した。しかし、アメリカ=スペイン戦争の結果、フィリピンの領有権を得たアメリカ合衆国は、マロロス軍をやぶって(フィリピン=アメリカ戦争, 1899~1902)、フィリピンを合衆国政府の任命するフィリピン委員会が統治する直轄植民地にした。
オランダ植民地下のインドネシアでは、20世紀のはじめに、ジャワの伝統文化の再評価を通じて、民族意識の形成をめざすブディ=ウトモ(Budi Utomo, 最高の英知)運動や、ムスリム商人の団体からはじまり、現地人の相互扶助や啓蒙活動を目的とするサレカット=イスラーム(Sarekat Islam, イスラーム同盟)が生まれた。これらの運動は1910年代末から、しだいに反オランダ独立運動に発展していった。
フランス植民地下のベトナムでは、伝統的知識人のファン=ボイ=チャウ(Phan Boi Chau, 1867~1940)が、立憲君主政による独立をめざし、1904年に維新会を組織した。維新会が中心となって、日露戦争に勝利した日本に学ぶために、日本への留学をすすめるドンズー(Dong Du, 東遊)運動が展開された。しかしフランスとの協調をはかる日本政府によって留学生は追放され、運動は失敗に終わった。いっぽう、フランスとの提携によるベトナムの近代化を求めるファン=チュー=チン(Phan Chu Trinh, 1872~1926)らは、ドンキン義塾を設立して啓蒙活動を展開したが、これもフランスによって弾圧された。以後、ベトナムの民族運動は、ファン=ボイ=チャウらの武力闘争と、ファン=チュー=チンの系譜をひくフランスとの提携路線に分裂する。
3 清の動揺と変貌する東アジア
【東・東南アジアをめぐる国際情勢の変容】
19世紀半ば以後、東アジア国際情勢は大きく変容した。(中略)
1884年、ベトナムをめぐって清仏戦争がおこった。清はフランスを苦しめたが、結果的に阮朝と清との冊封・朝貢関係は停止された。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、326頁~329頁、336頁)
第18章 世界戦争の時代 4アジア・アフリカでの国家形成の動き
【東南アジアの民族運動】
オランダ領東インド会社では、1920年代から、地域や宗教の枠をこえインドネシアとしての統合をめざす独立運動が展開されるようになった。1920年に結成されたインドネシア共産党は、急速にその勢力を拡大し、26~27年にスマトラやジャワで蜂起したが、オランダ軍により壊滅させられた。しかし、1927年にはスカルノ(Sukarno, 1901~70)の指導下にインドネシア国民党が結成され、ムルデカ(独立)運動を提唱した。1930年代に入ると、オランダ側の弾圧が強化されて指導者の大部分が逮捕され、第二次世界大戦中の1942年には日本軍の侵攻を受けた。
ベトナムでは、1920年代に植民地支配からの独立をめざす諸政党が生まれた。ホー=チ=ミン(Ho Chi Minh, 1890~1969)は、ベトナム青年革命同志会を母体に、1930年にインドシナ共産党を結成した。共産党はベトナム中部で蜂起し、また民族主義政党のベトナム国民党も30年に北部で蜂起したが、いずれもフランス軍によって鎮圧された。1936年にフランスに人民戦線政府が成立すると、ベトナムでも共産党と民族主義政党の統一戦線が結成され、地方議会に進出した。しかし、これも弾圧を受けて壊滅状況となり、1940年には日本軍が進駐してきた。
ビルマでは、1930年にサヤ=サン(Saya San, 1876~1931)が指導する大規模な農民運動がおこったが、イギリス軍によって大弾圧を受けた。同年、ラングーン大学の学生を中心にタキン(Thakin, 主人)党が結成され、やがてアウン=サン(Aung San, 1915~47)の指導下に反英独立運動を展開した。いっぽう、タイでは、1932年に立憲革命がおこり、憲法を発布して議会を開設された。フィリピンでは、アメリカ合衆国が1934年に自治を認め、10年後の独立を約束した。これにより35年に独立準備政府が発足した。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、366頁~367頁)
第19章 戦後世界秩序の形成 2 植民地の独立と世界政治
【東南アジア諸国の独立】
第二次世界大戦中、日本の占領下にあった東南アジア諸地域は、日本の敗戦後にただちに独立を求めたが、宗主国はこれを認めず、各地で独立運動がおこった。しかし、中国に社会主義国家が生まれたこともあって、東西両陣営からの影響も強くみられた。
仏領インドシナでは、1945年、抗日組織ベトナム独立同盟の指導者ホー=チ=ミンが、ベトナム民主共和国の独立を宣言した。宗主国のフランスはこれを認めず、インドシナ戦争(1946~54)となった。フランスは、49年に阮朝最後の皇帝バオ=ダイ(Bao Dai, 在位1925~45)を元首にしてフランス連合の一員としてベトナム国を独立させ、ベトナム民主共和国に対抗させた。54年には、ディエンビエンフーのフランス軍要塞の陥落を機に、ジュネーヴ会議によって休戦協定が成立した。この結果、北緯17度線を境界に、北側をホー=チ=ミンを国家主席とするベトナム民主共和国が、南側をバオ=ダイを追放したゴ=ディン=ジエム(Ngo Dinh Diem, 在職1955~63)を大統領とするベトナム共和国が支配するようになり、それぞれ中ソ、アメリカ合衆国の支援に受けて対立を深めた。また、54年のジュネーヴ会議では、すでに独立を宣言していたラオスとカンボジアの独立が正式に承認された。ラオスでは左派と右派の政治対立があって内戦となったが、カンボジアではシハヌーク(Sihanouk, 1922~2012)が中立政策をすすめた。
フィリピンでは、1946年にアメリカ合衆国から独立して共和国が成立したが、共産主義勢力が土地改革を要求して抵抗をつづけた。政府は合衆国への接近を深め、51年に米比相互防衛条約を結んだ。
英領マレーでは、日本軍占領下での華人社会への弾圧に対する抵抗運動とともに共産主義勢力が拡大していた。1948年にイギリスがマレー人に有利な英領マラヤ連邦を成立させると、華人の影響力の強いマラヤ共産党はこれに反対して武力闘争を開始した。宗主国イギリスは、徹底した弾圧を加え、57年に正式にマラヤ連邦として独立させた。63年、マラヤ連邦、シンガポールにボルネオ北部のサバ、サラワクを加えてマレーシア連邦が成立した。しかし、65年、マレー人優遇をめぐる華人政策のちがいを理由にシンガポールは分離、独立した。
インドネシアでは、日本の敗戦直後に国民党のスカルノ(Sukarno, 在職1949~67)らが独立を宣言し、それを認めない宗主国オランダとの間に4年にわたる独立戦争をつづけ、1949年にインドネシア共和国の独立を認めさせた。
ビルマ(現ミャンマー)も、1948年に共和国としてイギリスから独立したが、共産党や少数民族の内乱がつづいて政情は不安定であった。62年のクーデタでネ=ウィン(Ne Win, 1911~2002)の軍事政権が成立し、産業国有化や貿易統制による経済の自立をめざした。しかし、この政策はビルマの国際的な孤立と経済の停滞をもたらした。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、397頁~398頁)
第19章 4 合衆国の覇権の動揺と再編
【「自由世界の防衛」とベトナム戦争】
米ソ間やヨーロッパでは戦争が回避されたが、アジアやアフリカでは、冷戦を背景とした戦争や紛争が生じた。南北に分断されていたベトナムでは、南側がアメリカ合衆国の支援のもとに反共政策をすすめていたが、これに対して反米・反政府運動が高まり、1960年に南ベトナム解放民族戦線が結成され、北のベトナム民主共和国(北ベトナム)の支援を受けてゲリラ戦を展開した。
1961年に成立した合衆国のケネディ民主党政権は、キューバ危機でソヴィエト連邦と対決姿勢をとり、ベトナム戦争(1960~75)にも介入した。63年にケネディが暗殺され、後任となったジョンソン大統領(Johnson, 在職1963~69)は、南ベトナムが共産側となれば周辺諸国も共産化すると考え、「自由世界の防衛」をかかげて、本格的な軍事介入を行った。65年以降、北ベトナムに大規模な爆撃を行い(北爆)、50万人の大軍をベトナムに派遣した。これに対して、ソ連と中国は北ベトナムと解放戦線に大規模な軍事・経済援助を行った。ベトナム戦争は長期化して、第二次世界大戦後最大の戦争となり、数百万の人命が失われた。
【ベトナムの統一とその後】
ベトナムでは北ベトナムが優勢となり、75年には解放戦線とともにサイゴンを陥落させ、南ベトナム全土を制圧した。翌76年にはベトナム社会主義共和国が成立した。ベトナム戦争終結後の1976年、カンボジアでは親中国のポル=ポト(Pol Pot, 在職1976~79)を首相とする民主カンプチア政府が成立した。この政府は農業中心で閉鎖的な社会主義建設という極端な政策を実行し、多くの人々が殺害された。また、反中国のベトナムとの間で国境問題がおこり、78年にベトナムが侵入したカンボジアでは、79年にヘン=サムリン(Heng Samrin)政権が成立した。ポル=ポト派は中国の支援を受けながらゲリラ戦を展開し、中国軍はベトナムに侵攻して79年に中越戦争がおこった。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、408頁~409頁)
東南アジア(近現代)の歴史と文化の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
第12章 アジア諸地域の動揺
2 南アジア・東南アジアの植民地化
【東南アジアの植民地化】
東南アジアにおいても、ヨーロッパ諸勢力が、初期には商業権益の拡大をめざしたが、しだいに領土の獲得へと移行していった。獲得された領土では、農産物や鉱物資源の開発が積極的にすすめられ、それらの生産物は世界市場に直接結びつけられた。
<ジャワ>
オランダは、アンボイナ事件後、ジャワでの領土獲得に取りかかった。各地の政治勢力は抵抗をこころみたが、しだいに圧倒され、18世紀半ばにはマタラム王国が滅ぼされ、ジャワ島の大半がオランダの支配下にはいった。
19世紀になると、オランダ政庁による直接支配のもとで、コーヒーやサトウキビ・藍などの商品作物が導入された。政庁は栽培すべき作物の種類と土地、生産量、必要な労働者の数などを指示し、生産物を低い指示価格で徴収した。こうしたオランダ支配に対し、ジャワ戦争(1825~30)と呼ばれる大規模な反乱が発生した。それにより、本国の財政状況が悪化すると、オランダはたて直しのために強制栽培制度を導入し、莫大な利益をあげた。他方、農村では飢饉が頻発し、生活が疲弊していった。
<マレー半島・ビルマ>
マレー半島とビルマ(ミャンマー)にはイギリスが進出した。イギリスは、東南アジアから中国への貿易活動の拡大をねらい、18世紀末から19世紀初めにかけてシンガポールをはじめとするマレー半島の港市を入手し、さらにはジャワも一時占領した。イギリスはオランダと協定を結び、マラッカ海峡を境界とする支配層の分割を取り決めると、ジャワを返還する一方で、マレー半島のペナン・マラッカ・シンガポールを海峡植民地として成立させた(1826年)。
1870年代にはいると、イギリスは、それまでの港市だけの支配から、領域的な支配に取りかかった。イギリスはおもに出身地域別に組織されて対立抗争をくりかえしていた中国人秘密結社やマレー人スルタンたちのあいだの錫をめぐる利権争いに介入し、軍事と外交の巧妙な政策によって支配地域を広げた。95年にはマレー連合州(Federated Malay States)を結成させ、間接的に統治した半島部の諸州と北ボルネオ地域の諸州をあわせて支配を確立した。20世紀にはいると、ゴムが自動車生産と結びつく有力な商品となることが明らかとなった。広大な未開地が、おもにロンドンで調達される資本によって、ゴムのプランテーションとして開発された。このプランテーションの主力労働者として、南インドから大量の移民が導入された。
ビルマでは、北部を支配していたタウングー朝が南部のモン人の侵攻で滅亡したが、新たにおこったコンバウン朝(Konbaung, 1752~1885)がモン人を撃退し、全土の支配を確立した。コンバウン朝はアッサムにも進出したが、インドでの支配を固めつつあったイギリスは、3次にわたるビルマ戦争(1824~86年)に勝利し、ビルマをインド帝国に併合した。
<フィリピン>
フィリピンにはスペインが進出していた。スペインは政教一致体制をとり、住民をカトリックに強制改宗させ、また地方の町や村の統治のために、フィリピン人を長(おさ)とする行政組織を新しくつくった。しかし自由
貿易を求める圧力をうけて、スペインは1834年にはそれまでの欧米勢力を排除する政策を転換し、マニラを正式に開港した。それにより、大農園におけるサトウキビ・マニラ麻・タバコなどの商品作物生産が広がり、フィリピンは世界市場に組み込まれることになった。また商人や高利貸しによる土地の集積が始まり、プランテーション開発がすすんで大土地所有制が成立した。
<ベトナム・カンボジア・ラオス>
ベトナムは、16世紀以降、黎朝の名目的な支配のもとで政治勢力が南北に分裂していたが、1771年に圧政に苦しむ農民の不満を背景に西山(タイソン)の乱が生じ、南北両政権が倒され、統一がはかられた。一方、これに対し阮福暎(在位1802~20)が、フランス人宣教師ピニョー(Pigneau, 1741~99)が本国からつれてきた義勇兵やタイ・ラオスなどの援助をうけ、西山政権(1778~1802)を倒して1802年に全土を統一し阮朝(1802~1945)をたてた。阮福暎は清によってベトナム(越南)国王に封ぜられ(04年)、清の制度を導入し、行政制度を整備した。19世紀半ばになると、フランスはカトリック教徒への迫害を理由にベトナムに軍事介入しはじめ、南部地域を奪い(67年)、さらに領土拡大へと動いた。これに対し、劉永福(1837~1917)が組織した黒旗軍は、ベトナム北部に根拠をおいて頑強に抵抗した。しかし、それを口実にフランスは北部に進出し、ユエ条約(83年)により北部と中部を支配下においた。他方、清朝はベトナムへの宗主権を主張して派兵し、清仏戦争がおきた(84~85年)。その結果、清は85年の天津条約でベトナムへのフランスの保護権を承認した。ベトナムの植民地化に成功したフランスは、63年以来保護国としてきたカンボジアとあわせて、87年にフランス領インドシナ連邦を成立させ、99年にはラオスも編入した。
【タイの情勢】
東南アジアのほとんどの地域がヨーロッパ諸国の植民地となるなか、唯一植民地化の圧力を回避したのはタイであった。タイでは18世紀の終わりに、バンコクに首都をおき、現王朝のラタナコーシン朝(Ratanakosin 1782~、チャクリ朝Chakriとも呼ばれる)が創始された。19世紀前半は、ヨーロッパ諸国に対して閉鎖的な政策がとられていた。しかし、ヨーロッパの諸勢力からの門戸開放の圧力がしだいに強まり、19世紀後半、ラーマ4世(Rama IV, 在位1851~68)の時代に政策の転換がおこなわれた。王室による貿易独占が解除され、自由貿易の原則が確認されると、つぎつぎと先進諸国と外交関係が結ばれた。その結果、米の商品化がすすみ、デルタ地帯の開発がすすんだ。チュラロンコン(Chulalongkon, 在位1868~1910, ラーマ5世:Rama V)は、イギリスとフランスとの勢力均衡策をたくみにとると同時に、外国人専門家をまねいて行政・司法組織などを改革し、また外国への留学を奨励するなどして近代化に成功し、植民地化を回避した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、291頁~294頁)
第14章 二つの世界大戦
3 アジア・アフリカ地域の民族運動
【東南アジアにおける民族運動の展開】
東南アジアにおいても第一次世界大戦後、民族運動が再び広がった。
オランダが支配するインドネシアでは、1920年にインドネシア共産党が結成され、独立をとなえた。その運動が弾圧によってほぼ壊滅したのちは、オランダから帰国した留学生が、運動の指導権をにぎった。27年にはスカルノ(Sukarno, 1901~70)を党首とするインドネシア国民党が結成され、翌年にインドネシアという統一された祖国・民族・言語をめざす宣言がなされた。
フランスが支配するインドシナでは、1925年にホー=チ=ミン(Ho Chi Minh, 1890~1969)がベトナム青年革命同志会を結成し、それを母体に、30年にベトナム共産党(同年10月にインドシナ共産党に改称)が成立した。党は、徹底的な弾圧をうけながらも、村々にソヴィエト政権を樹立するなど農民運動を展開した。またイギリスが支配するビルマ(ミャンマー)では、1920年代から民族運動が始まり、僧侶による啓蒙運動やタキン党(Thakin)と呼ばれる急進的民族主義者の台頭がみられた。
アメリカ合衆国が統治するフィリピンでは、1907年に議会が開設され、立法や行政についてはフィリピン人への権限委譲がすすめられた。しかし、経済面ではアメリカに大きく依存した商品作物生産がすすんだため、窮乏化した農民たちは反乱をくりかえした。その結果、34年にフィリピン独立法が成立し、翌年独立準備政府が発足した。タイでは、長く王による専制的統治が続いていたが、財政的混乱や王族支配への批判が高まり、32年の立憲革命によって王制から立憲君主制となった。
こうした状況のもとで、アジア地域は、1941年末から太平洋戦争に突入し、多くが日本軍の侵攻を迎えることになった。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、352頁~353頁)
英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
Chapter 17 Reformation in Various Regions in Asia
2 Colonization of South Asia and Southeast Asia, and the Dawn of National Movements
■Change of Mainland Southeast Asia
■Colonization of Islands of Southeast Asia
■Intellectuals and the Racialism of Southeast Asia
2 Colonization of South Asia and Southeast Asia, and the Dawn of National Movements
■Change of Mainland Southeast Asia
In the mainland Southeast Asia, the origins of three nations, i.e., Burma (Myanmar),
Thailand and Vietnam, were formed from the latter half of the 18th century to the
beginning of the 19th century. In Burma, in the mid-18th century, the Toungoo dynasty was
defeated by the Hanthawaddy kingdom of Mons, but then the Burmese group originated
in the inland advanced to the south and founded the Konbaung (Alaungpaya) dynasty.
This dynasty possessed almost the same territory as that of present-day Myanmar, and
further advanced to Thailand and ruined the Ayutthaya dynasty as well as invaded toward
the west into the Assam district of India.
At the beginning of the 19th century, Britain, which had sought the route to China and
Southeast Asia from the Bay of Bengal, provoked the Anglo-Burmese Wars against the
Konbaung dynasty three times, and in 1885, defeated the Konbaung dynasty. In the
following year, Burma was annexed into the Indian Empire as a province under
direct control.
In Vietnam, after the 17th century the Trinh lords in the northern area and the Nguyen lords in the central area competed against each other. However, in the latter half of the
18th century, both lords were destroyed due to the Tayson Rebellion (peasants’ riots).
Gia Long (嘉隆帝 Nguyen Phuc Anh 阮福暎) of the Nguyen clan defeated Taisson[sic]party
with the support from Thailand and Pigneau, a French missionary; unified Vietnam; and
founded the Nguyen dynasty with Hue as its capital in 1802. He brought tribute to the
Qing dynasty and named the country as Vietnam.
France, under Napoleon III, invaded Indochina seeking a basis for trade with China.
In 1862, it conquered the southern area, where Saigon (present-day Ho Chi Minh City)
was located as a center, and made it into a direct colony (the First Treaty of Saigon).
France went up the Mekong River, and made the Cambodian kingdom, and then Vietnam,
into protectorates (Second Treaty of Hue). The Qing dynasty, a suzerain of them, however,
did not approve this, and in 1884, the Sino-French War broke out. France, by defeating the
Qing dynasty, made them abandon suzerainty. And in 1887, France formed the Indochinese
Federation by combining Vietnam and Cambodia, and then in 1899 added Laos into the
Federation.
In Siam (Thailand), General Chakri (Rama I) of the Ayutthaya dynasty founded the
Ratanakosin dynasty(ラタナコーシン朝, Bangkok[バンコク朝]) with Bangkok as its
capital; drove back Burma’s invasion; expanded its territory to almost the same
as today’s Thailand; and flourished by trade with China through Chinese merchants
as intermediaries.
Siam was forced into uneven treaties by Britain and France from the middle of the
19th century, but maintained independence by adopting an open policy. In the 1880s,
modernization reform (Chakri Reform) was promoted under King Chulalongkon
(チュラロンコン Rama V[ラーマ5世]). A modern cabinet and fiscal system were introduced
and the clan system was abolished, and in exchange prefectures were placed in the whole
territory. Also non-free people were emancipated and the modern educational system was
consolidated. Railways were constructed and a postal system was introduced. Diplomatically, through negotiation with the great powers, the national boundary was
decided and the extra territorial rights were successfully abolished.
In the latter half of the 19th century, the international price of crops rose rapidly and
consequently the development of rice fields in three major delta areas, the Mekong, the
Chao Phraya and the Irrawaddy, was promoted, and they became the granary of the world.
Most of the profits coming from the colonies were sent to the mother countries, but in
Siam, an independent country, profits were utilized as the source of modernization.
■Colonization of Islands of Southeast Asia
When the great trade period ended in the end the 17th century, the Dutch East India
Company (オランダ東インド会社) changed its business style from monopolizing trade of
luxurious goods into occupying the production areas of mass consumption goods such as
coffee and sugar. Consequently, Java became a territory of the Dutch East India Company
in the 18th century. In the end of the 18th century, as the French Revolutionary troops
occupied the Netherlands, the Dutch East India Company was dissolved, and in the
beginning of the 19th century British troops occupied Java. The Netherlands recovered
its control over Java at the Congress of Vienna, and obtained the right of control over
the west and south area of the Malacca Strait, in exchange for recognizing British control over the Malay peninsula, by executing the Anglo-Dutch Treaty of 1824.
In the 1830s, the Netherlands, by suppressing the rebellion by Islamic clans in Java
(the Java War), obtained huge profits by instituting a forced cultivation system to produce
commodity crops such as coffee, sugarcane and indigo plants. Thereafter, the Netherlands
expanded its territory steadily, and by the beginning of the 20th century, colonized almost
the same area of present-day Indonesia.
From the end of the 18th century, Britain had held Penang and Malacca of the Malay
peninsula as intermediary places between the Bay of Bengal and the South China Sea. It
took Singapore in 1819 and constructed a free port and a modern city there. Singapore,
which intermediated between India, the colony of Britain, and the South China Sea,
developed together with Hong Kong as the two major British stepping stones to East and
Southeast Asia. Britain further put Muslim Malay nations successively under
a protectorate status and promoted the development of tin mines. In the Malay peninsula,
as the control was stabilized, a huge number of overseas Chinese(華僑) immigrated and
worked in the mines, and overseas Indians worked on rubber plantations which would be
developed in the 20th century, and thus a complicated multi-racial society was formed.
The Philippines, controlled by Spain from the 16th century, was originally utilized as
an intermediary point for the Acapulco trade. But from the latter half of the 18th century,
plantation of sugarcane, Manila hemp and tobacco were managed there following the
Netherlands, and the Royal Philippines Company took charge of their sales. In 1834, Spain
made Manila a free port and opened it to international trade. Spain further promoted the
expansion of its territory to the south, but received resistance from Muslim powers of the
Mindanao and the Sulu Archipelago.
■Intellectuals and the Racialism of Southeast Asia
In the Philippines where conversion of local people into Catholic was advanced, the
movement toward the appointment of local priest began from an early stage. In the end of
the 19th century, Jose Rizal(ホセ=リサール) among others organized the Filipino
nationalist organization to achieve independence and opposed to Spanish rule. However,
since Spain suppressed such movements, the Katipunan initiated the armed revolution
in 1896. Thanks to the Spanish-American War, the Katipunan revolution troops liberated
Luzon in 1899 and established the Malolos Republic with Aguinaldo(アギナルド) as the
president. As a result of the Spanish-American War, however, the United States, which
obtained the right of possession of the Philippines, defeated Malolos troops (the Philippine-
American War フィリピン=アメリカ戦争) and made the Philippines a direct colony ruled
by the Philippines Committee which was installed by the U.S. Government.
In Indonesia, a Dutch colony at the beginning of the 20th century, the Budi Utomo
(supreme wisdom) movement (ブディ=ウトモ[最高の英知]運動) aiming to form racial
consciousness through reevaluation of the traditional cultures of Java occurred. And there
occurred also the Sarekat Islam(サレカット=イスラーム Islamic Union) movement aiming
to provide local mutual support and to enlighten activities which were initiated by a group
of Muslim merchants occurred. These movements gradually turned into anti-Dutch
independence movement from the end of 1910s.
In Vietnam, a French colony, Phan Boi Chau(ファン=ボイ=チャウ), a traditional
intellectual, initiated the Dong Du movement(ドンズー運動) promoting study in Japan
in order to obtain lessons from Japan which defeated Russia in the Russo-Japanese War.
But the Japanese government deported Vietnamese students in order to cooperate with
France, resulting in the failure of the movement. On the other hand, Phan Chu Trinh
(ファン=チュ=チン) and others, seeking for modernization of Vietnam through coalition
with France, established Don Kynh Nghia Thuc(ドンキン義塾) and extended enlightening
movements. But this was also suppressed by France. Thereafter national movements in
Vietnam were split into armed strife by Phan Boi Chau and a route of coalition with
France succeeding Phan Chu Trinh.
<Wayang Kulit, or shadow puppetry in Indonesia (British Museum)>
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、261頁~264頁)
Chapter 18 The Age of the World Wars
4 Movement of Nation Building in Asia and Africa
■Ethnic Movements in Southeast Asia
In Dutch East India, movements toward independence were developed from the 1920s.
The movements aimed for unity of Indonesia(インドネシア), overcoming differences of
areas and religion. The Indonesia Communist Party, which was founded in 1920, expanded
rapidly; rose in revolt in Sumatra and Java in 1926-1927; but was given a crushing blow
by the Dutch army. In 1927, the Indonesian National Party(インドネシア国民党) was
formed, and led by Sukarno(スカルノ), advocated the Merdeka(ムルデカ, Independence 独立) movement. In the 1930s, the Netherlands strengthened the suppression and most of
the leaders were arrested. In 1942, during World War II, the Japanese army invaded
Indonesia.
In Vietnam, various political parties hoping for independence from the colonial ruling
were formed in the 1920s. Ho Chi Minh(ホー=チ=ミン) formed the Indochinese
Communist Party(インドシナ共産党) based on the Revolutionary Youth League of
Vietnam in 1930. The Communist Party revolted in central Vietnam, and the Vietnam
People’s Party, a nationalistic party, rioted in northern Vietnam. However, both were
suppressed by the French army. When the Front Populaire (the Popular Front)
government was established in France in 1936, a united front of the Communist Party
and the ethnic parties was formed, and advanced to local parliaments. But again,
this was cracked down completely. In 1940, the Japanese army occupied Vietnam.
In Burma, Saya San led a large scale peasant movement, but the British army
completely suppressed them. In the same year, the Thakin (Master) Party(タキン[主人]党)
was established mainly by students of Rangoon University, and Aung San led the
anti-Britain independence movement. In Thailand, the constitutional revolution occurred
in 1932; a constitution was proclaimed; and a parliament was established based on the
constitution. In the Philippines, the United States accepted its autonomy in 1934, and
promised its independence 10 years later. Thus the government of the Commonwealth
of the Philippines was formed in 1935.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、292頁)
Part 5 Establishment of the Global World
Chapter 19 Nation-State System and the Cold War
2 Independence of the Asian-African Countries and the "Third World"
■Nation States in Southeast Asia
Just after the Japan’s defeat, Southeast Asian countries occupied by Japan sought
independence. However, since former suzerains did not grant independence to them,
independence movements occurred in each country.
In French Indochina, Ho Chi Minh(ホー=チ=ミン), leader of the Viet Minh(抗日組織
ベトナム独立同盟), an anti-Japan organization, declared independence for the Democratic
Republic of Vietnam(ベトナム民主共和国[北ベトナム]) in 1945. But the suzerain
France did not grant it independence, and this led to the Indochina wars (インドシナ戦争,
1946-54). France installed Bao Dai(バオ=ダイ, throne 1925-45), the last emperor of the
Nguyen dynasty(阮朝), as head of the state, and granted independence to the State of
Vietnam as a member of the French Union in order to confront the Democratic Republic
of Vietnam. In 1954, the Geneva Conference was held and the Geneva Accords were
concluded. They provided for a cease-fire at the event of the fall of French garrison at
Dien Bien Phu. As a result, Vietnam was divided by the 17th parallel (the latitude 17°N
北緯17度線). The northern half of Vietnam was ruled by the Democratic Republic of
Vietnam, and southern half of Vietnam by the Republic of Vietnam(ベトナム共和国),
where Ngo Dinh Diem assumed the role of president, expelling Bao Dai. Each side
received support from China and the Soviet Union, and from the United States,
respectively. In the Geneva Conference in 1954, the independence of Laos and Cambodia,
which had declared independence already, was officially granted. In Laos, the civil war
started due to political confrontation between the left and right wings. In Cambodia
(カンボジア), Sihanouk(シハヌーク) promoted a neutral policy.
The Philippines became independent from the United States to form a republic in 1946.
However, the communist powers continued to resist the government demanding land
reform. The government approached the United States and concluded the Mutual Defense
Treaty between the United States and the Republic of Philippines in 1951.
Britain established the British Malaya in favor of the Malay in 1948. The Malaya
Communist Party, strongly influenced by ethnic Chinese, started a military campaign
against this. Britain suppressed the fight completely and officially established the
Federation of Malaya(マレーシア連邦) as an independent nation in 1957. In 1963,
the Federation of Malaya, Singapore(シンガポール), Sava and Sarawak formed
the Federation of Malaysia. However, in 1965, Singapore was spun off as an independent
nation, led by ethnic Chinese, due to the Federation’s policy in favor of Malay people.
In Indonesia, Sukarno(スカルノ) of the Nationalist Party, and others declared
independence right after Japan’s defeat. The suzerain Netherlands did not grant its
independence, and fought a war for four years. In 1949, the Republic of Indonesia
(インドネシア共和国) was finally granted independence from the Netherlands.
Burma (ビルマ Myanmar [現ミャンマー]) declared independence from Britain as
a republic in 1948, but political conditions were unstable owing a large part to the
internal fights by the Communist Party and ethnic minorities. In 1962, Ne Win led
a coup d’état to establish a military government and aimed at economic independence
through industrial nationalization and trade control. Those policies led to Burma’s
international isolation and economic stagnation.
Thailand(タイ) announced the war against Britain and the United States in favor of
Japan during World War II. However, after the war, the country declared this
announcement was invalid and avoided becoming a defeated nation. Thailand succeeded
in maintaining independence and joined the United Nations in 1946.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、316頁~317頁)
3 Disturbance of the Postwar Regime
■Economic Growth of Asia(一部)
…
Southeast Asian countries also built foundation for economic development by the
compensation from Japan and the special demands from the Vietnam War. In 1965, in
Indonesia, the military coup d’état led by Suharto(スハルト) erupted; Sukarno was
disgraced (the September 30th Movement[九・三0事件]) and the Communist Party
was ruined. Suharto assumed president in 1968 and started government-led
economic development. In Philippines, Marcos became president in 1965 and promoted
developmental dictatorships. In 1967, Indonesia, Malaysia, Singapore, Philippines and
Thailand formed the Association of Southeast Asian Nations (ASEAN東南アジア諸国連合).
At first, the association was an anti-communism alliance, and later changed to an
organization for economic cooperation.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、324頁)
4 Multi-polarization of the World and the Collapse of the U.S.S.R.
■Economic Growth in Japan and Asian Countries(一部)
….
In Southeast Asia, the ASEAN countries(ASEAN諸国) developed economies, owing to
the special procurement of the Vietnam War, and interlinking with Japanese capital
investments and expansion of the Japanese markets. In the late 1980s, the Marcos
dictatorship collapsed and the democratic government was born in the Philippines.
Behind its economic developments, there enlarged also the social distortion such as
the expansion of the gap between the rich and the poor, environmental problems
and the collapse of traditional cultures.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、329頁)
Final Chapter Globalization of Economy and New Regional Order
2 Questions about Globalization and New World Order
■Settlement of Conflict in Southeast Asia
In Southeast Asia, the Cambodian civil war(カンボジア内戦) broke out in 1978. But, taking
advantage of the withdrawal of Vietnam at the end of the 1980s, a peace treaty was concluded in 1991
and the war ended. In 1993, the general election was conduced under the control of a United Nations
Transitional Authority in Cambodia(UNTAC 国連カンボジア暫定行政機構), then a coalition
government with Sihanouk(シハヌーク) as the head of state was established. The second general
election was held in 1998, then the country joined ASEAN in 1999. Thus Cambodia recovered peace
and has moved forward toward reconstruction under the Hun Sen administration(フン=セン内閣)
of the Cambodian People’s Party(人民党).
East Timor, a former colony of Portugal, was absorbed into Indonesia in 1976. Its
independence was authorized through a vote in 1999, which was sponsored by the United
Nations. In 2002, the Democratic Republic of East Timor(東ティモール民主共和国) was established,
and it is on its way to building a new nation under the supervision of the United Nations.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、343頁)